はてなキーワード: 存在意義とは
内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書、2019年2月)読了。
面白い。三条が理解できたことで、この時期の政権の本質についても理解が深まった。三条を「有徳の為政者」と位置づけ、最後にそれを「知の政治家」(瀧井一博の伊藤評)とつなげるのは見事だなあ。
「封建制社会/儒教道徳/徳治/属人的」→「近代社会/議会制原理/法治/属制的」。高貴な出自なのに革新志向、清廉無私の人柄、この二つの特徴を持った三条実美という人物が当該期の政権運営には必要だったということだ。
興味深いのは、手腕でなく徳で政府を治める太政官制(あるいはそのような政治文化)とその後に樹立された明治憲法体制を比較すれば、前者がより属人的、後者がより属制的といえるが、さらにその後の昭和戦前期と比較すれば初期の明治憲法体制も属人的要素に頼る所が大きかったことだ。伊藤らの意図は立憲制度の確立、つまり天皇や閣僚が入れ替わっても立憲政治の根幹が失われないよう制度化することにある。言い換えれば属人から属制への転換を図ることだ。(ちなみに、神棚に祀ることで天皇に政治勢力を接近させずまた天皇の権力を事実上制限したのが、まさに伊藤(井上伊東)の深謀遠慮というものだ。この賢察を思うにつけ、天皇機関説排撃とかバカジャネーノとしか言えん。天皇を機関にするのが憲法だろ!)。
しかしそれでも、憲法に明記されない微妙な問題、あるいは高度な政治的判断が求められる局面になると、個人のパーソナリティーや個人間の特別な関係がものを言うことが多い。要するに、当面の政敵でも共に維新回天の荒波を潜り抜けてきたという同志的な感覚とそれに基づく信頼・敬意・連帯感があり、最後の最後ではその琴線に訴えかけることで複雑な問題の調整が図られているように思える。制度に足りない部分を人情が補っている、草創期ならではの危うい立憲制。
そして明治の元勲が皆世を去ってしまうと、憲法は輝かしいけれど文字になり、制度は要塞になり、縦割り・現場無視・党利党略・悪い意味での官僚的態度等々が前面に出てしまい、それが政権運営の不安定さや政党政治の機能不全につながった……のではないか。日中戦争前後の政府・官僚・軍・政党を見ていて感じるのは、よく「彼は調整型の人物で…」というが、政治的調整とは調整役が何とかしてくれるということではなく、また調整役とは八方美人の意味であるはずがない。
三条は近代立憲政治にふさわしいリーダーではないが、ある時期には彼のような調整役が必要で、それは彼が出自や人徳という計画的に習得できるようなものではない要素を備えていたからで、そういう意味で代えのきかない存在だった(武器として装備しました、ではなく、元々そういう人だ(あるいはそのように見える)という点こそが重要)。その後の政府や現代の組織に於いて三条的人物が三条のような高い地位を占めるべきかと言われれば疑問だが、組織運営(特に責任者の周囲)に於いて三条的な役割が不要と成る事は決してない。三条に合理的積極的な存在意義を見出すという著者の意図は十分成功しているし、その存在意義はそのようなことをも示唆しているのではないか。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf
麻原彰晃は以下のように説法している。
例えば,Aさんという人がいて,Aさんは生まれて功徳を積んでいたが慢が生じてきて,この後悪業を積み,寿命尽きるころには地獄に堕ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろうという条件があったとしましょう。
このAさんを,成就者が殺したら,Aさんは天界へ生まれ変わる。
(中略)
ここで,例えば生命を絶たせた方がいいんだと考え,ポアさせた。
(中略)
人間的な客観的な見方をするならば,これは殺生です。しかし,ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば,これは立派なポアです。
