はてなキーワード: フレデリックとは
『ユダヤ人の歴史』(河出文庫)という本がある。文庫サイズで千円ちょっと。古代から現代に至るユダヤ人の歴史の概要を、中東、欧州、西欧・東欧、北米地域に分けて学べる、比較的コストパフォーマンスが高い本である。
元々、原著はユダヤ教の思想的な部分(これらの神学論争や神秘主義思想は、初心者である一般人には分かりにくく混乱する元でしかない)をほとんど省略して書かれていることから、一般人にとっては取っ付き易く、ユダヤ人の歴史を学ぶための入門書としてお勧めしたい……ところなのであるが、一つ我慢ならない欠点がある。
この本の中では「イノセント」や「フレデリック」という人名が普通に出てくるが、なんとこれらは「教皇インノケンティウス」や「皇帝フリードリヒ」のことを指すのである。高校生時代に世界史が赤点スレスレだった私でも気づくような、凡ミスである。何故、こんな事になったのか。
原著者は、レイモンド P. シェインドリンというアメリカ人だから、当然、原著の人名は英語で書かれている。おそらく、下訳の段階で翻訳者は、それらの人名を取り敢えず英語読みからカタカナ表記にして日本語翻訳原稿を書き、その後、日本国内の歴史書籍で一般的に通用している表記に直す作業を怠ったのだろうと思われる。「怠った」と判断する理由は、英語読みで人名が統一されているわけでもないからである。
翻訳者もひどいと思うが、編集者は何も思わなかったのだろうか?最初に日本語翻訳版が出てからそこそこ年月も経過し、河出文庫から再刊されてからも年月が経過して何度か増刷もされているのに、ずっと「イノセント」と「フレデリック」のままである。翻訳文学作品も多数出している、河出文庫にあるまじき凡ミスだ。
翻訳文学を多数出しているといえば、つい最近、手元に有る創元推理文庫版『フランケンシュタイン』を読み返したら、最初のウォルトンが書いた手紙パートで言及される、英国の詩人コウルリッジの有名な詩「老水夫行」に関する注釈が「老水『天』行」と誤植されているのにも気づいた。
こんな感じで、素人の一般人でも気づくような凡ミスが、訂正されることもなく、増刷された書籍として世の中に出回り続けている例は意外と多いのだろう。
この記事を読めばN医師とは誰のことかたちどころにわかるのだが、それはさておき、色々調べてみると、この事件は文藝春秋社が一方的に悪いことがわかる。結局、スポンサーへのSWCからの圧力という事実は存在せず、勝手に慌てふためいただけの文藝春秋者が雑誌を廃刊し、社長が辞任し、そして勝手に花田編集長(当時)が辞めたのだけだったのである。しかしこれは最悪だった。ホロコーストに否定的なことを言うのはタブーだ、という誤った認識を世間に与えてしまったからである。SWCは単にホロコースト否定論を監視する団体であり、それまで世界中でずっと抗議してきたのである。なぜなら、欧米では日本など比べ物にならないくらいホロコースト否定論は昔から大きな問題だったからである。
事件の中心人物だった、N医師のその当該記事は噴飯物の記事だった。何せこのN医師、普通ならあの有名なAuschwitz強制収容所は「アウシュビッツ」或いは「アウシュヴィッツ」と日本語表記される筈なのに、「アウシュウィッツ」と呼んでいたくらいのレベルだったのである。今でもAmazonや古本で『アウシュウィッツの真実』という初版本は売っているので、その表紙をWeb上で見てみるといい。これが別の出版社からのちにペーパーバック版として出された時に、こっそり「アウシュヴィッツ」に直しているのが笑える。ちなみに、この指摘をしたのは、N医師をネットで散々苔にするほどに論駁していた山崎カヲル氏である。
N医師は、デイブ・スペクターによれば、それまでは英字新聞への投稿マニアに過ぎなかったらしい。おそらくは、そうした趣味が1995年当時、そこそこ盛り上がりを見せていた欧米のホロコースト否定論に接する機会を与えたのであろう。N医師にしてみれば単に当時の流行り物に飛びついただけだったに違いない。ともかく、N医師は別にホロコーストに詳しいわけでもなんでもなく、その程度のレベルであったから、文芸春秋社はきっちり反論記事でも載せるべきだったし、或いはN医師の記事など最初から突っぱねるべきだったのである。どれだけ噴飯物の内容だったかは、これでも読んでみるといい。
だが、たった一度のその記事は、N医師の人生を大きく変えてしまった。未だにN医師は日本のホロコースト否定論者の第一人者としてたくさんの信者が存在する人物になってしまったのである。知名度を生かして講演料まで稼いでいるらしい。前置きが長くなったが。
この問題は、結構事情が複雑である。簡単な説明は英語だがこちらで読むことはできる。一体この煙突問題を誰が言い出したのかはよくわからないが、クレマトリウムⅠの捏造疑惑自体は、1980年代ごろにフランスの有名なホロコースト否定論者だったロベルト・フォーリソンが言い出したのである。大概の細かいホロコースト否認論はこのフォーリソンが発祥である。フォーリソンはホロコースト否定を公に行ったことで当局に逮捕され、裁判になり、実はこの裁判でクレマトリウムⅠの捏造疑惑は形上は一旦決着しているのだ。だが、フォーリソンはそんなことで諦めるような人ではない。
