はてなキーワード: スケープゴートとは
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の日本海海戦で有名な日露戦争が、1905年の本日、ポーツマス条約によって終結しました。
賠償金もろくに取れず、悔しい思いをした面もあるでしょう。交渉の役目を任された小村壽太郎外相の苦悩は計り知れません。ほとんどスケープゴートじゃないですか、大臣は。
だが、しかし!わが大日本帝國は、なにはともあれ大ロシアに勝利したわけであります。ロシアの南下を朝鮮半島で食い止めるという戦争目的も、ひとまず達成されたわけであります。
これを祝わずしてなんとしましょう。これを祝わねば、東郷平八郎大将も、小林大臣も浮かばれません。
バルチック艦隊を撃滅せしめた日本海海戦は、近代の戦争で私が最も好きな戦局でございます。
東郷大将の画期的な丁字戦法もさることながら、やはり日英同盟が本質的に機能するところがよいです。
イギリスと日本、同盟国の連携があったからこその勝利でありましょう。
先の大戦では、米ソの思惑に乗ってドイツと日本で別々の戦争をしてしまったことが悔やまれるところであります。
たとえばみんな、7歳児が口汚く知らない大人を罵ってるところを見たとして、その責任を7歳の子に求めようとする人はまずいない。ちゃんと礼儀を教えてない周りの大人に責任を問うはずだ。その子に「それはいけないことだよ」と教えはしても、「この子は性根が歪んでいるんだ、どうしようもない子だ」と思う人は少ないんじゃないだろうか。
だけどこれが17歳となると、常識に外れたことをすれば、それは本人にも責任があるというような論調が増してくる。そしてこれが27歳にもなれば、自立した大人だから全部自己責任という論調が一大勢力になる。
これがわからない。大きくなるにつれて自我が芽生えていくとはいっても、子供の時強く洗脳されていたら誰かに解いてもらわないと大人になっても洗脳されたままじゃないか?どうして子供と大人の間のどこかに、明確な境界線が引けてしまうんだろうか? もちろん法律的に社会的に当人に責任が発生する、というのはわかる。だけど、みんなが「成人してるのに行動がおかしい人」を責めるときって、精神的な責任みたいなものを問うているように思える。「そんな歳にもなって、まっとうな人間じゃないなんて恥ずかしい。たとえどんな育てられ方をされたって、その歳にもなれば自分で考えてしていい事と悪いことが判断できるはずだ」という意味に聞こえる。だけど原理的に、当人の自由意志なんかじゃ変われないくらい、子供が大人になるまでおかしくなるように育てるということは可能なはずだ。狂った家庭で子供を支配して、家庭外のまともな人と触れ合う機会を制限しながら、おかしな大人に依存させて育てれば、大人になるまで常識を持たせないことだって可能だし、常識を持ったとしても、常識に従うよりも先に感情的な行動をとるような子供にすることは可能なはずだ。陰謀論者ばっかりの家庭とか、家族が全員情緒不安定で暴力的で子供に嘘を吹きこみ続けている家庭とか、家族のメンバーの誰かをスケープゴートにして陰湿にいじめることが罷り通っているような家庭だってある。
そういう環境で育ってどこか壊れた大人になった人に、精神的に責任を求めることは無茶じゃないのか。生まれついて頭がおかしかった人が犯罪をおかしたとしても、環境に追い詰められて犯罪をおかしてしまったとしても、当人の自由意志程度じゃどうにもならなかったかもしれないなら、それを被害者でもない周りが怒気を放って責めることは間違っていないか? 司法が裁くことも、被害者が心情的に救済されることも必要なことだけど、キチガイめという周りの罵詈雑言はまったく虚しいものではないか?
責任能力がない認知症のお年寄りをちらりと見かけてもしょうがないと思えるのに、若者や中年のおかしい人にはそう思えずに、このキチガイめと罵らずにいられないのだとしたら、なにかへんじゃないか?
