はてなキーワード: 勢力とは
もうちょっと踏み込んだところ(と言うかむしろもっと思考の浅い部分)まで気が付けるといいんだけどな。
そもそも「表現の自由戦士」みたいなのは君らが、反対勢力につけた勝手なレッテルで
そもそも最初っから基本的にそういう人らは表現の自由のために戦ってない。
エイベックス会長・松浦勝人の発言が批判を集めています。YouTubeの生配信で、女性俳優やタレントの容姿を中傷するなどしたことが「女性蔑視」と報じられましたが、松浦は「悪意ある切り取りをやられた」と反論しています。今回はこの問題を考えます。
芸能界の闇、という形容をよく見かける。闇というか、ただ夜な夜な集まっている場所があるとか、誰それの交遊が派手らしいとか、その程度ではないかとも思うのだが、闇を用意しておくと、話がスムーズに進むのだろう。あちこちに事情通がいて、その事情通が、私はこれを知っていると積極的に漏らしている様子も常に見かける。度合いに差はあっても、反復運動のように続いている。反復運動に付き合っている人の中には、芸能プロダクションの勢力図のようなものを頭の中ですくすく育てている人がいて、「あの人がブレイクしているのは、事務所が強いから」という、すくすく育てている割には至って平凡な見解が飛び込んでくるのだが、そこで込み入った見解を言われても困るので、それくらいでいいのかもしれない。
「ああいうのが『切り取り』って言うのよ」
言ってはいけないこと、なかでもハラスメントに該当するものというのは、立場によって変わるものではない。偉いから免罪されるとか、偉くないから厳しく罰せられるという話ではない。ハラスメント自体、権力を持っている人からそうではない人に投じられるケースが多いから、なかでも権力を持っている人の言動には注視が必要である。
エイベックスの松浦勝人会長が、自身のYouTubeチャンネルで、女性の俳優やタレントの名前を並べながら、容姿を中傷するなどの発言を繰り返したことが問題視された。問題視されたものの、さほど大きく報じられることはなかった。その後、YouTubeチャンネルで、水素水を飲みながら、「俺の発言によって、もしも本当に傷ついた人がいるのだとしたら、俺は謝ります。本当に申し訳なかった」と謝りつつ、「(記事について)ああいうのが『切り取り』って言うのよ。自分たちの都合のいいことしか書いてないでしょ」「俺は女性軽視なんかしてないっすよ。言われたことに答えただけだよ。自分の感想ね。こちらから見た景色を言っただけだ」などと続けた。
その未熟性・幼稚性
「俺は子供みたいなものだから」とも言う。再び、水素水を飲みながら言う。権力者が、ハラスメント行為について、自分の未熟性・幼稚性を持ち出して弁明しようと試みるのはよくある行為だが、それを包み隠さずに言い放つあたり、本当に幼稚なのだろう。エンターテインメント企業のトップがこれほどの無知を晒すことに、彼の周辺が無頓着なことにも呆れるのだが、この状況が放置されること自体、この世界の未熟性を表しているのかもしれない。
未熟ゆえに暴力的な見識が放置されているという状態は、「エイベックスは、ともすれば今は非常識で、他人から『おかしいんじゃないの?(Mad)』と思われることも真摯(Pure)に追い求め、世の中にマジで!?(Really!)を届け続ける集団だ。」(松浦によるエイベックスの行動規範)を体現するスタートラインにも立てないと思う。
列挙するのが憚られる誹謗中傷発言が並んでいたが、これに対して、問題視する声がその世界の中からあがらない。知り合いのライターが、この件について書こうとしたら、編集者から「できればやめてほしい」と言われたそう。今後、所属アーティストとの付き合いで問題が生じるかもしれないから、との理由だったそう。実際に書いたところで何かがどうなるとは思えないが、「そうなるかもしれないから念のためやめておこう」は、特にしっかり反省しているわけではない人には好都合で、「言われたことに答えただけだよ。自分の感想ね。こちらから見た景色を言っただけだ」を機能させられる。つまり、「できればやめてほしい」は加担する作業である。
