はてなキーワード: 家庭科とは
小学校、あんまり楽しくなかった。別に虐められてたわけではないんだけど。
みんなで国語の教科書順番に音読して(これ時間の無駄感ハンパない)授業は教科書読めば分かるような内容を延々引き伸ばしたような内容でさ。家庭科の調理実習とか理科の実験は楽しかったけど。
クラス替えの度にドキドキして、私はいつもみんなに敬遠されるようなちょっと気の強い女の子に好かれてその子に執着されて、自分から他の子と仲良くなる力も無いからあんまり好きじゃないその子といつも一緒にいた。ひとりぼっちより全然良いけど。
両親と食事に行って、たまたま両親が高校生だったときの話になった(二人は同級生婚なのだ)。母は優等生だったとばかり思っていたのだけど、なぜか家庭科の成績が悪かったそうだ。ちなみに私も同じ高校の後輩なんだけど、家庭科の先生がやたらと極端なフェミニストだったことだけ覚えていて、そんなに極端にひどい成績をつけられた記憶がない。調理実習とかみんなでやる作業が多かったので、特定の生徒に高い成績をつけたり、逆に一部の生徒にわざと低い点をつけたりするのが難しい科目だったと記憶している。
父曰く「キレイとか言われてたから先生に妬まれたんじゃないの?」とのコメント。確かに若い頃の母の写真を見ると美しい。70歳になった今もそんなに悪くはないけど、年齢相応に白髪になり、シミが増えているわりにはお洒落や化粧に手間をかけないので、「若いうちはスッピンでお洒落しなくても通ったかもしれないけど、今は手間かけないとダメだよ」と説教したくなる。
おかげで20代の頃の強烈な容姿コンプレックスを思い出した。ただでさえ周りに可愛い子が多かったうえに、「お母さんは美人なのにお前は…」みたいなことを周りに言われていつもイヤな思いをした。確かに自分と縁もゆかりもない女優やモデルがいくら美しくても、全く自分と血のつながりがないんだからしょうがないけど、自分の半分のDNAは母からもらったものなのに、似ていないとはどういうことだ。どっちかというと父と弟に似ていると言われていたので、父に「お母さんと同じ顔に生まれたかった…」と文句を言ったこともある。父だって、娘がどの程度妻に似るかなんてコントロール不可能なのは分かるけど八つ当たりせずにいられなかった。
もはやオバさんと呼ばれるしかない年齢になっても、たまに小学校時代の友達(母の20代後半から30代前半ぐらいを知っている)と飲むと、「○ちゃん(私のこと)のお母さん、キレイだよね」「今も全然変わらない、すぐに分かる」などと絶賛され、娘の方はさっぱり褒めてもらえない。娘としては若い頃キレイだったのはともかく、さすがに確実に歳をとっていると言いたい。
若い頃は全然親に似ていなくても、歳とともに似てくる…という話も聞くので、それを期待してはいるんだけど、50代とか60代になってから母と同じ顔になってもねぇ…。体型とか雰囲気、声は母に似ているらしく、社会人になってから、私と母を一緒に見る機会のあった人は「○ちゃん(私)とお母さんは似てるよね」という。結局私は父と母のどっちに似てるんだか。ちなみに母の母である母方の祖母もあまり母と似ていない。「あんたはおばあちゃん似なのよ。隔世遺伝」と母に言われたこともある。確かに母よりは祖母の方が似ている気がする。遺伝とは結局何なんだろう。
バレンタインとかいう司祭が恋人のために催しを行ったのが基とされているが、それは作り話だともいわれている。
いずれにしろ、真実があやふやに認識されている歴史というものは、得てして現代を生きる人間によって都合よく変換されることが多い。
歴史修正主義者みたいに思想的ではなく、その日にこじつけて何かを売りたい、資本主義だとか商業主義にあたる人間たちによってだ。
まあ、大局的に見れば経済を回すためだとか、それはそれで考えがあるかもしれないが、俺たちの国でそれがチョコレートである必然性がないことだけは確かだろう。
その日が個人にとって関係があろうとなかろうと、誰も知らないフリができない。
更にガメツイのは、バレンタインデーの約1ヵ月後にホワイトデーなんていう“お返しキャンペーン”まで普及していることだ。
さて、今回の話は、生憎だが甘酸っぱい要素は何一つない。
