はてなキーワード: 求めないとは
プリパラおじさん在宅組だ。つまり、アーケードをやっておらず、アニメの視聴をしているだけの萌えオタクの男だ。
なぜ彼らは(というか、おれが)ブーブー言ってるのかをこれから説明していく。
おれがまず思ったのは、「あいつら(ゆい、にの、みちる、しゅうか)は、みんな強い女だし、エスコートなんかされなくても自力でファララのところに行って、コーデをぶん取れるんじゃねえの?」ということだった。
夢見がちな少女・ゆいはともかく、にの、みちる、しゅうかの三人はああいった王子様的な振舞いに憧れていなさそうだから違和感があった。すんなりとエスコートを受け入れて、屈託のない笑顔を見せるようなキャラなのか?と思えてしかたなかった。
それに、いまやディズニープリンセスですら王子様を求めない時代だ。そんな時代に、エスコートごっこなんてやってどうするんだろう。プリパラにはもっと新たな価値観を提示してほしかった。
プリパラおじさん在宅組の多くは深夜アニメファンでもある。女の子しか出てこないような萌えアニメに親しんでいるから、男子禁制を貫いてきた「プリパラ」を安心して観ることができた。
ところが、WITHの登場だ。拒否反応をしめす萌えオタクがいるのは当然のことだ。
萌えオタク(というか、おれという人間)は萌えアニメを見ているときはたいへん偏狭になってしまう。おれはかわいい女の子しか見たくないんだ!!恋愛対象になりうる男は去れ!!というふうに。
その偏狭な視聴姿勢が「プリパラ」にも及んでしまうというわけだ(不思議なことに、実写映画とか少年漫画とか小説とかではそういったことはいっさい起こらない)。
萌えオタクの理想を叶える解決策は簡単だ。女の子どうしでエスコートをすればいい。ゆい&らぁら、にの&シオン、というふうに対応する先輩キャラを配置すればいいだけだ。
「その1」で新たな価値観云々と書いたけれど、女の子どうしのエスコートというのは「アナ雪」的な今っぽい要素(同性どうしの強い絆で危機を乗り越えるというテーマ性)と捉えることもできなくはない。
それに、これまでのプリパラの総決算である「アイドルタイムプリパラ」で、これまでのキャラの活躍を増やすのは今作のコンセプトに合っていると思う。
アイドルという概念によって「プリパラ」はさまざまなタイプの女の子たちを幸せにしてきた。となると、残りは男の子をどうするかだ。このごく当然の発想の結果、男子プリパラは始動した。
ダンプリでもプリパラ同様さまざまなアイドルが活躍していると推測される。数いる男の子アイドルの象徴としてWITHが視聴者の前にあらわれる。3Dアニメもつくられた。けれど、彼らはそこまでアニメ内で活躍するわけではない。
いちばんの活躍はエスコートだったのではないか。すくなくとも、おれはWITHといえば、まずエスコートが思い浮かぶくらいエスコートの印象が強い。
WITHはエスコートシステムのために生まれてきた印象すらある。それはどうなんだろう。WITHは女の子の幸せのためだけに存在するべきではない。
WITHにはWITHの幸せがあり、物語があり、絆があるはずで、そのために彼らはアイドルになったはずだ。もちろん、エスコートもその一部にはなりうるだろうけれど、主だった幸せにはなりえない。
つまり、なにがいいたいかというと、WITHおよびダンプリの描写は中途半端だということだ。せっかくダンプリを始動させたんだからダンプリ回がしばらくつづいてもよかったし、おれ個人としては雨宮くんがアイドルになって、みれぃにちょっとだけ見直されるみたいな展開があってほしかった。
簡単なことだ。あなたに百年に一度の才能とか、他を圧倒する実力があって、「それだけに没頭」していても周囲が許さざるを得ない存在であるなら、いくらでも「好き」だけに打ち込めばよい。あなたの打ち込むジャンルの歴史においても、そういうタイプの「天才」の一人や二人いるはずだ。人間的には破綻しているが、圧倒的な業績を残した人たちが。
だが、たいていの場合、それなりの研究者であっても「それだけ」で生きていける人は少ない。
母の言いたいことはわかるし,そうしたほうが自分にとっても良いはずだと思うのに,
頭のどこかで,それって本当に正しいの?と叫んでいる私がいるのだ.
