はてなキーワード: 必然とは
http://www.jcp.or.jp/web_download/seisaku/20121126-seisaku-dj-net.pdf
これを読むと、同じ災害を引き起こさないための対策は一切行わないようにみえる
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2012/11/2012-07.html
だが、分野別政策を読んでみるとこう書いてある
長周期地震動や地盤の液状化などへの対策を強化し、被害を最小に抑える取り組みをすすめます。交通やガス・上下水道などライフライン施設、河川堤防、がけ崩れや土石流などの危険箇所、老朽化したため池など、災害危険個所の点検を急ぎ、必要な補強・補修を優先しておこないます。住民の要求をよく踏まえて、電線の地中化など、安全性を高める措置をすすめます。災害対策を無視した開発行為の規制など、まちづくりそのものを、開発優先から、防災を重視した住民参加型に転換します。開発や土地利用の変更にあたって、災害に対してどのような影響があるかを事前にチェックする防災アセスメントを導入します。森林の荒廃が大量の流木や大規模な土石流をひきおこし、被害を増幅しており、間伐や風倒木撤去の徹底、作業用林道の回復措置などを確実におこなえるよう必要な支援を強めます。災害復旧にあたっては「原形復旧」をおしつけるのではなく、再度災害を防止するため必要な「改良復旧」をすすめます。
必要な補強を行うには土建屋に作業を頼まないといけない。同じ災害を防止したりするのも同様だ
頼む主体は国だ
国が行う事業は公共事業と呼ばれているから、必然的に需要も増えることになる
つまりやろうとしていることは自民党の国土強靭策と同じになるのだが、政策ダイジェストではそれに触れられていない
まったくもってバカだとしか言いようがない
http://anond.hatelabo.jp/20121130193539
都市は本質的に、生産年齢の労働者を地方からつまんでくる構造になっている
江戸にだって男やもめがいっぱい流入してたわけだから、現代の都市の病理と表現するのさえ近視眼的で、都市というもの自体が持っている特性だと思う
少ない下町の土着住人分ぐらいしか、育児に割く人手やスペース等諸々のキャパがない
だから、都市は子育てをよそでやらせる方式で成立しているエリアなんだ
・地方で生まれ育つ
揺籃と墓場を地方任せにして真ん中の美味しいところを集めて成り立つのが、都市
変わったとすれば、地方が疲弊してもはや揺籃と墓場の役を果たさなくなり、また地方→都市(→地方)という生活史が成り立たなくなったこと
都市の育児キャパをはるかに超えた人口を抱える団地や郊外で生まれた在都移民二世がそのまま都市に居着いて在都三世を産み育てるターンになり、地方に足場の存在しない、都市での育児という問題が表面化したと
都市はまったくこれまで通り
ところが地方に根を持たず都市で子育てする在都二世三世が膨れ上がって、都市のキャパを越えてしまい、その分をもうどこも持とうともせず持てもしない
その地方の役割をかわりに担い出したのが郊外だ、ということだろうか
さて、都市は地方に育児というコストを押し付け、「金の卵」を持っていく
そこで、経済的に最適化して美味しいところをつまんで生まれた富を、仕送りや地方交付税で地方に還元する
都市~地方のシステムはそうやってバランスするように調整されていた
子育てするのにクルマで隣県まで行かなきゃならんてのはやっぱ不合理で、外部不経済ですよこれは
自由経済に任せればこうした都心と郊外の役割分担が必然的に生まれるのだとすれば、その必然によるアンバランスに介入するのが行政の役割
「子育てに適した遊戯施設を提供してくれる郊外自治体に東京都や渋谷区が金を出す」
はあ?
お前は発達障害か何か?
どう見ても遠まわしに別れようとしてんだけど、それ。
条文が削除されたのはデマではなかろう。意味がない、と言うが、意味がないなら削る意味もないだろう。意味がないということにしたい勢力がいるのではないか? と疑われかねない他の文言改正とあわせて読めばさらに。例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。14条は差別の禁止しか言ってないし、11条はわざわざ「将来の国民」から権利を奪うことを明示しているとも読める。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。
おカミて、神?上?紙?どういう意味で許し難いの?
法律専門じゃないけれど、人では無い憲法という抽象物から権利を与えられ、というのが世界的によくある形態。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
自民党案
第十四条 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
??差別の禁止だけでもないし、これ以上何を入れろと?
余計な文章を入れ込むことによって、裁判でおかしな判決で不利益こうむる人も出てくるんだよ?
それに、障害の有無を入れたあたり、評価すべきじゃないの?
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
「永久に」が残っていれば将来に渡って、の意味も含まれているでしょ。
それより、「国民に」を削って国民以外も視野に置いた点で、在日○○人らには良かった改正じゃないの?
