はてなキーワード: 感情移入とは
先日来各所で絶賛されているのを見て小馬鹿にするつもりで映画館に足を運んだ。
馬鹿にするつもりと言ったらなんだが、聞けば主人公は高校生でラブストーリーらしい。良い歳のおっさんが感情移入出来る気はしない。
己の高校時代のことを思い出してみても、当時好きだった子の事など遠い記憶の彼方であるし、今思えばあの頃の自分は他人の事など本当には好きではなかった。ただ己の欲望と願望を他人にぶつけようと踠いていただけだ。大体の高校生はそんなものだろう。
そんな未成熟な感情の発露を崇高なもののように扱われて感情移入出来るわけがない。
実際に鑑賞した感想としても、主人公の瀧くんとヒロインの三葉ちゃんがお互いをなぜ好きになるのかさっぱり理解できなかったし、そもそも二人のパーソナリティもあまり掴めないままだった。喧嘩っ早い、都会に憧れているなど、所謂どこにでもいそうな少年少女と言う程度の描写を逸脱するようなものは皆無。そんな二人がファンタジックな要素による出会いと別れを経て、ずっと想い続けていた、しかし記憶もおぼろげな名前も忘れてしまった相手に五年も経ってから再会を果たすと言う展開になるのだが、高校生時代の好いた惚れたを五年も引き摺る人の気持ちは正直さっぱりである。あと主人公が序盤密かに想いを寄せていたイケてる(死後の世界)お姉さんのイケっぷりも非常に幼稚に思えた。これ見よがしに婚約指輪をチラ見せさせながら「貴方も幸せになりなさいよ」とか就活中のガキに言い出す女、「アイタタタタタ」。
とまあ、実にこんな具合だったのだが、しかし凄く感動させられた。何故か?
主人公たちの相手への想いが茫洋として定かではなく、別れねばならぬ理由も状況に由来するもので、しかし逢いたいという気持ちだけは残っており、ついに巡り会える。この構造により見ている俺は己の人生に於いて別れてしまったがしかし逢いたい気持ちの残っている誰かのことを想起させられてしまった、この映画を見て感動している人の多くは似たような感覚があるのではなかろうか?瀧くんも三葉ちゃんも感情移入しやすいキャラではない、実際俺は先述のように全く感情移入していない。だがこの作品の重要なモチーフになっている組紐が表している"縁"というものは、つまり出会いと別れの結びは、誰もが心に抱えているもので、おっさんおばさんこそ特に思い当たる節がある類の事柄だと思う。
あまりフィクションを見ている時に自分の体験が想起させられることはない、飽くまでフィクションとして、作者の狙いや他の物事と照らし合わせてその作品が持つ意味を読解するのが常だが、今作では見事にしてやられてしまった。
これは作り手の狙い通りなのだろうか?
の対談がLINELIVEでやっていたので観た。
んで観てたらあゆが斎藤に恋人並みの対応をしていて驚いた。つまらないギャグでも大声で笑ってあげる、あーんしてあげる、自宅にカレーを作りに行く約束をする、下の名前で呼んであげる、等々。
あれで惚れない男は居ないだろう。視聴者も斎藤に感情移入してニヤニヤしていたに違いない。斎藤も終始デレデレで何にもできていなかった。
歌詞から想像していたイメージとかなり乖離していたので驚いた。こんなに恋愛肉食女子的な感じだったとは。
んでその後GACKTとの対談をニコ生でやっているのを見たら、今度は浜崎あゆみの方が終始デレデレで、すさまじいヒエラルキーだな、と思った。
直観だけど、共感性羞恥(共感的羞恥)を感じる人は嫌悪派だったりしないかな
【怒り新党】『共感性羞恥』というあの現象→分かる分からないで盛り上がる人々「ツイッター民に多い気がするのはなぜだ」
http://togetter.com/li/1016242
要は「相手の気持ちになって考えちゃう人」とか「感情移入し過ぎて考えすぎる奴」なんだけど
自分の脳内に相手(障害者側・その親族・番組側)のシャドーを作ってしまって、その気持ちを無駄に察して「うわぁ」ってなるんだよね
ゲッペルドンガーなんかもそんな感じ
http://i.imgur.com/SKBW89c.jpg
