はてなキーワード: アナと雪の女王とは
といわれたのが始まりでした。
2年前に保母になりたての24歳。
ちょっと忙しい中でも多少の無茶でも
何も貰えるアテが無くてもがんばっちゃおうと思ったわけです。
ただし。
えらい難儀やなぁ。そんなものあるのかな?
で、考えること20分。
姪っ子の口からは出てきてないなと思い出して。
妖怪ウォッチはなんだか値段が高いのと
個人が遊ぶ道具が中心みたいなので
んで、こっちはあきらめて。
もう一つの候補だった
アナと雪の女王グッズを探してみたんです。
そしたら。
エルザも人気だったけど、高いんです^^;
そのためか、ややランク↓気味で。
そんな中で見つけたのが
【オラフ危機一発】という
何がいいかというと、
・3000円以下で買える。
・電池要らない
(飛び出すとか動くとか大好き)
全部これいけるやん!!!
10000円くらいだったので、もちろん予算内です。
結果はというと。。。。
そんなオラフ。
11/28の貴重な金曜に、またもやその威力を発揮しようとは。
全社を上げて盛大にやるわけです。
業績も伸びてないのにねぇ。
ともあれ、面倒な半仕事の企画なんて
さっさと終わらせたいんですが
せめて1アイデアでも出していかないと、後が怖い^^;
出し物を考える任務が与えられるわけですが
考えて実行するのってひたすら面倒じゃないですか。
「またあれね」みたいな空気が流れるし。
と、数日前のことを思い出して。
逆ビンゴ大会で、飛ばした人先着5名だけがプレゼントもらえるわけです。
すると、全員賛成で決定。
これは正直、意外でした。
と、自分も妙に納得。
ということで
面倒な部分は皆さんに任せて。
「早く帰れた、ラッキー」なんていう
その帰りの電車待ちで。
ちょっといつもより歯切れ悪めに説明しれたあと、
先日はありがとうございました。
満足にお礼もいえなかったので、
良かったらぜひお食事でも。
そんな感じの会話に。
ちょうど帰るところだったことを伝えると
ええ、喜んで行きましたとも。
団蜜ですよ?木村多江ですよ?
可能性が0でも、デレデレしたいじゃないですか。
これ、オラフがいなかったらぜんぜん違う返事だったわけです。
「あ、そうですか。それじゃ、また・・・」
オラフ、お前最高!
な、なるほどね^^;
姪っ子や甥っ子の話で盛り上がること1時間。
楽しい会話も終わりをつげ
発覚してしまったこと。
それは・・・・
当然、一緒に駅まで帰りましょうということになります。
ふと、なぜ娘ではなく姪っ子なのかという話になりました。
で。
「ええ~?俺さんって独身だったんですか?」
てっきり既婚者だと思われてたみたいです。
まぁ姪っ子にデレデレなのは自他共に認めるわけで
彼女が最寄り駅まで楽しんでくれたら
それだけで満足するわけです。
うちに帰り着いて。
とりあえず、そんな感じの11/28だったなぁ・・・と思っていたら。
オラフ君の魔力は就寝前まで続きました。
■【メール】■
クリスマスはどうお過ごしになる予定ですか?
そんな素敵な出会いが皆さんにもあることを願って。
最強の添え言葉とともに、なんでもない平日に渡すのも
印象に残っていいかも知れませんね。
【オラフ危機一発!】
追伸
先ほどのメールのあと、実は翌日に会いました。
まだ特に何も発展はありませんが、
いまの愚行権の話題ってさ
國府田マリ子のすばらしさを語って「國府田マリ子を称えるBeeメイツになろう!」ってシメて
「Beeメイツはそうじゃねえだろ」って総ツッコミ食らってるように見えるんだよね。
分かり難いか。
まずね、id:netcraftさんは謝った方が良い。
「愚行権」という単語で定義される概念は、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論(1859年)」にあって、
それなりに一般的な学術用語として、その歴史的な経緯を踏まえて定義付けがなされている。
だから、いかにキャッチーであろうとも、自分の表現したいことを「愚行権」とラベリングした時点で、
「オマエの言う愚行権は、ミルの定義とは違うし無知乙」と言われるのがオチで、学術的にも混乱を招くので良くない。
原則の第一は、個々人は、その行動が自分自身以外のだれの利害とも関わらないかぎり、自分の行動について社会にたいし責任がないということです。他の人たちが自分の利益のためには必要と考えてなす、忠告、指図、説得、忌避は、社会が彼の行為にたいする嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段なのです。第二には、他人の利害を侵害するような行為については、個人に責任があり、もし社会がその防衛のためには社会的処罰や法的処罰が必要だという見解をもつなら、そのどちらかの処罰に服すだろうということです。
他人が、忠告、指図、説得、忌避をするのは、嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段としてる。
(ミルは結構過激で、飲酒が原因での暴行前科があれば、飲酒に対しての予防的な制限は適法とまで書いてる)
だから、netcraftさんが主張したいコトのために「愚行権」という単語を使うのは、全くもって間違っている。
netcraftさんが主張したいことって、ダイバーシティ・マネジメントの概念に近いことなんじゃないの?
