はてなキーワード: マイノリティとは
マイノリティに配慮させて自分はマイノリティーのことなんか1mmも考えずでかい顔して生きていくマジョリティさん
配慮していただいてありがとうございますくらい言えって
当事者になるまでそんなことも分かんなかったの?系が多くて……。
自分(おそらく健常者でシスジェンダー異性愛者のマジョリティーオブマジョリティー)のことしか考えられない人で、そういう人間が子ども産んで育てているんだな、という事実と、結局育児中の人という目線(=いまの自分の目線)以外では見れてないんだな。
障害者にとってもそこそこ便利なバリアフリーだったりユニバーサルデザインが随所にあるんだけど育児中の人に取って便利な部分しか見ないし今後も自分が便利か不便かで見て語り、他のマイノリティーが不便を強いられてることに見向きもしないし、そもそもマイノリティーの存在自体にも気に留めないし、考えもしないで生きていき、そうした視野の狭さの中で育てられた子どももそうなるのかなぁとか考えていた。
個人や企業による人種差別や性差別主義的な言動に人々が強く反発して、起用取消しや不買運動などが起きること。近年の#MeToo運動や#BLM運動の広がりの中で隆盛し、社会変革のための重要な手段となっている。コールアウトカルチャー(call-out culture)、差別や偏見などの社会問題に目覚めた(woke)若者たちによるウォークカルチャー(woke culture)とも同義で使用されることもある。元来は、マジョリティの「公共圏」から排除された人種、民族、あるいはジェンダー的なマイノリティたちが生み出した「対抗的公共圏」の中で抵抗の手段として発展していった。他方で、マジョリティの白人文化に広まる中で、従来控えめなボイコットや無視を促すものだったキャンセルカルチャーが、発言が問題視された人を市場やメディアから締め出すようなコールアウトカルチャーへと変容した。これに対してオバマ元大統領が警鐘を鳴らし、行き過ぎたキャンセルとコールアウトカルチャーに対して、人の過ちに対する寛容や、発言の問題点を指摘しつつ敬意をもって対話を試みるコールイン(call-in)などが模索されている。日本では東京五輪開会式におけるミュージシャン小山田圭吾の過去のいじめ発言や元お笑い芸人小林賢太郎によるホロコーストをネタにしたコントがキャンセルの対象となった。
小山田圭吾と小林賢太郎はキャンセルカルチャーの範疇に入らないと思う。小山田圭吾の拒絶は人間性に対する嫌悪感、小林賢太郎は欧米に対する忖度の結果で多くの日本人にとってはどうでも良い話。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI
長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。
分割の境界はスライドにある番号に従うが、副題は増田の判断である。
スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。
講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしをベースに、
増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。
まず、江口聡先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。
加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセル・カルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生の記事、
なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルのタイプの言論の自由の擁護」として紹介されている。
また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、
他、法学の専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、
(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s
40:57~48:23
清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています。
研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体の他者性、自己表象と生存の戦略、可視性を巡る問題などがあります。
最近は英語圏のフェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。
主な著作に、
Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision、英語の本です、2008年、
「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」、2019年、
『フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります。
清水晶子:
はい、ご紹介ありがとうございます、清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、
本日は「学問の自由とキャンセル・カルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います。
少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
学問の自由とは
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」
学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。
政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的な権力だったりというところからの圧力を受けることなく、
さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学の経営陣あるいは多数派の社会的通念・経済的な要請などからの
不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問的良心と手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。
例えば、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるんですが、これによると
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者・教員・学生が、
倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、
そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」というふうにされています。
学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判の文脈における学問の自由の主張というのは、
ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います。
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム」
残念ながら、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、
今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。
だからこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。
2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、
ここでは与党自民党のプロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。
2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学の研究者の授業というのが、
先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、
批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるというふうにして、
産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。
もちろんさらに記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、
日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。
この任命拒否については、憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、
2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書」というものを総理大臣に提出をしていると。
この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます。
差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由の侵害」とする言説
その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、
もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。
今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、
国家とか、強力な宗教団体、経済団体、多数派の社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、
研究者の社会的通念と研究の手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています。
力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、
研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。
すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、
これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。
二面での闘い
結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、
私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。
けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、
抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。
学問の自由を巡っては、フェミニストには現在そういういわば両面での闘いというものが要請されている。
この現状は忘れるべきではないと思います。
実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、
ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、
こういうタイプの、マイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由の侵害」という枠組み、
この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、
これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
1.タイヤ
・・・あんなの、ただの”デカい消しゴム”じゃない?何れ擦り減ってなくなるのになんでカネかけようとする?