続いてホロコースト否認問題では欠かせない話題であるツンデル裁判というのがカナダで起きる。欧米では当時かなり大騒ぎになった事件である。そして、このカナダの事件にフォーリソンは深く関与した。有名なロイヒターレポートの発案者も実はフォーリソンなのである。それはともかく、クレマⅠの捏造疑惑のネタがまたこの裁判内で取り沙汰される。この時はフェルデラーという超悪質なホロコースト否認論者が証人となって裁判で取り上げたようである。間違いなく暗躍したのはフォーリソンであろう。この裁判の決着はさておき、最も目立ってこのクレマⅠの捏造疑惑を取り上げたのは1990年代に入ってデヴィッド・コールというユダヤ系アメリカ人だった。ユダヤ人だってホロコースト否認はする人はするのであるが、彼はアウシュヴィッツ博物館に出向いて、アウシュビッツ 担当者まで登場させるビデオを撮ったのである。このビデオは今でもネットで視聴可能である。コール自身はこのビデオの販売に抗議したらしいが、出回ってしまったものはしょうがない。しかし、このデビッド・コールのネタ元は間違いなくフォーリソンである。コールの裏で暗躍していたかどうかまでは知らないが、フォーリソンが1980年ごろに指摘しなければ誰も気づかなかったのは間違いない。2000年代以降はオーストラリアの否定論者フレデリック・トーベンという人物がこのクレマ1捏造疑惑を喧伝していたようであるが、この人物も何度か逮捕されてるということくらいしか私は知らない(正直どーでもいい)。
簡単には説明がなかなか難しい。全体を把握しようとすると、ホロコーストの全体的な細かな問題まで把握しないといけなくなる。ただ、こう説明することはできる、ホロコースト否定派はどんなことがあっても絶対に断じて「ガス室」だけは認めることはない、のである。他の虐殺方法程度なら認めるホロコースト否定論者はいるけれど、ガス室だきゃあ絶対に認めてはならぬものなのである。そのガス室は現在もアウシュヴィッツという最も有名なホロコーストにおける強制収容所内にあったものとして公開されているのだから、否定論者にとってはまず最初に疑いの目を向けるものになってしまったのだのだろう、それ故に、否定論者にとってはクレマトリウムⅠと呼ばれるその場所は「戦後に捏造された」ものでなければならない。
ところがこのクレマトリウムⅠ、実に否定論者にとって都合がいいことに、実際に戦後に「再現」工事がなされているのだ。前述したリンク先を読めば書いてあるように、戦時中にいったん防空壕になっていたものを、ガス室として公開するために、もっかい戻したのが、昔は共産圏だったポーランドだったのだ。そして、この再現工事に実際に携わった当時の職人が、前述したフォーリソン裁判に出廷し、「再現工事をこんな感じでやりました」ときっちり証言していたのである。当然、捏造だなんて話にはなっていない。しかし、フォーリソンら否定派は「そんなに都合よく裁判に証人が出てくること自体怪しい」と引き下がらない。何せ、1980年代当時は、相手は東側であり、西側にとっては怪しすぎる共産圏国だ。背後にはソ連がいて、疑うにはもってこいの状況だった。
前述した海外サイトへのリンク記事にもあるが、煙突問題とは、戦時中にクレマトリウムⅠにあった煙突が、そこが防空壕に改築されるときに解体されたのである。そして、その煙突はアウシュヴィッツ博物館が1948年にオープンするのに合わせて、当時の再現という意味でもう一度作り直されたのだ(煙突だけではなく他も色々工事しているが、結構杜撰な再現工事であることは頭に入れておく必要がある。図面をよく見ればわかる)。だから、一時期煙突はなかったのであるが、戦後にそのなかったときのクレマトリウムⅠの写真が残っていて、それを現在の写真と比較して「戦後すぐにはなかったじゃないか!どうして今あるんだ? 捏造しだろ?」と仰るのである。……アホかと。
実際、煙突はガス室にはほとんど全く関係がない。火葬場があれば、煙突は必要だった筈で、クレマトリウムⅠのガス室は否定しても、そこが「死体置き場」だったことを否定する否定論者はゼロ(だって「死体置き場」自体はバッチリ図面にそう書いてあるのだから)である。むしろ、煙突がもし戦後に再建されていなかったら、図面を見た人間は気づく筈である、どうして煙突がないのだ? と。結局、防空壕だった時もその前の時も、図面が残っているので、問題の根本があるとするならば、ガス室としてほんとに「死体置き場」を使用したのかどうかだけが問題の筈なのである。これが、N医師にはどうしても理解できないらしい。そもそも悪いのはフォーリソンなのであるが(図面をきっちり1980年ごろに既に取得しているのであるが、フォーリソンには図面を正しくみる能力はなかったようである)、そもそも論としてそこがガス室とされるのは、図面にも文書にも残ってないのだから、アウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスやその他の証言者の証言しかないのである。こんなの否定論者が一番よく知っている事実の筈である。つまり、最も怪しむべきはその「証言・証言者」であるわけだ。だから、私はそのことを直接本人に言ってやったのだが……。