2016年、自身の会社が労働基準法に基づく是正勧告を受けた際、松浦は自身のブログで不満を表明していた。「望まない長時間労働を抑制する事はもちろん大事だ。ただ、好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。僕らの業界はそういう人の『夢中』から世の中を感動させるものが生まれる。それを否定して欲しくない」とあったのだが、そういう「夢中」が生む問題点を是正するための勧告なのだ。それなのに、「僕の法律知識なんて乏しいから間違っていることを書いているかもしれない。しかし、納得できないことに納得するつもりはない。戦うべき時は相手が誰であろうと僕らは戦う。それが僕らの業界とこの国の未来のためだと思うからだ」と強気で言い切っていた。
法律知識が乏しいならば、それを学んで、どう間違っていたのかを考え直したらいいと思うのだが、すぐさまそれが、「僕らは戦う」になり、「僕らの業界とこの国の未来のため」と飛躍していく。それはあまりにも幼稚だと思うのだが、これもまた、「俺は子供みたいなものだから」的な感じで乗り越えてしまったのだろうか。
今回のような発言も、その人が偉いからという理由で見逃されてしまうのだろうか。この薄っぺらさを許容していいのだろうか。「他人から『おかしいんじゃないの?(Mad)』と思われることも真摯(Pure)に追い求め」て欲しいのだけれど、結局、真摯に追い求めないようなのだ。
これ、もちろん以下の問題もあるけど、
・簡単に不労所得しやすいということで、中抜き企業はモラルのない反社会的な勢力が跋扈しやすい。新電力・MVNOと同じ。(これらは淘汰されたが)
・上流請けに入ったら入ったで、無駄な工数を積み上げて請求することに慣れ、社会的に無価値な人材になる、あるいは詐欺的な人材になる
たぶんバブル期のジャパンバッシング時代に政治的にしくまれたものだと思うので、すぐには改善できないだろうけど、
ウクライナ戦争や中国の一帯一路・債務の罠・サイレントインベージョンという危機が目前に迫っている中、
見過ごすことはできない問題だと思う。
2ちゃんねるでもニコニコ動画でもYoutubeでも私が観ているのは男同士のオタクコミュニティだ
どっちが強い、どっちが優れてる、どっちが面白いと笑い合い煽り合いながら激論を交わし、どちらかの勢力が物凄いものを生み出すともう一方は爆笑しながら負けたわと認め、しかし火が消えることなく逆転の一手でより面白いものを生み出しちゃう
どれだけスゲーことやるかが最上位の価値観で、負けても妨害したり陰口叩いたりあまりせず、もっとスゲーことやってやんよと火がつく、そんな男同士のオタクコミュニティへ憧れがある
女決闘者も居るが、彼女らは男同士のオタクコミュニティに居る女オタクであって女同士のオタクコミュニティに居る女オタクなわけではない
私は遊戯王自体には詳しくないので語ることは出来ないのだけれど、遊戯王でこのデッキが強い、いやこのデッキが強いと対戦してたり、激弱なカードをどうにかして活躍させる面白いデッキで男の子たちが対戦して爆笑している姿なんて本当に私も仲間に入れてほしいななんて思ってしまう
女決闘者はたぶん私と同じ様に男同士のオタクコミュニティに憧れて一歩踏み出せた強い人なんだろうなスゴイよね、私はなにを話して良いのかわからないので一歩引いて観ているだけだ
なんで女同士のオタクコミュニティはすぐ共感の取り合いに走っちゃうんだろう・・・
男の子なんて俺が考えた最強を作ったらすぐに「俺が一番だぁ!」って叫ぶのに、女は共感を集めて「私が一番だよね?ね?」とみんなに質問して承認して貰ってやっと一番を名乗れるみたいな感じ
何の根拠もなく恥をかこうが叩かれようが熱にうかされて作り上げて俺の最強が一番だって快活明朗に叫ぶ男の子はカッコイイし可愛いと思う
しかも一番が何人居ても良いんだよね、自称一番の存在が許されるし、自称一番がいっぱい存在したら自然に一番決定戦とかが始まって爆笑しながら真の一番決める姿は本当に面白い
理解したくないしする気もないのにそういうこと言うのやめたほうが良いと思う。
そんでフェミはこの質問にだんまり〜とか、例として何がか漫画を挙げられても誤読して「これはフェミニストの言ってることと違う」とか適当なこと言って勝利宣言(笑)とかするいつものパターンが見える。さすがに痛い勢力としか思われない。
赤松のこと応援したいのなら気に入らない漫画を叩いたりしてないで世の中いろんな作品があってどの作品の表現も大切にされて欲しいということを言ったほうが良いんじゃないですか。
