http://anond.hatelabo.jp/20150910215231
からの続き
自分の本当の想いに気づいたなら、あとは現実的な算段をつけていくだけだ。
僕が主に学びたいのは経済学である。だから経済学部のある大学を目指す。それは確定として、どの大学を目指すべきだろうか。みんなどうやって志望大学を決めてるんだろう。調べても情報が多すぎて混乱してくる。旧帝とかMARCHとかってなんぞ。ゼミとか研究室とか修士とか博士とかもよくわからない。そもそも大学の仕組みがよくわからない。最初のうちは学ぶ側で、そのうち教える側だったり、最先端の研究をする側にまわる、というのはなんとなく知ってる。以前は「4年勉強して卒業」としか思ってなかったので、これでも大学に対する理解はだいぶ進んだほうだけど、やっぱり前提知識がいろいろ足りてない気がする。
いや待て、そういった知識的な問題よりも何よりも、その前にまず僕には大学受験資格がない。僕は中卒なのである。正確には高校中退だけど、数ヶ月しか通っていないので取得した単位なんてないも同然だ。どこを志望するとか、大学に通う資金はどうするとか、それ以前の問題だ。受験資格を手に入れなければ、スタートラインに立つことさえできない。まずはその問題から片づけよう。あとのことはあとで考えよう。
そういうわけで大検について調べてみる。どうもいまは名前が変わっているようで、高等学校卒業程度認定試験、略して高認という名称になっているらしい。試験は年2回、8月と11月に行われる。科目は、国語、英語、世界史A/B、日本史A/B 、地理A/B 、現代社会、政治・経済、倫理、科学と人間生活、化学基礎、物理基礎、生物基礎、地学基礎、数学I。これらの中から8〜10科目を受ける。合格ラインは40点前後らしい。半分正解できればいいのだ。しかし高校で習う教科ってこんなに多いのか。けっこう大変そうだ。文科省のサイトで過去問が公開されているようなのでひとつずつ見ていく。
まずは国語。大問が4つで、現代文が2問、古文・漢文が1問ずつ。現代文のほうは普段から本を読む習慣のある人なら普通に解けそうな感じだ。僕もいちおうコンスタントに本は読んでいるし、現代文に関しては問題なさそうだった。古文と漢文に関しても文章の意味は7割以上わかるし、試しに問題を解いてみたら全問正解だった。あれ? 古文・漢文って中学でやるんだっけ? 独学でやった覚えはないから、中学でやったんだと思うけど、20年たっても意外と覚えてるものだと思った。文法とかはさっぱりわからんけど。
英語に関しても問題なさそうだった。英語は二十代のころに必死こいて勉強した時期がある。1回だけ受けたTOEICは680点だった。そのあと半年海外を放浪して日常会話くらいなら問題なく喋れるようになったし、これで合格点を取れないってことはまずあるまい。
次は世界史。これに関しても最近やったばかりだし問題なさそうだった。AとかBとかどう違うんだろ、と思ったけど、Bのほうが範囲が広く、より深い内容になっているらしい。高認の試験ではかぶっている問題が多いし、そんなに違いは感じなかったけど。ちなみにA/Bどちらを受けるかは当日に試験問題を見てから決めていいらしい。
日本史、もしくは地理。これは願書提出時に事前選択するようだ。日本史はかなり難しい。半分正解できるか、ちょっとあやしい。地理のほうが点数を取れそうだったので、こちらを選択することにした。半分は正解できそうだけど、これに関してはちょっと勉強しておいたほうがいいか。
公民は、現代社会、もしくは政治・経済+倫理から選択する。科目数は少ないほうがいいので、現社でいくことにした。毎日ちゃんとニュースを見ている社会人なら誰でも普通に合格できそうな内容だ。これは勉強する必要はないかな。
理科系科目は、化学基礎、物理基礎、生物基礎、地学基礎のうちから3科目を選択するか、もしくは科学と人間生活+どれか1科目。これも科目数が少ない後者でいこう。
科学と人間生活って聞き慣れない教科名だと思ったけど、理科総合のことのようだ。学習指導要領が改定されて、つい最近こうなったらしい。試験は基礎4科目からそれぞれ易しめの問題が出される感じ。でも半分いけるかちょっと微妙なラインだ。これは勉強必須だなあ。
