はてなキーワード: フリーターとは
したたか酔っぱらって気持ちいいので世のため人のためになるけど、普段は絶対言わないことを書く。
今、僕のいる会社を含め世の中は、開業者を倍以上に増やそうとしているけど、この記事を読んでいる君がそれを少しでも考えているなら、
決して起業なんてしてはならない。
特に、今のベンチャーブームにのっかて起業しようと考えている人は絶対にやめたほうがいい。
それはなぜか?今ベンチャーブームに乗せられて起業を考えている人のレベルはたいてい中途半端だからだ。
三桁の起業家とそれ以上の数の起業家になりたい人たちと会ってきた、彼らは大体こんな具合に層別されている。
大抵が社会に適合できなさそうなギーク(IQ MENSAレベル 常人では理解できないスピードで思考するため単体では会話にならない)と、
その人間の言葉を翻訳するビジネスマン(IQ120位、ギークの言葉が理解できる数少ない人間であると同時に、常人にも回転数が合わせられる、MBA・コンサル等)の二人以上のチームになっている。
そして、大抵はビジネスマンが自分の立身出世のため、ギークをそそのかし、
ギークはギークで大金を使って自分のやりたいことをするために起業する。
彼らは、基本的にリスクを取らず、市場が見えて、サービスインするまで、
どこかの大企業や研究所に属していることも多いために、ギリギリまで僕らのアンテナに引っかかってこない。
彼らの目的は、「名声を得、大金を得て好きなことをする」ことだ。だからこそ、VCはいとも簡単に騙される。
事実ギークが作る商品の技術力は高くて、MBAが作るビジネスモデルは完璧だ。
だから社内稟議はスイスイとおるし、融資部の許可もおりやすい。
結果として、ぶち上げてから数年で国内でも新しい分野に台頭し、第一人者になるか
大失敗をしたベンチャーの烙印を押される形で世の中に知れ渡る。
どちらに転んだとしても、彼らは目的が達成された時点で早々にビジネスをたたみ
次の好きなことか、起業前と同じくらいの条件のところに転職する
②ローエンド起業家
こういう人たちは、開業して、美容師・レストランオーナー・コンビニオーナー等、特定の業種の経営者になる。
この層が起業する際の業種の特徴は3つ、
①ビジネスモデルを新たに考える必要がないこと、②技術職であること、③ちょっと調べればめちゃくちゃ割にあわないとわかる業種であること。
つまりは、正直、起業することそのものが正気の沙汰ではないようなそういう業種に進出できちゃうくらい
度胸があって、考える力がない人たちだ。
こうした人たちは、たいてい、誰かの影響を受け起業を決めて
行政機関や銀行の窓口相談を利用して、(かなり独りよがりな)事業計画書を書いて
ビジネスを立ち上げる上で多くの起業が失敗するといわれているけど、そうした層の大半はこの人たちだ。
この人たちは稲盛和夫や松下幸之助が言っていることを本気で信じていて、自己啓発本が大好きな人達と
今でも、日本が右肩上がりに成長していくという確信を持ったたちの悪い行政機関周りのエセコンサルに
数年前までは明確にこの2者に起業家は分かれていた。
だが、最近この傾向に変化の兆しが見えた。それが意識高い系起業家志望者だ。
具体的には、学生・フリーター・メーカーで管理部門や開発部門にずっといた。という類の方々。
面白いのはたいていが、そこそこ有名な私立大学を出ている人が多く、また修士までとっている方が少ないことだ。
ひょっとしたら受験等で苦労しなかったために経て失うものが余り無いと感じているのかもしれない。
彼らは起業は良いものだと信じている反面、リスクを忌避し続けるという性質を持つ、
彼らは起業する前に自分が起業して食べていくのにはどの程度の投資が必要かを事前にスタディし、
余りにも割に合ないことを学ぶ知性を持っているからだ。
こうしたギリギリの均衡状態にいる世間知らずたち、起業志望者は昔から一定数いた。
このベンチャーブームのおかげで、僕みたいな起業支援者の言葉を真に受けて、起業をすれば自己実現できるし、
