はてなキーワード: 21世紀とは
死霊術師としてのすべては、今は亡き祖母から伝習した。大学では文学部に進学した。これはもともと歴史学に興味があったことと、死霊術師としていつか遭遇するかも知ない事態に備えるためだった。
大学3年生の終わりころ、死霊術師としていよいよその事態を迎えることになった。
ある日テレビを見ていると、旅番組のようなものがやっていて、滋賀県の西部の山林地帯をいつも見る芸能人が歩いていた。何の変哲もない番組だった。しかし、テレビを介しても充分過ぎるほどに、死者が放つ霊の波動が伝わってきた。もちろん、普段生活していてもその種の死者の波動を感じることはある。霊波は一般に、腐ったり火葬したりして身体が失われると弱まる。またたとえ身体があっても、時間経過によっても霊の波動は弱まる。人間やその他の生き物は、その場にとどまろうという意志を長くはもちえないのだ。恨みだとか、一般に強そうと言われる意志ですらそうだ。こういうのは仏教的に言うと成仏していくってことなんだろう。魂は残らない。めったには。
テレビで知った、滋賀県の霊波は別次元と言えるほど古く、そして強力だった。おそらく、亡骸がある程度そのままの、古い死体があるのだろう。そして、強靭な意志を21世紀でも保っている。
死体と強い意志。これが重要だ。死者蘇生の用件を満たしている。そしてかなり古い。
腕試しにはちょうどいい。見つけてしまったらもう止められない。死霊術の行使者として、その興味関心を止めることはできない。
祖母から習った作法で、霊波の質から霊が生きた(死んだ?)時代のおおよその年代を感じとった。520年+-30年前くらい? 手元の『日本史辞典』を紐解く。室町後期? 手が震える。研究室で『国史大辞典』にかぶりついた。
その頃の近江は一般に長享・延徳の乱と呼ばれる動乱期にあった。守護の六角氏討伐のために将軍足利義尚が長く近江に陣を設けていた。どうやら死体はこの時期のものらしい。
私は大学の研究室の院生の先輩に聴いてその時期の文献を学んだ。また隣りの言語学研究室と国文学研究室に行って、室町時代の言語やその発音について質問した。かなり難しい。筆談の方がいいかもしれない、と祖母のアドバイスを実感をもって思い出した。まさか室町期の死体に会えるなんて。せいぜい行って天保期くらいだと思っていた。古い死体なんてものは時代を遡るにつれて加速度的に少なくなる。祖母は明治4年に死んだ男の死体を蘇生したことがあると言う。これでもだいぶん古い方だ。室町期の死体なんて、祖母からもきいたことがない。後で聞けば、先輩方は私が卒論で室町時代後期を扱うから一生懸命調べていると勘違いしていたそうだ。
春休みに近江に旅した。大きなスーツケースを持って。蓬莱なんてお誂えむけの地名だ。山の方に入っていく。山は静かだった。ほどなくして現場に到着した。霊波は強い耳鳴りのような形で私の身体に具現する。こんな古くて強い霊波、他の死霊術師が気付かなかったのはちょっと不思議だ。まぁ波長が合う、合わない、はかなり厳密だから。私にもってこいのチャンスなのだ。私は女ながらオリエンテーリング部で体を鍛えていたから山歩きは結構得意なのだ。オリエンテーリングなんて全然興味が無かったんだけど、新人歓迎コンパで迎えてくれた先輩方の雰囲気がすごく良かった。サークルでは、大学生なりだけど、人との付き合い方、間の取り方を学べたと思う。高校生の時にはあまり意識できなかった、人間(じんかん)の距離感や発話。
山道から沢に下りる。死体が残った理由が、何となくわかった。日本では死体はすぐ腐って亡くなってしまう。しかし沢下にはぽっかりと、知られざる洞窟が顔をのぞかせていた。多分ここに死体がある。相違ないだろう。もしかしたら近年はずっと埋まっていて、最近になって地震などで再び穴が地表に現れたのかもしれない。だから今まで波動に誰も気づかなかったのかも? 洞窟は沢が近く低温が保たれ死体が保存されたのかも。あるいは永久凍土なんかがあって風穴で涼しいのかも。ま、これを考えても詮無い。とにかく、死体があるのは明らかなのだから。
