はてなキーワード: 関関同立とは
実際問題マーチ相応の学力だったはずの人が、マーチに落ちたからって地方の大学行ったりするのか?
イメージ的にはマーチに落ちたら日東駒専行くぐらいな気がするんだけど、最近は事情違ったりするのか?
関西出身とかだと、マーチ上位受かったら上京するけど落ちたら関関同立(の下位)とかあるのかもしれんけど、
その関関同立ですら合格者絞ってるわけで。結局何がしたいのかよくわからない。
だいたい地方の大学行ったけど就職で上京する人も、逆も十分よくあるのだから、
じゃあ首都圏私大の地方就活の支援でも国策でやったほうがよほどいいのでは?
たかだか4年間学生として地方に一時期いくより、就職先として定着する方がよっぽど地方創生の役に立つような気がするんだがなあと。
高専卒の方のエントリーが上がっていたので,レアな存在である高専について私も語ってみる.何度目の焼き直しになるかわからないが.
15年前に卒業.化学系学科.情報としては古い点も多々あるかと思う.ただ学生会長で全国高専につながりを持っていたので、情報ソースは1校のみではない.
①進学が容易
後述する.
高校1年次から専門教育を受けられる.全課程が専門教育というではなく,高校や大学で履修する一般教養とのミックスになっている.年次が低い段階では一般教養の比率が高く,年次が上がるにつれ逆転するという塩梅だ.まともに単位を取っていれれば5年次は週の半分は研究だった.
①進路が固定されやすい
大多数が工業系の道に進む.進まざるを得ないといっても過言ではないだろう.感覚的に同級生の8割はメーカにいる.世界が技術系一辺倒なので,その他が見えにくい.入学時点で15歳なので、染まりやすく視野を広く持つことも難しいという点もあったかも知れないが,情報網が発達した現代はまた異なるかもや知れない.教員も普通の研究員なので,理系のアカデミアで純粋培養されたような癖が強い人がごろごろ.コースを変更しようとしても,マイノリティになるため後押しもロールモデルが少なくハードルが高い.
専門性が高い故、入学後に技術に興味がないことに気づいてしまった場合,モチベーションが下がりついていくのが困難になる.高専は受験日が普通高校に比べて早いので,度胸試しで受けてみたら受かってしまった,偏差値が高いのでなんとなく来た,という層の一部がこの状態に陥る.一念発起して3年次にセンター試験を受け大学に進学、文転したものもいた.これはレアなケース.
③恋愛チャンスは共学に比べ少ない.15-20歳という多感な時期に恋愛経験はまあ一般的に重要だろう.学科構成に依るとは思うが伝統的な学科であれば女性が少ないので競争は激しい.然しながら化学専攻などは女性比率が高い,それでも半分程度だろうか.
授業時間は90分.1年次から週1-2回のペースで半日かかる実習or実験があり,1年次から毎週毎週濃密なレポート提出を課せられる.締め切りや採点も厳しく,図書館での追加調査を含め毎週5-6時間をレポートだけで費やしていた.科学的文章の書き方の下地はここで醸成されたと感じる.専門科目が入っている分,一般教養が割かれている.歴史はなく,地理も確か1年前期しかなかった.その他普通科高校と比べて色々なものが削られていたに違いないが、よく分からない.
また,数学が難しかったことを殊更に覚えている.入学後すぐに三角関数,確率,2年次に上がる前に微積,線形代数.2-3年次で重積分,偏微分,常微分・・・.4年次以降で複素関数,曲面,群論,ラプラス変換,ベクトル場等の応用数学に入っていく.他にも電磁気,化学,熱力,固体物理・・・うっ.
①就職
就職率100%.求人倍率~20倍.県内の有力企業,大手の現業職(現場職長候補)に比較的楽に就職できる.ただ高専生は世の中のことをよくわかってないので,企業や業態研究をせずに適当に就職してしまい数年後に後悔する同級生はそこそこいた.先生も技術バカが多く,経済的なリテラシー教育はほぼなかった.私のころはインターネットの情報量も多くなく,現在はまた違っていると思われる.
②進学
大きく2つに分かれる.専攻科か大学か.
