はてなキーワード: 必然とは
まず誰に相談しようかと考えるでしょ。
そんで相手が何て答えるかな って考えるでしょ。多分こう言われるだろうな、って思うでしょ。
悩み相談っていうのは自分に考え付かない答えを聞きたいもんでしょ。
でも自分に考え付かないっていうのは自分に出来ない解決方法なんじゃないかなぁ。
たぶん仲良くなりたい下心があって本当に相談してるんじゃないのよね。
じゃあ相手を困らせるような質問しちゃいけないかな、て思うじゃん。
そしたら誰にも相談できないよね?
いや、そんな深刻な悩みじゃないのです。
「知り合いのAさんと別のところの知り合いのBさんがそっくりなんだが一度でいいいっぺんに見たいけどどうしたら…ていうか誰かに同意してもらえるだけでもいい」
「子どもが好き嫌いして晩飯を食べてくれない」
→これはべつに『材料を小さくしたら?』とか『好きな味付けにしたら?』とかの善意溢れるアドバイスが聞きたいわけではなく『もう私の食べたいもの作っていいよね?』と相手に聞いているのです。
でもそんなことを言うママはいませんので必然的に誰にも相談しないでいたらそのうち食べてくれるようになるので子育ては悩むだけあほらしいのです。
「何故原発(あんなあぶないもの)は地下に作らなかったのだろう」
でも、そういう悩みを周囲に相談していないと、何を考えてるかわからないと思われて下手すると敵認定されるらしいです。
うーん。疑問だ。
ていうか、それが私の悩みだ。
そういう短絡的な人を私は理解できないけどべつに周囲を敵とは思わないんだけど。
いやいや、心の歪みとか将来の犯罪者率とかそういうんじゃなくて。
むしろ病んじゃうのは圧倒的に被害者。いじめられっことかいじめっことかなんかソフトな言い方はたくさんありますけど加害者と被害者ですよ。
加害者は別に歪んでないんですよ。世間的に肯定されるのは、なんだかんだ言ってあっち側の人たちじゃないかな。
だってね、偶然なの全部。いじめが蔓延るのは悲しいかな必然としても、加害者と被害者の境目ってほんと曖昧。
男子事情はちょっと分からないけど、女子なんて立場逆転は一日あれば済みます。
容姿が整ってて目立つ子と仲が良かったとか、からかわれる原因を持っていたとか、全部たまたま。
誰が決めたわけでもないの。自分で選んだわけでもないの。
偶然自分がその歳でそういう人間になっていて、偶然そのクラスや職場に入って、色々な要因が重なって発症した暴力の被害者になっただけ。
悪いとか悪くないとかの話じゃないんですよ最早。
「いじめられる方にも原因はある」とかドヤ顔して言ってる場合じゃないって。原因と責任は違うって。
で、集団にしこたま迫害された人間がどうなるかっていうと、人間が怖くなります。自分自身も含めて。
心因的な病気になったり引き篭もる反応のが正常だと思う。健全かどうかはさておきね。
自殺もね。見えないし、将来。自分以外の人間は全部自分を笑ってる貶めてる蔑んでるとか思うし。
身体ばっか大きくなって、親は信頼できないけど大事だから負担はかけたくないし、てゆーかもう起きるの無理、みたいな。
夜になって目を閉じるたびこのまま目覚めなかったらいーのになって。
自殺は後処理があるから嫌だな、存在そのもの消してくれないかな、とか。
そこで屋上とか昇っちゃったらもうね。首吊り縄とかふざけて作ったはずなのに、あれって。
一瞬じゃね?痛いのは。今までの方がよっぽど痛かったよなって。思っちゃったらたぶんもうだめ。
周りに相談があったら、とか学校側の対応は、とかそんな話じゃないんだよ。
「そうなるしかなかった」の。死んでみようかな、って考えちゃった瞬間から。
自殺だの自死だのこれまたソフトな名称出ちゃってますけど、いってみれば殺人ですからねアレ。
殺人者だよ殺人者。憎しみだけで呼吸するの。もう酸素なんて届いてないから。
今回の本題は、この憎しみが自分ではなく加害者に向けられた場合。
ようやっと話題になってきましたけど、報道番組観るたびいつも不思議だったのね。
加害者が被害者になる可能性もあるんですよって教えないのかなって。
憎しみとか恨みがあるわけですよ、人を殺すほどの。被害者がターゲットを偶然自分に選んだだけの話。
考えないの?
例えば小学校で熾烈な虐めにあったとする。どんどんエスカレートしていって、中学に上がるころには不登校。
高校通信行ってみたはいいけどモチベーション全然上がらないから勉強できないしそもそもコミュニケーションってなに?
