はてなキーワード: 一方通行とは
いろいろ考えてみたけどこれ解釈を広げすぎて元増田の好みから脱線しちゃうよね?
SNSを監視し個人情報をハックしてテロリストをあぶり出すネットヲッチャーゲーム。
twitterもどきやyoutubeもどきが出てきてナマナマしい。
https://store.steampowered.com/app/491950/Orwell_Keeping_an_Eye_On_You/
ネットを題材にしたある章にカムイネットというサイトが出てくる。
ただ絵的に映ってるだけで操作できるわけじゃないのでナマっぽさはあまりない。
タブレットを操作できる。その世界のニュースを読めたり通販も利用できる。セーブもこれでやる。
https://store.steampowered.com/app/447530/VA11_HallA_Cyberpunk_Bartender_Action/
メールしたりフォーラム覗いたりプログラムをDLしたりでディティールが細かいのですごくナマっぽいんだけど、いかんせんモチーフが古いので若い世代はそれを感じられないかもしれない。
http://scoutshonour.com/digital/jp.html
メニュー画面がCUI。CRTみたいに歪んでるし、後ろで鳴ってるHDDのココココ音にノスタルジーを感じたらおじさん。
レトロなCUIからスタイリッシュなFPSへダイブするような演出はかなり好き。
https://store.steampowered.com/app/322500/SUPERHOT/
架空のwebサイトと言うより架空の警察のデータベース。コンピューター画面はWindows95っぽい。そしてCRT。
検索力(りょく)を駆使して謎を解くゲーム。カンが良くてググるのが得意だったら2時間ぐらいでクリアできるかも?
プレイするなら絶対にネタバレを見ないよう。何故かと言うとプレイする意味が消失するので。
https://store.steampowered.com/app/368370/Her_Story/
ゲームは主にこれを介して進行する。世界情勢のニュースを見れたり、メールやビデオチャット的演出もある。
デザインや考察はとても凝ってたのでこういうインターネットの未来はあるのかもしれないと思えた。
バイク一台やっと通れるくらいの細い踏切があって、そんな狭さだから自然と一方通行になる。でも踏切を待ってる人は両側にいるから、最初に渡る流れができなかった方は、向こう側からくる人たちを待たなければならない。
そんな踏切で、俺は向こう側からくる人たちを待っていた。いつにも増して人が多く、流れが途切れない。俺の前にいたおっさんがついにキレて、いつまで待たせるんや、こちとらずっと待ってんのやぞ!と向こう側から渡ってきた人たちに文句を言い始めた。ほとんどの人は知らないふりをして目を合わさず去っていったが、一人、真面目そうな高校生の女の子が「黙って待ってられねーのかよ」と吐き捨てた。
おっさんの顔は見ていないが、たぶん面食らったんだろう。ピタリと黙ってしまった。その子はそのまま自転車に乗って去っていった。
いや、、、人類にとって大いなる一歩なんてものは、はじめからたいしたものじゃなかったのじゃないか?
でっかい夢なんてのは、成せばでかいという目標と多大な過程があり、成し遂げたから称賛される。
なせばでかい目標なんてものはそうそうない。無論イノベーションやらででかい企業になれば後付で「でかい夢を叶えた」とかいうやつはいるだろう。
実際の行動ははこれができたらすごいんじゃない?というクラスで、世の中に有るスキマ、綻びをめがけて、
誰も称賛しないようなものを自分の頭の中で想定顧客と実物とのすり合わせを重ねて作り上げる。
無論、後ろ盾のない個人とやらの「多大な過程」なんざ、金が尽きて大半が途中で終了だろう。
組織としての投資家は金を出してくれた人に対する責任があるから、あまり未完成なものなんざに出せない。
さらには、夢を含めた感情を煽って金だけ奪っていく詐欺師も起業界隈に近いところにいる。いや、煽った夢を叶えなければ、そりゃ正しいことをやっていても詐欺師呼ばわりされるだろう。
個人としての投資家は流石にその大量の詐欺師なんかに含まれた原石なんて相手にできない。知識量的にも、詐欺師を見抜く力的にも、詐欺師を成敗する能力的にも。
そもそも「投資」という理屈がわかっていれば「いくら金と期間が必要で、それができればおおよそこれぐらいの売上と利益が出せる」というのが必要だ。
「まだできていないし、見立ても全くつかないものに金を出してくれ」というのは詐欺師にほかならんというのはまあ、そうだろう。
そうしてぼくらに、残されたのは、 かわりにぼくらが、抱えているのは、 不安とほんの少しの 幻想(ユメ)
本当のユメを叶える道程すらもそうだとはおもうし、何で儲けるかすら考えてないしネタもないワナビーはなおさら。
そもそも、「夢を叶える」というのは、なにかでかいことをなして「何らかの形で他人に称賛される」ということを求めているのかもねぇ。
そうして、脱社畜サロンみたいな、「ほんの少しのユメ」を見させてくれるようなものに行く。
そもそも現代社会に残されてるのはすべて「ほんの少しのユメ」じゃないのか?