ひんやりした洞窟に足を踏み入れる。かなり急だ。いよいよだ。震えるほどだ。周囲には驚かれるけれど、死霊術の技術は、実は私にとってはとても簡単なものだ。血も継いでいるし、祖母と言う佳き師もあったから。祖母もいっていたことだが、基本的に死霊術師は技術的な部分はそんなに問題にならない。むしろ重要なのは、死者と会い、契約する時の対話の仕方だ。死者が生きた時代の言語や常識を、こちらが把握してしっかり対話せねばならない。そうしないと蘇生に応じないこともあるだろうし、蘇生したい旨すら伝えられないこともあるだろう。死霊を怒らせてしまっては、あるいは成仏させてしまっては元も子もない。死霊術師の実力はここで決まる。このことを上手くやるために、私は大学では文学部へ行ったのだ。もし死霊術師に生まれなかったら、稲の光合成の研究をしに理学部か農学部へ行きたかった。
洞窟の奥にややひらけた場所があり、その壁によりかかるように木製の箱型の人工物が見える。…ああ、かなり古い牛車だ。小八葉の牛車? 公家が移動手段として用いていたもの。八葉の大きさ、小さい? 大きい? これで身分が大体分かるのだが…肝腎の大きさが、大きいのか小さいのかわからない。そんなの文献に載ってない。牛車なんて初めて見るんだ。そもそも近江に牛車。やや不可解? 足利義尚の近江出陣の際には公家も近江まで出向いたというから牛車できてたのか? それにしたって牛車で近江まで行くの? なにもかも自信が無くなってくる。
これではだめだ。祖母の言によれば、まずはその人をそのまま、そのままに感じるのだ。先入主観は退けるのだ。牛車の文様が大八葉だろうが小八葉だろうが、なかに居る主こそを見るべきなのだ。
精神を澄ませる。霊とは頭の中で会話する。結局、『太平記』のテキストをメインに準備を進めていた。『太平記』は南北朝時代を描いた軍記物で、室町後期には往来物として身分を問わず人々に広まっていた。死体の教養がいかほどであっても『太平記』の語調なら大丈夫ではないか、と考えた。とうぜんテキスト変わっているんだろうけど…。
「私はあなたよりも後世を生きる人間で、その間に人間が語る言葉も変わってしまった。この言葉があなたにどの程度通じるか私にはわからないが、どうか話を聞いてほしい」。ここまでテンプレ。国文学研究室の富田先輩ありがとう。
…牛車がガタガタと動く。御簾が超自然的な動きを示し、内の暗闇をあらわにする。お化けが怖い人はびっくりするんだろうけどもちろん私はそんなことはない。打掛の裾が見える。小袖が二重? そして茶色く干からびた手のひらが…暗くてよく見えない…が、死者に話しかけた段階で幽界との淡いが生起し、この世ならざる強烈なイメージが五感以外から五感を経由し認知される。死体は髪の長い公家の女性が見える。平安時代のオカメで十二単のイメージがあるけど、それより軽装だ。でも相当めかしこんでいる。この時代の人間は小さいしガリガリだな。さぁ、いよいよだ。頑張って蘇生の素体になってくれるよう語りかけよう。
「…私の寂滅からどれくらいの時間が経過しましたか?」むむ、なんとかこれくらいなら聴き取れる。うほっ、「太平記読み」専攻の坂田先輩ありがとう! 高校の非常勤やりながら大変でしょうけど博論頑張ってください。
「五百有余年でございます。『太平記』を読んであなたの時代の言葉を学びました」「…私も『源氏物語』で古の言葉の遣いに触れました。」「実は、…今日はあなたにお話しがあって武蔵国から参ったのです」いよいよ本題だ。
「あなたは強い心をお持ちで五百有余年をお過ごしになられました。そして幸いにしてお体も崩れず残されております。私はあなたの精神と身体とを結び付かせ、再び現し世に復することができます。再び洞窟の外に出て暮らしてみるのはいかがでしょうか」