児童ポルノは「性の商品化」の中でも最悪のものです。児童ポルノ禁止法(1999年成立。2004年、2014年改正)における児童ポルノの定義を、「児童性虐待・性的搾取描写物」(※)と改め、性虐待・性的搾取という重大な人権侵害から、あらゆる子どもを守ることを立法趣旨として明確にし、実効性を高めることを求めます。
(※)ここで言う「描写物」には、漫画やアニメなどは含みません。
現行法は、漫画やアニメ、ゲームなどのいわゆる「非実在児童ポルノ」については規制の対象としていませんが、日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を国連人権理事会の特別報告者などから勧告されています(2016年)。非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。
↑これが
児童ポルノは「性の商品化」の中でも最悪のものです。児童ポルノ禁止法(1999年成立。2004年、2014年改正)における児童ポルノの定義を、「児童性虐待・性的搾取記録物」(*「記録物」とはマンガやアニメなどを含むものではありません)と改め、性虐待・性的搾取という重大な人権侵害から、あらゆる子どもを守ることを立法趣旨として明確にし、実効性を高めることを求めます。
日本は国連機関などから、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の「主要な制作国となっている」と批判されています。ジェンダー平等をすすめ、子どもと女性の人権を守る立場から、幅広い関係者で大いに議論をすすめることが重要だと考えます。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会にしていくことが必要であり、議論と合意をつくっていくための自主的な取り組みを促進していくことが求められています。そうした議論を起こしていくことは、「児童ポルノ規制」を名目にした法的規制の動きに抗して「表現の自由」を守り抜くためにも大切であると考えています。
↑これになったからスゴイとか言ってるけど本気か?
一体何を見て言ってるんだ?
変更前の政策にある
・あらゆる子どもを守ることを立法趣旨として明確にし、実効性を高めることを求めます。
・非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。
この文こそが、変更後の政策にある
だからよく読めば
日本は国連機関などから、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の「主要な制作国となっている」と批判されています。
これと
ジェンダー平等をすすめ、子どもと女性の人権を守る立場から、幅広い関係者で大いに議論をすすめることが重要だと考えます。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会にしていくことが必要であり、議論と合意をつくっていくための自主的な取り組みを促進していくことが求められています。そうした議論を起こしていくことは、「児童ポルノ規制」を名目にした法的規制の動きに抗して「表現の自由」を守り抜くためにも大切であると考えています。
これは文章としてつながってない。
「極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な政策国となっていると批判」されるのは「国内と諸外国で守られるべき人権の定義が違うから」ですぐに答えが出る。
そんなことはアメリカでもサウジアラビアでも中国でもいくらでもある話だ。この文章には、それが国内での「児童ポルノ規制を名目にした法的規制の動き」とどう繋がるのかが省略されている。
そう、変更前の政策にあった
この文章が無い。
実際のところは、この国外からの圧力を錦の御旗にしてそれを国内での「児童ポルノ規制を名目にした法的規制の動き」に繋げる勢力=一秒前の共産党それ自身!が存在するからこそ、後段の文章が必要となってくる。
ヒドイ三文芝居を見せられた気分にしかならない。
「リベラルでもなんでもない自分を考える」を書いた増田という者である。
