はてなキーワード: ミスコンとは
アニメアイコンの童貞キモヲタ(アルゴン@Argon0126)が、顔は不細工だけどリア充でカースト上位のミスコン女(まりか)に去年4月の京大熊野寮の新歓の時に、一人だけ「君は無理」と鍋をよそってもらえなかったことを根に持ち、1年半後の今、女がミスコンにエントリーする時期を狙ってツイッター上で悪口を書いて炎上を誘発した。
キモヲタはネット上では有名なオタクでツイッターのフォロワー数も多く、すぐに拡散し炎上。ミスコン女を社会的に抹殺したかったキモヲタはミスコン女を叩くネット世論に快感をおぼえていたが、今度はキモヲタ自身の個人情報が晒されるという不測の事態が起きる。
その個人情報から同じ寮に住む奴らに身バレし、「非リアの極み、超絶ネット弁慶、あだ名は小学生、不潔」と暴露され、素性が明らかになるにつれて、次第にネット上でも「私怨で炎上させてネットで叩かせようとする男もキモイ」と叩かれるようになる。
ミスコンに出たがるのも女ばっかりだが。。
ミスコン大好きなのってどう考えても男だろ……
http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20151201/sum_E1448932351189.html
このポスターの是非について論じることはしない。ここでは、この一件にも見られる、萌え絵というだけで女性差別とみなしバッシングしているように見える人々の背景と、そのような態度の妥当性について検討する。
戦後なお女性蔑視的な風潮が続いた日本において、女性性*1をメディア上で描く=男性が自らの欲望を満たすための娯楽(あるいは男性による女性の支配を追認・再生産させる手段)という側面が非常に強かった時期があり、そのような表現がおおっぴらに流通していた*2経緯がある。最近でこそそのような空気は薄れてきてはいるが、その時代を生きてきた人々にとって、女性性を前面に打ち出した表現は、子細を精査するよりも前に「女性蔑視ではないか」と身構え疑ってしまうほどには、女性性の表現を巡る当時の状況は酷かったと言える。
このような、女性性の表現に対する条件反射じみた反感を植え付けられてしまっている人々が、いわゆる萌え絵を見た時、「これを描いた男性イラストレータ*3は、彼自身または受け手たる男性*4の、女性蔑視の感情=女性全般を支配下に置かんとする欲求を満たす意図で、このような表現をしたに違いない」という予断を持ってしまっても、無理からぬことだろう。件のポスターに対する反発に限らず、萌え絵に対してしばしば起こるバッシングは、こういった人々の心性 ― 萌え絵フォビアとでも呼ぶべき感情傾向がその土壌となっているのではないだろうか。
問題は、このような女性性の表現に対する感情的反発が、時代の移り変わりによって、表現に対する批判としては失当になりつつあり、場合によっては女性に対する抑圧として作用してしまうことにある。
今や、女性が自発的な意思によって自身の女性性をアピールしアイデンティティとしている時代である*5。女性性は、男性が一方的に支配下に置いて楽しむものではなく、数多ある美的尺度の1つとして、誰もが臆面なく表明できる選好という地位に納まりつつある*6。
このような状況に至るまでの過程において、80年代から90年代、若い女性が肌を露出したファッションをすることに、多くの年配者が「はしたない」「ふしだらだ」などといった反応をした。この現象は、フェミニズムの正道からすると「男性優位な社会において女性性の発露は男性がコントロールすべきとされていたところ、女性たち自らがその発露の自由を取り戻そうとしたため、男性優位な社会を是とする保守勢力の反感を買った」という理解になる*7。ブルカ着用の義務がしばしば批判されるのも、同様に、女性性の発露を男性がコントロールし続けようとする制度として理解されるからだ。
そういう過程を経て、現在では、女性性を強調したファッションや言動に対して苦言を呈することが、逆に差別や抑圧とみなされうる。このことは、女性解放*8の流れの中で達成された一定の成果だと考えるべきだろう。
これと同じような変化が、オタク文化やオタク個々人にも起きている*9はずで、実際、女性性を前面に押し出したイラストすなわち萌え絵を自分の意思で描いている(自身の娯楽として同人活動などを通じ発表している)女性イラストレータなどは枚挙に暇がない。送り手がそれだけいるなら受け手も同じで、萌え絵を肯定的に受容している若い女性オタクも多かろう。
放送当時はナデシコを評して「女を知らない連中が作ったアニメ」と面と向かって女性から言われたけれど、今はむしろ、女性から「ユリカ可愛い」と言われたりする。世の流れは不思議なもの。