「たしかに私はまだ黄泉の食物を口にしておりませんね」さすが公家の娘だけある。当意即妙にこたえねば。「私なら黄泉比良坂をあなたを連れて戻ることができます。」「どうして私を選ぶのです」「あなたのように長らく意識と身体とを保つ例はめったにないことなのです。」実はこれはあまり理由になっていない。死霊術師の衝動を説明するには、私には言葉が足りない。彼女が尋ねる。
「当時(筆者注:ここでは現在の事を指す)は死者を供養する作法は未だ仏式を用いますか?」意外な質問だ。自らの供養を望んでいるのか? 「ええ、大分形はかわっておりますが仏の教えは今でも通用しております」「ならば既に死んだ者を私なりのやり方で供養して、意味があるということですね」…あやうく意味を取り損ねるところだった。ちょっと不可解な質問だ。彼女は何を考えているのか。彼女の事を深く知った今になって考えると、これは彼女なりにかなり考え抜かれた、ある種の哲学のようなものだった。彼女の培った供養の作法。そのルールがもし現代で途絶えていたら。つまり仏教が現代に伝わらなくて、もし私たちが何か違う祈りの作法で死者を弔っていたら。きっと彼女は蘇生に応じなかっただろう。彼女の知っているルールで現代でも供養ができる。これが彼女にとって重要だったのだ。
「私は京都の六角富小路に邸宅がある公家(筆者注:ここでは「こうけ」って読んでね!)に生まれました。大乱(筆者注:ここでは応仁の乱を指す)の後の騒擾の世でありますから、私は近江を根拠にする武家の御仁に嫁ぐことになりました。いよいよ渡嫁のとき、牛車が谷に落ちて私は命を落としたのです。嫁ぐことが決まってから、武家奉公人の生活が如何様であるか、主人が如何なる稟性を持つのか。和歌は読めるのか古典は存じているのか。いつも想像していました。」死霊術師の常識から考えれば、それだけでここまで精神は保てない。私はほとんど確信をもって尋ねた。「もちろんそれだけで想いを保つことはできなかったでしょう。どうして。」
彼女はここで初めて表情を私に感じさせた。「実は洛中で一度彼の人をお見かけ申上げたことがあるのです。私の生家は上って四位の家柄ですから、ふらふらと外にでてもあまり咎められることは有りませんでした。ある日京師が物騒になり武家の人が20騎ばかり邸宅の前を過ぎりました。颯爽と武者を連れていたのが、後々判ったことですが我が主人となる方でありました」え? それだけ。うーん恋愛感情ってわからないけど、そんな単純な感情で何百年も持つのかな? 単純だからこそ長持ちする? わからんね。すると彼女が続ける。
「死んだあとはずっと新しい生活の事を考えていました。武家の生活。今まで見知った知識や噂話全てから、ひとつひとつ、未だ来ぬ時の先をずっと、ひとつひとつ限りなく。一日の起きてから寝るまで。衣服の糸先から世情に至るまで。とにかくひとつひとつ。世に現れるであろう現象をすべて想像しうる限り、ひとつひとつ。彼や周囲の人間との交わされたであろう会話をひとつひとつ。彼の人とのありうべき時と出来ごとの全てをひとつひとつ想像していたのです。そうしたら、ええと、五百有余年過ぎ去っていたというわけです。」そうして彼女は莞爾した。私は一発でこの女性を好ましいと思ってしまった。こんな偏執的で叮嚀な思考回路を持った人があるだろうか。この人なら。彼女に21世紀の平成の世の中で夫となるはずだった人の菩提を弔わせたり、あるいは彼の一族についてその後どうなったか調べさせたりすることは、彼女の心性をおそらく負に傾けることはないだろう。ひとつひとつ、彼女には想像したことの自分なりの答え合わせをしてもらえたら。私がそのお手伝いができたら。ちょっと身勝手か。とにかく、この人なら大丈夫だ。
好奇心とイマジネーションとを併せ持って、平成の世まで意識を有した五条顕子姫の死体は、その意識と共に、こうして私の赤羽のマンションにやってきた。
