はてなキーワード: 家庭科とは
高校 教科 で検索したら一番上にでてきたこれを見ながら与太話をしていきます。 http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/gakkou/koukou/gakkodukuri/guide/nyugaku/0144.html
実用性があるということにについては当然なのだけど、もうちょっと日本語文法とかについて講義したほうがいいんじゃないかとか思う。
まったくよく知らんのでテキトウに検索して調べた。 http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/kokuhyou/
俺の時こんな教科なかったような、、、 なんか実用しか考えてない感じですね
文学鑑賞。石原千秋が昔こういう教科は道徳教育であって右翼の陰謀みたいなこと言ってて面白かった。右翼は右翼で逆のことを言っているであろう。
どうも古文は文学に寄りすぎだし、漢文は漢代ぐらいのが多すぎだし実用性という観点ではどうなんでしょうか。武士の祐筆が書いた行政文書とか、宋のころの漢文とかそういうもうちょっと現代社会に通じるような内容をある程度扱ってもいいんじゃないかとずっと思ってる。結局中学高校の授業時間程度じゃ何やるにせよ全然足りないのかもしれませんが。
外人と話をしたりするためには必須の知識だろうと思う。中央アジア史や太平洋島嶼史とかが完全に無視されていて気に食わない。
知らないと話にならない。
この教科の実用性云々というか日本思想というのがこの教科でせいぜい西田幾多郎、和辻哲郎、柳田国男ぐらいしか扱われないことを日本人はよくかんがえたほうがいいのだと思う。西洋思想に触れるまで高校生に教えるに値しない思想を日本人は何一つ作り出すことが出来なかったということが明らかになっている。しかしいずれにせよ実際には日本人は日本思想によって生きているので、結果としてこの教科は実用性に欠けるものになっているのだと思います。
https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/math1/
なんかどれもよく使うやつっぽい。サインコサインとかいらんみたいなこと言う人にはゲーム作る時に丸かいたりするのによく使うよって一言いえばいいと思っている。
https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/math2/
複素数とか何に使うんだよこんなもんとか思ってたらロボット遊びしはじめたらすぐ使うようになった。
https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/math3/
これ III とかいって切り出す必要あるのか? 1 や 2 に混ぜとけばいいのでは、、、
https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/matha/
実用的っぽい。
https://www.benesse.jp/teikitest/kou/math/mathb
高校の体育の授業クソだったなあ。この辺教師との相性問題っぽい感じ。
実用的。
実用的。
校長「来年から君にメイクの授業をしてもらいたいと思っている。教えられる人がいないので独学になるが頑張ってほしい」
教員「私は男ですしメイクなんてやったことがありません。家庭科の先生に頼んでもらえませんか?」
校長「もう頼んだんだが…家庭科と保健・体育を兼任してもう手一杯だそうだ。それにもう50歳なので若い子のメイクは知らないということだ」
教員「……」
校長「新任・非常勤も考えたのだがどこも人手不足で人員が確保できなかった。君は教師で唯一の20代だ。君しかいないんだ」
教員「……わかりました……」
一ヶ月後
教員「校長、メイクの授業ですが、男子にもやらせましょう。世の中は男女平等に動いています」
校長「そう言ってくれると助かる。実は男子の武道の教員が確保できていなくて困っていたんだ」
保護者A「うちの子が友達と女装してたんですけどどういう教育しているんですか!」
保護者B「うちの子も女子用の服しか着なくなった!下着もですよ!」
保護者C「メイクの授業やる前はこんな事言わなかったんですよ!どうしてくれるんですか!」
保護者D「この女装ユーチューバーってメイクの先生ですよね?なんでこんな人にやらせてるんですか?女の先生はいないんですか!?」
再投稿です。
そして人の愛し方が分からない。
親からも誰からも愛されたことがない人間なのだから仕方がないのかもしれない。
そもそも、私が、性同一性障害で他者から恋愛対象として見られず、また、女性に惹かれることが多いため、女性として過ごしてる私は、出会いがないからなのか。
私が発達障害やBPDの症状を軽度ながら持っていることがいけないのか。
死ねば楽になるのかな?
