はてなキーワード: 必然性とは
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
細かいことは直に読んでもらえばいいので特に言わないが、少し書いておきたい。
最初に、市長とその周辺の人たちが何を考えているのか、手短にまとめておきたいと思う。
まず、大阪府市の負担軽減を視野に入れた、文楽に対する姿勢の見直し。たとえば橋爪紳也顧問が、
と書き、あるいは池末浩規参与も、
大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく、市が出金するとすれば、それは市民や来街者、観光客から見て魅力になっているような文楽に、必要かつ可能な範囲で援助をするというものになるはずです。
と書いているように、大阪府市としては文化保護名目での補助はしない、ということだ。(ただし、国が負担を認めるまで育成費用の補助4000万程度は出すそうだ)
そして、
再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する
と参与も書いているが、観客動員に一定の目標をおき、その達成のためより効果的なプロデュース・マネジメントが必要であるからそのために改革をしようとなる。
この点については実は私も同感で、文楽を全体として統括的にマネジメント・プロデュースすることができてないのではないかという不満は以前から感じていた。それに、どうしてもお役所仕事なのでスマートとは言い難く、大阪弁で言えば「もっちゃり」した感じにならざるを得ない。
さらに技芸員の意識改革を促している。旧来の殻に閉じこもっていてはダメではないかというわけだ。「意識改革」の具体的な中身としては、ミニ公演などのプロモーションはタダでやるべきなんじゃないのかとか、もっと観客の声を聞くべきだなどなど。
あるいはメールで技芸員の公務員化について触れられているのももっともなところで、たぶんこの辺りの感覚は長年のファンをやっている年寄りなら分かると思うし、東京歌舞伎座近くの某所で同様の会話をして嘆きあったりもした経験が私にはある。
つまり、全ては、
今回橋下市長のリーダーシップのもと、文楽は「無形文化財として淡々と維持する」(旧来の考え方)ものから、「再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する」(新たな考え方)というものにシフトしようとしているところです。
という参与の意図に集約されるのであって、これは賛否様々な意見があるところではないか。
私は、過去、文楽劇場に足しげく通い、図書閲覧室へもよくお邪魔をして勉強させてもらい、職員の方々にも大変にお世話になった経験を持っているけれども、文楽に関しては非常に悲観的な立場をとっている。
文楽はもうすぐ死に絶える。事実、文楽協会ができたころ、「文楽という芸は苔むした立派な梅の古木のようなものであって、じきに枯れる運命だが、無様な姿で枯らしてしまうのは忍びない。だから、せめて姿かたちはそのままに美しいまま死んでもらおう」という発想が背景にあったように記憶している。
文楽というのは本当に維持が難しい事業で、語り一つとっても、過去と現在でこれだけ音楽環境が変わってしまうと、語りを成立させる音感がまるっきり違ってしまう。成長してから訓練でどうにかなるレベルの問題では、おそらくないはずだ。もちろん、浄瑠璃を理解するための前提知識なども違う。
だから、近い将来、死亡宣告を言い渡す時期がくるし、税金を投入するならなおさら、本物・本格の保存が不可能になったときに、とっとと文楽の維持なんぞやめるべきであり、それこそがこの偉大な芸の先人たちを辱めない、唯一の道だと、私は思う。
その意味で、安易に文化を守れ伝統を守れと言ってみたり、反橋下の立場からついでに文楽を守れと言ったりする人たちとは、私は全く異なる。税金を投入する以上、真に偉大な芸としての文楽の古格が維持されなければならないし、それが無理なら文化だろうが伝統だろうが、潔く捨ててよい。今に生きない伝統など意味はない。本当に感動的な人形浄瑠璃は、過去の記録映画となって保存されている。無意味に惜しむ必要も必然性も、どこにもない。
