はてなキーワード: ピーとは
会社への到着時刻はほぼ変わらなかった
トリックとしては
・通常はホーム前方車両に乗っているが、後の電車に乗るときはホーム後方の車両に乗る。このため乗り換え駅での移動時間が早くなる
・通常は乗り換え駅で混雑のためすぐ乗れず1本見送るが、後の電車に乗ったときは来てすぐ電車に乗れることが多い。このため乗り換え待ち時間が短い
という感じ。
後の電車になる時は乗車の快適さを諦めつつ移動の速さを優先しているのと、ピークの峠を若干越えるため混雑による待ちが発生しない(先の電車に比べて) ということなんだと思う。
もう恒常的に1本遅いのにするかなあ。
そこがピークだよ
高専卒の方のエントリーが上がっていたので,レアな存在である高専について私も語ってみる.何度目の焼き直しになるかわからないが.
15年前に卒業.化学系学科.情報としては古い点も多々あるかと思う.ただ学生会長で全国高専につながりを持っていたので、情報ソースは1校のみではない.
①進学が容易
後述する.
高校1年次から専門教育を受けられる.全課程が専門教育というではなく,高校や大学で履修する一般教養とのミックスになっている.年次が低い段階では一般教養の比率が高く,年次が上がるにつれ逆転するという塩梅だ.まともに単位を取っていれれば5年次は週の半分は研究だった.
①進路が固定されやすい
大多数が工業系の道に進む.進まざるを得ないといっても過言ではないだろう.感覚的に同級生の8割はメーカにいる.世界が技術系一辺倒なので,その他が見えにくい.入学時点で15歳なので、染まりやすく視野を広く持つことも難しいという点もあったかも知れないが,情報網が発達した現代はまた異なるかもや知れない.教員も普通の研究員なので,理系のアカデミアで純粋培養されたような癖が強い人がごろごろ.コースを変更しようとしても,マイノリティになるため後押しもロールモデルが少なくハードルが高い.
専門性が高い故、入学後に技術に興味がないことに気づいてしまった場合,モチベーションが下がりついていくのが困難になる.高専は受験日が普通高校に比べて早いので,度胸試しで受けてみたら受かってしまった,偏差値が高いのでなんとなく来た,という層の一部がこの状態に陥る.一念発起して3年次にセンター試験を受け大学に進学、文転したものもいた.これはレアなケース.
③恋愛チャンスは共学に比べ少ない.15-20歳という多感な時期に恋愛経験はまあ一般的に重要だろう.学科構成に依るとは思うが伝統的な学科であれば女性が少ないので競争は激しい.然しながら化学専攻などは女性比率が高い,それでも半分程度だろうか.
授業時間は90分.1年次から週1-2回のペースで半日かかる実習or実験があり,1年次から毎週毎週濃密なレポート提出を課せられる.締め切りや採点も厳しく,図書館での追加調査を含め毎週5-6時間をレポートだけで費やしていた.科学的文章の書き方の下地はここで醸成されたと感じる.専門科目が入っている分,一般教養が割かれている.歴史はなく,地理も確か1年前期しかなかった.その他普通科高校と比べて色々なものが削られていたに違いないが、よく分からない.
また,数学が難しかったことを殊更に覚えている.入学後すぐに三角関数,確率,2年次に上がる前に微積,線形代数.2-3年次で重積分,偏微分,常微分・・・.4年次以降で複素関数,曲面,群論,ラプラス変換,ベクトル場等の応用数学に入っていく.他にも電磁気,化学,熱力,固体物理・・・うっ.
①就職
就職率100%.求人倍率~20倍.県内の有力企業,大手の現業職(現場職長候補)に比較的楽に就職できる.ただ高専生は世の中のことをよくわかってないので,企業や業態研究をせずに適当に就職してしまい数年後に後悔する同級生はそこそこいた.先生も技術バカが多く,経済的なリテラシー教育はほぼなかった.私のころはインターネットの情報量も多くなく,現在はまた違っていると思われる.
②進学
大きく2つに分かれる.専攻科か大学か.
