はてなキーワード: 求めないとは
子供嫌いのことで思うこと。
お互いに不寛容のままでいきませんか。
子供嫌いの言い分、というのがtwitterで投稿され、今は消されたようですが賛同や批判が多くされたのですが。
あの投稿は悪いことでしょうか。 あの内容は社会悪などと言われなければいけないことでしょうか。
自分もうるさい子供は嫌いです。 子供に対する気持ちは嫌い一辺倒ではないですが、それでも子供嫌いだと思います。
自分も、子供は思い通りにならないもの、注意をしても聞くものではない、何かを言えばそれがトリガーになり更にうるさくなる、というのは知ってはいます。 が、そういう事実とは別に「そうであってくれればいいのに」とは思います。 絶対に対策をしろとは言いませんしどうしようもないものでしょうが、それでもそうあって欲しいと思ってしまいます。
思ってしまうことはいけないでしょうか。 そう思うことを表明することは悪でしょうか。
どうしようもないから、そういうものだから、でもうるさいものはうるさいです。
それでも多くは、わざわざ文句を言ったりしないし、漫画家さんが描いた温かい電車内の空気みたいに道を空けることもしますし、子供連れに席を譲ることだってするでしょう。 困っているのを見れば助けになろうとすることもあります。 全員が全員子供が好きな人がやってるわけではなくて、子供嫌いの人間だってやってます。 自分もそうです。
内心で思うことを表明するだけでまるで犯罪者のような糾弾を受けねばいけませんか。 世の中が子供連れに冷たいんだということを表明することは良くて、子供嫌いが自分の思うことを発表するのがいけないことですか。
あなたの子供です。 あなたの家庭の問題です。 こちらには関係ありません。
うるさい子供が気にならない人もいるでしょうが、あなたは気にならないかも知れませんがこちらは気になるのです。 子供は制御できないことを想像しろと言うなら、あなたも子供がうるさいことが我慢ならない人間の気持ちを想像してください。
思うことを表明することまで我慢しなければいけませんか。 どんな事情があれうるさいことには違いがないことを我慢しているのに、更に我慢しなければいけませんか。
そこまでする義理はないでしょう。 なんの関係もないのだから。 お互いに。
子供連れのみなさんがあの投稿に寛容になれないように、子供嫌いがうるさい子供に寛容になる必要もないでしょう。 黙らせなければどうこうするとか書いてあるわけでもないあの投稿にそこまで文句を言われるのは、自分も子供嫌いである身としては辟易します。
わざわざ怒鳴り散らしに行くようなことはしません、でもうるさいと思えば不機嫌そうな顔でそちらを見ることもあるでしょう。 それも許されませんか。 自分には関係なくうるさいものに不機嫌になってはいけませんか。
どうしようもできないならそれはしょうがないです。 うるさくしておいてください。 こちらはそれにうるさいなと思いますし、そちらもこちらの態度に子供はそういうものだから仕方ないだろと思っていてください。
誰もがそういうものを内心でも快く受け入れられるというのは、子供嫌いな人間がいる以上無理だと思います。 表向きそういう空間があるとしたら、それは子供嫌いが今以上に我慢を強いられています。
それはお断りします。
1年近くホストクラブに通っていた。
そんな世界でお金を出せない私は、担当にとって都合のいい便利な客にならなければ客にも見られないと思っていた。
お金を払った上でイヤなことがあっても我慢をするなんて、はたから見たら頭がおかしいと思われるかもしれない。しかし、ホスクラでそれも細客が担当を好きになるというのは、こういうものなんだと思っていた。
いい子を演じれば演じるほど不満や文句が生まれてくるのは当たり前のことである。
ある日、担当に珍しくシャンパンを煽られた。私のお気に入りのヘルプのバースデーが近いから前祝いをしてほしいとのこと。もちろんいつもお世話になっているからと鴨を発揮し、月に遣っている総額を1日で遣った。
その日は入店した時間も遅く、担当が卓に着いていたのは実質1時間もなかった。たまにはこんな日があってもいいかと思っていたが、店を出ると速攻でタクシーにぶち込まれた。見返りなんて求めてはいけないと思いつつもさすがにこれには悲しくなった。
お金を遣ったのに満たされない日の帰り道ほど虚しさに襲われる日はない。
あれ、私今日全然酔ってもないし担当に感謝されてるわけでもないし、何のために店に行って何のためにシャンパン卸したんだろう?今日ほんとに楽しかったっけ?