専攻科:
自校に残り,2年間の延長教育を行う.大卒の資格を得られる.ほぼ研究メインの生活を行う.研究8割,授業2割くらいか.卒業後は旧帝や技術系大学院(奈良先端科技大/豊橋技科大/長岡技科大)などに院進する人が多かった.就職する場合世間的にはレアな存在であり,専攻科?そんなのがあるんだ?という反応をされ,研究漬けで辛い生活を送ってきたのにも関わらず就職アピールとしては弱いと友人はボヤいていた.
進学(3年次編入):
ここが最大のうまみであろう.
①いくつも受験が可能.大学毎に試験日程が統一されていないので,費用と日程確保さえできればいくらでも.自分の場合は4大学に出願し,3大学目で決めた.偏差値が低いほど早めに行う傾向があった.
②受験科目が少ない.例えば東大は数学と英語だけだった.(東大のみ2年次編入だったが)問題も奇天烈なものでなく,真面目に授業を受けてしっかり対策していれば十分に解ける範囲である.
③高専によっては提携大学がある.私が卒業した高専では所在県の大学,提携の私立大学(関関同立など)は指定校推薦でほぼ全入していた.高専から私立大学に行く人は少ないので,競争率も低かった.就職したくはないが勉強も好きではないモラトリアム層は延命策としてこの選択肢をとっていた.大学編入後は一般教養はほぼ単位認定(=免除),専門教科も高専で齧っていることが多く,比較的楽.実験,研究発表においては経験の差が歴然.学部レベルでは専門を変えない限り大きな問題はないだろう.私も彼女が欲しくてテニスサークルに入ってみたが,雰囲気についていけずすぐ辞めたというオチ.
ピンキリ.トップレベルの明石高専や豊田高専などは偏差値60後半でそこらへんの進学校を超える難易度だが,商船高専などは50前後.学科としては電気がいつも大変そうだった.数式だらけで理解するのが大変.材料や土木,環境,その他新興分野はおぼえればいい科目も多く,比較的楽.
全寮制の高専は確かなかったと思うが,大概他県や遠隔地からの学生用に寮が用意されている.寮ではゲーム相手に事欠かない,発売日に漫画がすべてそろう,ありとあらゆるジャンルのエ〇本を閲覧できるなどのメリット(?)もあるが,大きなデメリットとして私が通学していた20年前では上級生による「しつけ」という名の体罰が行われていた.木曜日の夜に1年生を呼び出し,暗闇の中で数時間正座をさせて悪事を白状させるというもの.(風呂掃除に数分遅れたとか,寮の敷地内で先輩を発見した際百m離れていても90度おじぎをして挨拶を”叫ぶ”必要があるが,そのお辞儀角度が足らなかったなど)一定数白状しないといつまで経っても終わらないため,どうでもいい些細なことを報告するのが常であった.正座のみならず1時間両手を上げっぱなしにさせるなど.終わった後は体が痛んだ.脚が痺れを通り越して暫く立てないレベル.なぜ木曜の夜かというと,金曜になるとみんな帰省してしまうため.
さすがに今はもうないだろう.しかし,中学校を出たばかりの小僧に大学1-2年生相当の先輩たちはとても怖い存在で,且つ退寮して親に金銭的負担をかけられないため多数は我慢を選択する,という構図だったし,私の親も鍛えられてこい,という感覚だった.家が比較的近いやつは馬鹿馬鹿しくて通学に切り替えていた.私のころはなかったが,以前は先輩から達しが出るや否や吉野家の牛丼を30分以内で代理購入してくるという「吉野家ダッシュ当番」なるものもあったそう.尚,年次により寮内でのルールは緩くなっていく.年次による権力を揶揄した称号があり,1年次から「奴隷」,「見習」,「平民」,「貴族」,「神」.1年次においては共有スペースの炊事禁止,テレビ閲覧禁止,風呂掃除や朝食準備などの各種当番,祭りでの汚れ系出し物など.2年次になると共同場のテレビ閲覧可,3年次から個室があてがわれ、テレビも自室に設置が可能となる.今思い返せば,陰湿な日本文化を如実に体現しており,乾いた笑いが出る.