N医師は最初「アウシュヴィッツ司令官のルドルフヘスの話がガス室の根本である」のようなことを言ったので、私はそれはおかしいと指摘した。何故ならば、ルドルフ・ヘスは逮捕されたのは1946年3月であり、実はその約1年も前に、問題にしているクレマトリウムⅠのガス室に関する証言をした人物がいるからである。ポーランドは、ドイツが撤退すると、さっさと戦後処理に取り掛かり、ドイツの終戦を待たずに戦犯裁判に動き出していたのだ。だから、1945年4月16日にアウシュビッツの囚人だった人物がクレマトリウム1のガス室についてポーランドのクラコウというアウシュヴィッツ収容所のある地元法廷で宣誓証言をしているのである。これは時系列として全くN医師の言っていることに矛盾する。
「肝心だったのは、連合国としてはアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスに中心人物として証言させることだったのであり、誰が証言をし始めようと構わなかったのである」と。
まぁ、そんなことだろうなとは予想はしていたが、N医師は自身の脳内ストーリーさえ辻褄あわせができればそれでいい低レベルの陰謀論者に過ぎなかったのである。彼はこうも言っている(昔からである)、「ヘスはイギリス人に拷問を受けて嘘を言わされている」と。拷問を受けたというのは拷問した人物が手記にそう書いているので、事実であるだろうが、拷問受けてなくても当然信用してなかったわけだし、それよりももっと矛盾しているのは、これ拷問したのは「イギリス」である。N医師は別のところでは、「ポーランド」が怪しいと言ったり、「ソ連」が怪しいと言ったり、単にめちゃくちゃな脳内理論を披露しているだけなのである。陰謀論者の一般的な主張通り、陰謀それ自体の証明は一切ない。陰謀は巧妙にできているからである。
だったら何故、「煙突問題」のように疑われるような事実を残すんだよ? と突っ込んでやりたいところだが、奴らは脳内論理の辻褄さえ合えばそれでいいので、どんなにツッコミを入れても無駄である。
当然私など、N医師に比べりゃ微塵子のような存在でしかないから、支持はN医師に集まる。N医師自体がネットに腐るほどいる低レベル陰謀論者に過ぎないことは実際どうでもいい話なのだけど、N医師を支持する人が実際に結構いるという事態を目にしてしまうと、こっちが頭が変になりそうだった。SNSはそうした言わば人気者をあたかも「教祖」のようにしてクラスターを形成する仕組みだから、それ自体は現象としてしょうがないのだけど、頭では分かっていても実際に見てしまうとねぇ……。
というわけでさ、ホロコースト否定論なんざ、そんな下らない低レベルの世界なんだ。あなたは、「ガス室」はそれでも疑わしいと思いますか? つーか、なんでそんな低レベル陰謀論が支持者を集めるのか、私にはちっとも理解できません。
追記すると、N医師にはクレマトリウムⅠは一回防空壕に改築させていることだけはなんとか認めさせた。それすら認めていなかったのだから、呆れるけど。
私はあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけじゃない。
そしてあなたも、私の期待に応えるためにこの世にいるわけじゃない。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
自己肯定感が低いなら低いままでいればいい、高くなりたいと思うならそれもまたよし
人を平等にするのならそれもよし、たとえそれが区別の出来なさからくるものだとしても
人に興味が持てないのならそれもよし、その事で一抹の「面倒くささ」を感じるならそれもまた「善い事」
為すべきを為し、また為さず
感じたいように感じ、また感じず
欲することを欲し、また欲さず
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。
『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたとき、マジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネな意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。
『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノが監督した作品が、ドラマの1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。
なんてことをメモしていたら、タランティーノに子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二に子供が生まれたり、タランティーノに子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。
といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。
というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプなフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい。
