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はてなキーワード: 社会生活とは

2014-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20140328074652

社会生活上の問題はおいておくとして、

余程大量の水で流さないと尿中の尿素下水管内の微生物に分解されてアンモニアになるので

下水管は傷むし臭いがする。

尿石ができたら下水管が詰まったりもする。

直すのにはけっこう金かかるから風呂でするのはやめとけ。

2014-03-27

コミュ障気味で

楽をして人を避けていると言われることがある。

でも、コミュ障として言わせてもらえば、楽をしているというよりは、生来ストレス負荷が大きくて、

できればやりたくないことを避けてるだけ。そして、たまたまそれが社会生活が送れるかどうかの分かれ目になっていたというオチ

たとえば運動音痴でも実生活への影響はさほど大きくないし、それを克服しなくても誰にも咎められない。

しかし、生まれつきのコミュ障は、それを克服してもしなくても地獄が待っている。

まりピンとこないという人は、運動部に強制入部させられて、レギュラー取れないと鬼教官から罵詈雑言食らわされ、

レギュラー部員から人間扱いされない、それでも辞めることは許されないという糞みたいな世界想像してほしい。

無理してぎりぎりでレギュラーを勝ち取ったとしても、いつまた落ちるんじゃないかという恐怖と戦いながら、

苦手な運動練習をやり続けなければならない日々。

2014-03-18

http://anond.hatelabo.jp/20140313230752

性欲は素直に認めた方が楽になれます

自分は時々相方セックスするけど、ほぼ毎日オナニーもする。

おかずは重要なので選択にある程度時間を使う。

こんな自分って馬鹿みたいと思ってたけど、そう思うとなんだか苦しくなってしまう。

ある時、でもそれが自分であると認めたら、とても楽になりました。(誰にも迷惑かけてないし、それが社会生活特に影響があるわけではないし。そもそも人間上下はないし)

したいならする、でいんですよ。

2014-03-11

http://anond.hatelabo.jp/20140311193815

無理だと思う。独立して社会生活営むのすら不可能なのばっかりだから

しろ親がいなくなったら俺が面倒見る羽目になりそうだわ。マジ勘弁。

2014-03-07

メンヘラ性格が悪い奴の狭間

今は1日10錠くらいのメンヘラ向けお薬を飲んでいる。パキシルとかそういうやつ。薬漬けの生活になって3ヶ月くらい経つか。

今も朝起きるのは大変だ。いつも大体7時間くらい寝ていたのだけど、今は眠りが浅いせいか同じ時間寝ても眠気がとれない。結局頑張って目覚ましを止めるのだけど、その後必死に体を起こそうとするのだけど、眠気が勝るのと起きるのが嫌だという気持ちに負けて二度寝してしまう。また、眠りが浅くて1時間から2時間おきくらいに目が覚めてしまって、起きる気力も無いけど眠れないときもある。

薬を飲む前だって、起きるときにどうしても眠い日はあったはずだ。そのうちの僅かな回数は二度寝やらかし寝坊して会社遅刻してしまったりというときはあったのだけど、それでも多くの場合は我慢して起きて遅刻することな会社に行っていたはずだ。

別に朝起きることだけではないのだけれど、仕事のこととか、普段生活していて過剰に考えすぎてしまっているのではないかと思う時はある。会社の人たちはそんなことは言わないけども、実際はお前のような精神の弱いやつは早く辞めてしまえと思っているのかもしれないとか。僕に関係している人たちは、みな僕のことを早く死んで欲しいとか消えて欲しいとか思っているのだろうとか。日によってまちまちだ。というか大体そういう考えが浮かぶとそんな気、つまり自分は早く死んだほうがいいんじゃないのかという気になってくる。この文章を書いてるときもそうだ。

とにかく、自分病気から朝起きれないとか死ねと思われていると感じているのか、それとも元々朝が苦手で生きることに対して自信のもてない性格なだけなのか、どちらなのかが分からない。病気のせいであれば、今のように薬を飲み続けながら安静にするしかない。でも、それが単に朝が苦手で自分に自信がないというただの性格によるものであれば、自助努力でなんとかする以外にない。けれども今の自分にそれがどうにかできる自信なんてないしもうホント社会生活なんてできそうにないから何処かの山の奥深くにでも行って霞を食っているくらいしか、今後自分が歩む選択肢はない気がする。

