「節度」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 節度とは

2023-03-06

駅内で酒買えるってよく考えたら異常だよな

いや、俺は良い意味で異常だと言ってるんだ。

だって酒飲んで凶暴になったり常軌を逸した行動に出る人は多いし、 だからこそ他の先進国には路上で酒を飲むななんて道路標識すらあるんだもん。

そんな標識必要にならない程度にはみんな節度を守って酒飲んできたからこその今の緩さがあると思うと、日本はすげぇなと思う。

まぁビール数杯飲んでも運転できるような先進国との比較だが。

anond:20230306010707

AVオタク節度を持てずバカスカ金を使うし

アンプDAC積み出してスピーカー自作なんか始めちゃったらもう危険

2023-03-05

anond:20230305025222

たぶんリベラル理解がずれてるんだろうな

リベラルの反対、コンサバで考えると分かりやす

コンサバは「こうしなさいああしなさい、これがあなたの為よ、これがお国のためよ、これが正しいのよ」と伝統的な価値観を子に刷り込んでいこうという思想

現代創作はそういう流れに抗い、若者自分たち価値観形成していく、若者が主役になる冒険活劇になる

これがリベラル的ってこと

コンサバ創作はどういうものかっていうと、中国共産党ゲーム規制でやろうとした内容が分かりやす

ゲーム精神アヘンだとしたり、男の娘BLダメ、男は男らしく、女は女らしく節度をもった格好で、未成年時間制限エログロホラー政治的ものダメ欧米文字表現より漢字使え、そういう表現規制や消費スタイル指定していく考え方に与するのがコンサバって思想

換言すると傲慢統治者思想だな、民は愚かだからキツく縛ってやるのが愛なのだというパターナリズムに極めて近くなる構造コンサバは持っている

現代創作コンサバ寄りの「○○ならこうあるべき」を描いてるのはほんと古臭い胡散臭い人が書いてる(例えばゴーマニズムとかそれ系の)主張が強い系しかなく、むしろ現代漫画アニメゲームは「○○でもいいんじゃないか」「こういう在り方もあるのか」と思わせるリベラル作品ばかりだ

もちろん現代でも家族愛女性を守る、地元を愛するみたいなコンサバ寄りの発想を美しく描いて作品テーマに織り込んでるのは多いけど、教条的にしてなければ保守臭さはでずに全体としては新旧の価値観調和をめざすって意味リベラル作品になる

2023-02-28

はてな民度が低くなったのは増田が原因です

増田にはすごくお世話になったからこういうことは本当は言いたくないんです。

でもみんな気がついてるでしょ?

はてな民度が低い原因は増田にあります

増田って昔からあるから関係なくない?」

そう思いますよね。それを説明するには、「日本死ね」以前と以後の増田の使われ方の変化を説明する必要があります

それまでの増田は、顕名ではかけないような恥ずかしいことやおかしネタを投下するために使われてました。

うんこもらしたりうんこもらしたり、あとたまに有名な人が身分を隠してうんこもらしたり。

かく言う自分もそういうサービスおもしろさに惹かれて、どうしてもキャラクター形成が避けられない個人ブログよりも、単発のネタ面白さで勝負できる増田ネタ投稿するようになりました。

どうせ個人ブログマネタイズなんてできてないし、だったら一人でも多くの人に見てもらえたほうがいいよねという感じです。

はじめて書いた長文増田文学が500ブクマ超えたとき作家になれるんじゃないかって勘違いちゃうくらいに嬉しかったです。

お陰様で1000ブクマを超えるような増田も年に何本か生み出せるようになり、自分にしてみれば居場所を見つけたような感じでとても幸せでした。

そんな頃に投下されたのがあの「日本死ね」でした。

明らかにいつもとざわつき方が違っていたことをはっきりと覚えています

みるみるブクマを伸ばし、全く知らないサービスでまで取り扱われて、しまいには国会でまで読み上げられてしまいました。

増田というサービスにしてみればある意味メジャーデビューしたような感じだったのかもしれませんが、増田作家としての自分にしてみればなんとも言えない不安でいっぱいでした。