書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたとき、ある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノがドラマシリーズを制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノが劇場用長編映画をデジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。
タランティーノがつくるNetflixのドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言が最近あった。自身の監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダ、アルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストーリーについての妄想を語っていた。
①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合のストーリーになるだろう。
②ビルはいかにして巨悪となったか。エステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔的人物のオリジンを描く物語。
③ハンス・ランダはナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件を解決してゆく物語。
④アルド・レインは戦後どうなったか。教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。
なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分の作品世界を相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノ・バース」だ。もちろんタランティーノの世界がMCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストーリーはすでにコミック化されていることだし、劇場用映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセント・ヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。
で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。
話を元に戻そう。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画、タイトルからしてこの有り様なものだから、映画監督クエンティン・タランティーノのいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスターや予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神(タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からはほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。
タランティーノは、過去の映画や音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分の映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかにタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングなものとして消費された文化の「エキサイティングな感覚」自体をそのまま現在に再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノの映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』からは郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端。
ららマジというコンテンツがある。「キミと奏でる、音と魔法の学園RPG。」だそうだ。こんなこと言ってる時点でもう丸わかりだが、完全なる未プレイのままこれを書いている
そして自己紹介をすると、クラシックオタである。オタクと言ってもどれくらいかという話だが、バッハからギリギリウェーベルンまでと言った感じである
(ルネサンスの完全ポリフォニー音楽は正直よくわからんし、ウェーベルンで十二音音楽がギリギリって程度で、ベルクとか分からんし、セリエル音楽とか完全にダメである)
まあ要はクラシックオタとしては及第点ぐらいなのではないかという感じだ。自分で思っているだけだが、流石に新ウィーン楽派必修はキツすぎるしこんなもんだろう
そして、ららマジの存在は知っているのだが、それ故に全く手を付ける気になれない
要はミリヲタが艦これに文句つけてるアレである。知ってるとどうしたってアラが見えてしまうのだ
というわけで以降アラをあげつらう。ただ、最初に書いておくが、クラシックを題材に据えてくれたことそれ自体には感謝したい。大概な過疎界隈なので…
まず最初に引っかかったのがこれである。ワグナーチューバ専がいたのだ。おそらく人類初のワグナーチューバ専の演奏者ではないか?
