はてなキーワード: 必然とは
26歳一人暮らし。
三人とも元気そうで良かった。
母は家計の足しにパートをして、妹は専門学校へ通っているが、学費はすべて自分でバイトをして稼いでいるとのことだった。
俺もなんとか就職することができ、今年で2年目。
今のところ、幸せだ。
同時に、この幸せがいつまで続くのだろう、この幸せが壊れる時はどんなときだろう、その時両親妹はどんな気持ちだろう?、そう考えると心が痛い。
両親は「孫の顔が見たいなあ」と冗談めかして言っていたが、「彼女いない歴=年齢」の自分が果たして結婚できるだろうか?
このまま孫の顔を見せることなく、両親を死なせてしまうのではないか?
父の嘱託は、年金が出るまでは続けたいが、半年ごとの契約のため、4月/10月が来るたびに、今回は更新されるかどうかをヒヤヒヤしなければならないとのこと。
もし、契約を切られたら、母のパートだけが唯一の収入源になってしまうが、正直、それだけでは生活していけない。
妹のバイトは学費で消えている。生活費などは両親からだしてもらっているくらいだから、経済的には期待できない。
必然的に俺が援助することになる。
俺はと言えば、そこそこの大きめの企業に就職したので、「現在は」経済的な余裕は多少ある。だから、もし父が仕事を続けられなくなっても、俺が援助することは「現在は」可能だ。
「現在は」と二度も強調したのは、普段の生活が7時出の25時着の激務で、将来続けられなくなる可能性があるからだ。
今回、GWで帰った時も、「少しやつれたね」「体には気を付けてね」と両親に言われた。
これでは、いつ仕事をやめることになるか分かったものではない。
そうなると、最悪、我が家は経済的に困窮する可能性があるのだ。
・性編
Q5.結婚願望がある
Q7.男女の友情は成立しないと思う
Q8.セックスに躊躇いがある
Q9.セックスに罪悪感は無い
・生活編
Q4.食事にはこだわる
Q5.部屋はどちらかというと汚い
Q7.長く続けている趣味がある
Q8.身についてきている自主勉強がある
・性格編
Q1.トラウマを一つ以上抱えている
Q2.親兄弟との会話は少ない
Q4.世間一般の流行は大体把握している
Q5.漠然とした自殺願望よりも、差し迫った自殺願望に近いものを抱えている
Q6.人を信用しやすい
Q7.思考よりも直感を信じやすい
Q8.相手から定期的に連絡の来る友人が5人以上いる
Q9.腹の奥で気持ちを溜め易い
※回答例
・性編
no 19が最初だから遅い方。経験自体も5人しかいない。かろうじて有るという程度。
no いない。基本的にいない。高校の1年と大学の1年間だけ。いる期間のほうが例外。
no 2度だけある。2度とも1年で別れた。僕の消費期限は1年のようだ。
no 人間個人が面白いというのはわかるけれど、恋愛一般となると何が楽しいのかわからない。理解できないという意味で否定的。
Q5.結婚願望がある
no 周りで結婚する人が増えました。もう結婚式も飽きました。うちの家は幸い結婚圧力もしれているから、このまま貫けそう。
no 子供が欲しいと思う男性がいるということが理解できない。子供自体が嫌いとかそういうことではない。
Q7.男女の友情は成立しないと思う
no 実例がいくらでもある。例え、性交渉があったとしても実現する。むしろ男女というのは友情だけで成立しているのが理想的。
Q8.セックスに躊躇いがある
no 行為そのものに抵抗は無いけれど、後悔はする。あと、体が反応しないことも多々ある。
Q9.セックスに罪悪感は無い
no むしろ罪悪感しかない。後に残るのは罪悪感。それを事前に見出せたらそこまで本能に縛られることは無い。
no 利用したことはあるけれど、もう利用しないと思う。いろいろな方向から否定的。
・生活編
no 独りで生活する分には困っていない。
no 普段はあまりお金を使わず、高いものを時々買うことのほうが多い。服や、身の回りのもの、旅行など。
no 少ないけれど、無い事は無い。100万円ぐらい。
Q4.食事にはこだわる
no 体調に合うか、体質に合うか、それぐらい。あまり食べない。
Q5.部屋はどちらかというと汚い
no しない。もう何年も全くしていない。
Q7.長く続けている趣味がある
no 飽き性なので、同じことを長く続けたりするのが苦手。狭く浅い。
Q8.身についてきている自主勉強がある
no 協調性が無いからか、特に団体競技は苦手。不器用なので球技も苦手。走るだけとか道具を使わない競技は人並み。
no 基本独り。それも部屋に居ることが多い。やることが無いから。休日は休むものだと思っているので何もやる気が起こらない。
・性格編
Q1.トラウマを一つ以上抱えている
no もしかしたらあるのかもしれないけれど、思い浮かぶようなのは何一つ無い。
Q2.親兄弟との会話は少ない
no 少ないというほどではない。多くも無いけれど、実家に帰れば話している。
no 話していると必然的に長く細かくなる。中身の無い会話のほうが苦手。返す言葉がなくて。
Q4.世間一般の流行は大体把握している
no ニュースとかは大体知っているけれど、流行は全くわからない。家にテレビがない。
Q5.漠然とした自殺願望よりも、差し迫った自殺願望に近いものを抱えている
no 差し迫って困っていることは今のところ無い。決断を遅らせているからだろうか。
Q6.人を信用しやすい
no 理屈が通っていればある意味信用しやすい。それだけ。特別疑っているわけではなくて、理屈が通っているかしか見ていない。
Q7.思考よりも直感を信じやすい
no 直感で物事を決めるときは、その直感も信じてはいない。つまりヤケクソ。余裕があれば考えて行動する。
Q8.相手から定期的に連絡の来る友人が5人以上いる
no 一人もいないなー。年に1回とかならくるけどなー。
Q9.腹の奥で気持ちを溜め易い
no 思わず口が滑ったというどころかどんどん口に出してしまう。溜めてしまうことはほとんどない。
no それが一番の大敵。自分の中に面倒くさいという気持ちさえなければ大抵なんでも乗り越えられたはず。それぐらい左右されている。
洋ゲーに登場する女性キャラクターってどうしてブサイクなのばっかりなんだろうと呟いたら、アメリカ人を自称する外人から反応があった。
そいつによると、アメリカには宗教的なタブーから、人間が人工的に人間を造るという行為に抵抗を覚える者がいるらしい。
また、架空のキャラクターに懸想する人間はあの国では末期の麻薬中毒患者並にキモい存在だと認識されており、気合いを入れて女性キャラクターを作り込む人はあんまりいないらしい。
そういう人達は買い手のみならず作り手にも一定数いるので、必然的に微妙にブサイクな造形になってしまうらしい。
だから三国無双(リアル調の美人女性キャラクターが多い)とかドリクラ(アニメ調の美少女キャラクターが多数登場する)が普通に売られてる日本が羨ましくて仕方が無いらしい(それはお前個人の事情だろと突っ込みたかったがスルーした)。
ほんとかよ。
http://anond.hatelabo.jp/20110422235719
ブコメで「エヴァに呪われている」とか「エヴァ脳の恐怖」とか「エヴァをアニメの物差しにしている」といったコメントを見て、なるほど的を得ているなと。
そして残念ながらid:kyo_ju、ネタじゃない。マジで書いた内容なんだ…orz
てか自分でもマジでエヴァ脳だと思う。じゃなきゃ増田で書かない。
俺がこんなコメントを普通のブログに投稿してる奴をみたら、とりあえず全力で叩く。
何でだ?
