はてなキーワード: 論理の飛躍とは
腸煮えくり返りそうなので衝動的に書いている。事実誤認があれば申し訳ない。
何に腸煮えくり返っているかって
全国フェミニスト議員連盟とやらが、フェミニズムを表層的にしか理解せず、VTuberも表層的にしか理解せず、女性の主体性を弾圧している。まるでタリバンみたいだからだ。
ことの発端はコレですわ
千葉県松戸市ご当地VTuber「戸定梨香」が、松戸警察、松戸東警察の交通安全啓発活動に協力。
歩行者のみんなにお願い~千葉県松戸・松戸東警察署~【千葉県警察公式チャンネル】
「ちばサイクルール」って知ってる?~千葉県松戸・松戸東警察署~【千葉県警察公式チャンネル】
元気いっぱいで可愛いねえ、一生懸命頑張って解説してるねえ、でもちょっと説明口調だねえ、次からもっと頑張りなあ!でも応援したくなるねえ。程度のもんなんですが。
その結果、どうやら戸定梨香の運営代表である板倉節子によると、PR動画が削除されるようです。
ため息が出る。この全国フェミニスト議員連盟の批判が滅茶苦茶で、そんな批判に折れた松戸警察が、甚だ残念だ。
コレは間違いなく、女性の主体性を否定する活動に松戸警察が加担したことになりました。
私たちは、啓発動画に「松戸市ご当地 VTuber の戸定梨香」を採用した千葉県警、松戸警察署・松戸東警 察署に強く抗議し、当局の謝罪、ならびに動画の使用中止、削除を求めます。本動画は、女児を性的な対象 として描いており、女性の定型化された役割に基づく偏見及び慣習を助長しています。
戸定梨香という VTuber(アニメキャラクター)は、セーラー服のような上衣で、丈はきわめて短く、腹や へそを露出しています。体を動かす度に大きな胸が揺れます。下衣は極端なミニスカートで、女子中高生で あることを印象づけたうえで、性的対象物として描写し、かつ強調しています。
国連女性差別撤廃委員会の勧告(2016年)は、日本政府に対して「固定観念と有害な慣行」として「メ ディアが、性的対象とみなすことを含め、女性や女児について固定観念に沿った描写を頻繁に行っているこ と」に懸念を表明しています。公共機関である警察署が、女児を性的対象とするようなアニメキャラクター を採用することは絶対にあってはならないことです。
なるほどねぇ、認識の誤りも甚だしいわ。
問題とされているのは、性的に過度に誇張されているか、固定観念を助長する属性はどうか、ということですが、動画を見れば分かる通りかなり批判の内容とは齟齬があります。
まず問題された胸の大きさと揺れですが、過度に強調されているわけでもない、不自然に胸が揺れるわけでもなく注視しないと確認できない、おおよそ現実に即したものです。コレがアカンなら現実の女性の胸の揺れにも文句をつけるのかね。公の場に出る女性はガッチガッチに胸を隠すべきなのかあ
そして肌の露出に関しても、実際的なファッションセンスから大きく外れるものではない、ましてや表現者であるアイドルやアーティストの衣装であれば、ありふれている程度の肌面積だ。何かね同程度に肌を露出しているフワちゃんも公的な場に出るなと問題視するのかね。
そしてだね、セーラー服のような上衣だから女児を印象づけていると言うが、ひどい論理の飛躍だ。セーラ服そのものでないと暗に認めつつもセーラ服っぽいから女児の印象を受けるっていうなら、セーラ服そのものを着てる桜塚やっくんも女児の印象を受けるのかよ。だいたいね戸定梨香は女子学生でも女児でもないんだ、ファッションで着てるんだ。変な印象を持つな。戸定梨香は自ら望んで主体的にこの姿で自己表現しているのだ。戸定梨香というVTuberそのものをちょっとでも調べて理解していれば、こんな的外れは批判はしない。
そうだ、戸定梨香というVTuberそのもの理解していない、いやVTuberそのものを理解していない、これが根源的な間違いの元なんだ。
批判する文章の中にはVTuber(アニメキャラクター)とありますがね、VTuberはアニメキャラクターではない、VTuberはVTuberである。ここが非常に大事です。この認識がないから、全ての論理展開がおかしくなっている。
いいですか
VTuberはアニメキャラクターではないのです。アニメキャラクターは様々な人が関わり作るものだから主体性には乏しい。だがVTuberはVTtuberであり、大きな声では言えないが中の人がいる。
そしてこの戸定梨香は女性が演じている、そのうえ運営企業の代表も女性であり、表現者も組織も女性という、女性が主体的な活動である。
いいですか、つまりですね。
女性の表現者と、女性の経営者が、自ら主体的になって、最先端の表現技法で自らを表現して、愛するご当地を自ら盛り上げようと、最初から最後まで女性が主体的に行っている活動に対して
その女性の主体性をまるで理解せずに属性や表層的にしか見ないで全国フェミニスト議員連盟は批判している。
女性の主体性を尊重する。これは間違いなくフェミニズムの根本にあるものだ。
女性が主体的になって、自ら望んで自己表現する。これを批判するのは、フェミニズムの否定です。
全国フェミニスト議員連盟は、女性の主体的な表現や活動かどうかも理解せずに、教条主義的に一律的に表現を活動を弾圧しようとしている。
全国フェミニスト議員連盟がやっていることは、てめえの頭で考えず、相手のことを理解せず、曲解した勝手な価値観を押し付ける、女性の主体性を否定するタリバンと同じです。