私はどうやって生きていけばいいのだろうか?
これが、実によく問題の核心を表していると思う。
「それだけ」で生きていくだけの圧倒的な才能のない、その他大勢の凡人は、「好き」を貫くために、自分以外の人に「好き」に打ち込むことを許してもらうための「説明」をしなくてはならない。「説明」を求めないのは親くらいで、それ以外の人は、必ず「説明」を求めてくる。あなた自身ですら、いずれ自分に「なぜ」という説明を求めることだろう。そのとき、たとえば「それでいいの」と問いかけられたくらいで動揺して「私はどうやって生きていけばいいのだろう?」なんて考えてしまう程度の姿勢で、この先あなたはどうやってあなたの「好き」を貫くつもりなのか。たとえば研究のことで他人から「やめちまえ」と罵られたら、あなたはやめてしまうんだろうか。恋人から「就職しないの?」って聞かれたら? 親が病気になって介護が必要になったら? 自分が命に関わる病気の可能性があるとしたら?
結局のところ、そういうあなたの「ひ弱さ」は、あなた自身をも含めて、誰も幸せにしない。「あなたとお母さんは違うんだから…」とか書いている人もいるが、そういう問題ではない。あなたに見えている世界は狭くて、あなたのお母さんに見えている世界がもう少し広い、ただそれだけのことだ。「好き」を守るためには、人間にはそれなりの「幅」が必要だ。「好き」だけに打ち込む人間には、自分の「好き」を守り続けることができない。
そして、あなたがそれなりによき研究者であるならば、今あなたに見えていない「外」のことは、決して無駄にはならず、あなたの研究に生きるはずだ。もし外のことが雑事にしか感じられないとしたら、それはあなたが研究者としてまだまだであるということに過ぎない。日々歩き、飲み、食い、人と交わり、自然を眺める中で研究することが、あなたの研究に命を通わせる。そういった一切と没交渉で行う研究には、いわば「血が通わない」。夕食を眺めても取り組んでいる数式の証明に関わる新しいアイデアを考察し、眺める景色に流れる空気をみては誰も想像しない物質について思いをめぐらし、異なる考えや文化に触れては法や経済を思考し、何気ない子供の一言や恋人との語らいに哲学を見い出す、24時間、行住坐臥研究ならざるはなし、それが研究者という生き物だろう。
それができないなら、結局のところそれは研究者として生きることに向いていないということだと思う。「研究」の世界以外にも、あなたの「好き」に関わる仕事は世の中に多い。別なキャリアを探すことを考えてもいいだろう。それは決して人生の終わりを意味しない。何かに向いていないことは、別の何かに向いていることを意味しているかもしれないのだから。
彼(彼女?)の絵を見るたびに、彼が去年の夏頃描いた漫画を思い出す。
少女と父親が花火をした後、「ゼンイ」でゴミを拾い、翌日見て見るとほとんど元の状況に戻っている。少女は父に「私たちのゼンイは無駄だったの?」と涙ながらに問い、父はそれに答えられない。
といったようなね。
まあ善意があっさりと踏みにじられるという展開は非常によくある寓話ですわ。
この漫画を初めて読んだ時から反感をものすごく覚えるんだよな。
この作者が一体どのような目論見でこの漫画を描いたのかは知らんので漫画内の父娘に対しての話になるんだけれども
そもそもボランティアのゴミ拾いは何かのイベント後とかで突発的に大量のゴミが発生した場合を除き、定期的に行われる。
そうでなければ当然再びゴミが溜まる。
じゃあそのたびにボランティアの人たちの労力は無駄になっているのか?