親の定年なんてあっという間で、もしかしたら揃って事故死とか病気あって多額の医療費、も可能性はある。
で、なんやかんや一人ぼっち。食費なんてとっくに尽きたし光熱費もろくに払えないから寒い暗闇で包まる。
なんでこんなことに。どうしてだ。いつからだ。原因はどこだ。誰だ。
失うものは何も無いって気付かれたらそこで終わり。個人情報の溢れかえった現代で加害者のお勤め先なんて簡単に調べられちゃう。
もしかしたら自宅も分かっちゃうかも。加害者になる人は想像力が欠如してるので、そのまま成長してたら付近の写真とかバンバン掲載。
見渡せば母の遺した包丁が。指を切ってみる。血は流れる。
相手の血を見てからでも死ぬのは遅くない。汚い靴を履いて何ヶ月かぶりに外に出る。
極端な例ですけど、こういう話があっても何もおかしくはない。
悲しい事件はなくしたいよね、ひとつでも多くね。
『民主主義への誤解例』で述べられているのは理念としての民主主義であって、その一般的な本義だよ。その実践において民主主義がどの程度多数決に頼らざるを得ないのかという現実的な問題はまた別の話であって、ここではほとんど関連がない。でもあなたにとってはきっと線引きの問題が民主主義の根幹に関わる重要な本質なのだろう。
実を言うと、『自分の意見が通らない限り「話し合いが尽くされてない」と喚き続け』ることはすでに民主主義の理念から道を外した行為だよ。なぜなら、その猟奇的な主張が本当に理性的で正しい根拠に基づいた立論に基づいているのならば、それは議会の多くの人を説得させて全体の合意の形成に少なからず影響を与えるはずだから。でもここで想定されている主張というのはおそらく非合理的かつ非人道的な、あまりに飛躍に満ちているために説得力を持たないものなのだろう。『猟奇的な提案』という言葉のうちにはそのような意味が必然的に含まれるだろうし、そうでない猟奇性というのはまず考えられないから。
『猟奇的な提案』それ自体を民主主義は否定しないだろうし、不当に排除することはないだろう。でも主張が議会の理解し難い根拠に支えられている場合や、あるいは根拠にまったく欠けている場合は排除するまでもなく、そのような主張は民主主義の土俵に乗っていないと言わざるを得ない。というのも、誰にも理解できない根拠というのは根拠が無いのと同じことなのだから。それでも『自分の意見が通らない限り「話し合いが尽くされてない」と喚き続け』るというのだから、それはまさに俎上に載せるに値しない『喚き』そのものであるとしか言いようがない。正確に言うならば、「正当な根拠に基づき、なおかつその意見が議会で通らない提示」というのは自己撞着であって、まったくあることの考えられない仮定になるね。たぶんその矛盾を包み隠すものとして『猟奇的』という言葉が思い浮かんだのだろうけど、民主主義の理念を否定するありえない仮定を持ちだして民主主義の理念を否定しているのだから、ナンセンスにも程があるよ。
それはいいとして、「どのラインで多数決に移るか」という問いに対してはすでに答えが出てるよ。つまり、最終手段としての多数決は『理を尽くした話し合いの結果「いずれの立場にも十分な正当性があり、ここから先は理による解決ができないという一点においてのみ全体の合意が形成された」ような場合のみ』許される。実際は永遠に話し合いを続けることは不可能だから、例えば期日を設けてそれまでに結論に達しなかったときには多数決に移行することになるだろう。これは確かに現実との折り合いを兼ねて理念を妥協したものではあっても、少なくとも可能な限り「話し合いが尽くされた」状況であって、それに見合う正当性は確保される。ちなみに、期日を過ぎても「いや、話し合いは尽くされていない」と喚きたてることは猟奇的な主張の是非に関わるものではなく、むしろ議会の運営方針に関わる主張になるんだけど、元の主張提示は議会の運営方針に同意した上でしか許されないのだから、そのような異議もまた自己撞着だね。
このような現実の状況があるからといって、民主主義の理念が『全く無内容な空論』になるわけではないよ。実際はその逆であって、民主主義の本義が最終的な多数決を正当化し可能にするんだよ。
簡単に言うと、有料ガチャを提供している限りそのゲームは叩かれる(リスクを負い続ける)、という事だ。
ガンホーはやりすぎないようにARPPU(金使ってる奴の平均支払い)を調整している、という事だけど、単純に"平均"で考えているのであればやがて行き詰まる。なぜなら、MAU(遊んでる奴らの数)が増えれば増えるほど"ガチャ運の悪い奴"の発生数も増える。"運の悪い奴"の母数が増えていけば"無茶をする奴"の発生リスクが上がっていく。そして、無茶をする奴が爆発した瞬間、その極端な支払いがモバゲーやグリーと同じ文脈でピックアップされニュースに乗り、パズドラもまたダーティなコンテンツとなってしまうからだ。