かといって、チョコを貰えない人間のほろ苦い話というわけでもない。
話はバレンタイデーに遡る。
その日は休日と重なり、俺は家でくつろいでいた。
去年のことを顧みると、これはとても快適なことだ。
俺の学校にはバレンタイデーに家庭科の授業としてチョコを作るという伝統があった。
男女関係なく班で作ったチョコを食べるという、一見すると何とも平和な授業だ。
だが、このタイミングを利用して“個人的に”作る人間も多かった。
恋人のため、想い人のため、ただ友達同士でワイワイやりたいだけ、と目的は様々だ。
そして、そういった人間の中には、ホワイトデーをアテにして無差別にバラまく奴も必ず出てくる。
面倒くさい話だ。
お返しなんてしなくてもいいと思いつつも、そんなのに律儀にお返しする奴が出てくるから、俺も体裁を整えるしかない。
チョコが食えない俺のいる我が家にとっては、2月14日は煮干の日のほうがポピュラーなのだ。
「2月14日は煮干しの日だが、バレンタインでもある。お前はいいのか?」
「なにが?」
「なにって、チョコだよ。外周れば貰える可能性あるんじゃないか?」
弟はバレンタインを学校の行事くらいにしか思っていないようだ。
「そうなの? じゃあ行ってくる!」
まだ、説明は終わっていない。
「貰えるとは言っても、タダではないぞ」
「貰えるのにタダではない、ってどういうこと?」
弟の疑問も尤もなんだが、そういう疑問のために「タダより高いものはない」という諺があるのだ。
「ホワイトデーといってな。バレンタインにチョコを貰ったら、何らかの“お返し”をしなければならない日があるんだよ」
「なんだそりゃ。ギブってのはテイク前提でやるもんじゃないだろ。それじゃプラマイゼロじゃん」
実の所バレンタインには様々な側面があって、安易に価値を推し量ることは難しい。
だが、世間に捉われない自由奔放な弟にそれが理解できるとも思えないので、俺はあえて省略して説明することにした。
「どういうこと?」
「ホワイトデーのお返しは、通説ではバレンタインに貰った物の3倍の価値とされている」
「3倍!?……バレンタインはチョコをあげるほうが得しやすいってこと?」
「そうだ。つまりバレンタインはチョコを貰わないようにしつつ、相手にチョコを押し付けるゲームってことだ」
全くのデタラメを言っているわけではない。
弟が安易にチョコを貰わないよう、遠まわしに釘を刺すための理屈だ。
だが、こういう“全くのデタラメではない”情報のほうが、弟にはかえって害悪だったのかもしれない。
つらつら書いてたら凄く長くなったので時間のある人よければ。私のクズっぷりにイラつくかもしれません。
クソつまらん理由というのは、部活のとある仕事をマジで絶対クソほどやりたくなかったから。以上。ちなみにこの仕事は私が高二の時に廃止になった。ちょっと笑った。
その頃の私は毎日活動のある部活に所属していて、学校に行く=部活に行くだと思っていた。部活のアレをしたくない→部活に行きたくない→学校に行きたくない。我ながら酷いダメ人間だと思う。
母は学校に行かないことにちょっと、いや本当はかなり反対していたのかもしれないが、「もう義務教育じゃないからね」と目を瞑ってくれていた。その代わり引きこもる間は私が家事をしていた。と、言っても洗濯と皿洗いと肉屋のタイムセールに行くくらい。かなり優しく甘い。でも部活が嫌すぎて精神が弱っていた私は否定されなくて安心した。本当にいいお母さんだと思う。
父は良くも悪くも寡黙な人で、私が学校を休んでいて暫く言わなかった。逆にドキドキしてたが、母には「あいつは学校に行かんのか」と相談していたらしい。わたしにも「高校なんて行かなくてもいい。大学で何をどのくらい勉強するかが大事」と言ってくれた。マジで優しい。大学生一年目に全然勉強してなかったら怒られた。二年目は頑張るよ。
最初一週間は風邪なことにしていた。症状が酷いことにして友達からのLINEもみなかったし返さなかった。見放さないでくれた友達全員が聖人過ぎる。きっとこの人たちは長生きするし良いことがある。
一月下旬、部活の仲良しグループのLINE通知を見て思わず既読をつけた。
「今から〇〇の家行くわ」