「起業はいい経験だから失敗しても誰かがそれを評価してくれる」という幻想に取りつかれた起業家が多く生まれた。
彼らはかわいそうなことに、孫正義 やら ちきりん やら Jobsやらの言葉が自分にも100%当てはまると本気で信じている。
そしてリーンプロダクション、「Stay Foolish」な精神で、実際にとんでもなく稚拙なビジネスモデルで起業して、自らの将来価値を大いに既存している若者が
徐々に増えてきている。
ただ、こうした起業家志望者に伝えたいことが一つある。
起業家支援者の中で、起業を勧める人間がいたら彼らの言葉に耳を貸してはいけない。
起業家に貼られるレッテルは昔のままだし、社会的信用なんて成功するまで0に近い。
それなのに、起業を勧めてくる奴には裏がある。
そこそこの知性があるからこそ騙されてしまう、起業家志望者は多くいる。
それでも起業したいなら、せめてMBAくらいは取って履歴書の見栄えを良くして転職の準備をして、
あわよくば、ハイエンド層の仲間入りをしてから起業してほしい。
いや、7つの子のお祝いに、みたいな、七五三みたいな感じかな?って思ってる。
着物だけど、買うなんかもちろんできない。
レンタルが嫌だってわけじゃない、着物のレンタルだって、アホみたいにピンキリであるしね。
でみだいたい最低限の値段からして高いじゃん?
たかが、そんな1日のイベントごときに、私にそんな無駄なお金を使ってもらう意味がわからない。
そもそも、人間関係が希薄な私に、そんな式典だ!遊ぶぞ!みたいな友人はいないから、
行く気もない。。でも、親的には、写真だけでも撮る!と言ってる。
私は、母親が着た着物を着ることにしてる。それにお金はかからないから。
(興味もないのでどうでもいいってのもある。)
私は、高校の頃は、たぶんもうすぐ自殺するだろうな。って思ってた。
頭が悪いから、進級とか卒業できなかったら自殺するつもりだったから。
専門学校を1年足らずで夢を追うからと言って、中退を許してもらった。
夢を追うと言ってフリーターを許された期間は4年くらい。
4年経ったら、フリーターなんかやめて、職を探しなさい。と言われてる。
でも、私は、中学も高校も、もうすぐ自殺するだろうな。って思いながら過ごしてたから、
今自殺しないのは、「夢を追う」と言って、好きなことをできてるから。
その好きなことが、成功すれば夢が叶うからであって、サボってる訳じゃない。よ。
当然、夢が叶うことがないなら、(この就職難でしかもフリーター4年ほどという経歴で)就職先探して、っていうほど
就職も簡単じゃないと思うし、そこまでして生きることに必死になるつもりはない、ニートになって、親から金を無心するわけにもいかない
ということで、私は夢が叶わないなら死ぬ。「就職しても夢をあきらめんなよwそこで止めないと、いつまでも夢を追ってる私っていうのが嫌なだけじゃん」とか、
言われるが、4年もかけて追って、叶わないなら、見込みがないから。ね。アホか。
いや、話が少しそれたけど、
そういう風に思ってるから、わざわざ着物にお金を無駄にかける意味がない。
もしかしなくとも高確率で私は4年後に自殺していそうだからね。うん、無駄でしょう。
葬式代もバカにならないんだぞ?!というけど、それはまあ、それ以上に生きてる間にかける金額と、葬式代。
それを考えれば安いものだろう。ねぇ。
クズフリーターなんで実家に寄生してんだけど、とにかくカーチャンがいらんものを溜めてる。そして買ってくる。
俺ががんばって消費した期限切れのオイスターソースがまだあと二本ある。
やたらとパンを買ってくる。しかしだれも食べない。だから買ってくんなって言ってんのにまた買ってくる。
食パンや惣菜パンなら俺や父もまだ食う気になるのだが、レーズンとか入ってる。
洗いにくい食器(食器洗いは主に俺がやってる)を正直捨てたい。
しまうときも一番下に重ねたりとささやかな抵抗をするが、いつの間にか食卓に並んでる。