じゃあ、これからはどうしたらいいのよって言ったらもう
これからはVTuberはアーティストであると表現者であると、もっとアピールしていく必要がありますよ。
バーチャルなキャラクターに対していくら叩いてもいいと思っている人たちに対して、VTuberは生きた表現者だとアピールして、その価値を知らしめる必要があります。
掛け算の順序問題なるものがある。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と「3×4=12 答え 12個」という回答があって、前者だけを正答とすべきだとか両方正答とするべきだとか、そういう問題だ。長方形の面積について話している場合もある。
この意見の対立には、(一面として)数学をどのように抽象的に捉えるか、というのや数学・算数という科目の持つ役割に関してのスタンスの相違が原因にあると考える。
数学をより純粋に抽象的に捉えるにしたがって「順序強要」→「順序容認」→「順序強要」のように立場が変化することを以下で述べる。
念の為記しておくが、この文章は掛け算の順序問題に関してどの立場が正しいというような文章ではない。
俺は教育の専門家でもなければ小学生に算数を教えたベテラン教師というわけでもない。
数学への向き合い方が真摯になるにつれて変化する立場が単調でないことに気づき、その非自明な振る舞いについて筆を執ろうと思っただけのものである。
この文章で誰かの何らかに影響があればそれは幸いである。
「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題に「4×3=12 答え 12個」と答えるのが正答であり、「3×4=12 答え 12個」と答えるのは誤答であるという立場である。
"4×3"という数式には「『1つぶんが4つ』のものが『3つぶん』ある」という意味があるとして、"3×4"という数式は題意にそぐわないとする。
正直なところ、数学でこれを正当化するような解釈を俺は知らない。
より高学年、あるいは中学・高校・大学・それ以降で出現する数式(例えば e^iθ=i sinθ+cosθ が成り立つとは、どういう意味合いのものが等しいということを言っているんだろうか?)に対して、その数式の"意味"は適切に存在して、何らかの実態と一致するだろうか。そのような体系がある場合、ぜひ知りたいのでご一報いただければ嬉しい。
上記の思想とは翻って「4×3=12 答え 12個」も「3×4=12 答え 12個」も正答とする立場である。
数式そのものに何か「実際的意味」はなく、そこには記号の間の関係や操作があるという立場はより現代的な数学に近いものであり、納得できるものだろう。
俺が現実で計算をするときもこの立場にいる。「日本国民全員が2回ずつ…」などと聞いたら脳内で出てくる式は"1億3000万×2=2億6000万"だし、「2人が1億3000万個ずつ…」と聞いても思い浮かべる式は"1億3000万×2=2億6000万"のままだ(自分の脳は乗数が単純なほど高速に乗算が行えるから、そのような式のほうを思い浮かべるように訓練されたのではないかと思う)。単なる道具としての使い勝手ならば、この立場はとても強い。道具として(正しい答えを出せるなら、という条件付きだが)順序を気にしない方が順序を気にする方より楽だろう。
算数を「現実の事柄に付随して必要となる計算を正しく行う能力を育てる」科目だと考えるなら──教養(大学などで学ぶそれではない)としての算術としての用途としては実際にそれで十分だろう──、真っ当な立場だろう。
しかし、この立場には少し弱いところがある。
数式そのものに意味はないとするのはよいが、その結果立式の段階で「状況」から一足飛ばしで「数式」が出来上がっている。これは、少なくとも数学の厳密な操作ではない。より厳密であろうとするならば、次の立場になるだろう。
数学的に厳密な立場であろうとするならば、意味論的操作を取り除く必要がある。この立場において、「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(ひとつ分の数)×(いくつ分)』あります」という定義にしたがって被乗数と乗数を区別することには意義がある。
この立場では、「りんごが4つ入った袋が3つあったらりんごは全部でいくつありますか?」という問題文に記述欄があった上で、「4×3=12 答え 12個」と答えるのも「3×4=12 答え 12個」と答えるのも厳密には誤答とする。
「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」のように定義の形式に構文的に当てはめて答えて初めて正答である。この立場は「3×4=12」という立式を否定するものではない。「りんごを袋にひとつずつ入れていくことを考えると、これは一周分につき3つのりんごを入れ、4周分入れるので全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、12個入れたことになり、全部でりんごは12個ある。 答え 12個」という回答も正答である。