逆に言えば、まだ今の年寄りの技芸員が生きている間、なんとか細々とでも古格が出来ているならば保存するべきであって、それは与えられたミッションが達成されているとして認めればいいんだろうと思う。
観客が入るか入らないかは、この際どうでもよい。文楽は昔から客の入らない芸で、貧乏話極貧赤貧エピソードに事欠かない。問題は本格ができるかどうかだ。それに尽きる。
そこで、大阪市のプロジェクトに話を戻すと、これをそのままやると、もちろんマネジメントの改善など賛成できる部分もあるのだけれども、人形浄瑠璃の中身そのものに大きな影響を与えると思う。
ある大物タレントさんが、これまた大物歌舞伎役者に歌舞伎に誘われて歌舞伎を観に行きましたが、つまらない、分からんと言ってすぐに帰ったそうです。その歌舞伎役者さんは、この大物タレントさんにどこがつまらないのか、どこがダメなのか必死になって聞き出し、これまで自分では気付かなかった新たな視点での指摘事項を改善しつつ、歌舞伎の面白さを説き続け、誘い続けたそうです。この大物歌舞伎役者さんは、観客からの厳しい指摘が公演を面白くする一番のカギと言われています。
全くその通りで、歌舞伎ならこれでいい。だから歌舞伎はどんどん変質していった(いっている)し、古格を守ることはそもそもできず、またそれで構わない芸能だという一面がある。
わざわざ語り手である太夫と三味線弾きの前に毎日座る客というのが大昔はいた。誰が出てきてもとりあえず批評批判する怖い客として知られ、しかし語り手も三味線もこういうお客を大事にしたらしい。
今でもこの種の客気質は、こと大阪の年寄りに関する限り健在で、今の源太夫が綱太夫のころ、あるお爺さんが私に、
「織太夫でまだ若かったころは将来どんなもんになるかと思てたけど、綱太夫はホンマあかん。感動がないわ」
と言い、また、文楽の人間国宝としてたびたび言及される住太夫についても、
「もう限界やっちゅうのは本人がよう分かってるやろ、あの年やし」
と言いきっていたものだ。あるいは別のお婆さんは、
「綱太夫の発声は変や。高音に行くと喉がつまってくる。あんな語り方はあらへんよ」
とばっさり批評したものだった。ちなみに、この綱太夫はその後人間国宝になってしまうわけだが。
そういう厳しいことをいう熱心なファンがいたからこそ、この芸に携わる人たちは鍛えられていったわけだ。
しかし、そういう耳も目も肥えた客の厳しい意見と、観客動員を増やすための批判は異なる。観客動員を増やそうとすると、中身が変質して古格が維持できなくなるのは、火を見るより明らかだ。そこで上演されるものは、300年続いてきた人形浄瑠璃ではない、何か別のモノだろう。
実際のところ、今でも中身は変質している。例えば、もっとも重要な場面を語る「切場語り」を今やっている人たちのあと、一体だれが後を継げるのだろうか。おそらく、有資格者は誰もいない。
あるいは、今は文楽を「見に行く」というが、そもそもは「聴きに行く」ものであった。人形浄瑠璃と単なる人形劇は違うが、視覚の刺激に慣れた現代の観客にとって「見る」を重んじた方がはるかに分かりよくなっている。
その他、細かい部分で古格と言えるものが本当に継承できるのか、できていたのかどうか、はなはだ疑問だ。
とはいえ、それでも歌舞伎とは比べ物にならない程度に本格の古格を守って来たのが文楽であって、それはかつてある歌舞伎ファンが文楽を見て「古いのが残っていていいなぁ」と言ったように、もう比較にならないと思う。
そこに、この大阪市のプロジェクトとなると、人形浄瑠璃は完全に変質してしまう。本当に守るべき古格は、もうどうでもよくなってしまうだろうし、決定的に死んでしまうだろう。
と書くと、やや刺激的かもしれないが、なんのことはない、文楽の死なぞ最初から知れたことであり、それがちょっとばかり早くなるに過ぎない。「苔むした立派な梅の古木」がもう枯れると、知れ切っていたことなのだ。
このプロジェクトを書いた池末参与は善意に違いないし、文楽の再興が魅力ある観光都市としての大阪にとり大きな資源だと考えているはずだ。また、文楽に携わる人たちも、継承にはチャレンジや変化が必要だとする人たちも少なくないだろう(私は、文楽がいろいろなチャレンジや、同時代に観客に受け入れられる努力もされてきたこともまた知っている)。
よく分かる。
もしこのプロジェクトをそのまま実行するならば、人形浄瑠璃・文楽という看板は取り下げてもらいたい。