安藤美姫がマスコミに追い掛け回されたり、変なアンケートを行われたりするのはなぜかというと、マスコミの人権意識が低いからとか、商売になるからということもあるんだけど、最大の理由はあんな形で独占スクープをしてしまったからなんだよね。「特ダネ」を安易に一社に提供してしまったこと、その報復という文脈で、かなり意図的に嫌がらせを受けてる。
「特ダネを他社にすっぱ抜かれる」というのは、メディアの世界ではこれあってはならないことなんですよ。新聞、TV、週刊誌辺りのメディアの現場で働いたことがない人には理解しづらい感覚だと思うけれど、特ダネを他社に持っていかれるのって、失態と呼んでもいいくらい不名誉なことなんです(ちなみに一社だけスクープを報じられなかったことを「特オチ」といい、これはやったら即編集長以下クビを覚悟せねばならないほどの大失態です)。
あの報ステのVTRを見ながら、各社の番記者は完全に血の気が引いたと思うよ。いや、安藤美姫クラスの大物のスクープだから、番記者を飛び越えてデスクや編集局長も顔面蒼白で胃酸がこみ上げてきただろう。日本中が驚いた大ニュースだったし、それだけにまんまと特ダネを抜かれた他社からすると、このまま黙ってるわけにはいかない。こういう選手、有り体に言うと「筋を通さない選手」が今後も出てきたらたまらないから、今後も各メディアは安藤が神経衰弱するまで追い回して、真相を突き止めるよ。失地回復するにはそれしかないし、例えば浅田真央や村上佳菜子あたりが同じことをしないように、スケープゴートになってもらう必要もあるから。すげー勝手な理屈だけど。
しかし安藤美姫も、何であんな形で独占スクープを許したんだろうか? いや、もちろん子供が生まれたことはめでたいし、父親の名前を明かせない事情があることも斟酌しますよ。彼女を批判する意図は全くありません。ただ、客観的な事実だけを言うと、ああいうやり方で発表したことって、メディアの世界では仁義に反することなんですよ。「今まで散々取り上げてやったのに、こんなことするのかこの野郎」というのが、各社の偽らざる本音なんです。今回はマスコミ各社にFAXでもして、「相手は一般人男性なので名前は明かせません」とか頭を下げておけば、こんなことにはなってない。
もちろんそんな論理は、業界内でしか通用しない勝手な理屈なんだけれど(なので、今メディアとその外側の社会とがこの問題でぶつかってますよね)、事実としてはそういう力学で動いてる世界なんです。嫌な世界だよね。でも現実はそう。安藤美姫も長いことアスリートとしてメディアに関わってるんだから、こんなイロハくらい知ってると思うんだけどなあ。まあ、あえてこうなることを知ってて、話題性を取る方向で動いてるのかもしれないけどね。
ブラック企業とは、一般的には、低賃金、長時間労働など社員に過酷な負担を強いる企業の総称をいいます。
WikiPediaによると、
とか、
解釈によっては、どんな企業もブラック企業に当てはめる事ができてしまうかもしれません。
また、「ブラック企業はブラック消費者が作り出した」という、いかにも企業側に責任が無いような意見もあります。
しかし、英語圏では、スウェットショップ(Sweatshop)と呼ばれている他、中国語圏では血汗向上とも呼ばれており、ブラック企業問題を抱えているのは日本だけではありません。
社会問題にもかかわらず、なかなか問題の本質が見えてこないのは、この「定義の曖昧さ」にあるのではないでしょうか?
最近では、企業側が「ブラック企業」の記事を書いた記者を訴えるなど、本当に混沌とした状況です。
バブル崩壊の時期には、「リストラ」の名の元に、数々の非人道的な人員整理が行われ、社会問題になりました。
山一證券倒産の際には、高額所得者への色々な形の「いじめ」が行われたそうです。(幹部を配置換えと称して新入社員の下に配するなど)
住専(住宅金融専門会社)の倒産の際には、営業成績の高かったある個人をスケープゴートとして、社員全員で「ゴキブリ」などと言わせて、いじめぬいていたそうです。
また、人員整理に留まらず、企業同士のいじめとして、「拓殖銀行倒産」のきっかけとなった、コール市場での「総スカン」なんていうのもありました。
金融機関の中小企業に対して行われた「貸しはがし」が社会問題になりました
最近の長く続いているデフレでは、裁判も頻繁に行われたサービス残業問題。
また、昔から定番の、短時間労働、高収入がうたい文句の求人(これは分かりやすいので、気を付ければ引っかからずにすみます)
「規制緩和」の名のもと、非正規雇用形態が広がり、社員や企業同士の「悪徳」が日常化していると考える事ができそうです。
日本は法治国家です。国民は「法」に守られていますので、企業側は安易に「不正」行為をはたらくことはできません。
そこで、「法」に触れないギリギリの線で、個人なり相手企業を攻めてくるわけです。
これが、いうなれば企業の悪徳行為は「いじめ」と言えるのではないでしょうか?