Twitterがバカ発見器と言われるように、私達はソーシャルメディアを通じて毎日全国や全世界の馬鹿を発見しては、イナゴのように食い散らかして消費する。
このエントリで言わんとしていることは、「愚かなことを表現しても、他人から、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされないこと」じゃないの?
このままでは混乱を招くので、ここでは仮に「愚表権」とするな。
この場合、1番目まではアグリーな人間であっても、2番目はノーセンキューだったりするだろう。
そりゃそうだろう。今だって認められてる。
他人に害を及ぼさない限り、例え「他人から見て」愚かでも、現在だって自由に行える。
(その人が子供だったり、錯乱していたり、興奮したり上の空で、よく思案する能力が十分使えないというのでなければ)危険の警告を受ければ十分で、危険に身を曝すことを無理矢理防ぐ必要はないと思います。
ミルは少なくともそう言っているし、現状でも限りなくそれに近いことになっている。
ただ、ミルは自己責任で、自分が犠牲になっても良しとせよと言っているけど、実際には警察や消防等のリソース(つまり税金)が投入されてる。
だから、「自分自身以外のだれの利害とも関わらない」については、ある程度予想できることについては予防的に禁止されてる。
この線引きに文句を言いたいわけじゃなかろう。
netcraftさんが主張したいことってこっちじゃないの?
たぶん一番近い表現は、the right to diversityだけど、より広い概念だと思うんだよ。
肌の色、国籍、宗教、性別、趣味で差別されるべきでない、許容すべきだって言うのは、その通りで、ダイバーシティーなんて単語が使われてる。
例えば、「私はキリスト教徒です」というだけで、会社での昇進が遅れたり排除されるのは、正義ではない、と今の社会はされている。
「オマエはアイヌであることを止めないんだから、自己責任の基、ネットイナゴや政治家からのヘイトも受容すべきだ」とはならないだろう?
(それがアグリーな社会もあり得るが、現代日本ではそれは政治的には正しくない態度とされている)
この、「趣味」の部分に、極端な性癖であるとか、「刑事罰に至らないような行為」を入れて欲しいって事じゃないのかい?
俺が愚行権の話を読んで真っ先に思い出したのは、NHKの「ドキュメント72時間、トランクルーム もうひとつの秘密の部屋」なんだよね。
取材されていた人達は、それが他人には理解されないと痛々しいほどに理解していた。ただ、そっとしておいて欲しいと願いながら。
趣味嗜好で、バレたら後ろ指をさされながら生きていかなきゃいけないって、やっぱり間違ってると思うんだよね。
今までは、勝ち取ってこないと権利は得られなかった。
レインボーフラッグ振って、主張して主張してやっと、「居て良い」レベル。
アナと雪の女王だって、どうみてもカミングアウト後の家族との和解の物語だろ。
他人から、誰に迷惑をかけるわけでもない趣味に対して、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされる。
ある程度以上定義付けがなされた単語を使うときは、注意しよう。
「刑事罰に至らないような行為」を許容して欲しいという主張は判る。が、それを愚行権とは呼ばない。
ネット上での愚かな行為を、ムスリムを見つけては過激なメンション飛ばさないのと同じで、尊重しようっていう主張は判る。
netcraftさんの主張とは違うが、放置権みたいな「叩くのではなく、そっ閉じ」される権利は、確立されて欲しいと思う。
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John Stuart Mill : On Liberty (4th ed.1869 [Originally published in 1859])の日本語訳である
自由について、ジョン・スチュアート・ミル:著、永江良一:訳 http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html より行った
放送当時は見ていないというか、生まれてすらいないし、原作も読んでいないので知識はゼロだ。
原作通りなんだろうなと勝手に思い込んでいたけど、次第に、明らかな引き伸ばし展開や設定に違和感を覚え出して
途中から、「これ絶対改変だろう」と確信しつつ、何度か度肝を抜かれ、黄金聖闘士十二宮編の終わりまで一気に視聴した。
今、原作付きアニメでこんなことやったら大変なことになるだろうな。
出てくるキャラの星座や名前の元ネタを調べはじめたところで、表題のネタに行き着いた。
