はてなキーワード: 市街地とは
数年前に本社と支店のバーター人事に巻き込まれ名阪ではないとある地方都市に赴任し過ごしている。
その中でムカついていることを書いていく。
あえて地名は出さないが、土地柄の話も多いので察しはつくだろう。
なにを置いてもこれである。
ランチやディナーでちょっといい店に行っても、混んでいる時間帯は露骨にホールスタッフの愛想が無くなり、人によっては機嫌が悪い。
逆に店主もほろ酔いで常連と盛り上がってしまい、オーダーしたいこちらに全く気が向いていないような時もある。
車屋に作業の予約を電話しても『今週ならいついつが空いてます"けど"(だいぶ嫌そうに)』のようにおよそ仕事を請ける側とは思えない言葉が平然と出てくる。
イベントなどに参加しても、『今回開催するのにこれだけ苦労したんだ』というのをゲスト側に隠さない、場合によっては全員参加のもと巻き込まれるというのが平然とある。
周りに振り回されることを楽しめる人でないと楽しめない土地柄である。
市街地と郊外の区別がついていないやつも散見され、昼間っから市街地ですり抜けをしようとしてくる。
道を譲ってもサンキューハザードは200%焚かれない。
野生動物は豊かな自然など暢気なことを言っている場合ではなくやつらはすぐ隣にいる脅威である。
恥ずかしながら、25歳になるまでちゃんとした回らない寿司に行ったことが無かった。
ある時熊本の叔父に呼ばれ、熊本城下の寿司屋に連れて行ってもらったんだ。熊本は水が綺麗で、九州で珍しく米が美味しい地域。
そりゃもうウッキウキでついて言って、初めは刺身を食って舌つづみを打っていた。
で、お酒も結構飲んでたから、お水が欲しかったんだよね。きょろきょろしてたら、お寿司屋さんが「しゅすいとってー」って言って、手下みたいな人が
寿司の下駄みたいな奴の横に、綺麗な切子のコップを置いたわけだよ。流石気が利くな、お客さんの子とよく観察してるなって思いつつ、
高そうなコップから水を飲んだわけ。
熊本は水が綺麗だし、市街地も地下水をくみ上げてるから、ミネラルウォーターとそん色なく旨い。ゴクゴク飲んでからにして、ふと周りを見たらみんなそのコップに指を付けてたのね。
「しゅすい」って「手水」の事で、フィンガーボールの事だったわけだ。
で、寿司屋の大将、手水が「飲まれてる」事に気付いたんだよね。暫しの沈黙の後に、笑いながら
「熊本の水は美味しいからね、飲んじゃうよね」ってフォローしてくれたんだ。流石寿司屋、気が利くな、お客さんのこと考えてるなって思ったね。
同時にその心使いが滅茶苦茶痛かった。。。
で、後々調べてみたら、昭和天皇も同じ間違いをして、他国の偉い人が恥をかかせまいと自分も飲んだらしいのね。
これこそがおもてなしだなって思った。寿司屋の大将も一緒に飲んでくれればよかったのに……とか言ったら多方面から怒られるよな
小児性愛のことで思ったこと、どうしても喚き散らしたかったこと
件のラブドールの漫画と件のお方のツイートを見た時、愛でる対象ができて良かったねと思った
センシティブ設定とか最後の一文の書き方が悪かったのはなんとなくわかる
でも、そこから何故かオタク界隈からも魔女狩りを彷彿とさせる文章がいっぱい出てきてすごくモヤモヤした
いや、手を出したら犯罪になるのはわかる、でも件の方や小児性愛者は手を出してはいけないと自制している方が殆どだと思っている
でも、いつ現れるかも解らない小児性愛者に怯える前に子の周りにいる男の人に注意を向けるべきだと思う
加害者の男の子は私の小学校の時の元クラスメイトだったから凄く驚いた
高1の時、別の友人が手をだされそうになった
身近なことはたった2件のことしか知らないけれど、これだけは言える
女体であれば、どんなに幼くとも、どんなにお年を召されていても性的興奮を抑えられない人がいる