ただ、「いじめ」と聞くと、「いじめられる方にも責任がある」と感じてしまいます。
これは、「いじめ」から子供のイジメを想像してしまうからだと思います。
企業の行うイジメは全く異なります。背景には利害が絡んでおり、明確な目的があるのです。
戦略も伴います。場合によっては興信所や暴力団を使うなど、お金が動きます。
「暴力」と聞くと相手を、叩いたり蹴ったりなど、物理的に力を加える事を想像しがちですが、精神的に相手を追い詰める事だって立派な暴力です。
そもそも暴力というのは、自分だけの都合により、相手を排除したり、相手の力を奪う時に、「相手に加える力」だと思います。殴ったり蹴っ飛ばしたり、暴言を吐いたりなど様々あると思います。
その「力」のうち、直接相手に加える力が、一般的に「暴力」とされていると思いますが、間接的に相手に加える力も「暴力」のはずです。
例えばリストラを考えた場合、相手が働きにくい環境を作り出して、自ら辞職に追い込む事は「暴力」です。
仕事に無関係な作文を何枚も書かせたり、ブライドを傷つけて社内での立場を奪ったり、或いは精神的にうつ状態になるまで追い込む行為、これ等全ては「暴力」なんです。
※相手を精神疾患に追い詰める行為は厳密には「傷害」(刑事罰)になりますが、立件が困難な為この手を使う企業も少なくないハズです。
「暴力」というのは、自分だけの都合で相手を排除したり、力を奪うわけですから、企業が「暴力」を乱用すれば、収益を上げる事が出来るのは、当然の事でしょう。
「暴力」というくくりで考えてみますと、直接的暴力、例えば、コンビニ強盗では、お金を払わずに商品を手に入れる事が出来ます。短期的に見れば、一番効率の良い物資の調達方法です。
間接的な暴力は多少効率が落ちますが、やっている事は同じなのです。
その企業に「暴力」があるという事は、逆に言えば、「安全、安心」が無いという事です。
「安全、安心」がトレードオフになっているのです。その結果、以下の現象が生じるハズです。
「暴力」の元では人は常に緊張状態に置かれ、落ち着くことが出来ません。
こんな環境では人は育ちません。
暴力をふるう両親の元で、ちゃんとした子供が育たないのと同じです。
当たり前ですね。
ただし、「どの人の下に付けば自分は安全なのか?」を絶えず気にして行動しますので、人の上下関係はきっちりします。
ヤクザと同じです。
社内で、地味かもしれませんが「暴力」が行われている事を目の当たりにするわけです。
そんな中では、誰も、一生懸命仕事をしようとか、難しい事を習得しようとかという発想にはなりません。
社内で出来る人がいなければ、派遣を安く使って、やらせればよいわけです。
社内では色々なノウハウも蓄積されません。
そうなると、経営陣は社員たちを追い出して社名を変えてまた会社をやり直すわけです。
技術大国と言われるほど、ものづくりが上手だったり、皆勤勉(識字率がほぼ100%)だったり、「絆」を大切にしたりなどの前提には、「安全、安心」が有ったからだと思います。
東電の人が「想定外でした」って言うと「そんなことねえだろ」「指摘あっただろ」「解ってて直さなかっただろ」から始まり、とにかく理由を付けて「『想定外』って言うなよ!」と言われてしまう。
津波で街が流されてしまったけど、そこは「あんな大きな津波が来るなんて想定外だった」で許されてる気がする。
「歴史的にはあれだけ大きな津波が十分生じ得るのだから、それにも耐えうる防波堤をつくるとか、それにも耐えうる避難用高台を作るとか、準備ができたはずだ。『想定外』とは何事か!」とは言われてないよね。
どうして東電は「『想定外』を想定しとけよ!」と追求されて、他のところは「『想定外』だからしょうがないよね」と言われるんだろう。
内弁慶の父親、絶えず動きまわってるが計画立てて考えるのが苦手な母親、と
やたら似ているので返事せざるを得なかった(高校がスポーツばっかりやってた所も)。
機能不全家庭の類型って案外パターンが限られてて、このポイントだけ修正したらうまくいく家庭が多いのかもな、と思ったり。
不登校になりはしなかったものの、代わりに父親が学歴コンプレックスに狂ってて放蕩の限りを尽くして借金まみれ、
母親は比較的まともだったけど幼少時の家庭環境からくる共依存的な性質もあり、「普通か」と言われると少し違っていた。
ざっくり言うと「知恵が足りない」んだよね。こうしたら人生いくらでも好転するんだけど、
なんで知恵が足りないかと言うと本人たちに頭が足りないのはもちろんのこと、周囲にまともな人間がいないというのが一番大きい。
情報がない所から情報が自然発生するというのは殆どの場合は物理的に無理で、だいたいの世の中の情報はすでにある情報の流通と情報どうしの組み合わせによって存在する。