こういう人は、ペットショップの中で狭いケージに入れられている動物なんか見ても辛くなるタイプ
面白いのが「とても共感はするけど、素直に受け止めるタイプ」も居て、こっちは感動派だと思う
感動派は相手の体験を自分事のように置き換えて考えるんじゃないかな
誰かが頑張ってると、応援されたような気持ちになるし、応援されると頑張れる
俺なんかはスポーツの応援をする時に、ゲッペルさんと、周囲の人と、応援される側と、対戦相手のシャドーが脳内でゴチャゴチャ言ってくるから、素直に「頑張れ」とか言えない
嫌悪派も感動派のことを「この人は本当は嫌がってるに違いない」なんて傲慢に決めつけてる節がある
そして全部理解した達観野郎は「本人が良いって言ってるならいいだろ」とか言い始める
あと蛇足だけど
嫌悪派は登場人物の行動と心理が不一致な点が面白い作品とか好きなんじゃないかな
感動派は複雑な不一致とかよりも、分かりやすい方が好きそう
ツンデレで言えば、前者がツン:デレ=9:1 後者がツン:デレ=5:5
___
B:猿が、隣の猿のケージに蛇のおもちゃを入れられた時のストレス
を測ったらBの方が長くストレス下に置かれるみたいな内容だった
君の名は。見た。
ネタバレはないとおもうですよ。
結論から言うと、見ても見なくてもいい映画だった。毒にも薬にもならないかんじ。
あと個人的には「恋愛映画としては共感できる(感情移入する)フェーズが足りなくて、エンタメ映画としては盛り上がりがいまひとつ足りない」という印象。おびにみじかしたすきになんちゃら。
時かけとかの他の青春エンタメに比べて力強さがないというか、薄い気がする。スパートかけるところで妙にサラーッとしてる。もっと焦らせたりドキドキさせたりして欲しいところで綺麗な映像です〜美しいやろ〜って感じになるから拍子抜け。
Yahoo!映画で評価4.6と高いし、友人におすすめされたので見てみたけど、正直真新しさはなかった。
相変わらず美しい背景(パワーアップしてる)と心象映像?はものすごくて結構楽しめるけど、夢中になったりワクワクドキドキする感じはほぼない。若い子ががんばってんなーって感想になる。
あんまり映画見てない人や中高生なら十分楽しめるだろうなーというのもわかる。でも残念ながらこのパターンなんべんも見てるから、うまく乗せてくれないと乗れないんだよアラサーは…。予告編見たときから大体の展開は読めているんだよ…。
ピクサーの、展開がある程度わかっていてもうまく乗せてくれる上、テーマ性も毎度バッチリな脚本演出は凄まじいものがあるなと再確認。あとシンゴジラはそうきたか!って切り口の新しさやパワーがあってワクワクした。
なんで君の名は。はあんな評価高いんだろ?3/5点くらいでは…。おもしろいけどそれなりの恋愛映画、それなりのエンタメ映画といった雰囲気でした。迷ってる人はBD待ちでいいんじゃないかな…大画面で素晴らしい美術や動画が見たい人は行ったほうがよいと思うけど。
はぐれものとか鼻つまみ者って言われても官僚だったり大学准教授だったりするわけだろ?
わかる。
お前とはもう少し深い話がしたい。
二次元の百合エッチ(別になんでもいい。穂乃果と真姫ちゃんとか)を見ながらオナニーしている時、
自分の立ち位置はどこなんだろうなって思う。そこにはまったく感情移入が無い。
感情移入(自分と置き換えられる男の存在)は必須ではないのかもしれない。
あるいは、俺は真姫ちゃんになっているのだろうか。
うーむ。
元ネタ知らずにたのしめる薄い本って実はすごく貴重だったんだなと気づいた
好きな作家が俺の知らない(興味ない)アニメのウスイホン書いてたから読んでみたけど、まったく興奮しなかったんだよ
俺にとっては感情移入度がかなり大きい
客観的に見てすごく絵がうまくてエロくても、どっかの知らん誰かがセックスしてるだけに見えて、なんか入り込めない
AVに似てる
二次元だけで抜くようになってだいぶたつけど、AV見たらそんな感じになる
伝わるかな―
気付いてしまった?