そうして、大人しく、何も知らずに、ただ夜に怯えていなさい
非可逆世紀への一方通行、通れば取り返しはつかない、…私の様に。
突然ツイッターのアカウントを削除する旨のツイートを深夜にし、その30分後にはアカウントを削除。
こうして自分が感情のままに書きなぐっているのが大体その一時間後ぐらい。
いまだに脳の処理が追いつかなくて、メンヘラみたいなツイートしかできない。
推しは原因などを言わず、夜中にほぼ前触れもなくアカウントを削除。
これに関して様々な憶測が飛び交っているが、自分含め所詮オタクの戯言なんだよね。
まあ大体コレが原因だろみたいな感じで情報が一方通行してしまい、現在に至る。
完全な証拠もないのに原因を書くのはあんまり好ましくないし、ここに書くのも億劫である。
まあ端的に言うと男性声優さんとのイベントで色々と匂わせてしまい女オタさんを怒らせてしまったらしい。
感情的になってしまう女オタさんもどうかと思うが、直接リプライを送れるのは凄いよな自分にはできない。
まだそれが原因であると仮定すれば、自宅にファンが押しかけた(?)とか、プレゼントに変なものが混じってたとか、身の危険を感じることよりかはマシかなと思ってしまう自分がいる。
本当にそれが原因かは定かではないが、突然アカウントを削除することになってしまい本当に辛い。
彼女の普段の行動は感情の裏返しで……(ここからお気持ちになりすぎて声優さんへの思いを書き連ねてしまったので当該内容は削除しました)
そのなかでも他の声優と様々な差別化を図り、一握りになるべく自分を売り出すためにSNSの利用をする声優さんが大半である。(ただの自己顕示欲っぽい人も見受けられるが)
そのSNSはそういいところもある反面、弊害がかなり見受けられる。
心の無い人から直接リプライで誹謗中傷にあったり、メンタル的にやられてしまったような事例が多々あった。
今は様々な応援の表現があるが想いを直接、もしくは文章で間接的に伝えたいという人が大半であろう。
そういう思いを考慮した上で凄いサービスだと思ったのは「チョクメ!」である。
登録している声優さん一人につき月額324円を払うとその人からメールが届き、それに関して返信を送ると一旦運営を通して声優さんに送ってもらえるという画期的なサービスである。住所とか連絡先を書かなきゃ大体送ってくれるらしい。
返信もツイッターみたいに他のオタクに見られる必要はないし、本当のファンの人にしか送らないので声優さんによってはかなり踏み込んだメール内容であったりなどとても凄い。自分は社員ではないです。
とりあえず本題に戻ります。
声優さんも私たちと同じ人間なんです。全員バッシングに強い人とは限らないです。
noteの推し文化について書かれたある記事内の「好き」の定義が正直え?って感じだった。”推し文化が浸透しているジャンルにおいての「好き」=ガチ恋”みたいに言い切っているのが謎……。
「推し」と比較する対象としての「好き」をLOVEのみに限定しているのがなんか違くない?って感じがする。likeの意味の好きはどこへ??
推しとlikeの意味での好きでは、記事内で推しの定義とされていた「一方通行でも構わない」「1対1でなくても構わない」などは共通してると思うけど完全に推し=likeではない気がする。
推しというほど応援したいわけではないけどその対象に対して好感を持っていたりとか、それを表現したいとかいう場合が2次元でも3次元でもありえるのでは??と思うんだけどその場合はどうしろっていうんだろう??