300年続いた本当に偉大な、世界のどこにも負けない本物の芸は死に、何か別の人形劇、「文楽のようなもの」が続いていくことになるだろう。そこで「人形浄瑠璃・文楽」の看板を掲げることは、ウソだし、なによりも文字通り命を削ってこの芸に打ちこんできた偉大な先人たち、まさに大阪の先人たちに対する侮辱に他ならない。
この人形劇を観光資源としてどう活用したって構わない。だけど、文楽はもう死んだことを認めてほしい。いや、認めるべきだ。そうして、過去のものとなった文楽の真の偉大さだけは、せめて守ってほしい。それだけが、せめてもの私の小さな希望だ。
(追記)
以下は私のTwitterアカウントなので、もしご意見などがあれば、ぜひ遠慮なく私に書いていただきたいと思う。文楽は私にとってただ好きというだけでなく、重いものでもあるから。
https://twitter.com/#!/SignorTaki
利用期間はそこそこ長いのですがこれが益田に書き込む記念すべき1回目にして、
2回目はあるかどうかもわからない程度なので私がはてな民かは微妙です。
私は刺青を理由に公共の場で区別される必然性はないとは思いますが、
そういう私営の施設のほうでも刺青を理由に区別しない必要もないわけで
そこを公共の場の中に入れるというならば(...)(また仮に刺青がファッションであろうとも)
一部公共の場側でもドレスコードとしてその場にそぐわない格好をしているものを
区別して入店を断ることはタバコで区別することと同様に店側の当然の権利なんだと思います。
だいたい今まで刺青を入れる人は私営の温泉・スポーツジムなどで断られることは覚悟して入れているはずで、
今更刺青があってもその施設に入りたいと訴えられも
その人をその施設が入れないことは、誰にとっても問題にする必要はないことではないかと思っています。
これが刺青が変なイメージが付帯せずファッション感覚で一般的に楽しまれていて
誰も気にしないのなら刺青が理由になることもないのでしょう。
私としても少しだけなら見えていても耐えられる範囲であろうと思うのですが、
ただ現状刺青を複数入れている人は一般人とは感じられずどうしても不安になり
またそういう人を刺青以外を理由にして断ることが難しく程度の問題にしても説得も困難を伴うであろうことから
刺青全般を禁止にされているのは小心者としてはありがたいと思っております。
これが河本擁護派の話題ズラシの典型例でさ。
DV夫とか飲んだくれジジイとか出してきて、そんなのにまで義務が発生するとかヒドイって言うわけさ。
普通に除外事例だろ。
んで、「河本のケース」を考えたとき、やつは「大切なオカン」だと公言してんだぞ。
・「今すぐやらない」理由をつくらない
→「やらない理由がない」はやる理由にならない
・「これいい!」とひらめいたら、すぐに動く
→これをやると未完の仕事ばかり増えていく
・「いつまでにやります」と宣言して、退路を断つ
→宣言してもできないものはできない
・仕事が速い人のそっくり真似をしてみよう
→周りにそんな人いない
・「残業はしない!」と固く心に誓う
→今まで散々誓ったけど守れなかった
・午前中に、いちばん頭を使う仕事を入れる
→午前中はまだ覚醒しきってなくて、うまく頭が働かない、周囲や取引先もまだ出社してなかったりして、仕事が進まない
・集中できる「環境」を整える
・「三十分でここまで」と時間制限をつける
→焦っても仕事が雑になるだけ
でもこれさぁ。
俺がセーフなら河本もセーフだよな?「扶養する能力と必然性」って俺にもあるじゃん明らかに。
三親等以内だし、俺にはカネがある。少なくとも扶養できるだけのカネがある。
これ、どうやって区別すんの?行政の制度として確立したときに、河本と俺がどう区別されんの?されないと思うよ?
今回の件だって、河本に非ないじゃない。仕送りしてたとしたら、仕送りを受けているにも関わらず
生活保護を不正受給した母親が悪いし、仕送りをしていなかったとしたらそもそも受給が問題ない。
でも、そうは解釈されず道徳的観点から河本フルボッコじゃんこれ。
この調子でいったら、俺がヒドい目に合うの目に見えてんじゃんよ。
クソ親からやっと抜け出したと思ったのにまたこれか、と。大体、世の中に結構こういう人間多いと思うんだがね。
こんな河本たたきの大合唱になるほど、世の中の人間は扶養義務を果たしたくてしょうがないのかね?