選挙権を持ってから、地方選挙でも国政選挙でも、自分はほぼ一貫して共産党に投票し続けてきた。来月の参議院選挙でも選挙区と比例代表制の両方で共産党に投票する予定だ。
選挙期間中に選挙公報が届けられると、いちおう各政党の政策をチェックして投票している。共産党の政策パッケージは少なくとも保守ではないと思って、投票というかたちで政治行動してきた。
そこで昨日の投稿に所感を綴ったところ、自分が中世的な保守人間であるという論評を含めて、さまざまなコメントが寄せられ、面白かった。
だれかがコメントを寄せていたように、自由民主主義とは、さまざまな勢力が自己利益を実現するためのせめぎ合いが常態だと自分は考えている。
つまり、論争が続いていることが、民主主義が健全に機能している証拠だと考えている。
なので、さまざまな「マイノリティ」が自己利益の実現を目指して主張をするのは、まことにもっともなことだと思っている。
あなたが意見を表明する自由を私は侵害はしないが、あなたのその意見を私が受けいれるかどうかは全く別の話だといっているだけだ。
あなた自身の意見に私が耳を貸さないからと言って、真理に反する者、正義に反するものとしてあなたが私を非難するのなら、私はますますあなたの意見に耳を貸さないだろう、といっているだけだ。
ましてや、あなたのたんなる意見に過ぎないものに私を従わせようとして、力づくで服従させようとするなら、私は絶対に従わないだろうといっているだけだ。
意見を表明するならどうぞ。それはあなたの自由なので。私はその自由を侵害しない。
だが、あなたの意見に私が同調して行動するかどうかは別の話だ。
なぜなら、私はあなたではないので。
「リベラルでもなんでもない自分を考える」を読んで、この記事は保守政党がクラウドソーシングで発注したものだと断定し、何事かを成し遂げたと思っている人が見られた。
また、「夜道に気をつけろや」的な脅迫めいたコメントを残した人もいた。
このようなことをする人は、自分がリベラルだと思っているのだろうか。とても面白いのでお伺いしてみたい。
空前の規模を誇るペルシアの軍団は紀元前480年、テルモピュレーの戦いにおいてギリシア陸軍の主力であるスパルタ軍を激戦の末に破り、スパルタの王であるレオニダス一世を戦死させた。スパルタ軍という防波堤を失ったギリシア本土は容赦なく侵攻され、ギリシアの中心都市であるアテナイがペルシア陸軍によって陥落するに至り、アテナイの軍人テミストクレス率いるギリシア海軍は絶望していた。「帰る国が無いのに、このまま戦ったところで何になる?」と。
しかし、彼らのリーダーであるテミストクレスだけは絶望していなかった。
絶望に染まる軍人たちの中で、彼は唯一希望を手放していなかった。彼は言った。「さあ、世界を取り戻しにいこう」と。
◇
ペルシア戦争の戦乱の始まりをどこに求めるかは諸説あるが、紀元前480年以降のペルシア軍の大規模侵略より10年前、先駆けて起こったマラトンの戦いにおいて既に戦端は開いていた、とする説が有力である。
紀元前490年、マラトンの戦いにおいて沿岸に押し寄せたペルシア軍を、アテナイ軍を主力とするギリシャ連合軍は完膚なきまでに破った。二倍に比するペルシア軍に対して、旺盛な士気を原動力に戦ったギリシア連合軍は、5000人以上にものぼるペルシア軍の戦死者に対して、僅かに戦死者200人足らずに留まる圧倒的な戦果を以てペルシア軍を退けたのである。勝利に沸くギリシアの民衆は口々にギリシアの精強な陸軍を讃え、自らの勝利を誇った。それほどまでに完璧な勝利だったのである。
一方、自軍主力の三割を一挙に失ったペルシア軍は撤退を始める。ギリシア世界のアジアに対する完全な勝利であった。
しかしただ一人、アテナイの政治家であり軍人でもあるテミストクレスだけは絶望していた。
◇
アテナイはギリシアの中心都市であるが、しかしこの都市が円熟を迎えるまでに辿った経緯は涙を誘う。ギリシアにはいわゆる都市国家と呼ばれる、一つの都市が国家を成す統治形態で政治が行われていたのだが、これら都市国家が成立する以前の、ギリシアの暗黒時代においてはギリシア半島(ペロポネソス半島)には大量の異民族が流入しており、戦乱の嵐が吹き荒れていた。
そのような戦乱のさなか、開闢におけるアテナイがいかにして生き延びたのか?