あの人は、人を弱らせたり殺したりすることでしか感動させられない。
それなりに登場して感情移入した人が病気になったり死んだりすれば、そりゃ誰だってじんとするさ。
春が来てずっと春ならそりゃいいさ。
30歳にもなれば、身近で悲しい出来事もいっぱい出て来る。
二次元でそういうのが要らなくなったのだろう。俺はそうだ。
中3だった
当時よくあるCDDAによるBGM再生でCD持ってなかったらBGMがでなかった
それでも面白かった
Kanonは大人になったら絶対やる!って思ってたけど、高校在学中に友達が持ってたから借りてプレイした
タイトル画面から一気に心をぎゅーっと持ってかれる朝影好きだった
大学ではAIRの完全版が出たから買って初めて音楽付きでやった
音がなかったからこその感動・若い時の体験の鮮烈さのほうが大きかったんだろう
だいたいは楽しめたけど、長すぎてちょっとしんどかったのと、最後のグランドエンディングっていうんかね、あれで子どものともやが父親と手を繋いでる一枚絵の感動がやばい!!!ってのが世の感想の大半を占めてたけど、自分はまったく感動できなかった
ちゃんと感情移入してプレイしてればそうはならなかったのかもだけど
そこからだ
その後リトバス買ってプレイしたけど、徹頭徹尾まったく合わなかった
薄ら寒いギャグ、だーまえの野球ネタおしつけ、友達グループの馴れ合い・・・
少しセルフ擁護するなら、リトバスは普通の恋愛ゲー、ハーレムゲーというよりかは同性の友達多数がいるってのもでかかった気がする
kanonnairクラなどはなんだかんだで同性ほとんどいなかったし、東鳩から始まる親友一人だけ、もしくは同性ゼロとかもザラだったし
こんなゲームをやる人間にとってリトバスはまぶしすぎただけなのかもしれない
そんでリトバスの頃には、それを楽しむオタクもライト化・リア充化してて、教室の隅っこで固まってるオタクグループしかプレイしないものではなくなっていたのかもしれない
まあそんなのはどうでもいい
年をとったせいか、他にもいろんなえろげーしたせいか、ラノベ、深夜アニメをよく見るようになったせいか、とにかくだーまえの感性に合わなくなってしまった
AB!のアニメも一応全部みたけど、最初から最後までいまいちだった
おふざけとかギャグのレベルがことごとく低く感じられてしまった
あ、智代アフターは一応やった
ラストのラストでトンデモな終わり方する以外は空気な作品だった
でもこれをきっかけにマルマルアフターってのが一時期増えてた気がする
ああ語れば語るほど思いがあふれてくる
自分にとって大きな影響を与えてくれたのは確かだった
ただ世間ずれしてしまった自分はあまりも無邪気すぎる世界は受け付けなくなってしまった
oneも同棲もMOONも、大学のときに買ったけど結局プレイしないまま終わってしまった
普通の恋愛エロゲーと深夜アニメ、ラノベ、マンガの境界もほとんど無いに等しくなってしまった今では、
多くの著名なライターが一般に行ってしまい、エロゲーというフォーマット以外で彼らの作品に触れることができるようになってしまった今では、
陵辱とか一部のジャンルのためにしか、わざわざエロゲーをやる意味がなくなってしまった
そして自分は陵辱とかはそんなに興味がない
30で独身なのにこんなこと書いてる場合じゃないのに俺何やってるんだろう
今はマンガばかり読んでる
もう8月も終わるので、読書感想文として蛸壺先生の同人を読み返したことを描いておこうと思う。
この作品が、蛸壺先生の他の同人と一線を画し普遍的な魅力を醸し出している原因は、そのテーマ設定にある。一言で言えば「オトナになるってつらい」ということ。唯の才能というものが全面に出ているけれども、私が心をえぐられたのはそこではなく、オトナになったけいおん部の面々がそれぞれの道を歩むということだ。
ことあるごとに、このマンガは読み返してみるとハッとさせられる。以前は、未来が怖いと泣き叫ぶ澪に感情移入していたが今回は、必死に道を進むうちに踏み誤ってしまったあずにゃんに不本意な進路を選ばざる負えなかった自分を重ねてしまって...泣いた。