助けて欲しい。
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以下は、乱文であるが、私の過去を書かずにはいられなくなったので、ここに書こうと思う。(多少のフィクションは含んでいるが。)
日常生活は女性として暮らしていて、初対面の人と話したり、ショッピングや空港等で元男性と見抜かれることはほぼ無く、また容姿もそこそこいい方であるという自負はある。(ガタイが無駄にいいのはコンプレックスだが。)
幼稚園児のときに母と父が離婚した。その時の母と父の喧嘩を記憶していて、私にとっての一緒に暮らしていたこのろの父親像は母親に向かって怒りをぶつけているところと、仕事で疲れて寝ているところしか残っていない。そして、離婚後、親権は母親に移った。
そして、仕事に一辺倒になった母からは面倒を見てもらえず、妹と共に子供会の保護者と祖母に面倒を見てもらっていた。
祖母は優しい人ではあるものの、愛情表現をする人ではなく、また同じ家にいたわけではないので一緒にいる時間は限られいた。
私はこの頃、植物に興味があり図鑑をよく読み漁っていた。また、ピーターラビットシリーズを好んでいたことを記憶している。
小学生に上がったとき、ピアニカの色やランドセルの色が"私の望む色"出なかったことを記憶していている。
小学生2年生になると強迫性障害の症状を起こすようになった。ともかく、家の外のすべての物が不潔に思えた。1度病院に連れて行かれた記憶がある。幸い、小2のうちにだいぶ良くなり日常生活に支障をきたさないレベルには回復した。ただし、潔癖症自体は中学生くらいまで強い意識が残った。
また、この頃から学校でオカマとヤジされることが増え、友人は決して多いとは言える状況にはなかった。
この頃でも父親とは電話を通して時々話しており、またたまに合うことがあった。(よく上野の国立科学博物館と鉄博に連れて行ってもらった。)
ただ、一度、ファインディング・ニモに連れて行ってもらった。はじめての映画館で見た映画だったのだか、個人的に楽しめなく、父はそれに対して非常に怒っていたのを記憶している。
また、この頃から母親と父親の間で伝言を伝えるような役割となり、お互いの悪口を聞かされ、また経済状況についてと揉め事を聞く立場となっていった。
相手は子供が3人いたが1人はインフルで亡くなっていた。(ただし、継父に親権はなく未だに継姉・兄と顔を合わせたことはない。)
母はTVを厳しく時間を決める人であったが、継父はそうではなくよく妹や従姉妹にテレビを見せていた。それについて、母親と揉めることが多く、私がママっ子であったため母親側についた事により、私は継父から見せてもらえなくなり、次第に顔を合わせるだけで睨まれるようになった。
小4になると母と継父の間に子供が生まれ、何もしない継父と仕事しかしない母の代わりに祖母と私と妹がよく面倒を見ていた。
そして、この頃から、継父と私の関係は更に険悪になり、私が継父から身を隠すように家で過ごすようになった。
幼稚園児のころから高いところから飛び降りたらどうなるのだろう、という気持ちはあったものの、この頃には明確に死にたい、という気持ちがあった。
また、夢の中で継父を刺し殺す・絞め殺す夢を見るようになるようになった。(この夢は大学生1年の頃あたりまで続いた。)
小5になると母親の仕事が軌道に乗り始め、経済状況は一気に良くなるが、継父との関係は最悪になり、一度私が勉強机の下に逃げたところを継父に顔を蹴り飛ばされたことがあった。(ここらへんの記憶は曖昧で正確な時期を覚えてない)
また、私は元々書物を読む子供であったが、学校で男子からはオカマや(容姿を指して)キツネと呼ばれ、女子からは女子の中心グループと犬猿の仲だったため、更に書物を読み漁るようになった。(ハリーポッターを1日の放課後で2冊を読みきる勢いだった。)
小6では学校はだいぶ落ち着いてきたもの、継父との関係は相変わらずだった。
また、妹もこの頃から継父との関係が悪化してきており、不登校気味となっていった。
中学では寮生の少人数の学校に入った。これにより、家族とも同級生とも離れることができ、私にとっての人生の転換点てなった出来事であると思う。
ただ、男子は野球部に、女子はバレー部に強制的に入部であり、内心でバレー部に入りたいと思っていたが、叶わぬ願いであった。(幸い丸坊主は避けれた。)
中2になると寮の中で私が最年長となったためリーダーシップを取ることとなった。
完璧主義だったため自他ともに厳しく、今では後輩にもっと優しく接すればよかったなと感じる。
中3では男子として野球することが嫌で地元の中学に戻り、そこで小学校の時の数少ない友人と家庭科部をしていた。
またそれ以外については受験勉強をする日々であった。受験に関してはもともと勉強はできていた為もあってか、地域の公立高校の2番めに良いところに合格できた。