こんなことを思っても数日したら担当に呼ばれてまた店に行ってしまう。
そしてまた雑に扱われて落ち込んでそれでも好きだから店には行ってしまうの無限ループ。
自分でも好きとか依存とか執着とかお金とか営業とかよくわからなくなってきていた。
「そういえば俺、お前が怒ったとこ見たことないよな〜〜」
担当は何の気なしに言ったと思うが、この時の私には刺さりすぎる言葉だった。
呼ばれた時はできる限りお店に行った。
苦手なヘルプの前でもニコニコ笑って担当が卓にいなくても楽しいふりをした。
連絡が雑でも、約束を守ってくれなくても、誕生日を祝ってくれなくても、担当の負担にならないよう文句ひとつ言わずに平気なふりをした。
だからといって何を感謝をされるわけでもなく、呼べば来るくらいのちょろい客にしか思われてなくてもそれでいいやと思っていた。
お金を遣えない細客はわがままなんて言っちゃいけない。見返りなんて求めちゃいけない。そう思って店に通ってた私のちっちゃいちっちゃいこの頑張りってなんだったんだろう。
なんにも伝わってないじゃん。
なにこれ虚しい虚しい虚しい虚しい。
別にこんなこと思いたくもなかったし感じたくもなかった。こんな風に自滅なんてしていきたくなかった。でももう考え出したら止まらなかったし止められなかった。
私にとっては精一杯の好きと誠意を表したお金も担当にとってはきっとしょぼいお金としか思われてなくて、どんな気持ちで遣ってきたかなんて全くもって考えてもいないんだろうなって。
自分は客で担当にとっては所詮お金でしかないってこと、ホスクラに通ってる女の子はそんなの最初からみんな分かってます。
だからこそ、楽しく通ってるうちはせめて店にいる時くらいは、そんなこと思わせないでほしかった。少しくらい必要とされたり大切にされてるかもって勘違いをして、つまらない日常の現実逃避をしていたかった。勝手に担当を好きでい続けたかった。
きっとこれをホス狂や担当狂いの女の子たちが読んだら、細客が何言ってるんだよって鼻で笑われたのち、勘違いしてんじゃねぇよと私は叩かれまくることでしょう。
担当の為に人生捨てて風俗1本になる勇気もなければ、見返りを求めないこともできなくなった私の負けです。そして私をこんな気持ちにさせて離れることを選ばせた担当はもっと負け。
と思っていたけど、担当は私がいなくなっても別に困ることなんて何もないし、代わりの女の子なんていくらでもいるから全く負けてなんていなかった件。
あー、ただただ虚しい。
最初に言いたいのは
でもな
コナン×哀派を好む人がよく言う
「哀ちゃんがかわいそう!だからコナンが分裂すればコ哀と新蘭でハッピーエンド!」
そのへんの基本設定わかってんのかな。
ってかコナンはアメーバでもプラナリアでもねーぞ!(二次は自由です
理由も
哀ちゃんが身寄りがなくて可哀想だからコナンくらいはくれ。両親揃ってる蘭は贅沢だしくれてもいいでしょ
哀ちゃんは蘭と違って探偵業に協力的だから相棒。蘭は「もう!」って邪魔する
とかいうやつ。
いやいやいや。
あとあれだ。蘭には武力がある。
蘭がいなけりゃ小さくなって最初の事件でコナンはバットでボコられて終わってる。
それをお忘れではないだろうか。
相応しくないor相応しいからコナンを哀ちゃんに「やれ」「あげて」って意見本当無理。
外野が決めることじゃなくて、新一=コナンが決めることでしょうが。
ってかコナン=新一は蘭に10年ゾッコンなわけで、分裂したところで蘭の取り合いになるだけ。
万一コナンだけ余って蘭が分裂不可だとして、そこでどうして哀ちゃん確定前提になるんだろう?