三つ子の魂百まで、ではないけども一朝一夕自分の甘えきった性格が直るとも思えない。一歩一歩、何十年もかける覚悟性格を直していくしかないのだろうか。でもそれじゃ結局ゴミみたいな性格のままで一般社会居座り続けることになるし、死んだほうがよさそうだ。どうしたらいいんだろうか。

2014-02-16

実名匿名問題から考えるネット実顔主義

ネット実名匿名の問題は、長年にわたって政治論争がなされている。ただ、これはあくまで「べき論」だから絶対的な答えのある話でもないし、その問題自体にはあまり興味がない(が、政治から無縁な人間などいないし、自分立場を聞かれれば、はてな匿名ダイアリー精神にのっとり、匿名支持派と答えるけれど)。

私が興味を持つのは、ネットがどうあるべきかを考えるとき現実社会生活から考える思考経路。すなわち、現実生活実名なのか匿名なのか。

ある人が会社学校に行くとき、その人は当然ながら名前立場は周囲に知られている。実名支持派のもっとも素朴な根拠はこういう感覚だろう。しかし、ある人が道を歩くときコンビニ飲み物を買うとき名前立場は知られていない。匿名支持派はこのように考えるわけで、これはプライバシーにもつながる感覚とも言える。

そこで中間的というわけでもないが、実名匿名に対して、顕名というスタンスもある。現実生活はいつも名札をつけてるわけではないし、状況に応じて立場は変化するが、それでもたえず身体や人格の時空的連続性はある、という発想と言える。実際にネットでも、みんな何かしらのIDを取得するし、そもそもIPアドレスだってある。つまり、どのような社会空間であれ、個々人の時空的連続性が切断されてしまうのはおかしい、ということ。これは名のあり方以前にもっともで、自然な話と言えそうだ。

では、ネット実顔主義というのはどうだろう。現実生活では、まずなによりも顔を隠していないし、状況に応じて立場は変化するにしても、顔は変わらない。そして覆面をかぶって行動する状況なんてまずない。たとえポルノを購入するときだって名前立場は隠せても、ふつう顔は隠せないし、隠さない。コンビニだって匿名で利用しているが、フルフェイスヘルメットをかぶって利用はできない。であるならば、ネットもそうあるべきなのではないか。これは少なくともネット実名よりも強く現実生活リンクした考え方だと思うが、なぜか主張する人はいない。ネット実名支持派はネット全体のFacebook化を支持するだろうけど、それよりもっと現実生活実態に則したFacenet化を先に求めるべきじゃないのかな(いわばアバター画像を認めない「※ただしイケメンに限る」の全面空間化)。

もちろん現実など一切気にせず、ネットはこうあるべきだと考えることもできる。が、ともかく匿名でも顕名でもなく、あくまでも現実リンクした実名ネットを推進したい人は、結局のところ、現実社会的立場ネットで(またネット社会的立場現実で)活用にしたいのだろう、そのメリット享受したいのだろう、と考えざるをえない。きっとアバターじゃなく実顔のネットを推進したいのが、私を含む美男美女たちであるように。

結論。私はネット匿名支持者(非・実名支持者)で、かつネット実顔支持者(非・匿顔支持者)、つまり名前隠して顔隠さず」を目指す者であるからして、はてな匿名ダイアリーのみなさんとはおそらく半分しか仲良くできない気がする。まったくもって残念。