この立場のもとで、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個のりんごがある。3×4=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は全くの間違いとなる。「3×4=12」という立式ができる解釈はあるが、その式を導出するに至る構文的操作が誤っているためである。同様に、定義が「『ひとつ分の数』が『いくつ分』あるとき、全体で『(いくつ分)×(ひとつ分の数)』あります」というものならば、「これは、りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で4×3個のりんごがある。4×3=12なので、答えは12個である。 答え 12個」という回答は間違いとなる。
"3×4"と"4×3"はそれが"12"と等しいことを示すための証明木も異なるなど、式として完全に異なるものである。値が等しいことは証明されるべき非自明な命題であり、何も断らず用いてよいことではない。
「被乗数と乗数を入れ替えても答えが変わらないため、立式の際に断らずにこれらを入れ替えることがある」と答案の先頭で述べてある答案があれば(このようなことが書ける生徒は単なる乗算でつまづくような生徒ではないだろうが)、「りんごが袋ひとつ分につき4つあり、袋が3つ分あるので、全体で3×4個」でも正答としてよいだろう。
余談だが、長方形の面積に関してさらに状況は混迷を極める場合がある。長方形の面積を「たて×よこ」とするとき、これは「定義」か、「定理」かすら明らかでない。「1cm×1cmの正方形の面積は1cm^2」で「1cm×1cmの正方形がある図形にすきまも重なりもなく敷き詰められる場合その図形の面積は 使った正方形の個数 cm^2」という定義によって導かれる「定理」とする立場もあるだろう。この場合、「たて×よこ」は単なる立式の1宗派に過ぎず「よこ×たて」で面積を計算しようと1つ1つ数えようとどんな式で計算しようと使った正方形の個数を正しく導くことができる式ならば正答である。対して、「たて×よこ」が「定義」ならば、どちらを"たて"と見るかを記述する2択のみがあり、それ以外は誤答である(別の定理がある場合を除く)。
この思想は非常に窮屈に思えるかもしれないが、数学の直感的理解を否定するものではない。
必ずしも全生徒がそこまで進むわけではないが、数学科などで学ぶような数学においてはこのような思想が顕著になる。
純粋な数学において、自然数すら現実の何の対象とも厳密には対応せず、論理学は実際の"正しさ"と一致する保証を持たせるものではない。数学基礎論などを学ぶことでこのような数学の思想に触れることができると考える。
もし俺が正義感とやる気と生徒への期待と十分な時間を持ち合わせているなら、生徒にこのように指導するだろう。算数(は賛否両論あるかもしれないが)・数学は計算するだけの科目ではなく、論理学を学ぶための学問でもあるからだ。特に文章題を「現実の対象を数学的にモデル化してそこから論理的に結論を導く」ことを問うものであるとするならば、この立場に立つことには合理性がある。
しかし、これは理想的な状況における対応である。例えば回答欄が「(しき) (こたえ)」のように分かれている場合、そもそもこのような記述を行うべき欄がない。この場合、問題文を「『ひとつ分の数』が4であるようなものが3つ分あるとき、全体でいくつあるでしょう?」のように非常に定義に近づけて初めて「3×4=12」を減点する準備が整うといえよう(これでもまだ即座に誤答とするべきではないだろう)。そうでない場合、「4×3=12」と「3×4=12」の2つの式は同程度に論理の飛躍を伴っており、それらに点数の別をつけるべきではないかもしれない。
冒頭でも述べた通り俺は教育の専門家でもなんでもないから、どの立場を取れば生徒がよく理解するかなどについて何も言えない(どの立場に対しても理解できる生徒と理解できない生徒がいるだろうと思うが)。
個人的には2つ目と3つ目の中間のような立場だ。算数は計算をするだけでもないし論理をするだけでもない。単に計算をする手段としてなら順番なんてどうでもいい、素早く正しい答えが出るなら3袋の4個入りみかんを見て3+3+3+3だと思おうが(2*2)*3だと思おうが10+2だと思おうが構わない。他人と考えを共有するための道具なら前提から論理を組み立てる訓練が必要で、掛け算の順番にまで気を遣わなければ意味のある結果を出せない。数学はどちらをする科目でもあることに我々は自覚的だろうか。
以下の問題を解いてみてください。
以下の数列で、□に当てはまる値は何か。
2、5、8、11、□
3ずつ値が増えているので、正解は「14」ですね…
いや、それは正解ではありません。
正しくは、「14」だけが正解なのではありません。
もし問題文に「以下の数列が等差数列とする場合、」と条件が記載されていれば、
たしかに「14」が唯一の正解ですが、そうではないのです。
それならば、真の正解は何でしょう。
正解は「任意の値をとる」です。
つまり、100でも200でも300でも、どんな値でも□に当てはまるのです。
「間違い」となる値は無いのです。
本当にそんなことがありうるのでしょうか。
例えば、□が100となる数列a(n)は、以下のように定義できます。
a(n)=