専攻科:
自校に残り,2年間の延長教育を行う.大卒の資格を得られる.ほぼ研究メインの生活を行う.研究8割,授業2割くらいか.卒業後は旧帝や技術系大学院(奈良先端科技大/豊橋技科大/長岡技科大)などに院進する人が多かった.就職する場合世間的にはレアな存在であり,専攻科?そんなのがあるんだ?という反応をされ,研究漬けで辛い生活を送ってきたのにも関わらず就職アピールとしては弱いと友人はボヤいていた.
進学(3年次編入):
ここが最大のうまみであろう.
①いくつも受験が可能.大学毎に試験日程が統一されていないので,費用と日程確保さえできればいくらでも.自分の場合は4大学に出願し,3大学目で決めた.偏差値が低いほど早めに行う傾向があった.
②受験科目が少ない.例えば東大は数学と英語だけだった.(東大のみ2年次編入だったが)問題も奇天烈なものでなく,真面目に授業を受けてしっかり対策していれば十分に解ける範囲である.
③高専によっては提携大学がある.私が卒業した高専では所在県の大学,提携の私立大学(関関同立など)は指定校推薦でほぼ全入していた.高専から私立大学に行く人は少ないので,競争率も低かった.就職したくはないが勉強も好きではないモラトリアム層は延命策としてこの選択肢をとっていた.大学編入後は一般教養はほぼ単位認定(=免除),専門教科も高専で齧っていることが多く,比較的楽.実験,研究発表においては経験の差が歴然.学部レベルでは専門を変えない限り大きな問題はないだろう.私も彼女が欲しくてテニスサークルに入ってみたが,雰囲気についていけずすぐ辞めたというオチ.
ピンキリ.トップレベルの明石高専や豊田高専などは偏差値60後半でそこらへんの進学校を超える難易度だが,商船高専などは50前後.学科としては電気がいつも大変そうだった.数式だらけで理解するのが大変.材料や土木,環境,その他新興分野はおぼえればいい科目も多く,比較的楽.
全寮制の高専は確かなかったと思うが,大概他県や遠隔地からの学生用に寮が用意されている.寮ではゲーム相手に事欠かない,発売日に漫画がすべてそろう,ありとあらゆるジャンルのエ〇本を閲覧できるなどのメリット(?)もあるが,大きなデメリットとして私が通学していた20年前では上級生による「しつけ」という名の体罰が行われていた.木曜日の夜に1年生を呼び出し,暗闇の中で数時間正座をさせて悪事を白状させるというもの.(風呂掃除に数分遅れたとか,寮の敷地内で先輩を発見した際百m離れていても90度おじぎをして挨拶を”叫ぶ”必要があるが,そのお辞儀角度が足らなかったなど)一定数白状しないといつまで経っても終わらないため,どうでもいい些細なことを報告するのが常であった.正座のみならず1時間両手を上げっぱなしにさせるなど.終わった後は体が痛んだ.脚が痺れを通り越して暫く立てないレベル.なぜ木曜の夜かというと,金曜になるとみんな帰省してしまうため.
さすがに今はもうないだろう.しかし,中学校を出たばかりの小僧に大学1-2年生相当の先輩たちはとても怖い存在で,且つ退寮して親に金銭的負担をかけられないため多数は我慢を選択する,という構図だったし,私の親も鍛えられてこい,という感覚だった.家が比較的近いやつは馬鹿馬鹿しくて通学に切り替えていた.私のころはなかったが,以前は先輩から達しが出るや否や吉野家の牛丼を30分以内で代理購入してくるという「吉野家ダッシュ当番」なるものもあったそう.尚,年次により寮内でのルールは緩くなっていく.年次による権力を揶揄した称号があり,1年次から「奴隷」,「見習」,「平民」,「貴族」,「神」.1年次においては共有スペースの炊事禁止,テレビ閲覧禁止,風呂掃除や朝食準備などの各種当番,祭りでの汚れ系出し物など.2年次になると共同場のテレビ閲覧可,3年次から個室があてがわれ、テレビも自室に設置が可能となる.今思い返せば,陰湿な日本文化を如実に体現しており,乾いた笑いが出る.