という子供に害になりそうなわかりやすい文字だけに怯えても子供を守れるとは思えない
といういつの時代にもどこの国にも何故かある老若男女人種国籍問わず人権を踏みにじる醜悪な犯罪行為を怖がって欲しいと思う
人を見る目を養いたいものです
話は変わりますが、
みたいなつぶやきを見た後に
それぞれ別人のつぶやきだったけども、自分含む人間はエゴ丸出しの面倒臭い種族だなと改めて思いました。
高校生の時
電車を降りた帰路でワンボックスに横付けされて並走しながら運転手に話しかけられたのは流石に怖かった
夜だったし、ドライブしよーぜとか言われた気がするけどとにかく早く家に帰りたくて仕方がなかった
後から何で知ったかは忘れたけど恐らく同じワンボックスに中学の先輩(女)が乗って市街地に遊びに行ったっぽかった
多分運転手も先輩に話しかけた時と同じノリで話しかけてきたんだろうけどマジで勘弁だ
ってか先輩何してくれてるんだと思った
アニメイトで買い物をしていたらやたら目の合うおっさんがいるなと思いつつ会計して外出たらそのおっさんに話しかけられた
最初は顔見てなくて無視したけど頻度が多いから道聞きにきた人だと思って横見て滅茶苦茶後悔した
空返事しながらうわーやっちまったーって思った
諦めが早くて助かった
やたら目の合う人がいたら気をつけて撒くようになった
あと徒歩移動中とかゲーセン行く時必ず片耳にイヤホンをつけるようになった
巨大家電量販店の入り口でそんなこと言われてもと困ったからごめんなさいした
あの人は何がしたかったのだろうか...未だ疑問
n年前
知らない女の人に話しかけられた
一旦持ち帰りもさせてくれなかったからバックれた
パンフに載ってた名前を検索したら集団糸吉女昏式を推奨する系のあれだった
危ない...
終わり
ニチレイのフード自販機がそう遠くない将来にサービスを終了するかもしれない、という記事を読んだ。
「ニチレイのフード自販機終了」という文字に、昔のことを思い出したので書く。
ただでさえ裕福でなかった家庭(市営住宅に住み、両親共働きで、年1回の家族旅行なんていうものもなかった)で、それはかなりの衝撃だった。
職を探す、と言っていた父親は職にありつく前にストレスや不摂生から持病をこじらせ、入院した。
ただでさえ苦しい生活費にさらに上乗せされた入院費に文字通り頭を抱える母親は、精神的に強くはなく、度々そのストレスを私に向けるようになった。
家に家族といるのがしんどくて仕方ない。家族が揃う毎晩がまるでお通夜のような、そんな思春期の1年間だった。
そんな時に限ってテレビはセレブブームで、誰ともなく番組を消し、誰も笑わなくなっていた。
市街地から一山超えたところに建て直されたばかりの病院は、その頃綺麗で、田舎には見たことがない洒落たものがたくさんあったように思う。
最上階(といっても、たかだか4〜5F程度)の休憩室に、飲み物の自販機と同じように並んでいた。
日に日に、家庭環境は金銭面から余裕がなくなって冷たくひどくなっていった。
父のお見舞いのついでに、時折、ひとり制服のまま、
ブーンという低い自販機たちの稼働音に囲まれて食べた焼きおにぎりやたこ焼きのあたたかさを
15年くらいの時を経て今日思い出した。
暗く湿った毎日にあって、唯一、少し浮き足立った気持ちにさせてくれたニチレイのフード自販機。
きみは、同い年だったんだね。
まだあの病院のあそこにいるんだろうか。
2020年8月、例年よりも長引いた梅雨があけ、とても暑い日が続いていた。
電動自転車にのるきっかけは、おいしい魚を食べたくなりちょっと遠い魚屋まで行こうと思ったからだ。
コロナ感染拡大をうけ、公共交通機関を使うのがはばかられため、レンタル自転車(ダイチャリ)を使用した次第である。
乗るまで僕はダイチャリが電動自転車だとは知らなかった。ちょっと漕いだ瞬間いきなり、ぐっと自転車が進みとても驚いた。