以上のような事情を踏まえれば、ある表現が女性性を強調していることのみをもって即座に女性差別的と断ずるのは誤りだということがわかるだろう。送り手も受け手も、女性性を1つの美的尺度として称揚しているだけで、ことさらに特定の女性ないし女性全般の人権を軽く見る意図は(意識的にも無意識的にも)無しに当該表現を楽しんでいるという可能性は、今の時代においては非常に高い。そのような実態を踏まえずに「このような表現まかりならん」とするのは、露出の多いファッションを楽しむ女性にブルカを強制するのと何が違うのだろうか。
もちろん、日本の社会から女性差別が消え去ったなどと主張するつもりはない。公職・要職にある人物の差別的発言は今なお頻繁に報じられるし、女性差別的な広告がメディアを騒がせることすらまだまだある。
しかし、であるならば、個々の事例において女性差別に当たる箇所を具体的に挙げて糾弾すべきなのだ。それを怠り、女性性を強調する表現は即アウトという論に終始することは、その表現を支持しているかもしれない女性たちに対する抑圧として機能しかねないし、ようやく叶いつつある女性性の男性支配からの解放という成果を毀損し、さらには女性差別の観点からの表現批判という立場全体の信頼を失墜させてしまう。現に、はてなにおいてすらフェミニズムを軽蔑する風潮が生まれつつあるのは、この手の幼稚な言説が蔓延ったことの影響が大きいように思う。
なお余談だが、ミスコンを巡る議論についても類似の問題として考えることができる。女性性が数多ある美的尺度の1つに過ぎないのなら、その尺度の高さを称揚するかぎりにおいては(その尺度で低いものを侮蔑するのでなければ)、身体能力を称揚する各種スポーツ大会や知的能力を称揚する数学オリンピックなどと同様に、問題ないものとして受け入れられるべきだろう。要は、男性の視線が女性を一方的に値踏みしてはいまいか、という匂いが疑われているのである。例えば、審査員が男性ばかりで固められていたり、女性以外(MtoFや女装趣味の男性)の参加を拒んだり、入賞経歴がTV局アナウンサーとしての採用において最重要視されたりするようなことがあれば、このような匂いはよりいっそう強く感じられるだろう。
繰り返しになるが、ある表現が女性性を強調していることのみをもって女性差別的と断ずるのは、かえって女性に対する抑圧として機能しうる。かつて当たり前のように女性性が男性の支配下に置かれていた時代ならば妥当だったかもしれないその反応も、女性性が女性たち自身の手へと取り戻されつつある現状では、女性性の発露そのものをタブー化し、結果として女性性を男性の支配下へと送り返しかねない危険すらあることに常に注意しなければならない。ある表現に女性性が見受けられたなら、そのことだけで感情的反発を起こすのではなく、それが女性蔑視の価値観から生まれたものなのかどうかを丁寧に検証したうえで慎重に論じるべきだ。
端的に言うなら、萌え絵フォビアを動機としただけの主張は(女性たちにとってかえって有害なほどに)表現批判として雑すぎる、ということに尽きる。
*1 ここでは大まかに、少女的な可憐さや熟女的な色気といった要素を含む、女性ジェンダーに特有と見做される性質全体を指す概念としてひとまず定義する
*2 ポルノメディアのようにゾーニングされた表現ではなく、広告など公的なメディアにおいてさえそのような表現がしばしば見られたし、そもそも当時はポルノメディアのゾーニング自体が今よりもずっと緩かった
*4 その絵を楽しむ女性がいる可能性を想定できない
*5 ファッションなどはもちろん、女子力という価値観が肯定的に捉えられ浸透していることもその一環として考えられる
*6 LGBT・女装男性に対する若者たちの寛容さや、前述女子力が男性にも適用しうる肯定的評価と見做されていることも、選択可能な多様な価値観の1つとしてジェンダーを捉えるこのような大きな流れの一部だろう
*7 「女性が扇情的な格好をするのは、そのほうが男性優位な社会において有利に立ち回れるからor女性蔑視的な価値観を内面化してるからだ」などと主張する者もいるが、実際にそのようなファッションを楽しんでいる女性たちにとっては言いがかりでしかないだろう
*8 あるいはジェンダーフリー
*9 一般社会における女性解放の価値観が、オタク周辺に関してだけは反映されず今なお男性優位な価値観が支配的である、と無根拠に主張するなら、それこそオタクに対する差別に他ならない
眠くて半分くらいしか読んでないけど
今回、貴団体が「京大ミス・ミスターコンテスト」をWeb上で開催していることを知りました。しかし、私はこのコンテストにどこか違和感を覚えざるを得ませんでした。それは、これまで京大において積み重ねられてきた、ミスコン開催を巡る歴史と議論をまったく軽視しているように思えたからです。