哀ちゃんよりコナンくんといる歩美ちゃんなどワンチャンキャラはそれこそ沢山いるだろう。
「分裂すればみんなハッピーエンド」っていうけど、そこに蘭と結ばれなかった上に自分の分身に蘭を取られたコナンは入らないだろ、全然ハッピーじゃない。
結局「コ哀推しの自分がハッピー」になりたいから、そういうことのたまうんだろうって思う。
二次では好きにすればいいよ。
でもね、お願いだからそれを公式への願望として呟かないでくれ。
二次でやる分にはいいけど、それをガチの願望にするのはやめて。
そしてそれを望んでる自分や自分達は「厳しめとかのアンチより穏健派だし公式寄り。公式地雷じゃないし。だって新一を蘭にあげてるでしょ?」
ナチュラルにズレてる。
やましい内容でもないので、オープンにしてあるほうのはてなブログで書こうか迷った内容なのですが、
私のことをセクシャルマイノリティと知らない読者さんも多いことだと思いますので、念のため自衛のためにこちらに記させていただきます。
(メインの記事で当事者視点で語ってしまうと、自動的にカムアウトしてしまうことになるため、という意味です。)
LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」
https://withnews.jp/article/f0180406003qq000000000000000W03j10101qq000017134A
昨今、こちらの記事が「いじめる側の理論」であると、かなりの勢いで燃え盛っていますが、
私の一読した感想としては、「どちらかといえば、「理解しよう」としてくださっている側」かな、と思いました。
たとえば、記事中の、
「同性パートナーだと保険金の受取人になれないんですよ! 3年前に知って驚きました。そんな不都合は、すぐ解消してあげたらいいと思うんです。」
こういったところに、このような感想がすぐ出てくるということは、ほんとうに忌み嫌っている側でもないし、共存したくないと思っている側ではないと思ったんです。
「そういう人はいてもいいと思うし、自分にはよさはわからないけれど、それが原因の不都合があるのは不平等だから解消されるべき」
急に風潮が変わってびっくりしている、とか、自分にとっての当たり前が急に当たり前ではなくなってしまって社会の変化の早さに戸惑っている、と言ったふうに、
この記事から感じられたのは、「戸惑い」の感情でした。不理解、ではなかったように思われます。
実のところ、何を美しいと感じたり、何を好ましいと感じたり、何を疎ましいと感じたり、何を吐き気がすると感じたり、するかは個人の思想の自由であって、見ず知らずの他人が正義感から(本音を語るような場ですら)「差別的だから発言してはいけない」、といって規制していいものではないと思うのです。
この方はじっさいゲイの活動家の方にあって話をし、その場で相手を怒らせたわけではなく和やかに話を終えて場を去ったことでしょう。
そして、別れた後から、「あれが、本当のLGBTか、良く解らない……。自分と同じ性別を愛するなんて理解不能だ」と自分の中で反芻する。
それで、とても、いいと思います。
自分は、LGBTのなかでも、(ここで具体例としてあげられた)ゲイではなく、T(トランスジェンダー)なので、
LGBTとひとくくりにされていますが、LGBとTは本質的に違うもので、おそらく、LGBの方の納得する「社会の理解」とTの納得する「社会の理解」は、
段階的にかなり異なっているものであるのではないかと思われます。
LGBは恋愛にまつわるマイノリティですから、恋愛(~結婚、家庭)に対する社会の捉え方が変化すればそれですべて問題が解決するのです。
そこで、現状のところ、上記で述べられたパートナーの保険金を受け取ることが不可能だといった制度上の不都合は、解消されるような流れになりかけているように見えます。
そして、制度上の不都合が解決された先に求めるのは、「同性愛をめぐる目線への不都合の解消」になることかと思われます。
一言で言えば、「同性愛は異性愛と同じぐらい自然なものだし、同性愛をからかったり、あるいは過度に神格化してほしくない」といった要望になることでしょう。
そういった段階の不都合に辟易しているLGBの方からすれば、先ほどの記事の人はそのようなからかうような視点をまだ拭えてはいないですし、おそらく、自分たちを攻撃してくる対象と映ることでしょう。
自分はTのほう、トランスジェンダーのほうであり、トランスジェンダーの中でも比較的少数派のTGなので、「身体の性別と性自認が異なり、かつ、身体的な改造を求めない」タイプになります。
社会的に性自認の方で生きられれば充分、といったタイプではあるので、自分が最も求めている「社会の理解」は、生まれつきの身体のまま、戸籍等を性自認のほうに変更することが可能になること、になります。
つまり、TGは「性別というものの捉え方」にまつわるマイノリティなので、性別そのものに対する社会の捉え方の変化を要求しているのです。
ちなみに、私の外見につきましては、初対面では99.999999パーセント身体の方の性別で認識されます。あくまで、中性的なファッションを好む人、と認識されています。
性自認のほうのファッションを購入し着用しておりますが、ジャストサイズの服で、かつ社会に紛れて違和感がないものをチョイスしていますので、変な話、異性装とすら認識されることはありません。
TGである私の求める「社会の理解」は、この状態で、どうみてもそういうふうに見えない「もう一つの性別」として扱え、と要求しているわけです。
……どうですか?受け入れられますか?