自分なりに考えてみたんだが、エヴァに前のめりで楽しんでた人達、というか後ろに引いて見ることが出来なかった人達は、
エヴァが終わった後の娯楽としてそれぞれ別個の道に進んで行ったかと思う。
まずアニメという枠に傾倒する道。
アニメは当時の世相を反映してか「自分探し」のような内容か、あるいは「萌え」に特化した内容ばかりだった。
自分探し的な部分は十分エヴァで堪能したし、萌えは視聴者が勝手に後付けするものであって主食として作者が提供するものじゃないものと考えているので無理だった。
SFは─漫画だろうと小説だろうと、作者の設定自慢ばかりで人の営みが希薄なのが多かった。「イカにSの面白さを最大化するか?」が最大の関心事になっている世界だった。
Fだけでいいから人間ドラマが欲しくてSFの道には進まなかった。
※その中で何故か『BLAME!』だけは面白いと思ってた。我ながらかなり謎。
「設定?誰がんなもん語るか。察しろ。」というスタンスがよかったのかも知れない。
あるいは設定の説明がない分、人間(と愉快なクリーチャー達)の営みに思考が集中できたせいかも知れない。
自分は娯楽なしで生きられるような人間ではない。おそらくは他の人もそうだと思う。
大人になって仕事や家事に忙殺されても、アウトドアや人付き合い以外の何かしらの娯楽を大なり小なり楽しんでるんじゃないか。
人によって、それが映画だったり、ドラマだったり、推理モノだったり、歴史モノだったりすると思う。
自分は「エヴァの次の娯楽」として、最終的に「古いモノ」を選んだ。
小説に手をだし、散々色々な誇大広告に騙された結果、最低10年以上「これは良い」と語られる小説は、少なくとも個人の趣味で好き嫌いはあっても外れはないことに気づいたからだ。
そしてこの単純な法則が、小説という枠だけでなく他の枠にも当てはまることを知った。
「古いモノ」を楽しむコツとして、「その当時の世相や時代背景を同時に知る」ということ。
今ではやや物足りない部分があったとしても、当時としては革新的な技術や手法、あるいは独自の視点が盛り込まれていたために長らく語り草になることが多い。
それと同時に他人の解釈をガン無視すること。例えるなら、どれだけ権威ある人が「このキャラはツンデレだから萌え」と言っても自分が「ツインテールだから萌えであってツンデレなのはどうでもいい」なら自分の直感に従って楽しむこと。
こんな風に古いモノ、かつ娯楽として時代の振り落としを生き抜いたモノを、自由気ままなオレオレ解釈で楽しみ、アニメを見なくなった結果、自分はアニメの物差しはエヴァとジブリと千年女優だけになったorz
敢えて弁明、というか開き直らせていただければ…
だって仕方ないじゃん!1年間で1割より少ない程度で面白いアニメは出てると思うよ?
けどその1割弱を探すためだけにアニメの世界に飛び込めば、まさに「渡る世間は萌えばかり」、あるいは「前門の厨二アニメ、後門の監督が厨二の自称芸術unkoアニメ」ばかりじゃん!
アニメの作り手にしても、ちょっと成功して有名になるとすぐ芸術気取りしたり宮崎駿の後継者気取りしてばっかじゃん!
そんな中途半端なことをするくらいなら、いっそワーグナーみたく「アニメはただの芸術じゃない。神聖な祭事だ!」ぐらい突き抜けつつ「よろしい!私に投資する権利をやろう!」的なノリで資金調達&製造とかやれるだけの実力と人間としてゲスな気概を持って挑めよ!>ヤマカン、細田
特に'00年代は酷かったよ!観客の声を聞かずに監督が見たいアニメか、大向うの観客の声しか聞いていないアニメばっかだったよ!
「そもそも今客席にいない人を、どうやって小屋に来てもらうか」を考えている人なんて皆無だったよ!
