はてなキーワード: 繁華街とは
店とか遠いんだよね
自転車や車で行くにしても、往復で40分は取られる
学校は片道30分が基本だった
その後政令指定都市に行ったんだけど
やっぱり店も学校も遠いんだよね
全部一通り揃ってるけど、揃ってるだけで近いわけではない
その後関東に来たんだけど
ドアtoドアで60分〜80分
地方より遠いやんけ
駅前に店が集中してるから、私生活は基本的に往復30分くらいで何とかなるんだけど
通勤が長くてそれどころじゃないわ、帰ったら店とか閉まってるしさ
雑貨や家具を見ようとすると、結局地方に居たときと変わらないくらいに往復の時間がかかる
電車で隣駅まで行かないとなかったりする
渋谷とか新宿とかにしか店がないと往復1時間覚悟しなきゃいけない
スーパーが近場にないし、コンビニも遠い、地方に居た頃より不便かもしれん
あと店がビル内だったり地下だったりして迷うし、ハズレ店も多い
その点ネットはすごい
Amazon行くのに2秒くらいだ
そりゃリアルは負けるって
往復1時間以上かけて徒労に終わった時のあの切なさがなあ
https://twitter.com/shinkai35/status/945771033696509952 へのリプライです。書くところが無いので、ここに書きます。この話は全てフィクションで、実在の人物や組織には一切関係ありません。
その日、文筆家しんかいはPCから出るピピピ・・・と言う異音で目を覚ました。翌日が休日である事に安心しきって、ついついツイッターでリツイートされてきたポストモダニストの著作がいかにおかしい話であるかを語っていたはずなのだが、顔にキーボードの模様をつける結果となっている。実感は沸かないが寄る年瀬には勝てない。相対主義が何を主張しようが、ヒトにはその限界がある。そんな事を思いながら、テレビのスイッチを入れようとしたとき、しんかいは異変に気づいた。
部屋に置いてあるそれは、平面的で画面が大きな液晶テレビではなく、画面は小さいが奥行きのある立方体、昔懐かしいブラウン管のもので、ダイアル式のスイッチでチャンネルを選択するそれだ。電源のオン/オフに金属のトグルスイッチがついており、もしかしたら産まれてから実際に目にしたテレビの中でもっとも古いものかも知れない。背面から出て壁につながっているテレビ線のコードは同軸ケーブルではなく、平たいプラスチックの両端に二本の細い線があるものだ。もう平成も終わろうとしているのに昭和過ぎる。が、昭和であってもテレビの裏の埃は変わらない。くしゃみが出てきた。
パチンと電源を入れる。ヴォンと音を立てた後、数秒の間を置いて粗い絵が映し出された。4Kや8Kのテレビの宣伝をみるたびに、もう走査線の本数を向上させてもと思うが、いやおう無しにでもその重要性を認識せざるを得ない絵だ。北朝鮮のテレビよりひどい。2017年12月27日、朝7時のニュースが始まった。アナウンサーの「おはようございます」は、普段通りの番組だが、他は普段通りとは言い難いものであった。見慣れたコンピュータ・グラフィックスの今日の見出しが、アナウンサーの横の黒板に置き換えられている。ボードですらない。何より、国家放送第一と言っている。
しんかいはチャンネルを回してみた。チャンネルはかくんと90度づつ回転し、四つしかチャンネルが無いことがわかる。ぐるっと一回転させる。四つあるチャンネルのうち、一つは白黒の画素が激しく入れ替わるノイズが流れていたが、三つは使われていた。国家放送第二、国家放送第三、ノイズ、最初の国家放送第一。どうやら、国家放送しかないようだ。第二はこの時間帯なのに正しい文学について解説し、第三は老人が正しい体操を実践している。しんかいは、この時点でテレビの登場人物全員が、カーキ色の上着を着ており、一列に並んだ大きめのボタンをきっちり留めていることに気づいた。