「うっ」と思いませんでしたか?
というのも、これは、今までの性別というものの概念をいったん壊して再構築するように社会に要求しているわけですから。ちょっとハードルが高いことだと思います。
目の前の男性/女性に見えるAさんについて、本人に聞くまで性別がわからないという状態です。
現代社会では、目の前のAさんはどうやら男性っぽいから男性だろう、と決め打ちしてかかることが当たり前のように許されていますが、
その行為自体が「失礼」になり、本人が「男性です」と答えるまで、どうみても男性でも「性別不明」として扱わなければいけない社会になりうるわけです。
とうてい達成されうる目標だとは思えませんし、それにこれがもし達成されてしまった場合、不利益を被る人が出てくるでしょう。
初対面でまだ性別を明かしていない相手からのスマートな男性/女性扱いやエスコートをしてもらえない社会になるわけですから。
多分、先述の記事の男性の困惑ってこういうタイプの「困惑」じゃないかと思うんです。
同性愛は違和感がないという人で、先述の男性の困惑や感想に否定的な感想を言っていた人は多いですが、確かに同性愛は理解しやすいんです。
でも、同性愛はすんなり理解できても、トランスジェンダーの中の狭義のTGを同じように理解することが出来ない人は結構いるんじゃないかと思います。
「初対面で性別不明扱いにするのは、中性的な外見の人に限定すればいいのでは?」というアイデアもありますが、それもまた、難しい問題を孕んでいます。
というのも、中性的だからといって必ずしもセクシャルマイノリティだというわけではないからです。確かに、中性的な男女に少なからずセクシャルマイノリティが紛れ込んでいるのも事実です。しかし、そうでない人も多いです。
学生のころ、中性的な雰囲気の同級生がたまにいましたが、その中で何人かは現在トランスジェンダーとしてカムアウトするようになりましたし、
そして、何人かは既婚者になりました。つまり、当たり前のようにいた中性的な学生たちの中には、多くの異性愛者と少数のトランスジェンダーがいたわけです。
彼らの性自認が「どっち側」なのかは、外見から見分けるのは困難だと思います。私も、彼らが大人になってカムアウトしたから「ああ、そうだったのか」と知っているにすぎないですし、当時はわかりませんでした。
続きです。
遅くなり、すみません。
異性の友人に相談した時に様々なアドバイスや男性側の意見をもらったのですが、私は旦那にセックスのこと以外で不満は抱いていません。
家事が出来ないのも、お給料が低いのも、承知の上で好きになり結婚したのです。
実際に結婚生活は恋人同士だった時のようではありませんが、それでも仕事を真面目にやり、頑固で女に好きだの綺麗だのと言えないようなところも男らしく感じて好きです。
旦那は若い頃には暴力的だったと旦那の友人から聞きましたが、私に手を上げたことはありませんし、子供にも手を上げたことはありません。
ワンオペになってしまうのも、学校、役所、銀行などが平日しか手続きが出来ないのだから仕方ないと思っています。
旦那のことは好きで、DVを受けているわけでもない私が市町村の方に相談しても…、もしかしたら何も解決法はないのではないでしょうか。
せっかくアドバイス頂いたのですが…。
それから私には実家はないのです。一家離散しておりまして、母親はもう死んだようですし、他の血の繋がった人間はまだ生きているようですが帰る家はありません。
これも経済面で困窮する要因かもですが、子供を連れて帰ることや、人を雇うような選択肢はないのです。
以上の理由により、次に旦那と話し合いを持つ時は、浮気も不倫も受け入れる。