京大生は頑張って毎年潰してほしい
京大ミス・ミスターコンテスト2015がTwitter上で盛んに行われた批判(と一部中傷)により中止に追い込まれた。私自身は京大生でもジェンダー論界隈の人間でもないのだが、この過程を見ていて多くの疑問を感じたので、ここにまとめていく。別にミスコン批判について詳しく解説する記事ではないので、そのようなものを期待していたなら別に読まなくていい。
基本的にはこのtogetterに沿って発言していく。ミスコン批判者側のパースペクティヴがわかりやすく整理された良いまとめであると思う。最初に断っておくが、私はミスコンをやめさせることには賛成であり、その意味でミスコン批判者側である。ミスコンを開催するようなやつらは大抵が最も憎むべきタイプのキモい人間である。しかし今回、ミスコン開催反対派としていち早くステートメントを出していた人々の持つある決定的な傾向が私にはないと感じたので、普通の意味でのミスコン批判を〈ミスコン批判〉と呼び、この記事で疑問を投げかける対象となるものを「ミスコン批判」と呼ぶことにしよう。
注意しなければならないのは、私は「ミスコン批判」者に敵意は全くない、ということだ。ミスコンを中止に追いやったこと、ただその一点に関しては全面的に肯定したい。この記事が特定の人々に対する人格攻撃に見えたのなら先に謝罪しておこう。申し訳ない。私が考えたことのどこが間違っているのかをわかりやすく教えてくれるひとが現れれば、私は満足だ。
11月16日に「京大ミス・ミスターコンテスト」なるアカウントが取り上げられたことから騒動は始まる(アカウント作成自体は7月のようである)。
【開催】本日より京大ミス・ミスターコンテストを開催します!???????? 11/29まで1日1回投票を受け付けております????是非サイトをCHECKしてみて下さい????✨ ▶︎http://www.missmisterkyoto.com/
これまでに何度かミスコンに関し議論が繰り広げられてきた(そして開催を阻止してきた)京大でのミスコン開催がこの時点で全くと言っていいほど問題視されていなかったという事態を重く見たひでシス氏らは、「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」なる文書の公開及びミスコン運営団体に対する公開質問状の提出を実行した。
「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」草案 です。気が付いた点があれば自由にコメントや編集をしてください。 https://t.co/ZZeaWzn81b
.@kyotomissmr 京大ミス・ミスターコンテスト(京大ミスコン)に対して公開質問状送りました。https://t.co/ENgjjDZwvk 多くの京大生たちが貴団体のコンテストについて違和感・疑問点を抱いています。生産的な対話となることを期待し、誠実な回答を希望します。
正直に言うと私にはこの公開質問状の意味がわからない。大学当局主催ならまだしも、単なるひとつの学生団体(企業が関わっているかどうかは本質的な問題ではない)にこのような物々しい文書を送りつけても「一部のTwitterユーザーに臨場感を提供できる」ことくらいしか得られないだろう。
今回、貴団体が「京大ミス・ミスターコンテスト」をWeb上で開催していることを知りました。しかし、私はこのコンテストにどこか違和感を覚えざるを得ませんでした。それは、これまで京大において積み重ねられてきた、ミスコン開催を巡る歴史と議論をまったく軽視しているように思えたからです。
「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論を軽視している」のは当たり前ではないか? そんな歴史と議論を認知している学生がいったどれ程いるというのだろうか。私が部外者であるから知らないだけでほんとうは多くの京大生――あくまでも「当時の」――がミスコン問題を認知している、という可能性もあるが、そもそも前回類似の問題が取り沙汰されたのが2012年(なんと3年も前である! 当時の2回生は留年・休学あるいは大学院進学していなければもういない)らしいということからも明らかであろう(そしてあなたが京大生ならば、2012年から2015年にかけてあなたのフォロー欄にどれだけの変化があったか考えてみてほしい)。2012年のミスコン問題について調べたところ今回のものとは異なる質の問題だとも感じたので、実質2004年まで遡って議論を追っていく必要がある。Twitterも存在しない時代じゃないか。突然「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論」などと言われても混乱するだけだ。