一方通行で送り付けてるだけで交換してなくね?
おれは大衆が嫌いだ 人間の何もかもを娯楽として(しかも一過性)消費する人間どもが気持ち悪い 存在を認めることも無理 人間は大好きだ 一方通行の愛は暴力とおばあちゃんが言っていたがそれでも人類は好きだった 多分 認識できる範囲内の人類は誰よりもこよなく愛していた 電車の窓から覗く街の灯りひとつひとつに思いを馳せて幸福を願った 今思えばあまりにも気持ち悪い自慰行為である だが大衆のかたちをとった人間はどうあがいても気持ち悪い
誰かの鮮烈な感情をインスタントなコンテンツとして液晶越しに消費する人間 あたかも弱者のような顔をして群れて無敵になる人間 ひとりひとりが考えを持っているのにきまって同じ行動を取る人間 虫か?(虫スキーに誤解されないように言っておくと僕はは虫がもうめちゃくちゃに嫌いなわけではない)
『くるみ割り人形と秘密の王国』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けであります。
すごいぞなんと150点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。なんで、なんかもっとお金出したい感じはあるんだけど、この映画の場合グッズとかサントラとかそっち方向にはいかない、いけない、やばい。
この映画を公共向けにレビューするとジャスト95点くらいなのははっきりしていて(いや辛く採点すれば80くらいか?)残りの+50くらいは何かといえば完全に性癖の話なのですよ。いつもそうだけど、今回はそれにもまして(主に後半)全く当てにならないレビューであることを告白しなければならないです。何がやばい特殊性癖なのかについて最初に語ると話が混乱するので、後ほど詳細を述べます。
物語はストームボール一家がクリスマスの準備をしているところから始まります。でも主人公でありミドルティーンの次女であるクララ(演マッケンジー・フォイ)は浮かない顔。他の一家もなんだかギクシャクしている。それも無理のない話で、どうやらストームボール一家の母親は、このクリスマスの直前に死んでしまったようなのですね。
家族を失った喪失の中でもストームボール一家は伝統であるところのクリスマスをしようとしている。ヴィクトリア朝の話だから、親族の大規模なパーティーに出ようとかあるのだけれど、母親を失った悲しみからそれらを拒否して引きこもりたい主人公のクララと、このような状況だからこそ普段通りに日常に過ごさなきゃならないと考える父親の間には、感情的な亀裂があるというところから物語は始まるわけです。
そういう意味で言えば、これは大事な家族を失った喪失から回復する話です。同じテーマを扱った今年の映画でいえば『若おかみは小学生!』なんかがあります。普遍的なものなので他にもいくつもあるでしょう。
そういう普遍的なテーマだったんで、料理の作法にも定番(セオリー)みたいなものはあるわけですが、まずそのセオリーそのものはきちんとこなしていた。そういう意味で脚本は及第点。
また、同じテーマをこなしながらも独自性のある切り口も感じられました。この項目はその独自性についての感想です。
この種の「喪失と再生」の作品において、「去ってしまった人から過去において贈られた自分に対する愛情を再認識する」というエピソードは非常に重要なセオリーポイントになります。
それは例えば前述の『若おかみは小学生!』においても「私たちは娘であるあなたを愛していたよ」「その愛は永遠だよ」というようなメッセージは存在していて、それが主人公に受け取られることで回復の契機になりました。
いってしまえばこの「親からの愛情」ってのは遺産なわけですよね。だからこのテーマは遺産継承に関するテーマだと考えることもできます。
でもこのテーマには隠された問題点もあって、それは「親子間の関係を遺産を残すもの/受け取るもの、というような一方通行の、上位者の秘密に下位者が気づくだけという、そういう物語として描いていいの?」というものです。この問題告発って自分は今まで意識したことがなくて、『くるみ割り人形と秘密の王国』で始めて気が付きました。