あとの1科目は地学基礎にした。これも以前は地学Iとかだっけ。地学I→地学基礎、地学II→地学、みたいな感じで変わってるようだ。これも半分いけるか微妙。勉強必須。
まあでも理科系科目がちょっと不安なくらいで、全体的にはけっこう余裕かな。なあんだ、身構えて損したよ。ハハ。ああ、そういや最後に数学が残ってたっけ。まあこれも余裕かな。ハハハ。じゃあちょっと過去問を見てみようかな。
え? これあれでしょ? 東大入試問題でしょ? ちょっと文科省さんしっかりしてくださいよアップするファイル間違えてますよやだなあもうホントかんべんしてくださいよマジで。マジで……。なんぞこれ……。1ミリもわからん……。死にたい……。
マジやばい。本当に本気で1問もわからない。最初のほうのサービス問題っぽいのすらわからない。解き方がわからないとかじゃなくて問題文の意味すらわからない。なにこれマジやばい。というかいまさらだけど自分は文系だったのだとこのとき初めて気づいた。プログラミングで飯を食ってたりするんだからてっきり自分は理系なのだとばかり……。マジかよ……。
嘆いていてもしかたない。これをどうにかしないことには大学には行けないのだ。ならどうにかするしかない。
まずは本屋で数Iの参考書を立ち読みしてみる。なるほど、わからん。よし、次だ。中学数学の参考書。なるほど、わからん。よし、次だ。算数の本。なるほど、わかります。でも、最大公約数とか最小公倍数とか通分とか約分とか、けっこう難しい。小学生ってこんなのやってるのか。すげえな。
参考書とドリルを何冊か買って帰り、勉強を始めた。地獄のような日々の始まりだった。
算数ドリルをやってみると、四則演算はさすがにできるけど、九九がところどころ記憶から抜け落ちてることに気づいた。やばい。そして分数の計算がまったくできない。分数の割り算ってなんだよ。割り算で割るってどういうことよ。意味わからん。と思いつつも、算数についてはなんとかなった。問題は中学数学からである。
算数から数学になると急激に難易度が上がる。なんでマイナスとマイナス掛けたらプラスになるの。分数の割り算が今度は逆数の掛け算になるとかどういうことよ。ちょっともう本当に意味がわからない。そうしているうちに1週間、2週間が過ぎる。やばい。それでもぜんぜんわからない。中学数学の最初の段階でこれだけ時間かかってたら数Iを終えるまでに何年かかるんだ。本当にこんなので大学へ行けるのか。さすがに焦りが出てくる。心が折れそうになる。何より、やっていてまったくおもしろくない。つまらない。こんなの社会に出てから何の役に立つんだ。これを必修にするとか文科省の陰謀だろ。あ、人が陰謀論に走るのは精神的にまいってるときなのか。ひとつ勉強になった。
そんな感じでウンウン唸りながらも参考書を読み進めていると、「-xは係数に1が隠れている」という一文が目に止まった。あ、そうか、-xは、-1x、-1掛けるxってことか。なるほど。でもこれって、マイナスだけじゃなくてプラスでも同じじゃないか? つまり、xは、1掛けるxなのだ。あ、これって文字じゃなくても同じか。つまり、5は、1掛ける5だ。あれ? もしかして、どんな数にも、係数として1が掛かっている……? ああなんだか考えすぎて頭がパンクしそうだ。脳みそがギシギシと軋む音が聞こえる。でももうちょっと考えてみよう。
つまり、つまり分数も同じなのだ。1/2は、1掛ける1/2だ。算数的にいえば、ケーキ1個を半分にしたものがケーキ1/2個だ。うん、それでいい。でもよく考えたら、ケーキを半分にしたあとで他の誰かがやってきたら、その人は最初の大きさを知らないのだから、半分のサイズのケーキを1個とカウントするはずである。1/2個とカウントするには、「半分にした」という事実の認識が必要なのだ。いや待て、そもそも、1/2という数字それ自体が「半分にする」という意味なのだ。これは、「半分」という名詞ではなく、「半分にする」という動詞なのだ。1/2というのは何か実体のあるものではなく、「いまからお前を半分にしてやる」という意思、考え方、概念なのだ。
そのとき「バタン!」と音を立てて扉が開いた。それは数学の扉だった。
そうだ、数(すう)とは概念なのだ。いち、にぃ、さん、とものをかぞえるときに使う数(かず)とは違うのだ。そして前者を扱うのが数学であり、後者を扱うのが算数なのだ。僕はいままで数学をやっているようで、その実、算数をやっていたのだ。ぜんぜん違う教科をやっていたのだから、わからなくてあたりまえ、つまらなくてあたりまえだった。