それは「アナと雪の女王と聖闘士星矢のアスガルド編の設定が似ているらしい」というもので
アナと雪の女王は見ていないし、すっかり忘れていたけれど、それ以後、少しアナ雪が気になっていた。
…と、いうのをアナ雪の感想書いている増田をみて思い出して書いてみたけど
この感想を見ると、個人的には、思ったより似ていないような気がする。
まあ、なんだ・・・
※朝になって読んだら読みづら杉。あとで編集する。
観終わって、ディズニー映画でこれほど多様な読み方が出来る映画はない!と息巻いてシネスケ開いたらあんまりみんな自分の解釈提示してなくて、いきなりシネスケに書くのも恐いから、おそるおそる増田に書いてみる。ネタバレあり。
まずあらすじ。
幼少時に自分の魔法(触れたものを凍らしたり、氷柱を地面から生やしたりする)によって妹アナを怪我させてしまったエルサ。その経験から、親の指導により人との関わり合いを断絶。アナは治療時に記憶を失っているので姉がなぜ人との関わり合いを避けているのか理解できない。そんなエルサだが、大人になって女王に就任。その戴冠式のお祭りでアナはハンス王子と出会う。出会ったその日に婚約するも、エルサからはそんなのは愛ではないと言われてしまう。ここでアナが日ごろの鬱憤をぶちまけ、それによりエルサが激情しこれまで隠してきた魔法を発動。2人が住むアレンデール国は雪に閉ざされる。魔女を捕らえようとする追っ手から逃れ、エルサは氷の山で独りの王国を築き上げる(ここでLet it goを歌う)。雪に閉ざされたアレンデールを何とかすべく、アナはエルサの後を追う。途中出会った男クリストフと共に氷の山に行くも、エルサはアナに帰れと言う。ここでアナの話からアレンデールが自分の魔法のせいで大変なことになっていることを知ったエルサは絶望し、魔法を発動して再びアナに重症を負わせてしまう。アナを治療すべく、クリストフは魔法使いのところに行くも、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」と言われる。クリストフは真実の愛=婚約者であるハンス王子のキスが必要と解釈し、アナをハンス王子の下に送り届ける。ハンス王子と再会したアナは王子のキスを求めるも、実はハンス王子はアレンデール国を乗っ取ろうとする悪者であることがここで発覚。王子はアナを見殺しにし、アレンデールの大臣にアナはエルサの魔法で殺されたと告げる。氷の城を襲撃して捕らえたエルサの処刑がここで決まる。処刑の直前にエルサは逃亡する。他方、アナの方は、愛とは「他人のために自分を犠牲にすること」と諭され、自分を助けるために命を賭しているクリストフの姿を思い浮かべる。そこでクリストフの下に向かうが、そこにはハンス王子と対峙するエルサの姿が。結局アナは目の前のクリストフを尻目にエルサをハンス王子から守る。エルサの魔法によりアナは凍ってしまうが、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という言葉を信じたエルサがアナにキスし、アナは目覚める。ラストは「真実の愛」により雪が溶けたアレンデールの光景を映し出し、終了。
主題は2つあってそれが1つに繋がる構造。主題の1つは、自らの「魔法」をその共同体の中では抑圧せざるを得ず、「魔法」は共同体と決別することで解放することができる。しかし、それには種々の問題が生じる、というもの。主題のもう1つは、「真実の愛」は家族愛である、というもの。この2つの主題を繋ぐのは、「凍った心を溶かすのには真実の愛が必要」という命題で、「魔法」の解放により生じる問題は「真実の愛」でこそ解決できるいうようになる。
主題の2つ目(「真実の愛」は家族愛である)というのは最近ディズニーが『マレフィセント』で主題としたところ。同映画では、魔女の呪いにより永遠の眠りについたオーロラ姫が、真実の愛により目覚めると言われている。そこでイケメンの王子がキスしてみるがダメで、結局お母さんのキスで目覚めるというストーリーになっている。そこで語られているのは、その辺のイケメンと1夜の恋に落ちたところでそんなのは愛ではなく、家族愛こそが真実の愛である、というメッセージである。そうしたことから、主題の2つ目は割とはっきりしていて、それほど多様な読み方ができるというものではないと思う。
問題は主題の1つ目で、Let it goの解釈がここに関わってくる。日本語版だと「ありのままに」と訳されているのは周知の事実だが、これだと「自分らしく生きていけばいい」というメッセージになる。しかし、これは正確ではない。エルサは自分らしく生きた結果、アナを傷付け、故郷の国を雪に閉ざされた世界にしてしまったのである。この曲はそのような自己肯定的な曲ではなく、「(是非はともかく)とにかく家族を捨て、自分は解放されたんだ」という意味に解すべきだろう。