2(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)/(1-2)(1-3)(1-4)(1-5)+
5(n-1)(n-3)(n-4)(n-5)/(2-1)(2-3)(2-4)(2-5)+
8(n-1)(n-2)(n-4)(n-5)/(3-1)(3-2)(3-4)(3-5)+
11(n-1)(n-2)(n-3)(n-5)/(4-1)(4-2)(4-3)(4-5)+
100(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)/(5-1)(5-2)(5-3)(5-4)
非常にややこしい式ですが、計算はほとんどの部分が0になるので簡単です。
最初の「2(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)/(1-2)(1-3)(1-4)(1-5)」の部分はどうなるでしょうか。
よって、分数は約分されるので1となり、この値は2です。
次に「5(n-1)(n-3)(n-4)(n-5)/(2-1)(2-3)(2-4)(2-5)」の部分はどうなるでしょうか。
よって、この値は0です。
そして、「8(n-1)(n-2)(n-4)(n-5)/(3-1)(3-2)(3-4)(3-5)」の部分ですが、先程と同じ理由で0ですね。
残りの「11(n-1)(n-2)(n-3)(n-5)/(4-1)(4-2)(4-3)(4-5)」も「100(n-1)(n-2)(n-3)(n-4)/(5-1)(5-2)(5-3)(5-4)」も、やはり0です。
よって、a(1)は2+0+0+0+0=2です。
同じように、2項目の値a(2)を、n=2として計算してみます。
最初の「2(n-2)(n-3)(n-4)(n-5)/(1-2)(1-3)(1-4)(1-5)」の部分はどうなるでしょうか。
(n-2)が0となるので、0ですね。
「5(n-1)(n-3)(n-4)(n-5)/(2-1)(2-3)(2-4)(2-5)」はどうなるでしょうか。
分数部分が1になるので、値は5です。
「8(n-1)(n-2)(n-4)(n-5)/(3-1)(3-2)(3-4)(3-5)」以降の部分はもうおわかりですね。全部0です。
なので、a(2)は0+5+0+0+0=5です。
この数列a(n)のパターンが見えてきたでしょうか。
この数列は5項目まで、太字で示した係数の値を前から順に取っていきます。
つまり、a(1)=2、a(2)=5、a(3)=8、a(4)=11、a(5)=100となるのです。
よって、たしかに、□が100となる数列は実際に存在する(このa(n)がそうです。)と言えます。
つまり、□を100としても、そのような数列は存在するので、「間違い」ではないわけです。
そして、a(n)の式中で100の部分を200に変えれば、□が200となる数列も作れるし、300に変えれば、□が300となる数列も作れるわけです。
だから、上記の問題で□がどんな値であったとしても、それを満たす数列は必ず存在します。
よって、□がどんな値でも「間違い」ではないわけです。
したがって、数列自体に条件が無ければ、数列の穴埋め問題に「間違い」は無いと言えるわけです。
「百合論考vol.00」を購入したので感想を書き残そうと思う。
https://102202.booth.pm/items/2602773
まず俺は、ノンケの男であることは示しておこう。百合は好きだがそれほど詳しいわけではない。
「百合論考」で良かったのは
ゆりすこ「2010年代の百合を振り返る ―そして2020年代へ―」
惜しかったのが
鞆谷六花「百合という二文字で表現できない時代がもうすぐそこまできてる」
他はテーマがマニアック過ぎたり、特定の作品を読んでいないと理解が難しいと感じた。あとは、可もなく不可もなくといった原稿も。
まず「検証!あの子のまつげは何故長いのか」はテーマが良かった。構成も上手く、トップバッターにふさわしい内容。だがトップにしたせいでこれ以降の論考のハードルが上がってしまう側面もあった。とはいえトップに持ってくるべきだったとは思う。
「百合の解体」はその名の通りジャンルとしての「百合」は解体すべきと、やや過激な論。俺は賛同しないが、当事者による論考という意味では価値があると思った。このくらいハッキリ言ってくれたほうが気持ちイイ。論考とはこうあるべき。
それと真っ向から対立しているのが「2010年代の百合を振り返る ―そして2020年代へ―」。こちらはあらゆる女同士の関係性を百合とし、その中から好きなものを選べという論。個人的にはこっちのがしっくりくる。他の原稿もこっちよりの人が多い感じはした。
この論はテーマがわかりやすく、文章も読みやすかった。俺は今の百合はやや衰退気味の気がするが、1年経ってるし執筆や出版とのタイムラグの問題か?今氏がどう思っているかは気になる。
「百合という二文字で表現できない時代がもうすぐそこまできてる」は論考としてはやや主張が薄い。日本語を書く上での基本的なルールを逸脱しているところもあり、論理の飛躍など構成も甘さを感じた。主催者だからそのまま載せたのだと思うが、誰かに校正してもらうべきだっただろう。あとこの人たぶん理系の高学歴だと思う。文章が完全に理系のそれなので。根本的な文章のクセって直せるのかな?
