anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
自民は切る努力をしてないように見える(自民議員が関係があったことを認めない、関係があっても問題ないとするコメントをしてる)んだけど、自民支持者として幻滅したりしない?それ以上に野党が嫌い?
きょうヤる気でいた知り合いの女の子とヤれなかった
向こうもInstagramでデリケートゾーンUPするくらいビッチ
五反田駅で待ち合わせということでラブホも予約して新橋のワイン酒場→BARの流れも完璧に整えた
楽しくワイン酒場では盛り上がり
ありがとうございました
ヤンチャな弟を許すのも兄の役目
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https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3186s
53:06~57:07
David Horowitz, Academic Bill of Rights (ABOR)
ポリティカル・コレクトネスを巡って提示されたこの図式、
すなわち既存の差別や抑圧への批判を、それこそが自由の侵害であるとして批判し返すというこの図式は、
この後現在に至るまで、とりわけ大学を中心に学問の場において着々と展開されてきています。
例えばDavid Horowitzによる、学問の権利法案ABORというんですが、
これは、学問はあらゆる問題について政治的に中立の立場を採るべきであり、
学問の自由とはそのようにして常に複数の観点が提供される環境において成立する、というふうに主張します。
これだけ見れば、これだけ見れば、リベラルな多文化主義的な主張かなっていうふうに思いかねないんですが、
Horowitzの主張は、これが先ほどの庵逧先生のご発表ともちょっとつながるんですけど、
それが当代の学術領域において、どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと、
特定の問題について異なる見解があるならば議論の双方の側を教えるべきであると、
実際にそういうような授業になっているかどうかを、
授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべきだ、いうふうにHorowitzは主張する。
このABORの問題を、アメリカ大学教授連合AAUPというところが問題点を指摘する声明を出しているんですが、
そこで述べられているように、これは学術的知見の蓄積に裏付けられた主張であるか否かにかかわらず、
例えばナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、
そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべきだと、そういう議論なんですね。
だから何が学術的な裏付けのある議論であるかについて、学術的コミュニティで蓄積されてきた知見を認めないという点において、
ABORは「学問の自由」を唱えつつ実態としては学問の自由を侵害している、いうふうに言うことができる。
Turning Point USAによるProfessor Watch List (2016)
「リベラル/左派の横暴に支配された大学において、差別されている保守派学生を守る」
「差別や抑圧への批判や対抗の言説が、その言説に同意しない(差別的、抑圧的な)主張をする自由を抑圧し、そのような考えを持つ人々を差別している」
ABORは、リベラルあるいはレフトの価値観に大学が乗っ取られていると、だといいなと思うんですが、
でも大学は乗っ取られてる、それと異なる、つまり保守派の主義主張の学生や研究者の「学問の自由」が侵害されているから、
それを守らなくてはいけないという構えを取っています。ただこの構えが実はただの口実でしかない。
「学問の自由」というのがここでただの口実でしかないことは、例えばもっと後2016年にTurning Point USAという、
これ、学校とか大学で保守派の価値観を擁護・推進することを目指すアメリカのNPOなんですが、
そのTurning Point USAというのがProfessor Watch Listというのを作ってまして、これを見るとよく分かる。
Professor Watch Listは、
教室において保守派の学生を差別し左派プロパガンダを推進する教員を暴き記録するということを目的としています。
このリストは、リストに加えられた教員とか研究者あるいは大学へのメールなどでの攻撃というものも当然誘発することになって、
先ほども出てきましたアメリカ大学教授連合AAUPは、このリスト自体が学問の自由への脅威だというふうに批判している。
ABORから10年以上が経って出てくるProfessor Watch Listというのは、
ABORとは異なって、最初から「学問の自由」というのを活動の根拠として打ち出してないんですね。
にもかかわらずそれ以外の点つまり、リベラル左派の横暴に支配された大学において、
差別されている保守派の学生を守らなくてはいけない、これが「学問の自由」の擁護であると、
そういうふうにABORはなるんですけど、でもその構えというのはそのままABORから踏襲されてる。
ブッシュ・シニアのミシガン演説を思い出していただけるといいんですけれども、
差別や抑圧を巡るこういう逆転の構図っていうのが、ここでは非常に重要な働きをしている。
ポリティカル・コレクトネス論争からProfessor Watch Listまで、30年近くあるわけですけど、
「学問の自由」というのがどう使われてきているのかというと、差別とか抑圧への批判あるいは対抗の言説が、
その言説に同意しない、つまり差別的あるいは抑圧的な主張をする自由というものを抑圧するんだと、
そういう考えを持つ人々を差別するのだという形で抑圧側と被抑圧側を逆転する、ある種支点の働きを担ってきたわけなんですね。
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
・写真3枚(顔を隠して胸を強調した釣り写真、マスクの全身写真、コロナ前に撮った顔出し写真)
・「遊び目的です!」から始まるヤリ目感満載の自己紹介、身長体重、不美人であること、「年齢容姿気にしない人は遊んでください、割り勘希望」
■実施期間、成果
・マッチした数: 40〜50人程度
・会った数: 6人
■全体所感
・37歳だし写真も載せてるしあまりマッチングしないかと思って右スワイプしまくったらかなりマッチしてびびった
・メッセージでは直ホテルを誘ってくる人が多かったが、「まずは食事をしましょう」という人も何人かいた
・カカオトーク交換して写真送ったら返事来なくなった人もいた。ヒドスwww
現れたのは長髪によれよれの服着た人。男にも写真詐欺はあるんだとびびった。何年前の写真だ…と思ったら、何年も前、大手企業に勤めてた頃の写真らしい。
無料のドリンクとケーキとアイスがあり、ドリンクとケーキをもらう。美味しかった。ビジホみたいな簡素な部屋。
まずドンキで買ったビールを飲んで30分ほどトーク。途中で相手はタバコを吸いに中座。かなり緊張してる様子。
シャワーを浴びてベッドイン。挿れる前にちょっと出てしまう。フェラして仕切り直し、挿入後またちょっと出る。終了。相手はかなり落ち込む。お互いに不完全燃焼。
②7/18(月) Toshiさん(36)
新宿駅東口で13時に待ち合わせ。写真通りのイケメンが現れる。