例えば先程から比較している『若おかみは小学生!』においてこの問題提起はないんですね。それはなぜかといえば、『若おかみは小学生!』の主人公おっこはタイトル通り小学生で、これから自分の世界を確立していく存在だからです。重要なのは遺産が(つまりは死んだ両親からの愛情が)「あった」事であって、それにさえ気づけばおっこのここから先のミッションは回復だけなわけです。
しかし『くるみ割り人形と秘密の王国』の主人公クララはミドルティーンであり、もうすでに自分なりの自意識も世界観も作り上げつつある存在です。
次女のクララには、上には憧れつつも素直に従うことができない長女がいて、下には一緒に遊んで面倒を見てやる長男(小学生低学年くらい?)がいます。弟の面倒を見ながらも、女性的な完成度と貫禄では長女に勝てない次女。おしゃれは苦手でちょっと理系(工学系)な変わり者な主人公。
彼女はそういう意味で「母親を失って狂乱するほど悲しむ幼子」ではない。悲しいし落ち込んでいるし、日常を取り繕おうとする父親に反発をするけれど、だからといってそれを破壊しようというほどのパニックにはならない。自分自身の力でこの悲しみを乗り越えようとしている、まだ若いけど自立を目指す女性なわけです。
そんな彼女は、通り一遍な意味では「死んだ母親から愛情があった」ことはわかっています。世間一般でそういう慰めの言葉はよく聞くし、自分が母に愛されていなかったという疑いはない。
でも、じゃあ、その「愛情」って具体的にはなんなんだろう? もちろん日常でのさりげないやり取りや、スキンシップや、無言での加護やら、ありとあらゆるものがその候補なわけですが、それらは要するに伝われば伝わるし伝わらないわけです。過去のシーンとしては無数にあるそれを、クララはまだ自分の中で結晶化できていない。そこにクララの戦いはあるわけです。
この物語ではその愛情を暗示するキーワードとして母親の残した「大事なものは全て中にある」という言葉があります。
クララは亡き母からのプレゼントエッグの中に残されたこの言葉を追いかけて冒険の旅に出るわけですが、この言葉の意味は最終的には「私(母)がいなくなった世界においてあなた(主人公クララ)が前を向いて生きていくための大事なものはすべてあなたの中に残してきた」です。
大事なものは、様々な教えであり、生きていく知恵でもあり、もちろんつながりや愛情や人格そのものでもあり、大げさに言うならば「母親(家族)と過ごした時間のすべて」なわけです。
そしてこのキーワードが示すのは、それだけにとどまらないんですよね。
この言葉は「nを残してきた」「nが私(母)の愛情である」という指定ではないわけです。だからこそ逆に「何が残されていたと認識するかは、娘であるクララが選んで受け取りなさい」という信頼であるわけです。
愛情は遺産なわけですが、それは決して贈る/受け取るという一方的な関係ではない。この物語における「気づき」はそういうステージのテーマとして描写されている。それはやはり一味変わった、深い踏み込みだったと思います。
一方、作中において「遺産」はもうひとつの意味でもあらわれます。クララの母は幼いころ「秘密の王国」を発見してその民に慕われた女王でもあったのです。わお。ですから、遺産は女王位。クララは本作のメインの冒険である「秘密の王国への迷い込みそこで戦うこと」をとおして、この「女王位の継承」という問題へ巻き込まれてゆきます。
でもこの問題も前述の「母の愛情をいかに受け取るか」とワンセット、同じ物語の両面なのです。
クララは「女王が去ってしまって荒廃が始まった秘密の国」で大歓迎を受けると同時に、その危機においては「お前なんかは女王の代替品にすぎない」ともいわれてしまいます。「女王の位」をうけとった娘クララは、ただ単にそれを受け取った段階では「無力な模造品」にすぎないという弾劾です。
クララの母でもあり前女王でもあるマリーが幼いころ発見して作り上げた秘密の王国とそこに住む住民たちは、マリーに生み出されて育てられたという意味では、クララと同じく「マリーの子供」でもあるわけです。表面上は老人に見えても年上に見えても異形に見えたとしても、その意味では全てクララの兄弟姉妹に等しい。その彼らが、母マリーがなくなって、道を失い、うろたえ、クララに剣を向けさえする。
