はてなキーワード: 権威とは
ああ、やっぱり分からない感じなのか。
twitterで、英単語とツイートした適当な奴にいいねを送っていたが、打率が悪いんで今回も分かりにくいんだろうと思っていた。
日本言語学会にもこういう脅迫めいたメールを送って、4日ほど経った。今回も返事は帰ってこないだろう。twitterでは半年ほどは動いているはずだから、放置してメールが来たら良いなぐらいのスタンスでいこうと思う。
このようなサイトを作り、宣伝して周っていますが、あなた方が「日本言語学会」などという普遍的な名称を掲げ、権威として振舞っているおかげで、こちらはそれに認められてないというだけでデマとして扱われ迷惑しています。
あなた方は論文の審査と言いますが、そもそも自然言語の分析というのは既に知っているものについて明確化する作業なのであって、本来的に演繹的でなく帰納的なものであるはずです。
あなた方が何をもって論文を審査するのか理論的に分かりませんし、そのようなもののために無職である私が7000円も支払うわけにはいかないのです。
最初に書いたように、意識しないにしても、あなた方は間接的に私の活動の障害になっています。
今回に限らず、あなた方はその名称をもって一般的に、権威と認められ、障害として存在しています。
であるから、あなた方は社会的にこの質問に答える義務があります。
返答を待っています。』
追記:ああ、あんた、本当にありがとな。
アメリカ合衆国退役軍人省で使われている「パフォーマンス・ベース・インタビュー(PBI)」の質問サンプルが、面接に挑む(採用側なら挑まれる)時に役立ちそうなので、「クリエイティブシンキング」「カスタマーサービス」「柔軟性と適応性」タイプに絞って質問を訳してメモ。
参照記事によるとこれらの質問は、基本的に「問題」「行動」「結果」で構成されているので、その人間の実際の能力をある程度推し量ることができるそう。タイプ別にポジションによって質問レベルが異なる。面倒くさいのでほぼgoogle自動翻訳のままで列挙。
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「チェンジエージェント」とは、もともと組織開発の領域で使われ始めた用語で、組織における変革の仕掛け人、あるいは触媒役として変化を起こしていく人のことを言います。変革の当事者として、自らそれを指揮すべき立場にある経営者や組織のトップとは一線を画し、むしろその代理人(エージェント)として、変化への対応を余儀なくされる組織のメンバーとの間を仲介し、信頼関係を醸成して、改革を支援・促進する役割を担うのがチェンジエージェントの立ち位置です。
元ページ:
参照記事:
スタートアップの採用に役立つ「パフォーマンス・ベース・インタビュー」の質問の一部翻訳 – Taka Umada – Medium
若者はたいして変わっていない
しかし若者にとって野党は権威的な保守主義者の集まりだと見做されてしまっている
実際、野党の支持者は年寄りばかりだし、その主張は古臭いものばかりだから当然だな
それに志位の独裁が続くアカ政党にペコペコしてる連中が「民主主義を守れ」なんて叫んでんのは、日本政治の知識があまりない若者からしたら完全にギャグだろ
http://b.hatena.ne.jp/entry/beinspiredglobal.com/Interview-UCD
政治的な歌詞を混ぜ込んだり、テーマにして曲を作るとかは是非じゃんじゃんバリバリやってもらいたいところ。
でも問題点は恋愛をテーマにした曲を歌ったフェスやコンサートでいきなり政治的なMCだのイベントを行うこと。
恋愛をテーマにした曲で釣って、政治的な話をしたいだけなんじゃないの?
恋愛映画の中でいきなり原発反対を訴えるメインキャラクターが出てきて
2時間の内30分くらいそいつがべらべら喋りまくってるくらい違和感がある。
いや、もしくは恋愛映画の上映後に監督がスクリーン上に出てきていきなり政治的思想をぶちまける位の感覚か?
こういうコンテンツの作り方って最も稚拙で情けない物の作り方じゃない?
宮崎駿が自然とか差別とかあの辺のテーマを物語に織り込みつつエンタメとして仕上げるのにどれだけ考えてると思ってるんだ。
作るんなら、原発によって起きた危機で恋愛を意識しあう歌詞みたいな(ただの素人なので陳腐かもしれないがこの方がましだぞまじで)ちゃんとコンテンツに混ぜ込まないと駄目なんじゃないの?
もちろん一部にはあるだろうけどそんなの殆ど一部しかないじゃん。
「オタク文化はカウンターカルチャーだからそれだけで漫画・アニメは反権威的なのだ」とかそんな雑なこと今時言うか?