アテナイは極めて痩せた厳しい土地であった。地中海性の気候の中、雨量は少なく、養えるだけの人口は決して多くない。要するに、戦乱の時代においては重要性の極めて低い土地だったのである。そのため、アテナイは暗黒時代における異民族の侵略において、常に見逃され続け、戦乱からは遠ざけられ、その地盤と地歩を少しずつ伸長させてきた。最終的には、ギリシアにおける最も優秀な文化都市としての地位を確立するに至ったのである。
さて、そのような経緯もあり、スパルタやアテナイ、あるいはテーベといったギリシアの主要都市は基本的に国力に乏しく、幾ら軍制を整えたところで養える軍隊には限界があった。当時のアテナイの人口については諸説あるが、最盛期における人口は十万人程度だったと言われ、まともな軍隊として機能する人員は精々一万人を上回る程度だったであろう。
一方、ペルシアは現在におけるアフリカ、中東、中央アジア、南アジアの北部にまで跨る大帝国であり、根本的な軍事力、そして人口においてはギリシアに対して天地の差があった。そのような地政学的要因をテミストクレスは紀元前480年以前から看破しており、このまま仮に戦争が継続すれば、最終的にギリシアが間違いなく敗北するという未来を予見していたのである。
しかし、テミストクレスは絶望してばかりではいなかった。来るべきペルシア本軍の大遠征に向けて、着々と準備を開始した。
彼が最初に行ったのは、海軍備の増強である。これは正に慧眼であり、ギリシアの絶望的な状況を打破する最善手にほかならなかった。
無論、軍事力が精強なペルシアの海軍備は相当なものであり、実際、ペルシア戦争が激化した際の艦船の保有数は、ギリシアが保有する400隻足らずの軍艦に比べ、ペルシア軍のそれは3倍から4倍の1500隻以上(輸送船を含む)に達していた。ギリシア軍は結局のところ、陸軍備においても劣り、海軍備においても劣っていたのである。そのため、不足している海軍備の増強に多少着手したところで、いずれ来る黄昏を打破する目覚ましい一手にはなり難い――そう目するギリシア市民や政治家も決して少なくはなかった。というか、そもそもギリシア軍は精強な陸軍を抱えているのだから、海軍備の増強は不要であると楽観論に耽るギリシア市民が圧倒的だった。テミストクレスは頭を抱えた。
テミストクレスは異常者であった。常に真実を見ることしかできない目を持ち、常に真実しか思考できぬ頭脳を持ち得ていた。
テミストクレスは十年に渡って、世界の終りをただ一人、真摯に見据えていた。やがてギリシアは滅びる。しかし、その寿命を一秒でも長く保つこと、その呼吸が、須臾の間なりとも長く伸びることを目指し続けていた。また、テミストクレスは軍人である前に政治家であった。そのため、テミストクレスは数多くの権謀術数を駆使することを厭わなかった。彼の謀略が活かされるのは、決して外敵に対してばかりではない。むしろ、同じくギリシアに属する味方勢力に対して、しばしばその陰謀は向けられていた。
ともかく、海軍備の増強に前向きでないアテナイ首脳部を説き伏せるためにテミストクレスは一計を案じる。海軍備の増強に消極的であったアテナイ首脳を説得するために、テミストクレスは同じくギリシアの海洋都市国家であるアイギナと呼ばれる都市国家の脅威を説いたのである。