2.エアロパーツ
・・・あんなの、ただの”成型樹脂材”じゃない?しかも一つひとつがそこそこ高いし。なんでカネかけようとする?
3.塗装
・・・知らない間に他人から傷つけられる可能性がある箇所に特別料金はらって特別カラーにする意味って何?
おっと、「クルマを持つこと自体にカネかける意味がわからない」なんて意見はいらないよ?
んなの、ごく一部の都会住みしてるマイノリティだ
「トランス女性が「私は女性として生きたいのに…」と嘆くので、「失礼な質問かもしれないけど、女性として生きるって具体的に何をするの?」と聞いたら、「好きな人と結婚して、子供を持って、幸せな家庭を築きたい。女性として当然の人生を歩めないのが辛い」と言われてしまって困ったことがある」
というツイートを目にした。
https://twitter.com/yumenokiiro/status/1554040728237420544?s=20&t=-52y3y_lfm8x9v9jkTHUKQ
答えた側もずいぶん古いステレオタイプだなとは思うものの、別にこういうシス女性もいなくはないだろ。
それが「トランス女性」という、少数派ゆえに個を無視して属性で見られる存在になると途端に「トランス女性って結局…」みたいに一括りにされるんだよな。
もしこれが「職場で隣のアラフォー女性」なら、そういう風に個別性を表現するんじゃないか?
「知り合いの」とさえもつけずに「トランス女性が」と書いたことに余計な意味を見出してしまいそうになる。
そしてそもそも、「女性として生きるって何をするの」という質問自体が、トランスを特別で異質なものと思ってないと出てこない質問だ。
まぁそりゃそうだ、ほとんどの人は自分が生まれたときの体とそれに付随する外見的特徴で生きていて気持ち悪さを感じることなんてないんだからな
「わざわざ性別変えようとするぐらいだから、性別変えてしたいこと、性別変えないとできないことがあるに違いない」と思うのかもしれない。
はっきり言うと「特にない」です。
「シスジェンダーが期待するような何か特別なこと」はないです。
男性にしかできないことの一つに立ち小便があるけど、莫大な手術費用を捻出しないと実現しないし
女性にしかできないことには妊娠出産があるけど、これはもはや手術で叶う話ではない。
そういう意味では後天的にジェンダーを移行したり手術を受けて何が変わるかというと、QOLだけです。異論は認めるけど。
「性自認」という言葉を、男が女装して女子トイレに入るための詭弁ぐらいにしか思ってない人には多分一生わからないだろうけど、
世の中には、生まれたときの性別で扱われることに、言葉では説明できない気持ち悪さや居心地の悪さを感じる人間がいる。
これは、「女に生まれたばっかりにセクハラされる、こんなことなら男に生まれたかった」とか、「男は仕事で成功しないと評価されない、女は楽でいいな」という話とは違う。
セクハラや生理が嫌で男に生まれたかったと思う女性、だからって外で道を尋ねてきたおばあちゃんに「ちょっとお嬢さん」と声をかけられただけで一日ガチ凹みしますか?(シス男性が女性と間違われたときの凹み方とも多分違う。自分が男性であるという確固とした信念と(法的・身体的・実生活上の)根拠があるのとないのとでは受け取り方は違う。 )
「女/男として認識される自分」「女/男として扱ってくる世界」が無理なんである。
ちょっと違うとは思うが、「都度怒りを表明するほどではないが絶えず少しずつ気分を落ち込ませるもの」としてはずっとこれを受け続けているようなものだ。
しかも相手はこちらがマイノリティだなんて思っていないので、「ごく普通の女性にごく普通の声掛けをしただけ」だから怒りを向ける先がない。
とはいえ道端で知らないおばあちゃんに声をかけられるぐらいなら、髪の長い男性だって女性と間違われるかもしれないと自分に言い聞かせられるからいい。
髪を切りに行っても「自分が女性と思われてるか男性と思われてるか」様子を伺うし、
「〇〇子」や「〇男」みたいな名前で性別を知られないようにすることに全神経を使うし(病院とかは本当に困る)、
女子トイレには入りたくないけど男子トイレに入って指摘されない自信がない時期はかなりきつい。
だから、外見を「女/男として扱われないように」変えるし、
正直、性別を完全に移行してしまうと(※戸籍の性別は変更していないが日常生活で体の性別の方で認識されることが全くなくなった状態も指させてもらう)、「性別」という概念は生活の中でほぼ透明になる。
シスジェンダーで「性自認」という概念に懐疑的な人たちは生まれてからずっとこういう感じだったんだろう。