チャンネルを国家放送第一に戻す。国民服のようなものを着たアナウンサーが読み上げるのは交通事故や気象情報と言うところは、公共放送のニュース番組と同じだ。しかし、一つ一つについて解説を丁寧に与えていく。しばらく唖然としながら番組を見つめ、思わず「何だ?」とツイートした。ニュースに解説があるだけであったら、驚かなかったかも知れない。しかし、先々月の災害の被災者の感情を、微分可能多様体と言う単語を持ち出して説明しようとしている。そう、ポストモダンだ。ポストモダンについては日本有数の知識を有すると自認しているが、寒気についてのポストモダン的解釈は初めて聞く。
はっきり認識はできているが、全く理解ができない状況。自らの視覚や聴覚を信じることができない。思わず、「テレビがポストモダンになっている」となっているとツイッターに書き込む。「え、愛知だけでは?」「柄谷行人が死んだりでもした?」「ポストモダンに“なる”はおかしいだろう」とリプライが返って来る。誰もこのポモな国家放送を観てはいないようだ。ブラウザーでポータルサイトのニュースを見ても、特段、テレビ放送に関するものはない。ツイッターやフェイスブックの検索でも、しんかいと同じものを見ている人はいないようだ。
このブラウン管のテレビだけが、ポモな国家放送を流しているのであろうか。アンテナ線は壁につながっているが、これはモックなのであろうか。手の込んだ悪戯としか考えられない状況ではあるのだが、手の込みすぎたところが気になった。目の疲れを感じる。気づくと一時間は国家放送を観ているのだが、同じ内容が繰り返し放送されているわけではない。チャンネルは三つ。ブラウン管のテレビも昭和風ではあるが、チャンネルのスイッチは特製だ。粗雑な出来とは言え、かなりの労力だ。現実とも夢とも断言できない。
しんかいは電器店にいって、他のテレビを観ることに決めた。冷静に考えればテレビを摩り替えられたとしか思えないわけで、窃盗で警察に届出を行なうべきだが、この国家放送が持つリアリティがそれを躊躇わせた。無理な体勢で寝てしまったので二度寝の誘惑もあるが、“ブラウン”管からの一つの連想が心をざわめかしていた。ブラウン管の発明者はフェルディナントだが、ポストモダン思想の批判者にも有名なブラウン、ジェームズ・ロバート・ブラウンがいる。
著作「なぜ科学を語ってすれ違うのか」でブラウンは、国家などの社会的構築物が必然ではなく、人々の考えの偶発的な結果によるものと考えると、社会が人々の考えを統制しだしてファシスト国家に陥る危険性を指摘していた。また、ポストモダンの科学的方法への懐疑は、科学の進展を阻害し、技術的進歩を阻害する事になる。つまり、ブラウン管に映し出される世界は徹頭徹尾、ポストモダンに支配された世界と言える。
ポモの危険性を指摘してきたしんかいにとっては悪夢としか言いようが無いのだが、しんかいは心踊っている自分を自覚していた。日常からにじみ出る不穏な世界の兆候。アニメでは親しんだ別世界がそこにある。「けものフレンズ」は好物だ。このときしんかいは、柄谷行人の『日本近代文学の起源』の結核の話をすっかり忘却していた。ポストモダン思想に支配された世界であれば、繁華街の電器店がいかに危険な場所であるかは、最もしんかいが理解しているはずであるのにである。
テレビに見入っていたので気づかなかったが、家を出る前に、アパートの部屋が狭くなっている事に気づいた。振り返れば玄関が見える狭さなので迷子にはならないが、間取りも見覚えが無い。六畳一間と台所、バス・トイレ付きではあるが、便器は和式である。昨夜、帰宅する家を間違えたのであろうか。しんかいは映画「パトレイバー the Movie」の帆場のアパートでしか、似たような物件を見たことが無い。