理解できねえよ。
「普通に餓死すればいい」って親を餓死させた時点で社会人はゲームセットじゃん。報道されるし。
「親を餓死させたクズ」の肩書きを背負って社会生活なんてできるかよ。なんかもう、馬鹿じゃねえの。
大体よ、20代の若者が親を扶養するハメになったら生活のすべてが犠牲じゃねえの普通。収入から考えて。
そんなにゲームセットしたいのか、若者。「ウチの親は・・・」なんて思ってるかもしんないが、
あるとき突然経済的ゴミ虫にクラスチェンジする人間は少なくないんだよ。まぁ、俺の親は生まれついてのクソ虫だったがな!
死刑になる基準の一つとして遺族感情があるそうだが、よくよく考えるとおかしな話ではないだろうか。
遺族は被害者じゃない。
何で第三者の感情を量刑を決める際に加味しなければならないのか。
加味すべき感情があるとすれば被害者本人の感情でありそれが死者であればもはや知ることが不可能である以上、
行為の様態と状況と動機と被害者加害者の属性という客観的事実のみから量刑を決めるべきではないか。
「ブサメンだから死刑希望だけど自分好みのいけめんだから無罪希望で」
遺族感情を加味するということはつまり残された者の報復感情を満たすということであるが、
同じように家族を殺された人でも、
復讐はしたくない、したくても更なる報復を恐れてできない、という人もいる。
そもそも家族がなく誰もその人のために報復感情を抱いてくれないという場合もあるし、
被害者を心底大事に思っていて加害者に報復したいと思っている人がいても、その人は家族ではないから報復する資格が与えられないという場合もある。
報復してくれる支援者がいない・少ない人を殺しても罪は軽く、
報復してくれる支援者がいる・多い人を殺せば罪は重い、ということになる。
生命保険の金額にも、家族がいるかいないかで差をつけるということも数学的には正しいことになる。
実際、少年たちのホームレス狩りは上述の理屈が具現化された最たる例である。
「死んでも誰も悲しまない人間など殺してもいい」という理由で殺しているのだから。
遺族感情を加味するということは突き詰めて言えば家族がいない人に犯罪の矛先を向けさせるということである。
家族は経済的な扶養関係があるから、家族を殺されると自分の財産を失うことになるという理由で、
遺族に被害者の代理人としての権限を与えているのだろうか。
ならば「感情」などを考慮するべきでは無く、「経済的な損失に対する補填」を求めるという形にすべきではないか。
司法制度の根底には人間の本能的な感情があるが、量刑は感情で決まるべきではなく、客観的事実にのみよるべきである。
前近代の「今日は王妃の御機嫌が悪いので何人死刑にします」という世界と大差がなくなってしまう。
人間の命の価値はどれだけ他人に愛されているかによって決まるのだろうか。
愛されている人を殺したら罪が重く、愛されていない人を殺しても罪は軽いのだろうか。
少なくとも「楽しみ方の作法」とか気にして見てたら面白くないし、そんなことを気にしたこともないなー。あとデータベースがどうたらとかも。
「サブカル」って区切って見てるから「ほかの形態ではなく、なぜあえてサブカルなのか」という意識になって、必然性ガーとか気になるんでないの。別に必然性とかないし。見る側としては、アニメ見るのも漫画読むのも、別にドラマみたり小説読んだりするのとなんも変わらん。面白いか、面白くないか。
ただ、それぞれの表現手法で得意な表現手法とか、別の表現手法ではできないことがらがあるとは思うけど。
しかしまあ、作品を受け取って見る側としては、面白いか面白くないかであって、面白くない小説読んだら「あー面白くない作品だったな」って思うのと同じ。そこで「小説である必然性がない。ドラマでも同じことができるはずだ。だったらドラマでいいはずだ。なぜ敢えて『小説』という形態をえらんだのか。長澤まさみのほうがいいじゃん」とかごにゃごにゃ考えないでしょ。単に書いた人が文章書きたい人だったからなんだし。
それと同じでいいじゃん。娯楽なんだから娯楽として普通に楽しめばいいんじゃない? 私は小説読むのと漫画読むのとの間に別に区別なんかないし、結局たまたま目に付いた作品の形態が小説だったか漫画だったかドラマだったか映画だったか音楽だったか、でしかない。そしてどの形態であれ、クソはクソだし、面白いもんは面白い。
どーなの?なんか東浩紀とか大塚英志とかの評論とか読んでみたりとかさ、セカイ系が~とかそういうのは読んでみたつもりなんだけど未だに全然わかんないんだよね。