「時代とともに変化する百合のスタンダード」は文字で主張するのではなく、数字を使うというコンセプトは良かった。ただそれを活かしきれてないないという印象。見ればわかるようなことを書いても仕方がなく、そのグラフからどんなことが推測できるのかもうちょっと踏み込んでほしかった。というか全体的に文章量自体が少なすぎる。鋭い視点もあっただけにもったいない。
そもそも最大の問題はアンケートの回答数が500件にすら満たないという点か。これはどちらかと言えば百合ジャンル自体の人気の問題ではあるが。個人的にはその程度しか回答が集まらなかったことに一番衝撃を受けた。百合ナビとかがやったらそこそこ集まりそうだけどな?
あと後半の22名へのアンケートは人数が少なすぎる上に、特定の属性に偏りすぎているのでさすがに無意味。趣旨からズレる自覚があるならカットすべきだったと思う。
あとは値段の高さはやや気になった。この手の本はラーメンと同じで1000円超えるとちょっと抵抗がある。送料がかかることを考えると相当なハードルになっている。もっと原稿の数を絞って600~800円程度になると手を出しやすくなると思う。本当は送料込みで1000円超えないくらいがベスト。
今回は準備号ということもあり、テーマの統一性がイマイチだったのも気になる。あまりにマニアックなテーマは書いている方は気持ちいいかもしれないが読む方はしんどい。とはいえ執筆者が集まらないとどうしようもないので初回に関しては仕方ないか。執筆者が書きたいテーマにNG出すのはしんどいもんね。
もう一つ付け加えるとすれば、このご時世に紙オンリーでの出版は謎。紙で出すこと自体がコンセプトなら問題は無いが、電子版も配信した方が売り上げは上がると思う。住所とか入力しないといけないのは購入へのハードルをかなり上げてしまっているように感じる。何を重視するかは主催者次第なのでなんとも言えないところではあるが…。
初回ということもあり粗もあったが全体的な満足度はまあまあだった。vol.1にも期待したい。
元記事も引用しないぼんやりした一般論の元増田に対して急に「この場合~~のことだから~」とか新条件追加して論戦つづけるやつも同じ
あぁ、いるよなぁ
他人に意見しておいて、「(その条件にすると)こうなるのでわ」って書くと、その言葉尻へのカウンターだけで続けて
いやいや「この場合~~のことだから~」と話し戻すと、「新条件追加ww必死wwww」みたいになって発狂モードに入るやつ
①「AだというならBも問題」
⇒①「Cを理由にするならAにもDという要素があるからBと同じ」
⇒①「EはF(Aの骨子)を問題としているのか?」
これ、②は話が躓くたびに話題を変えてるのに、①が付き合ってるのじゃなくて、②が付き合ってると途中から認識するらしいんだよね
なんていうか論理の飛躍がすごいな
論理の飛躍が過ぎる
論理の飛躍かどうかって論理式とかで評価してないなら認識の違いでしかないんじゃないですかね。
私も陰謀論者が嫌いですが、陰謀論者のことはどうでもよくて、「陰謀論(物事の背後には陰謀が存在するという主張)」は仮説の羅列として見れるんじゃないか、っていうことを言っただけですよ。そしてその仮説が検証しにくいってのは確かにあるけど、だからといってすべての陰謀論的な仮説が事実と反しているかというと、そうとも言えないのではないかということを言っただけです。
【前提】これは刀ステのほぼ全演目を時にライビュ時に配信時に現場で見た上で基本的に末満さんとはセンスが合わないと思っているオタクによる悪口である
【おことわり】
・嫌なら観るなについて→刀剣乱舞のファンとして「今度こそは」の期待とか一度追いかけ始めたものから退却できないサンクコスト効果とかで引くに引けないんですよ
(1)長い。中だるみする。ちょくちょく挟まれる殺陣のせいで話が分からなくなる。
しょっぱなからアレですがこれは仕方ないと思う。上演時間ありきで脚本作るから。
殺陣については私のアクション適正が低い。アクションを見慣れてない人間って殺陣が始まると
・「とおけんだんしが敵とたたかってるー!がんばえー!」くらいにIQが下がる
・戦闘の背景にある対立構造、誰と誰が何故(何を賭けて)戦っているのか等の情報を認識できなくなる
刀剣乱舞を題材にしている上殺陣を特に売りにしてるステで殺陣を減らすわけにも行かないのも分かるのでこれも仕方ないとは思う。アクション適正上げてから来いってね。
(2)台詞が頭に入って来ない
末満さんの詩情が体質に合わない(完)