部活終わりの18:30過ぎの通知。見たのは19:15。お風呂で見た。学校から家までは大体1時間。私は大慌てで髪やら体やらを洗って風呂を出てまたグループを見た。
「マジでいってる?」
1ヶ月弱ぶりの返事に既読は即ついた。四人グループだから既読3。驚いた。
「ちょっと迷ったけどもうすぐ着く」
三人は本当に来た。お風呂上がりで髪の毛も濡れてるし死のうと思ってドアを開ける。学校来いとか部活こいとか言うだろうか。何を言いに来たんだ、どうしてきたんだ。
「あ、なんか思ってたより元気そうでよかった」
三人はそう言って笑って私に次に出る公演のチケットを渡すだけ渡して帰ろうとした。私はとりあえず三人にチョコパイを渡して、慌てて外に出れる格好に着替えて最寄り駅まで送った。
駅までの道で「死んでるかと思ってたー」「なんかこれ青春っぽいね」「お腹すいた」みたいな話をした。私はあーとかうんとか言うばかりだった。混乱してたし。
別れ際に一人が言った。
来たくなったらでいい、来れそうならでいい、とか続けてて私はちょっと笑った。この人たちは今でも仲が良い。本当にいい人達だ。誰も彼氏はいないけど。
でも私は行かなかった。本当バカ。行けよ。
二月。バレンタインの季節だなんて思ってたら担任から二者面談のお誘いが来た。外に出たくないわけではなく、部活に行きたくない、授業に行きたくない、学校の人に会いたくないだけだったので行った。家庭科の先生だったから家庭科室で面談した。
「やっぱり、部活のせい?」
私のいた部活は辞める生徒も毎年何人かいて、まあ厳しい部活だと思われていたのだろう。私は部活が厳しいから辞めるわけじゃないし、そこまでヘタレじゃないし。と謎の意地を張って(しなきゃいけないことがしたくない、つまり部活のせいで学校に来てないわけだけど)「違います」と言った。で、まぁぼんやり考えていたことを担任に言った。転校しようかなと思ってるとか、高卒認定試験受けようかなとか、学校にいく意味がわからなくなったとか。担任もまた良い人で、無理に来いとは言わなかった。「二年生として転校したいなら協力はするから、三学期末テストだけは受けて欲しい」とか「合唱コンの練習を頑張ってるから見に来て欲しい」とか言われた。私は三学期末テストを受けて合唱コンを見にいくことを決めた。
ちなみにこっそり見に行った筈の合唱コンなのにクラス全員に私が行ったことはバレていた。
Twitterの裏垢というのがある。仲良い友達同士だけでフォローし合う身内アカウントだ。そこで「三学期末テスト、受けるだけ受けようと思う」みたいなツイートをした。
クラスの仲良い子から電話が来てびっくりして出た。聖人二人組だった。
「一緒にテスト勉強をしよう」「いつもしてた(定期テスト前はグループ通話をしながら勉強した)みたいにしよう」「範囲は全部教える」私は受けさえすればよかっただけのテストを勉強しはじめた。
テスト一週間前くらいから聖人コンビはほぼ毎晩電話をかけてくれた。内容はほぼ雑談で何を話したかあんまり覚えていない。「一回学校来てみて」「一回きたらするっと復活できるよ」と言われたのは覚えてる。でも学校に関すること本当それだけ。嘘、合唱コンの結果も聞いた。一年生ではトップだった。
その日の朝は死ぬほど嫌で嫌で嫌で嫌で死にたかった。ヒソヒソ話されたら死ぬ。でももうあと3.4日でこの学校とはおさらばだ…四月から二年生として生きるために耐えるしかない…。
そう思っていたけど周りは普通だった。普通にインフル明けの人みたいに接してくれた。元気?とか遅刻してないねとか、覚えてないけど超普通でなんというか拍子抜けした。
次の日もその次の日もテスト最終日まで私は遅刻せずテストを受けたし赤点はなかった。なんなら数学は普通に点数良かった。
テスト最終日、数日後のレクリエーションの球技大会の競技決めをした。私も普通に頭数に入っていたし、私含めた八人グループみんなでドッヂボールにした。学校行ってこの人たちとドッヂボールしてからやめても良いか。
球技大会まで学校に行っててふと気づいた。別に普通だ。学校行って虐められるわけじゃないし普通に楽しいし、多少先輩がいるかもとか気を使うけど超普通。え?じゃあ学校行けば良くね?