発想が豊かな独創的な情報というのは既存の情報が新しい組み合わさり方をしただけに過ぎない。
クズしかいないから情報の絶対量と種類が少ない。知恵が足りない人というのは何故かプライドが不必要に高いので
ああしましょうこうしましょうという問いかけに対してメンツやプライドというよくわからないものにこだわり二の足を踏む。
直ぐに恫喝とか暴力とか極端な手段に振りきれる。知恵とプライドは反比例する傾向がある。権威主義的な物言いをする人間で賢い人間はいない。
自分のまわりは大学出た人間自体がおらずFランク私大行った人すらエリート扱いされるような地域に住んでいた。
家族は宗教に狂っていなかったが、地域に住む人の多くは宗教に狂っており、創○学会やらエ○バやらキリスト教系の新興宗教やらよりどりみどり。
そういう地域は関係するポスターがいっぱい貼られているので一目でわかります。
新興宗教が流行っている貧乏地域というのは共○党も強くて、生活がきつくて判断力が低下気味の人が新興宗教と政治団体の洗脳対象としては最大のカモなのだから、
新興宗教と左翼政治団体というのは性質は同じなんだろう。「あなたの生活がきついのは○○のせい」という単純なメソッドで皆やられる。
韓国だ靖国だ憲法9条だというのは辛い現実からのスケープゴートに使われるネタでしかない。
そういう地域って、理由は千差万別だけど、だいたいは怠惰な人生を送っていてクズの集まる地域に辿り着いた人がほとんどだっただろう。
コミュニティというものの影響力は思っているよりも大きくて、高学歴者高所得者ばかり集まるコミュニティなら為になる情報交換が出来そうなものだけど、
クズのコミュニティというのは要約したら2~3行の文章で終わりそうな情報ばかりで、本当にためになる情報がない。で、パターンが限られている。
田舎から首都圏に上京する人で、知恵のある人達に囲まれたいとか、まともな人間の多い環境に囲まれて生活したいという動機を持った人は少なくないだろう
(首都圏はキチガイの性質が田舎と違うだけで数は多いんだけど)
劣等感を抱いてしまうような家庭を切断排除してしまいたいというのは理屈としてもっともだけど、
クズ地域に住んでてクズな発想しか思いつかない、経済だけでなく知恵も貧困な地域に住む人間に対して
まともな人間に囲まれているあなたが両親に「ああすべきだこうすべきだ」と知恵を飛ばしてみてはどうだろう。
それで親のクズっぷりが改善するなら親を再教育していくのもいいだろうし、
そういうことを繰り返してるよね?
ヤマカンは馬鹿ではないんだし、怒らせようとして怒らせてると思うんだけど。
だからっつって粘着してアンチやってる奴等を暇な奴らだなあと呆れる気持ちはある。
フラクタルの出来は確かに微妙だったけど、アンチはその微妙さをヤマカン叩きの燃料にしていたよね。
良くも悪くも反響が過剰になるのは彼が望んだことだと思うんだけど。
(俺個人はフラクタルは「なんとなく見なくなっちゃったなあ」以上の感想が無い)
そのうちどれぐらいが個人的感情的な発作で、
よくしらんけど。
似た例としては、近頃話題のヴァルヴレイヴ。
最初期に「ギャグ」というレッテルを貼られて以降は、何がなんでもギャグ扱いにしないと気が済まない連中が増加。
「脚本」がスケープゴートにされて叩かれ続け、「最近は普通になってきてつまらない」とまで言われる有様。
まさに「一度ユーザーの不興を買うと、何故か人格すら否定され、 以降は作品を全うに評価してもらえない」という構図そのものだよ。
「一度〇〇認定されると」っていう話ならまだわかる。
で、話を切り分けた上でしかし、
安定してつまんないのを量産し続けるクソ(手が早いので仕事が多い)も居るけど
喧嘩売り続けてると言っても、ヤマカンという先入観がなければ「過激なこと言うなあ」で終わるようなレベルだし。
どちらかと言えば「アンチが売った喧嘩をヤマカンが買い続けている」に近い状態だったしね。
フラクタルの出来は確かに微妙だったけど、アンチはその微妙さをヤマカン叩きの燃料にしていたよね。
「まっとうに評価されない」って、別に「プラスの評価がされない」という意味じゃないよ。
ヤマカンを叩きたいがためにフラクタルを叩くならその時点で「まっとう」じゃない。
似た例としては、近頃話題のヴァルヴレイヴ。
最初期に「ギャグ」というレッテルを貼られて以降は、何がなんでもギャグ扱いにしないと気が済まない連中が増加。
「脚本」がスケープゴートにされて叩かれ続け、「最近は普通になってきてつまらない」とまで言われる有様。
まさに「一度ユーザーの不興を買うと、何故か人格すら否定され、 以降は作品を全うに評価してもらえない」という構図そのものだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20130122033549