机の上のPCの下には、書きかけの原稿用紙が散らばっていた。題は「科学のためのポストモダン思想からの脱却」とある。見覚えのある字ではあるが、自分のものを含めて久しく手書きの文字を読んでいないので、誰のものかは思い出せない。大判の封筒も置いてある。宛名は、自分であった。送り主は「鈴木幸子」とある。中はゲラ刷りで、赤が入っていた。出先で原稿を読もうと封筒を手に取る。
ポストが大きい金属製の重い扉をあけると、アパートの外側の廊下に出た。二階だ。表札は確かに自分の名前が書かれている。鍵がないので施錠できないがやむを得ない。ところでここは一体どこなのか。スマートホンを出して地図アプリで位置検索をかける。すぐに「こんな所でスマホが使えるわけが・・・」と思うが、現在位置はあっさり示された。GPSの電波は届いている。インターネットも使えた。自分の場所が異世界なのか、そうでないのか、明らかになってきた状況を元にしても判断が出来ない。
かなりの資力が必要になるが、古いアパートの部屋に自分を押し込む事は可能だ。しかし、衛星測位システムの電波までは防ぐ事ができなかったのであろう。聖戦士ダンバイン以来、主人公が異世界に飛ばされる娯楽作品に親しんできたしんかいは、密かに期待した状況が否定されて落胆する。まだ十分な確信が持てないが、これは壮大な仕掛けの悪戯だ。街の中心部に向かえばはっきりするであろう。しんかいは、金属の音を響かせながら階段を降りていった。
5分後、しんかいは自分が異世界にいる事を確信した。悪戯とすれば、神の仕業であろう。スマホの地図アプリの位置情報は機能していたが、道路の舗装が汚く、空気が汚れていて、高いビルが無いので空が見上げやすい。そして、旅行先でしか見たことが無い路面電車が走っていた。しんかいの知る名古屋市には市電が無い。しかし、ベージュと赤と緑のカラーリングの路面電車が走っている。地図アプリの位置情報は、間違いなく名古屋だ。
道を歩く人々の服装は、男性は国家放送局のアナウンサーが着ていた国民服、女性はもんぺ姿である。しんかいは人々が自分を凝視するのが気になって仕方が無かった。しんかいの格好はPコートにチノパンである。この世界では明らかに浮いている。この恥ずかしさをツイートして紛らわせたい衝動に駆られたが、文章だけでは何を書いても気がおかしくなったと思われるであろう。国民服ともんぺ女性と市電が映った写真を撮って、「ここはどこ?」とつけてアップロードをした。「戦時中の名古屋市」とリプライがつく。
戦時中なのであろうか。朝のニュースではそのような事は一切言っていなかったし、テレビは戦後で、カラー化は高度成長期の最中だ。昭和40年代ぐらいが相場に思える。状況を把握するために、一日中テレビを観ていた方が良かったかも知れない。古くて小さな家電店が目に付く。中に入ると、期待通りテレビが置いてあり、放送を見ることが出来た。店主は商売っ気の無い老人で、都合が良いことに客に関心がないようであった。テレビの出演者は全員、国民服ともんぺであり、ドラマですらそうであった。アパートの部屋のテレビだけがおかしいと言うのは否定された。
しばらくテレビに見入っていたが、空腹を感じてきた。何かを食べたいと思うが、この世界で食事をとる方法が思いつかない。飲食店はあるようだが、市電で使われている硬貨は見かけないものだった。この世界で使える金を持ち合わせていない。このままでは行き倒れ、帰宅をしても孤独死になってしまう。途方に暮れたところで、家電店に若い痩せた男が入ってきた。肌が白い。「単一の電池を・・・」と言ったところで、ゴホゴホと口を押さえて倒れこむ。指の隙間から見える、鮮血。小説の中でしか知らないが、即座に結核と言う単語が思いつく。店主は男の様子を気にせず、「ろうがいかい。向かいの店のホメオパシーが効くよ」と電池を出してくる。これは、不味い。