00年代はまだブロードウェイ- ミュージカルの方が観客を呼ぶためのモノ作りをしてるよ…
例えば「Wicked」はファンタジーで低年齢児を釣り、女の友情で少女を釣り、あげくに社会派的要素で親を釣り上げる万能釣り竿だよ。
「Next to Normal」なんて狂気の中から家族愛を導き出すーそれも母親が主役でーっていう化け物ミュージカルだよ。
ミュージカルってさ、親しみが無い人には「子供が見るモノ」あるいは「軽いモノ」ってイメージがあるんだ。
酷いと「演劇と歌が同居する必要性がないんじゃねーの?」って言われる始末www
まぁ当然だよね。舞台としては戯曲という枠が、歌劇としてはオペラという枠が、ダンスはバレエという枠が、技巧も歴史も名作も持ってる。
けどミュージカルが子供やミュージカル自体にマニアックな人ばかり相手にしてたってお金にならない。
彼らが飯を食っていくためにミュージカルという枠のファンを増やすしか無かった。
かと言って技巧だけで挑めば間違いなく他の枠に負ける。
だから彼らはあらゆるものを取り入れ名作を作り上げた。
例えば古典の悲劇の恋愛をベースに、彼らの身近にあるダンスや風俗、そして身近にありすぎるマイノリティへの差別問題を注入したWSSとかね。
そういったことを繰り返し繰り返し続けた結果、今のブロードウェイミュージカルの地位が出来上がった。
アニメを作ってる側の人からも、「売れない、売れない」という声ばかり聞こえた。
けど自分からしたら、なんでアニメを作ってる人は「今、テレビの前にいない人」を捕まえようとしないんだろうと思ってた。
筋を古いモノから流用し、装飾や人々を今の時代に合わせ、最後の結末に自分たちのメッセージを盛り込む。
これだけでも十分面白いモノが出きるのに。
「守破離」の全部が大事なのに、今のアニメは「守」だけ「破」だけ「離」だけみたいに、個別の実装しかないものが多い気がする。
「魔法少女」っていう小さな視野で見ても、かなり綺麗に守破離してる。もちろん違う角度から見たときにも様々な守破離があるのがまどまぎの魅力。
けど、きっともう後16年くらいは守破離をしっかり出来たアニメは出ないんだろうなぁ…
まどまぎの脚本の人は「ロボットものを書きたい」って言ってるらしいから、おそらくロボットを書くのに夢中になって客席を見なくなるか、大向うの客席しか見なくなる。
そうすると悲劇が好き過ぎる人みたいだし、シェイクスピアを消化しないままシェイクスピアの再発明を得意気にしちゃったりするんだろうなぁ…
かといって他のアニメの作り手は、まどまぎのパラメーターだけみてメソッドを見ず、もっと酷いものを作るんだろうし…
「処女厨がウザい・怖い」的な発言をよく作り手側のコメントで見かけるけど、
なら小デュマみたく処女厨を逆手にとって、ビッチであることが生きるために必然である椿姫を処女厨の目の前に置いて、
「それでもお前らこいつを罵れる?」といけしゃあしゃあと言ってのけるような人は今までいなかったし…
あのシステム改造の直後に
「これは古参どもを追い出すための方策だ」みたいな解説が増田に載ってたが
現状はどう見てもその逆になっている。
あの見にくい上に☆の多いコメントだけ見せてくる表示方法では
必然的にニュースのキャッチ&ブクマが早い人のコメントほど上に来て、そのまま居座り続けることになる。
ニュースのブクマが早い人、というのは要するにはてなヘビーユーザー、ネット中毒、古参idに多い。
また、参戦が遅くてもコメントを多くの人に見てもらえ、☆を得て上にあがってくる人というのはどういう人かと言うと
要するにお気に入られがたくさん有る人であって
そういうネット中毒・ヘビーユーザー・古参のコメントばかり表示されて
それ以外の異論や雑論が人の目に触れにくいようになってしまった。
方向の統一されたコメントが並んでペタッとした感じが増している。
という効果を奏したと思う。
ベース電力の話、ベース電力≒原子力(自流式水力とかもあるけど発電量が少ない)なので、「ベース電力が必要」は「原子力が必要」にほぼ等しいのよね。そこが原子力推進派の罠なわけで、その話法に乗ってはいけないと思う。
結局、「需要にあわせて調整できる」か「調整できない」の二つで、後者だけではNGってことですよね。風力や太陽光は自然任せで後者(太陽光は晴れの日は需要の多い昼間に発電するのでピーク対応になり得るけど、曇りもあるからね)なので、むしろベース電力代替になるべきものと考えるべきでしょう。
化石燃料消費削減→原発廃止 にエネルギー政策目標が一変した(まだしてないかな? でも必然だよね)今後の日本では、もうベース電力の話は通用しないし、以前の政策シナリオ(自然エネルギー+原子力で低炭素社会)と比べれば系統安定化(まぁ大雑把に言って貯電のこと)の必要性は相対的に下がるといってよいのではないかと。
原発廃止派に、原発を全部いきなり止めてそれで必要だった電力はどうするの?と聞いても、「再生可能エネルギーがー」といった具合に、"新エネルギーがいきなり原子力を置き換える"と思ってる人がいます。
新エネルギーを役立てるには必要な前提がいくつかあります。なぜ必要なのかを理解するためには、知らなければいけないことがいくつかあるので、それをまとめてみました。
曖昧な表現や間違っている部分がある可能性や、将来の展開について個人的な想像が含まれていることをお断りしておきます。
(それは違うだろ、という点があればトラックバックで補足してもらえればと思います)
水力は電気が余って捨てられている夜間に水をくみ上げて位置エネルギーに変換し、昼間のピークに放出している。水力が他の発電と比べて優れているのがこの"位置エネルギーに変換し、必要な時に即座に生産できる"ところ。
しかし、水力発電に伴うダムの建設には環境破壊など大きな問題がある。貯められる電力という水力と同じポジションを担う発電、送電、蓄電技術が今後重要になる。これについては後述する。
原子力発電は大きな発電力があるが、ほとんど調整がきかない。火力発電は原子力発電に比べればずっと調整がきくが、それでも出力を変化させるとロスが大きくなる。これら二つは、変化が少ないかわりに大きく安定したベース電力を得られる発電方法といえる。
逆に水力発電は、さほど大きな発電量は見込めないが、位置エネルギーに電力を変換し必要な時に放出するピーク電力対策に優れた発電方法といえる。