私は上級生になった際このシステムを廃止しようと試みたが、全体的にそれを維持したいという空気が流れており結局叶わなかった.ただ親元を離れて集団生活を送ったことで自身も随分たくましくなったと思う.
メーカを何社か転職し,現在はITでデータ解析職.製造業に興味がないことに気づくのに大分時間がかかり,また気づいてからも収入を維持しながらも他業種へ脱するまでが大変だった.現在は34歳で年収950万円.奨学金は500万ほどあったが30歳前に完済することができた.
【2022年追記】現在37で1700万.幸運が重なり待遇の良いコンサルへ転職することができたが,周りの優秀さに埋もれつつありキャリアピークも近いかと感じている.がんばりたい.
なんか盛り上がってるので参加させてくれ。
[基本スペック]
ややADHD気味で人の話に集中できない。図形脳で言語スキル(特に会話)が弱い。
親は両方中卒で無口、兄貴は不登校引きこもり、弟は知恵遅れ気味。親に何かを教わったという経験があまりなく、親の無口が自分にも遺伝している。
家は全く裕福ではなく、父親は過去有名鉄鋼会社で工員勤務。俺が小さい頃に仕事中の事故で片足を失ったがそれでも家族を養うために働き続けてくれた。
[中学校]
大阪の西成に近い、低階層のクラスの家庭が沢山あるエリア。なのでヤンキーが沢山いる地域だった。周りの奴らと比べて頭の出来が良いかも?という自信はあったが、ある時進研模試を受けて自分の偏差値が55程度であることを知る。しかしその当時は偏差値の意味もよく知らず、周りは皆偏差値45ばかりの中55とってる俺は輝いて見えたし、学年一番の偏差値60の奴が天才に見えた。
勉強はあまりしなかったが図鑑などを読むのは大好きだったし特に数学が好きで他のやつが解けない難しい問題を解けるという自信があった。
周りの友達にはあまり行儀の良い子はおらず、いつも誰かの家に集まって夜中までワイワイゲームしたり、夜の公園に集まって時には朝まで駄弁ったり、楽しかったがあまり真面目に勉強はしなかった。授業中はほぼ教科書の落書きかパラパラ漫画を書いていた。
授業中騒ぐようなことはなかったが、もともとADHD気味で人の話を聞けないのと、夜まで遊んでいたり早朝新聞配達のバイトをしたりしていたので先生からの覚えは悪かった。受験の時に「お前は内申点悪いから公立いけんぞ」と言われた。金のない親には非常に申し訳ないことをした。
[高校]
高校に入って最初の構内統一試験みたいなものがあり、そこで自分は大して頭が良くないらしいということに気づいた。周りの友達と話をしていても、なんか自分の考え浅いし遅いな、と感じることが増えてきて、それまで自分はそこそこ頭いいと思っていたのが叩き潰されて結構なショックを受けた。この時に感じた自分は凡人以下であるという自己認識はその後の人生に大きな影響を与えた。それと同時に英語や国語は負けてもいいが数学だけは負けては行けないというプライドに火がついた。
高校の偏差値は高くなかったが担任の教師が偏執的に関関同立に執着しており、お前たちは人生に勝つために勉強しなければいけないという脅迫まがいのプレッシャーを毎日のようにかけてきた。もともと中高一貫の進学組は大学受験マインドが高く、関関同立目指して頑張るぞ、という空気があったので自分もだんだん感化されて勉強するようになっていった。
担任教師は人間性としてはそびえ立つクソだったが奴がいなければ今の自分はなかっただろうな。
だんだん勉強が楽しくなり、受験マニアの友達ができたこともあり、書店で参考書を眺めるという日課ができてきた。
当時家に金が無いことはわかっていたので小遣いはもらっておらず、どこかに遊びに行くとか美味しいものを食べるとかできる状態ではなかった。思い返せば高校の間友達とプールに行くとか遊園地に遊びに行くとかそういう経験は一度もなかったな。
しかし書店にある沢山の参考書を買いたい欲が日に日に強まってきた。そこで、小遣いはもらってはいなかったが毎日昼飯代として500円支給されていたので週の半分くらいは昼飯を食わずにお金を貯めることで月5,000円くらい貯めてこれで参考書を買ったり駿台夏期講習に申し込んだりできる仕組みを開発した。