日本の音楽界隈はただ存在しているだけで反権力なのだみたいな時代遅れの考え方はやめるべきなんじゃないのか。
フジロックなんかもそういう商業的音楽から発せられるメッセージと出演者達の政治的メッセージのあからさまなチグハグさに客が混乱してるからあんなことになってると思うんだけど。
科学的に扱えるよ。ただ、検証が非常に困難なだけで。で、困難だが検証できるし、やってみて失敗だったら、それをひとつの結果として次にフィードバックするべき。
そもそも、経済って、金の動きであり、その中には政府がどういうところに金を使ったか、経済行動にどういう制約を加えているかが多大に影響する。
まあ、選挙制度ぐらいは司法が面倒見ろ。事務的+理論的にそっちがやれとしたほうがいい気がしてくるねぇ。
でも、じゃあ、うまくいかなかったらだれが責任を取るんだって話になるが、、、、。
立ち戻って、「科学的検証に耐えられる経済学」対してどう対応するかには、、、なんだろうなぁ。経済学会から10名ぐらい参議院に推挙とかしたほうがいいのかもなと思う。
書いた者です
私も現代の諸問題が複雑になっていて、且つ右左のような立場では割り切れなくなっていると思い、このようなことを書きました。
思いっきり整理して、経験主義に基づくか基づかないか、それのみを分類に採用しようと思います。
なせならば、教会の権威知を否定し、知識を疑いながら信じ、その手法を自ら所有するという科学的思考と営みは、経験主義に基づくものであり
敵味方ではなく、個物と普遍に眼差しを向けるのは、このような思考だからです。理屈っぽく言うと。なお、私は聖書所有主義のようなプロテスタント宗教もこちらに含めます。
庶民への啓蒙は机上の空論、などと言わず、科学的思考、というか敵味方で善悪判断してしまう傾向論と、個物つまり個人をちゃんと区別すること、などといった根本的なことを疎かにしてはいけないのではないか、と思います。
最近、何かにつけ、友人たちと話していても、「今の世の中はつまらない」「テレビを見てもネットを見ても音楽を聴いても、もちろん政治や経済にしても、全く何をやっても、面白い話題、面白いコンテンツが何処にもない」という話が増えた。
誰と話をしても、驚くほどそんな声ばかりが聞こえてくる。
しかしそれにしても、じゃあどうしてこんなに今の世の中は、何もかもがつまらなくなったのか、何故みんなそう思うのか、みんな一様に「つまらない、面白くない」と言うが、それは単に我々が年を食って老害化してきたせいではないのか、そもそも本当に今の世の中はつまらないものばかりなのか、じゃあ逆に昔はそこまで面白いものばかりだったのか・・・。
そんなことを考えているうちに、ふと考えついた。
何故そんなことになったのかと理由を考えてみるに、それは、
「『弱い者が強いものを、あの手この手でやり込める』という空気がすっかり廃れてしまったせいではないか」
ということに、ふと考えが至ったのだ。
「反骨精神」と言えば少し大げさかも知れない。
「口先では立派な正論を言い、権威を振りかざして弱い者に押し付けながら、裏では卑劣なことや不正、悪いことを平然と行う、そんな偉くて強い者を、弱い者が反抗してやっつけようじゃないか」
という空気や風潮が、それなりにあったような気がする。
決して昔でもそのような風潮が強かったわけではない(むしろ圧倒的少数派だったと思う)けど、いつの頃からか、それがどんどん少なくなっていった。
そして今は何処を見渡しても、
「強い者が弱い者に、権威と力を振りかざしてもっともらしい正論を上から目線で押しつける」
「強い者は正しい。偉い者は何をやってもいい。弱い者は悪い。何をやっても許してもらえない。悔しかったら強くなれ」
「強い者が弱者面をして、『弱者こそが権威を振りかざし押しつけている悪い奴らなのです!』と主張する」
「弱い者は強い者には逆らえない。弱い者は団結できない。何をやっても無駄。あきらめるしかない。という諦念ばかりをひたすら説く」
「強い者は何をやっても勝つ。弱い者は何をやっても勝てない」
という風潮ばかりが強くなっていった。
ネットもそう、テレビもそう、スポーツもそう、他のいろいろな文化もそう、そして政治や経済の世界もそうなってしまった。
「強い者が弱い者に、あの手この手でやり込められる」という光景を、フィクションの中も含めて、自分はもう何年も長いこと見ていないような気がする。
なるほど、これでは世の中が面白くなるはずもない。