数とは概念である。その前提を踏まえてみると、これまでとはまったく違う世界が見えてきた。数を感覚的に扱えるようになってきた。数式の手ざわりがわかるようになってきた。なにこれやばい。超おもしろい。いままで「数学おもしろい」っていう人のことがまったく理解できなかったけど、そうか、こういうことか。数の正体を知っている人と知らない人では、同じ数式を見ても、まったく違うものを見ているのだ。
それからはこれまでの苦悩が嘘のようにサクサクと勉強が進んだ。中学数学も予想より早く終わった。よし、ここからが本番だ。と気合いを入れて数Iに突入したけど、参考書をパラパラとめくってすぐに拍子抜けした。なにこれ中学数学をちょっと発展させただけじゃん……。気合い入れて損した……。
よし、最大の懸念だった数学はなんとかなりそうだ。次は理科系科目にいってみよう。
まずはまた本屋で参考書を何冊か購入し、読んでみる。数学のときほどまったくわからないということはないけど、なんだかいまいち頭に入ってこない。原子がどうの、位置エネルギーがどうのといわれても、なんだかいまいち実感がわかない。これはまた数学のときと同じく、勉強の仕方を間違えているのではないかと思った。こういうのを学校で習うときは、実験を行いながら、実感をともなって理解していくもののように思う。本を読むだけではその実感は得られないのは当然だ。でも個人で実験器具を揃えるなんて現実的じゃないし、わざわざこのためだけに予備校に行くのも大げさだ。そうだ、どこかの動画サイトに実験映像がアップされてるんじゃないだろうか。それを見れば多少は実感もわくだろう。
いろいろとネット上を探していると、NHKの高校講座を発見した。どうやらNHKでは放送済みの高校講座をすべてネット配信しているようだ。理系科目はもちろん、文系科目もある。こんなんあったのか。もっと早く教えてくれよ。とかぼやきつつ、さっそく科学と人間生活の講座を見てみたら、バラエティ番組っぽい雰囲気でちょっと面食らった。NHKの高校講座ってこんなんだっけ。講師が延々と解説してるだけの、いかにも教育番組って感じの、おかたい雰囲気じゃなかったっけ。いまはタレントがメインで出ていて、講師はあくまで補佐的な役割のようだ。そのぶん雰囲気はゆるくなっているけど、見ていて飽きない作りになっている。化学や物理の実験を映像で見られるのもそうだけど、習った内容が社会の中で実際にどう活かされているのか、町工場や、最先端の研究の現場のリポートもあったりして、興味をかきたてられる内容になっている。これを無料配信するとか、NHKすげえな。しかしやはりこういう講義形式はわかりやすい。本で独学だと、自分の理解が合ってるのかどうか、不安になることが多々あるし。
よし、どんどんいこう。化学基礎。いまはpHを「ペーハー」じゃなくて「ピーエイチ」って読むらしい。マジか。物理基礎。ダムの水が持つ位置エネルギーは何から与えられたエネルギーか。え、わからん。正解は太陽のエネルギー。マジか。太陽パネェな。生物基礎。呼吸と燃焼の反応式は同じ。温度と反応速度が違うだけ。え? マジで? 生まれたときから呼吸してるのに知らんかった……。ショック……。地学基礎。グリーンランド沖で沈み込んだ海水は、太平洋の表層に達するまでの5万kmを、1000年とか2000年とかかけて流れる。壮大すぎだろ。地球パネェな。地理。お、このケッペンの気候区分ってのは世界一周アプリに使えそうだ。GIS(地理情報システム)を本気で開発するなら、地理に関してはもっと突っ込んだところまで勉強しないといけないかもしれないな。
さらに日本史、世界史、数学I……NHK高校講座おもしろすぎわろた、とかやってるうちに、試験本番の日がやってきた。
試験会場に集まっていたのは、ほとんどが二十歳前後の若者だった。控え室には、参考書と格闘している人もいれば、友人同士で最終的な確認をしあう人たちもいる。そういえばこの人たちはベルリンの壁崩壊後に生まれてるんだよな。それはもはや教科書で習う「歴史」なのだ。そして逆に、僕より上の世代にとっての東西冷戦は、自分たちが生きた時代そのものだ。「あのままずっと世界は真っ二つに分かれたままだと思ってた」というような話はよく聞く。いまとなってはわからない感覚だけど、当時は誰もがそう思っていたようだ。僕はそのどちらでもない。十分に咀嚼された「歴史」でもなく、自分が生きた時代でもない。だからそれについて、誰よりも知らない。しかしだからこそ、誰よりも知りたくなったのかもしれない。そしてそのために、僕はいま、ここにいる。