個人的にもこの言葉に思うところがないではないが、対外的にそう説明するのが一番ギリギリ理解されそうだからそう言ってるぐらいのアレだ。
大分話が脱線したが、「男/女になってやりたいこと」なんて別にないんです。
(胸取ってタンクトップ一枚で外に出られるというのは確かに「女ではやりにくいこと」ではある。)
「普通に生活してるだけで感じる気持ち悪さを減らしたい」だけだし、多分それはシスジェンダーと言われる人たちには理解しにくいと思うけど、
理解できないものを「おかしい」と切り捨てるんじゃなくて「そういうのもあるんだな」と思ってほっといてほしい。
逆に「”ちょっと”生きにくいぐらいで性別を変えようなんてわがままだ」とかよくわからないことを思う人がいたら、「私の人生なんで」と返します。
あと、どんなにトランス女性のことを理解できなくても怖いと思っても、
と言うのだけはやめてあげてほしい。
アメリカ白人男性にはムーランの見た目を更にむっちゃきつくしたタイプのアジア娘がクソモテると聞いた。
人種的特徴の色濃く出た容貌の女性をアメリカでは「マイノリティのアイデンティティに自信を持ってよ!」と勇気づけるし、なんならその手の人種的特徴がフェチになってる白人男性も少なくない。
どうしてお前たちは可愛らしいビール腹おじさん好きをマイノリティとして迫害する?社会の中で胸を張ってビール腹おじさんが大好きだと言えない女性達を可哀想だと思わないのか?ビール腹おじさん好き女子を優遇しないと可愛らしいビール腹おじさん100人を請求しますぞ!😡
だけどそんな事言わなくていい。元々なんでオタクやってんの。
クラスの会話がモー娘。一色のときエヴァがどうこう言ってたオタクはオタクらしかったし、AKBどうこういってた時にけいおんやら言ってたオタクもまさにオタクだったよ。
アニメが好きだから周りがどんな話しててもアニメをみていられたんだろ。
アニメは確かに認められてオタク的趣向も認められて社会で話に出しやすく成った。おっさんがゆるキャンみててもキモいと言われなく成った。
だから「自分たちは最新の趣向で生きている」と勘違いしてただけだ。本来オタクは興味ないものには興味がないだけだ。
Vtuberはアニメの延長ではない。アニメ好きなやつでAKBがすきなやつだっていたし、電車が好きでアニメも好きなやつもいた。でも共通して興味ないものには触れないだけだった。すべての方向でしっかりアップデートしていく必要はない。アニメだけ好きでいればそれでいいだろ。
俺の正体はただのゲームオタク。でもオタク仲間からは常にアニメの話をふられる。はるひもけいおんも見てない人間にそんなハルヒがどうこうけいおんがどうこう言われても正直意味わからんかった。オタクなら必修科目とかいわれても「いや俺はアニメに興味ないし…」としかおもわなかった。ただスパロボとかやってユニット性能が強いからキングゲイナーは見る、そういう人間だった。
もちろんゲームオタクでアニメオタクの人間もいる。でも俺はそうじゃなかっただけ。
疎外感を感じてはいたよ。でもどんだけ「見てるのが当たり前だよねー」って言わても見ることはなかった。なぜなら単純に興味がないのだから。その時に俺は”老害”と言われまくった。増田でも言われた。はてブでも言われた。
”普通は”こういうアニメみて知識をアップデートしていくもんだ、それがオタクだ。という概念に俺は否定されて老害と言われまくった。
だが、Vtuberが流行ってきてそれに付随してゲーム実況というジャンルが急激に伸びてきてVを迎合した”老害”であるはずの俺はなんだ?俺は一体なんなんだ?若者の老害か?意味わからんだろ。
違うんだよ。老害なんてないの。ただ自分が好きなコンテンツを追いかけていただけ。
だから卑屈になるな。
もちろん最初は面と向かって言ってきたやつに「君を笑いに来たのだよ」って感じで「君も老害になったかーw」とか言ってたよ。
でもそれって虚しいんだよ。ただマジョリティがマイノリティを攻撃するためだけの言葉なんだよ。
多分いつかVtuberより優れたアニメ的手法が出た時に同じことを感じると思う。そのときにでもこの増田のこと思い出して老害と切り捨ててきた人間に謝ってくれればいいから。
日々自分たちがマイノリティに配慮させまくって遠慮させまくって生活してることを棚に上げて(そもそも自覚すらないから棚に上げてることにも気づいてない🤣)「俺たちに配慮を求めるのかー!」とか言うのがおマジョリティー様仕草😇
嫌なら社会制度や法律の改正のために声を上げれば良いのにマイノリティを叩いて黙らせて己の平穏を取り戻すことしか考えねえんだよな〜。めんどくさいことはマイノリティに押し付けて黙らせるのが一番楽だもんなー!🤣わかるぞ!