現代の発電は、このベース電力とピーク電力対策を組み合わせて需要に対応している。
夜間は電力が捨てられて、昼間は電力が足りない。
電力の需要量は、時間に応じて夜間は低く昼間は高くやまなりの曲線を描いている。仮にベース電力だけで全てを供給すると、ベース電力の必要量は需要のピークに合わせなければならない。需要の谷にあるときには、必要量を発電量が上回った分がそのまま無駄になることになる。
そこで、水力発電のような"夜間のあまった電力を一度保存し、ピークのタイミングで生産できる"補助があれば、ベース発電の出力をピークにあわせる必要がなくなる。結果的に無駄にする電力が減り、必要な総発電量も減る。水力発電は少ない発電量しかないが、その特性上見かけよりも必要総発電量の削減に役立っている。
先にも言った通り、ダムを作る事は大きな環境破壊を伴う。いくら水力の貯めができる点や追従性が優れていても、ほいほい増設できるものではない。しかも、火力発電を(ロスを出しながら)調整し、水力発電がフルで頑張っても、夜間と昼間の必要電力のギャップには追いつけない。夜間に大量の電力が捨てられているわけだ。
冬と夏の電力需要にも同じ問題がある。発電所の新設は夏の電力需要のピークを見越して行われる。電力会社が「電力が足りない!新設しなければ!」と言う時、それは「夏の昼間のピークに足りない」ことを示している。
水力発電の担っている仕事を、企業や個人レベルで行っていく必要がある。しかし、水力なんて大規模なものは普通できない。別の蓄エネルギー方法が必要になる。
現実的なものには氷蓄熱があるだろう。エコアイスと言えば聞いた事があるのではないだろうか。電力会社は数年も前からこの氷蓄熱を普及させるために夜間の蓄熱用の電力を非常に安くしている。
冬と夏の時間スケールでなら、冬の間にためた除雪の山をそのまま夏まで持ち込んで冷房に利用するという手段が北海道では実用化されている。
海外では巨大な電池を設置する例も出てきている。
EUでは時差のある国家間で電力の融通が行われている。そのため、夜間に捨てられる電力は日本に比べて少ない。また、工場の廃熱等で発電する熱→電気の再利用が進んでいる。
日本は東西ではなく南北に長いのでEU間のような時差もピークの差もない。しかも島国なので送電技術が進歩しないかぎり隣国と電力を融通しあう事はできない。北海道の電力は余っているが十分に生かされていない。同じく西日本からの変電の問題もある。これらの改善には膨大な金が必要だそうだ。
(送電技術が進歩しまくった未来には、電力輸出国がありうるかもしれない。)
個人規模では電気自動車があげられる。夜間のうちに充電できるからだ。ただ電気自動車は高価で、走行条件によっては航続距離が非常に少なくなるなどまだまだ普及するものには思えない。古いクーラーを省エネのものに変えていくのは効果があるらしい。
その通り。しかし、新エネルギーで原発を無くそうといっている人は本気でいきなり代替になると思っているのだろうか?新エネルギーや風力や太陽光などの再生可能エネルギーはすぐにはベース電力の代替にはならない。今の技術では、設置コストや生産にかかるコストはもとより、発電量でもベース電力を担うものにはならない。
だけども、新エネルギーが全くの無駄なのではない。新エネルギーは火力や原子力が担うベース電力をいきなり代替するようなものではないが、今の水力が担っているピーク電力を強化することで、結果的にベース電力の必要量を下げ、火力発電所や原子力発電所の新設を少なくする可能性がある。
新エネルギーが実用化されるとしたら、まずはベース電力の代替ではなくピーク電力の補助ではないだろうか。今後のプロセスは次のようになるのが理想的だと僕は考える。
今更ですがタイトルはちょっと良くなかった。原発廃止派が余計でした。漠然と訴えてる人は廃止派に多いという偏見が確かに僕にあった。ご指摘の通り、極端な推進派廃止派は声が大きいだけで、数で言えば「原発いきなり全部は止められないから現実的に頑張ろう派」「しょうがないと思ってるけど原発はこれ以上増やさない派」「東電や政府の問題は追及するけど今安全な原発の運用は認める派」のような人達がサイレントマジョリティな可能性はあります。原発の話題をする時にまず「推進派なのか廃止派なのか」を前提にする今の空気自体が議論を横道に逸れさせるめんどくせー状況を生み出してるともいえそうです。今回タイトルで自分がそれを僅かでもやってしまったというのはちょー後悔してます。
代替エネルギーについて網羅しきっていない→素人の僕が説明するより資料見てもらったほうがいいと思う。このまとめは"前書き"部分にあたる話だから、代替エネルギーやその進歩の展望について網羅することはしていない。バイオマスエネルギーの開発状況とそれが発展途上国の農業に及ぼす影響、メタンハイドレートは掘れたらすごいけど掘るの難しい、国境問題も絡む話、ゼーベック素子の話、超伝導蓄電(これ正直僕は詳しくない)等は調べれば色々出てくるよ。
何れにしても、新エネルギー利用も化石燃料と原子力の利用を少なくするのも、エネルギーを無駄にしない仕組み→スマートグリッドや地域間国家間での融通、蓄電技術、熱の再利用などがセットなのは間違いないわけで、その必要性を理解してもらうのに書いたのがこのエントリです。
地元から反対されてるのに暴力的な政治力で建設してしまうケース、トラブルがあったときの縦割り体勢による不透明さ、フットワークの重さ、補償問題、風評被害への対策…これら社会的な問題は原発の技術を認めていても無視してはいけません。
逆に、原発に反対であっても社会的な問題を理由に原発の技術面を全く評価しないのは話をややこしくします。技術の存在自体が社会的な問題だと捉える人が出てくるからです。そうなると技術不信で一層正確な判断ができなくなり、パニックや陰謀論に陥ってしまいます。
原発の技術を正しく認める事で、「最新式ならこうできるはずだった」「もっと最善の方法があったのではないか」という人為的なミスや運用上の問題が見えてきます。
漠然と「原発は安全だ、何故反対するのだ」「原発は危険だ、全部信用できない」とならずに、原発の社会的な問題と技術的な問題は分けて考えるとパニックにならずに少し落ち着けるのではないでしょうか。