んー、別に「学がない=知識がない」というのはいいんだよ。民主主義社会で、「素人の素朴な疑問」を否定していたら、その結果はトランプとか河村たかしとかのポピュリストだし。そういう意味では、あの記事は全体としてよい方向を向いていると思う。
私がわざわさ引用したのは、その部分が「素人の素朴な疑問」に見えなかったから。「ヨッピーの信念」に見えた。まったくの素人だったら、「権威を欲しがるのは無能な証拠」とか言わないよ。
権威や知名度がある人が大手媒体で無知ゆえの放言をかましたらネットで一家言ある人からボコボコに叩かれるなんてのは分野やジャンルを問わず日常茶飯事なわけで。今回もそんな感じじゃねえのと思ってる。
逆に言えばネットには政治に関して一家言持ってる人が大勢いるということ。少数だったら大して話題にもならない。
野球と宗教と政治の話はするななんてのは昭和の時代から言われてることだけどネットで匿名で発信できる現代はかなり政治について語られてる時代じゃないかなと思う。だから「普通の人達」の手から離れてきてるって感覚が全然分からない。むしろ「普通の人達」の声がこれだけ可視化された時代は初だろうと思うし、各政党が「普通の人達」の声にこれだけ敏感になってるのも初じゃないかなと思う。
それは衆愚政治と紙一重なのではって話は面倒なので横に置いとくとして。
いまじゃ信じられないほど、そのころは朝日新聞って権威があったの。
で、朝日新聞よむと、そりゃもう自民党政府ってのは国民をいじめるひどいもんだみたいなことがしょっちゅう書いてあるの。
俺が新聞を多少なりとも理解して読み始めたころは、中曽根って人が総理大臣してたけど、中曽根って人は意見がころころ変わる風見鶏で、実は大事な大事な、日本の平和を守っている日本国憲法を改憲従ってる人で、あのにっくき金権政治の権化・田中角栄の派閥に頭を下げて総理大臣になった人で、初期のころは「田中曽根内閣」なんていわれてた。
そういえば、中曽根は、アメリカを助けるために日本を太平洋の「不沈空母」にするとか言って、たいそう新聞にたたかれてたこともあったな。
そうそう、最近の若い人の中には「田中角栄はロッキード事件で失脚した」とか思っている人がいるけど、それはちょっと違うみたいだよ。
田中角栄は、確かに「金権問題」で総理大臣やめたけど、それはロッキードとは別の話。
しかも、もともと、オイルショック後の経済政策がうまくいかなくて、支持率がどんどん下がってて、自民党の中にも田中を引きずり下ろしたい人がたくさんいた。
そこを、「金権疑惑」をネタに「文春砲」で狙われて引きずり起こされただけ、というのが真相らしい。
そのあとでロッキード事件が明るみにでて、田中角栄は逮捕されるんだけど、それでも国会議員を続けて、中曽根が総理の時も自民党で最大の派閥の親分だった。
田中逮捕とか、起訴とか、初公判とかのたびに、新聞もテレビも大騒ぎして、「田中角栄に象徴される自民党の金権政治を止めなければ日本の未来はない!」とか「田中派による支配を止めなければならない」って言ってたけど、それでも自民党政権は続いてたし、田中角栄が選挙に落ちることなんてなかったし、田中派ってのは自民党ですごい力を持っていた。
結局、派閥の部下に裏切られて、ウイスキーの飲み過ぎて脳梗塞で倒れるんだけど、それでも角栄は選挙に負けなかった。
中曽根の後に総理になったのがDAIGOのじーちゃん、竹下登。
この人は「言語明瞭・意味不明瞭」とかいわれてて、結局なにがいいたいのかよくわからんおっさんだたけど、なんだかんだで日本で初めて消費税導入に成功しちゃった。
朝日新聞なんて、そりゃもう消費税に大反対だったし、「何を買っても税金とられる」なんて、なんてひどいんだとみんないってたけど。
そういえば、当時100円だった自動販売機の缶ジュースが、110円になったのは本当に理不尽と思ったもんだ。
当時の消費税は3%だったから、ジュースは103円でいいはずなのに、機械で一円玉が使えないって理由で、110円に値上げされたの。
「便乗値上げ」って言葉を覚えた。
さすがに消費税はその後の選挙に影響して、参議院選挙で当時の社会党(今の社民党)が圧勝して、当時委員長だった土井たか子っておばちゃんがフィーチャーされた。
この人は「憲法を守りましょう!」が錦の御旗みたいな人で、「山が動いた」なんていってたいそう朝日新聞に持ち上げられてたけど、結局、その後社会党がそれ以上力を持つこともなく、社民党と名前はかわり、そのころの勢いなんて見る影もない。
新聞はこんなに「自民党はひどいひどい」って言ってるのに、選挙すると結局、自民党の政府しかできない。
なんでだろ?