湯呑みとかコーヒーカップも、普段使わないのに三セットとかある。そのくせマグカップやグラスが足りなかった。
買ってきたりおばあちゃんからもらったりした。
女の上昇婚志向と言うけど、そもそも同階級・同能力であれば男性の方が所得が上になるわけで
(本人の)所得ではなく階級を見れば昔から大体同程度の人間同士で結婚してるもんだぞ。
例えばお嬢様大学を幼稚園からのエスカレーターで出てそのまま親の決めた婚約者と結婚する女と
高卒フリーターやってたら妊娠したので仕事は首になって出来婚した女とでは
同じ「無職・無収入の専業主婦」でも所属する階級も持ってる財産も、結婚相手の男の階級&財産も全く違うから。
そして前者が高学歴高収入のおぼっちゃまと結婚していたとしても、それは同階級同士で結婚しているだけであって上昇婚じゃないから。
けど、運だけはいいと思った。すべてLukにステータス振り切ったんじゃないかってくらい。
わらぶき屋根の自宅生まれ、貧乏中卒育ち(悪そうな奴は大体友達)。
そして、フリーターからベンチャー、そして一部上場企業にたどり着いた。
あるときはやってきたことや半生が雑誌やテレビにも新聞に掲載されたり。
今では一般的な家庭を持つことができた。
いつか根の貧しさや知識の貧弱さのボロがでてくるかもしれないし(いや、周囲には駄々漏れかもしれないけど)
とにかく運と周囲の助け(シンデレラストーリーの手助けをしたかったのか、暇つぶしなのか神々のいたずらなのか)によりここまできた感はある。
運は大事。ところで運ってどうやって鍛えるのだろう。
物事をなんでも自分の認めてもいい欠点のせいにしたり、時には他人の目もそらそうとその欠点を大きくして破滅に向かう。
この行動なんか名前ついてる?
自己評価で性格はいいと思ってる人がなにもかも顔のせいにして、見た目に配慮せず変な格好をしたり太ったりしてさらに見苦しくなったり。
自己評価でコミュ力はいいって思ってる人がなにもかも頭が悪いせいにして、勉強せずどんどん落ちこぼれていったり。
自己評価で頭はいいと思ってるけどフリーターやニートの人は発達障害のような行動をエスカレートさせたり。
自己評価で顔はいいと思ってるけど恋人や友達がいない人がキチガイのふりをしたり。
かなり多くの人に当てはまると思う。
略称はジコジコ。
親は専門学校進学や大学進学の全費用は親が全額出すものと思っていたけど、どうもそうではなかったらしい。
気はあまり進まなかったけど、夢に少しちかい、幾らか就職に有利な学科を選んだ。
だけど学校の環境、、というか講師の態度や生徒の態度ですぐにやる気をなくしてしまった。
なりたい職業とはかけ離れた勉強に、講師に生徒に、嫌気がさしてしまった。
甘えだ。と言われても仕方がない。
一年も在籍はしなかった。
私が、中退をしたい。と言ったのは、なりたくもない職業のために数百万も奨学金をもらい、返さなくてはいけないのが嫌だった。
履歴書に書ける。と言えば聞こえはいいが、数百万で履歴書で埋めるのは無駄すぎると感じた。
それに、たとえ私がそのまま専門学校を卒業したとしても、職にはつかず、夢を目指したい。と思ったから。
当然、そのことも親には話した。「なら、卒業してからでいいじゃないか。」と言われた。
何を言っているのだ?と思った。
というか、「そんなこと許さないけど?夢目指しながら就職しなさいよ。」と言われるに違いないと予想したからだった。
専門学校の学科から考える職種だと、ブラックすれすればかりだと思った。
そんな朝から晩まで働いて、夢を目指すなんて、到底その夢が叶うはずない思った。
そうして夢を叶える努力をする。そういう事で辞めさせてもらった。
4年経って、どうにもならなかったら、就職先を見つけろと言われた。
学校を辞めた直後は、なんともなかったけれど、すでに最近だんだんと親の当たりがとげとげしく感じるようになってきた。
私は言った通りに夢を目指して頑張っている。つもりだ。。
バイトだって時間を少なめにしてもらっているけど、時たま8万ちょいギリギリな時もある
3万じゃ足りないっていうのか?