そして今、その不安はほぼ的中しています

日本死ね増田は、増田というサービス匿名社会的批判を行うことができるツールとしての認知されてしまうようになったのです。

自然増田には社会批判を扱うネタが増え始めました。

そうなると次は社会批判に反応する増田ウォッチャーが増えてきました。

これによってそれまでおもしろネタを探していた増田全読ブクマカーたちが離れ始めました。

おもしろネタにしてみれば社会批判ノイズです。そんなノイズの多い増田を全読するのは目的のために労力が伴いません。

そうなれば当然、おもしろ増田に対するブクマは減ります

自分の書いた増田ブクマがつかなければ、当然書く意欲もなくなります

社会批判ネタに負けないように色々とネタを書いてきたつもりですが、やはり伸びは悪く、周囲からおもしろ増田作家が少しずつ減っていくことが感じられました。

色々なネタ投稿してウォッチャーたちの反応を伺うようにしていましたが、お役立ち系は相変わらず伸びがよいものの、おもしろ系は空振りが増え、煽り批判系には非公開ブクマが増えるようになりました。

増田を書く上で意識必要な、注目エントリーの壁というものがあります

増田を全読するということは普通人間ではまずすることはありませんが、注目エントリーくらいならこまめにチェックしてもいいかなというブクマカはたくさんいます

まり、まずは注目エントリーに載ることが大事なのです。

ところが、この注目エントリーというのは、たった3ブクマで載ることができます

そうです。サブ垢2つあれば簡単自作自演ができるのです。

もちろんブクマカの目も節穴ではないので自作自演を見極めることは簡単ですが、注目エントリーという仕組みが先着順になっているため、他の増田注目エントリー入すれば自分増田注目エントリーから流れてしまうようになります

まり、やろうと思えば、自分が書いた社会批判的な増田注目エントリーを埋めることはそれほど難しくないということになります

増田というのはサービス性質上、発見されるにはある程度運が必要だったりします。

そのため自分増田ブクマがつかなかったのが、内容なのか運なのかの判断が難しいという点もあります

それでも自分投稿数に対して注目エントリ入りする確率が明らかに下がったと感じられる状況は、自分増田を辞めるのには十分すぎる理由になりました。

このところ、はてなトップに上がってくる増田は明らかにネタ系が減り、他人社会への批判などネガティブものばかりになった気がしているのは自分だけでしょうか。

たまに気が向いた時に増田を書いてみたりもしますが、いつもならブクマしてくれていたような全読ブクマカさんがこのところめっきり見られなくなったのは気の所為でしょうか。

こうした変化にどういった背景があるのかは世間ネットワークサービスにうとい自分にはわかりかねますが、その結果、自分のようなおもしろ増田作家さんたちは結果的に筆を折り、さらネガティブ増田作家が幅を利かすようになってしまったのではないかと考えています

まりは、そういう使い方に対して、増田システム脆弱であるということです。

それが、過去増田作家ブクマカたちの善意によって守られていただけで、日本死ねで世の中に注目されてしまたことで治安崩壊してしまい今に至るのではないかという推測となります

(他のサービス匿名を維持できなくなったとか、そういうことも関係していると思います。)

はてなにおいてはHagexさんの事件も大きな影響を与えたと思いますが、どちらかというとあの事件後は、むしろ匿名の秘めた危険性に気づいて内容がマイルドな方向に向かっていたように記憶しています

しろ増田ガス抜きになって欲しい。そんな思いを感じながらときには自分ピエロになって増田を書いたりしていました。

そういうわけで、はてな民度が低くなった理由は、民度の低い人間に利用されるにはあまりにも脆弱システムである増田放置されている現状に原因があると考えます

節度のある人間にとっては自由で最高のサービスでしたが、これはもうサービスが停止されてもしょうがない状況だと思っています

唯一増田作家として提案できることとしたら、増田投稿時に作者側がカテゴリーをある程度指定できるようにして欲しいということでしょうか。

それによって、おもしろカテゴリーだけなら全読しても良いよというブクマカさんが帰ってきてくれたら、増田作家も帰ってきてくれるのではないかなと思います

ごめんね増田。お前を守れなくて。今までありがとう

2023-02-27

著名人レスバトル

著名人レスバトルって誰も得しないと思うんだよな

著名人同士のバトルなら、互いに立場がある以上節度が一応あるし、最終的にはレスバで決着ではなくて法廷で決着になる

戦っていること自体エンターテイメントでもあるし、戦いのさなかに考えが表明されるのでファン失望も同時に得られるから、バトルで負けても必ずしも損ばかりじゃない

でも、著名人vsネット匿名のバトルは無益じゃない?