アイギナはギリシア世界においては珍しく、海軍備を主体とする軍制を整えた都市国家であった。地理的にはアテナイの属する沿岸から僅かに南下した地点に位置しており、当時のアテナイ首脳や市民にとっては、遠くアジアの大国ペルシア帝国よりも、海洋国家アイギナはよほど身近な脅威に映っていた。テミストクレスはその心理を利用したのである。まずはこの手近なライバルとなり得るアイギナの脅威を喧伝することで、テミストクレスは徐々にアテナイ首脳の意識を海軍備の増強へと向けさせることに成功した。
さて、この時アテナイが新造した艦船の数は200隻程度で、かつて備えていた旧式の軍艦の凡そ十倍にあたる新型の艦船を建造しおおせたのである。とは言え、先述の通りそれでもなおペルシア軍の海軍備に比べれば、アテナイの所有していた軍艦の数は圧倒的に劣っていた。それでも、テミストクレスの企てた長期的な戦略は間違いなく最善のものであったと言えた。結果的に、海軍備の増強という手段以外にペルシアを打倒し得る勝ち筋は無かったのである。
何故か。
ペルシア軍は強大な軍事力を動員するだけの国力を備えていた。軍事力、インフラを整備する技術力、そして、兵士を養うために必要な兵糧を創出する農業力、それらの総合力において、ペルシアは明らかにギリシアの力を上回っていた。しかし、そのような強大な力は、反面ある種の脆弱性を抱えることにもなる。テミストクレスはそこに目を付けた。
テミストクレスが着目したのは、ペルシア軍における高度な兵站戦略である。ペルシア軍は圧倒的な数の軍隊を抱えるが故に、その大軍を支えるための兵站戦略を整備していた。中継都市や本国から創出した食料を、効率的に前線へと運び届けるインフラを整備し、兵の士気が低下しないための細心の注意を払っていた。
しかし、ギリシアが属するバルカン半島並びにペロポネソス半島の海岸線は長く、その補給路は長大に達し、沿岸の陸路は決して効率の良い輸送ルートとは言えなかった。陸路における兵站戦略が決して最善のものでないことを、ペルシア軍は理解していたのである。したがって、ペルシア軍の兵站は必然的に海路に依存していた。
艦船による食料の輸送は、陸上のそれに対して圧倒的に効率的である。大軍を支えるために行われる、ペルシア軍の必然的な兵站の形態を、実際にペルシア軍が襲来する十年前の段階で、テミストクレスは明察していた。更には、そのペルシア軍が抱える唯一の弱点を攻撃するための、唯一の手段を十年前から整備し続けていたのである。
つまり、海上の兵站を破壊し、ペルシア陸軍を機能不全にすること。それが、それだけがギリシアがペルシア軍を打倒するための唯一の方策であった。
◇
別に打った人も大半はワンチャン効くかも、くらいでライトに受けに行ってるよ
反ワクがその何もわかってないライト層に負けて今ってだけ
写真家の今森光彦氏が、段々畑のある里山に土地を買ってアトリエを作り、雑木林などを大改造。様々な種類の樹木を植え、溜め池を堀り直し、花々の咲き乱れる庭を作った。大好きな蝶を沢山呼ぶためである。足掛け30年でつくり上げられた「チョウの庭」には75種類もの蝶が来るようになった。
写真が多くルビも適宜振られている、分類としては児童書なのだが、大人が読んでも面白い本。
私は庭いじりはあまり本腰入れてする方ではないが、必要に駆られてちょっとはするので、草木の手入れについて知っている事もあるけど、それでもこの本を読んで「へー初めて知った!」という事があった。草刈りの必要性についてだ。
年に数度の下草刈りが必要という事までは知っていた。だが草を刈る事で特定の丈の高い草に土地を独占される事を防ぐ効果があり、それによって植物の種類が多様になり、するとその植物達を利用する昆虫達の種類もまた増える事になるというのは、私は知らなかった。つまり里山の生物多様性は人の手によってつくられるのだ。