学校は辞めなかった。転校もしなかった。
でも部活はやめた。でも家に来てくれた三人は変わらず仲良くしてくれた。
特に盛り上がるところは無かったが私が高校を辞めそうだった時の話はおわり。
話の構成下手ですまん。
とにかく両親と担任、友人五人に支えられて、この人たちのおかげで私は高校二年生になれた。
もちろん高校の人がみんないい人で私を指差して笑う人がいなかった(いたかもしれないけど私は知らない)から二年三年と辞めずに済んだ。
特に友達五人には感謝しても仕切れないしなんていうか意味がわからない。
出会って一年ない他人にここまで尽くせるか? 家まで行ったりテスト範囲教えて一緒に勉強したり、普通に学校戻っても仲良くしてくれたり。
私は高校三年間でたくさんの人にお世話になった。ここであげたのは八人だけど、私はこの八人なら誰の連帯保証人にでもなれる。
(追記)
映画見終わったら上の方にあってびっくりした。読んでくれた人本当にありがとう。
私がいいやつだったかは自分ではわからないけど、本当に周りに恵まれて愛されて育ったんだなって思います。あと連帯保証人はやめます。私の自慢の友達に限ってそんなことはないと思うけどね。
誰かを助けられるような人になるよ、ありがとう。
鍋で炊いたごはんが美味しくて驚いている。
我が家の炊飯器は15年ほど前に数千円で買った3合炊きだ。ごはんの味としてはごく普通で、炊きたてはまあ美味しく食べられるし、高い米を炊けばそりゃ美味しい。
ただ、世の中には上位機種の炊飯器があり、そういうお高い炊飯器で米を炊いたならそれはそれは美味しいはずだ。買い替えるのであれば少し値段が高くても、今よりは良い炊飯器を買おうと思っていた。
そして順当に今の炊飯器も調子が悪くなり、買い替えを検討し始めたのだが、とりあえず間に合わせで家にあった鍋で米を炊いてみた。
鍋で米を炊くのは家庭科の授業以来である。水加減や炊き方を知らなかったのでググって調べた。そして炊きあがったごはんを一口食べて驚いたのである。
…!!これは!すごく美味しい!?
いや、一口食べる前から違いに気がついていた。米がツヤツヤ光ってふっくらしていたからだ。
それにしてもあまりにもいつものごはんと違う。ごはんがこんなに美味しいなんて。
そこでちょっと今混乱している。
◇こんなに美味しいなら炊飯器など要らないのではないか。その高い炊飯器とやらは、これより美味しいごはんが炊けるのか?
◇しかし、この鍋もホームセンターで買った680円の鍋である。鍋炊きにするにしても、もっといい鍋なら更に美味しいごはんが炊けるのか?
◇そもそも、ごはんを美味しいと感じる閾値が低めだったのもある。こんなに感動してしまったら、これを超える感動の美味しさはそうそう感じられないというか区別がつかない気がする。
◇そんなに、今までの炊飯器は酷かったのだろうか。一般的にみてずっと不味いごはんを食べ続けていたのだろうか。比べようがなくわからない。
鍋で炊くごはんがとにかく美味しいものなのか、それとも上位機種の炊飯器はやっぱりスゲエなのか、米専用の鍋で炊くのが至上なのか、全くわからないでいる。おすすめがあれば教えてください。
私の友達に何故か好意を暴力で示す女子がいて、よく気に入った男子にタックルかましてプロレス技をかけたりとかしてたんだけど、彼女は料理がありえん程に上手かった。
普段の言動が半端なくがさつなので料理が上手いとか信じられないけど本当に上手いのである。ちなみに部屋も驚くほど綺麗に片付いているし私服もとてもセンスが良い。家庭科の授業は常にサボって何もしなかったが、実態は生活力の高さパないのだった。
元増田の息子に粘着する女子が私の友人みたいなタイプだったとしたら元増田はどんな反応するんだろうなと、ふと思った。
スペシャルに美味しい手作りケーキだって中に何が入ってるとかちゃんと衛生的に作られたかどうかなんて貰う方には不明である。
私は友人のくれた手作りお菓子を美味しくいただいたけれども、それは何となく友人の事を信用しているからだ。
友人の作ったマドレーヌまた食べたいなぁ。
家庭科の授業で地球温暖化の話があった時に思い付いて、13秒くらいで膨らましただけの話だから、真に受けずに流してくれ
放射性廃棄物も二酸化炭素も人間の手には負えないわけだが、事故が起きた際、局所的に甚大な被害を及ぼす原発よりも、慢性的に地球全体に悪影響を与える二酸化炭素を排出する、火力発電の方がヤバい可能性ない?