そして,智慧ある人─ここで大切なのは智慧なんだよ。─智慧ある人がこの現象を見るならば,この殺された人,殺した人,共に利益を得たと見ます。
例えば,日本赤十字がいて,日本赤十字がキャンペーン周知のために掲出した宇崎ちゃんポスターは過度に性的であるため、不快さを与えたり女性への抑圧を強化したりするだろうという条件があったとしましょう。
この宇崎ちゃんポスターの掲出を,フェミニストがとりやめさせたら,日本赤十字は問題なくなる。
(中略)
ここで,掲出をやめせた方がいいんだと考え,クレームをつけた。
(中略)
人間的な客観的な見方をするならば,これは表現規制の要求です。しかし,フェミニズムの考え方が背景にあるならば,これは立派な社会運動です。
そして,フェミニズムを理解している人─ここで大切なのはフェミニズムへの理解なんだよ。─フェミニズムを理解している人がこの現象を見るならば,日本赤十字,フェミニスト,共に利益を得たと見ます。
面白いポイントは、オウム真理教は「魂は存在しその魂に悪業がたまり地獄へ落ちる」と信じ込んでいるため上のような論理展開ができるのであるのに対し、フェミニストは「宇崎ちゃんポスターは女性への抑圧を強化するほど性的である」と信じ込んでいるためできるという点にある。そこには、オウムの根拠同様客観的な証拠など何もないのだ。また、フェミニズムへの理解が足りないとして切り捨てるような言動が観測される(茜さやに対する態度など)のも面白い。
新興宗教にはしばしば「教祖は神の生まれ変わりなので特別な待遇が許される」などの教義が存在するが、生まれによって権利が許される、もしくは許されないというのは現代的な思想からすれば立派な差別で、つまり教義の中に差別が含まれてしまっている状態である。そして、その神の生まれ変わりである教祖があいつはポアしたほうがいいと言えばポアされてしまうのである。そのような差別を含む教義の中で肯定的に殺人が行われるのがオウム真理教であった。
それに対しフェミニズムは一般的に女性を抑圧から解放するために存在するが、それは即ち女性が抑圧されているという差別の存在を肯定しないと、存在意義がなくなってしまうということだ。そして、どのような状態になれば女性が抑圧から解放されたのか、差別が解消されたのかという定義がなされない以上、どのような物事に対しても女性が抑圧を感じればそれを根拠にして際限なく、線引きも自由にフェミニズム的な社会運動ができてしまうということである。そしてそのような思想は「私は特別扱いされるべきだ」というようなナルシズムと親和性が非常に高い。誰でも教祖になれるのである。
おそらく表現規制の最前線にいる人しか分かってないと思うので&『窮鼠はチーズの夢を見る』の修正が話題になっているので。
(太字強調は筆者による)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律 第7条第6項]
児童ポルノを不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を不特定又は多数の者に提供した者も、同様とする。
つまり、わいせつな文書・図画や、児童ポルノに関する罪を問われるのは製造者や所持者だけではない。法律上は、販売した者も罪に問われる場合がある。
が、店員にとってみたら『わいせつっぽい物を販売したらある日突然逮捕されるかもしれない』は恐怖である。
そのような販売店の恐怖が『それっぽいものは全部売らない』になるのは商業的にも文化的にもマイナスなので、
ビデオ・映像関係の年齢表示や、成年向けコミックのマークはそのような販売店の声に対し、『自主規制団体が、刑法および児童ポルノ法に違反していないことを確認したと責任を負います』という意味がある。
だからこそ、数年に1度程度の割合で『AV女優が実は18歳未満だった』という事件があるが、そのAVを置いていたツタヤの店員が全て逮捕されるわけではないし、
以前薄消しが流行ってビデ倫の関係者が逮捕されたことがあるが、問題になったビデ倫の作品を扱っていた販売店の関係者は逮捕されていない。
逆に言うと、そういう団体を通していない、いわゆる裏ビデオを分かっていて売ったら店員が逮捕される可能性もあるはずだ。