『AKIRA』というアニメ映画を思い出す。ネオ東京を統べる大佐が博士に問う。「その力は、本当にコントロールできるのか?」結果、人間は“その力”をコントロールできずに、都市は飲み込まれてゆく。
福島第一原発が操業を開始したのは、1971年。米国ではアポロが月に到達し、大阪万博の特需を経た日本の高度経済成長はピークに達していたころだ。家電がほぼ全世帯にいきわたり、産業は栄華を極め、必然的に電気が足りなくなったこの国はたいした議論も経ずに原子力発電をはじめた。経済の成長は国を豊かにし、日本は誇りを取り戻した。
伸びきったゴム紐は決して元に戻らない。狭い本土に、雨後のたけのこのように原発が生えた。私はその、高度経済成長の潤いに鼻まで漬かって育った世代だ。だから、責めるつもりなんてぜんぜんないのだけれど。
やっぱり、ドーピングだったんだと思う。こうなってしまえば、原子力はやっぱり劇薬だったんだと思う。日本という名の競走選手は、記録にばかり目を奪われて、劇薬の処方と管理を誤ったのだと思う。
父よ、私たちの父よ。
もう認めてほしい。
要するにこの国は、戦後復興に失敗したんだ。先行く何某に追いつこうと焦るあまり、足元を見失っていたのだ。私たちは、劇薬の力で宙に浮いていただけなんだ。そして今まさに、地面に叩きつけられようとしているんだ。
じっと歯を食いしばる。
60歳代以上が占める割合は多くなる
http://anond.hatelabo.jp/20110321214229
おかげさまで最大で10人が使っているらしいIDからブクマされておりますが、いかがお過ごしでしょうか。寒いですね。
返事の順番は、下から上、つまりブクマが着いた順に書いていきます。
hokuto-hei ( ゚Д゚)ポカーン 『あれは東浩紀個人の思想であるかというのはわからないんだよね。』じゃあ、どなたの思想ということなんでしょう? 2011/03/22
思想、という言葉は誤解を招いたかもしれません。それはお詫びします
要は、何か主張をするにあたり、それが本人の意志に沿うものかどうかというのは別である、ということです。
つまり、「する」と「なる」、蓋然性まで踏まえれば「するかもしれない」と「なるかもしれない」ということです。
該当のツイートを再掲すれば
東京人は東京に留まる。水食糧からは放射性物質が検出それ続けるが、それにも慣れていく。数年後微妙に小児の癌発生率があがったという報道が出るが、それも誤差の範囲でなんとなく曖昧に。そうやって日常は回復されるが、西日本や海外から見たらそれそのものが異常。そんな感じになるのではないか。
ということであり、これは予測の範疇でしかありません。上の分類によれば「なるかもしれない」ということです。
何らかの考えを述べることそれ自体は糾弾されるものでもありませんし、無論嘲笑されるべきでもないというだけの話ですね。
ncc1701 ごめん、ちょっと何言ってるのかわからない。
それは申し訳ない。書き方が不味かった、と言えばそれまでですが、具体的にはどこがわからなかったか余った文字数で書いていただければよかったのですが。
Pz-4 馬鹿ガキ こんだけ文字数使っておいてオンリー仄めかしかい。せめて対象ぐらいはっきりさせろや。 /カッコつけるのはいいんだが、あさましくもそのためにすぐ誰かを踏むんだよ。 2011/03/22
カッコ付けた覚えはないのですがね。客観的、俯瞰的、あるいは逆張りをすることがカッコいいというわけではないでしょう。あなたのいうカッコつけの対象もよくわからないので、書き捨てなのかな、とさえ思えてしまいます。ああ、馬鹿ガキというのは正解ですね。きっとあなたのほうが賢いのでしょう。
馬鹿ガキまで包摂する多様性を望みでないなら、バカを排除なり淘汰なりする方向に動けばいいのではないでしょうか。バカだというのは必然的にこちらの落ち度ですから、それを理由に排除されるというのであれば何も言うことはありません。
Bifuteki 素直に「怖くて逃げた」って言えば誰もそれ以上追求しないのに、屁理屈こねて戦略的撤退の体をとろうとしたり、「臆病上等」とかかっこつけながらヘタレの矜持みたいなのをみせつけようとしてるのがカッコ悪いのよ 2011/03/22
焦点といいますか、ひとつの前提のズレがここにあるのではないかと考えています。つまり、「思想家、批評家としての東浩紀<仕事人>」と「一個人としての東浩紀<私人>」は重なるのだろうか、ということです。
これは彼自身の考えですから、馬鹿ガキな私が察するに余りあるのですけれども、ああいうTwitterのようなツールは、仕事上のつぶやきと私人としてのつぶやきの違いは無視されますね。つまり、何を言っても本職としての意見に捉えることもできるし、何を言ってもただのプライベートなつぶやきと見なすことができるわけです。
東京人は東京に留まる。水食糧からは放射性物質が検出それ続けるが、それにも慣れていく。数年後微妙に小児の癌発生率があがったという報道が出るが、それも誤差の範囲でなんとなく曖昧に。そうやって日常は回復されるが、西日本や海外から見たらそれそのものが異常。そんな感じになるのではないか。
これだけではどちらかはわかりません。震災を機に株価が急落した人として何人か取り上げられていますが、彼らは共通してTwitterを使っています。Twitterのつぶやきが可視化させたといえば聞こえはいいですが、それは受け手にとってもその都度解釈を要求されるということです。言ってしまえば、論理学者が日常非論理的なことを言っていることが許されるかどうかといえば許されますが、それは見る人にとっては「なんだこいつ、これで論理学者かよpgr」と見えてしまうわけですね。
繰り返しますが、これは東浩紀自身のスタンスによるものですから私がどうこう言えません。ですが、そこを踏まえずバカにするのは揚げ足を取る程度のものにしかなりえないということです。(それがいい、それでいいというなら、まあそれもいいんじゃないでしょうか。そうは見えなかったからこれ書いてるんですけどね)
ましてやカッコイイか悪いか、臆病かそうでないかなんてのは、言わずもがなですね。
これはBifuteki さんへの回答そのままです。彼のつぶやきすべてが言論人としての彼としてのつぶやきかどうかはわからないのですから。しかしながら、何かしたことに対して、それを説明する、これが日本ではたいてい言い訳として解釈されてしまうのは、あまりいいことではないと思います。