2014-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20140213134755

後天的脳障害場合はその障害を治療することで改善する場合もある。

基本的にはトレーニングになるだろうけど、自分に障害があると把握しておくのは社会生活送るなら必要だろう。

2014-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20140211181700

心理的依存が生じやすベンゾジアゼピン系の薬はともかく、抗うつ薬が処方されたならしっかり飲んだ方がいい。

コイツもうあかんかな、と思ってた人の社会生活抗うつ薬好転したケースをいくつか見てる。

2014-02-04

http://anond.hatelabo.jp/20140204120228

同性愛もかつては「精神疾患」だったんじゃないのか。実際がどうかは知らないが、元の文をもじるならば、

かつては「同性が性的対象である」ことが、社会生活に支障の出ることである、と認められていたが、

「同性が性的対象である」ことによって社会生活に支障があるべきでないことになったことになるな。

そうなった要因には、性的嗜好に関する事実についての知識が増えたってのもあるかもしれないが、

価値観価値判断が変わったってのもあるだろう。

ところで、子供に実際に猥褻なことをするような人でなければ、強制的に「治療」する必要はないと思う。

もちろんそういう人じゃなくても、本人が性的嗜好について何らかの変化を望み、

それをかなえる方法があるのなら、「治療」するのもいいだろう。

大人だけに性的魅力を感じるようになりたいとか、性的欲求を根本から解消したいとか、

子供性的魅力を感じることは変えなくてもいいが、他人の実際の重要な欲求や、

他人が将来抱くかもしれない重要な欲求(かつて子供の頃に性的関係を持ちたくなかったとか)を

より重視できるようになりたいとか。

http://anond.hatelabo.jp/20140204111852

これをいうとまた新たな議論に発展する気もするんだが

小児性愛同性愛とははっきり区別されて、「精神疾患」とされてるんだよね。

で、たとえば「ちょっとした潔癖症」と「強迫障害」みたいに、

何が疾患で何か疾患じゃないのか、という区別ってのは、実は「実生活で困るかどうか」だったりする。

「同性が性的対象である」は社会生活に支障のあることではない(あるべきでない)けど

「小児が性的対象である」ってのは、社会生活に支障の出ることである、と認められてる、と思ってる。

まあ、なんで、残念だけど「あの人は小児性愛である」と周りが知ってしまう状況ならば

遠ざけられることは仕方ないんじゃないかな…とは思う。

その人は、社会生活に適していないから

でも、「他人に知られずに、現実児童に被害の及ばぬ手段で、趣味として楽しむ」人については

もちろんその人が小児性愛であることは知りようがないし、差別されようもないと思う。

2014-01-31

社会生活に支障が出るから問題なんです。

正確に言えば、「社会生活」のほうの寛容度が狭いんです。

こだわりがある人を「まあ根はいい人だけどね」と、それはそれとして扱う大人の社会にはなっていません。

同質であることを徹底的に求めるので、話題が偏っていればそれだけで奇人変人扱いします。

多数派に対して「なんだ馬鹿どもめ」と見抜ければいいんですが、そうでないと自分を責めるのでつらくなります

そういうときに、双方に対して(これが重要)、こういう人もいていいんだ、というために病名がつけられることがあります

だるいから休みます」という病気もあるんだ、と思えるなら、つまり病名によって社会も寛容になり、本人も生きやすくなるなら、それは一つの解決です。

ところが、「社会」側の不寛容さは、病名をも叩く傾向にあるのでどうにもなりません。

感染症ハンセン病差別がこんなに長く続いた先進国日本だけです。アメリカでは戦前に解決していました。

視点認知のずれということが分からないと、「普通生活」ができない=無能だと思い込んでしま危険性があります

私はアスペルガーADHDはありませんが(うつ・不眠はあります)、それとは別に方向音痴です。

方向音痴に向かって、「どうして迷うんだ?」と怒られても困ります。迷いたくて迷っているんじゃないんだから

方向音痴だけを取り上げて、

あいつは使えない奴だ」(なら外回り仕事を内勤担当にやらすな)とか、

「彼はインドア派だから付き合いにくい」(こっちだってムダに歩かされるのは願いさげ)とか、

「減点」で評価するのが、日本的評価法です。

こういう生きにくい社会に対しては、減点法では評価しきれない多用な才能がある、また多様な生き方があっていい、ということを常に言っていかなければなりません。

情けない話ですが、「日本人精神年齢12歳」とはマッカーサーの評価ですが、21世紀に入って精神年齢は下がる一方で、目下のところ4歳ぐらいかと思われます。異質な存在を全く認めないんですから

ヒトラーの素晴らしさが分からないのは精神病だ」というのは笑えない実話ですが、一時期の小泉人気新保守主義に置き換えると、ぞっとしない話です。

2014-01-29

http://anond.hatelabo.jp/20140128213550

社会生活を送る上で障害となる特徴」を「障害」と呼んでいるんだから

社会のありようによって増えたり減ったりする作られたもの」とか、

当たり前だろ馬鹿しか言いようがない。

怒ると叱るを使い分けるとかバカくさ

親は子に叱ってもいいけど怒るなとかい意見

バカじゃねーの?