ちなみに刑法175条が保護しているものはわいせつな図画を見たくない人の見たくない権利……ではなく、『最低限の性道徳』ということなっている。(この解釈については流石に時代錯誤を指摘する声は複数あるし、筆者もおかしいと思うが前提として現時点ではそうなっている)
上で書いたような『わいせつな文書・図画』や『児童ポルノ』は世間で広義で用いられるような意味ではなく、たとえ18歳以上にしか売っていないとしても、売った人は逮捕されるような物の話である。
では、一般的に「18歳未満には販売できません」で書店やアマゾンで売っている商品はどのような法的根拠で売っているか。それが条例上の理由だ。
第九条の二 図書類の発行を業とする者(以下「図書類発行業者」という。)は、図書類の発行、販売若しくは貸付けを業とする者により構成する団体で倫理綱領等により自主規制を行うもの(以下「自主規制団体」という。)又は自らが、次の各号に掲げる基準に照らし、それぞれ当該各号に定める内容に該当すると認める図書類に、青少年が閲覧し、又は観覧することが適当でない旨の表示をするように努めなければならない。
まどろっこしいが、要は『一定の倫理基準に該当する物は、青少年に閲覧・販売できないように努力せねばならない。(そして、成人に販売する分には問題ない)』ということである。
"18禁"などに関する(映像作品やゲームではR-15も一応は存在する)法令上のもっとも重要な(もしかしたら唯一の)根拠はこの前後の条文だ。
この条文があるからリアルでもネットでも、18禁などの作品は自主規制団体や出版元が自らマークを付け、また販売店がそれらを売る際には専用のゾーンを設けなければならない。その区分が雑だという話(特にネットにおいて)はノーコメント。
2で書いたように、自主規制団体または出版社が自ら成年マークをつけたものは『表示図書類』として扱われる。それとは別に、『指定図書類』というものが条例には存在する。
第八条 知事は、次に掲げるものを青少年の健全な育成を阻害するものとして指定することができる。(以下略)
第九条 図書類の販売又は貸付けを業とする者及びその代理人、使用人その他の従業者並びに営業に関して図書類を頒布する者及びその代理人、使用人その他の従業者(以下「図書類販売業者等」という。)は、前条第一項第一号又は第二号の規定により知事が指定した図書類(以下「指定図書類」という。)を青少年に販売し、頒布し、又は貸し付けてはならない。
いわゆる『有害指定』である。“成年マーク付きのものは有害指定されない”と明記されているわけではないが、条文上『表示図書類』と併記して扱われているので事実上棲み分けている。
そして、『有害指定』の対照となるのは、「成年マークをつけなくても大丈夫だろう」と自主規制団体や出版社が考えた本の中で、青少年健全育成会議で指定された本である。(ちなみにエロ以外でも、犯罪や自殺を推奨しているとして指定される場合はある)
さらに言うならば、『表示図書類』は書店やアマゾンでも売っている。だが、『指定図書類』は流通が扱わなくなるため、事実上販売できなくなる。公式サイトからの通販などは可能なのかもしれないが…。
そもそもこのような自主規制団体が生まれたのは1950~60年代に『低俗な本・雑誌が溢れた』ことに対する世論の批判とそれを受けての条例(2や3で書いたのは東京都の条例だが、同様の条例は全ての都道府県に存在する)制定の動きに対してであり、
ビデオやゲームが出た後も法規制の動き(もしくは実際の逮捕事件)を受けてから出版の団体を参考にして自主規制団体が生まれている。
もっとも、出版と映像では少なからず差がある。最大の違いは、出版は成年マークのついていない書籍については一切の表示がないのに対し映像やゲームでは(ほぼ)全ての作品について「審査の結果、年齢区分はこうなりました」という表示があるということだ。
世の中において『私の考えるこれこれの思想・道徳に反する本は全て排除せよ』という日本国憲法ガン無視の全体主義者は少数だが、
「たとえ低俗な出版物であっても、他者の権利を侵害していないならば全て認められるべきだ」というガチの一元的内在制約説原理主義者もまた少数であり、