入ってすぐシャワーを浴びてベッドイン。前戯から挿入、フィニッシュまで30分くらい。ファストセックス。
事後に既婚者だと聞く。婚外彼女探し中らしい。
プロフの写真は爽やか系。顔はよくわからないが写真がおしゃれ。
ビールを買って部屋で飲む。行ってみたいラブホテルトークで意気投合。
ホテル前で20時30分に待ち合わせ。ホテル前に立って待ってるのはものすごく恥ずかしかった。
五反田のSARA GRANDE。休憩2時間7000円を割り勘。
サービスの駄菓子とドリンクをもらう。相手はアイスももらっていた。中華風の部屋。
部屋に入って15分ほどトーク。シャワーを浴びてベッドイン。ちん●んが臭い。仕事上で飲んでる薬のせいで勃起・射精しづらいらしい。
何故か部屋にゴムがない…(隠されたのでは?)
私が持参したゴムを使おうとしたが、完全体にならず被せられない。生挿入はしたくなかったのでちん●んをひたすら舐め続けた。お願いして雄っぱいに顔を挟んでもらった。
⑤7/30(土) Takuyaさん(39)
イカツイ感じの見た目。
13時待ち合わせ、門前仲町で昼飲み。お互いビール2杯、日本酒グラス2杯を飲む。そこそこ盛り上がる。割り勘。
ホテルに移動。門前仲町から錦糸町までバスで40分。ちょっとイヤになる。
錦糸町バリアン。満室とのことで30分程度ロビーで待つ。マッサージチェアに座ってアイスを食う。
休憩3時間9600円を割り勘。
相手はそこそこのマグロ。私が責めてFして挿入。飲みすぎたのか中折れして中断。
仕切り直して部屋備え付けの露天風呂に入り、再度挿入。また中折れして終了。ホテル前で解散。
フリータイム、5980円。相手が払ってくれた。(ありがとう…)
サービスのドリンクを飲みながらソファで30分程度会話してシャワー、ベッドイン。
以上
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2904s
48:24~53:05
伝統的な大学制度における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに挑戦する改革側を、自由を抑圧する権力者として描き出す
ニューヨーク・タイムズ紙コラム「政治的正しさという覇権の高まり」(1990)
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時) ミシガン大学におけるスピーチ(1991 (自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さとしてのポリティカル・コレクトネス)
報告タイトルにもなってるキャンセル・カルチャーというのは、まさにこの文脈で作り出され拡散されてきた用語です。
これは学問の自由だけに関わるものではなく、幅広く文化活動一般に関して使われていますが、
ただ2010年代、後半ですね特に、から急激に広まってきた「キャンセル・カルチャー批判」についてお話をする前に、
その文脈ていうかその前身とも言える、いわゆる「ポリティカル・コレクトネス」っていうものについて少し確認をしていきましょう。
ポリティカル・コレクトネスという語自体は、
元来共産党が打ち出す公式路線に過剰に忠実な思考や行動を指す、ある左派の間の内輪の自嘲的な用語として使われていたものです。
ところがこれアメリカの文脈ですが、古典学者であるアラン・ブルームによる1987年の『アメリカン・マインドの終焉』、
1990年ニューヨーク・タイムズのコラム「政治的正しさという覇権の高まり」、っていうここら辺を契機として、
各種メディアなどにおいて、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論というのが沸き起こる。
1991年5月には、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領、ブッシュ・シニアがミシガン大学におけるスピーチで、
「ポリティカル・コレクトネスというのは自分の考えを口に出す自由を脅かす不寛容さだ」というふうに言及するに至ると。
現在の日本でポリティカル・コレクトネスというと、
専らポップカルチャーでの表現みたいな、映画とか漫画とかそういうことをイメージされるかもしれませんが、
そもそもポリティカル・コレクトネスについての議論というのは、大学という場をその主要な舞台の一つとしていました。
1980年代アメリカの大学では、女性学・アフリカ研究など新しい学部やプログラムの設立、
それからアファーマティブ・アクションの採用、それから大学におけるセクシャルハラスメントへの対応の開始、
それからコースとかカリキュラムの見直しなどが一気に進んでいくことになります。
これらは全部具体的な制度的変更なんですけれども、それと同時に大学における教育研究というものが暗黙の前提としてきた、
性差別・人種主義・ホモフォビアなどの検討と修正とを迫るものでもありました。
こういう変革への抵抗や反感というものを、単に大学という限られた場所における制度上の闘争という形で提示したら、
それはあんまりアメリカの広い一般大衆の興味を引くことはなかったかもしれない。
けれどもこれをアメリカ的価値の根幹に関わる、思想と言論の自由の危機として提示することで、
伝統的な大学制度の覇権に挑戦する改革側のほうをこそ、逆に自由を抑圧する権力者なのだというふうに描き出すことに成功します。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、私たちはみな警戒心をもつべきだ」。
実際に当時、先ほど申し上げたブッシュ・シニアのミシガン大学演説ではこういう言い方がされている。
「この国土において不寛容さが増大していること、論争を解決するのに理性ではなく威嚇を用いる傾向が強まっていることに、
1980年代から続く共和党政権なんですが、ブッシュ・シニア共和党政権は、
例えば女性の性と再生産に関わる健康と権利の獲得に向けた運動というのを、はっきり言って足踏みさせた政権です。
またHIV/AIDSの流行に対して同性愛嫌悪に満ちた対応で、LGBTコミュニティに深刻な打撃を与えてきた政権でもある。
人種主義に関して言えば、国内の人種差別問題というのも当然温存されていて、
このミシガン大学演説の翌年92年には、ロサンゼルスでの人種暴動というものが起きてる。
にもかかわらずこの演説では、政府共和党によるそういう長年に関わる差別や抑圧が一切問題にされないんですね。
この演説が暴力的な抑圧者だとして名指すのは、そういう差別とか抑圧を指摘して批判してきた側のその差別に対する不寛容、
その差別に対する不寛容が暴力だと抑圧だというふうに名指していく。
ポリティカル・コレクトネスという言説戦略
大学という特定の組織における性差別、人種主義、同性愛嫌悪などに対抗することを目的とした取り組みを、思想・言論への検閲であるかのように見せる
つまり右派が持ち出した「ポリティカル・コレクトネス」というのは、
大学という特定の組織におけるセクシズムやレイシズム、ホモフォビアなどに、対抗することを目的とした取り組みというのを、
逆にあたかもマッカーシー旋風の再来を思わせるかのような、思想・言論への検閲であるかのように見せる、
この枠組みは既存の体制に内在する差別や抑圧から人々の目をそらす、
むしろ多数派こそが「ポリティカル・コレクトネス」なる強権的な弾圧というものから、
思想・言論の自由を守って闘う被抑圧者なのだというふうに主張することに成功したわけなんですね。