高認の試験は2日間に分けて行われる。初日の1科目目は現代社会だった。まったく対策らしい対策をしなかったから、ここで初めて気づいたけど、グラフの読み取り問題がやたらと多い。間違い探しのように精査しなければならず、1問にかかる時間が長い。問題よりも時間配分の仕方がわからない。時間が足りない。もっとちゃんと過去問で練習しとくんだった……。
次は国語。問題文にちょっとおもしろい箇所があって、静まり返った試験会場で「デュフフwww」とかキモい笑いを漏らしてしまった。死にたい。しかしおかげで緊張はほぐれた。
英語はTOEICに比べたら楽勝だった。9割はいけたんじゃないだろうか。
そして数学。これがいちばん不安だったけど、落ち着いてやれば余裕だった。これも9割いけたんじゃないだろうか。あらためて問題を見てみると、捻った問題というか応用問題すらないので、基本的なことがわかっていれば確実に解けるようになっている。東大入試問題とかいってたやつ誰よ。
科学と人間生活。範囲が広いのであまり詳しく勉強してない箇所の問題もあったけど、半分はいけたはず。
1日目、無事終了。
2日目。地理。海外放浪のときにまわった国の問題が多く出ていて、なんだか常識問題のようだった。ちょっとチートっぽいけど、こうやって実地で得た知識もれっきとした学力だ。うん。
世界史。これも範囲は広いけど、さほど突っ込んだ問題はない。9割いけたはず。
地学基礎。フズリナと同時期に繁栄した生物は、1.トリゴニア、2.カヘイ石(ヌンムリテス)、3.ロボク、4.デスモスチルス、そこまで詳しくしらんがな。クイズか。そんな感じの問題もあったけど、なんとか半分はクリアできた。
2日目も無事終了。
試験が終わると一気に力が抜けて、何もやる気が起こらなかった。しばらくは勉強もせずダラダラと過ごした。
1ヶ月後、試験結果が届いた。
全科目合格だった。
それが先週の話。
だからこのお話はここで終わりだ。正確にいうなら、ここから先の展開はまだわからない。
数学の扉を開いたとき、数式が以前とはまったく違って見えたように、新しい視座を得れば、世界がまったく別物に見えてくる。世界が変わる。そしてまた、以前は気づかなかった、新しい視座の存在に気づく。
あとどれくらい、そんなことを繰り返せばいいんだろうか。
方程式、定理、法則、電気、磁気、エネルギー、素粒子、宇宙、銀河、太陽、地球、生命、遺伝子、進化、化石燃料、製錬、農耕、富、労働、権力、支配、隷従、社会、自由、イデオロギー、宗教、民族、言語、貨幣、法、国家、議会、政党、福祉、教育、研究、産業、組合、企業、グローバリゼーション、条約、為替、貿易、経済。
時間軸と空間軸を埋め尽くす、無数の点と線。それらが織りなすのは、世界という長大な書物。
そのことを考えると、なぜか胸が苦しくなってくる。無性に泣きたくなってくる。
人生のすべてを費やしても、その書物を読み解くことは決してできないと、どうしようもないほどに思い知らされるからかもしれない。
それはきっと、生まれながらに組み込まれた、僕の中の最もプリミティブなプログラム。
どんな権限をもってしても、そのプロセスを殺すことはできない。
だから僕は、今日も本のページをめくり、旅をする。
画面が一瞬でシュウウウウウウウンと端っこに寄って、少しだけブルーになって、
で、真っ黒。
沈黙。
静寂。
絶句。
何をしても反応せず。
充電のコードを穴に挿しても音もしやしない。
ホームボタンと上のボタンを同時押し10秒というのを試しても、うんともすんとも。
修理に出すより他ないのか。
5000円くらいで済むのだろうか。うー。
メッタメタのギッタギタに。
夢なら覚めてくれればいいのに。
親が死んだ時って、きっとこんな感覚なんだろうな。
ツムツムってソシャゲのキャラクターがプリントされている男性用パジャマを見つけた。
どんな人が着るのか気になる。
ついでに今日のおかずはこれにしようかと思ったが、別のがよさそうだと心変わりしているところ。
金=力
金持ってないやつはただの負け犬の遠吠え