「低俗な本に対する一定の倫理的歯止めをする制度は必要だよね」という中庸な人がおそらく最大多数だ。
(酒鬼薔薇の本など典型例だ。私の倫理観はあの本が出ることを嫌悪するが、あのような本の出版をどうやって規制するのか、というと非常に難しいよなと思う部分はある)
そういう人たちに対して「いや、一定の倫理的歯止めはかけていますよ」というアピールをして、ひいては条例・法律上の規制をするような世論に持っていかせないという存在としても自主規制団体は役立っており、
民主主義の世の中においてそのような団体の存在意義は一概に否定するものでもない。
今の日本で、『わいせつな図画』(=刑法175条的なアウト)と『18禁コンテンツ』を区分ける基準は”性器をはっきりと描写しているか”である。
法律上明記されているわけではないが、事実上そのようになっている。
これに関しても過去には(主に写真集絡みで)争いがあった。具体的には以下のような流れだ。
警察「アンダーヘアが見えたらアウト」→写真家「じゃあパイパンならOKですね」
→警察「性器が完全に露出していたらアウト。なお、アンダーヘアも性器の一部とする」 →写真家「じゃあパンツはかせます。アレ、少し透けてるような気もしますけど、着てるからセーフですよね」
→警察「じゃあアンダーヘアはOKだが性器そのものが見えたらアウト」 →写真家「ヘアヌードはOKですね」 →警察「一応セーフにしておくか」
ということで、現在では成人を撮影した物については性器そのものは写さない、もしくはモザイクなどの修正があればセーフということになっている。(児童ポルノは別である)
だからAVやエロ漫画では性器にはモザイクをかけなければならないとなっているし、
逆に性器が写っていないヘアヌード写真集はわいせつな図画には該当しない(から、書店で普通に販売されている。18禁ゾーンの先であることが基本であるとは思うが。)
ちなみにこの点において男性器と女性器は平等であるから、AVなどでは女性器だけでなく男性器もモザイクがかけられている。(ちなみに2020年1月末現在、肛門はセーフのはずである。)
また、保護するものはあくまで『最低限の性道徳』であるから絵であってもアウトであり、だからこそエロマンガやエロゲでもモザイクは必要になっているが、十分に抽象化されていればセーフである。
初期のドラゴンボールは悟空のチンコを一応描いているが、それが理由でわいせつ図画に該当することは価値観の大転換でも起こらない限りは無い。
一方、『18禁』と『18禁ではないけどエロいコンテンツ』の区切りがどこにあるかはよくわからない。
上述したように最終的には東京都の指定を免れることができればそれでいいものでしかないので結局は東京都と版元の空気読み合いだが、
性器をモザイク付きで描写しているか、肛門が描かれているか、それを含めて性行為が描かれているかなどが一つの目安だとは思う。
ちなみに上で例に挙げたドラゴンボールではブルマ(キャラ名)が何度か脱がされているが、股間部には特段、何かを描いてはいなかったはずである。
”女性の股間部に何も描かない”というのはドラゴンボールに限らず、Toloveるや青年誌(ヤング〇〇掲載作品)などR-18ではない男性向けちょいエロではしばしば採用される手法である。
BLやレディコミではその辺どうなっているのかは知らない(筆者が男性であるため)が、謎の光などを描いて男の股間に何も描かなければ、BLでもR-18指定は免れ得るはずだ。
これは無論、”性器をリアルに描いているものは全てわいせつ図画であり、刑法175条違反だから作成・販売自体が違法”ということを意味しない。
当たり前の話だが、医学書は実写で性器を掲載してもわいせつ図画にはならない。
とまあ、医学書ならば流石に目的ははっきりしているが、”芸術”と”性欲”を厳密に線引きすることは困難だ。
悪徳の栄え事件の最高裁判決でも「文学性や芸術性が性的刺激を緩和することはあり得るが、文学性や芸術性がある文書(・図画)が同時にわいせつ性を持つことはあり得る(意訳)」としている。
Q1:エロ同人は?