元増田です。
トラバとブクマ、ありがとう。いろいろ考えさせられて思い出すことも多かったです。
それでちょっと重要なことをいくつか書き忘れていたので、以下に補足します。
前にも増して読みづらいかもです。そして、前のエントリと印象違うかもしれないので「用心深く」読んでください。お願いします。
*
前のエントリで毎日体罰を受けていたような書き方をしてしまったが、何日かたって思い返すに、そんなに頻繁には殴られていなかった。ことに私に対してはそれほどむけられることはなかった。
私は心身ともにヘタレだったので、こいつを叩くとつぶれる、と思われていたのだろう。先生も人を見て叩いていたのだ。
バレーボールというスポーツの構造上、エースは「トスが上がったら必ず打たなければならない」宿命を担っている。
セッターはその時点のアタッカーの状態、あちらのチームのブロックの状態、ゲームの流れなどを考慮して、その時点で一番点が取れるアタッカーにトスを上げる。エースはレフトから、補助アタッカーはライト、センターから。
補助アタッカーにはクイック攻撃もあるが、エースはほとんど高いトスを打つオープン攻撃。どっかん大砲を撃つ役目だ。
ゲームの中盤くらいまではクイック攻撃なども使えるが、ラリーが続くと必ずボールはエースに上がる。
上がったら打たなければならない。どんなに疲れていても飛んで、打たなければならない。ラリーが続く限り、なん10発でも。打って、決めなければならない。それができるから「エース」なのだ。
もちろんほかのアタッカーを使うこともできるのだが、ゲームの流れで、「どうしてもエースしか通用しない場面」ってあるのだ。
だから、エースってきつい。昔は後衛に回れば休めたが、いまはバックアタックも打つから休みなし。本人が自覚しなくても、構造上チームを引っ張らなければならない。それが「エース」だ。
チーム全員で拾って拾って拾いまくって、粘って敵失を誘うというチームもあるけど、身体能力に優れた選手が一人いればやはりその選手に集中する構造になるだろうと思う。
「キャプテン」もそうだ。
ゲームで、チームの期待が集中したときにそれを受けて結果を出さなければならない。
だから、「エース」や「キャプテン」を練習でいじめぬく指導者は多い。ほかのメンバーがミスしても怒られないような場面でエースが気のないプレイをしたりするとそれはもう怒られる。「自覚」をたたき込むことが練習でのかなりのウエイトを占めているのではないかと思う。
そこにはかなりの不公平感が漂う。不公平であるのはほかの部員もよくわかっている。あるいは、自分たちのミスをかわりに怒られることもある。そんなとき、メンバーは
「ああ申し訳ない、自分たちがふがいないせいで、自分たちがミスしたせいで、エース(キャプテン)が怒られている。次は絶対にエースに負担をかけないようにしなくては」
と考える。こうやってチームのつながりは少しずつ強くなっていく。
体罰が起きていたときに、なぜほかの部員が止めに入らなかったか、といわれている。他ではわからないが、うちではこうだった。
そしてまた、体罰というのはたいていが理由がある。
記事でもあったが、「怒られるのは気のないプレイをしたとき」。理由はちゃんとあるし、その理由は常に筋が通っている。
うちのチームでは、エースがラリーで相手に拾われた、あるいはブロックで止められたときは怒られることはなかった。打ち損ねたとかタッチネットしたとかで、相手にポイントが行ってしまったときでも怒られることはなかった。
でも、苦しくてフェイントでごまかそうとしたり、ただ相手コートに入れるだけだったりするとものすごい勢いで怒られた。「そういう姑息なことをするな」と言われた。
力一杯ぶつかってだめだったらそれは仕方ない。が小手先でごまかしたり逃げたりすることに対しては非常に厳しかった。
大人になって働くようになってから、その意味はちょっと分かる。苦しい中ごまかさず、妥協せず頑張りとおす、みたいなことだった。
いい指導だった、と思う。
*
これって、どう感じられるだろうか。
ゲームでは、時に一人が重責を担わなくてはならないときがある。それに耐えるためにはどうするか。支える周りの人間はどうするか。
試合に負けたっていいのだ。大切なのはそれに立ち向かうことだ。
与えられた役割を担うこと。そして彼/彼女を信頼してサポートし、最後のボールをゆだねること。
それは悪いことではない。
だけど。
それじゃあ身体能力に優れて、夢を持って入学してきた生徒が自殺するのはなぜなんだろう。
だめな人だったんだろうか。