けいおん三部作は言うまでもなく、蛸壺先生の最高傑作だ。というか、これからけいおん三部作を超える同人を作れないだろうと思うと哀しいが、いずれまた心の傷をエグって塩を塗りこむような作品を読めることを期待している。
改めて気付くのは、映画のリアリティには2種類あるということだ。
『シン・ゴジラ』におけるリアリティは、ゴジラというフィクションを本当に存在するものかのように描くことだ。
そのために庵野監督は官公庁に対する徹底した取材を行い、3時間映画に匹敵する台詞量(情報量)を早口で映画に織り込んだ。
他方、『君の名は。』が目指したのは、フィクションを徹底的にエモーションで押し切ることだ。
本作では中盤で大きな謎が明かされるのだが、それは主人公たちのこれまでの行動に大量の矛盾点を生じさせる。
また、問題の解決策も、どうしてそうしたらそうなるの?という理屈はまったく科学的でない。結末も言ってしまえばご都合主義的だ。
しかし、本作では(少なくとも観ている最中は)これが気にならない。
主人公たちに感情移入した観客たちはジェットコースターのような感情の起伏に振り回され、こうした些細な点が気にならなくなるのだ。
昨日、マッドマックスの3回目を見た。見たと言っても途中でやめてしまったが。
初回はどちらかというとブームが終わった頃に見た。
レビューや記事にはできるだけ目を通さないようにして、ほぼ自分の感性だけを頼りに見たのだが正直な感想は面白くなかった。
そのうちに今度はアカデミー賞を取った。
何か見落としているシーンやメッセージ性があるかもしれないと思ったからだ。
初回では理解できなかった言わんとすることも少し見えてきた気はした。
ただ、それで尚更評価を落とした。
しかしそれ以降も絶賛の声は途絶えなかった。
マッドマックスといえば最高の映画。最高の映画といえばマッドマックス。
それで今回は、様々なレビューや解説にしっかりと目を通してから見ることにしてみた。
何がそんなに絶賛されているのか、分かった上で見たかったからだ。
演出の完成度や演技の素晴らしさを絶賛する記事が山のようにでてきた。
マッドマックスが完成された作品であることはよく分かったのだが、肝心の、なぜ最高なのかはあまり見つけることができなかった。
そうして3回目を見始めて思ったことは、作品内における居場所のなさだった。
登場人物は全員が狂っていて、それでいて全員が自分だけが正気だと思っている。
大半の人間は世界が狂っているからとそれを受け入れようとするが、その中でも飛び抜けて狂っているマックスとフェリオサが、狂った世界にさらに狂った方法で抗おうというのがこの映画といっていいだろう。
マッドマックスの名の通り、全てが狂っているのだ。
違う。マッドマックスはまさに世の中をそのままに写しただけの話だ。
現実でも世界は狂っているし人間も狂っている。その中で自分だけが正気だと信じているのだ。
狂気こそが正気であるし、狂気の中にあれば正気こそが狂気なのだ。
この理不尽と狂気に囲まれているつらい現実で必死に正気を保とうとしている中で、なぜそんなものを娯楽映画の中から暗喩として発見しなくてはいけないのか。
登場人物の誰ひとりとして感情移入もできなければ、むしろ現実に存在する狂気に置き換えて穏やかな傍観者としてもいられなかった。
色々なAVを見て回っているんだけどなかなか自分好みの作品に当たらなくてなんでだろうって考えてたら他の人とは視点が違うんじゃないかという結論に達した次第。
それで気付いたのは、自分は挿入されている女優視点で見ているということ。
同性愛とか受け願望があるわけではなくて、女優の気持ちよさに同調するような感じ。
証拠に、男優の声や息遣いは不快でしかないし、アナル開発をするつもりも一切ない。
かといって自分が女優を気持ちよくしているような気分になって興奮しているのとも違う。
あくまで女優がどれほど気持ち良いのかを自分に置き換えて興奮している。
それで、いつも女優2人の3Pもの見てて思うのだけど、どうして挿入されていない側の女優は男優を愛撫するのだろうと疑問だった。
そこで挿入されてる女優を愛撫したらもう頭のなかぐちゃぐちゃになるくらい気持ちいいんじゃね?って思うんだけど、そういうAVって実際ほとんど見たことがない。
それで、なぜ