温暖化して氷が溶けて永久凍土も溶けてメタンガスだっけ?温室効果ガス更に発散して~ってなるよりは、なかなか事故起きないし二酸化炭素出さない原発の方が、「人間がどうこう」ではなく「地球的にプラス」の可能性がわんちゃんあるのでは?
今後膨大な放射性廃棄物が発生するとしても、その頃に技術が追い付くように研究費を出し研究者を育成すれば、原発と、自然と、地球と共存しながら、滅ぶまで人間は電力を用いながら生きていけるのでは??
放射能によって遺伝子に変異が生まれたとしても、それは生命の進化じゃん????
って思ったりした。
あまり深く考えてないのでへーで流してほしい
家庭科的には「こふきいも」でしょ
テスト勉強は得意だった。部活が試験休みに入ったら定期試験の範囲を試験までの日数で割って勉強計画を立て、1週間計画通りに勉強した。家庭科だって保健体育だってきちんと勉強した。定期試験の成績は良かった。たまに行われる試験範囲の無い実力テストは定期試験より順位が落ちた。いわゆる「大して勉強しなくても頭良いやつ」に負けた。
別に詰め込み教育のせいでこうなった訳ではないと思う。親に勉強しろと言われたことはない。生まれつきの性格がやりたいことをやるよりやるべきことをこなすことに向いていたのだろう。日本の学校が自主性を重んじる教育方針だったら落ちこぼれていたかも。司馬遼太郎の小説で無能な官僚として描かれるタイプ。坂本竜馬とは正反対。
理想、目標が提示され、それが納得できるものであれば、そこへ辿り着く方法は自由に選ばせてほしい。今の職場はそんな自分には向いている。別に仕事自体は楽しくはない。大量の事務をこなすのは結構楽しいんだけど。ストレス無く働ければそれで十分だ。
でも自分の子供には自分のやりたいことを見つけてほしいと思ってる。ストレスは無いけどすごく楽しいわけでもないんだ。自分に似ていたら無理かもしれないけど、希望としては。
昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。
努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味で現代では「積極的に廃止すべき」だとも思う。
ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。
元増田の「人生を左右する受験に必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。
高等学校学習指導要領をスタートにするのは同意してもらえると思う。
そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。
だから、ブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、
それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。
その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。
だって、スプラトゥーンも短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。
オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーンが受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。
スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。
とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。
だから、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。
高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。
そこを無視すると「歴史はイケメンを口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの。
そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。
その観点で学習指導要領を読むと、もうブコメの効能とか的外れも良いトコだよね。
古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律の古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、
古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。
本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって
「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。
そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本で人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。
オレは要らないと思ってるからそれは後述する。
ただなあ、元増田の「古文漢文が人生を左右しかねない学力試験に必須か?」には、オレは反論できる。
元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない」って。
大学受験における入学試験、学力試験な。アレは何を計測しているの?
基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定の学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。
要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。
大学本来の学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?
知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。
「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。
だから、高校の学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学の学力試験で確認するのは、合理性がある。
さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。
保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験をベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。
正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。
古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家の伝統から来た明治の文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。
「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃からの残滓に見える、とも言える。
高い学識と深い教養を持った官僚と学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいまいか、と。
だから、高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。
高等学校卒業認定試験が学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。
(大学入学資格検定の時にはあった家庭科が廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)
高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。
元増田の主張は、「古典(古文・漢文)を受験科目に加えるな」だった。
増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力を試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。
オレの主張は、「古典を学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。
学習指導要領の古典の目標をみても(保健体育や芸術の目標に意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代の高等教育の意義からするとズレがあると思う。
最終的には、芸術や地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。
(論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史を理解するなら地理歴史だろう)
「法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領を改定するところからだろうと。
そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、
入試程度の古典の知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。
漢文の問題で法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。
もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないものが高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。
現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験を突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本でしか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)
ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?