参考書の数が増え真面目に勉強をするようになり、やはり自分の数学の能力は人より優れているという自信を再度取り戻すようになった。数学は本当に楽しくて熱中した。そのうち数学の先生から「大学への数学」の存在を紹介されて毎月購読するようになった。
と同時にやはり自分の頭の回転は良くないので自分が将来何かを成し遂げたいのであればただ一つのことに時間を集中しなければ他人には勝てないという確信を持つようになった。
だから毎日往復二時間に通学時間の間はずっと参考書を読むようになった。Z会の速読英単語など、最初は全く意味を取れなかったが何度も何度も読みまくることで次第に英語が読めるようになってきた。
高校3年になった頃にはもう勉強が非常に楽しくて生活の中心になっていた。特に大学への数学では毎月巻末に難問が出されて解答を編集部に送ると添削してくれるのだけどそれに本当に熱中していた。この問題は本当に難しく、自分の頭では数時間考えた程度では全く解けず、数日、時には数週間同じ問題をひたすら考え続けるという生活を送っていた。夜寝る前まで布団の上で考えて、眠りながら考えて、朝起きたら布団から出ずにまた考え始めるということをしていた。今考えると頭の使い方が稚拙というか同じところをぐるぐる周ってる感じだったのだけど、そうやって何日も考えると解答が思いつく瞬間が必ず訪れるのでそのカタルシスに当時は本当にハマっていた。毎月添削結果が送られて来るたびに模範解答のエレガントさと、自分の地をのたうち回るような回りくどい議論の差を見せつけられやはり自分は凡人であるということをつきつけられた。点数はいつも150満点中145程度で一度も満点を取ることが出きなかったのは悔いが残る。自分は過去の思い出とかにはあまり執着がなく、京大博士の卒業証書も使いみち無いのでゴミに出したのを友人に止められたくらいだがこの添削結果だけは今も大切に保管している。
自分は記憶力が異常に弱く国語や歴史は非常に苦手だったのだけど、物理や化学も覚えることが多くて困っていた。しかし駿台の著名な先生(山本義隆氏と石川正明氏)の書いた書籍を読み、覚える物理・化学から考える物理・化学へとパラダイムシフトを起こすことができた。ただ暗記するのではなく、なぜその式が成立するのか、なぜそのような化学反応が起きるのかというより深いところを理解できるようになった。同時に物事を深く認識するということが自分の性格に非常にマッチし、そして自分はそのために人の10倍の時間を捧げることができるということが自分の強みであると確信するようになった。この強みは40になった今でも活躍している。
この頃は駿台や河合塾の模試でも上の方に乗ることが多く、志望学科の中では上から2番目を取れるくらいにはなった。そうなると今度は予備校の方からただで授業を受けませんか、というお誘いが来るようになる。これは合格者一覧の名前を稼ぐマーケティングである。その中でも駿台の数学特別講義という非公開の授業にお誘い頂いた。数学がよくできる学生を数十人集めて難問の講義を行うというもので、これもなかなか楽しかった。周りは皆灘とか東大寺の中に偏差値55の学校が混ざっているのはむず痒い感じではあったが、すぐに自分はやはり彼らとはレベルが違うということがわかる(毎回試験があって採点される)。一人明らかな天才がいて、その人は今有名な数学者になっている。
後のことは上記の事の結果でしか無いので端折るがセンターは確か国語社会が6割くらいしか取れず志望学科はC判定、というのが送られてきて先生が「気を落とすなよ」慰めてくれたが自分としては全く想定通りの結果であり過去の模試の結果からこの差は二次で覆すことができるという強い自信が会った。
家の経済的事情から滑り止めを受けるということはできず、前記京大後期阪大のみを申し込んだ。これについては先生から怒られた。本当は阪大の後期にも申し込みたくなかった。
試験は数学は色々ケアレスミスをしてしまったが大筋では正しい解答ができ、物理化学はどちらも1問しか間違えなかったので合格を確信した。
