はてなキーワード: you.とは
子供の頃、親戚の叔父さんからお年玉を貰うと親に「お礼をしなさい」と言われて電話を掛けて何か言わなければならず、それがたまらなく嫌だったのを覚えている。それだけなら俺の人格がクズということで分かりやすいのだけれど、最近、「親戚の叔父さん」としてお年玉をあげる立場になってわかったのは、お礼を言われるのも嫌だということだ。
小っ恥ずかしいとかいうことではなく、お礼を言われたのに対して何を言えばいいのかわからず落ち着かない気持ちになるからのようだ。お礼を言うのも、ありがとうございますと言うこと自体が嫌なのではなく、それに何か理由や文脈や枕詞をつけなければならずそれをどうしたらいいのか分からないから嫌だったのかもしれない。
普段の生活で「ありがとう」と言うのは嫌ではないしそうするべきだと思っているので積極的に言う。アメリカ人が息をするようにThank you.と言うのは素晴らしいことだなと思ったので、マネして日本人にしてはやや過剰なくらい言っていると思う。でもそういった「ありがとう」とお年玉を貰ったときの「xxおじさん、お年玉、ありがとうございました。元気にやっています。最近は…」という会話とは全然違うみたいだ(この括弧書きの文面を考えるだけでも少ししんどい気持ちになった)。
普通はこういうのは嫌ではないのだろうか。そうだとしたら、俺が「普通でない」根本的な原因は何なのだろうか。一説では、ASDの人間はミラーニューロンが上手く働いていないという話があるようだ。相手の行動を模倣するため、目にするだけで自分がそれを行なったのと同じ脳活動が生じる機能ということだ。お礼を言って会話するのも、それによって相手が嬉しそうにしたりする反応を見たミラーニューロンが、自分が嬉しくなったのと同じ反応を生み出すのかもしれない。そういう機能が働いていないからただしんどい気持ちになるだけなのだろうか。
いずれにしても、こういった性質を持っていると社会的にとても困ったことになるので、原因を少しでも理解して対策を考えたいのだ。普通の人はお礼を言ったり言われたりすることでこんなにも不快で落ち着かない気持ちになったりしないのだろうか。そうなのだとしたら俺との違いはどこにあるのか。
子供の頃、親戚の叔父さんからお年玉を貰うと親に「お礼をしなさい」と言われて電話を掛けて何か言わなければならず、それがたまらなく嫌だったのを覚えている。それだけなら俺の人格がクズということで分かりやすいのだけれど、最近、「親戚の叔父さん」としてお年玉をあげる立場になってわかったのは、お礼を言われるのも嫌だということだ。
小っ恥ずかしいとかいうことではなく、お礼を言われたのに対して何を言えばいいのかわからず落ち着かない気持ちになるからのようだ。お礼を言うのも、ありがとうございますと言うこと自体が嫌なのではなく、それに何か理由や文脈や枕詞をつけなければならずそれをどうしたらいいのか分からないから嫌だったのかもしれない。
普段の生活で「ありがとう」と言うのは嫌ではないしそうするべきだと思っているので積極的に言う。アメリカ人が息をするようにThank you.と言うのは素晴らしいことだなと思ったので、マネして日本人にしてはやや過剰なくらい言っていると思う。でもそういった「ありがとう」とお年玉を貰ったときの「xxおじさん、お年玉、ありがとうございました。元気にやっています。最近は…」という会話とは全然違うみたいだ(この括弧書きの文面を考えるだけでも少ししんどい気持ちになった)。
普通はこういうのは嫌ではないのだろうか。そうだとしたら、俺が「普通でない」根本的な原因は何なのだろうか。一説では、ASDの人間はミラーニューロンが上手く働いていないという話があるようだ。相手の行動を模倣するため、目にするだけで自分がそれを行なったのと同じ脳活動が生じる機能ということだ。お礼を言って会話するのも、それによって相手が嬉しそうにしたりする反応を見たミラーニューロンが、自分が嬉しくなったのと同じ反応を生み出すのかもしれない。そういう機能が働いていないからただしんどい気持ちになるだけなのだろうか。
いずれにしても、こういった性質を持っていると社会的にとても困ったことになるので、原因を少しでも理解して対策を考えたいのだ。普通の人はお礼を言ったり言われたりすることでこんなにも不快で落ち着かない気持ちになったりしないのだろうか。そうなのだとしたら俺との違いはどこにあるのか。
If you search for tenderness, it isn't hard to find.
You can have the love you need to live.
But if you look for truthfulness, You might just as well be blind.
It always seems to be so hard to give.
Honesty is such a lonely word.
Everyone is so untrue.
And mostly what I need from you.
にあるように「みんな不誠実だから」が正解だと思う
この曲は悲観的だけど「だからこそ君から求めているんだ」というのが現代社会の誠実さではないか
成功者ほど自分の成功の要因をすべて自分の努力によるものと錯覚しやすいという話がある
傲慢は誠実だろうか
のだけど、どうだろうか。
この歌は”find me somebody to love”という歌詞が繰り返し出てくるわけだけど、大抵の場合ここの対訳は「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」という風になっている。でも、どうにも俺には違和感がある。
この曲の主人公(僕)は、報われない日々を送ってきている。
I have spent all my years in believing you. But I just can't get no relief, Lord!
(神よ、僕はこれまでずっとあなたを信じ続けてきたのに、何の救いもない!)
I work hard every day of my life. I work till I ache in my bones.