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
ITパスポート試験の参考書を買って日曜までに読み終わる。日曜の午後は更に何を調べるべきか分ってると思うので、それに関する本を買う
特に勉強する必要ないやろ。テキトーにヨシ!ってやっとくとええで
強いて言うならまんまそのままのタイトルの本がいくつか出てるで
こういうのとか。パラ見したけど悪くなかったよ ↓
2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI
長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。
分割の境界はスライドにある番号に従うが、副題は増田の判断である。
スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。
講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしをベースに、
増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。
まず、江口聡先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。
加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセル・カルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生の記事、
なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルのタイプの言論の自由の擁護」として紹介されている。
また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、
他、法学の専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、
(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s
40:57~48:23
清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています。
研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体の他者性、自己表象と生存の戦略、可視性を巡る問題などがあります。
最近は英語圏のフェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。
主な著作に、
Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision、英語の本です、2008年、
「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」、2019年、
『フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります。
清水晶子:
はい、ご紹介ありがとうございます、清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、
本日は「学問の自由とキャンセル・カルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います。
少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
学問の自由とは
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」
学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。
政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的な権力だったりというところからの圧力を受けることなく、
さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学の経営陣あるいは多数派の社会的通念・経済的な要請などからの
不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問的良心と手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。
例えば、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるんですが、これによると
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者・教員・学生が、
倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、
そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」というふうにされています。
学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判の文脈における学問の自由の主張というのは、
ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います。
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム」
残念ながら、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、
今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。
だからこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。
2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、
ここでは与党自民党のプロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。
2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学の研究者の授業というのが、
先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、
批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるというふうにして、
産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。
もちろんさらに記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、
日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。
この任命拒否については、憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、
2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書」というものを総理大臣に提出をしていると。
