2020-01-29

netflixで見た贖罪

湊かなえ原作贖罪という映像作品をみた。面白かった。

同時に、こんなことが現実にありえるだろうか、と思う。こんなこととは、贖罪テーマとして、複数人人生因果を一つの物語にまとめることができるのだろうか、ということだ。

もちろん、小説であり、サスペンスなのだから現実にはありえないのは当然だ。

もし、自らの人生を振り返って、小説のように物語として人生を捉える、説明することが可能であるとしたら、それは不都合記憶を省略して、因果を無理矢理に成立させているだけである

湊かなえ小説をわざわざ持ち出して書くことでもないのだが、久しぶりにこの手の作品を見たので、きっかけに思いつきを書いてみる。

また、この文章の発想の材料としてtwitterで流れてきた、脳科学に関するつぶやきであるtweetは見失ったが、内容は、脳のような複雑系ブラックボックスとして扱うしかないのではないか、というものだった。

この二つの材料を元に思いつきを書く。

脳が複雑系であるゆえに、私たちのあらゆる認知活動複雑系の一部である。とすれば、小説という営みは虚しい。なぜなら言葉説明ができない対象言葉にしているということはそれはただの虚構からである。もちろん、大抵の小説フィクションであることは、承知している。が、人は小説で感動し、自分人生を重ね合わせたり、小説人生の一つの真理を見出すわけである。ちなみに、逃げの一文を加えると、ドストエフスキーとか立派な文学ではなく、私が対象としたいのは大衆向けのエンタメ小説である

小説複雑系表現することが不可能である以上は、その存在意義上記のような、自分人生を重ね合わせたり、小説人生の一つの真理を見出すこととすることはできない。私の考えでは、小説存在意義は、まさにそのような錯覚を発生させること自体である、思いつきだけど。人は、自らの人生意味不明さ、理解不能さを紛らわせる為に、小説にすがるのではないか

また、小説という文化自体は複雑性が高いものであって、数多の小説を読み漁ってその相互比較をすることは、一つの小説を読んでそこから何らかの意図を汲み取ろうとする行為より格段上の行為であると思う。

追記、今またnetflix残穢、というホラー映画を見ていて、その途中に書いているのだが、怪談説明のできないもの説明しようとした結果のバグのようなものであると思った。

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