その混乱はマリーの残した女王位をただ受け取るという、つまりは遺産を残す上位者、受け取る下位者というだけの状態では、収拾されないわけです。
つまり、これもまた、「継承というのは一方的な贈与関係ではない」というテーマに接続されているわけです。
作中で、母との回想シーンの中で、クララは母から「あなたは姉に憧れているけれど、あなたにはあなた独自の世界があって物事をあなただけの見方で見ることができる。そこがあなたの魅力なのよ」と励まされます。
クララはクララなりに世界を見ることができる。それは父母や周辺環境のコピーとして自意識を確立していくしかない幼子ではなく、ミドルティーンとしてすでに自分の世界があるこの物語のクララでしか描けなかった切り口です。
母からは無限の贈り物を残されたけれど、その中のどれを受け取るか――母の残した教えや愛情のうちどれを「クララという自分自身のコアとして据えるか」というのは、クララの側の自由であり、その選択によって自らの存在を定めるわけです。
その自由の幅が良かった。
この物語の中で、クララは「秘密の王国」での旅と冒険を通して、そういった自分自身の内面と出会い、悲しみを癒やすわけですけれど、でも実はこの度ってなくても良かったんですよね。作中でも途中でリタイヤして現実世界に帰る選択肢が示されるシーンが有ることからも分かる通り、それはありなわけです。途中で帰るどころか、実は、出かけなくても良い。
クララはもうすでに自分自身を確立しつつあるミドルティーンで、この作品の冒険なんかを経なくても、時間さえかければ悲しみから立ち直っていたと思います。父親との間にギクシャクした感情は少し残ったかもしれないけれど、それすらも時間の流れでおそらく解消できた。
そこがとても良かった。
幻想郷への旅が必要不可欠であり、この冒険行がなければクララが破滅していたのだとすれば、クララは神が(母が)操る遺産相続の操り人形なわけですが、そうではなくクララは旅をやめる自由がある中でそれを続行し、自分で選んだわけです。
母から与えられたすべての教えや愛情の中から、姉と同じように「おしゃれで社交的な自分」ではなく、「機械いじりが好きでとびっきりの発明家である自分」を選んで継承した。同じように「秘密の王国で歓待されるだけの女王」ではなく「みんなのために調和を取り戻そうと戦う女王」も選んだ。選ぶという行為によって、ただ与えられる下位の存在ではなく、継承というテーマにおいて贈り主である上位存在と対等の関係であることを示したのです。
この辺はもはや登録商標とも言って良い「ディズニープリンセス」というワードの「プリンセス」にたいして、一定の回答を出そうと本作が挑んだ結果でもあると思います。
王位とか王権(そして愛情を)先代から送られ継承した存在が、プリンセスである。
でもそれは逆説的に、「プリンセスとは手渡されはしたものの、その手渡されたものをまだ十全には使いこなせないし、自覚もはっきりとはできていない、運命や自分自身と戦いの最中にある存在だ」という主張でもあると思うのです。
そういう踏み込みのある本作は、テーマから見ても脚本の構造から見てもかなりの出来でした。
――まあ、もっとも、ここまで脚本を褒めては来たんですけれど、その表現としての台詞回しがどうにも垢抜けない感じで、紋切り型なところも多くて正直言えばそこは今ひとつです。取ってつけた感じがある。
てなわけで、構造面ではキラリと光る部分はあるけれど、80〜95点くらいですかね、これは。という感想になるのでした。
文字数がオーバーしたので後編 https://anond.hatelabo.jp/20181201181722 に続きます。
もしもボックスで「もしも、もしもボックスがない世界があるとしたら」って言ったらどうなるの?
もしもボックスの効果で言葉通りの世界が実現されればもしもボックスがないはずなのに叶ったのはおかしいし、叶った後に消えたのだとしたも、もしもボックスによってもしもボックスがない世界が作られるのは論理矛盾になる。
起動しない、というが正解?