今年ももうすぐセンター試験だ。何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。
おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。そもそも「古文・漢文」という"学問"が、根本的に無意味だと立証するだけの道具はない。大学で専門的に研究している人たちにとって、古文・漢文はどこまでも「面白くて」「魅力がある」のも理解できる。「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。多少なりとも共感能力と良心があるんだったら、文学部不要論とか言ってないで税金投入しろよ、って思う。
ようするに言いたいのは、ここでの古文・漢文不要論と、大学での文学部不要論は全くことなる議論だってこと。
「大学受験には選択科目があるのだから、嫌ならやるな」っていう反論があるだろうか。話にならない。嫌でもやらなきゃいけない構造について問題にしているんだ。
たとえば、法律に興味があって、東大を出て弁護士になりたい高校生がいたとする。彼らは必死こいて下二段活用やらレ点を覚えて、受験に挑む。受かったら数週間で綺麗さっぱり忘れて生涯思い出すこともないだろう。まぁ、百歩譲ってそれはいいよ。でも、落ちたらどうする? 他の科目は合格点に達していたのに、ただ古文・漢文ができなかったせいで、落ちたらどうする? 本当に法律が好きで、法律について学びたくて、東大に行こうとしたのに、全く関係ない「古文・漢文」のせいで行けない。一流の弁護士になって、社会に貢献したかもしれない。彼の可能性を、人生をダメにしてまで、「古文・漢文」は受験科目として”必要”だと言うのか。英語や数学で落ちたんなら、まだ分かるよ。しょうがない、浪人して一年頑張ろう、って気持ちになれるだろうよ。でもさ、「古文・漢文」なんて死んだ言語で18歳の人生を左右すんなよ。元カレが忘れられなくて新しい恋に進めない女子かよ。国家レベルで失恋引きずるな。
こういうことを言うとすぐに保守的な人たちが湧いてきて「日本文化ガー」「伝統としての教養ガー」と言い出すが、まぁ、たしかに分からなくもない。「色んな学問に触れる機会を与える」のは大切なことだ。色んな文化に触れるのは、良いことさ。おれは別に面白いとは思わなかったが、漢文に出会い興味を持った学生が古典研究者の道に進むことだってあるだろう。そういう"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない。
そ れ を 受 験 科 目 に す る な 。
「古文・漢文」を教えるな、とは言わない。ただ、それなら道徳とか家庭科の授業と同じ括りにしろ。「古文・漢文」に学生の人生を左右させるな。
あるいは、受験の時点で就職活動が始まっているのかもしれない。どう考えても意味のないタスク、心からやりたくないようなタスクをそつなくこなせる人材を、大学側が要求しているのだ。はっきり言うが、愚直にも「古文・漢文」をせっせと暗記してきた連中は、生涯奴隷だ。
それでも、それでも、それでも、
やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。
[追記]
「古文・漢文」という学問が根本的に無意味だって言ってるわけじゃない。受験で必須にする必要はないだろ、って話ですよ。
はっきりと書いたつもりなんだけど、伝わらないかな。もうちょっと現代文教育に力を入れたほうがいい。
→例えが悪かったかもしれないが、法律を学ぶのに必要なら大学入ってから教えればいい。大学受験という選抜の場で、有能無能を仕分ける基準にするなって話。
「反論を聞く気がなさそう」
→聞きます。
→これに関してはある程度の偏見を認めるが、少なくともおれは使っている。それはともかく、ここでは「古文・漢文」が受験科目として必要かどうかの話しかしていない。「いらないって言い出したらきりがない」だから「古文・漢文」は「いる」ってことか? 論点をすり替えるな。
→身につけたほうがいい教養なんていくらでもあるっての。ただ、全国の中学生高校生全員にやらせて、受験で競わせるほどの”必然性"があるのか、って話。何度も繰り返すが、興味ある人にやらせるぐらいでいい。教養だとしても、大学で教えればいい。おまえら、「教養はいいもの、いいものはいる!」程度としか思ってないだろ。そういう考え方が構造的、社会的に押し付けられてて、内在化していることを自覚しろ。
義務教育の家庭科の時間で人生の予定を書かされたし、いつかはするもんなんだろうとぼんやりと思っていた。
今までの人生で刷り込まれてきた「結婚は善(未婚は悪)」みたいな感覚もなんとなくある。
ただ、何のためにするのか?したくなったとしてどうやったらできるのか?