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党案
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
公共の福祉、これは論争がある用語らしいね。面倒だからコピペ。
もっと明瞭な用語に変更して誤用や乱用を防いでいるように取れるんだが、具体的に何が「危険思想」なの?
公共の福祉の意味については、古くは争いがあった。尚、現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できるので、極めて重要である。
一元的外在制約説
公共の福祉という用語は、当初は人権の外にある社会全体の利益を指すために用いられ、公共の福祉を理由として人権を制約することが判例上広く認められていた。この説は、もっぱら人権の外部に「公共の福祉」なる概念が存在し、あらゆる人権保障に制約を加えることができる、という意味で「一元的外在制約説」と呼ばれる。
この説は現在では全く支持されていない。なぜならば「公共の福祉」を根拠にいかなる人権も制限可能であるならば、大日本帝国憲法の“法律の留保付き”の人権保障と全く同じ運用が可能になってしまい、個人の自由を最高の保護法益とする日本国憲法とまったく相容れなくなるからである。
二元的内在外在制約説
公共の福祉により制約が認められる人権は、経済的自由権(22条と29条)と社会権に限られ、12条・13条は訓示的規定に過ぎない、とし、右の権利以外は憲法的制約はなく、それぞれの社会・文化関係から自律的に制約されるのみとする説があり、これを「二元的内在外在制約説」と呼ぶ。
一元的内在制約説(通説)
宮澤俊義により主張され現在の通説とされる学説[1]。公共の福祉を人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理と解する。この意味での「公共の福祉」とは、憲法規定にかかわらず、すべての人権に論理必然的に内在しているとする。この「公共の福祉」原理は、自由権を各人に公平に保証するための制約を根拠付けるためには"必要最小限度の規制"のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保証するために社会国家的公共の福祉として機能する、とする[2]。
例えば、憲法上保障される表現の自由は、同じく憲法上、幸福追求権の一種として保障されると解されているプライバシーの権利と衝突する。このような事態が生じる場合に両者の調整を図るための概念が「公共の福祉」である。
もっとも、このような理解に対しては、いかなる場合にいかなる程度の人権の制約が可能であるのか明らかでなく、結局「社会全体の利益」と理解した場合と同程度の不明確さが残るのではないかとの批判がある。このため、一元的内在制約説を人権制約に関する具体的な違憲審査基準の規準として準則化したものとして、「比較衡量論」(ad hoc balancing)や「二重の基準」 (double standard) の理論が提唱されている。なお、公共の福祉による人権制約は法令によってのみ行われ、法令による規制が合理的であるかどうかは違憲立法審査によって行われる。法令以外によっての公共の福祉による人権制約は許されない。例えば契約書や約款・就業規則等の規定が公共の福祉の根拠となることはない。なぜなら民法90条「公序良俗に反する契約は無効」とは全く異なる概念であるからである。
いまって言っても、もう結構前なんだけど。
たまに思い出して虚しくなるから、適当に殴り書きしたくなった。
特定されるのが恐いので、それなりにぼかして書く。
一緒にご飯食べたり、でかけたりして、後に一緒に住むことになった。
まぁなんか一応、子供に許可を得るという儀式を行われたんだけど、今思えばそれもおかしい。
「俺と母は、好き同士だから一緒に住みたい。」
「お前達もお母さんと一緒に居たいやろ?一緒に居たいなら俺と一緒にやっていこう。」
「嫌なら適当に出て行って、おじいさんと一緒に住めばいい」って言われた。
まだ小さかったので、<母親と離れるのは嫌>→<一緒に暮らすという>思考にいたり、一緒に住むことになった。
私たちが失敗したりすると、しつけと称して殴られたりした。
それもホントにくだらない失敗だったりなんだけど、すぐに殴るし怒鳴る。