しかし合格した当時自分は中二病を引きずっていたので一緒にいた親に笑顔も特に見せず「合格した」とだけ言った。これは人生の最も大きな後悔の一つ。
大学に入った当時は研究者になることを夢見ていたが大学に入ってからは本当の天才を目の当たりにし、また博士課程卒業間際になり研究というコミュニティもコミュ症では構造的に海外のリア充に勝てないということに気づき断念、IT企業に就職して今はスタートアップをしている。
https://anond.hatelabo.jp/20190102063518
読んだらわたしも書きたくなったので書く。もう10年以上前の話ではある。
元増田と違い中学受験や私立とは無縁で、片田舎の公立中学、公立高校を卒業して京大に入学した。
勉強なんてほとんどしてなかったけど、テストでは常に学年トップで完全にお山の大将だった。
一方で家庭環境的にいろいろあった時期でもあり、また自分自身もいろいろ拗らしてた時期でもあったので、私立組やいわゆる英才教育を受けている人たちへの異常なコンプレックスがあった。塾なんかに頼るやつは元々馬鹿、私立高に通って高いお金出さないと勉強できないやつに勉強する意味はない、などと誰彼構わず吹聴していた。今思っても最悪の性格だった。
将来の展望なんてこれっぽっちも見えてなかった。大卒の大人は周りに全然いなかったし、もちろん官僚なんて言葉も知らない。そんな中、ある日法事だかお盆だか正月だかで叔父に当たる人と久しぶりに会った。聞くと某地方総合大学の工学部を卒業し、自動車系メーカで開発をしているとのこと。元々機械は好きだったので、その仕事をすごくかっこいいと思った。そしてそれ以上に、その人の身なりや車(といっても今で言うアルファードみたいな上位国産車)、余裕、羽振りの良さなど、あらゆるところに今まで自分の周りになかった、ハイクラスな何かを感じ、衝撃を受けた。今思えば(叔父には悪いが)お金持ちのモデルとしてはずいぶん控えめではあるが、それでもこの衝撃は大きかった。自分の目の前に一つの道が示されたような気がした。
そんな自分に両親はとても優しかった。自分の選択や意見をいつも全力で肯定し続けてくれた。今思えば自分の可能性を広げるための最大限の配慮をしてくれていたのだろう。
結局地元で2番目ぐらいの公立高校に行った。理由はいろいろあるが、自転車で通えるというのは大きかった。自宅からの公共交通機関のアクセスが最悪だったからである。
この高校は一応進学校とは銘打っているものの、毎年東大はゼロ、京大が1人いるかいないか、旧帝大に数人、といった感じだった。相変わらず高校でもお山の大将だったが、高校は全国模試があるので自動的に全国の高校生と比較される。片田舎の小さな小さなサル山で大将を気取っていた少年はここで初めて現実を知る。
1年生の夏、家族で京都に旅行に行った。古い街並みと近代的な景観が融合するこの街を、わたしはすぐに好きになった。さらに、この旅行の行程には京都大学観光が組み込まれていた。今思えば、両親がわたしのやる気を引き出すために連れて行ってくれたのかもしれない。ともあれ、権威のシンボルである時計台、自由を象徴する立て看板、鴨川と百万遍の街並み、どれもが自分の心を強く打った。
本気でそう思った。
そこから勉強を始めた。あんなに嫌いだった塾にも結局行った。恥を忍んで塾に行きたいと親に言ったときも、やはり親は快諾してくれた。塾は大手予備校講師のOBが地方でやっている個人塾だった。英語と数学を教えてもらっていたが、ここの先生方には現在に至るまでお世話になっている。勉強だけでなく、自分の見識を大いに広めてくれた恩人であり、今でも頭が上がらない。
高2の終わりぐらいまでは漫然と過ごした。学校の授業は地方国立やMARCH、関関同立といったところをターゲットにした内容であり、物足りなく思うことは頻繁にあった。しかし学校の授業でつまずいているようでは京大もクソもない、という信条があったため、まずは学校の授業で習った部分は確実に押さえることを一番に考えた。