家での生活はこの頃、継父は単身赴任であったため、実家が一番平和な時期となっていた。(また、妹も私のいた寮にはいった。)
寮で過ごしたことにより、色路学べたおかげもあってか、継父と小学校の時ほどは酷い関係ではなく、お互いに最低限以外の会話をする程度にはなっていた。
高1では理系クラスであったため、いわゆるオタクが多く、私にとって天国のような環境であった。また、寮の時の後輩と文通をよくしていた。(寮は電話・メールは基本禁止だったため。)
また、中学生の頃から留学に興味があり、そのための準備をし始めた。
高2,3ともそれなりに優秀な成績で学校生活も楽しめたが、学校が福音派の学校でありLGBTに対して差別を行うというほどではないものの、聖書を引用して厳しい態度をとったこと、食事が不味いこと、男子寮で生活すること(アメリカで大学では基本寮生活)にストレスを感じ、アメリカの大学を受験はしなかった。
進路は迷ったものの帰国した年度中に大学の工学部に合格しそこに入学することとなった。(親元にいたくなかったので実家から通えない距離の大学のみ受験した。)
大学の学業については、アメリカの授業の進度が遅く苦労はしたものの、なんとかついていくことができそこそこの成績を収めることができた。
ただ、1年目に男子寮に入ることとなり、それで精神を病み、このままでは学業に支障が出たり自殺しかねないという事で、精神科(ジェンダークリニック)を尋ねた。
また、この頃に同じ性同一性障害の彼女が遠距離であるができた。(ただし、どちらかというと共依存のほうが近い関係であったと思う。)
B2になるとアパートぐらしに移り、またホルモン注射をするようになったため、見た目も女性的になりつつあったため、精神的に非常に安定するようになった。
学業についても学科の上位1割に入っており、勉強の遅れを鑑みれば非常に良い結果出会ったと思う。
ただ、この頃に彼女との関係が共依存に近いものであったこともあり、それが崩壊し分かれることとなった。
大学3年生の現在、自己の労働力や頭脳以外の"人間としての価値"を自分自身で見出だせなくなってしまった。
他大の友人との交流もあり、より良い環境の院に行きたいし、自分のやりたい研究・仕事もある。けど、それ以外の人間的な将来について何も想像ができないし、強い希望を持つことができない。
自分自身の事なのに自分だけではにもできない事でつっかかかってしまった。
来年までに戸籍の変更もできるだろう。だいぶ恵まれている方だ。
けど、戸籍を変更したら私は結婚という選択肢を捨てることとなる。(そもそもパートナーなぞできないが)
変更しなければ就活で奇異の目で見られ苦労し、キャリアに影響が出るだろう。
なのにどうしたらいいのか分からない。
ホルモンバランスの崩れのせいもあるのだろうが、また自殺願望が湧いてきてしまう。
薬物への知識も多少あるため合法な乱用の仕方も知っている。そこに逃げてしまう可能性が否定しきれない自分が怖い。
精神科・心療内科に行ったところで薬が出るだけだろう。それで一体何になる。
どうしたらいいのか。
助けて欲しい。
あとは任せた
家庭科の授業でそんなとこまでやらねぇよ…
4月に新卒で働き始めてから「なんかおかしいな」と思っていたけど、さっきトイレ休憩しているときに確信した。
いや、いきなり言われても意味わかんねえよって思うかもしれないけど、世間では「会社と学校は違うもの」って認識があるよね?
「そんなんじゃ社会に通用しないぞ」なんて常套句もそれが前提にあるわけじゃない?
おれも会社≠学校だと思っていたわけよ。自立した大人たちがビジネス・スキルで火花を散らす戦場みたいなイメージ。
でも、実際会社に入ってみると何かおかしい……。というか、イメージと違い過ぎるわ。
例えば、センパイが「ビジネスマナーとは」みたいなことタメ口で説教してくるわけ。
同期同士で集まって「飲み会行こーぜ」とかやっているわけ。
いやいや、学校かよ。同学年で遊んでカラオケ行ってって、かなり学校だろ!
それで上司に呼び出されたかと思ったら「増田くんが席に立っている時間が長いんじゃないかって言われてね……」とか言い出すのよ。
社長が朝礼に出てきて「礼儀とは……」とか喋ったりしているわけ。
「年度末まで××を達成しなきゃいけないから、今の時期は△△に集中だ」
受験勉強かよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
「AさんとBさんって付き合っているらしいよ」
興味ねえよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
なんというか大学以前に退化している。毎日同じメンバーで集まって「みんなで●●をやるぞ、協調力が大事だ」って家庭科の実習ですかい? なんか裏切られた気分。会社ってぜんぜん会社じゃねえぜ!