物理学者の知り合いは1人しか知らないけど、アインシュタインほど掘り下げて考えている物理学者は少ないと思っている。
相対性理論ではなく量子論の話だが、コペンハーゲン解釈というものがあって、超ざっくり言ってしまうと哲学的な議論には踏み込まないスタンス。
量子論に限らず反証可能性の低い問いについては踏み込まないというのが一般的な物理学者の態度と見ている。
時間の問題に置き換えた場合、過去、現在、未来という概念に意味があるかどうかを問わなくても物理学を営む上で支障はないのでそんなことを考えるのに時間を割くのはやめようという感じ。趣味として考えている物理学者はいるだろうけど、そういう人でも学問的スタンスとは切り離しているのが普通じゃないかな。
キリスト教が根付いている地域だと事情が違うんじゃないの?と思われそうだが、話を聞く限りでは大差はなさそう。
それはそれとして、是非とも以下の書籍を読んでもらいたい。もしこれを面白いと思えるなら、相対性理論と量子論を勉強する価値はあると思う(文系向けの書籍もたくさん出ているので)。
普通に新製品や新システムを紹介すればいいのに、寸劇みたいなのばかり。
携帯電話のCMはこんな感じです、こんな感じにやるのが正しいのです、という奇妙な風潮すら構築している。
その内容も気取ってばかりで真に情報を伝えようとしているとはとうてい思えない。作り手の自己満足に近い出来栄えだと思う。
多分、保険会社や自動車のCMと比べると顕著だ。携帯電話のCMは謎の小芝居ばかりに終始し商品やサービスが何たるか伝わりにくい。
どうしてこうなったのだろうか? 内容、ちょっとダサいと思うのだが。
多分60年後の人とかがみたら、21世紀初頭の人々はなんてセンスのない人々だろうと思われるだろう。つーか15年くらい後にすら言われそうだ。
お前、何しにきてんの?
「先生に教えて頂きながら~~~」
「いい友達ができるように~~~」
「どんな授業にチャレンジできるんですか?」
とか。
ふぬけた事を言ってるヤツがいる。
教えてもらっただけで勉強した気になってる。
授業は発生してるし、
1時間教えてもらったとしたら、
仲良くもないのに"同学年"ってだけで最初からタメ語で話してたり、
仲良くもないのに「みんなでカラオケしよう」なんて誘い合ったり。
そんなことをしてる暇があったら、
本当に話したいヤツとだけ、
1対1でゆっくり語る場を設けた方がいい。
単に大勢で騒いで盛り上がっても、
僕は群れる事の無意味さを知っているし、
孤独と対峙する強さを持つ事の方が不安を払拭できると考えています。
職場では年齢問わず初対面の人にタメ語を使う事は一切ありません。
よく「松村くんは同じ年齢の人にも、いつも敬語だから壁作っちゃうよね」と言われますが、
学校の一員として、
学生気分のヤツを見てると、
新入学生でよくいるのが、
「どんな授業にチャレンジできるんですか?」
とか言うヤツ。
授業なんて全部自分で見つけてこいよ。
ここは学校じゃねぇんだよ。
どんどん結果出してこいよ。
学校は優しい先輩が非常に多いので、
発言しないと思いは伝わらないし、
宣言しないと夢を共有する事は出来ません。
あした授業に出たいです。
この生ぬるい空気をぶち壊したいです。
ぎりぎり嘘にならないようセンセーショナルに書いたネタニュースに釣られてるぞ。
「62人が世界の資産の半分を持ってる」なら確かにリセットものだが、実際は
下位50%の人ってのは途上国住人でドル換算ではほぼ資産ゼロのレベルだからこういう計算が成り立つ。
実際には「世界の資産の半分」を握るには「上位62人」ではなく「上位7000万人」が必要なはず。
先進国の中で貧富の差が拡大してるだけであって、全世界ベースではどんどん貧困率が
減ってるのを忘れてはいけない。
いや、盛り下がってるのかな?