もし少しでもお金に余裕が出来たら風俗に行っても構わないし、不倫をして本気になった場合、子供が成人してからなら離婚にも応じる。
そう話してみるつもりです。
こんな場所で親身になってくださり、本当にありがとうございました。
ですので、私はもう理解を得られることは諦めています。たまに吐き出していないとどうにかなりそうなので、アウトプットにここを利用しているだけなのです。
ましてや匿名の増田などでは、自分の容量を超えた話は釣りとしたり、自分の良いように解釈したりしますし、知能が単細胞生物並みの人間がなりすましを行い、撹乱するような場所です。
増田様もどうぞそうなさってください。
帰宅途中にこのまま車ごと川に落ちてしまえば、すべてから解放されると思うこともあります。
けれど子供が成人するまではとてもそんなことはできません。
増田様はお若いようですので、こんな人間もいるということを心の片隅にでも置かれておいて、どうにもならない苦しい人生にしないような選択をなさってくださいね。
ストーリーについて語りたがる人ほどストーリーが何かを考えようとしない。
ギャグ漫画やバラエティをストーリーがないものの例として挙げる人がいるのは、感覚的にわかりやすいからなのかも知れない。
演出はストーリーという方向性なしにはできない。逆に、演出されたものにはストーリーがあると考えた方がわかりやすい。
それほどシンプルでわかりやすい定義で、検索でもすればすぐにわかることだ。
世間一般がストーリーという言葉に対してイメージするような大層な意味合いは本来ない。
道徳やメッセージを語り、複雑な展開を重ねてどんでん返しをすることが本質ではないのだ。
こういうことを知らない人はストーリーという単語を調べたことさえないのだろうけど、そんな人がやれストーリーは死んだだの昔から死んでいただのと知ったかぶりしている光景は、大変に痛痒い。
ではなぜ、こんな簡単な定義のものが死んだ死んでないで何度も取り沙汰されるかと言えば、そういう人はストーリーを語りたいのではなく、結局はそれをだしに自分語りをしたいからだ。
増田も要は「僕の考えた最強のストーリー」を求めない世間が悪い論で、「そう思うんならそうなんだろうお前の中ではな」としか言いようがない、時代に置いて行かれた人らしい痛痒い自意識が垂れ流されている。
最後の「まだ未知である」などは、思わず「ラ・ヨダソウ・スティアーナ」と書き加えたくなる味わいだ。
同じ人間が繰り返し同じような増田を書いていると見る人もいるが、ネットでストーリーとはなんぞやと語りたがる人間は増田と大差なく、知ったかぶりで謎のマウントをかまそうとする人がほとんどだ。
はてブにもそういう人がいるのが微笑ましい。
もしかしたら記事自体は同じ増田が何度も投稿しているのかも知れないが、「ストーリーが必要とされていない」系の主張をする人間は星の数ほどいて、珍妙な演説をしているのはよくある光景だ。
それがさらに再生産されてストーリーの死を嘆く人が増えていたりもするのかも知れないが、そんなに語りたい題材ならば、まず単語の意味くらいは調べようね、と思う。
健全な精神で大学院を修了するために,自分が重要だと考えていることをここに述べる.
矛盾している点が多々あるが容赦してほしい.
取る時期が決まっている講義に関しては仕方がないが,修士一年の冬に重い講義を取ってしまうと研究や就活に差し障る.
就職するにせよ,博士後期課程に進学するにせよ,大学院の講義が重視されることはない.
どの大学にも普通の講義取得コースと比べてつらめのコースがあると思う.
確かにそのような講義で得るものは多いが,外部から評価されることは少ない.
基本的にどの企業も成果主義であるため,就活でアドバンテージを持ちたいのならば,やはり真っ当に研究に取り組んだほうがよい.