原田マハさんの「生きるぼくら」を読み始めた。主人公は、高校でいじめられて中退して引きこもりになった24歳。
その、いじめの話を読んでいると、自分が中学時代に受けていたいじめを思い出して、気分が沈んで黒い気持ちになってきたので書き出してみることにした。
読んでも教訓はないし、得るものもないことだけ注記しておく。
自分は、地方の市街地にある公立中学校に通っていた。そこで、クラスメイト2人からいじめられたのだった。
1人は、近所の、小学校からの遊び友達で、粗野な面もありつつ話も発想もおもしろく、遊びを発明したりとクラスの中心人物。もてていたと思う。スポーツ推薦で私立高校に進んだけれど怪我をして中退した。高校以降は部活の試合などで数回しか会っていない。
ペーパーテストはできなかったけれど、いまでも、頭のよさや自信を尊敬している。中学校ではいっしょに登校していて、登校中にお菓子をわけてくれるのが楽しみだった。
もう1人は、サッカー部の肩幅の大きい人間。愛嬌があっておもしろい人間だった。いじめ問題が解決した1年くらい後の出来事ではあるけれど、一番印象に残っているのは、家庭科の性教育の班発表で避妊についてコンドームの実物をくばったりしたこと。そのときに彼が言っていた、コンドームは失敗する可能性も少なくないから、コンドームをつかってかつ外で射精することが重要、と言っていた教えはいまでも記憶にある。
彼らからは、直接打撃的ないじめを受けたわけではない。恐喝されたわけでもない。言葉ではなにか言われたかもしれないけれど、人格を否定するほどではなかった気もする。「生きるぼくら」で主人公が受けていた体に見えないところに暴行されたり、母の弁当をぶちまけられたりというほどではない。
一番、くやしかったのは、羽交い絞めにされて学ランのズボンに、黒板消しをなすりつけられたこと、何度かあった気がする。柔道技をかけられて、力の差でなにもできなかったこともある。ほかのことはあまり記憶が明瞭ではない。
悔しさか悲しさか情けなさかで泣いていたのを覚えている。殺意めいたものも感じていたと思う。
いじめ自体は、親や先生が動いて、わりとすぐに収束した。今思うと、相手の家に乗り込んだ父はほんとすごかったし、母には心配をかけたし、先生も相手と1対1で話し合いをしてくれてちゃんとしていた。
いじめがあったことがどう親や先生に伝わったかは、そのころまったく気にできなかった。自分が30歳近くになったころ、母が地元の印鑑屋さんで自分の実印をつくってくれたのだけれど、そこの印鑑屋の息子が自分の同級生で、先生にいじめが起きていることを伝えてくれたということを聞いた。そのころは自分の殻に閉じこもっていたのか、彼の名前や顔も思い出せなくて、申し訳なく思っている。ほんとうに感謝しています。地元に住むことはなさそうだけれど友だちになりたい。
いま、冷静に考えると、いじめ自体もなよなよしていて腹立たしい自分に対するちょっかいがエスカレートしたもので悪意はなく(だからこそいじめはやっかいではある)、自分に人格が確立されていれば言葉で跳ね返せた、とは思うのだけれど、難しい。積極的に近寄りたいとは思わないけれど、恨んではいないし、いまならあの頃はいろいろあったね、と話ができる気もする。たぶんだけれど、2人とも、このあとはいじめを止める側に回っている気がする。
そして、冒頭で黒い気持ちになったというのは、いじめられたことそのものではなく、いまもサッカー部の彼に対して抱いてしまう暴力の衝動。
太ももにシャープペンを突き刺して、二度とサッカーできないようにするところを想像したり。事故とみせかけて階段でもたれこんで突き落とすのを考えてしまったりしてしまう。いじめられた当時から同じことを考えていたのか、そのあと繰り返し想像して強くなっているのかは混同してわからないけれど、10年たった今でも、いじめを想起するたびにこれらの暴力的な衝動をイメージしてしまう。そして、そうすることで心を慰めてしまっている自分を発見して暗い気分になる。いつか克服できるだろうか。
でも、もうすこしいじめが続いていたら、そういう想像を実現させていたと思う。そして、相手も自分も破滅していただろう。
行動に移すまえに、いじめを止めてくれた親や先生、名前も忘れた友人に感謝している。いじめた相手には複雑な気持ちを持っているけれど、どこかで幸せに生活していてほしい。自分はこれからもその衝動を抱いて生きるだろうけれど、行動には移さないと思う。