私は上級生になった際このシステムを廃止しようと試みたが、全体的にそれを維持したいという空気が流れており結局叶わなかった.ただ親元を離れて集団生活を送ったことで自身も随分たくましくなったと思う.
メーカを何社か転職し,現在はITでデータ解析職.製造業に興味がないことに気づくのに大分時間がかかり,また気づいてからも収入を維持しながらも他業種へ脱するまでが大変だった.現在は34歳で年収950万円.奨学金は500万ほどあったが30歳前に完済することができた.
【2022年追記】現在37で1700万.幸運が重なり待遇の良いコンサルへ転職することができたが,周りの優秀さに埋もれつつありキャリアピークも近いかと感じている.がんばりたい.
夫や親や周りの人間の理解もあって、「無痛?痛くないならその方がいいよね!」ぐらいの反応だった。
もちろん無痛には無痛のリスクもあるんだけど、選んだ産院が無痛分娩を推奨していてどんなリスクがあってどれぐらいの確率で起こって、もし起こった場合どんな対処をするのか?をしっかり説明してくれたので安心して無痛を選択した。
一口に無痛分娩といっても、病院によっていつ麻酔を入れるかどれぐらいの痛みを軽減させるかは異なるのでその辺は確認した方がいい。
まず、朝病院に行ったらバルーンを子宮口に入れて、陣痛誘発剤を点滴で投与、だんだん痛みが強くなってきて子宮口が4センチほど開いたところでバルーンが抜けた。
バルーンが抜けたことで一旦痛みが落ち着いてしまったので、昼頃に人工破水。
一気に痛みが強くなって、子宮口が6センチぐらい開いたところで麻酔を入れてもらえることになった。
陣痛の痛みは、生理痛→重い生理痛→喋るのが辛く、ただひたすら痛みに集中しないとしんどいぐらいの腹痛ぐらいまで推移した。徐々に痛さのゲージが上がっていくので耐えられなくも無いけど切なくなってくる。でも痛みのピークはこんなもんじゃないらしい。
麻酔、背中を丸めて麻酔のシートを背中に貼る。腰のあたりに針を2本深く入れるんだけど、不快感と痛みがすごい、腰の骨と骨の間にゴリゴリと音を立てて針が侵入してくる。めっちゃ痛い。この間も陣痛の痛みが来る、腰もお腹もそれぞれ痛くてもう泣きたい。
麻酔を入れてくんだけど、下半身が自分の意志と反してブルブル痙攣する。寒い。麻酔が入ってくる時の異物感が気持ち悪い。
入れてすぐはまだ麻酔が効かなくて陣痛普通に痛い。左側の感覚は無くなってきたけど右側はまだ普通に痛い。そのうち痛くなくなるとのこと。
一時間だけ眠りましょうか、ということで腕から眠たくなる薬を投与。投与された血管が痛い。そのまま意識が遠のく。
一時間経過、めっちゃぐっすり寝た、まだ寝ぼけてる。かすかに陣痛の痛みがある。
てか右骨盤がはじけそうな痛さ。耐えられるけど痛みのレベルがかなり高くなってるのがわかる。
いきみましょうか、ってことでお腹が張るタイミングで力を入れてみる。
てかこれどこに力を入れればいいの?
だんだん痛みが増してくる。てか右側麻酔効いてなく無い?!普通に痛いぞ〜!
3いきみ目ぐらいで痛さと苦しさでしんどくなってくる。
無痛、ふつうに痛いやんけ、てかもうなんかなんでもいいから解放してほしい。
苦しくていきみたくて仕方ないけど痛いし苦しいし出てこないしなんかもう痛くてだめで、つらいーたすけてーと声が出る。
助産師さんがあと数分でなんちゃらかんちゃらって言ってる、あと数分でなに?どうなるの?タイムリミットてきな?