高3になると全国模試のランキングに浪人生が入るので、順位や判定が一気に下がって焦った。先生方は「最初は下がるけと徐々に追いついてくる」と言っていたが、秋になっても成績は伸びずにただただ焦った。自分の立てたスケジュール通りにまったく勉強が進捗していないこともあり、更に焦った。焦りすぎてメンタルが不安定になり、何度も勉強中に発狂した。振り回したシャーペンは何本も折れた。親には意味不明な理由で八つ当たりを繰り返した。親はすべて受け止めてくれた。
高3の大晦日の夜、いつもどおり家の机で勉強していたのだが、うっかりそのまま寝てしまい、気づいたら新年を迎えていた。あまりの不甲斐なさに一人で泣いたのをよく覚えている。
受験勉強はチーム戦、という言葉がある。上でも書いたとおり、自分のいた高校は難関校の受験生が少ない。しかし逆にその分、似たような境遇の我々には妙に強い結束感があった。別に机を並べて一緒に勉強したりするわけではないが、模試の結果や参考書の話、志望校の話などをとりとめもなく話せる人が周りにいるというのはとても心強かった。模試の判定を見て落ち込んでいるときや不安でやる気を失いかけているときに鼓舞してくれたのは彼らであった。結果は人それぞれだったが、今でも年に一度は集まる良き友人たちだ。
【試験】
京大工学部はセンター試験の点数配分が恐ろしく低いので、気軽に受けた。特に数学は足切りラインを除くと全く評価されないのでろくに対策もせず、1A2Bともに85点程度だった。ただ周りの友人が満点を連発していたので妙な焦りだけが生まれた。
私立は早稲田と慶応を受けた。どちらも全く行きたいと思っていなかったが、練習だと思って受けた。初めての一人東京だったので異常に浮かれた。慶応の試験前日、下見ついでに少し街を散策したが、これがよくなかった。壮大に風邪を引いた。熱で全く頭が回らず、とうとう英語の試験の途中で医務室に運ばれた。医務室でひたすら泣いた。
京大2次試験の当日、出発前にわたしは親を呼び、これまで支えてくれたことへの感謝を伝えた。いろんな人に支えられてここまで来た。特に親の気苦労とサポートは計り知れない。そのことをどうしても当日伝えたかった。わたしも親も泣いてわけがわからんことになった。
当日は自分でも驚くほど冷静に試験に取り組めた。数学の試験は試験官に手紙を書いているような気持ちで答案を作成した。結果的に完答できた問題はなかったのだけれども。
ところで、新年を迎えたころから自分の中のルールとして「前期試験不合格を連想させるようなことは一切口に出さないし、心にも思わない」というものを設定した。「浪人したら…」「後期試験の対策は…」といったことを考えることも禁止した。発言の自由はおろか思想の自由まで侵害するという、今思えばドン引きするルールだ。バックアップを想定することは合理的であるが、その発想自体が心を弱くする、という根性論だった。今の自分は根性論が大嫌いだけど、ともかくその時はそれが最善だと思っていた。自分なりに必死だったんだろう。
合格発表の掲示開始時間には10分ほど遅れて到着した。すでに合否の熱狂から一段落しているところで到着した形だった。手足が震えていた。すがるような気持ちで掲示板を見た。番号があったので、また泣いてしまった。声を上げて泣いた。今までずっと無理をしてきて、辛かったんだということをその時理解した。その様子を見たアメフト部の人たちに囲まれて、胴上げされた。
【その後】
入ってから色々あったがここでは割愛する。卒業してからは某メーカで開発職をやっている。結局件の叔父と同じような道を選んだことになる。しんどいこともたくさんあるが、機械が好きなのでなんだかんだ向いていると思っている。
【さいごに】
一番お世話になった参考書の一つにチャート式があるが、この巻頭に記載されている「汗をかけ」という文章がわたしは世界で一番好きだ。短い詩なのでぜひ全文読んでほしい。
http://www.chart.co.jp/corp/00epitome/01what/asewokake/asewokake.html
「確実な道」を行く者は、「近道」を行く者よりも、汗をかかなくてはならないだろう。だが、その汗は、絶対に無駄にはらなない。君が、将来“かっこいい大人”“素敵な大人”になれるかどうか――それは、10代の時どれだけ「汗」をかいたかで決まるから。
恋でもいい。グラウンドの上でもいい。