当然違う。ゴミ拾いが行われた後は間違いなくその場は綺麗になっているし、拾った何袋分かのゴミはその場に舞い戻ってきたりしない。
間違いなく"拾った分"はゴミが無くなっている。
この父娘はまずそこを見誤ったのだろう。「今この一瞬この場を綺麗にすればその状況は永続するだろう」というぼんやりした期待を持っていたのだろう。
ただ、「ゴミを拾った」という行為自体を無駄だと考えるのは間違いだ。
それは言ってみれば池の向こうに届かせたいと思って投げた最初の石が沈んでしまったから無駄だと断じるようなものである。
石を投げ続ければ池が埋まって向こうに転がるかもしれない。
「向こう岸に届ける」という目的を見つめ続けるならば、最初の一投は無駄になったりはしない。
勿論諦めてもいい。
「池の向こうに届かせなくてもいいや」と考えたって、やはり最初に投げたことは変わらない。
「ゼンイだからただゴミを拾う」ではきっとあの世界のゴミは永遠に溜まり続けるのだろう。
立て札を立てたり、定期的にゴミ拾いをしたり、人を集めたり。
とにかく「あの場を永続的に美しく保つ」という希望を目的に据え、計画的に努力するという行為に考えが至らなかったのだ。
それもまたよくあることだと思う。最善の希望を目的に据えなければ最善の希望は実現できないのは当然だが、それは最善ゆえに困難が多いだろう。
ここで諦めたっていいのだ。それでもこの父娘が拾った幾らかのゴミは無かったことにはならないのだから。
ところが彼らはどうやら自分たちのした事を無駄にしたいらしい。無かったこととして認めたいらしい。
彼らと同量のゴミを、同じように拾い、同じようにその場に再びゴミを投棄された人にも彼らは哀れみの視線を向けそうなところが非常にムカつくのである。
ここまでだいぶ長くなった気がしたが、まだもう一つの主題が残っているのである。
「ゼンイ」の話だ。
この話の中でたしか父は「ゼンイ」だからという理由でゴミを拾っていたのではないだろうか。
素晴らしいことである。実際その「ゼンイ」によって幾らかその場所は不法投棄という犯罪行為が拭われたわけだしね。
しかし、前述の通り、この父娘は自分たちの行為を無為だと認識した。「ゼンイ」は無駄だったと判断したのである。
ふざけた話だ。そもそも「ゼンイ」が無駄にならないという希望を、顔も見えない相手になすりつけるのはお門違いでは?
「ゼンイ」とかいう何となく偉そうな行為を何となくして、何となく裏切られた気がして、何となく失望しているのだ。
まあ娘は仕方ないかもしれないな、子供だし。この作者の描く人物はあまり年齢による区別がないからあやふやだが、多分小学校の中学年とかだろう。
「ゼンイ」が無駄になってしまったのかと泣いてる娘に対して何だその態度は。お前の頭も小学生女児か。
せめて昨日の行為は消えたりしないことは分かるだろ。慰めることもできないのか。親として子どもの心を守ることもできないのに他人に対して「ゼンイ」振りまいてる場合か。いやそれはまあ人によるだろうけどさ!!
そもそも「ゼンイ」が必ずしも良いことみてえな言い方自体が俺は非論理的だと思うんだけどさ。
人に感謝してもらおうとしてする「ゼンイ」は感謝を求めない「ゼンイ」と比べて劣っていやしない。
しかし、「ゼンイ」に限らず、目に見えないものが認識され、更には感謝されるのは非常に難しい。
だから人目にさらされなかった娘の「ゼンイ」がもし父にだけ見えているなら、父が娘にしてあげられることはあるはずだ。
それもしね〜で(以下繰り返し)
まあ、漫画の中の話に何マジになってんのと思う人もいるだろう。気持ちわかるよ。
でも、ある表現の中の仮想的な話に批判をすることは無意味ではないと思うんだ。
実際この漫画すごい拡散されただろう?いろんな人が関心を持ったのは間違いない。俺は俺の関心の持ち方をこんな形で表現したんだよ
この作者のイラストだの何だのがTwitterで流れてくるたびにこれを思い出してイライラしてたからその整理ってのもある。この人が作ったイラストとか動画で好きなのあるし、それ見るたびにフラストレーション溜めてちゃ世話ないしね。
自分が本当にしたいことは何なのか確認しながら行動をしたほうがぼんやりした失敗や失望をせずに済むということと