でね、私思うんですよ。
相変わらず日本の芸能界は「創作性」よりも「人間関係」を重視するんだなーって。
もう21世紀なのに相変わらずヤクザっぽい商売なんだなーって。
どう思うよ。正直嫌じゃない?
だってさ、芸能って本来はとってもクリエイティブで芸術性や娯楽性に溢れたものなのに、そこが重視されないのってどうなのよ。「御家騒動」とか「圧力」とかイマドキ流行らないよねー
でもさ、だからといってジャニーズの不買運動を起こすとかそういうことをしても誰も幸せにならないと思うの。
じゃあどうすればいいかって?
忘れなければ良いんじゃないかな。日本人はすぐ忘れちゃうからさー覚えとくって重要だと思うの。
「昔、SMAPで解散騒動があって、なんとも言えない会見があったよね」ってちゃんとみんな覚えておこうよ。
そして、もし今度こんなことが他のグループであった時は、ファンの声をすぐ届けて後押しをしてあげようよ。
そんなことをジャニオタの友人を眺めながら思いました。
おしまい。
http://www.asahi.com/articles/ASHDG6DSLHDGUEHF01W.html
こちらの記事を見た。
個人的に図書館は好きだし、自分の人生でも(特にネット以前は)だいぶ貸出を使ったものだし、ネット以後も自習場所としてたまに使っている。
この発想自体は広義でのゲーミフィケーションで、読書のインセンティブを高める面白い取り組みであるとはおもうが…。
使いまくっておいて言うのも何だが、立ち返ってみると図書館がこの21世紀で、「目に見える形」で社会資本投資として成果を残せるのだろうか疑問に思う事もある。
もちろん「社会資本は長い積み重ねとして…」「人の成長を…」「教育、読書は国力だ…」みたいな意見は大量に出てくるだろうし、自分もそう思いたいもの。
が、はっきりいって相当な持ち出しであるのも事実で、日本のように斜陽の国でどこまで、屁理屈つけて維持できるものなのか、自分の世代はまだいいとして、次以降は気になる所。
もう少し広げると、最近の日本(ここ15年ぐらいかな)から出てくるニュースは、ほとんどがこういった施設の合理化のような話題が多く、新しい物は富んだ一部の地域(東京だの、京都だのなんだの)からしか聞こえてこないのもなんか寂しい限り。
自分は地方出身なのだけど、小さいころ使っていた公立の遊泳型のプール、ビデオをたくさん見れた図書館が閉館だの、寂しいねぇ。
展示物にもよりますが、絵画といえど完全な二次元ではなく、厚みと質量を伴った造形物なので、その質感を観察するには実物を見るしかないと思います。
写真になった時点で、色も絵具の厚みも光の反射も情報量が減ってしまいます。
対象物の立体としての凄みを写真という二次元に変換するのが難しいから、21世紀の今もプロの写真家、というのが存在しています。逆にいうと、プロですら再現が難しいくらい、物質そのものがもつ情報量というのは多種多様で膨大です。
なので、そうした質感や物質としての強さを手掛かりに、展示物の文脈を読み解いていくことが、美術を鑑賞するいちばんの醍醐味なのではないでしょうか。
よくさ、オタクが犯罪を起こした時にはお決まりのように、「現実と妄想の区別がつかなくなった」みたいにTVで言われるじゃん。
だけど一方で、新幹線とかが停まる駅でフランス書院文庫とか他にオヤジ週刊誌買ってるサラリーマンはどうよ?
