被害者は禁止や賠償、破壊や抑制を要求し失われるべきことを目的とするが、暴力は商品化され疑似体験や体験、文化的生産物、行動や消費に使われている。
社会が人間の構築した生存環境としての消費サイクルにおいてその機能に好適に働いているのは暴力要素のほうではないのか。
別段、私本人としては自殺が合法になり産み分けができるようになればすぐにでも自殺したいし女しか生まれない社会になってほしい汚くて金のないおっさんである。
女性が消費されることについて、おっさんが入り口のポスターになることはまずない。まじめそうな、堅実な、稼ぎがよい、男性でも、入り口のポスターにはならない。
ただの女性だというだけでキャンペーンの大塔を担ったり売り上げを増やしたり効果的に宣伝することに、人間を誘導できる。
人間に1の価値を全員持っていると仮定すると女は2ある。男性が1あるべきをまず半分もって男性は0.5だ。魅力がまずない。見ただけで行動を起こさせない。
見ただけ、うごかない、むしろ女性のような形であるというだけで行動をする人間の男性の半分はその意義をふくめ半分はすでに女性にある。
その差は2ほどになるが、おっさんにはさらにお金がないという社会的な存在意義もない。すでに0だ。
宝くじにあたる、なにかの運でおいことがおきる、天恵レベルが女性という形で街にあるということは存在しているだけで女性を光学的に放出するロスでもある。
宗教的な黒い布で全身覆っておいたほうがいい価値でもある。ただなら見るなともいえる。
これをフラットに1と1にしようというなら、倫理的にも国語的にもわかるが、その偏差で水が高い所からおちるように社会の生産が起きているのを
失わせようというならば、何をもって補完するというのか。