最も驚いたのは、45度はあるかと思われる急激な坂をあがったときである。平地を漕いでいるかのように快適だった。立ち漕ぎで踏ん張る必要はまったくなかった。
今までは、普通の自転車でも十分楽なのに、なぜ高価な電動自転車を買う人がいるのだろうかと思っていた。そのような考えが一気に吹き飛ばされた経験であった。
坂道だけではなく、信号や一時停止のためstop and goが多くなる市街地でもとても快適さを感じられた。
ひとつ懸念があるとしたら、車体が重く感じたことだ。大学生時代ロードバイクに乗っていたこともあってか、電動自転車の車体がとても重く感じられた。
クロスバイクに電動アシストがついていれば車体も軽くなり最強なのではないかと思ったが、少し調べただけですでにそういうジャンルがあることがわかった。e-bikeというらしい。
しかし、そこで気になかったのはe-bikeは高価で自分でメンテナンスするのは難しいのではないかと言う点だった。
ロードバイクはある程度仕組みが簡単で道具とパーツを揃えれば自分でメンテナンスができた。
悩みは尽きない。
国産のグミより割高だけど、小袋が20個くらい入ったやつをストックしておいて、
っていう私もね、小学校低学年くらいまで、ハリボー含め洋物とは無縁で育ったのですよ。
ご飯のおかずは大体きんぴらごぼうか、ひじきの煮物で、ししゃもは頭を残してよく怒られた。
家の中も日本的な感じで、居間の箪笥の側面には自分と妹の身長が記されてたり(普通は柱に傷をつけるのかと思うが家には丁度いい柱がなかった)、古風な母親の化粧机や仏壇がドーンと置かれてたりした。
ハリボーショックを受けたのは、近所に引っ越してきた帰国子女のお家にお邪魔したときです。
クリスマスの近い日だった。
家に入ると、中がえらく洋風で高級感あって驚いたな。
壁面いっぱいのTVラックには、家族写真や洋本が飾ってあって。自分の身長より高いツリーがあって、綺麗にデコレーションされてて。
それで、いつも優しく微笑んでる、絶対に声を荒げない聖母みたいなお母さんがいるんですよ。
で、その聖母が、オヤツどきにハリボーと温かいココアをくれたんです。
小学生の自分にとっては、もう海外のドラマとか映画とかの世界に入っちゃったみたいでさ。
小学生の私は、その家の非日常感と幸福感と安心感に包まれてしまったよね┐(´∀`)┌
夢の空間だったわけですよ┐(´∀`)┌
で、それから時が経ち、帰国子女はまた引っ越していき、聖母の顔も忘れた頃...
私は高校生になって小銭を持ち、市街地をたむろするようになった。
寒くて人肌恋しいときとか、試験勉強辛いときとか、オカンの機嫌が悪いときとか
最近コードネームuncleとボーンシリーズとミッションインポッシブルをたて続けに見て心がすっかりスパイモードなんだけど、現実にはああいう派手な諜報戦とか暗闘ってないわけじゃん
いや、あるのかなあ
そういえばちょっと前に対馬らへんで内閣官房調査室の人が死んでたよね ああいうのはいかにもキナ臭いし、CIAとかは実際ある程度悪いことしてるみたいな話あるし、「諜報戦なんてものは全く存在しない」ってことはないんだろう
でもさあ!!
ベルトを謎のケーブルに引っ掛けてビルからビルを渡るとか、市街地でハチャメチャなカーチェイスをするとか、核弾頭を巡ってブルジュハリファで大立ち回りするとか、そういうことはやってないわけですよ やってたらこの世の中さすがにわかるからな
あのアクション映画特有のハデなカーチェイス、玉突き事故、銃撃戦 超技術のデバイス 監視カメラの映像をすげえ拡大して粗い画像から個人特定するやつ
あんなん全部嘘なわけでしょ
情報戦は意外と地味なんですよ(笑)みたいな感じじゃなくて、深夜のルーブル博物館の中を高級車で爆走してたりしてほしい!!!!