仮に主題を上のように解するとしても、そこには「魔法」は何を意味しているか、という問いが存在する。ここでの「魔法」とは、
①それにより周囲の人間を傷付けるため、
②周囲から自制と抑圧が求められるが、
を意味する。これを前提にまずありうる解釈は、「魔法」とは同性愛を指しているというものである。この線で作品全体を考えてみると、同性愛を抑圧し、隠そうとする家族という共同体を捨て去ることで、同性愛の問題は解決する。しかしそれは真の解決ではなく、種々の問題が生じるものである。大事なのは、家族との相互理解、歩み寄りによる「愛」であり、それこそが問題を解決するのだ、という読み方になる。
昔はよく夏休みになると、姉と祖母と映画に行っていた。両親が共働きで忙しく、遊びに連れて行けない代わりにと祖母がいつもたくさん映画を見せてくれた。
ジブリ作品、ハリウッド映画、人気アニメ…夢中になってスクリーンにかじりつくと、自分が映画館の椅子に座っていることも忘れて、映画の中に入り込んだような錯覚に何度も陥った。クレヨンしんちゃんの映画の終盤(確か暗黒斎の野望だったと思う)で、クレヨンしんちゃんが現実世界に戻れなさそうな時は、姉と祖母に両手を繋いでもらってしんちゃんを助けて!と泣きながら見たのを覚えている。
いつだって僕は映画が終わっても余韻が抜けなかった。スターウォーズをみた後はまだ宇宙船に乗ってるような気がしたし、タイタニックをみた後もまだ気持ちは豪華客船に乗ったままだった。映画をみた後は現実世界が逆に嘘みたいで、どうやったら気持ちが映画を見る前に戻れるのか真剣に悩んだくらいだ。
だけど、いつからか僕は現実世界から飛び立つ翼をなくしてしまった。どんなに面白い、よく出来た映画を見ても、映画館の椅子にしっかりと座っている事実を一瞬たりとも忘れることがない。感動はもちろんする、ワクワクもハラハラもする、だけど心の底からはしていない。主人公が助からなくても、僕の生活になんら支障が出ないことを、知ってしまったからだ。
アナと雪の女王を見ても、小さな国と近所の山の数週間の話だな…と思ってしまったし、思い出のマーニーを見ても、遠くからそれを眺めているだけの自分がいた。
もう昔のように日常生活から気持ちを連れ去ってくれ、ワクワクハラハラすることを映画に求めることは不可能なのだろうか。色んな経験を積んでしまった僕には、新しい世界は開けないのだろうか。あの未知なる感覚を追い求めて未だに映画館には足繁く通っているが、映画が終わり照明がつけばすぐ現実世界にすぐ馴染み、社会で働くマシーンへと変化する。そんな自分が悲しい。
演劇や舞台はまだ見に行ったことがないから、見に行ってみようかな。どうしても非日常を味わいたいのである。疲れてるのかな。
★追記
たくさんのブコメありがとうございました。ものすごくためになるコメントばかりですごくありがたかったです。本当に勉強になりました。お盆の間中、姉の子供たちにおじさんおじさん呼ばれていたので若いといってもらえてうれしかったです。笑 今度はこの子たちやいつか訪れてほしいわが子にをいっぱいいろんな体験させてあげよう。
先月末にアナと雪の女王を見に行ったら本気で辛くて吐きそうになった。理由について二週間ほど色々と考えてやっと何とか形になったから吐き出してみる。内容自体にはあまり言及しないので見てない人には分かりづらいかもしれないけど、もうDVDやBDも販売されてるから気になる人は買って見てください。
姉のエルサには雪?氷?冷気?ともかくそういうものを操る魔法の力があるが、ある日不幸にもその力で妹のアナを傷つけてしまう。怪我自体は平癒するが、アナの中の魔法の記憶は操作によって改変され、エルサは魔法の力を抑えて行使しない事を要求される。しかしエルサの力は強大になる一方で、手袋で何とか抑えこむしかない状況だった。
幼少期こじらせコミュ障としてこの辺りでもうだいぶつらい。この場面でのポイントは2つ、「幼少期の失敗」と「自己否定の強制」にある。幼少期に大きな失敗をして常にその失敗に絡む自己否定を強制され、また両親もその失敗に対するフォローが出来ないどころか自発的自己否定を遠回しに要求する。父親の「力を抑えるんだ」と、エルサが「手を触れたら怪我させてしまう」と言った際に怯えながら手を引っ込めた母親の姿で開幕わずか数分でもうトラウマで吐き気が止まらなかった。
時間は流れ、成長する過程でも力は制御出来ないほど強力になって行った。しかしある時、国王である両親は船旅の途中で帰らぬ人となってしまい、王位継承者は姉のエルサとなってしまう。そして事故から三年、ついにエルサは女王として戴冠式の日を迎える。