A1:性器を無修正で描いたらわいせつ図画になりますが、コミケット準備会は警察とほぼ同様の基準に従って修正させています。無修正・修正が甘いと見本誌を提出したときに販売停止になるはずです。
Q3:裏ビデオは?
Q4:無修正の性器が違法でない国からの、インターネットを介した配信は?
Q4:サーバーの所在国の法律で取り締まるのが原則だとは思いますが、正直なところ何ともいえません。
Q5:ろくでなし子さんは?
A5:『でこまん』はセーフで3Dプリンターのデータはアウトなんでしたっけ? 増田はでこまんを見たことが無いのではっきりとしたことは言えないのですが、流石にでこまんは最低限の性道徳には触れないという判断だったんでしょうねえ。
A6:流石にアレは性欲を刺激しないという扱いなんでしょう。
作者のブログに今回の決定について書いてある。
増田はコミックの方の中身は見たことがないが、現在販売されているものも含めてどうも元々年齢指定は無かったようである。
それがR-15で実写映画になり、それに伴って若い読者が増えることを想定してコミックの方も性描写の修正を強め、旧バージョンは今後は販売しないという扱いらしい。
男性向けで例えるなら、『ふたりエッチ』がR-15で実写化され、それに伴い今以上に修正を強化し、旧修正バージョンは今後は販売しないようなものである。
正直、そこまでする必要があるのかと言うならば疑問ではある。
ヤングジャンプやヤングマガジン掲載の性描写ありラブコメ、たとえば『源君物語』や『なんでここに先生が!』がR-15で実写になったとして、集英社や講談社はそこまでしないだろう。
青年男性向けで小学館が出しているマンガならば、というと増田は現時点でビッグコミック系雑誌を定期購読していないのでそのような『性描写あり恋愛もの』が掲載されているのか自体を知らない。
どのみち、タイトルの後ろに『for Ladies』のように付けて旧修正版も併売すれば良いのではないか、と思うが、出版社がどのような理由で今回のような判断をしたのかはわからない。
『BLを実写化するならもうちょっと原作も修正を考えろ』という東京都青少年健全育成審議会からの無言の圧力があり、出版社が忖度したのだろうか?
同時に、こんなことが現実にありえるだろうか、と思う。こんなこととは、贖罪をテーマとして、複数人の人生の因果を一つの物語にまとめることができるのだろうか、ということだ。
もちろん、小説であり、サスペンスなのだから現実にはありえないのは当然だ。
もし、自らの人生を振り返って、小説のように物語として人生を捉える、説明することが可能であるとしたら、それは不都合な記憶を省略して、因果を無理矢理に成立させているだけである。
湊かなえの小説をわざわざ持ち出して書くことでもないのだが、久しぶりにこの手の作品を見たので、きっかけに思いつきを書いてみる。
また、この文章の発想の材料としてtwitterで流れてきた、脳科学に関するつぶやきである。tweetは見失ったが、内容は、脳のような複雑系はブラックボックスとして扱うしかないのではないか、というものだった。
脳が複雑系であるゆえに、私たちのあらゆる認知活動も複雑系の一部である。とすれば、小説という営みは虚しい。なぜなら言葉で説明ができない対象を言葉にしているということはそれはただの虚構だからである。もちろん、大抵の小説がフィクションであることは、承知している。が、人は小説で感動し、自分の人生を重ね合わせたり、小説に人生の一つの真理を見出すわけである。ちなみに、逃げの一文を加えると、ドストエフスキーとか立派な文学ではなく、私が対象としたいのは大衆向けのエンタメ小説である。
小説が複雑系を表現することが不可能である以上は、その存在意義を上記のような、自分の人生を重ね合わせたり、小説に人生の一つの真理を見出すこととすることはできない。私の考えでは、小説の存在意義は、まさにそのような錯覚を発生させること自体である、思いつきだけど。人は、自らの人生の意味不明さ、理解不能さを紛らわせる為に、小説にすがるのではないか。