「ゼンイ」を目的に据えるということは他者に目的決定権を委ねる原因になること
元増田です。ついき。
お父さんは昔から人の嫌がることばかり言って、嫌味を言われて嫌がる人を見て喜ぶような父親で、私は彼のことを、おとうさんという役割を求めないことでなんとか仲良くやってて、それぐらい、人として本当に嫌な人なんだ。妖怪みたいで、人の話をまったく聞かない。お父さんは、学生時代の先輩以外とは付き合いがほぼない。それも数年に一度会うぐらい。兄弟仲もよくない。遺産問題での兄弟間のやりとりめっちゃ怖かったし、叔母はお母さんのこといじめるし、私も父方の親戚はみんな苦手。心がない。
年齢の価値観的に、病院に連れて行くのも無理だと思うし、そもそも、なにかあっても絶対に病院にはいかないひとだ。趣味はもうなくしてしまった。昔は海が好きだったけど、今は体力もなくなっていかなくなってしまった。人の嫌がることを言うのが好き。自分にいつも絶望してる。食べてばかりで、一切動かない。食べるのは好きだけど野菜は食べないな。ブラックホールみたいに、絶望しかないひとだよ。
私はそんなに情はないけど、母親や弟は一緒に住んでるし、情はかなりある。心の病気とかいっても、「そこまでじゃない」「昔からあんなんだし」って言ってあんまり聞いてもらえない。
いまは、みんなの意見でどれが自分に合ってるのか、ぜんぜんわからないや。いま、まだ気持ちが乱れてる最中だから、落ち着いたらまた見直すね。ありがとう。
自分もよくこの面倒臭い輪に混じってしまう阿呆だから決して他人のことばかり言えたもんじゃないんだけども
右派だの左派だの言い合うのって同時にどこかに冷めた自分を飼ってるんだよね、虚しいなって
なんで虚しいかって、その右派(右翼、ネトウヨ)だの左派(左翼、パヨク、はてサ)だのって文句は相手がそう名乗ったわけでもない、相対的に且つカジュアルに相手を叩くためだけに貼ったレッテルのようなもので、そんなもの相手に響くわけなくて、要は自慰なんだよ。
殴るために都合の良いサンドバッグを自分でこしらえてただ楽しく殴ってるだけなんだよ。
だからなんとなくわかっちゃったんだけど、ああ、この増田達、それぞれ使ってる右派と左派って言葉の意味とかそれで思い描いてるメンツ違うよねって。
噛み合ってないのに手斧投げてて、影響受けたブコメも評価されちゃって、なんか地獄だなって、そう思っちゃいました。
左派を批判する代表勢力は左派なんて言っちゃってるのは三番目と同じく買い被りすぎだろと突っ込みたくなるけどね。
でも三番目のscopedogで返してるのはそれはそれで納得いかないんだ。
scopedogを勝手に左派とした上で、だから左派はアレの面倒見ろって、それはなんか違くね?と。
scopedogとか、あのレベルに落ちた子って、もう何言っても聞かないじゃん。独善的すぎて。
だから叱っても虚しいんだよね。
じゃあ結果どうなるって、離れるしかないじゃん。
だから当然叱ってた左派も居たんじゃねって思うし、そもそもscopedogとかって、左派とか右派とか以前にさ、何言われても、自ずからでも自分を省みるって言うのを見たことなくて、もう多分反省とか皆無だよね。
彼の反省の見てなさは観測範囲が甘いとか言ってそのシーン晒されたらバク宙三回転焼き土下座するくらい自信あるよ。
弁も『自分は悪くない』が根底にあって突っ込まれたら話変えるか言い訳、言い逃ればかりだし、だから非を認めてそこからの成長ってないんだろうなって、要はアレ、右派左派以前に子供でしょ。
そんなのはもはや成熟した一思想である左派に安直に入れちゃダメだと思うんだ。右派も然り。
それと今回の日韓合意の韓国の態度やscopedogの態度見て、さすがについてけないとなった左派は俺は結構見たよ。
わざわざscopedogの批判まで求めないでもそれで十分だろうと思う。
なので左派を測るのにscopedogを踏み絵にする必要はない。それをしてしまうとそれはまた別の醜悪さを孕んでしまうようにも思いました。
何回scopedogって言ったんだろう。俺はなんだかんだ好きなんだろうなscopedog。
その歪みと折れなさとある意味芯が通ったキャラっぷりはxevraに通じるものがあると思ってる。
ああ、眠くなって来た。おやすみなさい。