無視したら逃げたと言われる、って言っても、匿名の呼びかけを著名人無視してもそれは当たり前に見えるし、逃げたって騒ぐやつほど小物なんだから著名人ダメージがあるとは思えない

そして匿名著名人のバトルは、匿名側に節度がないし、レスバで決着なんてつくほうが稀で、相手は何の専門家でもないなら議論別にまらず、説明を重ねたってファンが増えるわけじゃない

レスバで熱くなる人、みたいなイメージけが残る

本当にネット匿名有象無象なんて無視するに限ると思うわ

まれ有名人は本当に可哀そうだと思う

2023-02-21

寝坊してこれはヤバイと思って車に飛び乗ってからスピード出しすぎて事故っちゃ駄目だと法定速度を守ってたら遅刻しました

一般にそれを「失敗」と言います

言いますよね?

俺は言うと思います

何の話かはあえて語りませんが、私は「失敗」と言うべきだと思います

ただ、「もっと大きな失敗の可能性はあったので、それを回避しようとしたのは『ある意味成功』だった」ぐらいのことは言ってもいいと思います

でもそれは「ある意味成功」でしかなく、一般的には「失敗」と言うんじゃないかなと思います

私も気分的には「専門家に失礼な態度を取る礼儀知らずなど素人」を馬鹿にし返したいという気持ちがあります

でもそれは気持ち問題しか無いなと思うわけです。

もしもこの人が節度ある態度を持って「でもやっぱり失敗なんじゃないでしょうか?」と訪ねていて、そのとき専門家の側が「失敗じゃねえっつってんだろ!!!」と叫んでいたとして、私はこれまたその高慢専門家馬鹿にし返したくて失敗であると熱弁していたと思います

まり気持ち問題なのです。

気持ち問題を離れてフラット目線から見ると、やはりこれは「失敗」だったと言っていいと思います

成功確率が物凄く低かろうが、狙い通りの結果が出ないなら「失敗」でいいと思います

万馬券を買って外したなら、確率が低いことを成功させるために努力したという背景などとは無関係に「失敗」になると思います

やはり今回の場合は「失敗」なんじゃないでしょうが

私も気持ちとしては「高慢ちきな失礼ど素人ネットボコスカに叩かれているのを見たい」という気持ちがありますが、その感情に引きずられてしまうのは「科学的な態度」を失うことであり、そんな態度で接してはならない問題だと思うのです。

から私は「失敗」だったと思っています

以上です。

2023-02-08

優等生が成績表見る感覚と同じで節度ある買い物できる人間は明細見るのも楽しいんだよね

2023-01-14

anond:20230114163447

節度のある振る舞いばっかりしてたら全くお金にならないので資産家以外はプロになれなくなっちゃうんだよなあ。

素人の俺の方がプロよりも賢い」と信じられる神経というのもよく分からないが、そうした権威失墜の責任は「プロとしての節度ある振る舞い」を軽視してきた連中にこそ求めたいという気持ちもある。