また、小説という文化自体は複雑性が高いものであって、数多の小説を読み漁ってその相互の比較をすることは、一つの小説を読んでそこから何らかの意図を汲み取ろうとする行為より格段上の行為であると思う。
追記、今またnetflixで残穢、というホラー映画を見ていて、その途中に書いているのだが、怪談も説明のできないものを説明しようとした結果のバグのようなものであると思った。
子供から大人になる自覚を持たせる、というのが元来の意味付けらしいけど、いまや惰性で続いているだけ。
成人の日という祝日は末永く存続して欲しいと思うが、式典は要らない。
こどもの日や敬老の日と同様、各家庭でお祝いで良いのではないか。
いくらお金をかけて大人が頑張って準備したって、あの式典に価値を見出してる人は少ない。
私個人的にはなかなかない機会だと思って市長の話を聴いたけど、会場に来ても中に入らず外で仲良し同士で喋るだけの人も相当数いたようだ。
ほとんどの人にとって、同窓会という一大イベントの付属品という捉え方だと思う。
もちろん全くの無意味ではないと思う。何をしたって少しくらいは価値がある。
成人式に関しても存在意義は多少なりともあるだろう。しかし効果は極めて低いと感じる。
開催にかかる実費を新成人から徴収するなら、意味もあるかもしれない。
その場合、「金がかかるくらいなら行かない」という人も多いだろう。
被害者は禁止や賠償、破壊や抑制を要求し失われるべきことを目的とするが、暴力は商品化され疑似体験や体験、文化的生産物、行動や消費に使われている。
社会が人間の構築した生存環境としての消費サイクルにおいてその機能に好適に働いているのは暴力要素のほうではないのか。
別段、私本人としては自殺が合法になり産み分けができるようになればすぐにでも自殺したいし女しか生まれない社会になってほしい汚くて金のないおっさんである。
女性が消費されることについて、おっさんが入り口のポスターになることはまずない。まじめそうな、堅実な、稼ぎがよい、男性でも、入り口のポスターにはならない。
ただの女性だというだけでキャンペーンの大塔を担ったり売り上げを増やしたり効果的に宣伝することに、人間を誘導できる。
人間に1の価値を全員持っていると仮定すると女は2ある。男性が1あるべきをまず半分もって男性は0.5だ。魅力がまずない。見ただけで行動を起こさせない。
見ただけ、うごかない、むしろ女性のような形であるというだけで行動をする人間の男性の半分はその意義をふくめ半分はすでに女性にある。
その差は2ほどになるが、おっさんにはさらにお金がないという社会的な存在意義もない。すでに0だ。
宝くじにあたる、なにかの運でおいことがおきる、天恵レベルが女性という形で街にあるということは存在しているだけで女性を光学的に放出するロスでもある。
宗教的な黒い布で全身覆っておいたほうがいい価値でもある。ただなら見るなともいえる。
これをフラットに1と1にしようというなら、倫理的にも国語的にもわかるが、その偏差で水が高い所からおちるように社会の生産が起きているのを
失わせようというならば、何をもって補完するというのか。
積んでますねほんとに。フリーランスっていうか一人親方っていうか。売上NO1になって何年もたつけど社員じゃないから昇給があるわけでもなく。金額交渉したらあっさり他でやればって言われたわ。ここで気づきあげた実績や人との繋がり全無視かよ。他でやってもいい。でも虚しい。いままで頑張ってきたの全部無意味だったっておもえる。引き止めてもらえなかったことが悲しい。やりがいや夢が折られて死ぬ。自分の存在意義がなくて死ぬ。台風19号のときも出勤させられてこちらは保証もなんもないから社員だけでまかなってって言ったらじゃあ断ればよかったじゃんって言われた。圧倒的弱者。断るなんて言えるわけない。体が弱くて週5で正社員は無理だしこの先どうすればいいんだろう。頭も悪くて生き延びる方法が分からない。