これに尽きてしまうとは思うんだけどもう少し悪口を。末満さんって滅茶苦茶台詞量多くないですか?一つ一つの台詞も長いし。青空のような人ってなんやねんいいこと言ったような雰囲気で無理矢理まとめんなて。
筆者は小説でも長い台詞や長いモノローグを嫌うのでマジで合わない。長台詞はここぞの一回くらいしか許されないと思ってる。心情の説明を台詞やモノローグに頼るのならもうそれは物語の形を取る必要はなくて増田で長文語りしとけよって思う。舞台で物語をやるのなら、物語の展開からキャラクターの心情を追えるように手を変え品を変え尽力するのが職人の仕事だと思ってる。
(3)複数ラインの物語を同時並行する割にそれらが交錯しない。一つの物語でやる必要あった?一時間の舞台二個やればよくない?って思う。
①秀頼と一期の「自分は誰であるのか」という物語…秀頼「自分は秀吉の作った天下の上のお飾りに過ぎないのではないか。自分が本当に秀吉の子であるかも定かではない。自分は本当に天下に立っていていいのか」→太閤から秀吉との繋がりを保証された上で「これはわしの戦だ!」・一期「弟がいてようやく成立する兄としての自己像以外に依って立つところがない」→「歴史を守るのが私の使命だ」(一期の物語誤読してるかも。すまぬ)
②弥七や真田信繁の「歴史に抗いたい」物語…しにたくヌェ〜〜ってやつ。序盤家康が「お前の知るわしがわしの全てではない」(物語は語り手の視点や恣意に影響され、ある事柄を完璧に語り尽くすことは不可能)からの諸説の可能性の提示からの決められた物語に納得いかね〜〜俺は後世のお前らの語る歴史のための駒じゃね〜〜俺の闘志を無かったことにすんじゃね〜〜ってやつ
関連性のない複数のストーリーラインが(殺陣や長台詞をガンガン交えて)同時進行するからま〜〜〜〜じで集中力途切れるし作品全体も散漫な印象になる
あと細々したところで家康の戦への欲求とかね。正直家康のあのキャラ付けは加州の見せ場作りと三英傑の物語やりましたってアリバイ作りのためとしか思えない。ちなみに戦への飢えについての話は義伝でもうやってんですよ……再利用かよ……
諸説に逃げて生き延びればそれで良いってなんか随分控え目だけどそれこそミュのみほとせの信康みたいにコソッと逃げればよくない?弥七が言ってた通り諸説の余裕があるならその余裕に自力で滑り込むことは可能では?史実を守る本能に導かれた刀剣男士にナイナイされちゃうの?そっかあ……
「生き残りたいポン!」「諸説に逃げるポン!」「俺らを助けるオリジナル刀剣男士作るポン!」「だから逸話集めのために刀剣男士斬るポン!」「だから派手にドンパチ起こして刀剣男士誘い込むポン!」って論理の飛躍を感じる。
(5)物語の恣意性、物語無き物の物語、無かったことにされた物語についての話はもうやってるんだよなあ……
ミュのむすはじとあおさくでやってるんだよなあ……
今作で特に別解を出したわけでもなく、ただ無かったことにされた物/者たちの憤りにスポットライト当てたところで終わってるし
三日月と山姥切国広と結の目となんやかやを巡る時空SFっぽいやつ
ようわからん(完)
基本、作中の本筋に関わらず、また作中で解決されない謎って作品鑑賞のノイズになると思うんですよ。ステはこの謎と三日月の行く末を全作品を通してのサブストーリーにしていますが。
ちゃんと考察しつつ追ってればワクワクするんだろうけど。いや連載モノなら○○編をやりながら全体としてはワンピース探したり黒ずくめの組織追ったりするのが普通なので別に刀ステが下手打ってるとは言い切れませんが。
ただね〜〜〜〜やけに難解だし時系列スターウォーズ形式だし末満さんは意味深キーワード大好きだしですっきりしなすぎて私にとってはノイズなんすよ。公式で解説本出してくれ。図解してくれ。
そもそも作中での情報開示渋ってファンの考察に委ねるのやめてくれ。本能寺再演で左右逆とかキャス変にも意図があるとかそういうのほんといいんで……そういう場外戦が許されるのはエヴァだけなんですよ……
まあ昨今はインターネットやSNSのお陰で場外戦が盛り上がりやすくなっているから、そういう作り方もアリ寄りのアリなんでしょうが……
ツイッターで考察読んでもいまいちわからんってか読む気も失せるのよ……結の目ってなんなんだよ……
「史実に存在してはいけないもの」を登場させたから物語内で回収しないといけないのは分かる。でも集団自決からの無駄死にって雑じゃね?てか登場させる意味あった?物語ある刀剣を遡行軍が回収したポン!って次作への伏線のためか?