社会生活をする上ではそんなの区別する必要なんかねーから

そもそも、怒られようが叱られようが、本人にとってそれがヤバい事なのかどうかが問題。

怒りと叱りの区別とやらと教えたがゆえに「あ、これは感情にまかせて怒ってるから無視していいんだな」とか思う人物になると、いつか刺されたりして大怪我する。


叱るほうだって本当にその感情がどこから湧いてきたのかなんか考えてないだろ?例えば、テーブルに乗ったってべつにいいと思う親は「社会的にはテーブルに乗ってはいけないことになっているのにわが子が乗った、だから叱りつけよう」なんて思わない。普通に「テーブルに乗るのはリスキーだぜ」って言うだけだ。これは注意・アドバイスであって叱るのとは違う。テーブルにのった子を叱る親は、親本人が自分の範ちゅう外の行動をされてムカついているからなんだよ。自分のムカつきイラつき怒りを子供に伝えたくて仕方が無い感情を「叱る」って言葉隠れ蓑にしてぶちまけてる。


そういうのがわからないで、もし真面目に「怒るな、叱れ」っていってるのだとしたら、そいつ人間関係が醸す空気が読めないアスペだろ。

あ、ここまで書いて思ったけど「怒るな、叱れ」って声高くいってる人たちって実はそういう人たちだったのかな?

2014-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20140127162413

初診で4錠は多すぎる。

症状が深刻でないのなら、

最初は、ちょっとした精神安定剤くらいに留めて

自己解決できるよう促すくらいでいいと思う。

実際に俺はそれで良くなった。

抗鬱剤眠剤、強い精神安定剤は、社会生活に影響がでる。

深刻な症状で、休職なり退職なりして

治療に専念するならそれでいいのだろうが

仕事を続けるなら過度の薬剤は自殺行為だ。

2014-01-22

anond:20140122202725

人格障碍とか、社会生活に不適合ではあるだろうなぁ。

もちろん、自分も含めて。

増田語録

アスペルガー症候群アスペルガーしょうこうぐん、Asperger Syndrome, AS

は、興味・コミュニケーションについて特異性が認められる広汎性発達障害である

興味の面では、特定の分野については驚異的なまでの集中力と知識を持ち、会話の面では、聞かれたことに対して素直に答える(「空気を読む」などの行為を苦手とする)、といった特徴を持つ。 日本語ではしばしばアスペルガー, アスペとも略して呼ばれる。

各種の診断基準には明記されていないが、総合的なIQ知的障害域でないことが多く「知的障害がない自閉症」として扱われることも多いが、自閉症と言っても決して他者との会話を避けようとするようなものではない。

コミュニケーション障害コミュニケーションしょうがい)

人間に身体的・精神的に不利を強いることとなる欠点が存しており、それを原因として社会などといった対人関係必要とされる場面で十分なコミュニケーションをとることができなくなるという障害。コミュ障と略されることもある。

承認欲求(しょうにんよっきゅう)

とは、他人から認められたいとする感情総称である

人間他者認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情総称承認欲求という。承認欲求は、主に子供や何らかのハンデキャップを抱えている人々などの社会的弱者劣等感に悩んでいる人間、そして情緒不安定な精神病患者パーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向がある。その反対に、自閉症などの他者とのコミュニケーションが難しい、あるいは既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えない。以上の理由から承認欲求先天的な欲求ではなくて、対人関係学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高い。

承認欲求承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。ひとつは他人から認められたいという欲求であり、もうひとつ自分存在理想とする自己像と重なるか、あるいはもっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断することである。前者を他者承認と呼び、後者自己承認と呼ぶ。劣等感の強い人間や、情緒不安定な人間自己承認が困難だったり、あるいはその反対に過大な自己評価をしがちであることは、よく知られている事実である。また、思い込みが強い人間被害妄想に囚われている人間の中には、幻想他者を造り出してしまうために、自分他者承認の問題であると思っていても、実際には自己承認の問題であるという錯誤がしばしば発生する。