この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます。
差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由の侵害」とする言説
その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、
もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。
今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、
国家とか、強力な宗教団体、経済団体、多数派の社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、
研究者の社会的通念と研究の手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています。
力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、
研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。
すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、
これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。
二面での闘い
結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、
私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。
けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、
抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。
学問の自由を巡っては、フェミニストには現在そういういわば両面での闘いというものが要請されている。
この現状は忘れるべきではないと思います。
実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、
ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、
こういうタイプの、マイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由の侵害」という枠組み、
この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、
これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
周囲には誰もいない。
拾って自分の財布の中に入れてしまうと善行ポイントが減りそう、カルマ値が増えそうでなんか嫌だ。
かといって交番に届けても何の意味もないどころか、いい大人が届けてもお巡りさんの手間をとらせてしまって迷惑だろう。
まあ結局拾うのだが……
手を動かしながら直すべきところを直す、が理想なのはわかるんだけど、今の自民に直すべきところを直すができるとは思えないんだよね。
社内のパソコンを管理したり、ネットワークを管理したり(管理するのは委託業者なのでその調達とかだろう)、セキュリティが大丈夫ヨシッ!とかするらしい。
自分は全くの情報系の素人で、辛うじて、IPアドレスと聞いて、ああ端末ごとの住所みたいなやつね…くらいがなんとなくわかるレベルである。
ファイアウォール、あれね、なんかやばいウイルスとか入ってこないようにするやつでしょ?レベル。プロ…キシ?なにそれ。
During my lifetime I've probably drank enough whisky to fill an Olympic size swimming pool, but whisky flavoured foods of any description should be avoided like the plague.
私は一生の間に、おそらくオリンピックサイズのプールを満たすのに十分な量のウィスキーを飲みましたが、どのような種類のウィスキー風味の食べ物もペストのように避けるべきです.
An Olympic-size swimming pool is used as a colloquial unit of volume, to make approximate comparisons to similarly sized objects or volumes. It is not a specific definition, as there is no official limit on the depth of an Olympic pool. The value has an order of magnitude of 1 megaliter (ML).[1]
オリンピック サイズのスイミング プールは、口語的な体積の単位として使用され、同様のサイズのオブジェクトまたは体積とのおおよその比較を行います。 オリンピックプールの深さには公式の制限がないため、これは特定の定義ではありません。 値は 1 メガリットル (ML) の大きさのオーダーを持っています。 [1]
エタノールの比重を約0.8g/cm3とすると、一日の許容量は40度のウィスキー約62.5mL
毎日ウィスキーだけ飲み続けたとして、1MLに達するのは、1,000,000,000(mL)÷62.5(mL/日)=16,000,000(日)。うるう年を考慮せず365で割った結果は、43,835年と225日
期間を50年以上、20,000日と仮定する。1,000,000,000(mL)÷20,000(日)=50,000(mL)。Lに直すと、一日あたり50リットル以上
ウィスキーのダブルは約60mLになる。これを一日3杯ずつ20,000日間飲んだとすると、180(mL/日)×20,000(日)=3,600,000(mL)=3,600(L)
この程度の量を計るのに適切な単位はバレルだろう
バレル - Wikipedia
アメリカでは、用途によらない標準の液量バレル (standard barrel for liquids) は31.5米液量ガロン(正確に119.240 471 196リットル)である。
ただし、税法上、ビール用のバレル (standard beer barrel) は31米液量ガロン(正確に117.347 765 304リットル)となっている。
一方、穀物や野菜などに用いられる標準乾量バレル (standard dry barrel) は、105乾量クォート(約115.6リットル)と定義されている。
イギリスでは、標準のビールバレルは36英ガロン(正確に163.659 24リットル)である。石油用のバレルを英ガロンで表すと約35ガロンとなる。
さらに、用途によっては質量によるバレルの定義が行われている(例:小麦粉=196ポンド、セメント=376ポンド)。
ワインやウイスキーなどの酒類の貯蔵に用いられる樽の種類でバレルと呼ばれるものは、容量42 - 55米ガロン(約208.2リットル)くらいまでのものが用いられる。
「私は一生の間に、おそらく樽2ダースを満たすのに十分な量のウィスキーを飲みました」と言い換えれば大ボラをつかずに済むということになる