単純に疑問。なんでわざわざ漫画とかアニメなの?長澤まさみのほうがいいじゃん。吉高由里子は駄目なの?周りでそういうサブカル趣味みたいのが増えてきてさ、自分も誘われたりすることが多くなってげーむとかやってみるんだけど全然別に面白いと思わないんだよね。
アニメとかゲームとか漫画とか、サブカルである必然性って要するにあるのかなって。そういう話で行くと上で書いた評論の類も怪しいと思っちゃうんだよね。ほんとにキャラクターをデータベースに照らして消費したりしてんの??全然わかんない。
気悪くしたりされたらごめんなさい。でも単純に疑問におもうことが多かったので。むしろ楽しんでる人はその楽しみ方の作法というか何が面白いのか教えてくれたら嬉しい。
本村洋さんが会見で語っていたように、
洋さんが被告に望んでいることは「ただ殺されること」ではなく、
「境地に」達して精神性が出てきちゃった結果の望みやコメントであって
普通の人は同じ心境に達するのは無理だし
そんなこと望む必要も無いと思うよ。
プロゴルファーはバーディやイーグル出してもなお深い内省が続いていくだろうけど
一般人のゴルフはバーディ出したら「すごい!やった!」で終わり。
これは不幸にも、本村さんや遺族の重い作業として続いていくが
(だって実際、世間がそれを自分のミッションだとして、福田死刑囚に何をどう働きかけんの?
別にからかって聞いてるんじゃないから具体的な回答の用意があるなら書いて欲しい。あるの?)
そして、なぜこのような残酷な事件が起こってしまったのか分析する必要も有るわけだ。
そもそもいきなり他人の家に押し入って女性を殺害して犯し、
これは不幸にも、本村さんやにとっては必要性のある課題になってしまうだろう。
だが「そんな辛いことをこれ以上は耐えられない」と放棄しても彼等を責められる人間はいない。
犯罪心理の専門家も学問的興味や必要性を感じれば分析・研究するだろう。
彼の中でその異常性が芽生えていった背景や成長過程も詳しく知っておいて、
そして、なぜこのような残酷な事件が起こってしまったのか分析する必要も有るわけだ。
そもそもいきなり他人の家に押し入って女性を殺害して犯し、しかも殺す必然性のない赤ちゃんまでわざわざ絞め殺すという異常な行為を何故しでかしたのか、
彼の中でその異常性が芽生えていった背景や成長過程も詳しく知っておいて、そのような環境は極力改善していかなくちゃいけない。
もやもやしてたのはこれだなあ。
光市母子殺人事件の被告の死刑が確定して、喜んでいる人が大半だと思うが、ただバンザイしてそれで終わりにしちゃいけない。
本村洋さんが会見で語っていたように、洋さんが被告に望んでいることは「ただ殺されること」ではなく、彼が自らが犯した罪と向き合う強さを持ち、真摯にその事実を受け入れて刑に望むことだ。
彼がその境地に至るまで、周囲も世間も見守り、その成長を促すように働きかけなくてはいけない。
そして、なぜこのような残酷な事件が起こってしまったのか分析する必要も有るわけだ。
そもそもいきなり他人の家に押し入って女性を殺害して犯し、しかも殺す必然性のない赤ちゃんまでわざわざ絞め殺すという異常な行為を何故しでかしたのか、
彼の中でその異常性が芽生えていった背景や成長過程も詳しく知っておいて、そのような環境は極力改善していかなくちゃいけない。
元増田です。
親しい人から「どんなことも勝った負けたで判断するあなたはちょっと変だ」と言われ、
動揺し、何も言えなくなった事が元記事を書いたきっかけです。
何でも一人で出来てしまうわけでもないですが、大抵の事は一人でなんとかしてきたつもりです。
ただ、それも単なる思い込みだったのかもしれません。
あなたの返信をみて、自分を見つめ直すきっかけが開けたように感じます。
こういう時こそ、素直に心の声に従うべきなのでしょう。
それでは、ありがとうございました。
単純に異性側に回る妄想、とくくるなら同性愛になる必然性はないはずなのに、なぜ同性愛になるのかは興味深いな
発想が異性になりきれてない、ってことなのだろうか(cf. http://yucl.net/man/174.html)
真実が明らかになって「やっぱりそうだと思ったんだ」と、あとで記憶をすりかえないために。
ちゃんと答え合わせをできるようにするためにここに答案を記す。(FAの件は後回しにして、3社買収問題のみの回答)
問1.オリンパスの過剰な3社の見積もりについて、会社側の真意を答えよ
答案1.
