はてなキーワード: 社会貢献とは
「生物は種の保存のために生きている。子どもを作るのが生物としてのあるべき姿である」言える
「子どもを産め」言えない
人権を制限したいと思っているならまた話が変わって来るが、人権を尊重すべきである以上個人の行動には口出しすべきでないのは当然。
「産むべき」という言い方は行動を制限されているように感じられる発言だから反発される。
そもそも現実に言論統制なんか存在しないんだから、まずは増田以外の場所でもどんどん声を大きくして言ってみたらどうだろう?支持者が現れるかもしれないし。
本当に日本の将来を懸念しているのであれば、子どもを産み育てるのが楽しいという世論を形成する一助となるほうが建設的なのではないかと思うので
産まないほうも産め産め言ってるほうもやる気ねーなと思います。
お金というものを得るのが仕事の目的だと多くの人が思っているうちは、あなたの国の本当の意味での進歩はないでしょう。
報酬ではありません。
あなたの今されている仕事が、本当に価値のあるものかどうかを判断するには、仮に、社会からお金というものがなくなり、その仕事によって報酬を得られないとしても、自分がその仕事をすべきだと思うかどうかです。
なぜこの本が「経営者に」刺さるのかは解る。
労働者が求めるのが「社会貢献」であって、「地位」や「金銭」などではない世界。
そりゃ、刺さる。
やりがい搾取し放題だ。
んで、続刊ではこうも書く。
私たちは、だいたい自分のやりたいこと、できそうなことはなんでもやってみようとします。
どんなことでも、それが誰かの役に立てば立派な仕事です。
普通に考えてそんなことはないよね。
みんながサッカー選手になりたくても、誰かが下水やゴミを管理し処理しなきゃならない。
こんな夢物語にもみたない稚拙なゲロカス妄想を絶賛するのは単純で。
お金をもらうことよりも、誰かのためになる、みたいなことに価値を見出して、搾取されてほしいからだ。
こういうのをツイートする輩は、半眼で見るくらいがちょうどいい。
【クルマは負債】クルマは買わない、持たない、運転しない、が最善で賢明。40年間で3396万円の"無駄"!自動車所有は資産を減らす"負債"を抱え家計に痛手を負わすばかりか、社会に事故と渋滞と公害と不健康を蔓延させる有害な愚行。自動車の車内で年間約1300人も死亡しており、交通刑務所懲役囚人のほぼ全員は自動車運転手な現実。ノルウェーの首都オスロは渋滞と公害と事故と不健康の元凶であり癌である個人所有自動車の公道走行違法化を決定済で、イギリスの首都ロンドンも自動車から通行課税を徴収して邪魔で迷惑な自動車を減らし、自転車を増やすべく自転車専用道ネットワーク整備を進めているほど。免許離れ、クルマ離れは社会貢献になる現実。
https://togetter.com/li/1145315
免許返納が正義な現代。若者の免許離れは若者が善良、賢明、立派になった証。重大事故予防根本的施策として免許返納が特効薬になる事実。クルマ離れ、免許離れは『渋滞』と『公害』と『重大事故』と『不健康(自動車依存者は運動量が少ない為最も健康寿命が短く、実際に短命。多額の医療費と苦痛を伴う癌や合併症罹患率も高い。)』を減らす劇的で善良な効果がある。その為、ニューヨーク、ロンドン、パリ、オスロ、アムステルダム等各国都市部において自動車に通行規制や課税強化を進めて元凶な自動車を減らし、自転車を増やす施策を進めている。
理性というのは、自分にとってももっとも都合のよい納得感のある理屈を考え出す道具でしかないので、
普通は、仕事したり友達とご飯食べたり、何か楽しいことをするととてつもない喜びを脳が感じて、
あぁ、俺はこのための生きているんだ、これこそが俺の生き甲斐だと実感するんだよ。
ボランティアみたいな目に見える社会貢献活動に対して感じる人もいれば、