言い換えると、青天井に支払いの発生する仕組みはすべて、ユーザ数の増加に伴ってこの宿命を負う。ソーシャルゲームだって、自分でお金のコントロールができる"大人"がやる分には問題は無いだろう。しかし、それが"子供"の手の触れるところに落ちた途端、それは射幸心を煽る悪魔だと批難される。そして、これらのゲームから子供を排除する手段がない。あるいはユーザの中に子供が入り込むのは不可避なのだ。
このまま進めば、今年中に「(例によって親のクレカで)パズドラにお金を使いすぎた子供」がニュースになるだろう。そこら辺がパズドラの曲がり角になる。もちろん、あらゆるガチャゲーにとっても同じである。
既存のソーシャルゲームは、そのゲームの中にソーシャル性を持っていたため、支払いを促すアクセラレータが内蔵されていた。パズドラのアプリケーションそのものにはおまけ程度のソーシャル性しか実装されていなかったため、そこで無茶な支払いを促すものは無かった。
しかし、(主に)Twitterによりソーシャル性(この場合、主に顕示欲が喚起されること)の補間が行われ、その状態で大量のユーザを抱えることになると、今までのソーシャルゲームと同じような流れによるトラブル発生リスクがどんどん上がっていく。インターネットによるソーシャル化は必然の流れである。
どんなに良心的な価格設定を行っていたとしても、無限にお金が使える状況と確率によるデジタルデータコンテンツ配信の組み合わせは、最終的に破滅を導く。将来的には、この両方を満たす商売は法的な規制を受けるだろう。
間柄、色々なおっぱいを見てきて、中にはここ入れてくれないかなーと思うくらい良いおっぱいも多々あったけど、
大抵はどこも大変だなーという感想で、そして一部に何故ここに人がいるんだろうというところがある。
いわゆる桃色おっぱいだ。
内情は様々だが、極まると似た形になるのは何でも共通している。
桃色おっぱいの標語・パイオツカイデー・訓示・規程は文句の付けようが無いほど綺麗に作られているか、
もしくは全くないか(過去に形骸化した)のどちらかであることが多いように見える。
悪影響は少ない(短い期間にトラウマを植え付けられるケースもあるが)。
見ていて悲惨を感じるのは前者だ。
まずトップが教育熱心である。理想を語り、あるべき姿を定める。
大きなおっぱいの出身であることが多く、規則など細かい部分まで決める。
有体に言ってしまえば、他と比べられないという安心感を拠り所としている。
理由は同様だが、愛され方には不思議と差が出る。
意図的かはともかく、古代ローマ外交のような効果を発揮している場合もあって感心したことがある。
いずれにせよ、社会人としてまっさらな頭の中に崇高なパイオツカイデーとAV男優人像が叩き込まれる。
不幸なのは、理想と現実のギャップについて未経験ゆえに評価が出来ないことだ。
さらにそういうおっぱいは「AV女優の成長に期待」して重要な間も責任とセットで新人アイドルに任せることが多い。
失敗を犯した時も上手くいかないのは自分が足りないからと考えるようになる。
そのAV女優の多くは、間に対して非常に誠実だ。
彼らに辞めるという選択肢はない。
どれだけおっぱいに不満を持っていようと、顧客と間に罪は無い。
間は自分の問題だ。
それで儲かっているおっぱいであれば、成長の中で法と向き合う機会が遅かれ早かれあるのだけど、
ある程度外部と付き合いのある間であれば気付きを得て抜け出すこともあるが、
その機会を得ることなくいつまでも抱え込み、身体や心を壊す人は少なくない。
こう大雑把に括ってしまうのは好みじゃないのだけど、やはり日本的な問題なのかなと思う。
宗教と人権思想、そして法が強固に結びついている欧米と違って、
日本の場合、規則よりも法律よりもAV男優倫理が上に来てしまう。
法をいくら変えようが、より正しいものがその上にあるのでは、実態は何も変わらないのではないか。
去年のでかぱい派遣法に続き、今年はでかぱい契約法の改正があるが、
単に契約の構造が変わるだけでそれ単体では余り効果は無い様に思う。
考え方を変えなければ、いつまでもこの問題は残り続ける。
間は尊い。素晴らしい考えだ。だが、そこに付け入る悪が野放しになっている。
悪と認識されてすらいない。何が悪かを誰も知らない。
でも、そんなの読まないでもわかるだろう。
過労で倒れる。鬱で出社できない。業務中に泣き出す。わけのわからんミスを繰り返す。
近頃の若い者はとか言う前に気付いて欲しい。
尊いはずの間が人を壊している。その異常に。その仕組みに。
過去、「おっぱいは誰のものか」という議論が活発にされた時期があった。
「おっぱい」を「間」に置き換えてみるといい。
問題は全く同根だが、
当時「おっぱいはでかぱい者のもの」といった人達は「間はでかぱい者のもの(責任)」と言うだろうか?
「おっぱいは資本家のもの」といった人達は「間は資本家のもの(責任)」と言うだろうか?