①実際は05年以前から、長期にわたって収益の水増し計上を行なっていた。(※背景には同社の脆弱な財務体質?)
③架空の現預金項目が数百億のレベルにまで膨れ上がり、明らかに不自然になってしまった。
④膿を出すため、06年5月から08年4月にかけてボロクズ会社3社を総額730億円で買収する、ということにする。(※リリースすら出さず、こっそりとやる)
⑤架空買収で生じた巨額ののれん代でもって、粉飾資産部分(現預金)をおきかえる。
⑥経営環境が悪化したということにして、巨額ののれん代をごっそりと減損する。(※この時、リーマン危機が重なったのはオリンパスにとって行幸だった)
⑦帳簿上はM&Aに失敗して現預金が流出した、という形式になり、粉飾していた現預金の水増し部分が解消する。以上
以下、若干の補足説明。
・ここでの1つの焦点は、誰にカネが渡ったかではなくて実際に現金が動いていたか否かにあります。Facta(今月号)は、実際にキャッシュアウトが伴っていた前提に立ち、それがヤミ勢力に渡ったのではないかと仮説を提示しています。しかし、”ヤミ勢力”がこれだけ巨額のキャッシュをわざわざこんな大企業から受け取る必然性は薄いと考えます。経営者へのキックバック目的という仮説も同様、サラリーマン経営者が私服を肥やすには大規模すぎます。私はしたがって、現金が動いていなかったという主張を支持しています。菊川会長の一連の行動は自己の利益のためではなく、愛する自社と社員を守るために行ったものであると考えています。
・オリンパスに勤める私の弟によれば、一般社員には何一つ情報は伝わってきておらず、社内でうわさ話をすることすらタブーになっているそうです(オリンパスには伝統的に”告げ口文化”と言うのがあるため、社員がヘタに論評をすると誰かに告げ口される危険性がある)。しかし私の答案が正しいとすれば、経営陣だけでなくオリンパスの財務・経理社員もこの粉飾に加担していることになります。そうなれば組織ぐるみということになり、社会的非難・制裁の声はさらに高まってくると予想されます。
当局による回答はおそらく数週間後、以下の空欄に記載する予定。
答1.
。
http://twitter.com/#!/zaway/status/127774939330772993
発達障害の当事者の苦しみと配偶者の苦しみって、違うように見えるけれど、根っこは同じな気がする。問題はそのベクトルが正反対なために、すれ違い、傷つけあうものになっているということ。
苦しみを吐露しておられる配偶者の方をみると、そこまで苦しんでまで一緒にいる意味があるの?と思ってしまう。まるで、私たちが、その特性ゆえのこだわりをとがめられるような、そんな感じで。
2次傷害になってまでこだわりたい気持ち、思いって何だろう?
あと、発達障害で困っていると本人は思っていないなら、診断を受けさせたり変えようとしたりすることは横暴じゃないのか? それは、貴方のわがままじゃないのか?
本人が困るだろうから……って、それは本人に苦しませておけばいいよ。貴方が背負う必然性は無いと思う。配偶者自身が苦しんでいるなら、何故離婚や別居など、距離を置く選択肢が出ないのか?