今すぐにでも本物のプータロウにでもなってやろうか?って思う。
余談だが、就職する気は微塵もない。
4年経って夢が叶わないなら自殺しようと思う。
10+1 web site|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト
千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版) | しんかい37(山川賢一) | note
最初のリンクを「アンチ・エビデンス論」、二つめを「アンチ・アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにする。もちろん、この文章をアンチ・アンチ・アンチ・エビデンス論と呼ぶ必要はない。
千葉雅也の「アンチ・エビデンス論」が出たとき、個人的にはそれなりに楽しく読んだけれどその評価は別にして、まあ批判は出るところでは出るだろうなとは思っていた。と思っていたらしんかい37氏が「怪文書」なんて比喩まで出してけなし始め、氏がまとめた批判が二つめの「アンチ・アンチ・エビデンス論」。(最終版)となっているのは、この文章にはいくつかのバージョンが発表されたらしく、(完全版)を読んだつもりがまた新しいのに更新されたということのようだ。この調子で(究極版)とか(最終版・改)とか(帰ってきた完全版)とか出してみてはどうか。そんな正論はともかく、これから取り上げるのは後者の「アンチ・アンチ・エビデンス論」についての感想、とりわけその文体についての雑感である。
千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡をネット上に残してしまいます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。
そして、その上で読者にこう問いかける――
まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。
不思議なのは、ここで「そんな気がするかどうか」という「実感」についての話からこの論を始められる図太さ、というか、ふてぶてしさだ。過剰に説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、それを批判する千葉の態度をアンチ・エビデンスと呼ぶなら、さらにそれを批判するしんかい氏の態度は、普通に連想すれば、説明責任の擁護、エビデンシャリズムの擁護となるだろう――そういう予感を持って、読者は、というか私は、読みはじめた。どのような根拠でもって(説明責任を果たして)氏が主張を正当化していくか、それが私がいちばん期待していたことだ。もちろん「アンチ・アンチ・エビデンス論」の議論の射程は鋭く、こうした「実感」に訴える論法を手厳しく批判している。この論の最後は
エビデンスを求めようとしなければ、人の思考は個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまいます。
という風にして終わるのだ。仮に、しんかい氏の主張が〈個人的な実感のまわりをくるくると回る〉だけに留まらないと仮定すれば、〈そんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしない〉と主張するに値するほどの、根拠が示されるはずである――そう期待して読む私は、またすぐに裏切られる。
たしかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。
実感に則さなくても、当てはまる事例があることはすぐに認めている。いったい、しんかい氏の「実感」を裏づけする根拠は、いつになったら出てくるのだろう? (「落ち着いてください!」と隣にいた貴婦人が言う。「まだほんの初めの方の十数行を読んだばかりじゃありませんか。議論は始まったばかりです。これから先も慎重に読み進めていけば、きっと〈個人的な実感〉なんかとは無縁の、素晴らしきエビデンスとやらに出逢えるはずですよ! さあ、続きを読んでください!」)
さらに読み進めていくと、千葉の文章を引用したあと、しんかい氏はこのように述べている。
このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断を要求されていると思いますけど。むしろ、日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。
「思えます」! 「思います」! 「気さえします」! 実感に訴える主張のオンパレード! 「フリーターならともかく」――どのような根拠でこの要素を除外したのか? 「長い不況のせいで」――いったいいつからいつまでのことなのか? こんなにも曖昧な表現で何が指し示せるというのか? 「高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている」――さっき例から排除されたフリーターはこの例には含まれないのだろうか? 確かに最初の例のフリーターが、元からアルバイトなんかしていなかったのなら辻褄は通るけれど……ところで、引用されている千葉の文章は〈企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで〉といった範囲の広いものであるのに、しんかい氏は勝手に企業だけの話にすり替えているし、しかも千葉の文章に〈給料〉という言葉はひとことも出ていない。
マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任を回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員の責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから。
なぜ「効率化のため」という目的だけに話を限定できたのだろう? もし仮に、企業(そもそもなぜ企業だけの話になったのか? しんかい氏がそうすり替えたからの話でしかないのではないか?)が、しんかい氏の思いつきによる目的で動いているとしても、そうすれば、そもそも前段のマニュアル化が進んでいることを否定するような数々の圧倒的「実感」とはいったい何のために書かれたというのか? これらは全てただの思いつきで、論旨を整えずにただ手当たり次第に条件反射的に反発してみただけのことで、最初から根拠なんかなかったのだろうか? 〈千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが〉と、その次の「不明瞭な文体について」の章で氏は書いているが、確かにしんかい氏の文体は千葉に比べればまったくもって明瞭ではある。場面ごとに言いたいことは分かる。ただ、自身の主張に対する根拠がほとんど書かれていなくて、全体を繋げると辻褄が合わないというだけのことだ。しかし、最初から〈言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論〉がしたいのならともかく、アンチ・アンチ・エビデンス論としては、これは致命的なことではないのだろうか?