どういうことか説明する。ワグナーチューバとかその名の通りリヒャルト・ワグナーが導入した楽器である
問題はその役割である。ワグナーチューバというのは、端的に言うとホルン奏者が持ち替えで吹くチューバ、要は補助楽器なのである
まず楽曲に登場する際もその様な管弦合奏の中での役割しか無い。無論ワグナーチューバの独奏曲なるものも地上には殆ど存在していないと思われる
ワグナーチューバ専の彼女が何の為に生きているか深刻に謎なのだ。もっと彼女の存在意義を明らかにして欲しい
単にワグナーチューバがちょっと奇を衒ったチョイスだと思ってこんなことをしたのなら…正直それは最もオタクが憎むところである
さっきの発想を拡大していけば自然とこういう結論が導き出されるのだ
まず編成が滅茶苦茶である。ワグナーチューバは勿論だが、なぜか胡弓がいる。譚盾でもやるのか?
ピッコロ・フルート奏者と、ファゴット・コントラファゴット奏者とそれぞれ別々ににいるし、オーボエもいないのになぜかイングリッシュホルンがいる
というか弦楽合奏の縁の下の力持ち、ヴィオラがいない。クラシックやる気ねえだろお前
まず、各楽器一人づつしかいないのが致命的におかしい。これで合奏なんかできるわけないじゃないか
一応確認してみたが、弦楽合奏はヴィオラが居ないのでまずどの編成も無理だし、金管五重奏をやるにはチューバがいないし
オーボエも居ないので木管五重奏も出来ない(イングリッシュホルンの奴を強制的にオーボエに持ち替えさせればイケなくはないが)
率直に言ってこの部活、端から演奏活動をする気があるとは思えないのである。演奏活動をしない音楽部ってなんだ?
まだ楽器弾けないクラシックオタが放課後に集まって一緒にクラシック聞く方がよほど真面目に部活動してると言えそうである
まず何のチューナーなのかが全く聞こえてこない。そこ、いちばん重要な情報である
…が、状況を見れば十中八九ピアノの調律師であろう。そうすると次の問題が出てきて、器楽部なんかで遊ばずにピアノ調律師の専門学校へ行けということだ
ピアノの「チューニング」自体は、実は器具さえあればクソ簡単である。あれは打弦楽器であり、本質的にギターのチューニングと同じなんだから当然だ
ピアノ「調律」のミソはピアノ全体の調整、とりわけハンマーの調整である。逆にここは素人が立ち入れるところでは全く無い
というかピアノ調律師は国家資格なのである。苟もこんな場所で遊んでいる暇などないはずなのだ
(ただ、ピアノ調律師なのではないかという推測は、チューナーくんがあれほどモテモテな事実への一つの根拠となる気がしている
ピアノ調律師はピアノ全体の調整をやらなきゃいけない都合上、一定程度のピアノ演奏の腕を持っていると考えていい
…そうピアノ奏者である。室内楽をやりたい器楽部に致命的に欠けていたピアノ奏者がここにいるのだ
ピアノとの二重奏による室内楽ソナタというのは各楽器に果てしなくあり、というかほぼその楽器の独奏曲レパートリーと言っていい
ピアノ演奏ができる、そして部員としてそれぐらいしかすることのないチューナーくんは引っ張りだこになること請け合いなのである)
ここまではららマジの方に100%非があることだと思っているが、これはららマジの方の非が50%、この増田の方の非が50%ぐらいだと思う
その前置きをした上で言うが、ららマジの曲チョイスはクラシックへの愛が欠片も感じられず、はっきり言って嫌悪感がするのである
Act 1「いばら姫」:バレエ音楽「眠れる森の美女」(チャイコフスキー)
Act 3「どうにもとまらない」:「どうにもとまらない」(山本リンダ)
Act 4「マイフェアレディ」:ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(フレデリック・ロウ)
Act 5「ある晴れた日に」:歌劇「蝶々夫人」(プッチーニ)
Act 7「マランドリーノ」:喜歌劇「怪盗団/山賊の仕業」(スッペ)
Act 9「美しく蒼きドナウ」:「美しく青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス2世)