今回議論に参加したわれわれ京大生の多くは本コンテストの開催を知りませんでした。京大の名前を冠しているにも関わらず、京大生への認知不足に不信感を感じる覚える意見が多く出たのは事実です。「大部分の京大生の知らぬ間に京大ミス・ミスターコンテストを開催し既成事実を作ろうとしたのではないか」等の疑問点や不満を持っている方が多くいます。ミスコン開催容認派からもこのような声は聞かれました。本コンテストの告知をどのように行ったか具体的にご回答下さい。
これは単なる団体の体力の問題だろう。7月にアカウントを作り、9日間でフォロワーを300人まで増やし、ビラも配っていたのに「知らぬ間に」などと責めたてるのはちょっと厳しすぎる。普通にかわいそう。「京大」名義の使用には許可が必要という話は置いておくとして、京大の名前を冠しているかどうかは本質的に重要な要素なのだろうか。逆に、誰の目から見ても十分な告知が成されたところで京大の名前を冠しても良いと言えるのだろうか。ところで私の大学のミスコンも毎年知らぬ間に終わっている。あれが外見至上主義的だなんて思ったこともない(し無自覚に外見至上主義を推奨しているようにも見えない)。
「美」のほうには噛みつくのに「知」のほうには噛みつかない理由についてひでシス氏は以下のようにツイートしている。
ちなみに「人を社会的に容姿で順序付けることはよくない」と考えている人たち、その理論も論理力という権力勾配に乗って展開されてること、人を学力で順序付けることに関してはどう考えてるのだろう。ぼくは「学力による順序付けは生産性向上を通じて人類の幸福に影響する」で一応決着つけてるんだけど
故にこの批判の核、と言うか土台は、ガッチガチの功利主義であることが明らかとなった。「普遍的な道徳が前提とされていて、それに従っている」というわけではないらしい(「ミスコン批判」者の中には功利と道徳の混同が見られるステートメントを提出する者が多く見られた)。功利に基づく批判はホリィ・セン氏の以下のツイートの後半と衝突する。
「容姿」という価値基準が絶対化してしまった世界――「顔という牢獄」――からの逃げ場はあるべきで、京大はその逃げ場を担っていると思う。もし京大がミスコンを許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、ミスコンは阻止しなきゃならん。マジで。
〈ミスコン批判〉とは「多様性の維持」のためにミスコンを阻止しようという運動であるという側面を持つ、ということか。「功利」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ユーティリティという牢獄」――からの逃げ場もあるべきである。もし京大が功利主義を許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、功利主義には断固として抵抗しなきゃならん。マジで。
今回気になったのは、そういった少しでもマシな社会を引き寄せるための泥臭い活動を、シニカルを装って冷笑したりこのヒドい現状をさも世の中の真理のように説いたりする言説があったことですかね。「たしかにおかしいとは思うが仕方ない」と言った瞬間に少しでもマシな社会は手から離れていってしまう
良い社会を実現するためには何をやってもいいのだろうか。功利主義的には良いんだけど。社会的に悪い影響を与えるというただその一点だけを根拠にして、単なる一つの企画を弾圧することを手放しで称賛するような風潮を放置しているとさらにとんでもないことになるのは火を見るより明らかであろう。正当かつ普遍的な理由で反対していないのだから、中止の時点で追及はやめるべきである。
先程のホリィ・セン氏のツイートに従うなら、今回のミスコンを功利主義的に弾圧することは避けるべきなのだ。ホリィ・セン氏のツイートそれ自体が京大における 「多様性の維持」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ダイバーシティという牢獄」――を象徴してしまっているのが残念ではあるが。
さて、公開質問状に戻ろう。
突然「容姿による人間の順序付け」というワードが出てきたが、ミスコンと何の関係があるんだ? そもそも「ミスコン」と「容姿」の間に直接的な関係はあるのだろうか。これらの間接的・結果的な「つながり」がこの一文によって再生産されている、ただそれだけである。
c. 所謂「女性らしさ」や「男性らしさ」の押し付けに繋がることについてどういった意見を持っていますか?