お腹めっちゃ押される、部屋に人こんなにいたっけ、横で母が泣いてるけど頼むから静かにしてほしい、がんばってんだよこっちはよお、みたいな理不尽な気持ちになってくる。お尻を引っ込めて力を入れるのよ!ってめっちゃ言われる、めちゃめちゃ踏ん張ってるけど出ない……。
右腰が、右腰が痛いですって訴えたら麻酔追加してくれた。ああ、もっと早く言えばよかった……少し痛みがマシになる。
お医者さんがきて、切りますねって言って股を切られたらしい、最後もう一回おりゃーっていきんで、オギャー!ですよ。
時間がかかったせいで赤ちゃんちょっと低酸素状態だったみたい。
切られた股を縫われてるんだけど、引っ張られてる感覚があるだけでまるで痛く無い。
普通分娩と比べれば少ない痛みで済んでるんだろうけど、初産なのでわからない。
個人的には普通に痛かったし普通にしんどかった。途中でリタイアしたいのに出来ないし、停止ボタンとかも無いわけで、なんでこんな責め苦を……みたいな気分だった。
でもまあ無痛にしてよかったと思う。
オランダ船にとって砂糖は当初は船の積み荷のバランスを取るバラスト(重り)商品に過ぎなかったが、17世紀に台湾やジャワ島へ多くの中国人資本・技術・労働力が移転したことにより重要な商品となる。たとえば江戸時代初期の平戸オランダ商館の時代には砂糖の輸入量は100トン程度であり輸入品仕入高の1%にも満たなかった。しかし江戸時代半ばには砂糖の輸入額は輸入品仕入高のおよそ30%に達している。出島オランダ商館の帳簿によれば、オランダ船による輸入のピークは宝暦9年(1759)の約1375トンであった。こうしてオランダ船による砂糖の輸入は年間500トンから1000トンに達し、唐船による輸入をあわせると1500トンから2000トンを超えるようになる。
最近初老くらいのおっさん達がネトウヨネトウヨってうるせーなと思って
そもそも言葉としてどれだけ流行ってるのかトレンド調べたら2011〜2012年がピークだった
やっぱもう下火だよな
何で騒いでるやつ居るんだよ
https://anond.hatelabo.jp/20190207144931
つづき
「NGTの悪者メンバー」としてネット民の間でターゲットになったメンバーについて
@noeyamada1007 のえピー隊とかキモい。いじめや犯罪に加担し、さして顔が可愛いわけじゃない糞女のどこがいいんだかwww。— ふぐり™ (@sirius_sirius00) 2019年2月7日
知ってる事
しゃべって!
貴方の利用価値は
余計な事をベラベラ喋る事なのに。
そして楽になったら
卒業して芸能界も引退して下さい
多くの人が望んでる
嘘だと思うならネットで確認して。— タロタロワタベ (@ylGalrQuJxv658I) 2019年2月7日
さっさと辞めろブス!そんなふざける暇があるなら真相明かせ!— AKB48グループ神推し (@rshLuzs3RE57GOt) 2019年2月7日
なお 各種 🦐 もある
完全に被害妄想です
そもそも「ストレスをペットにぶつけている」人は飼わなくていいよ
児童虐待があった53の家庭で飼われていたペットの60%で動物虐待が行われていた。
その内37%は子供自体が虐待に関わっていた。子供は自分が虐待に接してきたことで、
今度は自分が暴力が振るえるペットを対象にしていたわけである。
これらの事実は、青少年たちが動物虐待を実際に行った場合は、その青少年自身も
何らかの虐待の犠牲者であることも我々に知らせてくれるひとつの症例である。
24人の兄弟がパピーミルを経営している養父母から虐待を受けているという電話があった。養父母は不要になった多くの動物を射殺し、子どもたちに埋めるための墓穴を掘らせた。さらには子どもたちにも命じて射殺させた。それに従わないと、「それならおまえたちが射ち殺されて、その墓穴に入ることになるのだ。」と言ったという。養父母は、鞭、その他手にしたあらゆるもので子どもたちを殴った。また、子どもたちの多くは具合が悪くても病院に連れて行ってもらえなかった。養父母は州から支給されている子どもたちの医療費を着服していたからだ。