これはどちらかというと過去作、悲伝や慈伝への悪口ですね。維伝以降大分気にならなくなった。登場されるためだけの登場シーンが多いし「このシーンは大般若じゃなくて小夜の方が当人の性格や来歴踏まえて相応しいだろ」(キャラは適当です)みたいなシーンが頻出してた。
今回はまあ……主人公の一期とそれを支え受け止める弟二振り、一期とシンクロしてアイデンティティに悩む秀頼、一期と秀頼に秀吉のことを話してなんかいい感じにする太閤、江戸の終わりに物語を持つ者として江戸を始めた家康に対峙する加州、今回の主人公ではないけどシリーズの主人公である山姥切国広という具合でそれぞれに役割があったかな。宗三は必然性に劣るけど、一振くらい作品中の葛藤から距離を置いて渦中のキャラを諌めたり助けたり話を進めたりするゲリラサポーターキャラがいるのは悪いことじゃない。
(9)加州顔濃ッ
ごめんて
ごめんけどキュートでけだるく飄々とした加州というキャラクターからキュートが抜け落ちてただのハンサムになってんだよな〜〜〜〜いや演技は良かったよ全然加州だった
ただ加州っぽい媚びがなかった。まあ主の前じゃないから当たり前だけど
ただただHandsomeになっていた
「愛されっこないよね」とか言われても「せやな……お前は多分愛する側やな……」って言いたくなるくらいハンサムだった
【よかったところ】
ステアラをよく活用してた。クライマックスの360度の戦闘を次々見せる場面はとても華麗だった。
弥七が健気でかっこよかった
論理の飛躍、って使いだすと止められないよねーわかるわかるー
のどれかでなければ話半分未満で聞くようにしている。
数日前に見つけた大木隆生氏の「大木提言(ver3)」は、その基準からすれば傾聴に値しそうだ。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3859177164173859&id=100002448400114
https://jikeisurgery.jp/wp-content/uploads/2021/01/COVID-19ver.3.pdf
(どちらのリンクも同内容)
大木隆生氏は、慈恵医大の外科統括責任者・対コロナ院長特別補佐。ベストドクター in NY (https://nymag.com/bestdoctors/ これ?)に4年連続で選出されているらしい。専門は感染症ではないけど、十分な実績と信任を持つ現場の人と言っていいだろう。
大木提言はFacebookでは現時点で2000件以上シェアされており、Twitterでも検索すると多くの人が反応している。反応は「私の実感と一致します!勇気が出ました!」「コロナ脳に読ませたい」と異口同音に絶賛だ。医療関係者も「理路整然とした重要な意見。さすが大木先生」といった口調で褒めそやしている。
でも僭越ながら、私はこの提言には論拠の弱さ・論理の飛躍を多く感じた。なのにそういう反対意見がSNS上には見当たらなかったので不安になっている。誰もやらないなら私がツッコみます。というわけで慣れない増田を書いてます。よろしく。
大木提言はかいつまめば「1. 感染者数が増えても実害はない」「2. 医療崩壊は起こらない」よって緊急事態宣言は意味がないので基本的な感染対策のみを行いながら経済を回せ、と言っている。この1,2について私の違和感を述べます。
何故そういえるのかというと、要は欧米と違って日本人にとってはコロナは死亡に繋がらず怖くないからだそうだ。ファクターXってやつですね。それがあるので、欧米の経験・政策・WHOの見解は日本の参考にはならないとのこと。
新型コロナは欧米においては恐ろしい感染症であるが、様々な理由から日本人にとっては季節性インフルエンザ程度の病気と位置づけられる。
それは日本での人口当たりの感染者数も死者数も欧米の約50~100分の一である事やオーバーシュートが一度も起こらなかった事など、過去1年間の経験とデータをみれば明白。
明白…? そのファクターXが何なのか、そもそもそんなものが存在するのかすら、結論って得られてたんでしたっけ?
大木氏が曖昧に言っている「様々な理由」つまりファクターXの内訳とは具体的には何なのか。調べてみると、2020/5版の提言に記述が見つかった。
http://www.japanendovascular.com/covid-19_proposal_Ohki.pdf (P10-11)
①BCG接種
②2020/1-2にステルス・オーバーシュートが起こり集団免疫が獲得された
を挙げている。
しかし①はこれまでの研究から棄却されているし(と思ってるけど違ったらごめん)、②は第2波・第3波の到来の事実を踏まえると非常に疑わしい。8ヶ月経って情報は大きく増えたが、他に「明白」といえるような根拠が見つかったのだろうか? 私はそういう根拠を知らないし、少なくとも「明白」の一言で済まされるような簡単なものじゃないと思う。そして、日本人が特別だという根拠が薄弱なのであれば、世界各国の現状・対策からの学びをあえて捨て去るのはリスキーすぎだと思うんだけど、ベストドクター的には違うんだろうか?