大人も先生も、新聞をちゃんと読むのはいいことだっていうけれど、言ってる自分たちは新聞読んでないのかな?
権威を欲しがるのは無能な証拠でもあるし、「権威は腐敗する」っていうのは世の常なわけで、それならその根幹にある「権威」をそもそもなくした方が良いんじゃないの?ってのが僕の言いたいところであります。いや本当に。権威、権力って腐敗するんだからさあ。
論理が通ってないように思う。ぶくまで書くには長い。
先日、立憲民主党が選挙公約を発表した。私は立憲民主党の結党に心を揺さぶられた者の1人として、選挙公約の発表を心待ちにしていたのだが、実際に選挙公約(ここで見れる → http://cdp-japan.jp/teaser/pdf/pamphlet.pdf)を目にして、ある1点についてかなり失望した。立憲民主党が議員定数の削減を主張していたからである。
ここ数年、議員定数を削減すべきであるという声が様々なところから噴出している。例えば今回の衆院選では、現時点で立憲民主党の他、日本維新の会、希望の党が議員定数の削減を明確に選挙公約として打ち出している(なお、自民党・公明党・社民党・自由党・共産党・日本のこころについては、選挙公約を確認したが議員定数削減の文字は確認できなかった)。議員定数削減を主張する政党が出てきている背景には、言うまでもないが、他の政策を実現させるための財源を提示しなければならないという考えがあるだろう。何かと問題を起こし、国民からヘイトを集めがちな議員への報酬をカットすることは多くの国民をスカっとさせるので、議員定数の削減は財源を確保できて支持も獲得できる、まさに一石二鳥の政策になるわけである。だからこそ、ポピュリスト政党の道具に利用されることが多い。
しかしながら、議員定数の削減には非常に大きなデメリットがある。結論を先取りすれば、(1)議員1人当たりの有権者数がより増大する、(2)議員の政策への習熟度が低下する可能性が高くなる、(3)野党がより淘汰される可能性が生じる、の3点が問題点として浮上する。順に簡単に解説しよう。
1つ目の点については、議員定数が議論される際に必ず問われる問題である。そもそも、他の先進民主主義国と比較しても、日本の議員の数は決して多くはない。単純に日本の人口1億2800万人を今回の選挙で争われる定数465で割ると、国民27万5200人につき国会議員が1人という計算になる。多国におけるこの議員1人当たりの人口を例に挙げていけば、イギリスでは4万4000人、ドイツでは11万8000人、フランスでは6万8000人、オーストラリアでは9万8000人、アメリカでは57万8000人(アメリカは例外か)である。ちなみにロシアは23万2000人、韓国は16万2000人である。国際比較すれば、日本の議員の数がそこまで多いわけではないことがわかるだろう。単純に考えれば、議員1人当たりの国民の数が多ければ多いほど、議員(立法府)と国民の間の距離は遠くなる。ますます政治的無関心が増大するのではないだろうか。
2つ目の点についてはあまり触れられることがないものの、極めて重要な問題である。内閣提出法案がほとんどである我が国においてしばしば忘れられがちではあるが、議員の所属する国会は唯一の立法機関である。そして議員は、様々な委員会に所属し、その場で政策に関する議論を行う。とりわけ自民党が長期にわたって与党の座にある日本では、野党議員はこの委員会において行政のチェックを行うことになる。活発な議論や厳格なチェックのためには、与野党の委員がそれぞれ政策にある程度精通している必要があるのは言うまでもない。しかし、議院定数が大きく削減されると、1人の議員が所属しなければならない委員会の数が多くなる。首相・閣僚・議長(41人)を除いた議員の数は424人。現在の常任・特別委員会の総定数は985なので、1人あたり2.32の委員会に所属することになる。仮に、日本維新の会が主張する定数3割カットが実現したとすれば定数はおよそ300になるが、その場合、首相・閣僚・議長を除いた259人が委員会を受け持つことになるので、1人当たり3.80の委員会に所属する計算になる。そうなれば議員は今よりさらに忙しくなる上に、政策への習熟度の低下は避けられないし、相対的に、政策過程における官僚の影響力が強まるのである。我々有権者は、議員は選挙でクビにできるが官僚はクビにできない。だからこそ、政治主導が求められたのではなかったか。