あぁいうメディアが性犯罪の実行に影響力を与えてるってんなら、駅売りの売店は犯罪幇助で捕まるだろ。
でも現実は、そこまでにはなってない。
もちろん、エロゲやエロ漫画でも、21世紀以降ではニッチな性的趣味を掘り起こしたテーマのレーベルは多いし、
それに触発されたというか、自分でも気づいていなかった内なる性癖に「目覚めた」人は居るだろうとは思う。
だけど「欲望や性欲の発散の際に、他人・第三者に迷惑が掛かるのはいけない事」なのは、家庭でも学校でも教わる話だし
その上でもし仮に「エロ本に影響されて・・・」とか逮捕時に供述したなら、そんなものは単なる責任転嫁だろう。
エロ本読んで・エロゲーやってて、なおかつ日常生活をちゃんと送っている人が、世間では大多数なのだ。
実際にやってもないのに、エロゲーマーらを性犯罪者呼ばわりするのはやめていただきたい。
なお多くの小児猥褻や性的犯罪では、主犯の大半は実父・義父・ないしは教師が大半というデータがあったはずだ。
要は、普段から子供と密に接していて、何らかの形で強権を振るう事ができる存在というだけの事で、子供への性犯罪はつまり
虐待の一種でもある事の性質を、みごとに表していると言えよう。
ただ、いわゆるノーマルなエロに対しては、そういう本や画像が家族らに見つかっても「お前も仕方ねーな」程度の扱われ方で済む。
問題なのは(自分は違うが)リョナだとか人体改造、他にはケモや人外・ふたなり・女体化など、実現がまず不可能なタイプの
趣向のエロがバレた時だ。
ひどい時は「そういうのが好きなやつだから、お前は結婚できないんだ!」まで決めつけられ、罵倒される例も想像に難くない。
当時は『空想科学小説』と呼ばれたSFの愛好者が、今で言うテロリストや世界征服目的結社のメンバーのように扱われたらしいが
人間ってやつは『自分の理解を越えた趣味』に接すると、拒絶反応で追いだそうという心理に達するのは仕方ないのかもな。
そういう自分はいわゆる「裸ブーツ」とかがお気に入りで、うるし原智志辺りの作品に出会った際は、元からゲームのキャラデザでは
韓国世論の声なんてものは日本のマスコミにはイマイチつかみ所が無いので、いつも韓国のマスコミが書いた事をそのまま引用して国内に流す事が多い。
でも元慰安婦に対して韓国国内で巻き起こりつつあるバッシングについてはさすがに韓国メディアは報じる勇気が無いと思うのでいつまでもこっちに入ってこないだろうなあと筆を取った次第。
ここ8年ぐらい韓国において最大のタブーとされてきたのが慰安婦叩き。
一時期は「21世紀、世界をリードする韓国の三本矢」などとネットユーザーが称してた頃も(あと二つはサムスンとキムヨナ)。
しかし岸田外相電撃訪韓合意でその潮目がついに変わりつつある。
慰安婦うざくね?何様だ?ってな感じになりつつある。
韓国人はみんな日本が嫌いだって思ってるかもしれんけど、実際のところはいい加減日本と揉め続けるのは疲れた・飽きた・うんざりって感じの人が多い。もちろんそんな事は口に出せないので世論調査等では仮に匿名だとしても日本嫌い、死ねと答えざるをえないんだが、ネットでは本音を洗いざらいぶちまけてる。ネットの掲示板は驚くほど日本叩きが減ってきているんですよ。特にここ1年。反日反日って騒いでも何の利も得られないって一般国民が気づいちゃった。
そのタイミングでこの慰安婦合意。さっさと一文の特にもならない問題は片付けて次に行きましょうっていう流れに確実になってる。
元慰安婦が共同生活を送る施設を訪れた韓国外務省のイム・ソンナム第1次官。日韓で決着した合意内容について了解を得ようとしますが・・・
「会談より前に被害者に会うべきでしょう。年寄りで分からないと思って無視するの?」(元慰安婦)
イム次官が、半ば強引に元慰安婦の手をとって座らせますが、怒りは収まりません。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20151229-00000038-jnn-int
これ、今向こうではボロクソに叩かれてます。凄いです。
日本でもこういう人がいたら2ch中心に半端なく叩かれると思うけど韓国でもついに元慰安婦へのバッシングが始まったかと感慨深いものがあります。