2023-01-12

「愛がある」ならテレビ番組スクショ投稿してもいいのか

テレビ番組に関する情報Twitter収集すると、番組ファン番組の見どころとなる場面をスクリーンショットしたツイートが人気になっている様子をよく見かける。

テレビ番組スクリーンショットしてツイートすることについて、自分なりに整理してみる。


テレビ番組アップロード違法である

「つかまるよ、マジで。」のCMでおなじみのとおり、テレビ番組動画サイト等に許諾なくアップロードして公開することは違法である

事実YouTubeTwitterアップロードされたテレビ番組は日々削除が行われている。

ただし、迅速な削除が行われるのは著作権者から申請があったときであり、第三者申請を行った場合は反映されにくいのが現状である


スクショだけならセーフ」という線引き

どのような投稿が削除されるか、インターネットを使っていればなんとなく分かってくる。

例えば、

有料配信の内容をアップロードする

・画面キャプチャ対策がされているサイトアプリで、回避するツールを用いてキャプチャする

番組全体をアップロードする

・明らかな悪意を持って誤解を招くような切り取りをする

このような内容の投稿であれば、削除申請対象とされやすいということは理解してもらえると思う。


以上を踏まえると、「違法アップロードではあるが削除されにくい投稿」というものが見えてくる。

無料公開されたことがあるもののみアップロード対象とする

・画面キャプチャ対策がされていないサイトアプリの内容をアップロードする

動画の切り抜きは行わず画像のみアップロードする

番組面白さを伝えるような切り抜き方をする

加えて、

TVerYouTubeなど公式で視聴するためのリンクを添える

といった工夫をすることもあるだろう。


番組ファン番組面白さを伝える目的違法アップロードに手を染める場合、多かれ少なかれこのような「グレーゾーン」を各々定め、投稿する際の免罪符としているはずだ。

もちろん、これらの行為を行ったからといって違法性が無くなるものではない。


SNSテレビ番組

考慮するべきなのはテレビ番組側がスクリーンショットによる拡散を誘発している可能性があるということである

例えば、バラエティ番組テレビ千鳥』では、ボケとなる画像ツッコミ台詞テロップで載せた画面を数秒間表示するという風変わりな演出を多数行っている。

これは、テレビ番組制作者が「ここでスクリーンショットを撮ってSNS投稿し、この一枚絵を話題にして欲しい」と視聴者に対して言外にアピールしていると受け取ることもできる。

出演者においても、このような違法アップロードを含むツイートに対して引用リツイートといった形で反応することがあり、それが好意的文脈とき、この問題をより曖昧にしている。

節度を持った違法アップロードであればむしろ拡散のために一役買っている、という奇妙な論理が生まれる土壌は確かに存在している。


「愛がある」ならテレビ番組スクショ投稿してもいいのか

テレビ番組アップロードすることは違法である

一方、すべての違法アップロードを削除することは技術的に難しいのが現状である


ただ、違法アップロードを食い止めるための技術が年々向上しているのは事実である

つの間にかアプリTVerではスクショを撮ることはできなくなったし、有料配信プラットフォームでは画面キャプチャに対する強固なプロテクトが用いられるようになった。

YouTube違法アップロードに対する動画の削除、アカウントの停止がより迅速に行われるようになった。


さらなる技術向上により、スクリーンショットすら難しくなり、アップロードしたら即座に削除される時代が来る可能性は十分に考えられる。

その一方、テレビ番組側がガイドラインを制定し、定められた形であれば画像動画を用いた投稿を認めるといった方向に進むことだってあり得る。

テレビ番組への愛がスクリーンショットを用いた違法アップロードという形で表れているのは、違法ではあるが削除されないというねじれた時代が産み出した声なのではないだろうか。

2023-01-09

anond:20230108135908

アメリカでもそんなもんなん」というよりも、アメリカ差別の本場だからな。

上澄みは素晴らしい人間もいるけど、全体として見たら差別主義者とセクシストが多いのがアメリカだよ。

欧州だってアメリカよりはマシだけど、平均的に酷いのにかわりはない。

欧米だとセクハラってほぼレイプレベルだしな。

日本はほぼみんな節度を持って相手尊重するから、むしろ世界的にはかなりモラルの高い国だぞ。

まあ、日本完璧とは言わんし、分野によっては欧米を見習うべきところもあるけど、全体的には世界でも日本はかなりモラルの高いまともな国だ。

2023-01-08

オタクキモい

なぜなら「オタク」には、社会性や好奇心や知性や良識があり、アニメなどのエンタメ作品節度を持って楽しむ善良な人物を含まない。

(彼らは単にアニメが好きな一般人などと呼ばれていることからもわかる)

オタク」は、現実に対する視野が異常に狭く、社会性がなく被害者意識が強く攻撃的で幼稚で良識と知性に欠けた、差別主義者で客観性のない、知的障害知的障害グレーゾーンの連中を指しているから。