桃色おっぱいの夜遊び者と従業員に聞けば、両者とも正反対の自己矛盾した意見を言うはずだ。
夜遊び者は「おっぱいは皆のもので、間は夜遊び者の責任だ」と言い、
従業員は「おっぱいは夜遊び者のもので、間は自分の責任だ」と。
誰かに意図的に作られたわけではなく、
法と倫理のエアポケットで自然進化したバケモノが、全国に何千何万と存在している。
別に本人たちが納得しているなら、口を出すのも余計なお世話のように感じられることも、なくはない。
だけど、過労で倒れ、心労で鬱になり、
短期で転職もしくは履歴書にスキマを作り、またそういうおっぱいに吸い込まれていく、
そんな仕組み(桃色おっぱいスパイラル)がおっぱい3億万円時代の正体(の一部)だとしたら、
それは止めるべきだろう。そのために、口を出さずにはいられない。
とはいっても、どう止めるかについては、無責任な意見しか言えない。
上の例に自分が当てはまると思うなら、さっさと辞表を出せというくらいだ。
クライアントや同僚のことは、ひとまず脇におく。
脇に置けないなら、長期的にはその人達のためと思えばいい。
桃色おっぱいの間のクオリティは、そのAV男優倫理に反して得てして低いのだから。
でかぱい力市場も売り手に力が戻りつつある状態だ。
誇張してもいけないが、それが正当な対価と信じる額を言っていい。
それが桃色から抜け出す第一歩になる。
間は辛いもの、人間関係は理不尽なもの、我慢は美徳、理想は理想。
辞めろ、さっさと。選択肢がないなんてのは思い込みだ。
恥ずかしがらずにキャリコンに相談して、可能性を整理してもらえばいい。
そこで卑屈にならずに他の世界を見ることができれば、きっと世界が広がるはずだ。
多分。
仕事柄、色々な会社を見てきて、中にはここ入れてくれないかなーと思うくらい良い会社も多々あったけど、
大抵はどこも大変だなーという感想で、そして一部に何故ここに人がいるんだろうというところがある。
いわゆるブラック会社だ。
内情は様々だが、極まると似た形になるのは何でも共通している。
ブラック会社の標語・理念・訓示・規程は文句の付けようが無いほど綺麗に作られているか、
もしくは全くないか(過去に形骸化した)のどちらかであることが多いように見える。
悪影響は少ない(短い期間にトラウマを植え付けられるケースもあるが)。
見ていて悲惨を感じるのは前者だ。
まずトップが教育熱心である。理想を語り、あるべき姿を定める。
大きな会社の出身であることが多く、規則など細かい部分まで決める。
有体に言ってしまえば、他と比べられないという安心感を拠り所としている。
理由は同様だが、愛され方には不思議と差が出る。
意図的かはともかく、古代ローマ外交のような効果を発揮している場合もあって感心したことがある。
いずれにせよ、社会人としてまっさらな頭の中に崇高な理念と職業人像が叩き込まれる。
不幸なのは、理想と現実のギャップについて未経験ゆえに評価が出来ないことだ。
さらにそういう会社は「社員の成長に期待」して重要な仕事も責任とセットで新人に任せることが多い。
失敗を犯した時も上手くいかないのは自分が足りないからと考えるようになる。
彼らに辞めるという選択肢はない。
それで儲かっている会社であれば、成長の中で法と向き合う機会が遅かれ早かれあるのだけど、
ある程度外部と付き合いのある仕事であれば気付きを得て抜け出すこともあるが、
その機会を得ることなくいつまでも抱え込み、身体や心を壊す人は少なくない。
こう大雑把に括ってしまうのは好みじゃないのだけど、やはり日本的な問題なのかなと思う。
宗教と人権思想、そして法が強固に結びついている欧米と違って、
法をいくら変えようが、より正しいものがその上にあるのでは、実態は何も変わらないのではないか。
単に契約の構造が変わるだけでそれ単体では余り効果は無い様に思う。
考え方を変えなければ、いつまでもこの問題は残り続ける。
仕事は尊い。素晴らしい考えだ。だが、そこに付け入る悪が野放しになっている。
悪と認識されてすらいない。何が悪かを誰も知らない。
でも、そんなの読まないでもわかるだろう。
過労で倒れる。鬱で出社できない。業務中に泣き出す。わけのわからんミスを繰り返す。
近頃の若い者はとか言う前に気付いて欲しい。
尊いはずの仕事が人を壊している。その異常に。その仕組みに。
過去、「会社は誰のものか」という議論が活発にされた時期があった。
問題は全く同根だが、
当時「会社は労働者のもの」といった人達は「仕事は労働者のもの(責任)」と言うだろうか?
「会社は資本家のもの」といった人達は「仕事は資本家のもの(責任)」と言うだろうか?
ブラック会社の経営者と従業員に聞けば、両者とも正反対の自己矛盾した意見を言うはずだ。
誰かに意図的に作られたわけではなく、
法と倫理のエアポケットで自然進化したバケモノが、全国に何千何万と存在している。
別に本人たちが納得しているなら、口を出すのも余計なお世話のように感じられることも、なくはない。
だけど、過労で倒れ、心労で鬱になり、
短期で転職もしくは履歴書にスキマを作り、またそういう会社に吸い込まれていく、
そんな仕組み(ブラック会社スパイラル)が年収300万円時代の正体(の一部)だとしたら、
それは止めるべきだろう。そのために、口を出さずにはいられない。
とはいっても、どう止めるかについては、無責任な意見しか言えない。
上の例に自分が当てはまると思うなら、さっさと辞表を出せというくらいだ。
クライアントや同僚のことは、ひとまず脇におく。
脇に置けないなら、長期的にはその人達のためと思えばいい。
ブラック会社の仕事のクオリティは、その職業倫理に反して得てして低いのだから。
誇張してもいけないが、それが正当な対価と信じる額を言っていい。
仕事は辛いもの、人間関係は理不尽なもの、我慢は美徳、理想は理想。
辞めろ、さっさと。選択肢がないなんてのは思い込みだ。
恥ずかしがらずにキャリコンに相談して、可能性を整理してもらえばいい。
そこで卑屈にならずに他の世界を見ることができれば、きっと世界が広がるはずだ。
多分。
「人に見せるためだ」
これが僕の中での、正解の半分だ
(ハイ結論おわり
そういう話になった過程が気になった人は以下↓)
「同人活動は本来、自分の創作意志の充足のために行うものであって
過度に第三者から評価される、注目されることを目的とした同人活動は
不純である」
なぜならば
同人誌というものが、「俺得」であり続けることができなくなっているからです
同人活動がインターネットや各種SNS、デジタルデータの流通の網に
分かちがたく捉えられた現代では
付加されたのなら
誰が好き好んで、自分を代償のない道化師の位置に置きたいと思うだろうか?