朝7時台のNHKニュースではすでに緊急放送に切り替わってたな。
スムサタもずっとこれやってた。
なんで普段見ないTVつけたかった言うとTwitterトップページのトレンドに球磨川氾濫があがってたから。
ホットエントリに上がらなかったのはブコメ民が基本田舎に興味ない都市部在住者ばかりだからだろ。
8時くらいまでの時点では被害状況が分かるインパクトある映像がほとんど上がってなかったからあんまり関心を集められなかったんだろう。
テレビで流されてたのは、
ばかりだった。
避難の呼びかけはずっとされてたがTwにあがってたような衝撃的な映像は流れなかったので県内に知り合いがいるとかじゃなければそんなに関心高くなくても仕方ない。
伊丹のイオン・イタミオンに行くぞ!と昨日の午後思い立ったがまあ遠いしどうせ行かねえんだろうなと心のどこかは覚めていたのも事実。
しかし今日の午前中(俺はニートみたいなものなので平日の午前中から外出が可能)、最寄りのスーパーに買い物に出ようとしたとき、心が叫ぶのを確かに聞いたのだ!「伊丹のイオンに行くぞ!」
道中にあるパン屋(馬鹿みたいに安い・味はそこそこ)で惣菜パンを3つ(240円!)買い、チャリを漕いで俺は出かけた。
伊丹イオンに行くまでの道順はシンプルだ。しばらく行って、川1に突き当たったら左折。川沿いに行くと川2にまた突き当たるので、同じく左折。河川敷の道をしばらく行ったらイタミオンが見えて来る、とこんな寸法だ。ずっと川沿いで気持ちが良さそう、というのが出不精な俺の心を奮い立たせたのだった。
川1は細い。源流のあたりはちょっとした景勝地になってるらしいが、イタミオンロードにあたる流域はマジでしょぼい。尿みたいなもんだ。川というより用水路に近く、ゴミ。
…と思ってたんだけど存外開放感があった。細いからこそのインディーズ感というか、柵なんかも少なくてファンとの間に垣根がない感じがした。やるじゃん川1、と思いながらちょっと行ったところにはエアフロント・オアシスなんて洒落た名前のちょっとした公園があって、伊丹空港がよく見えた。コロナのせいか減便している(ホンマか?)ようで飛行機はいつもより少なく見えたけど、滑走路を見渡せる位置には5〜6人が座ってボケっとしていた。俺もちょっとその輪に加わったが(というと会話があったみたいだが、誰もひとことも口はきいていない)、はやるイタミオンへの気持ち・喉の渇き・腹の減り・チャリの駐輪場所への不安などから早々にそこを辞した。
いや、流量自体はマジでヘナチョコなのだが、その割に河川敷が超広い。開放感がすごい。川1の開放感が5なら川2の開放感は70くらいある。
まあひらけてるからなんなんだっつったら何というわけでもないが、普段コンクリート・ジャングルに抑圧されているのでなんだか無性に嬉しかったのだった。
川沿いの道はチャリに適している。アップダウンがないから、漕げば漕いだだけ進む感じがする。開放的な川沿いをスピーディーに進むのは気持ちが良くて、気がついたらイタミオンは目の前だった。…というと語弊があり、最後の方は橋を渡ったり横断歩道があったりでちょっとめんどくさかった。
隣の市、なんなら県境を跨いでるから隣の県だ。すげえ遠い場所・俺ではたどり着けない・永遠の憧れ…と思ってたんだが、チャリを漕いで1時間もかからなかった。
駐輪場のシステムが掴みきれずに不安になりつつも、薄暗い裏口みたいなところから入店した。
つかイオンとしてはちょっと小さめだった気もする。俺はど田舎の生まれなので郊外にあるクソデケーイオンに慣れていて、市街地にあるイタミオンは正直ちょっとショボくすら見えた。あるいは俺の図体がデカくなって相対的に小さく見えるようになったのか?でも中2から背伸びてないしな…
初訪問のスーパーマーケットは最後の楽しみにして、まずはモールをぶらついた。つっても俺は外食嫌い・ファッション興味なし・貧困なのでマジで何も買うものがなかったので本当に端まで行って戻ってくるだけだった。今回の目玉のひとつだったイオン特有のデカイ吹き抜けと一階にあるベンチは堪能できたのでまあヨシとする。