キモいというか普通に有害養護学校に通ってソーシャルトレーニングを受けるべき層が自身有害性に無自覚なまま暴れている。

オタクキモい

なぜなら「オタク」には、社会性や好奇心や知性や良識があり、アニメなどのエンタメ作品節度を持って楽しむ善良な人物を含まない。

(彼らは単にアニメが好きな一般人などと呼ばれていることからもわかる)

オタク」は、現実に対する視野が異常に狭く、社会性がなく被害者意識が強く攻撃的で幼稚で良識と知性に欠けた、差別主義者で客観性のない、知的障害知的障害グレーゾーンの連中を指しているから。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2023-01-04

anond:20230103194346

どんなに外面がよくても、女はちゃんとした社会人経験が少ないこともあって異文化の弱い相手を見るとモラハラするからね。

近すぎない距離感礼儀節度をもって弱い相手と接するということが訓練されていない。

残念なことにそれは増田母親例外ではない。増田に対しては優しくて常識人でも必ずモラハラをする。

そしてそれは増田の嫁もそうで、現に増田に対してモラハラをしてきている。

2022-12-23

anond:20221222230122

ちゃん節度をわきまえないと自分だけじゃないからねそういう問題

自分のまわりもそうだし相手にもそうなんだから

2022-12-21

anond:20221221200552

地獄への道は善意で舗装されている

しか天国への道も善意舗装されている

その善意は、勤勉、節制、そして何よりも重要常識に基づく善意である

まり勤勉でもなければ、節度もなく、常識のない人間善意は全部地獄への切符ということなのだ。

anond:20221220124048

惜しい。


人間はそこまでバカではないので、

人が入れ替わっている部分もある。


かつてヘイトスピーチビジネスで稼いでいたアフィリエイトブログ(とプロツイッタラー)が、

女性叩きに移行した。それによって現在アフィリエイトブログを見る層がそのまま女性叩きをしている。

10年前から変わらずアフィブログを見る習慣のおじさんは、

韓国ヘイトに加えて女性ヘイトもやっている。

インターネット習慣は変わっていくから

10年前に韓国ヘイトをやっていた人間も今はやっていなかったり、韓国中国ゲームで遊んでいたりする。

また新しい世代オタクはいきなり女性ヘイトから入る。

実際にネットウォッチをしていると、女性ヘイトを繰り返している高校生オタクなんかもよく見かける。


これは表現の自由が悪いのではなく、

資本主義が悪い」というのが正解である

これが皆わかっていない。

ヘイト性的搾取(男女問わず)で金儲けする事が可能、という状況がそもそも悪いのである

一切の金儲けを禁止すれば、過度な煽りは無くなり、

節度が守られた性的消費(過度に宣伝する必要が無くなるので、人目につかなくなる)だけ行われる事になる。

2022-12-20

anond:20221219231247

個人的には嫌韓厨大嫌いで絶対にそっちには寄らないようになったけど、

彼らが2chの専門板を荒らさず、ニュース板でも節度を守り、気持ち悪い憎しみを発露せずいたら

果たして自分は心の奥底にある差別心の萌芽を抑え込むことができたのだろうかとかたまに考える

2022-11-20

anond:20221120164005

まだまだだな

一周回ってそういう「経験」のための消費はかなり娯楽消費としては良質な方だと分かるはずだぞ

何かが盛り上がってる時に盛り上がりを体験する、物語の一部に入るためにする消費ってのは、その時にしかできないことだしその時にしか得られない体験になる

そして物事はなんでも流行り廃りや飽きというものがあるのだから、それ込みで考えたら物惜しみしない消費というのは枯れ果てたオーソドックスものしかなくなってしま

そういう権威的な趣味でイキる人というのは大概見栄のために浅すぎる所で留まっているばかりで趣味の域といえるか微妙レベルが大半であると気づくだろう

その空虚さを痛々しく感じられるようになるまでディープ世界にハマったことがないから、本質を捉えた価値判断ができる程度の想像力も育まれず、肯定感にも至らず、趣味人的な浪費をあとから無駄だったと切り捨ててしまえる自己否定に逃げてしまうわけよ