動物虐待と暴力の関連性は、十分に実証されている。1997年、マサチューセッツ動物虐待防止協会と米国のノースイースタン大学の研究によると、動物虐待者は、動物虐待歴のない人に比べ、人に対する暴力犯罪を犯す確率が5倍高く、また窃盗罪を犯す可能性は4倍高いということだ。
インフルエンザに罹った。正確には、罹ったらしい、だが。
医者で調べてもらったところ、今の段階ではウィルスは検出されてはいないが、
体温(38.5℃)、症状からして先ず間違いないと言われ、
これからインフルエンザの症状が出てくるだろうから、症状のピークになる前に、
(医者にゾフルーザをリクエストしたものの、却下されてしまった。)
今回のインフルエンザは、月曜に発症し、水曜には熱が下がり、治ったかに思えたが、
何らかの菌が扁桃腺に入り込んだらしく、木曜からまた熱をぶり返した。
水曜、木曜には一日で一箱使い切るほど鼻をかんだりもした。酷い鼻水だった。
結局熱が下がったのは日曜日で、ほぼ六日間床に臥せざるを得ない状況だった。
去年も何度も風邪をひき、年末にも微熱の出る風邪をひいていた。
マスクをし、うがい手洗いも実行していたのにだ。
テレビでは、顔に触る回数が多い奴は風邪をひき易いと放送されていた。
顔に触るなと言われても、髪の毛に触れたり、眼をこすってしまったり、
顔が痒くて掻いてしまったり、マスクを付けたり外したり...色々あるだろ。
どうにもできん。
会社では風邪でゲホゲホいいながら仕事している奴が何人もいる。
今日から会社に復帰しているが、もうこんな会社には来たくない、
心底辞めたいと思うのだが、それも叶わず。
ベンチャーの失敗はよくある話だしツイッターでもよく見かけるが、実際に自分の目の前でベンチャーが死んでいく様子を見た。
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僕が働いていたその会社は、入社当時は社員数は数十人くらいの規模、創業してまだ数年ほどのいわゆるベンチャー企業だった。
数年前からのとあるブームの波に乗り「最先端領域のベンチャー」というラベルが付いた会社だった。
僕の入社当時は非常に勢いがあった時で、仕事の引き合いも多くきていたし、市場の成長と共に会社が伸びていっている空気を感じていた。
そんな勢いに乗っていた状況だったが、社長を始めメンバーのほとんどはエンジニアで、ビジネスをつくれるセンスと能力のある人がいないことが課題だった。当時の会社の経営状況がどんなだったか詳細は知らないが、潤沢に利益があるわけではなかったと思う。VCから調達した資金を消費しながらムーンショットを狙っているような感じだった。
そしてある日、某大手コンサルティングファーム出身の人が入社するということを知った。ビジネスに課題があることは分かっていたし、上場を目指してもいたので、それを実現するために獲得したであろう人というのはすぐに分かった。
僕自身はいわゆる本物の経営コンサルタントという人と人生で一度も関わったことがなかったので、新しく入った彼がコンサルタントとしてどうなのかは全くわからなかったが、自信に満ち溢れたオーラが出ていることは感じた。
そしてその彼は入社後すぐにある重要なプロジェクトを成功させ大きな成果を出したらしい。
気づけば役員となって経営全体を指揮するようになっていた。もちろんそういう役割の前提で獲得した人なわけなので、実力を認められた上で登用されたということだ。
それはそれでいいとして、そのあたりから仕事のプロセスが急に堅苦しくなった。
分かりやすいところだと、基本的にお金がかかることは全て詳細を説明して許可を得なければいけなくなった。ただ1ステップ増えるだけならまだ許せるが、その彼に却下されることが明らかに増えた。他にもちゃんとした組織図を書いてそれぞれの部署やポジションに仰々しい名前を付けていった。自分の名刺の見た目や肩書きにはとてもこだわっていたらしい。
お金がかからない事については大いに自由にやってくれという感じだったし、そもそも明らかに無関心だった。
それらの変化に伴って会社の空気が全く変わってしまった。以前は何でも自由にやらせてくれる空気があったがそれは消え、何となく殺伐とした雰囲気を感じようになった。