また、承認欲求は、どのように認められたいのかという『認められ方』の違いによっても、おおむね3つのタイプに大別される。ひとつは上位承認で、自分が他人よりも優位な関係で認められたいという欲求である。こうした欲求を抱える人間は、極度のナルシストか、あるいは他者に対して強い猜疑心被害妄想を抱えているケースが多い。つまり、他人が信用ならないから他人を支配する存在として振る舞いたいか、あるいは自己を過大に評価した帰結として、自分が他人より優れているのは当然であると考えなければ、上位の存在として認められたいとは思わない。

もうひとつは対等承認で、これは読んで字の如く他人と自分関係平等であることを望む欲求である。これは、「人並みに認められたい」と考える劣等感の持ち主にしばしば見られる欲求である。そして、最後ひとつである下位承認は、自分が他人から蔑まれたい、あるいは吹けば飛ぶような存在だと思って欲しいという欲求で、被虐的な性癖のある人物や、社会的道義的責任を背負いたくないと考える人間、そして他人に依存したい、保護されたいと思っている人間が抱きがちである

承認欲求は以上のように分類可能であるが、現実人間はこれほど単純ではない。たとえば、強い上位承認欲求を持っている人間が、わざとへりくだった態度をとって相手に優越感を持たせ、そのことで他者感情コントロールしよう、といった行動をとるケースは非常に多い。これと類似のケースとして、病人や怪我人であること、あるいは不幸な環境に置かれていることを大げさに吹聴することによって、他人からの同情や歓心を買う(承認される)ケースなどが挙げられる。

2014-01-15

http://anond.hatelabo.jp/20140115152527

お前に雇われてる人はかわいそうだな。

自分がどうやって生きるか”しか考えられない年齢なのかもしれないが、

社会生活って基本的に”他者”のために生きるんだよ。

どうやって人が生きるかなんて耳クソのかけらより価値がない。

誰かの為に何ができているのかをよく考えろ。

http://anond.hatelabo.jp/20140115112701

これは増田たちに言ってるわけではなくて、

いい悪いはあるけどさ、ようするに社会生活ができない子供を大量に産む社会にしてどうするんだよ。

育児現場からは、学力低下が叫ばれるし。テレビでは低学歴ほど素晴らしい!と叫びつづけるし。

 

せめて自活できる子供を増やしてくれ。まっとうに働いている人間として社会負担増は嫌だ。

2014-01-12

http://anond.hatelabo.jp/20140112154340

から?の繋がりがよくわかりませんが、抽象的な誹謗中傷であれば子供でも出来ますよ(^^)

タイプミスも目立ちますし、少し落ち着いて推敲されることをお勧めします。

ガキくせー意見だと言うならそれを示せば良いだけですよ?簡単でしょう。

判断されるんだっつーのという方法も、いるかどうか分からない味方を勝手に作って有利に立つ手法しかありません。

俺の兄貴友達この辺じゃ強いんだからな!お前とかワンパンだよ?と≒です。

こういう事言う人って普段どんな社会生活しているんでしょう。

職場でも同僚や部下の事をこうやって貶すのか、それともなんとか飲み込んでいるのか。

2014-01-11

俺のモヤモヤ解説

http://togetter.com/li/613824

 何故これを読むとモヤモヤするのかを考えました。

『昨晩110番を利用してしまった』だけなら違和感のないこの文章、最後まで読むと、溶けきれずに残った被害者意識が浮かび上がりまくりです。このツイートの主張は「俺は子供を助けようと思ったけど『声かけ事案』のせいでできなかった。俺の良心は困っている。俺はすごく苦しみ抜いた挙げ句、苦渋の選択の果てに110番した」と言うことです。言い換えると「俺はこれだけの犠牲を払って正義を行ったんだ」と言う主張です。そこまで困るなら誰も頼まないと思うのに、良心を理由にして、非常に自分にとって気持ち良い形で傷ついています

 つまり別に頼んでもない自己犠牲を行ったあと、自分が傷ついた理由を気持ちよく演出してるわけです。以下のツイートは「迷子の子が救われないことで心を痛めている俺はなんて可愛そうなんだ」「心配が理解されない俺ってなんて可愛そうなんだ」って思いしか感じられません。

 その場を立ち去ったのは自分の身が心配からしかありません。わざわざ『残念で気がかりではあるがその場を立ち去って帰宅。その子がその後どうなったかは、知らない』と書いたのもまた「俺の良心が可愛そう」アピールでしかありません。