どれだけ理想を掲げても実現するだけの力がないやつは人心を惑わすだけの悪
生きていくためには金が必要だし理想を叶えるために必要なのは金
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
AMBAC(アンバック、Active Mass Balance Auto Control = 能動的質量移動による自動姿勢制御)とは、アニメ『ガンダムシリーズ』において登場する作品中の架空の技術の名称。
AMBACは、宇宙空間において可動肢の一部分を高速で動かすことで発生する反作用を、モビルスーツ(MS)やモビルアーマー(MA)の機体全体の姿勢制御に利用するものである。バーニアやスラスターのように推進剤の消費がないことから、宇宙空間ではデッドウェイトになると考えられていたモビルスーツの可動肢(腕部や脚部)が、有用な姿勢制御システムとして働くことになった。
私は高校生まで、人の前で喋れなかった。典型的なあがり症ってやつ。
それも結構重症で、本当に酷い時は友達の前でさえ喋れなかった。先生の前でももちろん無理で、三者面談がうまく行った記憶がない。こんな感じだったけど、高校は無事卒業できて、大学も入った。
学部の性質上、ディスカッションやプレゼン系の授業も多くて、多少は良くなると思ったけど、状況は変わらず。一応、人見知りは多少ましになったけど。
ゼミのプレゼンは頭が真っ白になっても良いように、原稿を書いて、予想される質問は全てまとめておき、万全の準備をして本番に臨んだ。ディスカッションはとりあえず全力で頷いて、なるだけ自分に矛先が回ってこないようにしていた。
こんな感じでなんとか大学もやり過ごしたけど、見事に就職が決まらなかった。書類選考はそこそこ受かるのに、面接は一切通過できない。当たり前だった。だって、一言もまともに喋れてなかったからw
それで、1年就職留年をしたわけだけど、どうせならと、思い切って渡米して現地の大学に入学。そこで酷い目にあってきた。
アメリカの大学ってプレゼンの量のケタが違うし、ディスカッションの量もとんでもなかった。毎日あがり症総動員。プレゼンの原稿は間に合わないし、ディスカッションは毎日毎日顔を真っ赤にしながら頑張った。
ある日プレゼンの原稿が間に合わなくてぐっちゃぐちゃの英語でしどろもどろになって説明してる時、目の前の子がさ、「どうでもいー」みたいな顔して私のプレゼンを聞いていた。というか多分、あれは聞いてなかった。
その時、私はやっと「あっ、こいつら、私のプレゼンなんてどうでも良いんだな!」って思った。その途端、肩の荷が下りたみたいにすごい楽になった。要は開き直ったんだと思う。
つまり、私は色々なんか完璧でありたいと思いすぎていたんだってその時に気付いた。でも、プレゼンしている相手って本当に自分のことどうでも良くて、噛もうが発音悪かろうが失敗しようがいづれ忘れるんだよね。
これに気付いた時、悔しかったな。自分しか見えてなくて、相手に伝わるように話せてない自分に気付いてしまったので、長らく自己嫌悪に陥った。あがり症だったころは「うまくやらなきゃ!」と思う気持ちが先行してたんだと思う。
それから、私は徐々に原稿を用意しなくてもある程度はプレゼンができるようになった。アメリカでの成績は下の中くらいだったけど、本当に良い体験と勉強をさせてもらったと思ってる。良い友達にも恵まれたし。
日本に帰って来てなんとか社会人になれた。今ではプレゼンにはかなり強い方。同期の中では確実に私が一番プレゼン慣れしていると思う。信じられないけど、あれほど悩んだ上がり症は1年で克服できた。今では100人の前に立ってもそんなに緊張せずに話せる。
最後にその疑問にだけ答えてやるか。
Twitterいじめをしている人間の追放運動は妙な奴の誘導に釣られると無関係な第三者に多大な迷惑をかけることになるが自分で相手してて真性のアホだと思った奴がガイキチだという話はたとえ違っても実害はない。
この手の話をはじめると、決まって「継父の虐待」とか「シングルマザーの境遇では進学させられず...」とかの
キャッチーで酷い話ばかりになる。しかし実態はもう少し中庸だ。
まず、いくら劇的な離婚劇があったとしても、近年結婚した夫婦と子供の大部分は劇的に貧しくはない。