間違ったこと言ってると思ったら、自分の意見を言えって言われるけど、論理的に説明すると理屈は要らないとか屁理屈をこねるなと頭から否定される。
明らかに論理的におかしいことを言っているのに、自分のことは絶対に間違っていないと思っている。
だから何を言おうと、伝わらないし解決もしない。
元々、職についても、1年程度で辞める人だったんだけど、辞めてはダラダラ過ごすの繰り返しをしているうちに、働かなくなった。
また、母子手当目当てなのか、籍は入れていなかった。
だから、私は小中高と片親だと言い続けた。言うなと言われていたから。
以前から、そいつは、ギャンブルが好きで(本人は好きじゃないと言っているが)いろいろなギャンブルに手を出していた。
働かなくなってから、ギャンブルを職業の様にするようになった。
中学の時から大学は行くなと言われていたので、就職のことを考えて工業高校に進学した。
バイト代は全額家に入れた。というか強制じゃないといいつつ強制だった。
小遣い制だったんだが、まぁほとんどもらえなかった。
それもあって、小中高と友達とは付き合いがなくなった。
友達ができても、一緒に遊びにも行けないし、共通の趣味を持つこともできないから必然的にそうなった。
そんな生活に耐えかねて、妹たち2人は、家出をし、未だ行方知らずのまま。
何度か連れ戻されて、監禁まがいなこともあったけど、成人してからは捜せなくなった。
自分で言うのもなんだけど、もともと賢い部類の人間だったので、高校も好成績で卒業。
就職も難なくできた。
とにかく家にいるのが辛すぎて、外に居る時が息抜きだった。
携帯は、何度か理不尽な理由で取り上げられたりして、それはそれでショックが大きかった。
就職して、社会人として働き出してからも、給与の振り込み先の通帳を押さえられ、小遣い制の日々だった。
もともと印鑑、身分証明書、通帳の類は、すべて預かりといいつつ、押さえられ、身動きが取れない状態にされていた。
忘年会などの会社のイベントに出席するとなると、平日の深夜までくどくどと言われ、お金を出し渋られる。
残業時間が1円単位で、合致するか調べられて、合致するまで(ry
理不尽なことで怒られては、殴られるし。散々な日々だった。
いまから5年ほど前に、うちの家の異常さに気づき(こういう家庭で育ったら【普通】の感覚がずれている)絶望。
当たり前だと思っていたことは、まったく違うと知らされる。
そして私は30になり、未だにその状態が継続しているという。
どうしたらいいのかもわからないし、何がしたいのかもわからない。
ガマンし続ける生活だったから欲がほとんどなくなったし、無気力って奴かな?
こういう家庭って結構あるのかな?
我々は凱旋門賞の勝利を失った!
しかし!
これは敗北を意味するのか?!
否!!
にもかかわらず、今日まで果敢に戦いぬいてこられたのは何故か!?
諸君!!
それは競馬場に通う諸君らが一番よく知っている!
ノーザンダンサーの血にこり固まった一握りのサラブレッドがアメリカの新天地を含む世界全域を支配して五十余年!
日本に住む我々が凱旋門賞を要求して、何度欧州の名馬どもにふみにじられたことか!!
かつてジオン・ダイクンは競馬の革新は極東の民たる我々から始まると言った!
その言葉のとおり!
我々は過酷な高速芝を競争の場としながら共に苦悩し、練磨して今日を築きあげてきた!
我が日本競馬はダイクンの夢と理想をまさに形あるものとしてきたのだ!!
神が見捨てるわけがない!!
わたしの三冠馬、諸君らが愛してくれたオルフェーヴルは負けた!
何故だ!!?
(池添「スミヨンだからさ」)
新しい時代の覇権を、彼等選ばれた競走馬が得るのは血統の必然である!!
ならばこそ我々はオルフェーヴルの前に襟を正し!
士気を高め!
この戦局を打開しなければならない!!
しかしながら欧州のサラブレッドどもは自分たちのみが凱旋門賞の勝利を有するとして我々に攻撃を加える!!
諸君のエルコンドルパサーもディープインパクトもナカヤマフェスタも!
その無分別な暴力の前に敗れていったのだ!!
この悲しみを怒りを!
忘れてはならない!!
それをオルフェーヴルは敗北をもって!
我々に示してくれたのだ!!
我々は今!
そうしてこそはじめて真の勝利を得ることができる!!
この勝利こそ戦いに斃れた馬達への!
最大の慰めとなる!
競馬ファンよ!
悲しみを怒りにかえて立て!
競馬ファンよ!!