大学という本来容姿や性で判断されてはならない場でこういった企画を行うことは問題だ。という意見が寄せられています。
ミス・ミスターコンテストは、ほとんど容姿で判断されるコンテストと言って過言ではなく、そういったコンテストを男女で分けて行い、女性(男性)同士を比べてその中で1番を決めると、「この人が女性(男性)の中で1番」という「基準」が生まれてしまう。その「基準」は女性(男性)らしさの押し付けに繋がっているという意見が出ました。
同上。直接的には繋がらない。最初からルッキズムが浸透していることを仮定しており、本末転倒である。また、ミスコンごときが出場者以外への特定の価値基準の「押し付け」に繋がるとは到底思えない。
公開質問状についての主要な議題は以上である。この質問状とTwitterでの制御の効かなくなった批判・中傷によりミスコンは中止となった。
今回のコンテストの中止を決定いたしましたのでご報告いたします。
中止の決定の後4時間ほどで公開質問状に対する回答が送られてきた。ただ多くの質問に説明責任がないとして回答しないもので、不誠実だと感じられた。
説明責任はない。どうして説明責任があると思ったのだろう。純粋に、不思議だ。
京大ミスコン問題2015の公開質問状に対して回答が得られたので、議論用のDocsと総括用Docsを作成しました。ご自由にコメント・編集下さい。 回答と議論: https://docs.google.com/document/d/1BybFd2Th2NzTMQ3AK76kTrVjxB7S0jkMBSjVKGdQ4oE/edit 総括とこれから: https://docs.google.com/document/d/1L8bcokWX-gEHD0ecqT8UC_NyDBrboPULl3TSlZewjY4/edit
また、以下のような危うい意見もあった。
ミスコンの基盤となる差別的価値観は日常の模倣で、「ミスコン」はステージだけでなく日常で行われ続けているという事を認識してたら、一つ企画が中止になったところで「勝利」なんて言えないと思うけど。。ミスコン反対もクエストになってどうすんの。 >京大ミスコンクエスト
このような発言をすることによって差別的価値観を再生産し続けると永遠に闘い続けなきゃいけなくなりますよ、としか言いようがない。自足自給はやめましょう。
ちなみに言っておきますけど、ミスコンの内包している問題的構造は日常の中に浸透しているからこそ今回ミスコンがミスコンとして具現化した・言い換えるならばミスコンは日常的にも起きている、というのはその通り。
同上。
moralistよりもethicistになりましょう。そして自分たちがやったことについてもう一度よく考え直してみましょう。
以上、眠くなってきて最後の方はテキトーになっているが、ここで終わろう。言葉をうまく選べているか不安だが、最初に述べた通り、攻撃の意思はない。
美人・かわいいだから、彼氏や友人、周りに押し切られたり勧められる。
軽いノリで爽やかに出場。
たいして魅力的でないことを認めたくない取り巻きがノリで言った「出てみたらいいよ!」という発言を真に受ける。
鼻息荒くして出場。
そこまで可愛くも美人でもないが手練手管と雰囲気を磨いた結果、上から2、3番目にモテるようになった。
ミスコンに出ることで「私が一番かわいいの!」と無言の圧力を加えようとする。
http://gogotsu.com/archives/13089
ミスコンは女子アナの登竜門であり、ミスコン出身のモデルもいるので出場。
あざといことはあざといが、芸能界に入るための努力を欠かさないので、ただのあざとい女と一線を画す。
・パッとしない容姿の女の子が美人になって周りを見返すことを目標に出場。
少女漫画のようだ。
実際にかわいくなっていたのを見たときは感動した。
ネットでよく見るけど
ネットに限らず
男ってすぐ女の人のことをブスって言うのな
いつも思うんだけど別にブスじゃなくね?って
ミスコンという舞台で大学一の美人候補として争えるほどの器かと言われれば
うーん?って感じかもしれないけど
ブスではなくね?