しんかいは、危機を感じて慌てて電器店の外に出た。ドンと人とぶつかる。「ごらぁ、前を見て歩け!」と旭日章のついた帽子をかぶってサーベルをつけたおっさん、明らかに警官に怒鳴られる。反射的に「すいません」と謝るが、警官はしんかいを上から下まで舐めるように見ると、「おまいさん、なんちゅー格好をしている。ちょっと署まで来い。三日はぶち込んでやる」と言い出した。その瞬間、中で物が落ちて割れる音がした。「お客さん、ちょっと、しっかり」と言う店主の声がする。警官はそちらが気になったのか、店の中に入った。
しんかいは、その隙を見逃さず走り出した。一瞬「逮捕されれば食事は出るかも知れない」とも思ったが、この体制国家的な異世界では逮捕されれば拷問を受ける可能性もある。どこにも行く宛てが無いと言うわけでもない。持って来た封筒の裏側には、住所が書いてあった。何者かは分からないが、「鈴木幸子」を頼る事にしよう。少なくとも、この世界のしんかいを知っている人物である事は確かだ。
何回増田で同じことを聞けば気が済むんだよ
東京生まれ東京育ち東京在住歴35年だけど地元から繁華街にわざわざ出かけるのはなんか目的があるとき
六本木ならおいしいメシを食いに行くときとかマックカフェ併設のマクドナルドに行きたくなったとき、あと新国立美術館や六本木ヒルズ、ミッドタウンでなんかイベントやってるとき、ちょっと溜池山王まで歩いてそのまま国立国会図書館に行ってもいい
渋谷ならメシ、Apple Store渋谷、丸善ジュンク堂、BUNKAMURAとかウィンドウショッピングとか、モヤイ像に挨拶したり、あとは原宿青山表参道外苑前代官山恵比寿までそのまま歩いて行ったりもする
新宿はなんでもあるだろ
メシ、紀伊國屋書店新宿本店、伊勢丹新宿本店、世界堂本店、新宿御苑、バルトで映画、ビックロ、小田急百貨店、小田急ハルク、京王百貨店、都庁の展望階に意味なく行ってみる、地下街を歩く、ゴジラに挨拶、疲れたら新宿野村ビルの半地下休憩スペースで休憩だ
公共の場に大きな文字で「平成」と書かれているのを目にとどめておきたい。
出来れば写真にも収めておきたいと思っていて……
新宿のアルタから池袋、銀座、品川、秋葉原、八重洲、丸の内、いろいろな繁華街で電光掲示板やビジョンを探しているのだけれど、
日付だけだったり、年が出ても西暦だったりで、「平成」の文字は見当たらない。
昔は郊外の駅前のロータリーには、昭和XX年X月X日とか、気温とか、天気予報を知らせるような電光掲示板があったような気がするんだけど、
それも無くなっていたり、西暦になっている。
「不真面目なことをやりたいです」といってどれくらいの人がこの気持ちに共感できるだろうか
この気持ちを抱えたまま、私は上野駅周辺の大きい交差点についた。
私はここ最近、土日にやる事がなくて暇になっていた。暇になったのであれば外に出れば良いと言うが、完全なインドア派の人間だったので、外に出るのは極力避けたかった。
だが、家にいても何かやる事がなく無駄に時間が流れるのがわかってしまう。
外には出たくはないが、家に引きこもってるのもなんか嫌な気持ちなのだ。
そんな相談を会社の同僚にしたところ、帰って来た答えは実に真面目だった。
資格勉強、習い事、ボランティア活動、副業などなど。やる事は沢山あるぞと言われた。
実際いくつかは過去にやった事がある。だか、どうにも義務感を感じてしまうのか、楽しいと感じる事も無く辞めてしまうのだ。
暇をどうやって解消するのか、試行錯誤の上で出た結論は、私は自主的に無駄な事をしたいのではないかと言う事だ。
「人生の中で常に最善を尽くして来た」と言う気はさらさら無い。
ただ、心情として自主的に不真面目な事をやろうとか、無駄な事をしようとおもって行動した事が余り無い。
喉が渇いても、自宅に帰れば水分補給出来るなら自販機で買い物はしない。
映画を観に行って、ポップコーンが美味しそうに見えてもポップコーンは買わない。映画館のポップコーンは割高で、わざわざ高い所で食べる必要は無いからだ。
とりあえず、私は仕事の帰りにコンビニで特に飲む必要はなかったのだが甘い紅茶の飲み物を買ってみた。