(子供が居たら難しいのは知識として理解できるにしても、それ以外の場合)
ホント、不思議。
ぼくもお答えします。
だんだん難しくなってきたのでついていけるかわかりませんが…
わかる範囲で答えたいと思います。誤解があったらすいません。
でもやっぱりちゃんと理解されるほうが嬉しいです。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
それもそうか…。音楽と文章を同じものとして扱っては余計わかりにくくなるのかもしれないね。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
そういう話じゃなかったのならぼくの誤解だったね。ごめんなさい。
ぼくはこう思うって話と
あなたはこう思うって話がとりあえず明らかになったのかなあ。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
わかりやすかった?よかった^^
そうだよねーぼくも同じ立場だったらどういう対応をするかちょっと悩むなあ。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
ぼくは①と②のどっちのスタンスなんだろうなあ。
わかりやすいように書きたいとは思うけど
たしかに翻弄している可能性あるなあ。
翻弄してしまうのはイヤだけど
かといって「ある程度」以上の努力をしてしまうのもイヤなんだよなあ、わがままかなあ^^;
ハードルは飛び越えられたらいいなという願望はあるけどめんどくさかったらやめてるかも…。
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
要するに、ぼくは詭弁を弄することが悪だとは思ってないってことかな。
読者に文章を理解させようとする気があるのなら
詭弁のような不当な推論はなるべくやめたほうがいいんじゃないか
もし、詭弁を使うつもりなら留保を付記しようって話だったかな(合ってる?)
うーん…。ちょっと考えてみる。
理解してもらいたいとは思ってるけど
だからといって詭弁を言ってはいけないのかどうかもわからないし
ミスリードは理解を困難にする…ような気がする。
もしそうなら、詭弁はなるべく少ないほうがいいってことになる?
ウソはついてないつもりだけど「つもり」なだけかもしれない。
なるべく詭弁を書かないつもりでいたいなら
この理解であってるなら、それに対するぼくの答えは
まず書いてしまいたい!ってことかな。
したくなったらやろうかな~。
ちょっと勉強する手間を惜しんでいるだけで
かなり間違ったことを言ってる可能性はあるのかもしれない。
そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
悲しいまでの経緯か~うーん・・・
的確に表す言葉が思いつかないけど
頭では誤解されることは仕方ないことだと思うけど
でも、実際に誤解されたときにはっきりと心がきしむ。
そう言いながらも実は「わかりあえるはずだ」と思っているのかもしれないけど。
「こいつはウソをついている」と思われているのならぼくは悲しい。
そう思われていないなら悲しくない。これはたぶんハッキリしてる。
誤解されること自体が悲しいということだと思います。
それは「(あなたに)誤解されることが悲しい」と言ったわけではないのです。
ぼくも「あなたに嘘つきだと誤解されている」とは思いません。
「もし誰かに誤解されることがあるとするならば、それは悲しい」ということです。
うーん・・・わかりにくかったらまた言ってください^^;
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
おおむねそんな感じです。
悲しいけど否定しないんです。
でも、諦めるってことでもないなあ。なんだろう。
ある程度の努力をしてみて
どこかにボーダーがあって、もうそれ以上は努力をやめようという気になる。
あれ?矛盾してる?
うん、「否定しない」はたぶん違う。
否定しないんじゃなくてぼくと相手の理解を近づけようとする。
それで…どこかはわからないけど
ぼくが相手に対して「この人はわかってくれたかも」と思ったら
理解を近づけることは一時停止する。
「この人はまだわかってくれてないかも」と思ったら
引き続き理解を近づけようとする。
でも、「まだわかってくれてないかも」と思う人でも
ぼくは理解を近づけることを一時停止することがある。
そのスイッチがどこにあるのかわからないけど、そんな場合があります。
「まだわかってくれてないかも」と感じるだけでも悲しくなります。
加えて、「わかってくれたかも」と感じる人でも
こんな感じです。
んー…ウソがあるかもしれない…。
あらゆる状況下でぼくの言ってることが
必ずしも再現されるかというとそうじゃない気もします。
まだわからなかったら遠慮なく言ってください。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。
批判や指摘は大歓迎です(でもやっぱり心がチクチク痛いです)。
わーい応援ありがとう^^
私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
ちょっと救われました。ありがとう。
よかったらどうにかして繋がりましょう。