これ以降の方は気になったのだけ返事することにします。もっとも、馬鹿ガキの言うことなんか聞きたくねーよという人も多いでしょうが。
貯金ってのは結果的に金がたまってるだけで、彼らは基本的に浪費が嫌いで、節約する自分の美しさを肯定している。
それに加えて節電、しかも今後のエネルギー政策で「もう今までのような浪費はできない」などと吹聴をするのがいて、やはりここでも「無駄遣いしないさせない俺カッコイイ」という精神が透けて見える。
もちろん彼らの思考に「供給に見合うだけ発電する」という発想は初めから存在しない。
なぜなら彼らから見れば原発依存の日本の電気事情はそれまでこそが過ちだったのであり、翻ってそれを拠り所とすることで自らの発言に正当性を与えているわけだ。
しかもそういう構造があるゆえに、自らと異なる考えは必然的に悪とみなすことが集団内で肯定され、実践されていく。
それは「甘え」を許さない精神によって補強され、増長する。
「世界ではエネルギーが行き届かない国がたくさんあるのに何を贅沢な」という思考は失業者やニートに向けられたそれと同じであり、そしてそれらもまた、震災によって死んだ人間を引き合いに出し、世界の貧しい人々を引き合いに出して肯定される。
「これまでが間違っていた」という主張は集団のあり方、社会のあり方、個人のあり方すべてを否定するものであり、その主張自体に超越的目線、神や英雄を見る目線が注がれがちである。
これまでされたことは悪であり、これから道を変えれば正しくなるという発想は、たとえば新卒採用のような、旧来的社会構造の糾弾によくなされる言説であり、その構造からわかるように、「大きい主張」だ。
善悪を大きい主張で唱えるがゆえに心うたれる人はあとを絶たず、それが半ばカルト化していったのはネトウヨを見れば明瞭である。
彼らにしてみれば原発という存在も、それを擁護するものも、それに依存して肥大した東京という存在も、それを容認してきた政治家も、管理する東電もすべて悪なのだ。
そして彼らはかつての大政奉還や、コンクリートから人へというパラダイムシフトを待望し、この震災という契機をもってついに噴き上がったのだ。
日本ユニセフ協会をdisるやつの脳はマスゴミに踊らされる情弱()と同等
http://anond.hatelabo.jp/20110318014810
今回、日本ユニセフは47年ぶりに国内向け募金活動を行っているわけだけど、これが何を意味するかと言うと、阪神大震災の時でさえ、国内向けの募金活動はしていないということ。
この辺はそもそもユニセフとはなんぞやということを考えれば当たり前のことであって、ユニセフは児童保護・児童民生向上を目的とする国際連合の下部機関であるわけですよ。基本的にはユニセフ加盟国全域が対象なのです。
で、途上国との比較で言えば、被災してもなお、日本の児童の保護水準、生活水神はまだまだはるかに高いわけです。ユニセフのリソースを日本向けに振り分けるということは、他地域のリソースがそれだけ減少するということであって、そうするだけの必然が、これまで無かったのですね。
ある意味、これだけの大災害が起きて初めて、被災地の子供がユニセフの網にかかる資格を得たのだけども、それにしても、多くの救済されるべき子供たちのワンオブゼンに過ぎないということは理解しておくべき。ワクチン接種や今日明日の飯の心配をしなければならない途上国の膨大な数の子供たちと比較して、しょせんは先進国の児童である日本の子供たちが持つであろう優先順位は瞬間的なものだろうし、また、ユニセフを通して恒常的に彼らが支援されることを期待するべきでもありません。
つまり、東北関東大震災向けに募金をしたい人は、ユニセフに募金をするのはそもそも筋違いだということです。
ユニセフはもちろんいくらかは被災児童向けに募金を使うでしょうが、日本でかき集められた募金のすべてを使うわけではありません。5%でも使えばいいほうでしょう。それを批判するにはあたりません。そもそもそういう組織なのですから。
対して日赤は国際赤十字社の下部組織というわけではありません。状況に応じて、より柔軟に支出することが可能です。
しかし、今はとにかく東北関東大震災の被災者のために募金をしたいというならば、ユニセフにではなく日赤に募金することを強く勧めます。
国民国家は歴史的経緯から必然的に発生した一つの形式ではありますが、一種の虚構でもあります。
「愛国心」というものは愛郷心、民族主義、集団利害等がない交ぜになった幻想の産物です。
ただし幻想だからと言って、それに価値がないわけではありません。価値などというものは普遍的な物差しがあるわけでは無く、それを信じればそこに価値が生じる物です。
根拠が幻想だからといってそこに実際に心情(例えば自分自身の愛国心はこれに含まれます)が生じてしまっている以上、その心情をを特に否定する必要も無い、という話です。ただ(例えば)「自分の愛国心」のようなものに普遍性のある根拠を見いだせない以上、それを喧伝するような行動に対しては非常に腰が重くなっていることを否定できません。
政治学がなかなか表に出てこない(そもそも政治学部や政治学者が少ないというのもあるでしょうが)のは、この辺の政治学徒共通の腰の重さもあるのでは無いかと睨んでいますw 政治学が出せる答えは基本的に「こういう状況で、あんな目標なら、こうすればいい」というところまでです。ところが世間で議論の俎上に載るのは主に「現状をどうみるか(状況)」と「どこを目指すべきなのか?(目標)」の話なので、政治学はそこについてはたいてい回答を持ち合わせません(正確には「客観的に決定出来る物では無い」という回答を持っています)ので。
スーパーやコンビニで商品棚から商品が消えている。供給は普通にあるが、供給が需要に追いついていない状況らしい。
実際の被災地である東北ならわかるが、社会インフラが生きている東京でこの状況って異様としかいいようがない。
おそらくこの先「なにか」がおきたときの備えなのだろうが、では仮にご期待にお答えしてその備えが役立つ「何か」がこれから起こったとしよう。
命からがら生き延びて、避難所に数百名単位で人が集まる。買占めした物資を持つもの、タカをくくってたせいで持たざる者が一堂に会する。
で、物資を持つ物はお腹をすかした持たざる者の目の前で「備えあれば憂いなしよね~」なんていいながら食事できるのかね?