昔、映画『もののけ姫』の監督インタビューを『アニメージュ』か『もののけ姫を読み解く』で読んだ。そのインタビューで宮崎駿監督が、世の人々が「自然」だと思っている里山の風景は人工的につくられたものだと言っていたと記憶している。
人の手によってつくられた「自然」とは何か……その具体的な有様をこの『小さな里山をつくる』によって見せられた。人の手の入った里山の「自然」はありのままの自然よりも豊かなのだ。それは人間にとって有用という意味だけではなく、植物や昆虫、小動物など生物にとっても住みやすい環境なのだ。
蝶は、それぞれごく限られた種の植物に依存して生き、しかもその美しく奇妙な姿と優雅で愛らしい羽ばたきからよく人の目にとまる。そのため、ある土地に暮らしたり立ち寄ったりする蝶の種類の数というのは、その土地の生物多様性の指標としてはもってこいなのかなと思った。
30年もかけて土地に多様な種類の樹木や草花を植えてつくられた蝶の楽園。楽園の維持には草刈りや木の間伐、野焼きなど、農業や園芸を知らない人ならそんなにやって大丈夫なの? と心配になってしまうようなダイナミックな手入れが必要なのだ。
自然のまま草木の生えるままにしておけば強い草木だけが生え、それに依存する少数の昆虫しかいなくなる。そしてやがてそこに生えていた木々は老いや共倒れにより滅びて、ただの荒れ果てた草原に戻る。
人間による手入れは自然の中ではたまにしか起きない天変地異の再現であり、しかも計画のもとに行われる。本来だったら競り負けてしまう草木を残し、土地の養分と日照権を独占する草木を打ち倒したり、勢力を抑えたりする。
環境保護というトピックにおいてはつい人間の存在を不要の物として私は考えてしまいがちだったのだけれど、人間は自然のよき管理者にもなれる可能性も持っているのだと知った。本書のメインの蝶の話からは脱線しているけれど、私は本書を読みながらそんな事に思いを馳せた。
裏を返せば、自然の中に住む様々な生物……こと植物……生態系のベースとなるので彼らの生き様というのは重要だ……にとっては、多様性や共存共栄というものはあまり重要な事ではないのかもしれない。常に競い合い頂点を目指す、自分の繁栄だけが願いなのかもしれない。人の夢見る生物多様性というのは、不自然な事でしかないエゴなのだろうか。
まあそんな面倒臭い思索は置いといて、庭がクリエイトされていく過程は読んでいてわくわくするし、里山の風景や草木や蝶をはじめとする昆虫の写真は素敵だし、全75種類もの蝶がずらりと並んだページは壮観で興味深い。お、『鬼滅の刃』の胡蝶しのぶさん柄の蝶まで。アサギマダラという珍しく美しい蝶だ。
それと、本書に度々登場するジャノメチョウ。私はこいつに嫌な思い出がある。だからあまり出会いたくないのだが、本書で久しぶりに目にしてふと気づいた。昔はよく家の網戸に停まっていたのに、最近全然見かけない。本書によればジャノメチョウはススキに依存して生きる蝶であるらしいので、最近とんと見かけないのもむべなるかな。ススキの生えた場所なんて、市街地には全然ないもんなあ。
と事実を前置きしつつもゾーニングって結局人によってラインは違うのもまた事実で、ゾーニング問題でもオタクはそりゃ譲歩し辛いよなって思う(発狂は論外)
オタクの消費してる萌えとかの存在そのものを許さないみたいな勢力がゾーニングすればいいよの裏でいやそんなんで許すな甘いわって言ってるから世知辛いのう