ある世界からない世界への一方通行が矛盾になる理由がわからない
この理由としては、
もしもボックスがない世界があるとして、そのない世界はどこから生じたか?と考えた場合。
ここで”もしもボックスがあった世界から”と考えると、もしもボックスでなくしたはずの世界が存在してしまうことになるため。
つまりそこでは、”もしもボックスがあった世界”が未だ存在してしまっている。
書いていて気づいたのは、「それならただ”もしもボックス”を知らない世界が生じるだけでは?」ということ。
しかしそれでも齟齬を感じ続けるのはおそらく、作り出した元におけるその元が消滅してしまっていることにあるのだと思う。
コメントの例的に言えば確かに、子供を生んだ女性がその場で亡くなったとしてもおかしいことではない。
けれど問題は、その例で言ってしまえば子供を生んだときにその女性の存在そのものが消えてしまう、ということにあるのだと思う。
つまり因果関係における結果のみが残留し、因果としての因子がその途端に消えているということにパラドクス性があるのではないかと。
追記2
「もしもボックスのある世界」にも最初からもしもボックスがあったわけではない
つまり、もしもボックスが発明される前の世界こそが「もしもボックスがない世界」だ
もしもボックスが発明されると、元の「ない世界」から「ある世界」が分岐する
すなわち、「ある世界」の方が後からできた側枝で、「ない世界」の方が本幹と考えることができるのではないか
これを読んで「なるほど」とつい唸ってしまったが、それでも根本的に解決しているとは思えなかった。
では換言して、こう考えてみてほしい。
こうした場合、両親が自分の両親でありえない場合としては二つの可能性があるように思う。
①まだ自分を生んでいないため、親ではない。
②単純に親が居ない
①の場合、じゃあどうやって自分は生まれたの?ということになる。このあとに結婚して生むのだとしても、それでは親が存在してしまっているため矛盾する。
②の場合、たとえば親が亡くなっている等。
しかしその場合においても、自分が無から生まれたのでもない限りは親という存在自体は存在しているため矛盾する。
当然、「自分が知っている本来とは別の親が居る」というのも親が居て矛盾するし、試験管ベイビーの場合においても精子の提供者が親となる。
このように考えていくと、やはり矛盾しているような気がしてならない。
ここでまた書いた後に気づいたこと
つまりここでの疑問定義は「過去や未来における存在性についての有無」にあるのでは?
としての願いを、
人の話を一度で理解できない。
簡単な説明ならわかるんだ。でも例えば色々な前提条件や長い前置きがあったり、話し手が話しながら整理する遠回りタイプの人だと(自分のような)、もうホント悲しくなるくらい??となってしまう。前半の内容が頭から抜ける感じ。辛い。で、聞いた内容もすぐ忘れてしまう。リアルに、あれ?そんなこと聞きましたっけ?状態になる。メモを書いても忘れてる。もう自分が一番信用できない。
あとね、説明も下手。昔は割と説明上手なほうだったはずなのに大人になるにつれて、どんどん苦手になってきた。人にわかるように説明ができない。分かりやすく説明しようとすると回りくどくなるからか、いつも焦って文脈丸無視な言い方や単語を繋げるような話し方をしてしまったりする。例えば、「もうちょっと大きくしてください。この文字。書類の12ページめ。なんか読み辛いので。」みたいな。子供か。書いてて辛くなってきた。
頭のいい人は話された内容の要点を掴むのがうまいから、話を聞いて、それを自分の言葉で言い直して相手の認識を確認して自分の意見を述べられるけど、自分は常に一方通行だ。
聞き手の話に相槌をうち、話を聞くのに精一杯。話すときは自分の意見を整理して言うことに精一杯。会議でみんな瞬時に話を聞いて自分の意見を言えるの本当すごい。
社会人になって三年。ずっと悩んでた。きっと30代、40代になったらマネジメントとかもしないといけなくなるのに、こんな頼りない人間のままなのかなと考えると辛かった。調べるうちに発達障害かもって思って、ウェイスの検査受けたらASDだった。私の場合は、ワーキングメモリがポンコツタイプだった。
でも、結果が出たからといってこれからも働く限りどこかで克服というか努力は続けないといけない。少なくとも障害があることを隠して働くうちは、普通の人のふりを頑張らないといけない。
韓国でも日本の最近の「現代知識で活躍!」はしられていて、言葉は悪いですが「日本終わったな、なにあれ」とあざ笑われています。特に漫画ですが最近エルフに「味」教えたりする作品がネタになり、「ああ、これは『足』というモノだ。これで歩くんだ」日本語の台詞を直訳した台詞で遊んだりしますが— 손지상 (@doskharaas) October 29, 2018
「ご愛読ありがとうございます!読んで頂き非常に嬉しく思います。韓国発のサブカル作品を私も楽しく読ませて頂いております」だコノヤロウ!