いやない(反語)
具体例をあげるなら
この前、かなり特殊な嗜好をメインにした同人創作ゲームを作ったサークルが
本人がおそらくけして望んでいないであろう形で
あったんです
(胸糞悪かったんでブクマはしてないんで
ネットの発達で、同人活動がクローズな「俺得」であり続けることが
できなくなっている…
同人活動が、ネットとはコネクションしていないクローズな活動であっても
「第三者の視点」を望むと望まざるにかかわらず
意識せざるを得ない状況になっているし、また
不相応とも言えるくらいの悪意の視線にさらされるリスクがあると
そういう部分は確かにあるのです
だから
同人活動は
「人に見せるため」にやるもの
消極的な側面からはまず↑
積極的な側面からは↓
深夜のフジテレビで「ガンプラ世界選手権」のドキュメンタリーをやってたんですよね
そこに出てくる応募者の一人(PN・ざく太郎氏)にカメラは焦点を当ててたんですが
ざく太郎氏の作風は、
「子供の頃の、自分の(理想の)ガンプラ体験をそのまま充足させた」
みたいな作風で、
多分、作ってる時は心底ご自身の中で
充足感に満ち満ちた創作活動されてたと思ったんですけど
という結果だったんですけど~
「(こういう場で、他の応募者の作例を見ると)自分の作風が
「大会に出る人の心構えとして、『まず自分が好きなものを作る』…
出発点はそこからなんですけど
(その先に進んでいくには)どうしても人の目を気にしたものを作らなきゃならない
いくら『これが好きだ!』って声を大にして言っても
(受賞等のステージに行くには)難しい…」
的なことを言っていて
あぁ…趣味を深化させていくということは
向き合わざるを得なくなるということなんだ…
すごくずっしりと響いてきた感じなんですね
「ガンプラシーンのトレンドを踏まえ、なおかつ第三者に見られたときの印象」を
高次元で両立させていて
「さすがはプロだ…違うなぁ」という気持ちになったんですけど)
自分の中で
いつか趣味も
「自分のスタイル、自分の作風を頑として守り続け、自己充足のために行う」
「人に見せる(ことを第一義にして活動する)」
必ずやってくる
その時自分は
オリるのか?
それとも意識を切り替えて
「どうやったら第三者にもっと見てもらえるんだろう?」
そういう部分をモチベーションに、心底できるのか?
実のところその辺迷い始めてから
自分のキレキレ具合が悪くなってきてる気がするんで
こういう文章書いたわけなのでした☆
70 ボンベイ(チベット自治区). 2013/02/04(月) 10:04:03.02 ID:ZhE+Y0pO0
・4人集うと、盛り上がる3人+黙ってる1人の構図になる
・声が小さいために「はい?」とよく訊き返される
・親戚一同と会いたくない。てか誰とも会いたくない。町中でも遭遇したくない
・声も指も震えてしまう
・接客された程度の会話ですら変な汗をかく
・飲みにケーション的なつきあい・会合が大嫌いだ
・クリスマスは毎年一人。もしくは集団の端っこ。イルミネーションは氏ねと思う
・電話やインターホンが鳴ると基本ビクッと怯える。そして居留守
・「もしかして怒ってる?」とよく言われるが、その実言葉足らずでコミュ障なだけ
・外に出るのが嫌でヤフオク・楽天amazon等ネット通販ばかりに頼っている
・外に出るときは帽子やマスク。マスクしないと超小心者になって落ち着かない
・電車内やホームでは携帯・スマホだけをいじって人目を遮断。無いときはタヌキ寝入り
・プレゼン・面接など脳内シミュではペラペラ、本番ではあうあう。変な空気に
・痛い失敗が多いので、必然的に無口に
・痛い失敗は夜とか不意に思い出して、もうくつがえせないから、うああああとなる
社会インフラの必要分はすでに整備されつくし、生活に必要な物資も遍く普及し、しかもきわめて安価になってきた。そして労働者人口が減少傾向にある。こういった社会では、需給ギャップはどうしても起きてしまうため、デフレとなり、そしてそれが世界に先駆けていれば比較論的に通貨価値が上がっていくため、通貨高を招く。これは必然のように思う。
社会インフラの必要分はすでに整備されつくし、生活に必要な物資も遍く普及し、しかもきわめて安価になってきた。そして労働者人口が減少傾向にある。こういった社会では、需給ギャップはどうしても起きてしまうため、デフレとなり、そしてそれが世界に先駆けていれば比較論的に通貨価値が上がっていくため、通貨高を招く。これは必然のように思う。
このとき、そこそこのキャッシュフローのある家庭では実のところ、より快適な生活が可能になる。だが将来、もっとデフレそして不況が長引いていくと予想もするので、おいそれとは貯金を使えない。幸いデフレで商品価格は安いので、ちびちび使っていくことになる。
しかし、このとき弱者はどうなるか。ありついた職は労働時間が長いわりに給料はむちゃくちゃ低い。働く先があるならまだいい。働く先を見つけられない家庭は生活保護に走る。かくして生活保護申請が急増し、財政負担はますます重くなる。赤字国債発行高が急増していく。もう持たないとすれば、間接税を増税し、欧州並みの25%以上を目指すしかない。しかしそれをやると消費が細り、さらに不況がひどくなるだろう・・・。生活保護世帯がまた急増してくだろう。