面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの。
「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」
http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html
元記事では「ブタがいた教室」
(http://goo.gl/DV423)(Wikipedia)
という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタを飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。
とくに考えてみなくとも、この教育方法が愛玩動物と家畜を意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場や屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務からも解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまり、ブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。
農家で働く人々のなかには、家畜を愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらくいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎の環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつの社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつの労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域で人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。
この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペットを家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だから、ブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物を教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである。
「生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ(屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育の権力と子供の阿りにあまりに幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必要は一切ないのだから。感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的な意味から屠殺を要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。
こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理が子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。
つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペットを屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童の感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命の価値とは、その動物が与えられている人間の愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である。
屠殺に賛成する児童にしても、その意見の後ろ盾となっているのはそのブタが屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義でしかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。
こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童にペットと家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜とペットの存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタは家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為を考察する可能性から遠く離れることになる。
結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜の意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学や職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯に繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。
ナメック星編(?)が終わった(トランクスがフリーザ一派を全滅させた)あたりまで読んで思った事。
宇宙最強の帝王が父親(コルド大王)と一緒に辺境の星に旅行に行って皆殺しにされたのに、最終回まで一度も残党達が地球に捜索に来ない理由は、誰にも知らせない「お忍び」の旅行だったからではなかろうか。
フリーザ一族は自分たちが宇宙最強である事に強いこだわりを持っていたみたいだから、野蛮なサイヤ人に殺されたとなれば全力で隠そうとするはず。
そうなると、(フリーザ達の感覚では)辺鄙な場所にある地球に行く理由もおおっぴらに説明する事は出来ず、必然的に秘密裏での旅行という形だったのかも知れない。そういう意味では、あの時同行した部下達はフリーザ一族の中でもとりわけ信頼の置ける連中だったのかも。
他にも考えられる要因としては、残ったフリーザ一族(劇場版ではフリーザの兄とかいたし)の間や他の強豪種族との権力争いとか、そういったゴタゴタで捜索するどころの余裕がなかったから、とも考えられる。
ファミレスで大喜びだし十分だろ。っていうバカ男子がいたんですよマジで。
そんなこと書かれたら「いやありえないだろ」って思う人が出てくるのは必然。
で、面識のない多くの増田に対して、初対面でファミレスなんてありえない。という表現はあってるのか?って話だな。
おっしゃるように、『面識のない人や薄い人は「他人様(ひとさま)」っつって礼儀正しく接するべし』だから、
増田への書き方も、そう書いたら?って事を 遠まわしに言ってみたんだが?
『ファミレスがありえない』は同意してるだろ。その増田にとって、ファミレスで十分な関係で会って、書き込んだ増田にとっては 場所を選ぶことはする。って書いてあるんだから。
ただ、『ファミレスがありえない』を『ファミレスがありえない』と増田に書き込むことについて、どうよ?ということは
『面識のない人や薄い人は「他人様(ひとさま)」っつって礼儀正しく接するべし』というのならば
考えてくれ。
増田が、ファミレスに連れてった増田に直接何を言おうと、増田の自由だが。それを読んでる同じ男性に何を言ってもいいというわけではない。
バカ男性を見て、一緒に笑う男もいるだろうが、同じ男性として そういう言い回しはどうよ?と思う男性もいるという事だ。
最初から、ファミレスに連れて行かれたけど、やっぱり、同じ値段でも、もうちょっとオシャレな場所がいいなぁ。値段というより雰囲気ぐらいは。世の男子の皆様どう思います?って書けば。普通に そうだね。って同意できるだろ。
バリューとか言いだしちゃってますけど、そもそも喪女は商標登録されてないスラングなのは了解してますよね。
スラングを流通に乗せる際に「喪女」=「もてない女」から「ぼくのかんがえたもてない女」にジャンプして「喪女」と名札付ければ叩かれるに以下略。
…実は登録されてたらどうしよう。鬱陶しさ倍だわ。
読者はあれを「喪女」として了解したり消費したりしておらず、
原作者もあれが「喪女」ではないこと、むしろ「俺」であることを明言しています。
(もし読者がアレを「喪女」として了解し消費していたら
大炎上から売上ガタ落ちに至ってないだけで、元増田記事で火はついてるじゃないですか。
たぶん局所的な小火で終わるのであなたみたいに火力でお祭り騒ぎを測るタイプの人は「何だ結局何もできないんじゃんw」で終わりでガッカリするかもしれませんが、喪男に喪女かぶせて消費するという態度が気に入らない層は「あ、そういうことだったのか」と納得が得られるので無駄ってことはないですね。
それと、前述したように喪女はスラングなので読者はそもそも喪女なるものを完全に了解してこの作品に取り掛かることはないです。というか、完全に了解して取り掛った読者から今まさに炎上してるので。
作者が明言しているのもインタビューにおいてですよね。普通インタビューって作品を読んだ後で興味をひかれた層が読むものなので、事前了解とはとても言えません。
喪女を了解していない読者の心理としてはあなたの指摘と逆で、この作品を読むことである種の「喪女」像を把握したと錯覚する可能性はなきにしもあらずです。それを前提に「喪女」という言葉であれこれ言われるのは喪女側に非常な不快を誘うのは必然です。
ある漫画に無茶苦茶な根拠で言いがかりをつける人に反論しています。
あなたが主張してきた
私が主張してんのは「喪女が」であり、「~したらこうなりそう」であるという事は再三言ってますが都合よくスルーですかそうですか。
何と戦ってるんだかよくわかりませんがそれは私ではないのでとばっちりはやめて下さい。
何の根拠も示さずに特定の作品やクラスタについて
「だからこういう悪いこと考えるに違いない」
「うむ!こういう被害がありそうだ!」
…とか言い出すのは、
その対象に対しては明白な誹謗中傷ですし、
「あいつら」って誰ですか。「これこれこういうことをした人がいたら」というのは特定の個人の誹謗中傷とは言えないです。
「~に違いない」なんて書いてないです。どこにも。何だったら引用して下さい。