例えば僕の嫁が中身はそのままで見た目だけネット上でブスと言われたグラビアアイドルになっても(嫁の容姿に対する「愛着」という点を除けば)全然構わないんだけど
マジでブスだと思っていってるんだろうか
性格どんなに良くてもこの見た目だとちょっとお断りっすわー、って感じなんだろうか
世の中にはそんなに美人で溢れてるのだろうか
嫁以外とまともに目を合わせられない僕にはわからない
髪を染めたりスカートの丈を縮めたりするくらい気軽に美容整形できるようになった時代の話。
が、見た目は老いずに寿命を迎える話だったり翼を生やす話があったりと、整形のカジュアル化はあくまで切っ掛けで
美醜について突き詰めるような話ではなかったな。
その観点で見るなら、容姿以外をひたすら競い合うミスコンのショートストーリーが面白かった。
醜いが美容整形しない登場人物もいたが、それは自らの意思によるので食い足りない。
醜いし美容整形したいが病気やアレルギーなどの事情で出来ない、周りが美しい人ばかりの中で
また少し時代を遡り、段々と整形がカジュアル化していく過程で美人美形が増え、容姿の美しい人間がアドバンテージを
失っていく、美が無効化されていく過程、みたいな話も読んでみたかった。
そもそも作中で不細工扱いされている人物が爺さんを除いてそれほど醜く描写されておらず悲壮感が無い。
漫画としては良くできているが、期待したような作品ではなかった。
小学館:コミック 『ビューティフルピープル・パーフェクトワールド』
http://sol-comics.shogakukan.co.jp/solc_dtl?isbn=9784091885340
http://sol-comics.shogakukan.co.jp/solc_dtl?isbn=9784091885739
神保町のT書店でどうしようもない議論と詩があんまり載ってない雑誌を買ってしまったときは、父親が用意してくれたアルバイト先での昼休みで晴れていた。
昼食を食べずに、いろいろな書店を巡り本を読んでいた。
T書店の入ろうとしたとき、入り口のガラスに自分の姿全体が反射して見えたのだけど、とてもひどいものだった。
全てがひどい。
たまに全体の姿を外で見るけど、ダメージはいつも相当なものだ。
そして、大量に平積みになっていたから例の雑誌を買ってしまった。
不毛なだけならいいが、激しく怒りを感じる文があった。
最初は彼の文章の最初は、つらつらとまぁどうでもいいよねという他と変わらないどうしようもない分析やら歴史やらの文章である。
そのあとがひどかった。
本人は自分は「自己陶酔型女装」だという始まりから自慢話が始まるのだ。
本人は開き直って自慢話をしているのかもしれない。
他者から可愛いと言われて嬉しいとか、容姿で評価されて嬉しいとか、教授にも大半の女の子よりも容姿がいいと指摘されたとか、ミスコンで優勝したとか、今の容姿で整形しなくても可愛いから幸運とか、それを武器にしているとか、総代だったけど振袖と袴で学位授与式参加してツイッターで話題になって嬉しいとか。
極め付けは、自分はマンガみたいな生き方をしていたとか書いてある。
腹が立った。
高野悦子の文庫に自分の容姿は可愛い方だみたいなことが書いてあってそれはそれで腹が立った。
しかし、今回はそれ以上に腹が立った。
男の著者が自分はイケメンだと書いていたらイラつくが、そこまででもない。いや、やはりとても腹がたつ。
でもそれ以上に、やはり同性の「可愛い」ということに対して自分は苦痛を感じたのだろう。
やつは人文系で、頭が良いらしい。それは当たり前だ。自分が通っている大学に比べたらずっと頭が良い。
そして美しさまで持っている。
見ていて苦しい。
当方:20台後半男性未婚、相手:高1同級生女性未婚かわいい(校内ミスコン学年10位)。
ほぼ一目ぼれ。でも、GW前に同じクラスの結構いい奴とさくっと付き合い始めたので、こちらもあきらめて、よい友達ポジションをキープ。高校時代を通じて、数ヶ月に1回くらい二人で遊びに行く仲良し友達を維持。ちょっとお酒が入った帰り道に、手をつないだこと数回、キスなしHなし。
初キスは、出会ってから5年後の大学2年生。自分は東京、彼女は地元。帰省ついでに二人で飲みに行った帰り道に告白し、ふられ(彼がいるから)、記念にプリクラを取ろうとマシンに入ってその勢いで。彼女は笑っていた。初Hはそこさらに2年、大学4年のとき。就職祝いのご飯会の帰り道に「やっぱり好きだ」といったら、また断れたけど、ホテルに一緒に来てくれて体を重ねた。好きすぎて悲しかった。
今日は、その時以来に会う。彼女はもうすぐ結婚すると共通の友人から聞いているので、基本的にはお祝い。彼女の結婚を止めれるとも思っていない。でも、まだ大好き。断られてもいいから、最後の思い出に旅行に誘いたい。無意味だからやめたほうがつらくないとは、頭ではわかりつつ。
あと1時間で会う。あと5時間後くらいに、なんと言っているのかな。
<続編>
この分析なかなかあたってないか?