さすがに2chでも天皇家に対してはそれなりに控えるところあるじゃないですか。やっぱ恐れ多いし象徴だし。韓国ではここのところは元慰安婦がそういう象徴に近かったんだけどついにそれが崩れつつある。
日韓新時代は近いと思うね。
まだまだ短期的にはゴチャゴチャなるだろうけど5年後にはガラッと関係変わってるよ。
安倍さんは偉い。
やりたいことではなくて、できることをやっていったほうがよさそうという話がある。
今、任期付きの研究者として任期切れを目前にしている。次を探しているが、結果は全く芳しくない。もちろん実力のたまものであり、邪推するよりずっと公平な世界が広がっているのだろうという感覚がある。
何かの役に立つということを目標に、幸運にも今の立場を得た。全く役に立っていないということはないと信じているが、非常に役に立っていて欠かせない人間だというわけではもちろんない。そのことは就職活動がはっきりと示している。
最近、私が主体になって行ったある論文の内容についての質問をメールでうけた。それに回答し、論文の内容はまだまだ予備的なレベルだけど、と付け加えて送信ボタンを押した。実際内容は、客観的に見ればそれが何か別の知見に結びつくかは大いに疑わしいと考える人が大半だろう。もちろん、私自身はほんの少しは意味があることだし、場合によっては役に立つかもしれないと信じているわけだけど。
私の返事に対する短い返信はすぐ届いた。Quick response への礼に、私が論文で提案した方法が何らかの情報を与えそうだとのコメントが続いた。
役に立つとはどういうことか、ということをずっと考えている。Wikipedia では21世紀の課題として、今盛り上がっている地球温暖化、エネルギーなどが挙げられている。私のテーマも、恐らく質問者のテーマもそういった解くべき課題と直接は関係しない。何をもって役に立つとするかは、非常に難しいし、いずれも何の影響も与えない可能性が高いだろう。
ほどほどに役に立てるかもしれないが先細りでいすが無くなるかもしれない道と、客観的に見て勝算は薄いがもう少し役に立つということを具体的に想像できる道、どこに行くべきか迷っている。
ぶっちゃけ、ほんの最近まで同性愛者を犯罪者扱いしていた国々でどでかい反動が起きてるだけなんじゃね、と。
イギリスとか90年代まで男性同士のセックスが犯罪だった地域が残ってたし、アメリカなんて21世紀になっても違法の地域がゴロゴロあった。
フランスも同性愛は売春と同等の社会悪と見なされていて、公共の場での異性装(男が女装したり、女が男装したり)は80年代まで違法だった。ドイツも90年代まで「男同士」は犯罪だった。
そういう過去の過ちを正すために揺り戻しが来ているだけだよな。
そもそも日本はかれこれ明治時代からずーっと同性愛は合法のままだったわけでさ。
しかも当時の白人様ときたら「同性愛者を野放しにする土人ジャップランドwww」みたいな価値観で日本をバカにしまくってたわけ。
[書評] ハーバード大学は「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育(菅野恵理子)http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/
音楽がなぜ重要かというと、頭と肉体とどちらも使うから、だから音楽は大事なんだと。
頭というのは、音楽に関する理論や知識。肉体というのは、楽器の演奏あるいは声楽。
頭で勉強したものは、演奏として応用されないと意味がないし、肉体を通じて出される音・演奏は頭で勉強したものがないといけない。
どちらもいる。
頭だけでもダメだ、肉体だけでもダメだ、そのどちらも使うのが「生きる」ということだ。それを教えてくれる、一番わかりやすい形をしているのが、音楽だ。
だから、音楽をただ「聞く」だけでは足りない。享受するだけでは足りない。楽器を立派に演奏しろとは思わないけれども、せめてあなたが今聞いている音楽に対する積極的な姿勢が必要だ。そうすれば、その音楽がもっと面白くなるだろうし、楽しくなるだろう。
音楽は、自分の外にあるものではない。iPhone に入っているデータをイヤホンを通じて聞いているなにものかは音楽ではない。音楽は自分の中にあるものだ。自分の中にあるものを聞くこと、それが音楽だ。
頭と肉体、どちらも働かせて音楽に接することは、そのことを教えてくれる。