いつからか正確には知らないが、そのコンサルは会社の代表権を持つようになったらしいという噂を聞いた。
この頃になってようやく気づいたが、この時点でもう会社を完全に乗っ取られていたのだ。
当然ながら優秀なメンバーから辞めていき、気づけばピーク時の半分まで人が減っているらしい。かくいう僕ももう辞めているからいまの状況は知らないが、キーマンといえる人はもう誰も残っていない。
かつて僕が面白さと未来を感じて入社したベンチャー企業が「死んだ」と感じた瞬間だった。もちろん僕が間違っている可能性は十分にあるし、これからその会社は大成功するのかもしれない。
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さて、最後になぜ会社がそんなにいとも簡単にコンサル野郎に乗っ取られてしまったのか?について少しだけお気持ちを残しておく。
これまでの書きっぷりだと昔は良い会社だったかのように感じるかもしれないが、全くそんなことはなかった。
会社が何を目指して何を解決しているかは全く分からなかったし、社長とそれを話しても的を得た回答はなく、すごく遠い未来の理想の話ばかりだったように思える。社長はとにかく大企業と実験的な仕事をすることしか考えていなかった。
社長の中にあるビジョンはおそらく、大企業や国にかかわる機関など大きな権力を持つ組織と対等に話したい、みたいな事だったんだと思う。何かの課題を解決したいわけではなく、権力を持つ人に対して自分が意見をして相手の行動に影響を与えている状態になりたいのだ。
現実で起きていたことと言えば結局は一過性のブームによって期待値が膨れ上がった中で、景気の良い大企業の余剰資金が一部流れ込んで来ただけに過ぎなかった。「最先端領域のベンチャー」というラベルがあるだけで世間は注目してくれた。
実際に僕が辞める頃にはブームも徐々に陰りが見えていて、新規事業の予算の使い道に困った顧客からの引き合いしか来ていなかったと思う。
改めて振り返ると「死んだ」のではなく、初めから「生きていなかった」んだと感じる。
社長はカリスマ性のある人柄で、何を言ってるかわからないが何かをやってくれそう、と感じさせる生れながらの才能を持っている。そこにたまたま張っていたポジション (実際には大企業の顔を立てるためにたまたまその技術をやっていた) の価値が一時的に上がったことで社長を含めて多くの人が勘違いする羽目になった。
一方で、経営コンサルタントをしている人にはありがちな悩みらしいが、自分が事業をやったことがないというのをマイナスに感じるものらしい。コンサル野郎にとっては自分で事業をやったといえる実績が手に入れば、これまで突かれると痛かったロジックの穴を埋めることができ、全人類に対して完全にマウントを取ることができるわけだ。
そんなラッキーマンとコンサル野郎の組み合わせは、もはやお互いにとって相互補完となる幸せな関係なのかもしれない。ラッキーマンは実務は全てコンサル野郎が面倒みてくれると思っているし、コンサル野郎は社長を自分の盾として置いておくだけで充分でなるべく空っぽの方が好都合だからだ。
そして本来ならそういう暴走と悪循環を止める機能をしてほしい経営陣たちでも誰も止めることはできなかったようだ。それぞれの言い訳を並べているようにしか見えなかった。
決して社長のワンマンという感じではなかったが、要は彼らもまた「ボードメンバー」というラベルが欲しかっただけなのかもしれない。
こんなことを書いている自分自身もまた「最先端領域のベンチャーで働いている」というラベルが欲しかっただけなのかもしれない。
世の中にはきっとこんな会社が星の数ほどあるんじゃないかと思う。
僕は早々に損切りしてしまったが、そんな喜劇を目の前で見れただけでとてもお得だったと思える。
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それぞれに思うところはあると思うが、あくまで末端の当事者意識の低い人間が現実を知らずに愚痴っていると捉えてもらえればいいと思う。
ちなみに、当時の会社のバーンレートを考慮してもあと2年以上は生きられるキャッシュはあったらしいよ。