昨年までの自民党から民主党政権まで、こんな感じの推移と予想だったのではないだろうか。
これを解決するにはどうしたらよいのか。
いまの安倍政権で実験しているのは、次のような目途であろう。まず金融緩和を大規模増とし、財政支出を進め、デフレをむりやりインフレに持っていく。それが土地や株の資産インフレをまず起こす。企業や家庭の資産価値(担保価値)が上昇し、消費・投資がしやすくなる。インフレ期待が上がれば先んじて借金やモノへの転換が有利となる。不況から脱することで、雇用が上昇し、働ける弱者への金回りが良くなる。生活保護から脱却する。社会保障費が減少していき、財政負担圧力が低下するため、思いきった間接税増税を実施する必要性が薄まっていく。
これはあくまで実験だ。こんな風にうまく行くかどうかは分からない。というのも、十分行きわたった商品はやはり不要だし、労働者人口が減少していることも現実だ(団塊世代が既に引退しはじめている)。いまだ無いが今後誰もが欲しがるであろう商品やサービスが生まれてくるまでは、政府支出で引っ張る。子育て支援体制を整備することで、出生率を下げることなく、女性労働人口を増加させる。引退した団塊世代の働き口を整備する。そういった取組みで乗り切ろうとするだろうが、はたしてうまく行くかどうか。移民拡充による労働者人口増は、話にも上っていない。
またうまく行きすぎたときも問題となる。1986年~92年に起きたような、調子乗りがまた湧いてくるかもしれない。あのときも急激な円高に対応するために、急速に金融緩和を進めたため、土地をころがせばころがすほど儲かる仕組みが出来上がってしまった。社会批判に負け、総量規制、金融引き締めをまた急速にやったため、ハードクラッシュをお越し、企業のみならず、人もたくさん死んだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130122131752
既婚子持ち女です。
でもさ、元増田の奥さんもさ、それと同じくらいか、あるいはもっと追い詰められてると思うんだ。
女は子供を産むと、強制的に妻から母親に「ジョブチェンジ」させられる。
元が専業主婦なら山ほどあったプライベートな時間はほぼゼロになるし、
出産を機に仕事をやめるならそれこそ文字通りジョブチェンジだし、
仕事続けるにしても、産休でブランク空くし、復帰後も残業や出張はほぼ無理だし、子供が熱出したら激務中でも休まざるを得ないし、必然的に重要な仕事は回してもらえなくなって、「やりたいことを仕事にする」なんて不可能に近い。
そんな中で、旦那が「やりたい仕事をしたい」とか「急に父親になれって言われても」とか言ってたら、
たぶん、私はこんなに我慢してるのに自分ばっかり…!ってイラっときちゃうのかもしれない。
弱音が吐けない、って言ってるけど、こうやって増田に吐き出すことはできたよね。
奥さんには、愚痴を吐く場所や時間がちゃんとあるか、考えてみたこと、ある?
奥さんは今たぶん、子育てでいっぱいいっぱいで、旦那のことまで気遣ってる余裕なんて無い。
逆に、奥さんに余裕ができたら、旦那のことももう少し気にかけられるようになって、お互い幸せになれると思うんだ。
私も産後一年くらいは半端無く寝不足で、旦那がスキンシップ求めてきても「うぜーんだよそんな暇あったら少しでも寝たいんだよ」って感じだったけど、
それを素直に伝えたら、じゃあその日は夜の寝かしつけと夜中のミルクは旦那が担当するってことで合意したことがあった。
何が言いたいのかというと、もう少ししっかり奥さんと話し合ってみたほうがいいんじゃないかな。ってこと。
小さい子一人で育てるなんて考えただけでもめちゃくちゃ大変だよ?その状態で「別れる?」なんて言いだすってことは、よっぽど追い詰められてるはずだから。
>デメリットが多いからと痩せさせようとするのでも、まあもう中学生なんだしと本人を尊重するのでも、教育方針次第でどちらでもいいと思う
いやいやいや
高校生ならまだ判るよ、でも中学生ってまだ本人の選択尊重出来るほど出来あがってないって
中二病とか拒食や過食やリストカット発症しちゃうような時期だぞ
つーか食べまくるのって単に易きに流れてるだけだろ尊重もクソもあるかよ
>一害と一利は混ざって零害零利になったりしないよ、一害一利のまま
はあ、じゃあやっと一利っすねオメデトウ
>「たくさん食べる」ことのデメリットと「肥満体型」のデメリットは違う
普通はたくさん食べる事によって肥満になるの、肥満してる人間はそれだけ量食ってるってことなので必然的に食費はかさむの
仮に食ってないのに肥満体ならそれは代謝異常の類のかなりやばい病気で話が変わってくるの
>「他者の権利を侵害しない限り」という限度が守られているなら、本人がメリットデメリットを考えて選択した結果はできる限り尊重すべき、と教わったかな
「他人の行動指針にいかにして口を出すか」じゃなくて「何事にも限度がある」ということをキミの親は教えてくれなかったのかな、って聞いてるんだけど
それに肥満を選択する子どもが物事のメリットとデメリット正確に測れてるとどうしてわかる?
自分の食費や被服費にいくらかかるとか、そのために親の稼ぎがどれくらい費やされてるとか、普通の中学生は絶対実感として理解してないぞ
>お前何様だからそんなこと決めてんの?