この後も、しんかい氏は「アンチ・エビデンス」的な、説明責任を果たさず、ただの思いつきで主張を言いっぱなしにするだけの批評を展開している。
ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路で評論というものを考えてるんですよね。思考を論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。
この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇やアカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。
対象になる文章に「粘土細工」という比喩を与えて、その粘土細工のイメージを攻撃する。ありがちな比喩の乱用だが、このあとソーカルによって批判される「科学・数学」の乱用に比べれば、反証のしようがないために、確かに優れた方法ではある。
これなどはまだいい方で、一冊の参考文献が提示されている。そのピーター・バリーによる教科書の引用部分だけで、どうして「世界的」な思潮についてここまで断定的なことが言い切れるのかはさっぱり分からない。
バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。
また「世界的」なことを一冊の本だけで理解している。しんかい氏は〈千葉が、九〇年代をエビデンシャリズムからいまだ自由な時代だったと称えている〉ことと、ソーカルの影響によってポストモダニストの難解な記述スタイルに〈致命傷を与えた〉話を、そのまま繋げている。〈それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します〉。……。時系列ごとに並べると、受験生に嬉しい真っ白な年表ができそうだ。これも千葉の世代論に比べると、中身をスカスカに抜いたからとはいえ(ほとんど粘土は混ざっていない)、確かに言いたいことは分かりやすい世代論ではある。そこにエビデンスがあるかはともかく。
だいたい、千葉がポストモダニスト的なよく分からない文体を使っている(これもしんかい氏の主観であり、論の後半にはある部分の引用について〈率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします〉などと豪快なことを言う。論の冒頭で〈発表直後はネットで賞賛の声に包まれました〉という例示と「批判の声」を対比させたのは何だったのか、賞賛の声を上げた人たちは最初からしんかい氏にとっての人類には含まれていなかったのだろうか?)ことと、過去に著名なポストモダニストが問題と論争を巻き起こしたことには、いったい何の関わりがあるのか? ただの連想ゲームでしかないのではないか? こうしたカテゴリーを混同した主張と、「ジャック・ラカンは、虚数と無理数を混同している」といった事実に、どのような違いがあるのだろう?