地下アイドルを追っかけてる時に感じる人も居れば、深夜にこっそりアニメを観る時に感じる人も居る。
時として、犯罪行為にそれを感じる人も居るけれど、脳の活動としては正常なのね。
たぶん、あなたの脳は、脳に喜びを感じさせる報酬系が機能しなくなっていて、
それがいわゆる鬱の状態なんだけども、
その状態で、理性が必死になって考えても、人生には意味が無いという答えしか出ない。
すべきこともやりたいこともない、ここ最近は何事にも無関心で彼女と電話するくらいしか予定がない休日が続く。
こうなったのは多分仕事のせいで、そろそろ入社して1年が経つがどうにもこの仕事があっていないと感じている。
残業が多いわけでもない、休みが取れないわけでもない、給料もそこそこだけど、どうやら仕事があっていない。
そもそもこの会社に決めたにも「この仕事で社会貢献!自己実現!」ってわけでもなく安定してそうだったから、
1年経って結局この会社では生きる気力が見つからないと気づいたとき、クルートエージェントに登録をした。
例によって面談を行いヒアリングされたわけだけど、次の業界は?何がしたいの?の問いに答えられない。
あれ、、、俺は何になりたいんだっけ。
振り返れば就活時期からだったっけ。まわりが就活をし始めた流れに乗ってなんとなーく大学の就職課に通い始めESを練った。
大学はそれなりの規模で就活解禁からの3週間は大学に企業が来た。
就職課からの教えに従って様々な業界を見たけれどどれもパッとしない。
説明を聞き受ける業界を悩むだけで時間が過ぎていった3月末、焦った自分は社会的な存在意義説いていたある会社の説明に
就活は宗教だ、いかに自分の企業が素晴らしいかを説明し学生を募る、嘘ギリギリの謳い文句。
無知だった自分は適当に業界を決めたし、面接では準備していた原稿を元にペラペラ話したら大体受かった。
それほど倍率の高くない業界だったしね。
でもある面接のアイスブレイク的な質問で「なんでこの大学にしたの?」と聞かれた。あれ、、、なんでだっけ。
その時から僕の目標はMARCH合格になりその数カ月後に部活をやめ、同時期に部活をやめた友人と図書館に篭った。
ただでさえ高校に猛勉強して入った自分にとって勉強は得意ではなかったから量でカバーしようとした、
今思えば効率が悪すぎるけど。この時の目標は大学合格だけで、それ以外のことには目もくれなかったし、
辛い時は2chの受験スレなんか見たりして自分を奮い立たせて継続していた。
ただその時の熱量は本当の自己実現ではなかったんだ。当時の自分には大学に入ってあの先生のもとであの学問を学びたい、
親を失望させたくない、親の世間体を守らなきゃ、親が喜ぶ顔を見たい。
自分のためではなくて全部親のためだったんだ。遡ってもそう、
思い出すのは親に勧められて始めたことが多いし、
むしろ自分がやりたかったことを言うと否定され気づけば別のことをやらされていた。
サッカーだってそうだ、僕は野球がやりたかった。父親の影響で野球はよく見ていたし、
そう、僕は何も自分で考えていなかった。
進学まで親に従い、満足する顔を見るための頑張りだった。
大学合格で目標がなくなった、親のために入ることが目的だった大学では適当に授業とサークルとバイトで過ごした。
大学3年も冬に差し掛かると就活が始まった。あれ、、、、自分がしたいことってなんだっけ。
親のために入った大学、焦って適当に選んだ会社、そこに合わない自分。
今になってようやく自分の人生を歩んでいなかったことに気付かされる。
俺は何がしたいんだろう、何が好きなんだろう、何者なんだろう。
パーソナリティ障害とかメンヘラとか依存症とか、あと極端な右派左派とか、異性嫌悪とかって愛と安心がないからそういう方向に行っちゃうムキがあるわけで、投薬とかじゃなくて愛と安心をくれる機関ってないの?