ここもだいぶ辛い。ここでのポイントも2つ、「状況に新しい手は打たれなかった」「状況は悪化の一途を辿った」という点だ。例えば両親の船出前のシーン、アナは屈託なく両親に抱きついてるのに対してエルサは膝を折って距離をおいているあたり、この他者からの救済のない状況は幼少期から改善される事無く続いたと思われるし、ただ力を使わない、抑えこむだけじゃなくて適切にコントロール出来る様にするといった改善は無くただひたすら門と窓の閉ざされた城の中で時間だけが過ぎていってしまった。一方で力はひたすらに強く、制御できなくなる一方。
そんな状況でも女王として戴冠式をを執行する必要があるため、13年閉ざしていた城門を開いて戴冠式を執行する。何とかつつがなく終えたと思ったら、妹がパープリンな事を言い出したがために力が暴発してしまい、エルサは遁走する。
ここのポイントは1つだけ、「時が流れると、自分の状況はお構いなしに周囲は様々な物を要求される」という点だ。エルサはどうしても自分の力を抑えることが出来ない状況になっている。しかし、その中で出来うる限りの工夫をして戴冠式というイベントをつつがなく進める為に繊細な注意を払って式次第を進めていっていたが、自分の力のせいで取り返しがつかない失敗をしてしまう。これは、コミュ障的には「幼い頃から抑圧していた心理的な要因が原因で、大きな場所で取り返しのつかない失敗をしてしまった」という風にしか読み取れない。
今回一番つらい気分になったのがここ。Let it go自体は映画を見る前からYouTubeの公式チャンネルで英語版日本語版の両方を聴いてた位には気に入っていた歌だったんだけど、実際に劇場で見た後は本当に見るのが辛い曲になった。日本語版の歌詞だと「ありのままの自分になるの」と言ってるけど、その後の映画の展開を見る限り全くありのままでもなければ変わっても居ないし、自分を好きになれても居ない。はっきり言ってしまうと、これは力の暴発でインターネット上の文脈での「無敵の人」になってしまったエルサが、やけっぱちになっている以上の意味はない。そもそもlet it goと言ってしまっているのだから、自分で力を抑圧してまで守ろうとしていたありとあらゆるものに対しての強力な離別のメッセージだ。これが「無敵の人」化でなくて何だろうか。
それじゃあどういう風に結末がつくのかと言うと、色々あったけど姉妹の真実の愛が凝り固まった氷を溶かした、という結末になる。実際そういうオチなのでそれ以上言う事がない。
とまぁここまで映画の流れを見た時に、翻って自分の事を考えた時にどうなるのか、と言う風に考えると非常に暗澹たる気分になる。幼少期に色々とこじらせたまま改善をする機会なく歳だけを重ね、しかし現実は非常にも多くのものを要求する。幸い今は大きなミスをしたことはないけど、ふとした機会に自分のこじらせてる何かのせいでとんでもない大失敗をやらかしてしまって「無敵の人」になるとも限らない。しかしその一方で「無敵の人」になってしまった後にその状況から救い出してくれる真実の愛は全く存在しない。
はぁ。もうどうしたらいいのかすら分からなくなってきた。
http://anond.hatelabo.jp/20140108194144
監督がどうだとか、演出がこうだとか、主演俳優の演技がどうだったとか、そんな話はいったん脇に置いて。
「燃えよドラゴン」をリアルタイムで見た年配の方々が、口々に話すのは、必ずしもブルース・リーの格好よさではないはずです。
彼らが楽しそうに話すのは、肩をいからせながら劇場を後にする観客の姿であり、少ない小遣いを握りしめてヌンチャクを買いに走った幼い自分自身の姿。
「単純に面白かった」映画の上半期ベストとは別モノとお考えください。
第5位 ゼロ・グラビティ(2回目)
第4位 ウルフ・オブ・ウォールストリート
第3位 アクト・オブ・キリング
第2位 ロッキー・ホラー・ショー
委員長(女)と鑑賞。学生時代はいつもツンと澄ました表情を崩さず、どこか近寄りがたい雰囲気だった同級生(当時クラス委員長)(美人)(三つ編み)と、同窓会で再会 → ホラー映画話で盛り上がる という夢のようなシチュエーションを経て、ホラー映画友達に。2013年中は、これまで一人で観に行っていたホラー映画を、委員長(仕事中だけ眼鏡をかける)と一緒に観に行くという、もし学生時代の私ならその場で卒倒してしまいそうな、夢のような時間を過ごしました。つまんなかったな、死霊のはらわた。面白かったな、キャビン。映画の終盤の大虐殺シーンときに目が合って、満面の笑顔だったことは一生の思い出。