スーパーはデカかった。デカかったし、魅力的な商品も多かった。カオマンガイの素に加えてナシゴレンの素もあり、入浴剤コーナーがあり、惣菜コーナーがデカく、パスタも充実していたし、よくわかんねえ蒟蒻商品みたいなのが大量に並べられていた。飲料コーナーなんかもマジで気が遠くなるくらいデカかったので、俺は疲れも相まって初めてスーパーの完全探索を諦めた。また行こう…
数キロの帰途があるのも忘れていろいろ買った。ギリギリリュックに収まるくらいの商品を買って、一回正面玄関から出て伊丹の街を見た後に帰った。
帰り道、川2沿いでイタミオン惣菜コーナー謹製の鮎の塩焼きを食った。川沿いでアユを食ったら川つながりで美味さが高まるかな、と思ったが、まあ別に変わらなかった。塩気が強めだったけどしっかりうまかった。身が風に煽られてちょっと落ちて悲しかった。
帰りはちょっと違う道を通ってみたりして、そうするとまた発見があってよかった。ショボい道が川1とクロスして水没している場所があって、俺は仕様として水没している道というものを初めて見たのでたいそうテンションがあがり、サンダルを脱いで川に浸かってみたりしたほどだ。水はぬるいかとおもったが案外冷たかった。
ビショビショ・砂まみれになった足が意外なスピードで乾くのを楽しみながら停めていたチャリにまたがろうとしていたら、水没道をチャリで突っ切っていくオッチャンが見えて風情があった。
イタミオン、よかった。
また行きたいな。今度は秋口あたりに行きたい。
徒歩でも自転車でも、国道だとかの長い大通りをゆくのは面白い。行き慣れない生活圏外までどんどん行くといい。気がつくと違う街並みになっていて、暮らす人の雰囲気も違っている。自分がこの街にはよそ者で、彼らが思い思いに生きているように、自分がどう生きてもいい存在であることを思い出させられる。大きな箱を後ろに乗せた自転車乗り、AirPodsを着けて歩きながら一人で喋っている外国人、地元の話題で盛り上がっているらしい白髪の快活な老人たち、飲み屋街からシフトが終わって颯爽と帰る若い男女、ぼそぼそと何か真剣に喋っている三十代の男二人、客が入らなくて愚痴の絶えないバイト、心ここにあらずのコンビニ店員、別世界に住んで見えるような肌きめ細かい美人、こっそりホテルから出てくるオッサン、客引きで突っ立ってるにーちゃんねーちゃん、膝の固まった脚でロボットみたいに歩いている爺さん、リーマン、表情の暗いおばさん、スーパーから出てくる元ヤン風夫婦、笑顔の垢抜けない子どもたち、ほっつき歩いている服の趣味の悪いオッサン、橋下で語らっているカップル、、、この誰もが自分と同じようにくだらないことで悩んだり、根拠のない自信に溢れたりしているのかと思うと、後頭部を締め付ける・愚かな悪人に取り囲まれているような妄念から逃れられるような、イキモノとしての力を取り戻したような感慨が湧いてくる。だんだん脚が痛くなってくる。
道ゆく人を見てこんなこと考えるのは、テレビに快楽や話題を求めるのと同じで受動的だが、自分の足で歩いているだけ、自分の生活と地続きのところに、彼らの生活があるということがわかって、上から見下ろされるような卑屈な不安がなくていい。今こうして狭い世界で生活をしている自分を見つめるとき、身近な人たちの、経験が長いことによる無理解、想像力の欠如、傲慢で苛立った態度も、彼らの狭い世界で起こった物事から、彼らがもっともらしいと思ってとっている態度に過ぎないことに思い当たる。彼らのように自分もまた、焦り、疲れ、寛容の欠如から、年下の人たちを傷つけることがあると思う。
膝が痛くなってくると体に負担のかからない歩き方のことしか考えられなくなってくる。腰の筋肉、上体の位置が悪い、前傾を直したい、肘を振ったらどうか。それで楽しい散歩も終わりになる。家に帰ると見てきた景色のことを考えていたら数時間が経っていて、生活が劇的に変わる気配もない。でもまあ、来週末も小さな冒険、今度は山の方へ歩いたり、学校や住宅など生活のある市街地沿いの道を行ってみようか。
すでにブコメや言及で書いてあるけど、人に貸す場合を想定している。
で、次第にリビングに電話の居場所が移っていくわけだが、法律の制定や条約の締結とかと違って、各家庭の事情が絡んで「いつ」は言いにくい。
ただ言えることは各家庭に電話が普及するのと表裏一体の動きだということだ。
ところが、電話の普及ってのも技術革新と絡んで複雑な経過をたどる。
電話の普及は、ただ電話線が家に引かれることを想定するだけではダメという話。