私の先生はいろいろとトラップを仕掛けて私たちの自主性を試していた。見捨てられても食いついてくるか。先生の意図を乗り越えて、自分の意志を通すか。
しかしヘタレであるところの私たちは、その意図を知りつつ、演技をした。自主性をもって動いているかのような演技。だから、空気を読むことは大変うまくなった。先生が望んでいるものを演じるようになった。表面は大変「スポーツマンらしく」なった。が、内面ではもう気力はつき、早くやめたいと思っていた。
今考えると、ため息が出る。
でも、これが現実だ。
もし、このとき先生が「善意」で、どこまでも私たちの演技を許さず、追及していたら
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは克己の物語を「美しい」と感じる文化の中に住んでいる。一方、頑張れ頑張れと強いられたあげく、追い詰められた末の死というものの悲惨さもよく知っている。
だからこそその双方を知る人々は口ごもる。
この矛盾は多分、誰でも持っている。そして明確に解決できていない。
だから、思う。
一人を責めても解決しない。
*
教師と生徒が一緒になったいじめを受けていたという増田もいる。
http://anond.hatelabo.jp/20130123190802
http://www.asahi.com/national/update/0124/OSK201301230152.html
生徒はミーティングで部員に「覚悟を決めて、頑張るわ」と話した。 部員から「チームのために怒られているんやから、全員でカバーだ」「助けてやろう」と、励ましの声があがった
いい、チームではないだろうか。
「いいチーム」なのになぜ死んだのか。
「いい人」だからだ。
本気で生徒を伸ばしてあげたいと思い、「本気で」体罰が彼らをよくすると思い込んでいるからだ。困難を克服することが、彼らにどうしても必要だと思っているからだ。
体罰を「誰かをスケープゴートのようにして恐怖の支配をする」という記者もいる。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130118k0000e070251000c.html
私はこれに強い違和感を覚える。
「いい人」だから、善意にあふれているから、何回注意しても体罰を繰り返すのだ。自分のことではなく、相手のことしか考えていないからだ。相手がよくなればそれでいい、と考えているからだ。それがチームの結束を強め、自分で考える力、自分で解決する力をつけると思っているからだ。実際は、そうじゃないのに。
ここが理解されない限り、世間は「体罰いけない」と「現場では体罰あっても仕方ない。頑張れば克服できるはず」のダブルスタンダードを繰り返す。
体罰が法律で禁じられていることは、建前だと思っている。生徒にわからせるには体罰が一番通じると思っている。だから、殴る。善意で。
だから、異常者を切っても解決しない。桜宮高校だけではない。日本全国に法律違反をしてでも生徒を指導しようという「熱くて」「いい先生」はいるのだから。
「いい先生」と、「いいチーム」。
生徒は、「部員の信頼を失うので『キャプテンを辞めたい』とは言い出せない」と言っていたそうだ。
http://mainichi.jp/feature/news/20130110ddm041040111000c.html
信頼を裏切ることは、ときに侮られるよりつらいことだ。
教師もきつそうだと、キャプテンを辞めさせようかと何回か提案していたが、そのたびに「やります」というやり取りを繰り返していたらしい。
折れそうなところを起き上がって、また折れて、起き上がって。
生徒が弱かったのではない。
休まなければならなかっただけだ。
全員部活参加の体育科で、進路に非常に重要な影響を持つ部活動、そして迫っている新人戦。練習試合のたびの詰問、体罰。
「体罰は、やらない方がいい」という結論は同じなのだけど、それは誰かに責任を覆いかぶせるとか、ましてや一つの学校を潰してすむことではないと思う。
「Bさん、facebookやんないの?」
「やってませんよー。あ、これ、私さんですよねー」
おいB。偽名使ってfbやってんの知ってんだぞ。
「ほほー、コレ イイね! してるんだ。」「えー、そうなんだー」
妙に気をそそられる内容ながら会話に私を巻き込むでもない微妙な距離感。
つつキー打ってるんだ。切迫した状況なのは見れば判ると思うし、
そもそも話し声が聞き取りの邪魔。別チームだから業務のヘルプは
期待していないけど。配慮が見られないのが辛い。
しばらく後に電話終了。内容忘れないうちにメール打たないと、と思っていたら
「私さん、コレ イイね!してるんだね」
の゛ぉぉぉぉっー!Aさーん!