変に他の教員の話を聞くと,テーマがブレてろくなことにならない.
助言をもらうにしても,話半分で聞いたほうがよい.
学生が提案するテーマを頭ごなしに否定し,自分がやりたいテーマに誘導する教員は少なくない.
やたらと教員が突っ込んでくる場合には,失礼を承知で途中で話を切ってよい.
特に,自分のテーマが研究室で前例がないテーマの場合には,指導教員から有益な意見がもらえることは決してないため,早めに外部から意見をもらった方がよい.
億劫な場合には外部文献を調査し,自分の研究に文句がつかないようにするべき.
...そのように自主的に取り組んだ研究はレベルが低いものになり,教員から否定されることが多いが,修士を出るための研究だと割り切ろう.
指導教員によってはテーマではなくプロジェクトを立ち上げることを求めてくるが,研究を初めて高々1年の学生にそのような能力はない.
研究室から脈々と続いているテーマに乗っかり,先行研究を少しだけ変えたようなテーマを提案すると,指導教員は満足することが多い.
どんなに簡単なテーマでもいいので,修士1年の10月頃までにある程度の成果を出しておかないと,就活で不利になるので注意.
テーマが決まらないままインターン時期or就活に入ると,「上司と会話ができない学生」と見なされて詰みやすい.
教授が提案するテーマであるため,研究に失敗しても,降ってきた時点で修了が確定する.
変に立ち上げると軌道修正が難しい.
複数の組織の利権を上手い具合にやりくりする必要があり面倒くさい.
侵襲性の研究や予算の出どころがわからない研究の場合は特に面倒くさい.
進捗も出にくいため,取り組んではいけない.
精神が病むくらいならすぐに変えたほうがよい.
学生相談室などの外部組織を有効活用しないと,研究室変更の決定権を持つ教員から止められるので注意.
これは研究室から学生が抜ける前例を作りたくないことが多いため.
ちなみに,日本国内の論文は研究として途中なものが多いため,海外のトップカンファ漁るくらいでいいです.
ちなみにちなみに,論文の管理はMendeleyがオススメです.
変にしらばっくれられて軋轢を生むことが多いので,記録を取っておいたほうがよい.
どの企業にもインターンからの採用枠があるため,行かない手はない.
なお,やたらとインターンを否定する教員は得てして社会に出たことがない.
すぐに決まる同期を見て,自分を卑下して落ち込むこともあるかもしれないが,自分の得にはならない.
受からない人は本当に受からないので,面接本を読んで,同期に面接練習お願いしてください.
今後の人生もイキり続けるので相手をするだけで精神をすり減らす.
強く生きる
『幸色のワンルーム』についてさわりしか読んだことないし、ほうっておこうと思ってたんだけど、ドラマ化で叩きが再発というのが本当に残酷だと思ったので、書いてみる。
まず自分は小説家志望の人間で、クリエイター側に寄った意見になりがちになってしまうことは予め書いておく。
(なお自分の作風は『幸色のワンルーム』のような「危ない」ものではないため、作品へのバッシングについては正直に言うと他人事だった。ただ、だから「見捨てよう」と思ったとき、それは残酷なことではないかと考えなおした)
まず対象作品の発表またはドラマ化が悪である理由として挙げられそうなものを考えてみる。(この他にもあれば教えてほしい(⑤はほかの方に教えてもらって追記したものです))
①事件被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
②事件被害者以外の類似した事件の被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
③誘拐という犯罪を美化しており、誘拐を触発してしまう可能性がある
④誘拐という犯罪を美化しており、(家出している未成年など)被害者となりうる者の正当な警戒心を阻害する可能性がある
⑤事件に対するセカンドレイプを正当化するものと解釈されたり、助長するため
上記の可能性を検討する前に、まず罰について、確認しておきたい
確認する。
あなたがたは当該作品の発表またはドラマ化が悪であり、それを罰するために下記のような罰が適切と考えている。
上記の罰は作者の人生を破壊するに充分なものであることはきちんと認識しておいてほしい。