それはそれとして元増田は非モテは二次元があるから生まれるって理論でオタクコンテンツ規制した方がいいんじゃないか? って言ってるけど
まあ、それは言えるな。
しかし自民党だって世界的に見ればまあ中道あたりだろうし、結構コミュニタリアンだし、社会保障制度に関しては社民政権的な動きをかなりしてきているよ。米国的な徹底的な自助努力礼賛みたいな勢力は日本には事実上なかったんだよね。
LGBTQ+コミュニティがリベラル的な思想になるのは世界的に見ても当たり前なのだけど、問題なのは日本のリベラル勢力を取り込んでいる左派コミュニティの殆どが9条護憲派であるということだと思う。
憲法改正自体が日本においてほぼ実現不可能だから解釈で解決しようとするのなら理解出来るんだけど、問題なのはそもそもとして左派コミュニティでは憲法改正自体がタブー視される傾向があって苦肉の策として解釈で解決しようとすること、そしてLGBTQ+コミュニティも左派に遠慮してしまってること。
本当に同性婚を実現したいのであれば、日本と世界の状況を比較して言及することや、人々の感情に訴えかけるようなやり方だけではなく、実現するための障壁を取っ払うことや、憲法改正が必要ならそれについてもきちんと議論できるようなスポークスパーソンも育成しないと、正直厳しいんじゃないかなぁと思うんですよね。
うだうだ長い文章を書いてしまったが、簡単に言えばLGBTQ+コミュニティの旗振り役は何故そんなに左派コミュニティの顔色をうかがってるのかということ。
拡大画像を見る
2月24日、ウクライナへの軍事侵攻を開始したロシア軍。プーチン大統領が分離独立を支持した同国東部とベラルーシと国境を接する北部、さらに黒海に面した南部からも部隊が上陸。3方向からの同時進行に加え、圧倒的な戦力差もあり、首都キエフ陥落も時間の問題と言われていた。
なかでも南部から侵攻する部隊は港湾都市のオデッサ近郊から上陸したことから「オデッサ作戦」とも呼ばれている。だが、これに噛みついたのがガンダムファンだ。
実は、オデッサ作戦は初期シリーズの「機動戦士ガンダム」にも登場。物語前半、現在のウクライナがある地域を実行支配していたジオン軍と奪回を目論む連邦軍の間で激しい戦闘が繰り広げられている。主人公アムロ操るガンダムが、ドム3機による「ジェットストリームアタック」を武器にするジオン軍の「黒い三連星」を撃破した戦いと言えば覚えている人も多いかもしれない。
そのため、ネット上には《ガンダムへの冒涜だ!》や《物語の中だけの話にしといてほしかった》といった怒りや悲しみのコメントが多数投稿。現実に起きているのはアニメでの2つの勢力による均衡した戦いではなくロシア軍による侵攻。ウクライナ側には民間人にも多数犠牲者が出ており。憤りを感じている人も多いだろう。
「ガンダムは戦記物のロボットアニメですが、同シリーズの数多くの作品の原作や脚本、監督を務めている富野由悠季氏は、一貫して戦争を美談にはしていません。戦争が持つ不条理さや人々の悲しみを描き、インタビューでも『戦争なんてかっこよくないし、あっちゃならない』と語っています。自身が手がけた作品と同じ場所で戦争が始まったことに心を痛めているのではないでしょうか(エンタメ誌ライター)
ガンダムではわずか3日で戦闘が終結したが、今回のロシアによる軍事侵攻は長期化も懸念されている。28日には停戦交渉が持たれる予定たが、これ以上戦火が広がらないよう祈るばかりだ。https://jp.news.gree.net/news/entry/4241127