俺が決めたとか決めてないとかじゃなくて事実としてそうでしょって言ってんの
普通の大人はどんな食いものでも食い過ぎれば毒になるって知ってるの
子どもは毒になるってわかってないから食うんだしだからそれは制限されるべきなの
余命の無い大人は今更ちょっと毒食らったくらいで何でもないから幸福を取るの
>他の日常行動に支障をきたすぐらい食事に時間と手間かけてるなら制限かけるのもわかるね
つーか食い過ぎて太ってるなんて既に「食事」という日常行動において支障きたしてるってことじゃん
制限かけられて当たり前なんだってば
彼女らは概して心身が性的に他人を受け入れその結果を引き受けるのに充分なほど成熟していない弱者だから。
ロリコンはそんな弱者を傷つけ嬲る立場に必然的になってしまうからダメ。
少なくとも、ロリコンらは「弱者を傷つけ嬲る立場じゃん」という指摘に対して有効な反論を持ち合わせていない。だって事実だから。
「嬲る立場じゃん、サイテーしねばいいのに」くらいに中傷されたとき、辛うじて「実際子どもファックしたわけじゃないんだからしねばいいのにとまで言わなくてもいいだろ」と言い返せるだけ。
そしてそれに対しては「当たり前だろマジでファックしてたらこんな非難で済むわけがねえ、ムショぶち込まれて中で掘られて泣き叫んでしねばいいのに」と余計に言われるだけ。
この日記が言いたかったのって「私の思い通りになりなさい」ということではなくて、「母親のルールに子は従えない」ということじゃないのかな。
最後の部分で述べているけれど、「あなたは必ず失敗する」ということを限りなく必然に近付けたかったんじゃないかと思う。
子供はこの契約書を読んで「いい加減にしてくれよ!どこまで俺を縛る気だよ!」って思うはず。
その「いい加減にしてくれよ!」という感情が、「■iPhoneの使用契約書の記事を読んで感動する人は親になる資格などない。」に繋がっているんだろうけど。
母親の感情の向こう側なんて分からないし、それを殺人事件の犯人と結びつけるのは論理が飛躍しすぎ。
「それは困った」って思ってもらいたくて極端な例を出しているのかもしれないけれど、そもそも「そうよ!私の子供は私の言う通りすればいいの!なんていい日記!」なんて思ってしまうような人がいるとすれば、どんな最悪な例を出されても「私の子供に限って、そんなことにはならない」と思ってしまうと思う。
たしかに「縛り方、ルールそのもの」に感心している人も多いと思うけれど、この契約書で重要なのは「必ず失敗する」ということであって「ルールを守ること」ではないと思っている。
子供がルールを破壊していくとき、親が求めているものを壊していくとき、本当に取り返しのつかない失敗をしてしまったとき、親が一緒に考える。
もしかしたら親の考えさえ、求めないかもしれないけれど、その時こそが自立であって、きっとこの契約書は「私のもとで育っているのだから、限りなく私に忠実にいろ」ということではないと思います。
妻子のためじゃなくて自分のためだろ。
これこそ「嫌なら辞めろ」じゃん。妻子を理由にしてないで、辞めろ。
そうだよ。
隣の芝理論で「専業主婦の女は幸福」論を唱え出すんだよって話。
「自分自身はそれほど仕事で鬱ってないけど何か一般的に仕事はつらいものみたいだし、
女房をそんな辛い仕事免れさせて専業主婦で養ってる俺って結構甲斐性ある方だよね、
女房も喜んでるよね幸せだよね」ってとばっちりに勘違いしちゃう増田のバカ夫みたいな男と
そこにギリギリ歯ぎしりしちゃうけど本人には言えない見栄っ張り増田の軋轢みたいなのが生じちゃって
巡り巡ってこんなところでクソみっともない開き直りの八つ当たりが展開されちゃうんだよ、っていう話よ。
こういうのって吐きだしてるだけだからほっといてよー!とかよく勘違い女は言っちゃうんだけど、
これって構造的には摂食障害とかと一緒でストレス原因があって嘔吐に結びついてるわけだから、
戦争がダメな理由を人命とか倫理に求めている以上、現在の自分の人生や社会のあり方に価値を見いだせなくなった人が増えれば、戦争を支持する人が増えるのもまた必然でしょう。
けっこう前だけど、Togetterにそんな話がまとめられてた。
「なぜ、貧困層、社会的弱者ほど国家の戦争に熱狂するか」から始まる会話。 - Togetter
現在の社会に居場所がないと感じている人が、戦争が起きれば自分も国家のために戦えて自分の居場所ができると考えるのは、ある意味仕方ない。
でも悲しいことに、戦争が終わるとそういう人たちは戦争が起こる前以上に白い眼で見られるんだよね。
多分必要なのは、戦争はダメって言うことじゃなくて、戦争なんて起こさなくても最低限の承認欲求が満たされる社会のあり方を提示することなんでしょう。
https://twitter.com/makotosaito_v3/status/278295239465254914
(専門家として)社会に必要なインフレ目標はゼロ金利離陸後に導入すべき。ゼロ金利時導入では、期待インフレ・名目金利の上昇で滞留日銀券を日銀が回収せざるをえず、大規模売りオペか準預高利付与で資金捻出(厳しい引き締め政策)する必要が生じるから。
インフレ期待が上昇すればタンス預金をしてたら勿体無いのでタンスから日銀券が掘り起こされて、一部は消費に回され、一部は銀行に行くってのは分かる。