「ゴッジーラは…化け物か…いや…神…か…」
「頼む!!」
「サムラァイ!」
って流れにできなかったというと
今の日本が世界危機を救えるだけのイメージがあまりにも現実とかけ離れすぎてたから。
もうこの一点に尽きる。
昔のロボコップ3の敵役が日本産の忍者ロボットな時代ならまだしも
国債は膨らみ年金問題も山積み雇用は増えず非正規の救済もなく移民を取らない代わりに国民全員が奴隷化していく斜陽の国。
日本もまだまだしてたもんじゃないなと傷の舐め合いでシックスセンスし合うような国力だと客観的に判断してるから。
なので今の日本人に日本人が世界を救ったなんてストーリーは到底受け入れられないし納得されない。
せいぜい板挟みされてこき使われて泥被らされてる中でストロー使って新鮮な空気を吸えましたくらいの落としどころじゃないと共感してもらえなかったってこと。
それが核使えば終わるだろうな=バンカーバスターでのダメージ有効描写、との東京なくなっちゃうらめえええ電車アタック!ストロー注入!ってオチ。
世界はちゃんと救う方法はあるけど自分たちが被る泥を減らすための努力しました、というだけの話。
電車アタックなんてこれがインドネシアや中東に出てきて応用できるわけないじゃん。
だから電車の無い田舎は感情移入できないって日記があったんだよ。
冷却液なんてデータもらった国はどこでも思いつくわけだし。
日本が世界を救った!って話を見せられると恥ずかしくと顔赤くなる国。まだまだ恥は捨てたもんじゃないな。
そんな国の状況と国民性によって不幸にも最後で捻じ曲げられた脚本。
どこまでも自虐体質。
そのくせ変にプライドが高い。
まさにシン・ゴジラを持ち上げてる層の性格をターゲットにしてる。
庵野の得意分野だな。
なので冷えた目でしか見れない人はとことん違和感しか目に写らない。
最後の人間が出てきそうなのも本当にこの後無事ゴジラを解体できるのか?という日本人の詰めの甘さを臭わせるエンドにしか見えない。
何度もいうけど冷却後の対応について何も話されてないのがもうね。
考えるのがめんどくさくなった感がパない。
あんまりにも絶賛以外の初期批評がボコボコにされるのを見て恐れをなし増田に投下する所存
現実派の赤坂と理想家の矢口という対立描写がされていたが、矢口が非常にできる人オーラを出しているのであまり対比が感じられない。
冒頭で矢口が巨大生物云々という空気の読めない発言をするが、観客からすれば「真実」を指摘しているわけで、この時点での矢口の未熟さを感じる人はあまりいないと思われる。
赤坂が「空気を乱すな」とたしなめるが、この時点で赤坂は矢口に感情移入する観客からすれば嫌な人でしかない。
その後も矢口は周囲のフォローを受けながら巨災対を回していくわけだが、失敗描写が殆どないのでやはり矢口は有能に見えてしまう(よく見ると矢口1人では全く回ってないのだけれど)
よりわかりやすく示しても良いと思った。決定的な失敗をするとか、巨災対に陰口言われるけど成長して信頼されるとか。
とはいえ、現状の構成にも利点はある。矢口に感情移入すれば(そしてそれは容易である)ヒーローとして楽しめるし、深読みすれば矢口の成長物語としても楽しめるので。
実際この2人と、矢口-松尾コンビのやり取りは楽しく見ることができた。
■カヨコ
さんざん言われているけれど、やはり浮いている。怪獣映画であるとしても浮いている。たまにゴジラが一番リアリティないだとか、ヤシオリに向けたリアリティラインの降下要因だとか言われるが納得できない。
対人物と比較したときにカヨコが浮いているのは紛れもない事実である。
人とゴジラが対話してチームでも組むならカヨコの存在は違和感ないかもしれないが、そんな荒唐無稽なことは起こらない。
ゴジラがリアリティがないからカヨコにリアリティがなくても良いという主張は、実質映画の全てを免罪し映画自体の評価を下げてしまうのであまりよろしくないと思う。
カヨコがいたからリアリティが感じられなくなりヤシオリを素直に楽しめたか?NO。
あのテンプレアメリカンキャラ付けとルー語は勘弁して欲しかった。
個人的には老獪な紳士とかだと良いなぁと思います。萌えるので。
■ゴジラの生態
これはこの映画最大の魅力ではなかろうか?