いやそりゃ、良識ある持たざる者なら数日は飲まず食わずで我慢するだろうが、4,5日たてばそうも言ってられなくなる。
で、なんとかギリギリ理性を保ちつつ、未だ持っている人に「すみませんが食料いくらかわけていただけませんか?」ぐらいは聞くだろう。
が、「なんで見ず知らずの人に分けないといけないの?家族だけで精一杯です」なんて断られたらどういう行動をとるだろう?
俺なら、究極に追い込まれたら同じ境遇のやつ数名集めて物資を独り占めしているやつらから略奪するね。どうせ数日にわたり援助物資が届かないような
状況なら無法地帯だろうし。
逆説的にいえば、持つもの持たざる者が同じ境遇で一箇所に数百名単位で集まるような状況に追い込まれるなら、必然的に持つものは持たざる者に
無償で持っているものを平等に分け与えなければ安全が保証されないわけよ。
というわけで、今、食料品を買い占めている人たちは、「何か」がおこった際は無償で持たざる人たちに分け与えるはめになり、何もおこらなかった際は
大量の食べたくもないインスタント食品を当面消費していかなきゃいけない、損な役回りのかわいそうな人ってことになるわけですな。
テレビを全く見ない自分がいうのも変な話だけど、むこう10年くらいネットに対するテレビの優位性は保ち続けるように思う。
しかし、ネットの影響力はテレビのそれを超えることなく、ほぼ同等になったあたりで均衡するのではないかと思う。
超えたとしても、ネット7に対しテレビ3くらいには残してるはずだ。
たしかに、自分が知りたいことを知るためには、ネットのほうがテレビよりも強力なツールだ。
しかし、みんなが同じ知識を共有するためには、ネットでは不十分なんだ。
たとえば、テレビだったら、民法10社とNHKに地デジ化のお知らせを流せば、テレビを殆どみない僕なんかにだってその情報はいずれ伝わってくる。
あるていど同じ知識を共有しないと、議論も出来ない。
広告媒体としてネットよりもずっと優秀だから、お金が集まるし、権力も集まる。
しかし、一方的で、権力者寄りの放送であればあるほど、必然的にテレビ以外のメディアに注目が集まってくる。
テレビなくしてネットの隆盛がない以上、ネットがテレビに置き換わることはない。
池田信夫には賛成だ。
テレビの重要性は認めるが、それでも最もいい帯域はデジタル通信に当てるべきだ。
しかし、ネット、テレビの他に、もう一つ、メディアの第三極があるべきだと思う。
いくつかの点で、ネットは貧弱だ。
まず、既存のメディアの焼き直しの情報がほとんどだということだ。
既に出版された本や、既に放送されたテレビを元にしている場合が多すぎる。
それに関しては、いくぶんは改善されているようにも思う。
一次情報をテレビや本の形ではなくネット発で流すことが多くなってきたように思う。
それでもまだまだという印象は拭えない。
そこに入り込むのが、SNSになるんだと思う。
なにが見える、なにが聞こえる、という未編集の一次情報をダイレクトに伝えるのがその役割だ。
きちんと体裁と論理が整った情報は、今まで通り通信社がテレビや新聞に(あるいは直接ネットに)売り、ネットはそれを再編集したり、視点を変えてユーザーに情報を届ける。
一方的で情報量が少ないがリーチ力のあるテレビ、圧倒的に情報量が多くマスメディアを監視するネット、未編集だが加工されていない情報に触れられるSNS、メディアは天下三分の計で安定すると思うんだ。
「いっそカンニング・持ち込みを全てOKにしては」
という意見が目立つが、それはそれで問題があると思う。
まず、入試時におけるネット検索をOKにしてしまえば、問題もそれに応じた難しさにせざるを得ず、結果的に
という状態が発生すると考えられる。いくら国民総ネットの時代だからと言って、貧乏でネットを使える環境が整って無い人から教育の機会を取り上げてもいいのか?
また、ネット使用OKという事は、必然的に「特定個人とのメールのやり取り」も可、と言う事になる。…ならば、「問題の内容を的確に理解でき、即座に回答を出す事の出来る」部外者を試験前に確保したらどうなる?どんなにバカな受験者でも模範解答が書ける、という話にならないか?