Act 11「ハッピーアンバースデイソング」:映画「ふしぎの国のアリス」(オリバー・ウォレス)
Act 12「カノホナピリカイ」:フラソング「カノホナピリカイ」(ケアリィ・レイシェル編曲)
クラシック好きと言うのはガチの選民思想的なところがあり、こういう事をされると相当カチンと来るのである
そんなPOPなチョイスしたいなら吉松隆でも選べばいいじゃないか
数少ないクラシックのチョイスにしても、スッペの怪盗団を選んだ所以外全く評価できるところがない
24の前奏曲から第15番を選び、更にそれに「雨だれ」の題名を冠するのとか最悪である
今どきベト5を「運命が扉を叩く音」と言い出すぐらい古臭い最低なセンスである
音楽を、ただ音楽それ自体を聴いてくれ。エピソードはそれをやったもののみが語るべき要素である
「裕福な独身者には重税が課されるべきであろう。ある人間が他人よりも幸福であるというのは不公平だ」
「女を腕の中に抱くと、やがて腕にぶらさがられ、そのうち背負うことになる」
(サシャ・ギトリー)
「女たちは私には象と同じように思える。眺めるのは好きだが家に欲しいとは思わない」
(W・C・フィールズ)
「私は男でなくて幸せだ。もし男だったら、女と結婚しなければならないだろうから」
「人は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する」
「頭のいい男は良い夫ではありえない、なぜなら彼らは結婚しないから」
(アンリ・ド・モンテルラン)
「女たちを知れば知るほど、私は自分の手の方をいとおしく思う」
(ショロン)
(フレデリック・リット)
「結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。宝くじなら当たることもあるのだから」
(バーナード・ショウ)
「一人でいるとき、女たちがどんなふうに時間をつぶすものか。もしそれを男たちが知ったら、男たちは決して結婚なんてしないだろう」
(O・ヘンリー)
(リヒテンベルグ)
(アメリカの諺)
条件は2つある。
1つ目は、気持ちよく歌える曲。
歌って楽しいのもいい。とりあえず発散できる曲が知りたい。
2つ目は、周りがしらけない曲。
基本ヒトカラメインなので1つ目の条件が満たされる曲が見つかれば万々歳なんだが、近々会社の人と忘年会でカラオケに行くことになってしまった。カラオケも酒も好きなので嬉しいんだが、せっかくなのであまりみんな知らないけど初聴の人も楽しませられるような曲が知りたい。盛り上がる曲もいいが、「初めて聴いたけどこの曲いいな」って思わせるようなやつがいい。誰かがカラオケで歌っていて思ったことないか?俺はあるんだ。
30歳前後のやつで、最近の曲を聴いているやつが周りにほとんどいないので分からないんだが、たまに地元の奴とカラオケに行ったりすると結局昔流行ってた曲だけみんな歌って終わるんだよな。それも楽しいんだが、もう一歩踏み出したい。大体ラルク、ポルノグラフティ、グレイ、ガクトあたりが定番だけど、俺も歌ってて楽しいんだけど、正直聴き飽きてる。途中で結局、「あー、あったなこれ懐かしい!」みたいな曲を入れる勝負になったりして、サビ以外グダグダだし、セックスマシンガンズとかX入れても三十路の親父だから最後悲惨な感じになったりするんだよな。
俺の好みは大人しくない(=ノリノリな感じ?)のが好きなのでそういう系統が望ましい。ミスチル、スピッツ、ゆず、19なども同世代は好きだろうが、たまに聴くのはいいが正直あまり好きになれなかった。心にこもった訴える感じのも好きで、椎名林檎なんかはすごく好きだったが、女性ボーカルなのでやはり歌える曲は限られてくる。頑張れば歌えるが、練習量少なくても歌えるようになれる曲が嬉しい。条件が増えてすまない。
ここ数年だと、フレデリックのオドループなんかは歌ってて楽しいし盛り上がる。同世代もあまり知らなかった。個人的には惑星アブノーマルとかポルカドットスティングレイとか大好きなんだが、いずれもヒトカラで何度か挑戦したものの癖のある女性ボーカルなので無理ゲーだった。やっぱり男性ボーカルがいい。