デイケアとかデイサービス、NPG/NGOみたいなのが居場所を作りますとか言ってるのもあるけど、ああいうのってなんか大体、うすら気持ち悪い目の煌めき方してて、とても打ち解けて交流はできない。
趣味のサークルみたいなのは地方にはほぼないし、親に縛られてるから引っ越しは無理。
そしたらこのクソみてえな人格と健康が徐々に治ってまともな生活ができて職にもついて社会貢献できるようになるかもしんねえから。
世俗の人たちは聞こえるか聞こえないかの音量の声でお互いに悪口を言い合っているようです
その時私には怒りが生じますが、無我と言い聞かせることで忍耐、つまり冷静であろうとしています
大体同じことを世間様に申し上げるのです
「私を嫌う世間の皆様が幸せでありますように。私に悪口を言いたければ言ってください。ただし私はお付き合いいたしません。皆様が幸せでありますように」と
昨日駅のプラットフォームであまりに悪口を言われたので大声でこのことをお伝えしました
ありとあらゆる機会で悪口を言われるというのは
具体的にどういう事かと申し上げますと
数年ぶりに行った眼医者で処方された目薬を受け取るために薬局に立ち寄った際
そこでの薬剤師が笑顔で応対してくれながら「出たなこのボンクラめ」「これだけ言うのにまだ黙っているか」とおっしゃってました
数年前の私はおそらく無自覚にこの方を不愉快にしていたのでしょう
買い物に行くため原付を運転時、信号待ちで左端で待機した時、道路中央で先に待っていた中型バイクに並ぶ形になった際
青信号でバイクが発進時に「殺すぞ、クソ」とおっしゃっていました
後から来た私が並んだのがこの方は気に入らなかったのかもしれません
あとこれは女性の方、若い方に多いですが電車に乗り込むと「気持ち悪い」「消えろ」とおっしゃっていました
悪を為さず善行を積むという生き方は私には生意気だと世間の方は非難したいようです
我々は世間の厳しさの中(悪口を言い合い苦しめ苦しめられる世界)で必死に生きているのに
お前は大した社会貢献もせずに楽に生きようとしていると
ずるいというのが世間の方々の言わんとしていることのようです
何の不安や苦痛もなく出かけ行動できるのが当たり前だと思っていました
ですがそれは恵まれた子どもが甘受できる特権のようなもので実際は今体感しているのが現実の姿なのかもしれません
私はとても恵まれていたのでその特権が子どもを過ぎた年齢になっても与えられていた、言い方を変えれば甘やかされ、守られていたと考えられます
大人と呼べる年になっても制約なく、つまり悪口を言われることなく行動できる人間は、世間に染まり悪口を言い言われる輪に参加しているタイプか、悪口を言わせないだけの貢献をしているタイプか暴力を盾に自身を守っているタイプなんでしょう
1番目と3番目は耐えられません
そして2番目は私がそうあろうと精進したところで彼らは認めません
私の結末がどうなるかは分かりませんが、現実的に考えて現状のまま生きながらえるか私が世間に屈して悪口に身を落とすか、絶望して自殺するかのどれかなんだと思います
別に私は潔白だとか世間は醜いだとか間違っているとかそんなこと主張するつもりは全くないです
ただ欲を言うと気に入らないならさっさと殺してくれればいいのにと思います
結末の選択肢の中に現状のまま生きながらえるというものが入れれるようになったのは瞑想と仏教の教えのおかげです
以前の私なら悪口に対し恐怖しパニックになって震えて自室に籠もることしかできなかったでしょうから
仕事を一生懸命し、家事をきちんとし、他者の世話もそれなりにできるようになったのは慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想のおかげです
もとより難関の受験を突破して卒業までに規律のある生活をするということはだれかの指示にどれだけだまって従えるかの基準で
一流であれば難関であればそれだけ抑圧に耐えられるという靭性テストなので学歴で裁定する基準はある
ただそれが自立した社会的共生性と関係あるかは別問題で、むしろない方が理不尽な会社の欲求を外に漏らさずにすむのでよい
大卒で問題なのはつぶしがきく耐性の数値を大卒という基準で持っているにも拘らずすぐに根を上げて一般以下に落ちてもかまわないという人生大事という求められていない人材が混じることだ
要するに大卒というのは、上流になればなるほど奴隷制度に適しているということで企業や団体の保有する財産を背負って歩く蟻が何匹つくれるかというところにある
寄付をしたり分与したり社会貢献の度がすぎたりフェアトレードを本気でフェアにしたりする人間が混じってはいけない
ひたすら残業させ自殺しても本人がわるかったねと言えるエリート奴隷が必要だ
一般人がいう社会的倫理観や道徳観、社会性というものがそこに必要かといわれたらむしろ不必要ではある
人間らしい生活で努力が満足に報われる生活をしたければ地元の商店や雑居ビル群、高架下で自営をしている生活などのほうが適している
でかい金だけでできている巨大企業という生き物が上から下まで様々な奴隷をその金の使い道だけにしたがって生かす構造の
大企業と一流企業といったところへの就職に関する進学については、そういう相関とかはむしろ関係がないといっている人間にこそ目を光らせ排除していく必要がるだろう
業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。
文系でも同じですが。研究という営みの本質は文系も理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているから相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系は研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラルな上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系と文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用で理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)
もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線で研究をしていることが前提だ。