まるでわからない。
自分はヘテロの男性だと自覚してるし人並みには性欲もあると思うけど、結婚して伴侶となってもらった女性に自分の子を産んでもらって、それで何になるのか?
義務教育の中で伴侶となる人のつくりかたは教えてくれなかったし、結婚から出産、もしもの時の離婚までをチュートリアルで体験させてくれた訳でもない。
街行く人に「俺の子供を産んでくれ!」とでも言えばいいのか?
次女が入園予定の園(長女が通っている)は、袋ものなどの寸法を細かく指定して来るものの、手作りをするように強要してくる事はない。子供達の持ち物が手作りか既製品かなんて一々チェックしていない。たぶん9割くらいの子供達の持ち物は既製品だと思う。手作りを持たせるのはよほど手芸好きの親だけだ。
という事を私は長女が入園するまで知らなかったので、くそ真面目にミシンを入手するところから始めて必要品を無駄に手作りしてしまった。それまでずっと、手芸なんか高校の家庭科以来していなかったのに。でもそれが切っ掛けで手芸が好きになったからまあいいのかな。
時々、園道具手作りで他人にマウントをする人がいる。私はそういうの苦手だしマウント取る人だと思われるのも嫌なので、自分も手作りで園道具を用意する人間だという事は黙っている。
けれどもよく見ている人っているもので、うちの長女の持ち物を指差してこれって手作りですよね?って言って来る人がいる。
大概お世辞言われるくらいだけれども、時々、どうしてこんな無駄な事をするのか?と面と向かって言って来る人がいる。
こんなもん作るよりも買った方が安いし時間も無駄にならないとかなんとか。何処其処には良いグッズが売られてるからそこで買ったら?とかなんとか。
そうですか。
と流したらキレられた。
「だーかーらー、こんな無駄な事に金と時間をかけるよりももっと良い方法があるじゃないですか?私はそうしてるんですよ!」
そうですか。したいんならすれば良いじゃん?私には関係無いけど。……などとめっちゃ思ったけどさすがにそれは言ったらヤバイだろうと思ったので言わなかった。何も言わなかった。
よく分かんないけど、無駄な努力しないでスタイリッシュに生きてる自分を称賛されたかったのかもわからんけど、私には関係無いしそんな事で一々絡んで来られるのくそ迷惑だからほっといて欲しい。
私としても用品を手作りする事にはあまりメリットは無いと思う。強いて言うなら、全部同じ柄の布で作ると、自分の名前が読めない年少さんには柄で自分の物だって分かるので良い。でもまぁそれなら一式セットになってる製品を購入すれば良いだけのことではある。
まだ長女が一歳半の頃だった。子育て支援センターで、3歳くらいの、見知らぬ女の子から話かけられた。
「これ、うちのユウくんもおんなじのもってるよー?」
女の子はうちの長女の持っていたおむつポーチを指してそう言った。おむつポーチは、ベネッセのアンケートに答えるともれなく貰える景品だった。ポーチの側面には長女の名前がちゃんと書いてあった。
「そうなんだ?」
私が言うと、女の子は
「うん、これユウくんのとおんなじー。きょうはユウくんこれもってきてないのに、なんでこのこがもっているんだろう」
と言って、どこかへ言ってしまった。
しばらくして、私がほんの一瞬長女から目を離した時、二人の幼児の金切り声がし、驚いて振り返ると長女が先程の女の子と取っ組み合いをしていた。長女はすぐに突き飛ばされて転び、わんわん泣き出した。女の子は長女の手からおむつポーチをむしり取り抱えて逃げて行った。が、すぐに女の子はお母さんに取り押さえられた。
女の子のお母さんは泣きそうな顔で謝り、おむつポーチを返してくれた。
「だから、ユウくんのは今日は持ってきていないって、さっきお母さん言ったでしょ!ほら、ここにおともだちの名前が書いてあるよ、ユウくんのと違うよ!」
「だってぇ、それユウくんのだよ!ユウくんのとおんなじ!このこがユウくんのとったからとりかえしたのに、なんでおこるの!?これユウくんのなのに、ぜったいユウくんのなのにー!」
女の子はしゃくり上げながら言った。また長女のおむつポーチの名前を見せて、中身も違うのを確認してもらったけれども、それでも女の子は納得しなかった。
女の子のお母さんには何度も何度も謝られた。