2024-10-10

小説 階伯(かいはく) つづき 最後

現代日本――暗い謎に包まれた死

秋の静けさが漂う東京一角で、異様な緊張が走った。歴史学者宮内敬一と考古学者、佐伯真一の変死体発見されたのだ。二人は、かつて共に百済本紀存在を追い、その謎を解き明かそうとしていたが、彼らの研究は突如として闇に葬られた。

警察による初動捜査は、外部から侵入の形跡がなく、殺人であることを示す証拠ほとんど見つからなかった。二人の遺体には目立った外傷もなく、死因は心不全とされたが、その背後には疑念が残された。まるで何かを隠蔽するかのように、彼らの死は「自然死」として処理されることとなった。

宮内佐伯が追い続けていた「百済本紀」は、二人の死と共に消え去り、今やその存在すらも「無いもの」とされた。学術的に重要であったはずの資料も、調査使用されていたすべての記録は抹消され、百済本紀存在証明するものは、どこにも残されていなかった。

不明犯人、隠された真実

「なぜ二人は殺されたのか?」

その疑問は、学界のごく一部で囁かれるだけであり、公にはまったく注目されることはなかった。二人の研究は、韓国日本学術界ではタブー視され、まるで百済本紀という存在のものが、二人の死を消し去るかのように扱われた。

宮内佐伯が見つけた百済本紀――それは、朝鮮半島南部がかつて倭人支配下にあったことを証明する決定的な証拠だったかもしれない。しかし、その真実は深く闇に葬られ、二人の死によって全てが消えた。そして、世間は彼らの死を追うことなく、ただ静かに時が過ぎていった。

韓国学会での「再解釈」――前方後円墳否定

その後、韓国学術界では新たな説が次第に台頭し、支配的な理論となっていった。朝鮮半島南部に点在する「前方後円墳」――それは、かつて日本との関係を示す重要遺跡と考えられていたものだったが、韓国考古学者たちによって「方墳の誤解」だという新説が唱えられ、広く支持されるようになった。

「これは、単に方墳が重なり合って造営されたものに過ぎない。倭人の影響を示すものではない」とする学説一般化し、朝鮮半島南部における日本との関係性は次第に曖昧ものとされた。

韓国メディア教育機関でもこの説が広まり前方後円墳日本由来であるという主張は「誤り」であるとされるようになった。この新しい歴史認識は、韓国社会において広く受け入れられ、かつての日本との関係を強調する要素は薄れていった。

そして、その流れはやがて日本にも影響を及ぼす。

日本の「謝罪国家」への回帰

日本国内でも、宮内佐伯の死後、百済本紀にまつわる話は完全に封印され、朝鮮半島に関する歴史的議論は一切なされなくなった。むしろ日本は再び「謝罪するだけの国」としての立場を強化し始める。歴史問題については、韓国や他の近隣諸国に対して従属的姿勢を示し、過去の過ちを認める方向へと舵を切っていった。

朝鮮半島における日本歴史的な関与については、批判的な論調が強まり過去征服や影響についての議論は「日本侵略」という一面的見方統一されていった。日本国内でも、戦前の行いに対する反省謝罪が繰り返され、歴史認識をめぐる議論は沈静化した。

百済本紀に関する研究は「なかったこと」とされ、二人の学者が追い続けた真実は、学会の表舞台から消えてしまった。

しかし、完全に消えたわけではない

宮内佐伯が命をかけて追い求めた「百済本紀」は、表向きには消え去った。しかし、その存在が完全に忘れ去られることはなかった。わずかながらも、彼らの研究に触れたごく一部の者たちが、裏でその真実を守り続けようとしていた。

日本国内の地下の一部では、失われた資料の断片を手に入れようとする者たちが密かに動き始めていた。彼らは、百済本紀が消えた理由を探る中で、政府国際的な影響力を持つ陰謀存在を疑い始めた。そして、宮内佐伯の死が、単なる偶然ではなく、何らかの計画的犯行であった可能性が高まっていると考えていた。

この裏で動く影たちは、「なぜ彼らは殺されたのか?」という疑問に取り憑かれていた。

彼らの手に渡る断片的な資料は、百済本紀に書かれていた可能性のある、朝鮮半島南部倭人――つまり日本人の支配下にあった事実示唆するものだった。もしその真実が公にされれば、日韓関係さらには東アジア全体の歴史認識根本から揺るがされるだろう。しかし、誰かがそれを望まなかった。

前方後円墳倭人の影響を示すものだと証明されれば、朝鮮半島南部日本故郷だと認識される。だが、それは今の世界秩序にとってあまり危険真実なのかもしれない…」

彼らの声は、闇の中で囁かれるのみだった。

終わりなき探求

宮内佐伯の死の真相は今も解明されていない。百済本紀は闇に葬られ、朝鮮半島南部前方後円墳はただの方墳として再解釈され、失われた倭人故郷は再び歴史深淵に埋もれてしまった。

だが、どこかでその真実を求め続ける者たちがいる。彼らは、いつか再び歴史の光の中に百済本紀を取り戻し、宮内佐伯の死の意味を解き明かそうとするだろう。

だがその日はまだ、遠い未来の話だった。

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