飲んでみたところ結構美味しい。
そのまま、上野駅を探索してみた。
若い頃は視力が良かったのだが、最近急激に悪くなってしまいメガネを2年ほど前に買っていた。
別にメガネを掛けなくても良かったのだが、久し振りに掛けて見ることした。
一般の人からみればこれはただの交差点だ。自分も眼鏡をかけるまではそう思っていた。
だがここは宝石のように輝くビルに綺麗な色の信号機。それと一台毎に違うライトを放つ自動車が延々と輝き続けていた。
子供のときは今のイースター的な存在感だったから、こんなに盛り上がるとはびっくりだよ。
で、繁華街の某ファストフードチェーン店で働いてる店員なんだけど、一言言わせて。
可愛いアリスとか海賊とかアニメキャラとか、そこまでのコスプレはいいの。
けど、血糊つけて出歩くの本当にやめて欲しい。
最近の血糊は良く出来ていて、
客席の机やカウンターにつくと本物の血か血糊かわからないんだよね。
毎回毎回アルコールで拭いてるんだよね。
はっきり言って、捌かないといけないお客さんの数がハロウィンで増える中、
これを毎回毎回やるのめんどくさい。
それに、血糊だとわかってても視界に入ると、一瞬ギョッとするし。
あと、飲食店関係ないけどさ、顔面マスクでカウンターに来ないでよ。
いくらハロウィンでも、顔がわからない人間を接客するの本当に怖いから、本気でやめて欲しい。
豪邸に住んだり美人妻を抱いたりする生活とは縁遠く、それどころか無縁仏になる連中が増えているのに意外と幸福らしいのである。
これは大衆消費社会において誰でも持てるような製品がQOLを上げているからであろう。
やはりiPhoneは革命的だったのであろうし、そして技術がこなれてきて、中華製のAndroidでも十分過ぎる状態になっている。
究極の美は、やはり肉体によって体現される美なのであろうし、その素肌の熱さはセックスという行為で貪らなければ得られないが、
しかし、スマホの中の流麗なグラフィックを花鳥風月のように愉しむこともできる。
この満足が美人を抱くことに匹敵するとは言うまいが、代理満足としてそこそこ潤いにはなっている。
恋愛というゼロサムゲームは永遠の難題としても、有象無象の俗衆が手にできる生活の利便性は上がっており、
古来より問題であった孤独という問題もスマホが解決した。ネットでの関係など蜃気楼のようなものだが、
昔の隣近所のような煩わしさはないし、これなどは代理満足のほうがむしろ望ましい。
現在ではダイソーとかドン・キホーテのような安物の雑貨を売る店が大繁盛している。物を買うのは所有権の拡張であり、買い物でストレスは軽減される。
自分の所有物を増やすのが自分の世界の拡張だが、立派なマイホームを買わずとも、ダイソーの製品で安普請を埋めておけば事足りる。
豪邸や美人妻は手に入らなくても、意外と洒落た安物雑貨を自己所有し、自室に並べることはできるのだ。
ネットに生成されるバーチャルなアイテムは、ダイソーの百円商品と同じ文脈のものである。
われわれはネットにおいてあれこれと所有し、自らの版図を広げることができる。
女さえ断念すれば金持ちと大差がないと言うことさえできる。
もはや大塚家具を並べなくていいと思うし、ダイソーの整理箱で十分である。
巣鴨プリズンで拘置所暮らしをしていた戦犯は、それなりに暮らしやすい質素な生活と読書三昧によって、健康で教養豊かになって戻ってくる人も多かった。
ここ数日、仕事やプライベートで振り回されて、少しグッタリしていた。
周りからは年齢不詳などと言われるが、実際の俺は贔屓目にみてギリアラフォー、立派な中年なのだ。
ハッキリと分かる悪い事ばかりじゃなく、もしかしたらいい事かも知れなくても、ボンヤリとしている未来に目を凝らして右に左にやられると、身体も心もちょっとヘタってくる。
大久保公園に足を運べば、疲れ気味の心に騒がしすぎないちょうどいい賑わい。