価値が下がったマンコを強チンポが買いあさって独占してる。
弱チンポを脱出したチンポは女への復讐で女を食いまくるヤリチンになる。
ってか、結構こういう意見はツイッターなり2chなりでの主張と一致してると思う。
女が求めるいい男の条件である「車側あるかせない、扉を開けてあげる、席は奥へ」みたいなのは、枝葉末節。
弱チンポはそれできないけど、女はヤリチンでなく、誠実な弱チンポがそれできるよう育てりゃいいやん。
育てるの面倒くさい人はもう無理にとは言わないけど、そういう風にしないと現状解決しないよ。
これはどうなんだろうなって思う。
女は選り好みを消せないだろう。多分。
10代、20代前半でそういう強チンポで遊んで、結婚とかは、20代後半、弱チンポの提案する一番いい条件を受ければいいだけだから。
まったく弱チンポに媚びる必要がないのだw(この現状があるから、中古叩きになるわけだが)
一方で、『弱チンポを脱出する方法』これが大事だなって俺は思った。
だから、最近ではオタクでもビームスなりアメクロなり。髪は美容院。朝シャンして整髪剤。ジムに通ってダイエットしたり筋トレしたりしている。
これで脱オタできる奴らが結構な割合でいる。3年やれば、5割くらいは成功率ある。ゴージャスのすっぴんくらいになる。
しかし、これもどうだろうか。強くなった元弱チンポもリアルで結構見るけど、彼らはドーモヤリチンになる。結婚なんか絶対しないタイプ。
合コン→メンヘラをお持ち帰り→セフレ化。このパターンが多い。
女を大切にする奴は1人も見たこと無い。
これ考えてみれば当たり前で、青春を取り戻すために女をとっかえひっかえしたいから。
森林原人が言ってたが、「モテる奴は、男優には向かないです。セックスできることがアタリマエになると、とても続かない。僕みたいなモテない男は、生涯拭うことができない鬱憤がある。一番興奮するのは、高校時代にモテててイケていたみたいな女優。高校の文化祭でミスコンやったら1位でした、みたいな。こういう女にまったく相手にされなかったなぁ、という恨みで、やってやるぞ!ってなる」(http://blogos.com/article/115620/)
まさにこれ。いい女を抱く、いい女から好かれることは無い。という一種の劣等感が一生ある。
いわばメンヘラみたいなもんw
結局、弱チンポを選ぶしか多分女が大事にされようと思ったらないんだけど、それができる女ってのはあまり多くない。5%もいるかな。
ってか、そういう戦略をとってる時点で、女も多分相当劣等感ある奴だから弱チンポじゃ受け止められない。うまくマッチングしないだろう。
ということは、最終的には、強いチンポとつがいになった強マンコが作った最強チンポ子が社会を覆う、クラスチェンジ元弱チンポに孕まされたシングルマザー。ということになるんだろうと思う。
つまり、現代は弱チンポが淘汰される過渡期なわけだ。弱チンポなんて選んでもどうせ後世に残らないのだから、女としても選ぶはずがない。
長くなったが。俺が主張したいのは。
弱チンポは、強チンポにクラスチェンジする努力を続けるしかない、クラスチェンジさえすれば確実にメンヘラが食える。ゴージャスのすっぴん位を目指そう。
クラスチェンジできない、あるいはクラスチェンジ過渡期の弱チンポはコスパがいい性産業につっこめ。高級ソープなんておっさんになっていくらでも行けるから、若い内はピンサロか箱ヘルで1万以内を月1&オナホールとxvideosで、女を買い叩くような安いもんで我慢しとけ。
困る
ホント困る
とか
といったことが心配で困るわけじゃない
そもそもタイトルの例のような質問されている時点で答えても人間性が疑われる心配はないと思うし
ただ、ただ
「わからない」のだ
顔の美醜が
どの娘が可愛い?
なんていう質問は
僕にとって…僕は囲碁はまったくわからないのだが…囲碁の対局中の譜面を見せられて
「どっちが強いと思う?」
と質問されるような気分だ
そもそも可愛いとか可愛くない以前に同年代の女性の顔の見分けがつかない
「○○さんはポニーテールの人」
「○○さんは水色の服の人」
とかで覚えてるのでたまに違う格好をしてるととたんにわからなくなる
オバちゃんとか男性に関しては苦手ではあるけれど
なんとか顔は覚えられる
みたいなこと言われたり
みたいなノリで接せられることはよくある
非常に困る
もしかしてこういう
「女の顔の見分けがつかない」
「女の顔の美醜がわからない」
というのは女慣れしていないオタクが陥りやすい症状(?)なのではないのか?