しかし、楽しい時間はいつまでも続きません。2014年早々の飲み会の席で、「年末に彼氏ができた」「彼氏が嫌がるかもしれないので、一緒に映画を観に行くのは控えたい」という旨を委員長より告げられます。悲しいけれど、仕方ない。
「じゃあ最後に、普通に面白い映画を観に行こう」と誘って観に行った映画が『ゼロ・グラビティ』。私は2回目の鑑賞でしたが、面白い映画は何回見ても面白い。さみしいけれど、さようなら委員長。
奥さん(スイーツ)と鑑賞。彼氏彼女のころは昔は一緒にホラーやスプラッターも観てくれたのに、今では「王様のブランチで紹介される映画しか観たくない」と言い張るようになった奥さん。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も、事前に予告編や前評判を観て「これは『グッドフェローズ』の方のスコセッシやな・・・?」と判断し「奥さんと観に行く映画リスト」からは早々にはずしていたのですが、「王様のブランチで紹介されていて、とてもおもしろそうだった」という奥さんの強い希望で一緒に観に行くことに。今回ばかりはありがとう、王様のブランチ。
鑑賞後「もしかして、やっちゃったかな?」と不安に思いながら、恐る恐るに感想を聞くと、意外なほどの高評価。今でも、奥さんの中での評価は「『アナと雪の女王』より『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。『LET IT GO』より『マコノヒーのチェストソング』」とのこと。「んーんー、んーんー」って歌いながら夕食の準備をする奥さんかわいい。
「もしかしたら今後は、付き合いはじめた頃みたいにアメコミ映画も一緒に観にいってくれるかも?」と淡い希望を抱き、後日ためしに『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』を自宅で一緒に観たところ、途中でいびきをかいて眠りはじめました。
高校友人(男×2)と鑑賞。それぞれ個別に食事に行ったり遊んだりすることはあっても、3人そろって会うのは久しぶりだったため、妙に緊張したことを覚えています。少し早く劇場についたので、上映前に学生時代の思い出話に花を咲かせたのち、並んで写真を撮りました。学生時代からはつらつとしていた友人は、今でも若々しく。おっさんじみていた友人は、よりおっさんに。
携帯で撮った写真を見ながら『変わらないものなんか/何ひとつないけど/変わるスピードが/違ったんだなあ』というクロマニヨンズの歌が頭をよぎります。
映画を観た後は、完全に圧倒されてしまい、会話もそこそこに、つけ麺を食べて解散。ベトナム・マレーシアで仕事をしている友人の「現地の人を見る目が、少し変わるかもしれん」という一言が印象的でした。
初見。「『ロッキー・ホラー・ショー』はコスプレをして騒ぎながら、観客が一体となって観るもの」と事前に見聞きしていたので、「昨年の『パシフィック・リム』のように、映画館が一体となって鑑賞したような気分が味わえるかもしれない」と思い、ガチガチにコスプレをして会場に赴いたところ、持ち込みでコスプレをして映画館に来るような頭のおかしい一般客はおれだけだったため、上映中、かつて経験したことのないような孤独にさいなまれました。
好事家たちの間で熱狂的支持を集めるVシネマシリーズの劇場版。委員長(女)と鑑賞。「委員長ともう一緒に観に行くことはない」と言った舌の根が乾かないうちに、ダメモトで誘ってみたところ、まさかのOKが出ました。「どうしても観たいから、彼氏は説得した」とのこと。さすが、Jホラーファン。ほん呪シリーズコンプリートは伊達じゃありません。覚悟が違います。
劇場につくと、そこはホラー映画Tシャツを着た男性客率が非常に高い異空間。twitterアイコンをプリントしたTシャツを着ている剛の者まであらわれるという異様な雰囲気の中、映画が始まると、予想外の展開の連続に、劇場は揺れるような歓声と爆笑に包まれました。終盤の想像を絶する超展開に、委員長が思わず「どうなってるの、これ」と笑いながらつぶやいていたのが印象的。上映中、こっそり横顔を覗き見すると、委員長は本当に楽しそうに笑っていました。今度は振り向いてはくれなかったし、目が合うこともなかった。
上映後、食事をしながら近況について尋ねると「付き合ってから最初に観に行った映画は『永遠の0』」とのこと。彼氏の一番好きな映画は『アルマゲドン』。委員長の一番好きな映画は『エクソシスト』。それでも委員長は彼氏にべたぼれ。がんばれ、負けるな委員長。
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今年も残り5か月。誰と映画を観に行こう??