「どうやら本件は韓国という言葉と距離の大きな違いから日本サブカル界でいうところの『現代知識無双』に理解の齟齬がありようなので今回僭越ながら私が解説しますのでどうかよろしくお願いします」だチクショウめ!
発祥は諸説はあるがサブカル用語のいわゆる「萌え」が成立したと確信的に言えるのは1990年代に入ってからだ。
この愛情とも好意とも何とも言えない心の震え、喜び、熱さを表現する用語として「萌え」の発見はサブカル界においてパラダイムシフトだったことは間違いなく、今日のサブカルには無くてはならない概念である。
萌えの発見から10年間、日本サブカル界隈は様々な萌えるキャラクターやシチュエーションを次々と考案、表現をし「萌え」の創作に努めてきた。
しかしながら世に萌えが溢れすぎているということに気付いた日本サブカル界隈は「萌え」を体系化する必要性に迫られた。
それまでは「管理人さん」や「セラムンの○○」「藤崎詩織」「姉」「妹」など「萌え」に対してキャラクター固有名詞や家族属性で表現されていたキャラクター属性を日本サブカル界隈は体系化するという一大事業へ手を出したのだ。
それこそが「ツンデレ」を端に発する「萌え属性」「新ジャンル」である。
「新ジャンル」は創作を楽しむと共に既存キャラクターの傾向を洗い出しシンプルにした記号体系化を果たした。
この一大事業の成果は大きく、今日のサブカル作品キャラクターは数多く生まれた「新ジャンル」作品のいずれかに該当するほどだ。
そして「萌え属性」では漫画・アニメ中心に髪型や身体的特徴・口癖によるキャラクター属性の記号化などの試みも行われ代表作には「金髪ツインテールツンデレ」「短髪貧乳ボーイッシュ」「やれやれ系主人公」などある。
日本サブカル界隈は萌えの記号体系化という一大事業を完了し次のテーマを模索した。
現在の日本サブカル界隈で席巻しているのは「主人公」という言葉としては単純明快ながら考えれば深すぎるテーマを掘り進んでいる。
このブームの火付け役は「とある魔術の禁書目録」シリーズであろう。
「とある魔術の禁書目録」シリーズの主人公は一人ではない。ストレートに解釈するなら主人公は「上条当麻」であるが、少しでも“とある”を知っていたり、そのファンは「主人公は上条当麻や一方通行、御坂美琴など多数居るし、むしろ1ストーリー毎に主人公が居ると言っても過言ではない」と訴えるはず。
日本サブカル界隈はこの「とある魔術の禁書目録」を読んで衝撃を受けたのだ。
何故なら1990年代から2000年代まで日本サブカル界隈がやっていたことはヒロインの開発であり、主人公は開発が停滞していたと言っていいほどほぼ手付かずだったのだから。
もちろん日本サブカル界隈には1990年代から2000年代にも魅力的な主人公は生まれた。しかしながらヒロイン開発以上の成果があっただろうか?
ここで考えてみて欲しい異世界転生モノ、現代知識無双モノでフォーカスされているのは誰なのかと。
確かに作品によってはご都合主義過ぎて呆れるものもあるだろう(超ご都合主義の場合は大抵は細かいことを無視したギャグ作品であることが多いが)。
しかしながら多くの異世界転生モノ、現代知識無双モノでの共通点は「順風満帆な異世界生活を保障していたチート能力の無力化」だ。
そのときに主人公は窮地に立たされ成長が促される。例えば元の世界でダメ人間だった自分と決別し真の意味で強くなったりする。チート能力じゃない強さを手に入れたりするのだ。
異世界転生モノはヒロインメイン作品ではないんだ。異世界転生モノは主人公メイン作品なんだ。
金髪ツインテールはツンデレだよと伝えるように、主人公メインの作品だよと伝えるための舞台が異世界なだけなんだ。
など、主人公へフォーカスしたものや実質的に複数の主人公が居る作品がテキトーに挙げても目立つとはずだ(テキトーにパッ思いつく限り挙げたらジャンプに寄っちゃってしまった)。
日本の同好の士たちよ「2000年代アニメはパンティアニメがメイン」とか言われたら反論したくなるだろうが!(一部は事実だけど!)