前段で書いたこと、これから後段で書くことはあくまで映画をそれっぽくするためのオマケ。
ゴジラの設定は最高だった。あのぶるぶるするちょっと残念なサンショウウオが画面に現れたときですら大興奮だった。その後のそれっぽい科学的説明(科学的に正しいかは問わない)もそれに拍車をかける。
絶望感を盛り上げるWho will know (24_bigslow)/悲劇(熱線の時のBGM)もいいが、 Persecution of the masses (1172)/上陸も不気味さと不安感を煽る絶妙な音楽だと思う。
日本の武力の総力を投入しても基本的にはただ平然と前進し続けるゴジラ。お決まりの「やったか!?」。この古典的な台詞ですら場面を盛り上げる。
そして熱線。かっこいいの一言に尽きる。まずガスをはき出してそれに引火し、炎が収束していくあの描写はオタク心を存分にくすぐってくれた。ギャレス・エドワーズの熱線描写で大興奮していた自分にとって、あのシーンだけでもこの映画の価値がある。
ガメラ2ラストのような火の海の中で暴れ続けるゴジラを遠くから描いたカットも最高。そして全てが終わった後、エネルギー切れのロボットのように眠りにつくゴジラ。1連の流れは”美しい”の一言に尽きる。この場面だからこそWho will knowも生きる。いきなりIf I died~で始まる歌詞も無駄に示唆的でよい。
その後東京にたたずむゴジラを見たときは少々ギャグっぽいなと思ったが、熱線を掃き終え眠りにつく描写のかっこよさはそれを上回る。
熱線描写までは積極的な破壊をしないところも評価したい。サンショウオゴジラはただ進んでいるだけだが、それだけで甚大な被害をもたらすという絶望感は心地よかった。それは見慣れたゴジラの姿になっても変わらない。
従来策のように、なんでビルに戦いを挑むのかと思わせられる部分はなかった。
■前半と後半の乖離
前半部分の完成度の高さに比べて、映画後半はどうしても見劣りする。
ゴジラという強大な存在感に支えられていた映画が、外国という相手(しかも顔も言葉も見えない!)にその対象を変えたことで一気に魅力が薄れてしまった。
この映画に出てくる外国人は、漫画的テンプレか、顔の見えないよくわからない相手である。正しく世相を反映しているのかもしれないが、ずいぶんと内向的な描き方だと感じる。
さて、後半魅力が薄れた理由は核攻撃とそれに対する主人公達の反応に説得力がなかったからだと思う。露悪的な見方かもしれないが、突然嫌悪感を前面に押し出す主人公達の反応があまりにも唐突に感じられる。
核攻撃の有効性は巨災対の中でも認められている。勿論自分も絶対にノーだが、この映画は前半で日本にとって東京がいかに大切かを延々としゃべらせているので、地方在住の自分としては「地方だったらここまで抵抗するか?」と穿った見方をしてしまう。
理想化の矢口の反応はわかるが、ここで赤坂が感情的になるのも解せない。日本人皆の共通認識と言えばそれまでだが、もっと説得力のある反対理由が欲しかった。ぶっちゃけ核がゴジラにきかないのでは...?という手応えが欲しかった。
ヤシオリ作戦もカタルシスに欠ける。絵のシュールさも勿論、電車爆弾程度でゴジラが転ぶのか?と思ってしまう。脚本の都合上仕方ないかと思うが、観客に仕方ないと思わせている時点で失敗といえる。
地面を爆破してバランスを崩すとか、そういう描写の方が説得力があったかもしれない。
口に散水車で液体を流し込む絵もあまりにもシュール。ヤシオリというかヤケクソ。
前半は素晴らしく没入感のある映画だっただけに、後半冷めてしまったのは本当に残念。とはいえ前半があったが故に後半もまあ許せるかぐらいの気分にはなれるし、この映画を良作たらしめている。
■政治云々
初代ゴジラには議会でゴジラの情報を統制したい与党っぽいおじさんと、事実を公表しろと迫るおばさんのやり取りがあったりする。
一方シンゴジラでは政治の描写は殆どない。基本的には現内閣とその下部の各省庁から集められたチームが職務をこなす様であって、あれは行政と呼ぶべきだろう。
ゴジラが海に帰った後、国会でのやり取りがあっても良かったかも知れない。それこそ初代のようなやり取りを。民主主義云々言うのなら国会と野党を欠くのは片手落ちである。
科学者へ無邪気な信頼を置いているのも気に掛かる。今作はわかりやすいほどに震災モチーフと言われているが、であればあのとき科学がどういう状況だったかを考えるとこの映画は無邪気すぎる。
あのとき間違えたものも正解したものもいた。にも関わらず今作の巨災対の科学への絶対的信頼は怖い。
彼ら・彼女らは行政の人間ではあるが同時に科学知識を持つ専門家としても描かれている。そのギーク達が超人のごとき活躍。本当に福島を扱いたいならあまりに呑気ではないか?