しかしよく考えれば
「キモくて童貞臭いオタクの代表選手」みたいな「アイドルオタク」たちはちゃんと若い女性の顔を見分けているではないか
ネットで「韓国のミスコンがみんな同じ顔だ」みたいなのが話題になったが
というかアイドルグループの場合みんな黒髪ロングで顔がわからない僕にとって唯一の判別ポイントである「髪型の違い」すら封じられるので余計たちが悪い
よく外人はみんな同じ顔に見える
みたいなこと言う人はみるけど
自分の中の(美醜の)顔面偏差値50との差がどのくらいかで覚えているらしい
「顔を覚えられない」ということで困っている人はたまに聞くが
「顔の美醜がわからない」ということで困っている人は今のところ聞いたことがない
誰か同じ悩みを持っている人はいないだろうか
また、克服した人はどうしたのか
ぜひ教えて欲しい
顔を覚えられないってのは仕事に支障が出るし
ああ、あの清純さとはなんだったのだろう。僕はあんな清純さを見たことがなかった。清純さの中に闘争心をもつ、本当の意味で凛とした君の姿は本当に魅力的だった。僕は廊下ですれ違うだけで嬉しかった。一目見られるだけで、すごく嬉しかった。今思い出しただけでもうっとりしてしまう。
大勢の男子が君を見逃すはずがない。君はたくさんの男子からの熱い視線を受けるだろう。親切に扱われるだろう。たくさん話させてもらえるだろう。
そして君は自分が何者かであるなどとと考えるようになるだろう。プリンセスだ。多くの男がその姿に心奪われ、一言の言葉さえかけてもらえば死んでもいい、とさえ思う存在だ。
おめでとう。あなたはもう、プリンセスの一人なのだ。男どもは皆、君のことで心がいっぱいだ。大学の研究なんてどうだっていい。君さえ手に入れられるのならばなんだってする。君が少しの微笑みを彼らに手向けたなら彼らは三日三晩過呼吸で、眠れまい。
だけどある時突然男たちは正気に戻る。「男と女は同数だ。」という現実に気がつくのだ。
もしかしたら失礼な男が他の大学のミスコン1位と君のことを比べるかもしれない。
もしかしたら失礼な男が他の大学の友達の彼女と君のことをくらべるかもしれない
もしかしたら失礼な男がコンビニバイトの女子大生と君のことをくらべるかもしれない
君の人気は大暴落する。
男たちは君の話なんか、聞かなくなってしまった。
君に興味を示す男なんていなくなってしまった。
君はなんとか人気を取り戻そうとするだろう。
股開の出現確率変数をあげるかもしれない。いや、あげざるをえないのだろう。
何かを素敵だと思うと、「そんなの大したものじゃない」という父親の声がする。
何かを好きだと思うと、「お前にはセンスがない」と言う父親の声がする。
何かをがんばりたいと思うと、「そんなのやってどうするんだ?金にならない」という父親の声がする。
新しいことを始めるためのお金、たとえば進学などの相談をした時の「くだらないことに金を使って!この金喰い虫が!」と叫んだ父親の声が忘れられない。
それなら自分で解決するわ、もう頼らない、と答えた時の「俺が暮らさせてやってるんだ!感謝しろ!」と叫んだ父親の声が忘れられない。
だって自分のことだから、と決意を示した時の「だいたい女がそんなに勉強してどうなるんだ?うちはそういう家じゃない!嫁に行けなくなるぞ!」と叫んだ父親の声が忘れられない。
高校になじめずストレスで太ってしまった時の、「チビデブだな。母方に似たのか?」と蔑んだ父親の声が頭から離れない。
自分に自信がなく、悩んでいた時の、「妹は将来、キレイな人になるな。お前は…そこそこだろうな。」と蔑んだ父親の声が頭から離れない。
進学し、ダイエットして、ミスコン入賞した時の、「うちの家庭環境と教育が正しいことの証明になったな。俺も出世できる。お前は何にもなれないと思っていたのにな。」と蔑んだ父親の声が頭から離れない。
実家を離れて何年も経つのに。良い人に出会えて結婚したのに。友人もたくさんいるのに。仕事も順調なのに。誰にも言えない。
心療内科とか行った方がいいのかな…。
特に、今の日本のフェミニストってほんっとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーに、ベビーカーと待機児童の話が大好きですね!というか殆どそれしかしない。
驚く程視野が狭いと思います。逆に、世間に溢れるブス苛めには何も言わない。ほんっとーーに何も言わない。
「ブスは性格も悪いwwww」という言論がこれ程溢れているのに、それを批判する有名フェミニストっていませんからね。
企業の顔採用を問題にしたりはしないんですよね…。「受付は美人に限る」って「受付は金髪碧眼に限る」と同様の人種差別的な考えだと思いますけれど、そういうのを問題にするフェミニストって少なくとも現在はさっぱり見掛けません。
私もフェミニストを自認していますが日本の今のフェミニストの主流派とは相容れませんよ。
ミスコンやAVを批判しているような昔ながらのフェミニストが懐かしいです(今のフェミニストは寧ろ『AV女優に生まれたのも立派な才能!』として持ち上げる側ですから)。