頼んでもないのに夫が、妻が、と異性愛者とカミングアウトして異性愛者アピールパーティー開いて御祝儀まで求めるし自分が年とって足腰弱まるまでバリアフリーは面倒くさいし金がかかるから拒否wでもかわいそうなマイノリティに手を差し伸べると自己肯定感爆上がりするので気まぐれで思いやりあること言って自己陶酔♥
かわいそうで真面目で弁えてておマジョリティー様な俺たちにゴマすりしてくれる(更にいうと見た目がそこそこ良い子w)ならまぁ考えてやっても良いよなwが平均的おマジョリティー様。
大概は「ま〜でも俺様がかわいそうなマイノリティになったときだけ文句ぶち上げさせてもらいますわ!」なのがおマジョリティー様よ。
それもなんとなくわかる。
まあわざわざ見ようとは思わないが。
くらいで終わるから
そんな嫌悪感無いんだけど
そういう金持ちが大量にいて
がめちゃくちゃ刺激されるから
嫌なんだよな
まあそういう奴もいるだろ
くらいにしか思わないけど
だったらなんかきつい
のと根本的には同じ
日々自分たちがマイノリティに配慮させまくって遠慮させまくって生活してることを棚に上げて(そもそも自覚すらないから棚に上げてることにも気づいてない🤣)「俺たちに配慮を求めるのかー!」とか言うのがおマジョリティー様仕草😇
嫌なら社会制度や法律の改正のために声を上げれば良いのにマイノリティを叩いて黙らせて己の平穏を取り戻すことしか考えねえんだよな〜。めんどくさいことはマイノリティに押し付けて黙らせるのが一番楽だもんなー!🤣わかるぞ!
頼んでもないのに夫が、妻が、と異性愛者とカミングアウトして異性愛者アピールパーティー開いて御祝儀まで求めるし自分が年とって足腰弱まるまでバリアフリーは面倒くさいし金がかかるから拒否wでもかわいそうなマイノリティに手を差し伸べると自己肯定感爆上がりするので気まぐれで思いやりあること言って自己陶酔♥
かわいそうで真面目で弁えてておマジョリティー様な俺たちにゴマすりしてくれる(更にいうと見た目がそこそこ良い子w)ならまぁ考えてやっても良いよなwが平均的おマジョリティー様。
大概は「ま〜でも俺様がかわいそうなマイノリティになったときだけ文句ぶち上げさせてもらいますわ!」なのがおマジョリティー様よ。
何もかも完璧な人なんていないし、「女性の権利を訴える」寄りの人(佐藤倫子さんとか)を挙げるとアンチフェミから粘着的に粗探しされるだろうし、「他のマイノリティを踏みつけない」寄りの人(要由紀子さんとか)を挙げるとフェミから粘着的に粗探しされるだろう。
別に「フェミニストである前にヒューマニストであれ」なんて思わないし、逆に「ヒューマニストならフェミニストとして完璧であれ」とも思わない。みんな自分の不完全さは受け入れてもらいたいくせに、他人の不完全さには寛容になれないね。
ツイフェミの惨状はそういうことじゃなくて、「フェミニズムの皮を被ればどんな差別的な言動も許されるわけじゃない」ってだけの話なんだよな。「愛国」と同じで。
「こいつはまともじゃない」「本物じゃない」と個別に挙げた人・団体以外はすべて基本的にまとも=普通のフェミニストであると仮定してもらえたらなと。
チンポついた奴が女性のスペースにいたら、「普通」は「おかしい」に決まってる
元男が女子スポーツで無双したら、女子スポーツ自体、興行として成り立たない
全部当たり前の話だ
でもリベラルはわかっていても今更引けない
シスジェンダーとトランスジェンダーではトランスジェンダーの方が弱者なので強い、というのがリベラル軍人将棋理論の初歩の初歩だからだ
今までそれに基づいて散々マジョリティの側に配慮を強いてきたのに、今更ここでケツ割っちゃったら整合性が全然取れない
「自称マイノリティの中に悪い奴がいて、区別できないんだからみんな我慢しろ」が通るなら、BLMもウィシュマサンもクソもないんだから
それが嫌なら最初からLGBTからTなんか外して、精神病扱いにでもしておけばよかったんだよ
ちなみに、はてサフェミ界隈にはリベラル面しながら中身は単なるTERFというのがゴロゴロいるが、あれは特別
単に面の皮が異常にブ厚いだけ