これは穿った見方をすればギークが有能な指導者に見いだされ日本を救う物語とも取れる。この設定は映画の魅力を損ねるわけではないが、高める訳ではない。
また日米の主役である矢口とカヨコは両者とも世襲政治家で若くして高い地位についている。きっと矢口は支持率も高いのだろう。親の七光りも存分に使っている。
これが皮肉なのかどうなのかはわからないが、その上矢口は(危機とはいえ)小休止時にシャワーもせずに働きづめで有り、皆もそうであることを賞賛する。
■総評
俺はスペック的には映画をよくみる一般人。アニメはディズニーくらいしかみない。そんな俺が思ったシンゴジラ面白い/面白くない論争のこと。映画は月に20本くらいはみる。平日の夜毎日見てるから多分そのくらい。うちにTVないしやることもないからいつも見てる。とはいってもみてるのはハリウッドの有名ドコロが多い。
あまりにも周りで絶賛するひとが多いもんだから、シン・ゴジラを映画館にみにいったんだけど、正直俺としては大して面白いと思えなかった。邦画にしてはいいできだな、すごい、と思ったくらい。面白くなさについて細かいところはもう挙げられつくしているからざっくりというと。
人が死ぬ描写がない。描写ってのは別に死体を見せろ、ってわけじゃなくて、主人公(級の登場人物)の同僚やら友人とか家族が死ぬ所。ハリウッドとかだとそうやって観客を感情移入させるんだと思う。次に災害の規模も小さい。東京が破壊されるのはリアリティあるけど、前述のポイントがあって感情移入がそんなに進んでないのに東京がガシャガシャやられても、そんなに恐怖湧いてこないし、災害の規模も結局東京止まりなんだよな、って。俺は東京住まいだけど東京滅んでも京都あたりに首都移せばいいんじゃね、くらいの発想になっちゃうハリウッド脳。
この映画、全体通してとにかく絶望感が少ないと思う。絶望のインフレしたハリウッドのパニックアクション映画を見慣れていると、「このままでは復興にすごくお金がかかってしまう」みたいなネガティビティじゃ絶望感全然ない。2012とか世界だいたい滅ぶ。
地味すぎわろた。
とまあ俺はあんまり好きではなかったんだけど、それに対する問題は多分俺のみかたと事前情報にあったように思っていて。みんなが「絶望する!」「ゴジラ怖い!」って煽るもんだから、俺は(勝手に)シン・ゴジラを「できの良いパニックアクション映画」だと思ってみにいった。でも、フタを開けたら全然そんなことなかった。
ここ、大事なとこだと思うんだけど、シン・ゴジラのアクション要素ってすごく地味。自衛隊がバンバンやってたけど、リアリティ出すためなのか詳細な描写で引き伸ばしててむしろダレた。あとインデペンデンス・デイ(1)ならあの時点で核使って失敗して、絶望を煽ってる。
解決策が地味なのも、すんなりうまくいっちゃうのも、シン・ゴジラって映画にとってアクション要素によるエンターテイメント性が二の次だからだよな、って思っていて。今更だけどシン・ゴジラって、ゴジラという非日常に対して政治という日常的なアプローチで戦う政治家の姿を描いているんだよね。それは3/11への皮肉なのかなあ、とか考えたりするわけだ。重要なところを人の想像力に補わせるような、ストーリーラインを重視した映画とか、日本のアニメちっくなストーリーで作られてる感じ。「なにを今更」って言う人も多いだろうけど、ここが多くの論争のポイントなんじゃないかって思ってる。
だから、そういう意識で観客自身がストーリーとか意図を深掘りする気持ちで見に行けば、楽しく鑑賞できるんじゃないかなって思う。