しんかい氏はなぜ、ソーカル事件と千葉雅也を結びつけて論じようと思ったのだろうか。「おそらく……」などと仮定を挙げてエビデンスのない主張をする気は今のところない。それよりも、根本的な疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において、しんかい氏は、アンチ・エビデンスを批判するどころか、むしろそれに則った、説明責任なんてお構いなしの自由闊達な批評をしている。それはそれでいいことじゃないかと思うし、それとは逆にエビデンシャリズムを徹底させた批評の道もあるのではないかと思う。しかし、今回のように、ある種の世代論や、ある人物をどのように評価するかなど、すでにある程度の文脈が与えられた人文学的なテーマの場合、科学や数学におけるような厳密な方法論などないし、徹底して証拠を走査することは(この私の文章のように)不毛なものになりがちなのではないだろうか。そもそも戦う土俵を間違えているんじゃないか、という疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において批判されている(かのように見えるが、どういう理屈でかははっきりしない)「実感の正当化」だって、たとえば何らかの世代論であれば、いくつかの本から有益そうなところを引用して、それなりに理解が深まれば、反事実的条件と現実世界の関係に関する考察などといった面倒そうなところから論を始めなくても、それで充分なのではないか、という気はする。これは純然たる思いつきである。
貴婦人はとっくに寝てしまったので無駄話を続けると、だいたい意味が分からないかどうかで評価するのなら、数学や科学やプログラミングなどの高度な専門書だって(〈一般社会には通じない理屈〉とまで表現するかはともかく)私個人にはまったく意味不明なものだし、別に大陸系哲学だけの話ではなく分析哲学の本でさえ、少し高度になるといまの私にはさっぱり分からない。意味不明なことを言っているのと意味がないのは(いわゆる「説明と理解」といった哲学的テーマになるのだろうか)まったく異なるはずだし、ここを突き詰めて考えると分析哲学的にも絶対にややこしい問題に直面すると思うのだが、しんかい氏はその辺りをどうも曖昧に片づけている気がする。
ところで、「形骸化したエビデンシャリズム」それ自体は、いつから・どの程度顕在化したかはともかく、いかにもありそうな話ではあると思っている。最近某所で話題になっている広島大学のモニタリングの話とか分かりやすいんじゃないだろうか。
高校の時に仲の良かった友人は、受験の際に東京の有名私立大学一本に絞る、と言った。
なぜその大学なのか聞くと、憧れている文化人が何人も卒業しているからだと言う。
結果は不合格だった。
翌年、予備校に通う彼に話を聞くと、またその私立大学一本に絞って受験すると言う。
さすがに不安に思った私は、他大学を滑り止めとして受けたり、場合によっては第二志望の学校に入ることも考えた方が良いのでは、と説得した。
だが友人の決意は固く、再び第一志望校のみで受験をし、不合格となった。
翌年、彼はフリーターとなって地元で数年働いた後、東京へ行った。
その時以降連絡が取れなくなり、今どうしているのかはわからない。
大学の時に仲の良かった友人は、株のデイトレーダーとなり生活することを夢見ていた。
経済学部だった彼の部屋には、経済学の専門書や株取引の本が並び、とても熱心に独学しているようだった。
部活やサークルに入っていなかった彼は、アルバイトで株の資本金を貯めることに熱中した。
株の資本金は大きいに越したことはないという。旅行を断り、食費を削った。
株取引用の口座を作った時、いつになく自信に満ちていた。
数カ月後、口座のお金が底をつき、彼は株取引をやめた。
大学を卒業後、地元に戻った彼は、トヨタ関連の工場に就職したらしい。
電話をかけても繋がらなくなり、いつの間にか電話番号が変わっていた。
少年マンガのお約束として「友情・努力・勝利」という言葉がある。
仲間をつくり、努力をすることで勝利する、という物語の鉄則だそうだ。
確かに昔読んだ少年マンガも、こういう流れのストーリーだった気がする。
こうした少年マンガのせいというわけではないだろうが、「努力は必ず報われる」という思いを強く持ちすぎて、妥協できないことで損をしている人がいるように思う。
そろそろ就職活動の時期だと思うので
0.前提
ノンゼミノンバイサー(ゼミもバイトもサークル活動も経験皆無)
1.数撃ちゃ当たる
私の場合は約50社を受けて2社内定をもらった。確率にしておよそ5%である。
凡人にとって就職活動はある程度は運ゲーな部分があると思う。自分で制御できないもしくは、知ることのできないことに結果が大きく依存するからである。面接官との相性、受験者の質、今年の採用人数、その日の調子等。