小説は正直に言って仕事をやりながらでも書ける。けれど漫画は創作の手間から、兼業でやっていくのはかなり難しい。人生の時間のうち多大な時間を消費し、途中で別のルートを選ぶことも困難になる。
そういった覚悟はもちろん創作者の側で用意しておくべきことだろう。けれど作品の発表中止を求めるのであれば、それがどういった影響を他者の人生に及ぼすのか――特に同様の観点で作者や作品を批判するのであれば――認識しておくべきだろうと思う。
誰かの人生を破壊するから批判はやめろと言いたいのではない。逆だ。あなたには絶対に、「これはだれかの人生を破壊してでも中止させなければならない」と確信してもらいたいし、たぶんそうあるべきだ。でなければ、ほんとうに残酷すぎる。せめて覚悟をもってください。
さきに挙げた①、②はもっともな批判だと思う。そういう可能性は実際にあるし、そうやって被害者の方が傷付くのはまったく看過できない。
意外かもしれないけど、この点について少なくとも自分はまったく擁護の術を持たない。
(一点だけ気になる点があるとすれば、多くの場合、批判者自身はこの「被害者」に該当しないこと。被害者がセカンドレイプやバッシングを受ける可能性を考えると、こうした「代弁」は非常に重要なことであるのは確か。
けれど例えば(正直に言ってかなり考えにくいと思うが)当の「被害者」に該当する人が作品のファンであったり、または発表の中止までは求めない場合、こうした処罰の代行が被害者を苦しめてしまうことにならないか、ということが気にはなる。
ただ、「代弁」をしない場合のデメリットや上のような事態の可能性の多寡を考えると、やはり代弁をやめるべき理由にはおそらくならない)
というわけで、①、②の理由から作品の発表やドラマ化の中止を求めるのは不当だ、という結論は少なくとも自分は導けない。
ただしその場合、お願いしたいのは、絶対に①、②のような可能性を真剣に考えて、真剣に徹底してください、ということです。
当たり前のことですが、①、②は誘拐に限りません。あらゆる犯罪や災害の被害者にありうることです。そしてこの基準に触れている作品は世のなかにかなりあります。
もちろん時代もあります。いまほど創作物に求められる倫理的水準が高くなかった時代の作品には残念ながらこうした危険をはらむものが存在します。
そして注意してほしいのは「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というエスケープは後述する③、④には適用できても①、②には適用できないことです。
作品が悪として描いていようが、美化していなかろうが、フラッシュバックや、被害者が傷付く可能性はなくなったりしません。
お願いですから、①、②の理由で作品を批判するなら、ほかの作品に対しても(もちろんあなたの好きな作品に対しても)徹底してください。その方法はお任せします。作品をクズだと思うのでも、ゴミだと思うのでも、発表中止を求めるのでも。作品によって対応が変わることももちろんあるでしょう。けれどお願いですからあなた自身が絶対に正しいと思えるやり方で、徹底してください。あなたが正しいと思えない基準によって、ひとつの作品が消し去られ、作者の人生が崩れてしまうのが、いち創作者として本当に耐えがたいのです。
③、④の可能性についてはいわゆる「ゲーム脳」などの「創作物が犯罪を誘発する」タイプの言説を抜け切れていないと感じる。
ここでもう一度確認しておきたいのは、あなたがやろうとしているのはだれかの人生を破壊する可能性があるということ。推測によってだれかの人生を破壊して、あとで(あるいは永遠に結論はわからないのかもしれないが)「間違ってました」では済まないということ。
③、④についてはできれば科学的あるいは統計的な根拠があった方がいいと思います。作品の擁護のためではない、だれかの人生を破壊しうることを実行するなら、その根拠となる推測が正確であることを確かめてからやるべきだと思うからです。
不正確な推測を根拠にだれかの人生を破壊するというのは、残酷なことだと思います。
そしてもちろん、③、④についても①、②と同様、真剣に考えて、真剣に徹底してほしい。
「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というのも、ただ自分の好きな作品だけ免罪させるための言い訳として使うのはやめてほしい。それは不当なことです。なにかを罰するなら、お願いですから、その正しさを信じ抜いて、貫徹してください。お願いします。