3つ目の点は、あくまで予想に過ぎない。議員定数を削減しようとした場合、1ケタ程度であれば、小手先の選挙区定数変更でどうにかなるだろう。しかし日本維新の会が主張するように、3割(127人)削減とまでいくと、選挙制度を抜本的に改革しなければならなくなる。そうすると、次の選挙制度はどうなるだろうか。仮に現在の並立制の比率を維持するとすれば、大体小選挙区200と比例代表100程度になるだろう。小選挙区制が大政党に有利で比例代表制が小政党に有利なことはよく知られている。しかし、比例代表制は選挙区の地理的規模が大きくなるほど、そして定数が小さくなるほど大政党に有利になることは以外と知られていない。あくまで予想だが、この選挙制度で戦えば、少数野党は現状以上に淘汰される可能性がある。さらに問題なのは、比例代表を廃して単純小選挙区制を採用するか、もしくは小選挙区制の比率を現在より高くすることである。そうすれば先程と同じく、小政党は淘汰されるであろう。現在の政治状況で、淘汰されるであろう政党がどの政党かを想像することは容易である。
ここまで述べてきたことは、全て民主主義の根幹に関わる問題である。1つ目の点は政治(立法府)と国民の距離がより離れることになりかねず、2つ目の点は官僚優位と更なる立法府の権威低下を促進しかねず、3つ目の点はマイノリティを代表する少数政党の立法府からの排除に繋がりかねない。ここで再び立憲民主党に戻ろう。立憲民主党の枝野代表は、演説において「右からでもなく左からでもなく、上からでもない草の根の政治」を目指すと述べた。のであれば、以上3つの問題点を招きかねない議員定数の削減などを選挙公約に掲げるべきではない。たかが(と言っては何だが)数十億円の財源確保のために、民主主義の根本を揺るがすような主張を行うことには、私は賛同できない。私は一刻も早く、立憲民主党が議員定数の削減を公約から削除し、その他の代替案を掲げることを望む。
こんなに月がきれいな晩にいうのも何だが、
何か物語があり、何かのカップリングがあると、すぐどいつもこいつも、
男「月がきれいですね」 女「死んでもいいわ」 ラブラブEND みたいな掌編マンガやドラマを書き始めるが、
あれはなんだ。
嫌いな理由①
「月がきれいですね」は漱石(が言ったことになってる)の気の利いたジョークであり、
その意味を汲めないやつが消費的に使っていること。
I Love Youをまんま和訳すると、当時の日本人には直接過ぎる。
だから「月がきれいですね」という当たり障りのない事を「そうですね」とやり取りすることで、
2人の気持ちは通じ合っていることを確認するから愛の告白なのだ。
「そうですね」とか「私もそう思います」だ。それで2人は見つめ合うーーーなら良い。いいじゃないか。
なのにさあ…なんなん…
嫌いな理由②
「月がきれいですね」と「死んでもいいわ」はまったくニュアンスが違うし、情の質も異なる。
なのにそれを無視して、無視して、ただ近代の文豪が言ったという権威に乗っかってキメラにして、
それでいてなお、ちょっと自分の作品を文学・詩的にしようとしてる姑息さが嫌いだ!
「死んでもいいわ」は二葉亭四迷がツルゲーネフの「片恋」を訳す際に用いた言葉だが、
(はい、もうこの時点で何人かは、「エッこれ漱石の言葉じゃないの!?」とか言ってるからな、ここで!)
ヒロインのアーシャが主人公に抱きしめられて返した言葉だ。唇が主人公の胸元に触れるか触れまいかの
アーシャは主人公に、片思いしてるわけ。そんな主人公に熱い抱擁をされて、
彼女はきっと、熱に浮かされたように頭に血が上り、緊張し、そして幸福の絶頂を味わったんだよ。
だ・か・ら・こ・そ、「死んでもいいわ…」なんて言うわけ。もう今の幸福を例えるなら、
死んでも惜しくないほど幸福だと。
分かる? 「死んでもいいわ」はなんなら、I Love Youやあなたを愛しています なんて生易しい沸点の言葉じゃないの。
これで「月がきれいですね」と「死んでもいいわ」の言葉の取り合わせがいいわけないよね?でしょ?
ほら。
ね、みんな嫌いになったでしょ?