2016-08-29

マッドマックスを3回見て思った居場所のなさ

昨日、マッドマックスの3回目を見た。見たと言っても途中でやめてしまったが。

初回はどちらかというとブームが終わった頃に見た。

レビュー記事にはできるだけ目を通さないようにして、ほぼ自分感性だけを頼りに見たのだが正直な感想面白くなかった。

面白さがわからなかったと言ったほうが正しいだろう。

そのうちに今度はアカデミー賞を取った。

まり世界的に評価されたということだ。だからもう一度見た。

何か見落としているシーンやメッセージ性があるかもしれないと思ったからだ。

初回に見るよりも登場人物関係性や世界観理解できた。

初回では理解できなかった言わんとすることも少し見えてきた気はした。

ただ、それで尚更評価を落とした。

しかしそれ以降も絶賛の声は途絶えなかった。

マッドマックスといえば最高の映画。最高の映画といえばマッドマックス

なぜ自分がそれを理解できないのかが不思議で仕方なかった。

それで今回は、様々なレビュー解説にしっかりと目を通してから見ることにしてみた。

何がそんなに絶賛されているのか、分かった上で見たかたからだ。

演出の完成度や演技の素晴らしさを絶賛する記事が山のようにでてきた。

マッドマックスが完成された作品であることはよく分かったのだが、肝心の、なぜ最高なのかはあまり見つけることができなかった。

そうして3回目を見始めて思ったことは、作品内における居場所のなさだった。

登場人物は全員が狂っていて、それでいて全員が自分けが正気だと思っている。

大半の人間世界が狂っているからとそれを受け入れようとするが、その中でも飛び抜けて狂っているマックスとフェリオサが、狂った世界さらに狂った方法で抗おうというのがこの映画といっていいだろう。

マッドマックスの名の通り、全てが狂っているのだ。

では果たしてこれは虚構世界の話だけだろうか。

違う。マッドマックスはまさに世の中をそのままに写しただけの話だ。

現実でも世界は狂っているし人間も狂っている。その中で自分けが正気だと信じているのだ。

狂気こそが正気であるし、狂気の中にあれば正気こそが狂気なのだ

この理不尽狂気に囲まれているつらい現実必死正気を保とうとしている中で、なぜそんなものを娯楽映画の中から暗喩として発見しなくてはいけないのか。

登場人物の誰ひとりとして感情移入もできなければ、むしろ現実存在する狂気に置き換えて穏やかな傍観者としてもいられなかった。

この映画を娯楽として楽しめる行儀よく生きてきた人間にはわからないことかもしれない。

結論に至ることができてよかった。やはり狂っているのは世界のほうだったじゃないか

  • 増田もまた自分だけが正気だと信じてるわけだ マッドマックスだけだと1作目のことなのかシリーズ全体のことなのかまぎらわしいから FRとか怒りのデスロードとか付けたほうがいいと...

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