世にでる離婚サンプルは目に余るものばかりだが、国やコミュニティの自負自尊心をくすぐる例しかメディアに載らず
売文できる離婚例以外は基本表には出てこない。
で、
①慰謝料養育費のやり取りが(満額とは程遠くても)5~10年ぐらい続き
③両親の離婚過程を、ある程度余裕をもって観察することのできた子供は多く実在するが、
別に法的責任も道義的責任も果たす両親を見ているし、戸籍上断絶した祖父母や親類との繋がりが残ることだってある。
外のコミュニティを代替物にしてふんばるぐらいのリソースはある。キャリアを積み、家庭も築く。
~ここまでがギリギリ物語やメッセージとして一般人に通じるライン~
ここからがツライ。
引き続き、子供が成人するまでに両親とはそれぞれ緩やかな関係が残るわけだが、
下限がしれたものなら上限だってしれた程度のものにしかならない。
ミクロで見れば努力や精神論の入り込む余地があって、父母を反面教師にした自立への美しい物語ができあがるが、
マクロで見れば自身のルーツや幼年期の愛着を否定されて摩滅するしかない期間である。
特に両親の愛着関係を客観視したとき、そこには幼稚さを気まぐれと醜い打算ばかりが残る。
種々の責任を果たした両親を前にして取り付く島もなく、自身も成長し”こじらせた”子供として振る舞うことができない。
喜怒哀楽の大きな起伏を呼び起こすような局面は特になく、いい大人が長い期間をかけてすり減るのである。
そこには貧しさも激しい葛藤もない。
とりたてて筋が通った話にもならず冗長だから、ひたすら消耗する。
I cant imagine how I confused two such very different waxes.
半角の不等号はスマートフォン用の表示で見るとちゃんと表示されるという…。
I thought that what I had bought was a car wax,
but in fact it was a floor wax.
I cant imagine how I could have confused two such very different waxes.
私が買ったのはカーワックスだとばかり思っていたが実際には床用ワックスだった.
どうしてこんなにも違うワックスを間違えたのか見当もつかない.
I cant imagine how I confused two such very different waxes.
っていう単純な過去形だったらカーワックスと床ワックスを混同することは、
ありえない間違いとまでは言えないということになるだろう。
カーワックスと床用ワックスの混同などするはずがないこと(本人の主観的気持ち)を前提にした上で、
could have confused(二種類のワックスを混同した「かもしれない」)、
もしくは、仮定法として理解して「違う種類のワックスを混同できた(実際はしなかった」という
ありえないはずのことが起きたことに対する驚きの気持ちが、
could have confusedにこもってるんじゃないだろうか?
この例文の「could have confused」は、
「カーワックスと床用ワックスを混同して買った」という客観的事実に対する主観的な評価、感情表明じゃなくて、
「カーワックスと床用ワックスを混同して買うはずなどない」という主観的事実(主観的信念)との相違に対する気持ちが
こもってると理解した。
この文章の「could have confused」のcouldは、「能力」っていうより「可能性」のニュアンスだと思う。
三歳の子供がおばけを凄く怖がり、なおかつ大好きな様子でハロウィン商品を見ながら「ここにもおばけいるのよーお化けこわいのよー」とハイテンションなのを見て、ちょっくら怪談を聞かせたらどうなるだろうとイタズラ心で番町皿屋敷を聞かせてみた。
ムードを出して怖そうに語るだけで「やめるのー」と大変怖がっていた、お菊さんが殺されるシーンでは「ひっ」と体をびくつかせていた、怪談のしがいがありまくり。
そして遂にクライマックス。
「お皿が一枚二枚三枚四枚五枚六枚七枚八枚九枚ああああー」
と身ぶりを交え気分最高潮で語ったところで子供が手に何か持ってる形にして私に差し出してきた。
何かと思えば「はいお皿よ」と言ってきた。
やっと言わんとしてることが解ったので
「ありがとうお皿が十枚」