「交換士あり」から「即時電話」(これには二つの意味合いがあって複雑なんだが)への変化を見なくてはならない。
私は北海道の事例しか調べたことがないのでそれを例にすると、市街地では昭和20年代後半から30年代丸々をかけて、まず「市内即時化」がなされていく。
これはある一定範囲の市内通話だったら交換士なしで自動で繋がるシステム。それまではトトロみたいに電話をつなぐ中の人がいた。
これを「即時化」とか「自動化」という。「即時化」「自動化」は地域ごとにボトムアップで進んでいく。中央から一気に御達しが出て一斉スタートになるわけではない。
その際に電話番語が改まる。それまでは電話の開通順で「1番」とか「8番」とか「53番」とか「104番」とか番号が割り振られていたが「即時化」で全ての番号が再編成され、私の調査値だと4XXXみたいな4桁の番号が新たに割り振られる。詳しくは忘れたけど、官公庁や公共施設はは2XXX、病院は3XXX、みたいにある程度分野ごとに割り振りがあったと記憶している。
今でも市内だったら全部の電話番号押さなくても下何桁かで連絡できるでしょう。それはこの時期に出来上がった技術。
今まで手動でしなければならなかったところが自動化されたことで、通信線が強化されつつ、電話が急速に都市に普及していく。
市内での即時化が完了したが、都市ごとの連絡には未だ交換士に繋いでもらうことが多かった。
これも次第に、時に市内自動化と並行して解消されていく。
例えば北海道なら札幌を起点に、札幌ー函館、札幌ー釧路、札幌ー東京、札幌ー大阪、函館ー釧路、釧路ー小樽……みたいに自動化がなされていく。なおこの順番は適当だぞ(道内では多分誰も順番調べた人いないんじゃないだろうか)。ともあれ網の目状に進んでいったという点に留意されたい。
都市間の自動化は、都市に固有の番号を割り振りそれを頭につけることで実行される。
戦後、農村部ではラジオの普及と電気・電話の開通が急務だった。
また北海道では、NHKが地理的にも経済事情的にも農業の勉強がかなわなかった農家に対して、朝早く(野良に出る前に)「ラジオ農学校」を開設しており、地域ごとに識者を読んで種まきや農作物の維持管理の啓蒙に努めた。不作や冷害の場合への対策も、時にラジオを通じて伝えられた。
農業の成果に直に関わるため、各地域の農家のリーダー役の人々は、請願運動をし、時に自分たちで出資して電気・ラジオ・電話を普及させていった。
農協から何キロも線を引っ張って、自分たちで電信柱を立てて、地元に情報をもたらそうとした。
こうした事情もあり、農村各地域に電話は限られ都市で自動化が進む時期においても電話を借りる、というシチュエーションは多く残されていた。
ラジオ・電気に遅れるも、おおよそ昭和40年代丸々をかけて、農村部でも電話は普及していく。
私が見たことのある昭和37年の北海道の事例だと、小学校の連絡先にその児童の隣のうちの名前と電話番号が書いてあったり、農協の事務所の番号が書いてあったり、電話ないけど学校から近いから直接連絡伝えてください、と書かれているものがある。
とってもわかりにくいんだけど、「即時化」と呼ばれる現象はもう一つある。
交換士が特に都市間の電話をつなぐ時、回線が限られており、相手先に繋がるまで相当待たされた。これを「待時」という。
場合によっては数時間かかる。いったん電話を切って、交換士さんからの電話を待つ。
数時間後、交換士さんから電話がかかってきて「〇〇さんとつながりました」と言われる。
それでようやく遠方の人と会話ができる。この現象がよく起こった時期は調べたことがない。
それで、この「待時」の解消も、時に「即時化」と呼ばれる。
この辺りの事情は連続テレビ小説「なつぞら」の考察をした人が最近詳しく書いている。
https://www.excite.co.jp/news/article/E1562427232846/
今生きる私たちも、ガラケーからスマホへの劇的変化の時代を生きている。
契約方法もどんどん変わる。誰もそれを詳しく記録していないし、きっと、全部は記録しきれないだろう。
個人的には、カメラ付き携帯がではじめた頃の数秒に一度しか画面が更新されないカメラから現在の自撮りの時代に至るまで、たったの十数年なのに隔世の感がある。