⑤についてはほかの方(anond:20180324003900)から指摘を受けたので追記した。
ただし正直なところ、単純にディベート的な命題の強弱のみを考えるなら、⑤は①、②の下位互換でしかないように思える。
作品がセカンドレイプをエンカレッジしたり助長するものであるより、作品そのものがセカンドレイプであるほうが、より悪であるということになるだろうし、より強い批判ということになるだろうから。
加えて⑤の場合は①、②よりも批判者(つまりあなた)がより際どい位置に立たされることは意識しておいてほしい。
⑤の場合、作品そのものはあくまでセカンドレイプ的言説に利用・悪用されたに過ぎず、悪いのはあくまでセカンドレイプを行う者たちであり、作者はそこに含まれない可能性があります。
その場合、あなたは作者本人は悪くないにもかかわらず、人生を破壊しうる処刑をくだすことになります。わかりやすく言えば、あなたが逆に「加害者」となり、悪側の立場に立たされる可能性もあるということです。(もちろんこうした可能性は①~④にもあります)
もちろんこれは仮定の話です。だからこそ、何度もお願いしますが、絶対に正しいと確信して作品の発表中止等を求めてください。それはあなたが悪や加害者にならないために必要な努力であるし、同時に不当に消し去られる作品やだれかの人生をなくすための手順です。
そしてもちろん、その正しさを真剣に信じて、真剣に徹底してください。お願いです。
言いたいことはだいたい以上です。長くなってしまいました。すみません。
創作者あるいは創作者志望にとって、創作は往々にして、人生をまるごと賭け金にした、自分の人生そのものの価値を左右する重要なことです。(もちろんそうでない人もいますが)
ただしそうしたある種ヒロイックな比喩でもってして、だれかを傷付けることを正当化することはもちろんできません。
けれど、そうした重みをもっている物事を、そうと知らずに軽い気持ちでゴミ箱に捨て去られるのは、正直にいって、耐えがたいです。
現在ある『幸色のワンルーム』への批判がそうした軽々しいものであるというわけではありません。ただせめて、「そうでない」ことを確認させてほしいと、思いました。
ドラマ化というのは、作者の方にとって本当に嬉しい知らせだったと思います。そうしたときにやはりまたバッシングを受ける。
ならせめて、そのバッシングだけは正しいものであってください。お願いです。本当にお願いです。正しくないバッシングによって、ドラマ化の知らせを受けた矢先に中止になるなんて残酷なことは(ありがちなことなのかもしれませんが)本当に起こってほしくないんです。
まずひとつ、私は個人的な考えとして、あらゆる創作物に対して、その客観的な価値をだれかが決められるとは思っていません。
したがって anond:20180321152456 の方の下記の記述は正当ではないし、余計だったと思っています。
まずこの方は上記の文に続いて作品の欠点を挙げられていますが、作品の欠点を列挙することが作品の「レベル」の判断になるとは自分は考えません。作品の欠点を美点が凌駕することは往々にあることだし、その美点は「自分にはわからない部分にある」のかもしれないと常に感じるからです。
またご本人が「持て囃された理由」として「「家族からの逃避と二人だけの世界への耽溺」というテーマが、思春期の少年少女や一部の人間に心地よいものだったから」を挙げられています。程度の低い理由として挙げられたのかもしれませんが、個人的な意見を申し上げれば、これは充分にすごいことですよ。
蛇足ふたつめ、
私はどこかで『幸色のワンルーム』の作者の方が女性で、若い方だと見たような気がします。(今回その情報を探してみましたが、見つかりませんでした。正確な情報ではないかもしれません)
そうした先入見が本件への自分の姿勢に影響を与えた可能性は否定できません。当然ですが、そういうことはあるべきではありません。もしそうだとしたら、反省点です。
女性が守られるべきであるとかいった考えは、フェミニズム的でないというよりその正反対だと考えるべきでしょう。もちろんそれはわかっているのですが、若い女性が漫画家としてデビューし、その後バッシングによって漫画家をやめることを余儀なくされた場合、その後の困難さが男性の場合と比してより困難であるというような「想像」が、今回の筆致に影響を与えなかった確信が持てず、そしてそれを隠すのは誠実な態度ではないと考えたため、蛇足ながら書いておきます。