『ええ、まぁ。いいですよ。これ。。おすすめです。。』
「そっか。 あ、Bさんそれでねー」
さて、気をとり直して、画面に顔を向け・・
Bぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!
お前はあくまで私に矢を受けさせたいか。
ほらなんかAさん微妙な顔してる。応えても応えなくても
ウン。一番ダメな回答だね。
そう息巻いてるのはよく見かけるんだが、経済対策に何か期待できるものあったっけ?
国防も大事なのは分かるんだが、明日の飯の種の心配の方がより大事。モノづくり大国を復活させるのか、ソフトウェアや金融と言った分野に力を入れるのか、クールジャパン(笑)を目指すのか。
中国韓国を懲らしめさえすれば、消費者に選ばれる革新的で魅力的な製品を企業が作れるようになる訳じゃない。
技術者の引抜き云々と言うが優秀な日本人技術者がいれば魅力的な製品を作ることができるのならば、その技術者を大量に引き抜いていると言われる中国韓国が安いだけが取り柄の劣化コピー品しか作れていない現状に説明がつかない。
しかし実際の所、誰が総裁になり首相になりどんな経済対策を打って日本の経済がどうなろうが自分のような底辺にはプラスの影響がないのは分かってる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.tgiw.info/weblog/2012/09/post_768.html
ncc1701 例によって話の順番がおかしい。家族間のコミュが足りないからテレビ・ゲーム漬けになる。テレビとゲームを除けば自動的に家族のコミュニケーションが復活するわけじゃない。 2012/09/11
置き換えなくたって、テレビ・ゲーム漬けでありながら家族間のコミュ取れてるところなんて腐るほどあるでしょ。こいつもこいつで無条件に「ゲームは一人で黙々とするもの」ってしてるもんねえ。いやあ偏見って怖いね~
そうなんだよな。基本的にゲームってのは代理戦争でありマウンティングなんだよな。
kanose ゲーム, 教育 “メディア漬けだから家族の絆が薄れているのではなく、家族の絆が薄れているからメディア漬けになる” 2012/09/11
だーかーらー、それとそれとは関係ないって。というか、ブログ主やブックマーカー含めて「上流ボケ」がすごいね。こいつらのいう「家族の絆」ってなんなんだ?
http://www.tgiw.info/weblog/2012/09/post_768.html
講師の先生は明らかに顔が曇っていて申し訳なかったが、社会の責任、親の子育てへの積極的な関与という言葉を引き出すことができた。特に「子供と花札やトランプでもして」という回答は大いに満足した。
なんで満足すんの?花札もトランプもゲームじゃん。家族ワイワイなゲームは別腹っていうなら、はじめから「一人で黙々と取り組むものだけがTVゲーム」って定義してね。
あと俺から言わせれば、本屋で売ってるようなナンプレ本や詰将棋本もゲームだ。同じ。勉強も同じようなもんだ。しかしなぜかこれらは槍玉に上がらず、TVゲームばかりが批判に晒されるし、それに反対する奴も偏見を隠さずに批判している。本音ではTVゲームをしてほしくないならそう言えば良いのに。
現代は家族の絆が薄れているというのと、メディア漬けの子供が多いというのは間違いない事実であろう。しかしその因果関係は、メディア漬けだから家族の絆が薄れているのではなく、家族の絆が薄れているからメディア漬けになると考えたほうが自然だと思う。
メディアっていうと暗黙のうちにテレビや新聞なんか含めて考えたりするわけだけど、大人もメディア漬けだし、俺はメディア漬けが悪いとは思わないね。主体性云々を問うているのであれば、一方的に情報を押し付けてくるような媒体に対して用いるべきだし、それにしてもテレビは双方向通信やツイッター採用などでインタラクティブ性が担保されつつある。ゲームなんて言わずもがな。
ではなぜ家族の絆が薄れているかといえば、「他者や自己の存在感が希薄になっている」(南直哉)という、テレビ・ゲームよりももっと根源的な問題なのだ。それは例えば働いても働いても昇給しない(どころか最近では就職すら危うい)デフレ社会だったり、個人や個性を尊重する教育だったり、さまざまな要因によるものである。それぞれの事象が良い面と悪い面の両方を抱えており、何か1つをスケープゴートにしても解決しない。