ちなみに大木氏、
上記を裏付ける事実として日本における2020年の死因別ランキングが示唆的である。2019年の死因ランキングに2020年の新型コロナによる死亡者数を挿入すると、新型コロナは第36位(11月末時点)。一方、季節性インフルエンザは2019年は31位(図2)。さらに、同様の手法で世界と米国の死亡原因ランキングを作成するといずれも新型コロナは死因第3位にランクインしており、日本人がいかに新型コロナに抵抗性を有しているかを如実に物語っている(文献4,5)
と言ってるんだけど、
の死者数比較を根拠にするのはガバすぎでは…!? さすがにこれは読んだ人の半分くらいはツッコめる部分だと思うんだけど、この感覚おかしい!?
要は「欧米(英国、米国)でも医療崩壊は起きていない。それより数十分の一の規模の日本で医療崩壊なんてありえない」という話をしている。
でも「欧米で医療崩壊が起こっていない」というのは事実として正しいのか?
医療崩壊の定義は当該診療科の医師が疲弊しているか否か、すべての患者がタイムリーに病院を受診できるか否かではなく、救える命が救えなくなったか否か
と大木氏は書いているので、その定義では少なくとも欧米については医療崩壊は「起きている」という結論になりそうなものだけど。
たとえば各国の状況を検証しているTwitterのツリーはこちら。
https://twitter.com/mph_for_doctors/status/1347047822034685952
まあ欧米の状況は置いといて、日本で医療崩壊が起きているか?を問われたら、これは正直なところ私にはわからない。毎日医療崩壊のニュースが飛び込んできてるので感覚的にはヤバいと思ってるけど、実際は声の大きい現場の声ばかり聞いてて認識が狂ってるのかもしれないね。数字で語れるのは先の話なので保留したい。
大木氏によると、医療のリソースを余計に食い潰している原因は第二類感染症指定であり、それを五類に変えると改善するそうだ。これについてもそうかもしれないし、そうでないかもしれない。対立意見としては、高山義浩氏の「自治体によって柔軟に対応をカスタマイズできるので2類相当でも問題ない」という話がある。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3509866199066862&id=100001305489071
どちらにせよ門外漢なので、慈恵医大の対コロナ院長特別補佐に「医療崩壊は起こってない」と言われたら「ああそうなんですね」と黙るしかないんだけど…でもそもそも、論点が違うと思うんだよな。コロナ対策における医療崩壊の危険性について論じるべき点は「現状リソースが足りているか」じゃなく「いずれ感染が広がったときにリソースを維持できるか」ではないんでしょうか?
新型コロナの感染者数は指数関数的に増大する。しかし医療リソースはそうではない。だから実効再生産数を1未満に抑えないかぎりいずれリソースは破綻する。そして重症者・死亡者は3週間の遅行指標であり、その数字が出た時点ではもう手遅れになっている。
新型コロナとの戦いはそういう戦いだというのがすべての前提だと思ってるので、その観点に触れずに大丈夫と言われても全然納得できない。3週間後に何がきっかけで爆発してるかわからない以上、予兆が見えた時点で厳しい対策は必要だと思ってるし、大木提言はそこには何も答えられてないと私は思う。
(なお緊急事態宣言が「厳しい対策」として機能するかは別の問題です)
私が一番問題だと思ってるのは、こういう非賛同者の反論がネットじゅう探しても全然見当たらないということ。
「ヤバすぎ派」「騒ぎすぎ派」の対立みたいな記事が先日話題になったけど、もしかしてこの大木提言も「騒ぎすぎ派」が支持して内々で話題にしてるだけで、「ヤバすぎ派」にはガン無視されており視野にも入っていないんじゃないか。実際ブクマも全然ついてないし。
「ヤバすぎ派」「騒ぎすぎ派」の分断の問題は、それぞれの議論の前提自体が異なっていることだ。お互いの前提を共有して「この点は共有できるよね」「ここが意見の分かれ目だね」と止揚できればいいんだけど、お互いに殻にこもってしまうから議論が深まらない。結果、「コロナ脳」「正常性バイアス」とお互いを揶揄することしかできない。それは健全じゃないと思う。私はみんなが共通認識を持てる議論の土台をなるべく増やしたいし、そのためにはオピニオンリーダーには闊達に議論してほしい。
宮沢孝幸とか中野貴志みたいな明らかに専門外の連中ならただ単純に無視すればいいんだけど、大木提言はそれとは質が違う。何も情報がない状態で「この増田と大木先生をどっちを信用するか」と言われたら、私だったら実績ある大木先生を信用しちゃうよ。だから、もっとちゃんとした専門家に大木提言への反応をしてほしいと強く思う。