 そして被害者根性弱者アピールに続きます。もちろん、それは自分が気持ちよく傷つくための発言です。

 これらの発言は「こんなリスクが考えられるんだ!」という主張ではありません。と言うかこの人はリスクではなく確定で被ることだと思って書いてます。冷静にリスク分析をするのであればポジティヴな考えも挙がってくるものですが、ここまで一切ネガティヴ意見しか述べていません。最初からダメな方向しか考える気がなく、それは何故かというと、それだけ自分社会で虐げられているのだという弱者アピールによる快感を得たいのが目的になっているからです。

 つまり、次のツイート本音であり要点です。

 「現代日本で傷ついている男の俺ってこんなに可愛そう!!」と主張するネタとして、やたら主語のでかい主張がしたかっただけです。迷子の子供はその主張を行うためのダシにされたわけです。憂いながら傷ついてる風のこのツイートはさぞ気持ちよかっただろうと推測されます。年齢から察するに、全盛期の2chでは男女板の住人だったのでしょう。

 また、ここまでつらつらと自分にとって都合の良い具体例を挙げていたにもかかわらず、オペレータさんの対応については『「あんたの人生なんかどうなっても良いからの子助けてあげなさいよ」的な雰囲気が伝わってきた』としか記述していないのが不自然です。ここは「OPの口調もだんだん投げやりになってきて」みたいな例を挙げて『「あんたの人生なんかどうなっても良いからの子助けてあげなさいよ」的な雰囲気』がどのように伝わってきたかの説明が入るべきですが、具体的にどのような感じであったのかの描写がありません。なぜなら「今の日本社会、男の人生や命って安いんだよね。男女平等とか笑い話だよなあ」と言いたかっただけだからです。

 ここも別のモヤモヤポイントで、この人にとって「某ブログ」がそのまま世界常識全体の真実になっています。これは単に自分にとって都合の良い事象だけを選んでいるに過ぎません。

 そしてこのシメは大嘘です。

 後のこのようなツイートをしています

「祈っていたことの結果」が「余談」になっています。やはり本題は「子供の安否」ではなく「社会的弱者である男の俺は可愛そう」という所です。

あるいは「せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ」であれば「あの子は親の元に戻れて良かった」のようなツイートが見受けられても良いのですが一切ありません。それは「せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ」が飾りであり、結論は「そういう世の中だからなあ。もうどうにもならんよ」であるからです。そして「そういう世の中で生きてる男の俺は良心が発揮できずに可愛そう」という主張を改めて行っているわけです。

 とまぁ、長々と書いて再認識したのですが、俺にとってのモヤモヤの原因は「迷子の子交番に連れて行くのにはこんなにリスクがある!」の皮を被った「現代男性は虐げられている! 俺は可愛そうだ! 俺は良心があったのに社会のせいでそれを実現できずに困っている俺は超可愛そうだ!」と言う気持ちが透けて見えるあたりなのかな、と思いました。

 痴漢冤罪のように、ある種の誤解や悪意が男性にとって著しく不利である事は事実です。また、冷静な判断のできない警察や頭のおかしい人の親が世に存在するのも事実です。ですが、本件についてはそれを恐れたフリをして、ただ単に男性弱者であるという主張をしたいだけだった、という匂いを消せなかったのがまずいと思いました。

 また、リスクという言葉を便利ワードにして、何も信用しないのが良くないです。リスクという言葉を使うのであれば、それを回避する方策も含めて、どうすればよりよい方向に事態を打開していくのかを考えるべきで、本件においてはリスクと言いながら「痴漢冤罪」と「声かけ事案」の悪いところ取りをしたケースを勝手に確定で想定してるだけに過ぎませんでした。

 正解としては「迷子の子を見かけたけど警察に連れてくと面倒なことになりそうだから通報だけしといた」で終わらせるのがベターであり。ベストなのは心の中にしまっておくことです。

2014-01-10

http://anond.hatelabo.jp/20140110061716

ヒトは社会的動物であり、ほぼすべての人がなにかしら他人と関係して生きています。他人と関わろうとするのは生存本能です。

他方で、過去危険体験の繰り返し(もしくは強烈な危機的状況)によって学習する本能もあるわけで、他人が危険だと学習すれば、他人と関わるまいとする学習的行動が起こります。言い換えれば、恐怖です。

