学校に求められているのは結局選別の機能だけで、ギョーカイによってはそれすらコネの下位互換に過ぎない
だったら具体的に学ぶ内容なんか、リベラルアーツでも四書五経でもその他の何であっても、選別さえできるなら大して変わりないのではないか
あの「教養を身につけることで人間になれる」っていうのがきわめて怪しいのはそこで
本質的には「野球だけやっていれば社会人として必要な資質が身につく」みたいなのと同レベルの話でしかないのではないか
どちらも学者と野球選手の食い扶持稼ぎに適当言ってるようにしか思えないのである
Permalink | 記事への反応(2) | 23:41
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仕事で測度論的確率論とか出てきて困ってる。助けてくれ。
△△<助けてあげないよ!ジャン♪という話
学問に求められている究極の目標は未来予知だよ。 まあ、厳密な予知はもはや人智を超えているが、それでも専門家の予測には一定の信頼が求められる。 過去と現在がどうなっているの...
学問に求められている究極の目標は未来予知だよ。 オレオレ学問定義やめろ
「求められている目標」は「定義」ではないです。