思えば中学生ぐらいから洋楽一辺倒になってしまったので、1999-2010年ぐらいの有名な曲も知らないことが多い。最近の若者はどこで音楽を見つけてるんだ?YouTubeなんだろうなぁ。
ということで、キャッチーで歌ってる本人も気持ちいい、ストレス発散になるような素敵な曲があったら教えてください。アニソンも好きなんだが、基本的にアニメを観ていないのに主題歌だけ歌うのは主義に反するので、今回は除外させていただきたい。
卯月「ラジオネーム「ペンネームで気持ちを吐露するのOK、円居挽さんの自意識にあてられた汀こるものだけどホームズ欲しい」さんから頂いたコーナーの前説です
アイドルという女性らしさを商売にする仕事とはいえ、未成年の子供にそんな言葉を教えるのはどう考えてもセクハラ
本人が嫌がってないとか関係ないだろ、誰だよあんな言葉教えたの
犯罪だぞ、犯罪、セクハラは犯罪だよ、罪だよ、罪を憎めよ、罪を憎めよ…… セクシー
でも…… 心の中でどこか犯罪的欲求を抱えるのは、人間の真理でもあると思うんですよ
というわけで「アイドルが心の中で抱えていそうな犯罪欲求!」のコーナーです』
です!」
愛海「コーナーの前説を募集するの聞いたことないけど、始まるよ!
卯月「わー、じゃあ安心して今日は写真撮影がないからノーブラだって言えますね
じゃあ最初のお便り、ラジオネーム「おまえは模倣犯で、俺は貴族探偵だ! そこになんの違いもありゃしねぇだろうが!」さんからのお便り
『野球賭博』
B.B.ロワイヤルの特定二人が絡んでそうですね」
愛海「ご、ごめん、メールの内容が全然入ってこないよ、の、の、ノーブラなの? 本当に? その、さきっちょ! さきっちょが! え、このさきっちょは直? 直!?」
卯月「嘘です、これは付け乳首です、続いてはラジオネーム「バジリスクタイムが似合う作家ランキング2位架神恭介」さん
愛海「ノーブラが嘘だったことがショックでもう話したくない」
卯月「そういう態度取られてもどうしようもないので次読みますよ
ラジオネーム「魔法少女まどか真偽か」さんからのネタメールです
『粉飾決算』
卯月「真面目な人をからかうの嫌いなんです、からかいしかない番組ですけど
ラジオネーム「城平京も二十歳の時があり京都に住んでいたことがあったんだよなあ」さんは、
卯月「ラスト三つです。ラジオネーム「私は多分三人目だから。平成のエラリークイーンの」さんからいただいた、アイドルが心の中で抱えていそうな犯罪欲求
『スピード違反』
バイクか車か…… どっちでしょうね」
愛海「ふと、茜さんがダッシュのスピード違反で捕まる絵が浮かんだけど忘れるね」
卯月「忘れてください。
ラジオネーム「輪廻転生後のペンネームOK、大下宇陀児あらため原田宇陀児」さん
……ごめんなさい」
愛海「存在証明を、この悲鳴を、或いは歌を叫び続けるボクは此処にいる」
最後! ラジオネーム「ガダルカナル・タカ、命名島田荘司」さんのアイドルが心の中で抱えていそうな犯罪欲求
んー無罪!」
愛海「愛星無罪!」
卯月「おまけです。
ラジオネーム「先進的な渋谷区が存在していない世界線の森奈津子」
『千川ちひろと佐藤心が二人が一緒になれないから国外で結婚するも心さんがその国固有の伝染病にかかり治療に必要な1000万円のための会計犯罪』
これもうネタが三重四重に重なって意味わからなくなってるので、あのカップルをイジるのはもうやめましょう」
『キャンディアイランドから双葉杏脱退、新メンバーによりHappy×2 Daysの杏ちゃんのラップ部分はどうなる?』です」
愛海「杏さんがゲストなの?」
愛海「わーい! よかったー! えっちなことされるかと思った!」
凸レーションの三人への質問メールは一切受け付けていませんが、
「相方の本名OK、フレデリック・ダネイ」さんだけは質問を送っても大丈夫です」
愛海「本名ではないよ」
卯月「それじゃあ次回も、ニュー」
愛海「乳!」