以上の事を踏まえると、
「カンニング・持ち込みを全てOKにした場合、合格できるのは子供の時からネット漬けになっていて、しかも優秀な『協力者』を雇えるお金持ち(の子供)だけ」
「どんなに能力ややる気がある人でも、金が無ければ合格できない」
先輩とは言っても、私は数年前にその会社を辞めてしまって今では何の繋がりも無い。
携帯番号もメアドも随分前に消してしまったし。向こうも同じだろう。
その会社には新卒で入社した。その年の新入社員は私だけで、配属された部署は私も含めてわずか4人。必然的に社員同士の関わりが密になる、良くも悪くもアットホームな職場だった。
先輩はとなりの席で、年も4コ上でそんなに離れていなかったこともあり、解らないところを質問したり教えてもらったりしているうちに、私が一方的に先輩を慕うようになっていった。
退職するまでの2年と少しの間、朝礼までの時間(今どき朝礼あるのって田舎だけなのかな・・・)や昼休みはなるべく席を外さないでいるよう心がけた。先輩と少しでも長く話したかったから。昼休みは先輩はいつも自席で新聞を読んでいた。こちらが話を振ったら、興味ない内容だったら適当に相槌打っていたけれど、何か刺さるものがあったら顔を上げて(ちゃんと新聞畳んで)話に乗っかってくれた。私はバカで世間知らずだった(今もそうだけれど)ので、話せることと言えばワイドショー的なニュースやら趣味やら個人的な失敗談やら交際関係ぐらいしかなかったのだが、先輩は話題の引き出しが多く、私が伝える乏しい情報から最大限汲み取って話を膨らませてくれた。私が割と知っていると自負していた事柄も、先輩はそれ以上に知っていることがほとんどで、先輩から仕入れる情報は、当時の私の中でかなり大きな割合を占めていた。
先輩はルックス良くないし、学歴もあるわけじゃないし、この会社に勤続するなら多分生涯賃金も高くないんだろうけれど、そんなもの補って余りありまくるものをたくさん持っている人だった。仕事できるし、周りからの信頼に厚いし、話題豊富で話が面白いし、メカ全般に強いし、美味しい店知ってるし、あとは、声が低くて素敵だった。結婚する予定の彼女がいることは大分早い段階で知ったのだが、「はーっ、やっぱり先輩さすがッス」と尊敬の念を強めただけで落胆はなかった(ここでやっと恋愛感情ではないと確信が持てた)。とにかく当時の私は先輩への崇拝っぷりが凄まじくて、誰彼構わずつかまえて「**さんってやっぱりすごいっすよー」と言って回りたいくらいの熱狂ぶりだったのだが、それをしたらさすがに本当のバカなので、他部署の、入社当時から私を気にかけてくれていた女性の先輩だけに、大人しい口調でそれとなく話してみた。
するとその女性の先輩は苦笑いで「まあ、**くんもあれで結構ハッタリきかせてるところあるからね~。何でも鵜呑みにしないほうがいいよ~」とそれとなく窘めてきた。
当時の私はその言葉がスンナリ理解できなかったが、今となっては、まあその通りだったんだろうなと思う。やはり何人も自分の出来ることしか出来ないし、知ってることしか知らないのは当然だ。
別に後々になって先輩と決裂したとか、そういうことは一切ないのだが、先輩は私みたいな類の人間を心の底から蔑んでいるのかもしれないと思うようになってからは、段々と距離をおくようになった。
先輩に、というより職場ひいては世間に、自分はそこそこ使える人間だと認めてもらうため頑張っていたが、やはりどこか抜けているところがあったりドジこいたりして、要領良くできなかった。別に大したミスではなかったし、そもそも自分で修復できたものはミスでも何でもなかったのかもしれないが、必要以上に狼狽えてしまうので、小さなミスも大きく見えてしまう。そういうことが重なって、体感的には実際の何倍ものミスを犯してしまった気になって落ち込むことが増えた。
当時私はまだ18歳で、可愛い表現使うことが許される年齢だと思うので敢えて使うが、所謂どじっこだった。そして多分、先輩が最も嫌う類の人間だったと思う。先輩に質問したり教わったりする度に「ちゃんと自分の頭で考えて理解してる?」と念を押された。なるべく一回で理解しようと努力するのだが、出来なくて再度聞かなくてはならないときはとても気が重かった。先輩が私に向けるまなざしには少なからず蔑みが含まれているような気がして、そしてそれは世間の私に対する評価と同じであると勝手に考えて、ますます自分はダメ人間なんだと思うようになった。
それからしばらくして会社を辞めて、医療系の資格をとって、今は他県で派遣事務をしている。決まりきった仕事内容なのであまりミスもしなくなったし、たまにやる些細なミスは狼狽えずに対処出来るようになったから、今となってはあの時自分は何をそんなに恐れていたのかなあなどと思う。多分、恐れていたからこそ余計に出来なくなっていたんだろうとは思う。何で他の誰でもなく、先輩に認められたかったのだろうと考えてみると、多分大した理由はなく、ただ先輩の性格や醸し出す雰囲気が私が認められたいと思うタイプだっただけなんだと思う。そして、何でも出来ると思って勝手に崇拝していた先輩だって出来ないことは出来なかったのだとやっと理解できた。理解できたから恐れがなくなった。
何年も経った今またこうして思い出すのだから、我ながらすごい執着だと思う。先輩は私のことなんかさっぱり覚えていないだろうに。きっと今は結婚して一児やらニ児の父になっていることだろう。
先輩、お元気ですか。いろいろすみませんでした。私はもう、先輩に認めてもらわなくてもいいと思えるようになりました。でも、あの頃よりは要領が良くなったので、ひょっとして先輩に嫌われないタイプの人間になれたかもしれません。
クズであればあるほど、ニュースに関心を持ちやすい傾向があるんじゃないか。
ニュースは基本的に他人の不幸を扱うもので、みんなが幸せだったらニュースになるようなネタはできない。
事件、事故、災害、テロ、戦争、政権崩壊、倒産、恐慌など、不幸の度合いが大きいほどニュースバリューがある。
ニュースを好き好んで観ている人は、他人の不幸が大好きなクズなのではないか。
他人の不幸を観るということは、他人の失敗を観ることでもある。
自分よりはるかに社会的地位の高い人間が致命的な過ちを犯し、それを批判したり馬鹿にすることで、
自分があたかも事件の当事者より社会的地位が上になったような錯覚を得られる。
社会的地位の低い人間がその境遇から必然的な事件を犯した場合は、
自分より下の人間がいるという事実を確認し、優越感に浸ることができる。
さらに、他人との交友関係や社会的経験が全く無いような人間であっても、ニュースについて語ることはできる。
自らの仕事や趣味、恋愛、家族との関係などを晒さなくとも、大上段から他者を批判し、嘲笑できる。
他の話題であれば自らの人生経験によって語れる内容が変わってくるし、人生経験のない人間には語れないこともあるんだが、
ニュースは誰でもテレビや新聞を見れば得られる情報だから、バックグラウンドが全く違う相手でも共通の話題にできる。
むしろニュースを知らない人間に対して、「こんな常識的なことも知らないのか」と優越感を持てる。
このように、ニュースが好きな奴は総じてクズであり、ニュースメディアで働いてる人間はプロのクズと言える。
クズのくせに良識を装って他者を批判するのが、大部分のマスコミ、はてな村、Twitter界隈だろう。