率直に言って映画というエンターテインメント産業の中で考えると最高ランクの出来の映画ってわけじゃないと思う。とはいえほとんどの邦画はハリウッドのB級映画に遠く及ばない出来でつまんない。そういうその他大勢の邦画にくらべればすごく出来が良かったと思う。テンポが良くて、ダラダラするシーンが少なかったのはほんとに好印象。続編を作ってこの資産を活かすべきだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20160820120834
お小遣いが全く貰えない高校生が目の前に現れたらそりゃ黙りますよ。
自分が遊興費のやりくりに苦労したんだから、お小遣いゼロの高校生の苦しみがどれ程のものかなんて言われんでも分かるって。なんてかわいそうなんだと心から同情するよ。
私はね!!!大学生になってやっと初めて手にした金銭的余裕、趣味にお金を注ぐことの喜びをこの貧困JKが漫喫していて、しかもはてなーたちが「別にこんなの普通ですわよね、貧乏人の足の引っ張り合いは見苦しいですわ(オホホ」って言ってるのにすんげーーー腹が立つの!!!!めちゃくちゃ嫉妬してるの!!!!!!!!
君が私は普通の生活を送ったって言ったように、私もそう思ってた。でもじゃあ何で『正直、この程度の消費で「豪遊」と表現する界隈が理解出来ない。』がトップブコメになるんですか!おかしいじゃないですか!あんな充実うきうきオタライフは高校生の私には考えられなかったよ。DVDはTUTAYAで借りるものであって買うもんじゃなかったし、漫画は友達と回し読みするもので自室の本棚にぎっしり並んでるものじゃなかった。高校生であんな生活を送れたら間違いなく贅沢でしょ、豪遊でしょ、散財でしょ。ねえ、そう言ってよ!ブルジョワ高校生だったはてなーなんて大嫌いだ!チクショー!
で、似たような怒りや嫉妬を前にも経験したなーって思い出したんだけど、名作映画「フットルース」を鑑賞した時でしたわ。
1回しか見てないから(そしてこれからも絶対に見返さない、ムカツクから)、あらすじもあやふやなんだけどさ、確か締め付けの厳しい大人たちのもとで高校生たちが鬱屈しながらも最終的に自由を勝ち取るとかそんな筋書きだったと思うの。あれ、1ミリも感情移入できなかった。
だって「自由がないわ~」とか言いながら車やバイクをぶいぶい乗り回してるんだよ!?バーに入ってお酒飲んでるし、煙草も吸って。SEXして帰りが遅くなちゃった~☆とかさ。異世界すぎてクラクラした。こういう10代の人生の楽しみ方もあったんだなって嫉妬して悲しくなった。
うん、分かってるよ。自分が叶わなかった青春時代を過ごしている人に老害よろしく嫉妬してるだけだっていうのは。それでもはてぶのマリー・アントワネットたちにはすんげーイライラする。
Aくんとご遺族は本当にお気の毒だったと思う。しかしそれは置いておいてこの記事の書きっぷりが嫌いだ。
「被害者の育った家庭はこんなに立派で幸せそうに見える。被害者は愛されて育ったのだろう。被害者は素敵な人柄だったらしい」
記者の「読者に感情移入させるぞ」って意気込みがすごい。こうも記者の主観丸出しで書かれると記事全体も相当なバイアスがかかっているんじゃないかと身構えてしまう。
マスコミには淡々と事実を伝えて欲しいのだが(どの事実を伝えるかという取捨選の問題はあるにせよ)、マスコミはどうやらそうではないらしい。障害者施設襲撃事件で被害者の氏名が公開されなかった時の反発はすごかった。
何でこんなに感情移入を促す報道が嫌いなのかは分からない。多分、人の感情を揺さぶって世の中を変えようとするのって報道っていうか政治っぽいなって思ってしまうからかもしれない。