アナと雪の女王はエルサは“Let it go”の歌で悪役から変わったのだという話があったけれど、もし悪役のままだったらというのを考えてみた。
エルサ:悪役
アナ:変わらず
ハンス:ヒーロー
クリストフ:ちょい役
戴冠式までの話は変わらず、アナとハンスは婚約をするがエルサが暴走して逃亡、アナが後を追う。
残されたハンスは氷に閉ざされた国で、国民が困らぬよう国を運営。王宮の食料を配ったり、薪を配給するなど細かいところにも気を配る。
国中を凍らせたエルサは勿論、国民をほったらかしのアナの人気が下がり、ハンスの人気は急上昇。
馬だけが戻ってきてハンスが捜索に行くのも変わらず。兵士はエルサを殺そうとするが、ハンスによって救われ城に連れ戻される。
国民のためにも氷だらけの国をもとにもどすようにハンスはエルサを説得するが、エルサにもどうすることもできない。
氷の魔法にかかったアナはハンスに事情を話してキスを求める。アナを愛しているハンスは勿論キスするが、魔法は解けない。
アナを救うためにハンスはエルサのもとに向かうが、彼女は逃げ出していた。エルサを追うハンスは港で彼女を見つける。
ハンスはアナの命が危ないことをエルサに告げ、一刻も早く氷の魔法を止めるように説得する。
魔法の力に苦しんできた自分に比べ、苦労を知らずに育ってきた妹、国をひとりで背負うことになった自分を手助けしようともせず婚約を決めた妹、そんな妹など凍りついてしまえばいい。
心まで氷になったかのような冷酷なエルサを前に、ハンスは剣を抜く。この国の皆を救うため、愛する人を助けるためなのだ。剣を振りかぶるハンス。
そこにアナが止めに入るのは変わらず。姉を思うアナの心にうたれて剣をしまうハンス。
自分を助けようとしたアナによって我に返るエルサ。しかし彼女の体はすっかり氷に変わってしまう。
慟哭したエルサは自らを凍りつかせ、砕けて粉々になる。
エルサの死によって、国を覆っていた氷は消えてゆく。
ハンスの見守る中、アナの体も元に戻り息を吹き返す。
めでたし、めでたし。
※追記
今日は彼のお母さんを呼んで、一日早いけど母の日ということで二人で手料理を振る舞い、プレゼントを渡しました。
そんで寝る前にはてな見たらえらくブクマがついていて戦慄しました。
おかげで前に進めそうです。
わたし
30代女
見た目は年相応
駅弁卒
彼
30代男
見た目はなかなかのイケメン
専門卒
昨年から何度か
「彼氏と同棲しようとしている/同棲を始めたのだけど、なんかちょいちょいうまくいかない」
という内容を増田に書いている。
彼とは結婚に向けて少しずつ話を進めている。
互いに両親にも紹介済。
毎週金曜日は彼は職場のメンバーと飲み会なので、わたしも今夜は一人で近所のスシローで寿司を食べつつ晩酌をしている。
マリッジブルーというやつなんだろうけど、同棲を始めてから彼にみるみる冷めている自分がいる。
冷めている、と言っても、いびきがうるさいのも、おならが超くさいのも、バスタオルを惜しげもなくじゃんじゃん使うのも、そういうのは別にいい。全然いい。
こないだは、映画を一緒に見ていて、話の流れで「士農工商」ということばを彼が知らなかったということがわかった。
思わず
「わたしもべつに歴史とかそんなめちゃくちゃ詳しいわけじゃないけど、これはたぶん常識だから…」
と言ってしまったが、それが嫌だったようで彼は一人でしばらくイライラしていた。
たぶん同棲前までは、常に気を張って懸命に言葉を探しながらわたしと接してくれていたのだろうと思う。
ただまあ、知識がないというだけなら、まだいい。
それだけなら、なんとかなる。
彼はどうやら、そもそも頭が悪い。
「語彙が少ない」「論理的思考力に乏しい」のだ。
こんなに頭が悪い、というか、ものを知らない人だとは思わなかった。
「レツゴー、レツゴー」
って歌うから、ふざけてるのかと思って明るく笑いながら
「もう違うよ、レリゴーだよ」