そして、エンピツを握ってでもいい。
フィールドは何であれ、思い切り「汗」をかく人であってほしい。
元増田にもあったが、受験はその構造上どうしても他者との競争の構図ができがちだ。しかし自分自身の弱いところや意地悪なところや卑怯なところと徹底的に見つめ合い、自分の力で一歩一歩進むことに最大の意義がある。
すべての人に受験勉強というプロセスが必要とは思わない。ただ、受験勉強を通して得られるものは決して少なくなく、ただの公式・知識暗記ゲームにとどまらない、自分にとって大切なことを教わる大変よい機会だった。大学ではすっかり落ちこぼれ学生だったが、多種多様の人たちに出会い、自分の見識を常に広げ続けさせてくれた京都大学には本当に感謝している。
いま話題、ビ・ハイアの社長と同じ大学を卒業した。数年後輩にあたる。友達の友達のそのまた友達、みたいな遠さだ。
あんな田舎のしょぼくれた大学から、全国的に有名になる人が出てきて驚いた。
出身大学は、以前からあった短期大学を4年制に改組する形で1995年に開学した大学で、あの社長の年齢だと2期生に当たると思う。
キャンパスはずいぶん田舎の湖畔に位置し、冬の風の強い日はキャンパスのスロープを暴風が吹き抜けていた。田舎の自然のダイナミックさを学んだ。
私立大学のような多種多様な人間が集まるわけでもなく、偏差値で輪切りにされた人たちと、ほんの少しの地元高校からの推薦枠から来た学生がいる程度で、おとなしい人たちが多かった。手近な遊び場は駅前のショッピングモールしかないんだから仕方ない。環境が人を選ぶのか、環境が人を作るのか。
研究者の質は高くて、私のいた当時は引退されていたものの日高敏隆先生もご存命で集中講義をされていた。休憩時間中にタバコをプカプカふかしておられたのを覚えている。「レポートを5行以上書いたら成績を下げられるらしい」という噂が流れたのの、5行以上書いてもそれなりの成績をもらった。その他、謦咳に接する機会はなかったが、脇田晴子さん(文化勲章受章)や黒田末寿さんも現役だった。
だけど世間的な評価は必ずしも研究者のレベルと一致するわけではない。就職状況の悪さがそれを物語る。
偏差値的には産近甲龍と関関同立の間ぐらい。しかし人数も少なく歴史もなかったので、私の在籍していた当時でも就職状況はさんざんだった。産近甲龍よりも悪かったんじゃないか。就職支援室でOB・OGの就職先一覧をみたとき、ずいぶん危機感を覚えた。公立大学なのに地元の役所や有力企業への就職すら、ほぼなかった。地元出身の学生は「県外には行きたくない」と言っていて、毎日県外から通っていた私には衝撃的だった。そんな狭い世界で満足するのか、と。
私は県外のそれなりの職場に就職したけれど、同じ大学の出身者はおろか、「出身者を知っている」という人にすら会ったことがない。
一般的な県下出身であの大学を卒業した人間は、東京なんかで企業することなど考えない。ギラギラした向上心はなく、のんびり暮らせたらいいや、という人がほとんどだ。
ここから先は完全に妄想だけど、あの社長は県下2位の大都市で生まれ育ったようなので、将来への危機感があったのかもしれない。結果、ベンチャーの立ち上げに参加して、自分も小さな企業を起こした。だから「世間的な常識」を学ぶ機会がなくここまで来てしまったのかもしれない。起こした結果はひどいものだし、身の丈に合わなかったことをしたんだなと思う。
35で普通って
男だと
5000万円以上の予算の決済権があって
年収600万以上で
4000万以上のマイホームが建ってて
30までには結婚してて
2年に1回以上は海外旅行に行き
3年に1回以上は嫁さんと喧嘩するも仲直りsexで絆を取り戻し
テレビのバラエティ番組では違和感なく周囲と同じように笑うことができ
花粉症はあってもぜんそくやアトピーなどのアレルギー性の持病とは無縁で
学生時代から付き合いが続いている年に1回以上は連絡を取り合う友人が5人以上いて
休日に職場の同僚先輩部下と年に1回以上精神的苦痛を感じずに遊びに行くことがあり、
お互いの関係は悪くはなく
それでもなんかちょっと物足りない
って考えてるようなやつのことだろ?