いや、レビューがオリジナルな研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナルな研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗の論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナルの研究成果だ。博士論文の書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル(典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチのオリジナルな研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナルな研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。
ひょっとして文系の研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)
だから、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人の研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女が政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者で彼女を学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女の雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田は最初「和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わず、レビューしか書いてないなんて研究者とはいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。
いずれにせよテレビの研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。
そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文は研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PDや東大講師、あるいはテレビの出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大の問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビの問題、言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者のリテラシーの問題でしょ。理系の学位や肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由で開放的な性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。
文系増田は日本の研究者の日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用でアピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率極まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中の学者が言語習得に苦労するだろう。
うんだから、文系の研究者が色んな外国語を勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語とドイツ語の研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代や中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語の地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。
これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語の地位を高めていくべきだ派と、日本のアカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本の文系研究者の多様性は、アメリカやイギリスほどじゃないにせよフランスやドイツやロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史や英文学からアフリカの人類学、オセアニアの少数言語、中央アジアの歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人やフランス人やドイツ人がそうできるように、自分たちの言語でそれらの分野の最先端の研究成果を手にすることができる。東アジアや中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語で博論を書いて自国で教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。
もちろん、日本研究を専門としていない欧米人に日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本の論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたものを翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究が日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。
こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文はアメリカ人が日本語を翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀のフランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語が頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別に昔からずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人が中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文で論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産の動物種の研究だと英語論文に和文論文が引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語が統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。
いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田の感覚はわかるんだよ。というかそれは文系の研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語で積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端の研究成果を自分たちの言語で読めて、どんな地域の研究だって自分たちの言語で遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語が日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマの研究はホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史を研究する上で西洋史で探究されてきた研究モデルや概念が意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国の政治についてなんの情報もなしに、自国の政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツールは必要なんじゃないか? ジャーナリストや政治家が欧州統合やアフリカ経済やアメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本のEU研究者やアフリカ研究者やアメリカ政治研究者がみんな英語で論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。
募金やボランティアをやる人が、もっと増えるといいのに、と思う。
日本人の社会貢献の意識が薄いのは、単純に「周りのみんながやっていないから」だろう。
人は、みんながやっていることは簡単にやるのに、みんながやらないことは簡単に出来ない。当たり前だけど。
これはやるべきか否かという選択を自分の手から離して、集団に任せてしまった方が基本的に楽だからだ。この判断は善悪とは全く関係がない。
例えば、「殺人を犯すべきではない」というのは、”一般的に人は人を殺さないから、自分も他人を殺さない”そんなマインドが実は根底にある。
逆に言えば、それが犯罪であっても、周りの人がみんなやっていれば、多くの人は流されてやるのだ。そんなことが膨らんで起きた凄惨な事件がたくさんあったことは言うまでもない。
個人の自我は人が想像するよりもずっと弱くて、その選択は多くの場で集団に左右される。だからこそ、社会的な空気が変われば、きっともっと皆が自然に募金やボランティアをして、遠い他人を支援するのが当たり前の世界にもなるのにな、と思う。
そういえばたまに、「偽善である」という理由だけでボランティアを全否定する人がいるけれど、「偽善であるからやらない」というのは理屈としてはおかしい。
感情として、”私は私のためだけに生きていきたいから、他人にお金や労力なんて割かないよ”というのであれば、「私には時間とお金がありません」で良いのだ。つまり、偽善であるからやめなさい、とはならない。
しかし実際はそうではなくて、おそらく偽善者嫌いの人たちは、「自分は格好をつけない正直ものである」と言いたいのだろう。だけど実際人って気づかないところでたくさん見栄を切っているのではないか。
それが人間なのだから、仮にボランティアという行為に格好をつけた部分があるとしても、いずれにしても放っておけばいい、のに。
そもそも募金やボランティアというのは、基本的には「弱者支援」だ。それは皆が受けてきたもの、受けるであろうものであることを忘れている人も多い。
どういうことか。
最初から大人だった人はいない。人間は誰しも最初は子どもからスタートする。
子どもは弱者の典型だ。誰かが衣食住を与えなければ、大人にはならない。子育てとは一般的に、親から子に無償で与えられる支援のことを指すのだ。
また運が良くおじいさんおばあさんまで生きられた人は、言わずもがな介護を受ける。これも多くの人が「弱者支援」の当事者になる可能性を持っている。
「介護が貨幣を介しているなら、支援ではなくサービスだろう」と、そんなことを言うのであれば、その人はインフラにも同じことを言えるのか、と思う。
お金で今の生活が全部手に入ると思ったら大間違いだ。お金で何でも手に入るようになったのは、今の生活基盤、経済システムが作り上げられたおかげだろう。
支援や贈与というのは、貨幣経済の前提にある概念であり、否定対立するものではない。
なんでも貨幣で解決する、というのは大きな間違いだろう。人はスマホがなくても生きられるけれど、水がなくては生きられないし。
そういう点で、「弱者支援」は根本的に私たちの生活を持続させる上で欠かせないものなのだ。
弱い人を切り捨てていく集団は、最後の独りになるまでそれを許せない。このあたり内田樹先生が確か良く言っていたな。
ちょっと大きな話になってきたけれど、今現在必要な支援をギリギリで支えている(支えられていないところもある)のが公的なセーフティネットであり、それを動かすための税金だ。
ところが大抵の人にとって納税は「メシの食い上げ」であり、節税はやれる分だけやる方が良いものだ。だから皆故郷でも無い自治体に納税をして、税金の無駄遣いという言葉に異常に反応をする。
実際に税金が遣われている大部分は、目に見えないもの、実感を持ちづらいものだ。その必要の是非は検討すべきことだけれど、そもそも税金の無駄遣いと、自分が納税をする、という問題は別である。
「無駄遣いされる税金なら払わない!」という発想はごく簡単に「自分だけ得したい」に変わり、「自分が使わないサービスはいらない」という発想になる。
具体的には、自分の納めた税によって自分のために何がなされたか、ではなく、社会のために何がなされたか、という視点で考えると、納税感も少し変わるのではないか。
話が転じてきたけれど、つまり納税も社会貢献である、ということを多くの人は忘れているのではないか。納税は、政府にただ取られる、無駄遣いされるお金ではなく、社会を持続可能性を少しでも上げるためのお金だと冷静にとらえ直すべきだろう。その点は、多く納税をしている人は誇りに思ったっていいはずだ。
ここまで何がいいたいか、というと、自分のために100中100の意識を持つのではなくて、1でもいいから弱者や社会のために意識を向ける、それが当たり前になればいいのにな、ということだ。
0と1の差は、私の感覚では1と100の差である99よりも大きい。なぜなら、1が100人いれば100になるからだ。
人は1人では生きられないんだな、という気持ちがあると、生きていくのも少しずつ楽になっていくだろうに。
さぁ帰りにコンビニでお釣りを募金するか、街頭でおっさんからビッグイシューを買うか、次の連休をどうするか、知らん人のために何が出来るか考えるか、
棒