私と同じ戦闘力(5%)を持って20社受けたたとしたら、0.95^20=0.35でおよそ35%の人は内定はもらえない。戦闘力が低い人間はとにかく量を用意しないと話にならない。就活論では質を上げよと謳うことが多いが、量を用意することも大事だ。だいたい量を増やせば質もあがるはずである。
20社程度受けて内定をもらえないと嘆く人がいるが、サンプル(分母)が少なすぎる。その中の一次面接が一度でも通ったことがあるのなら足を止めず機械のように受け続ければいつか内定がもらえるはずだ。
2.嘘をつく
大学時代に何してたか。これは必ず聞かれる。巷の就活論ではこれは会話のきっかけにすぎず、内容に意味はないというものがある。だから何を話してもよいのだと。でもこれには限度があると思う。ネトゲ・2chに時間のほとんどを使っていたと素直に言ってよいのか。これでは面接は通らないだろう。だからどうしようもない場合は適度な嘘をつくのがよいと思う。
面接官は何百と面接をしているから嘘が見抜けると言うやからがいる。たしかに嘘をつくことにはリスクがあるのかもしれない。でも自分のような人間は正直に話すことの方がリスクが大きい。その場合は積極的に嘘をつくべきだ。
3.ゴールを決める
就職活動で20、30社と連続で落ちてるとゴール(内定)は全く見えないし、とても現実的とは思えなくなる。なので別のゴールを設定すると楽になる。私は50社受けてどこも受からなかったらニートになろうと決意した。別にこれはなんでもいいと思う。自殺するとか事件を起こすとか留年するとか一生フリーターで生きるとか。
初めのうちは面接に落ちると落ち込むことがある。落ち込むのは心のどこかでもしかしたら受かるかもしれないと期待をしているからだ。客観的に見て自分が採用に値する人間か考えよう。逆の立場に立つと自分を採用したいと思うだろうか、絶対に採用したくないはずだ。受けたら落ちたと思い、すぐに次の行動に移ろう。そうすると楽になるし、落ちる言い訳を探し続けることより建設的だ。
客観的に見て自分が無能だとしても、面接官が適切な判断を行えるとは限らない。就職活動をしていると面接官を特別な存在のように思いがちだが、面接官にも無能はいるのだ。
世の中には就職活動に関する情報が溢れている。しかし、就職活動に関する情報の過剰摂取は意識が低い人間には毒である。それは普段毛嫌いしている自己啓発系の臭いを更に濃縮した臭いがする。自己成長?やりがい?コミュニケーション能力?ありのままの自分?聞くだけでも気持ち悪くなる言葉だらけだ。なぜ大学時代に能動的に何かをしたことがあるのが前提になっているんだ。真に受けると自分のダメさ加減に精神を消耗させられる。
従って、大量の情報を浴びることを避け精神の安寧を確保し、それ以外の行動や休憩にリソースを振り分けるべきだ。受験のとき2chの受験板を毎日見ていて、糞みたいな大学へ行くことになった教訓を活かそう。
7.最後に
他者と差別化できるだけのスキルも、たいした対人スキルもなく、なかなか内定を得ることができない人は日本の新卒 一括採用を含む就職活動を否定しがちである。
しかし、この制度は私も含めこのような人が最も恩恵を受けることのできる制度である。いままでの人生で何の努力をしてきただろうか。努力してないから今の自分がこの位置に立っているだろう。努力をせず結果を得ようとは虫のいい話であるが、それが可能なのが就職活動である。たいしたコストをかけていないのにリターンを得ることができるお得なゲームなのだ。だから日本に生まれたことに感謝し喜んでこのゲームに参加すべきだ。
https://www.reddit.com/r/newsokur/comments/308fk6/
[–]bon-nskr 20 ポイント 2 hours ago
一見意識高いけど、アフィブログのブクマが大好きだったりするよくわからない民族
[–]docking_niboshi 14 ポイント 1時間前
意識高い系IT好きナードの皮を被ってるくせに旨いもの・セックス・ナンパ・ノマド(その実態はIT系フリーター)という低次な人間の単純要求が垣間現れるのが気持ち悪い
あとはてな村wとかいう糞ワードを使ったネトヲチ板並の内輪ネタも気持ち悪い
俺でさえTOEICやり始めたわ
[–]383838383838 日系人 11 ポイント 2 hours ago
はてな民は [英語], [English] というタグを付けただけで英語の勉強をしたと勘違いして満足してしまう人たちなんだよ
大目に見てやれ
[–]9nrUoAA7 9 ポイント 2 hours ago
ライバルだったのかw
[–]loadbrioche 転載禁止 9 ポイント 2 hours ago
未だになにしてるサイトなのか知らないのだけれど