何を食おうかな。
いや実は決めている。
東京に来て長いが、札幌市民にとって、カレーと餃子は切り離せないパートナーなのだ。
東京最大の繁華街のグルメフェスでキメてやったぜ、みよしのプレイをな。
だけど、死ねなかった。先週の話。
あまり鮮明な記憶は無い、ただ気がついたら首にバッグの紐が巻きついていた。
紐は運転席の手すりにくくりつけられていた。
車内の時計を見たら、朝6時を回っていた。会社の駐車場にいて、付けっぱなしのカーラジオが流れていた。
首に紐で絞めた跡と喉に残る圧迫感、それから「私、死のうとして死ねなかったんだ」と気付いた。
衝動的に死にたくなることは度々あったが、実行に移してしまった自分にショックを受けて、
まさか自殺に失敗してショックなので休みたいですとは言えなかったので、休むことは認められず何事も無かったかのように出社するように言われた。
死のうとする前に泣きじゃくったのと、首を絞めたせいかわからないけれど、目も顔もパンパンに腫れ上がってそれはそれは酷い顔だった。
前日最後に会って話した社長にギョッとされ、その際のやりとりについてたしなめられ、とりあえず顔洗ってメイク直して営業出ろと指示をされた。
首の傷を指摘されたが、社長と話した時点で泣いていたのでその時に擦っちゃったかもしれないです〜とヘラヘラ笑ってごまかした。
その後普通に1日外回りをして、翌朝も普通に出社して、いつも通りの日常が流れている。
人が死のうとしようがしまいが、思ったより世界は動くことがない。
死ねなくても車で首を吊ってグッタリしているところを会社の人間に見つかっていればもっと大騒ぎになっていたかもしれないし、
私が働く会社の体質は、誰か死にでもしない限り変わらないと思っていたけど、何人同じような理由で逃げ出しても変わらないからきっと下っ端の私が死んだところでなにも変わらないんだろうな。
このところ1日17~18時間働くのが日常になっており、自分の不始末で起こした事故から何度も警察に行ったり仕事で車を使うことを禁じられたり業務後深夜の繁華街で運転練習したり、自分の至らなさから起こったことで気力も体力も消耗し尽くしていた。
その中でも少しだけ持ち合わせていたプライドで、どうしようもない状況下でも明るく振る舞い、逆に以前より仕事ぶりを社内外で評価されるくらいには前向きに仕事に打ち込んだ。
そんな中で、このチェックをクリアしたら再び車が使える、という場で、疲労から来る注意散漫さから失敗を繰り返してしまった。
午前3時は確実に過ぎていた、運転は認められないと言い渡され、自分の中で耐え忍び続けて繋ぎとめていた糸がぷつりと切れた気がした。
そこからは、一人で泣き喚いたことくらいしか覚えていないが、他の上司に手当たり次第電話をかけまくっていたこと(着信履歴を見て確認)、
社長に無言電話をかけていたこと、ツイッターを更新していたことはログから確認できたが、どうやって首を吊るという発想に至ったかはわからない。
幸か不幸か、死にたくなるときはあっても実行したことがなかったおかげで、車で首を吊るときは車高が高い車の手すりに紐をかけないと失敗しやすいという情報を知らなかったため、今回は未遂に終わった。
不思議なことに、今は非常に前向きに仕事に取り組めている。この気分の振り幅は自分でコントロールできない。
そして自殺未遂から少しして、自分の仕事が辛い、わかってほしいという気持ちが私より強かった後輩が会社を飛んだ。
後輩は強く非難され、無責任さに関して私も同調していたが、逃げることに関しては手段と価値観が少しだけ違っただけで私だって人のことなんて言えない。
後輩にとっての逃げ道は退社すること、私にとっての逃げ道は死ぬことだからだ。
また今日も仕事のプランを考え、秋服に合わせて買った新色のリップをどうやって明日からのメイクに取り入れるかちょっとだけ悩んで、