実際には、家族に問題を抱えている子供を学校や地域がサポートしていくことが、「ゲームやめろ!」なんていうよりずっと大切なことである。
と書いているのに、なぜ筆者は大人側への問題に視点を投げかけないのか?「子供」という集合だけでは割り切れない問題だと分かっているのであれば、そこからさらに対象を拡大することはなにも論理的に不整合ではない。
子供は仕事(学び)と遊びを区別しておらず、真剣に遊ぶ中で、好奇心や社会性などの生きる知恵が育まれていく。だから多くの親がテレビ・ゲームより楽しい遊びを提案できないということが問題だというなら諸手を上げて賛成で、こんな反論はしなかっただろう。
まあ、少し残酷な話をすれば、一部のオンラインゲームではイジメそのもののようなことをされているのも事実だ(「おきらくリンチ」で検索するといい)そういったことまで含めて社会性と言うのであれば、私は納得するが。
テレビやゲームより楽しい遊びを提案、というのは簡単であり、難しい。そこは好奇心の問題も絡んでいるし、敷居の高低もある。同じ学校にいくつものカードゲームが別々のグループで流行っていて住み分けしているというのはザラだし、トランプやUNO程度なら抵抗なく子供たちはするよ。休み時間10分でTVゲームするなんてアホだからね。
まあこういうところは隔世の感とかジェネレーションギャップとかおじさんが若い頃は云々とかいろいろあるだろうから突っ込みすぎるのもどうかなとは思うけど、もっと娘さんと会話したほうがいいよ。もっとも、娘さんが育ちが良ければ、娘さんもあなたも育ちの悪いところ、本当に家族の絆が薄れてる家庭はどのようなものか、なんて知る由もないだろうけどね。
以上。
親しい友人にも話したことがない、姉の話。
何万人の引きこもりがいるのか知らないけど、少なくとも友人の家にいるとは聞いたことがない。
話さないことでなんとなくわかってると思う。
ざっくり数えて20年引きこもりで、不規則な生活のせいか体の方もいろいろヤバイ。
歩いて5分かそこらで休憩したいという。
やせ細った腕は見るのが怖い。
姉は幼い頃から神経質で、テンションの上がり下がりが激しい傾向はあった。
その頃はこちらも子供だったから、特別変なことだと思わなかったけど。
姉への気持ちは一言では表せないくらい複雑だ。
同情するけど、関わりたくない。
やさしくしたいと思っても、苛立ちにまかせて辛くあたってしまう。
理由もわからず機嫌の悪いことが当たり前なので、気をつかうことこの上ない。
でも、姉の悪口を家族で言い合うのを聞くのも、それはそれでいたたまれない。
「共通の敵がいると親密度が増す」みたいに言うけど、まさにそんな感じ。
「姉をスケープゴートにしてると思わない?」って言ってみたことがあったけど、
逆に、お前の言ってる意味さっぱりわからない、という対応だった。
かといって、別に私が特別姉にやさしくできてるわけでもない。
自分の中に、
「姉はこれだけ皆に迷惑をかけているのだから、姉の主張は受け入れられなくてもしょうがない」
自分でもそんなジャイアン理論を使っていることに驚いたのだが、
姉の要求を不愉快に思ったときは脊髄反射でものすごい強気の反応を返してしまう。
「働いてないくせに!」
「迷惑ばかりかけてるくせに!」
言葉にはしないけど、普段からの見下す気持ちがとっさの対応にそのまま現れてしまう。
よくよく考えてみれば姉の要求ももっともだと思えることもあるのだけど、
普段から細かいことにうるさくて、話を聞かされてるだけでイライラしてしまうことも多いせいか、
けれど、根をはってしまった姉を見下す気持ちはどうしようもない。
もう少し姉の気持ちにより添えたら、とは思う。
理由なき不機嫌
(本人にはあるのかもしれない。
でも、突然無視されるのを日常的に繰り返されるのは、神経が磨り減る。
気軽に無視されるこちらの気持ちを考えてくれたこと、あるのかな・・・
無視されるかも、という前提ありきで声をかけるの、すごく気が重いんだよ)
に、すべてつきあっていられない、とも思ってしまう。
母は以前は「生きてそこにいてくれるだけでいいんだよ」なんていう、
どこかで借りてきたような白々しい台詞をいうこともあったけど、
最近はそういうことも言わなくなった。
もっとやさしくしてあげたいと思うよ。
でもいい加減にして!とその10倍思ってしまってる。
そう考えればやさしくできるの?