って言うと
「え!レッツゴーじゃないんだ」
と照れくさそうに言う。
本当にレッツゴーだと思っていたらしい。
いやまあ、ディズニーに興味がないのは知ってるし、興味がないから適当にしか入ってこないのもよくわかる。
んだけど、さすがにそれぐらいは把握しとこうよ。
毎朝、ZIP!であんだけゴリ押ししてるじゃない。(うちは、平日朝は必ずZIP!と決まっている)
「Let it go」の「Let」の意味や用法までは知らずとも、彼もタイトル自体は何十回と目にしているし、ビートルズの「Let it be」がどういう歌なのかをなんとなくでも知ってて、そこに日本語版の「ありのままに」というフレーズも合わせて聞くなら、まあ原題のニュアンスは普通はわかるもんだと思う。
たぶん彼は、「Let」の用法は間違いなく知らない。それは仕方ない。
でも「Let it be」も知らない。聞いたことはあるだろうけれど、たぶん意味は知らない。
覚える必要があったわけではない。
今日までの日常で幾度となく見聞きする中で、自然と記憶に残っている。
ビートルズとか士農工商とかいうのは、そういうものじゃないかと思う。
思うに、情報に対する感度が違いすぎるのだ。
見聞きする機会は彼にもあったはずだ。
それを受け止めるアンテナがなく、記憶に留めるだけの容量もない。
知らないことを責めてはいけない、と思う。
わかんない人に寄ってきてほしくないので注記しますが、ビートルズだの士農工商だのレリゴーは、あくまで例示ですからね。
そのレベルのことを正確に知らないって、ホワイトカラーの社会人の知識量としてはどうなの、って意味です。
あと、はてなーはこういう話をするとバカのひとつ覚えみたいに「別れれば?」と言うが、すぐにそれを言う人は、別れずになんとかしたいからこそここにこういうことを書き連ねているのだということが理解できない人だと思うので以降話を聞かないようにしている。
『アナと雪の女王』を、「これまでのディズニー映画の範囲を一切出ない、毒にも薬にもならない映画」とかdisってた伊集院光が、同じ番組内で褒めてたものだから、『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』を観てきた。
まあ、クソほども面白くなかった。
そもそも、「親父力、全開!」っていうキャッチコピーをはじめ、宣伝の段階で無理だった。
何で今、親父なの?
散々「日本の親父は実はすごい」みたいなキャンペーンしてきて、まだ背中を押して貰い足りないの?って感じで。
内容も内容。
『アナと雪の女王』と比べて何でこんな下品で、男の子にしかウケないギャグばかりなんだろうと情けなくなった。
伊集院は「日本でしかウケない」っていってたけど、それは日本の男性にしかウケないってことのはず。
それがどれだけ情けないというか後進的というか……「日本の男ってこういうの好きそう」って言うフレーズを冷静に見つめてみたらわかる。
悪口じゃん。
小説とか漫画とか書いて「あー日本の男の子ってこういうの好きそうだよね」って言われたら泣くって。
あと、何か気持ち悪かったかって、まあ、一緒に見に行った父や兄がやっぱり泣いてたこと。
というか、根本的に差がある。
『アナと雪の女王』のあのきれいな雪景色と、尻突き出して倒れたロボとーちゃんにポンプ挿して油補給してる様子。
こうやって並べるともう、何で同じ時期に上映したのかってレベルにさえ見える。
海外の子供は『アナと雪の女王』を見て、日本の子供は『ロボとーちゃん』を見て育つ。
そりゃこれだけ残念な国になるよ。
程度が低い。
太田光の言うとおり「日本がすっかりおかしくなっちゃった」現状があるとしたら、それはみんなで歌う上映会の出現ではもちろんなくて、『アナと雪の女王』が公開されてる横で、一週間とはいえ『ロボとーちゃん』なんかがランキング一位をとってしまう状態が今になっても続いていることだと思う。