事業を収益化できていなかったのはあるだろうが、そもそも何を事業としていてどんなビジネスモデルでなぜ勝てる理由があるかを会社の誰も答えられないくらいだったからな。
会社である以上金を稼ぐというのは大前提であり、人間で言えば息をするとか心臓を動かすとか血液の循環とかのようなものだ。それをなくしてカルチャーだの働きやすさだのやりたいことだのとほざいても何にもならない。
今回の件はそういう当たり前のことに気づいたいい経験だった。
嵐の活動休止が発表された。
あ、これは大野(自担)がついに行動を起こしてしまった。と思った。
やっぱりこの時が来てしまった。と思った。
前々から辞めたかったと言っているのもあったが、ここ最近個人の仕事をほとんどしなくなった。
そのことに対し、一部のファンからはもっと大野に個人仕事を!という声も挙がっていたが、そんなことしたら本当に辞めてしまう。
もう嵐以外の仕事はしなくていいから、せめて嵐であることは辞めないで欲しい。とずっと願っていた。
5人の総意だと言われても、大野が言い出さなければ今回の活動休止はなかった。
だからまだ嵐の活動を続けたかった4人に、ただの一ファンでしかないけれど、申し訳ないと思った。
私は5人全員大好きだけど、やっぱり一番は大野だ。
だから大野以外のメンバーが解散、もしくは活動休止を申し出たらきっとそのメンバーを許せなかったと思う。
嵐の人気は2007年くらいから本格的に出始め、10周年の2009年をピークに徐々に下がっていくのかと思ってた。
しかし、10周年から10年たった今も変わらず、いや、それ以上に人気がある。
CDの売り上げ、FCの会員数、TVの視聴率など人気の判断をする材料はいくらでもあるので一概には言えないが、
嵐は間違いなく、今一番日本で人気があるアイドルグループであろう。
嵐が人気が落ちるのはまだ想像が出来ない。
いつの間にか一番上に居て、どこに居ても騒がれる状況は彼にとって居心地が悪かったと思う。
でも、4人とファンを裏切れないことに甘えていた。
だから今回の休止で、大野が一回離れることが出来て、今まで散々甘えた分、休みが欲しいと自ら言い出したことに安心した。
今回、4人やスタッフに提案で休止になった結果に対してよく見るのが、
「もう戻ってくる気がないんだから、そっとしといてあげた方が良い」という意見
まず、「戻ってくる気がない」という意見。
本人も言うように最初は辞める気だったであろう。
でも会見で松本が「解散ではない」と言い切った、ZEROで櫻井が「活動再開はある」と言った。
というのもあるが、そもそも戻ってくる気がないのに活動休止なんて中途半端なことはしないと思うからだ。
解散にするとファンが傷つくから休止にしている。というのも見るが、戻ってくる気がないなら期待をさせるようなことを大野はしない。
もう二度と嵐をやらない。と決めきっていたら周りがいくら説得しようが絶対大野は譲らないと思う。
そして、休止の2021年まであと2年あるが、決まっている仕事があるという予想をしているのだが、会見で本人達は知らないと言っていた。真実は分からない。
事務所の力でそのくらいどうにでもなるだろう。
大野は病気があるわけではないが、本当に限界なら、後輩に休んでいる人が居るように、きっと休ませるであろう。
本人も納得しての2年であろうから外野がとやかく言うのは違うだろう。
解散なら2年前でも良かったが、活動休止に2年かけるのはやりすぎだと思った。
嵐は自分たちの言葉だけを信じてくれと言うので、そうさせてもらう。
会見で言った事にも実は本心が含まれていない可能性だってある。
でも、ファンに対して伝えたい嵐の姿を受け入れることが、一番ファンをやっていて楽しい選択だと思うので、これからもファンでいたいと思う。
私は全員の事が好きなので、2021年以降もソロの仕事を応援する楽しみだってあるし、
人気が出てからはリピートする時間がなく、1回見ただけで終わっていた録画を見返したり、嵐のファンとしてやりたいことは沢山ある。
私の見る嵐、他人が見る嵐、違って当たり前。
でも、出来る限りそう見て欲しいという嵐を受け入れていきたい。
私は嵐が大好きだ。
でも私以上に嵐が大好きな5人だから、この先ずっと信じられる。