世俗の人たちは聞こえるか聞こえないかの音量の声でお互いに悪口を言い合っているようです
その時私には怒りが生じますが、無我と言い聞かせることで忍耐、つまり冷静であろうとしています
大体同じことを世間様に申し上げるのです
「私を嫌う世間の皆様が幸せでありますように。私に悪口を言いたければ言ってください。ただし私はお付き合いいたしません。皆様が幸せでありますように」と
昨日駅のプラットフォームであまりに悪口を言われたので大声でこのことをお伝えしました
ありとあらゆる機会で悪口を言われるというのは
具体的にどういう事かと申し上げますと
数年ぶりに行った眼医者で処方された目薬を受け取るために薬局に立ち寄った際
そこでの薬剤師が笑顔で応対してくれながら「出たなこのボンクラめ」「これだけ言うのにまだ黙っているか」とおっしゃってました
数年前の私はおそらく無自覚にこの方を不愉快にしていたのでしょう
買い物に行くため原付を運転時、信号待ちで左端で待機した時、道路中央で先に待っていた中型バイクに並ぶ形になった際
青信号でバイクが発進時に「殺すぞ、クソ」とおっしゃっていました
後から来た私が並んだのがこの方は気に入らなかったのかもしれません
あとこれは女性の方、若い方に多いですが電車に乗り込むと「気持ち悪い」「消えろ」とおっしゃっていました
悪を為さず善行を積むという生き方は私には生意気だと世間の方は非難したいようです
我々は世間の厳しさの中(悪口を言い合い苦しめ苦しめられる世界)で必死に生きているのに
お前は大した社会貢献もせずに楽に生きようとしていると
ずるいというのが世間の方々の言わんとしていることのようです
何の不安や苦痛もなく出かけ行動できるのが当たり前だと思っていました
ですがそれは恵まれた子どもが甘受できる特権のようなもので実際は今体感しているのが現実の姿なのかもしれません
私はとても恵まれていたのでその特権が子どもを過ぎた年齢になっても与えられていた、言い方を変えれば甘やかされ、守られていたと考えられます
大人と呼べる年になっても制約なく、つまり悪口を言われることなく行動できる人間は、世間に染まり悪口を言い言われる輪に参加しているタイプか、悪口を言わせないだけの貢献をしているタイプか暴力を盾に自身を守っているタイプなんでしょう
1番目と3番目は耐えられません
そして2番目は私がそうあろうと精進したところで彼らは認めません
私の結末がどうなるかは分かりませんが、現実的に考えて現状のまま生きながらえるか私が世間に屈して悪口に身を落とすか、絶望して自殺するかのどれかなんだと思います
別に私は潔白だとか世間は醜いだとか間違っているとかそんなこと主張するつもりは全くないです
ただ欲を言うと気に入らないならさっさと殺してくれればいいのにと思います
結末の選択肢の中に現状のまま生きながらえるというものが入れれるようになったのは瞑想と仏教の教えのおかげです
以前の私なら悪口に対し恐怖しパニックになって震えて自室に籠もることしかできなかったでしょうから
仕事を一生懸命し、家事をきちんとし、他者の世話もそれなりにできるようになったのは慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想のおかげです