そのふたつの背反(アンビバレンツ)、いわゆる葛藤コンフリクト)が、苦しみになります

ちなみに、他人と比べようがないけれど、私の境遇もやはり不幸なもので、産まれる前からずっと他人から危害を加えられてきました。

幸せ」というのは、「して・あわせる」というわけで、つまりは与えられた境遇ですから、「不幸」とは適切な居場所がないということだと思います。「責任感をもたなくていい」だとか「努力しなくていい」だとかは決して言いませんが、同時に、客観的にみたら、不幸だからしかるべき思考行動形態をもってしまうわけですし、ときに他人を殺傷してまで苦境をぶち壊そうとする発作的衝動が現れるのでしょう。「自由意志」「自己責任」を強調する多くの人間は、比較的恵まれていながら、他方で自己肯定感が低くて僻みがあるのでしょう。

ここまで言ったところで何も解決するわけではありませんが。私自身も、虐待イジメパワハラセクハラストーカー被害など各種犯罪被害を受けてきたし、いまでも殺人犯に怯えながら暮らしていますから日常社会生活もままならないし、精神的にも滅入ってしまってかなり重度の精神障害になりましたが。私の死んだ母親も、生前ボロボロで、入退院を繰り返し、多量の投薬でフラフラ意識朦朧とした常況にあって悲惨でしたし。私も母親と似たような道を進んで死ぬのだろうなあという気がしています

2014-01-06

特定私人に対する批判って意味あるのだろうか

オンライン上でもそうでなくても、特定個人に対する批判や、その応酬をしばしばみかけますしかし、その意味が私にはわかりません。

国家機構政治家大企業などに対して批判するのであれば、大きな意味があるのかもしれません。ところが、一介のタダびとに対してちまちまと喧嘩をふっかけることに、なんの意味があるのかわかりません。

べつに、この匿名ダイアリーだけのことではなくて、どこぞの掲示板ブログなどにしてもそうだし、本当に、一般社会生活全般で、いちいちケチをつけあっている場面をよく見かけるわけです。また、私が被害者になったことも数えきれないくらいあるわけですが。

ともかく、それで、なんの意味があるのでしょうか。

私自身も個人としてはさして偉い奴でもなんでもないと思うし、おそらく私自身のみならず、人間一般において、誰しもさして偉い奴でもなんでもないでしょう。

さらに言えばきっと、偉い人ほど、自分自身はさして偉くないと思っている。きっと、ローマ法王だろうが、ダライラマだろうが。

2013-12-24

おおかみこどもの雨と雪 感想

家族物語は常に未完である

1.本作の主題

 大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊事情母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道家族劇であろう、と私は予想していた。

 しかし実際には、冒頭でおおかみおとこ主人公の花が「哲学」の講義きっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である

2.おとぎ話から現実へ?

 13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子もの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。

 しか出産子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本アニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのであるしか医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。

 親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産子育て環境リアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在リアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。

3.本作の根底を貫く3つの近代概念:①選択権としての自由観

 社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会から排除である。雨と雪を隠し続け、医者児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画クライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。

 「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマである。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事ものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たち存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。

 いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマ価値あるものとして社会的に承認されることである黒人女性差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である自分の非自発的なアイデンティティ差別迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。

 「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである

4.本作の根底を貫く3つの近代概念:②家族を壊す個人観

 取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである

 家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会国家世界史へと繋がっていく人倫弁証法スタート地点を家族においている。そして王道的な家族物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマ踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族のものを対自化、対象化しなければならないかである毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。

 しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族現実的な絆も、現実的幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語家族ドラマ王道スタイルである弁証法構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語家族弁証法プロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているかである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。

5.本作の根底を貫く3つの近代概念:③価値放棄する平等

 そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまたからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからであるしかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体肯定的表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体重要価値のあることであり、その選択自体尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等である。これも近代以後の社会には欠かせない重要概念である職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズテイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念のものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間生き方には価値序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんもの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方平等価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者生き方も、高名な僧侶生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである

 このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである人間人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみのPermalink | 記事への反応(2) | 08:36

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2013-12-08

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くそれで社会生活遅れるな。

君が気づいてないだけで周りの人が相当苦労してフォローしてるんだろうな。

俺の周りでも、携帯持たないポリシー、みたいな奴がいたけど周りはすげえ苦労してた。

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