貯金ってのは結果的に金がたまってるだけで、彼らは基本的に浪費が嫌いで、節約する自分の美しさを肯定している。
それに加えて節電、しかも今後のエネルギー政策で「もう今までのような浪費はできない」などと吹聴をするのがいて、やはりここでも「無駄遣いしないさせない俺カッコイイ」という精神が透けて見える。
もちろん彼らの思考に「供給に見合うだけ発電する」という発想は初めから存在しない。
なぜなら彼らから見れば原発依存の日本の電気事情はそれまでこそが過ちだったのであり、翻ってそれを拠り所とすることで自らの発言に正当性を与えているわけだ。
しかもそういう構造があるゆえに、自らと異なる考えは必然的に悪とみなすことが集団内で肯定され、実践されていく。
それは「甘え」を許さない精神によって補強され、増長する。
「世界ではエネルギーが行き届かない国がたくさんあるのに何を贅沢な」という思考は失業者やニートに向けられたそれと同じであり、そしてそれらもまた、震災によって死んだ人間を引き合いに出し、世界の貧しい人々を引き合いに出して肯定される。
「これまでが間違っていた」という主張は集団のあり方、社会のあり方、個人のあり方すべてを否定するものであり、その主張自体に超越的目線、神や英雄を見る目線が注がれがちである。
これまでされたことは悪であり、これから道を変えれば正しくなるという発想は、たとえば新卒採用のような、旧来的社会構造の糾弾によくなされる言説であり、その構造からわかるように、「大きい主張」だ。
善悪を大きい主張で唱えるがゆえに心うたれる人はあとを絶たず、それが半ばカルト化していったのはネトウヨを見れば明瞭である。
彼らにしてみれば原発という存在も、それを擁護するものも、それに依存して肥大した東京という存在も、それを容認してきた政治家も、管理する東電もすべて悪なのだ。
そして彼らはかつての大政奉還や、コンクリートから人へというパラダイムシフトを待望し、この震災という契機をもってついに噴き上がったのだ。