もちろんどんな消費にも節度というものはあるべきだし、そのへんの自己管理能力の有無というのはまた別の問題ではあるが

「隣りのお爺様に『人に迷惑をかけるな、躾をしろ』」

藪ノ氏は16日21時45分、「起業家あるある?」とのつぶやきとともに、電車内でのエピソード投稿した。

「先週末三男(5歳)と電車に乗ったら、自由にさせすぎたのか隣りのお爺様に『人に迷惑をかけるな、躾をしろ』とめちゃくちゃ怒られる...」

「私は反論して、『子どもは泣いたり騒いだりするのが仕事。うちの家では過度には周りに迷惑をかけるなとは躾けていない。子どもの探求心を伸ばしたいから、見ず知らずのあなた価値観を我々に押し付けないで欲しい』と伝えました。

当然お爺様は憤慨してましたが、三男を後で『傷ついた?お父さんが守ってあげるよ』っと言ったら『全く!!』とあっけらかんとしていました。さすがうちの子

会社はこの書き込み問題視した。翌日の14時に緊急対策本部を設置し、対応協議を始める。17時には社外役員や外部の専門家を含めた対策委員会を立ち上げ、再発防止策を練った。

電車での迷惑行為を助長する可能性がある」

22時51分までに投資家などに向けて謝罪文を発表し、藪ノ氏のツイート個人立場としての発信であるものの、「電車での迷惑行為を助長する可能性がある不適切発言で、弊社取締役として、節度配慮ならびにマナーにも欠けており、当人問題だと認識し深く反省しております」と会社認識を示した。

「今回ご迷惑をおかけした乗客の方、お客様及び関係者の皆様、また、起業家起業家を目指す方、電車を利用される皆さまに不快な思いをさせてしまいましたこと、心からお詫び申し上げます」と謝罪し、藪ノ氏もツイッターで同様の声明を出している。

藪ノ氏は2022年12月からの3か月間、役員報酬の10%返上を申し出たという。クックビズ社は研修などを通じて再発防止に努めるとする。

会社研修社長を参加させて改善させるってこと?

なんか面白いなw

2022-11-04

東京の人、飲んだくれに優しい

良く飲んで帰るんだけどたまにめちゃくちゃ悪酔いして死んでる時あるんだよね。

そう言う時って駅のホームのイスで項垂れて何とかなるまで待つんだけど今まで数回だけ介抱してタクシーに乗せるまでしてくれた人と水差し入れてくれた人が数人いて「東京の人やさしい…」と強く思ったんだよね。

だってさ、酔っ払いとか近づきたくないじゃん。

いつ吐くかもわかんないし。

自業自得で死んでるわけだし、迷惑まりないじゃん。酒臭いし。

下心があるなら別だよ。酔っ払って良くわかってないうちに手を出そうとかならまだわかる。

でも今まで優しくしてくれた人みんな水差し入れて即去かタクシー乗り場で捕まえるまでしたら去る人しかいなくて本当に善意で助けてくれる人しかいなくて凄くありがたい。

うそう言う人みんな幸せになってほしいし私も酔っ払いに優しくしようと思いつつこんな酷い酔い方もうしないようにしよ…と思いながら飲んでる。

最近ちゃん節度ある迷惑にならない飲み方で帰ってる。知らない人から心配されるような飲み方かっこ悪いから猛省した。

飲んだくれて自業自得で死んでる人たちを助けてくれる優しい方々本当にありがとう

あなたの優しさで復活して家に帰れています

良い事がたくさん起きてほしい。

2022-10-20

キャラクターの扱い

全年齢向けに作られているコンテンツキャラクター18禁イラストSNS上に大っぴらに投稿する行為コンテンツを支えているスタッフから見ると、実在する女優ディープフェイクを作っている行為と何ら変わりないとすら思うし本当に心が痛む

全年齢向けに作っている作品でも「ユーザー欲情させよう」という明確な思惑を感じることができるコンテンツならいいけど、そういう訳でもなく、コンテンツ理念と反してユーザーたちがエロイラスト脳死投稿しているのが本当に許せない 

規制しろとまでは思わないけど、ある程度節度を持って、「見たくない人」の存在意識して配慮をするとか、ある程度マナーを守ってやってくれ

好きなキャラクタートレンド入りしているのを見て、蓋を開けてみると悪意に溢れたエロパロで溢れているのは本当に嫌だよ

頼むよ

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