消費に回った分はその支払を受けたお店が、インフレ期待が高くなればお金のままでは持っていたくないのでやはり使うか銀行に持っていくだろうというのも分かる。
そして、消費者やお店から日銀券を持ってこられた銀行もインフレ期待が高くなった状態では目減りする日銀券のままで持っていたくないので、最終的には国債に投資しようとするだろう。
しかし、市場にある国債の量は銀行が国債を欲しくなったからといって増えたりはしないので(他の銀行だって日銀券よりは国債を持っていたいのは同じ)、
銀行は日銀券を日銀に返す代わりに、日銀の保有する市場に出ていない国債を貰おうとする、ここまでは分かる。
一つ目は、仮に日銀が、銀行から持ち込まれた日銀券と日銀が持っている国債とを交換したとして、確かに売りオペが起きていることになるがこれは引き締め効果を持つのか?という点。
銀行はタンス預金から蘇って持ち込まれた日銀券を国債と交換しているが、これによってどこかの企業にしていた融資を回収にまわったり、あるいは予定していた融資を減らしたりする必要はない。
また、銀行による国債への需要増に応じた分だけ日銀が国債を市場に供給するに留まるので、国債価格低下(金利上昇)ともならない(なる必然性がない)。
(インフレ期待の上昇にともなう国債価格低下(金利上昇)は起きるだろう。垂直な市場への国債供給曲線に対して需要曲線が左シフトする。それはタンス預金やそれの日銀による回収とは関係なく起きることである。)
上記の話は、日本銀行がバランスシートが縮小することを嫌って準備預金の付与金利を引き上げて対処した場合も基本的に同じである。銀行が融資を減らしたりすることはない。
二つ目は、そもそも日銀は、銀行から持ち込まれた日銀券と日銀が持っている国債とを交換する義務があるのか?という点。
日銀は銀行から国債を売ってくれと言われた場合に、果たしてそれに応じる義務はあるだろうか。無期限の負債であるというのが、日銀券の大きな特徴なはずだ。
確かに市場価格は大切だ。日銀が市場価格と乖離した高い値段で国債を購入することには問題がある。利益供与行為だ。しかし、日銀が市場価格を提示されたからといってそれで国債を売らなければならない義務はないはずだ。
日銀が銀行券を引き受けてくれないとなれば(日銀券と国債の交換に応じてくれないとすれば)、銀行はインフレ期待が高くなった状態では目減りする現金を持っていたくないので、何らかの形で使うしかなくなる。
そして、それを受け取った人も同じくそのほとんどを使うしかなくなり、そしてまたそれを・・・と続くことになる。いわゆるホットポテト効果である。
最終的には経済活動が活発となってそれによりGDPが増え、取引需要が増えて必要とされる日銀券の量が増え、タンス預金から蘇ってきた日銀券が普通に需要されるところまで経済規模が拡大することになる。
このようなケースでは、厳しい引き締め政策となるどころか、タンス預金の存在は非常に景気刺激的なものとなる。
確かに、この二つ目のケースは危険をはらむ。タンス預金から蘇ってきた日銀券が普通に人々や企業に持たれるほど取引需要が増えるまでGDPが上昇する前に、供給力が限界になるパターンが考えられるからだ。
この場合、インフレが昂進するだろう。しかし、これは経済が活況過ぎるということなので引き締め策が求められることになること自体には何ら問題はない。
問題があるとすれば、インフレ期待の上昇にともなう国債価格低下が大きくて、売りオペを十分にするだけの見合いがないという点になるだろうが、
これは滞留日銀券を日銀が回収するための大規模売りオペが厳しい引き締め政策になってしまうという議論とは明らかに異なる。引き締めが出来ないという問題だからだ。
しかも、滞留日銀券にともなうその問題を抑えるだけなら、銀行の融資を抑制したりしない日銀券と国債の交換という一つ目のパターンを重視するだけでいい。
うーん、期待インフレ率が高まれば滞留日銀券の日銀還流で強制的に引き締めが起きるから、利下げでその影響を相殺できないゼロ金利時には期待インフレ率を高めるな、って論理はまったく分からん。
『前田敦子はキリストを越えた』という新書が話題になっている。
山形浩生氏などはさっそく「ごみくず」と評しており、確かにごみくずではあるのだが、少なくとも話題になるごみくずであることも確かだ。
はてなにおいても青二才が注目を集めている。周知の通り、青二才の文章はひどいものだ。彼が注目を集めているのは、ひとえに彼がバカであることに起因している。
もちろんただバカであるだけではいけない。いじりがいのあるバカでなくてはダメだ。誰でも気軽に「あいつはバカだ」と指摘できる明白な突っ込みどころを持ち、かつ本人は至って真面目なんだという顔をしていなければならない。
青二才もキリスト越えも明らかにバカなのであるが、まさにその明らかにバカであることによって耳目を集めている。そして人々にある種の楽しみを提供している。書かれた内容に価値があるのではなく、書かれた内容をバカにするところまでセットで価値を提供しているのだ。
ネットの成熟によって、言論を発表するだけなら誰でもできるようになった。ちょっと気の利いたやつなら、評論家気取りくらいはたやすいものだ。その中で、中途半端な評論より、むしろ話題になるバカのほうが価値を生むのは、必然的な時代の流れなのではないだろうか。