(僕は毎日一生懸命働いている。骨の髄まで痛むほどに。)
Everyday - I try and I try and I try. But everybody wants to put me down.
(毎日毎日、僕はトライし続けているのに、それでも奴らは僕を抑えつけようとしてくる。)
そんな人間が、「ああ、僕には人を愛するということが足りないんだ」なんて思うだろうか。「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」なんて叫ぶだろうか。
俺は思わなかった。俺が求めたのは他者から愛される(=承認される)ことによる救済だった。
もうひとつ、気になることがある。
主人公が愛すべき人を求めているのであれば、歌詞としては”I need somebody to love”のように、主人公が主語となるような一節があって然るべきだと思うが、それに類するようなものはどこにも現れない。
その代わりに繰り返されるのは、”Can anybody find me somebody to love”という、特定の人物ですらない「誰か」への投げかけだ。
つまり、”find me somebody to love”は「誰か僕に、愛すべき人を見つけてくれ」ではなく、「誰か、僕のことを愛すべき人だと気づいてくれ」なのだと思う。
さらに言い換えると、「誰か僕を、愛するに値する人間だと認めてくれ」なんだと思う。
と、ここまで長々と思い入れたっぷりに語ってきたけど、俺は残念ながら英語を使いこなせるわけではない。
「そんなわけねーだろ」といいことがあれば、ご指摘頂けると有難い。
私は「お前がそう思うんならそうなんだろう 、お前ん中ではな」を表す"UBTU"(= You belong to you.)っていう表現の方が好き。まさにそのまんまじゃんって思う。
まず、『ダークナイト』は、フロイトの「自我・超自我・イド」の図式に当てはめると解釈しやすい映画です。
そもそもジョーカーってなんなの?というと、病院のシーンでハービーに言っていたように、「混沌の使者」(Agent of chaos)です。
ゴッサムに秩序をもたらそうとするハービーやバットマンに対して、人々の怒りや不安(防衛本能)を煽り、本能的衝動にしたがって行動させることで街の秩序を崩壊させようとするのがジョーカーです。
ここでの秩序とは何かというと、「父権制的な権力」を指します。
これは、明治時代など、近代以前の家父長制でも見られる、父親や「家」といった道徳や社会的信用に基づいて人々を従わせる権力を指します。
近代以前の社会では、家長同士の信頼によって地域コミュニティに必要な産業や社会制度が賄われており、それらの秩序を犯した者がいた場合、例え家族であってもその命を差し出す必要がありました。
父親のもたらす権力・秩序が個人の自由に優越していた時代です。
一方、近代の市民革命以降は、主権者が一般市民(国民)に移ったことで、上記の「父権制的な権力」に個人の自由が優先されるようになります。
コミュニティの構成員の間でも格差があったり、それぞれ価値観は異なります。
するとどうなるかというと、それぞれの権利の拡大やコミュニティの方針を決める上で争いが起きるようになります。
この原動力が、ジョーカーの象徴する「人間の生理的欲求・本能的衝動」です。
『ダークナイト』の公開された2009年はアメリカがイラク戦争の泥沼にどっぷりハマっていた時期で、ジョーカーの爆破などテロ行為と合わせて、この映画をイラク戦争批判と見る人もいました。
私はこの映画がイラク戦争批判だとは思いませんが、「人々の防衛本能によって事態が混沌に陥った」という点では共通していると思います。
イラク戦争の発端は、アメリカを攻撃する大量破壊兵器がイラクにあり、「先制攻撃」の対義名分で侵攻、泥沼に陥りました。
この映画でもそうで、人々が防衛本能によって親しい人物を裏切り、ジョーカーに加担することで一連の計画・悲劇は進みます。
終盤もジョーカーが市内に仕掛けた爆弾から逃げるために船に乗り込んだ一般市民が船内の爆破を免れるために、囚人船の爆破との二択を迫られる展開となります。
終盤の二択のシーンは、人々が社会的信頼や道徳(善)に基づいた振る舞いをすることで危機を免れるわけですが、ここでも生存本能を脅かす不安(本能的衝動)と社会的信頼(父権制的権力)の葛藤が起きているわけです。
この二者の葛藤を説明する概念が、フロイトの「自我・超自我・イド」です。
これらの概念は、父親のしつけを通じて内面化された父権制的権力と動物的欲望・本能的衝動の葛藤の間で揺れ動く人間の自我のありようを表すものです。
この三者の関係を表すものとしてよく触れられるのが、ギリシア悲劇の「オイディプス王」やこの寓話を受けた「エディプスコンプレックス」の概念です。
エディプスコンプレックスの概念によると、幼児期の男児は母親との結婚を望むが、父親と結婚しているため、その願望が叶うことはない。この時、男児に母親との結婚をタブーとする父権的な「規範」(秩序)が生まれ、男児は精神的な去勢を経験するとされます。
要は、母親と結婚したい男児の欲望と、それを男児のモラルとして彼の心の中で禁止する父権制的な権力との間で葛藤する男児の自我の揺れ動きを表しているという話です。
実際、この映画では、ハービーは社会的信用を守る地方検事で、ブルースの幼なじみであるレイチェルの恋人役です。
ブルースのレイチェルへの性欲を抑圧し、彼自身が望む秩序を体現する存在で、ブルースの「超自我」の象徴と言えます。
一方で、ブルース自身に目を向けると、幼い頃に両親を奪ったギャングに、自分自身の幼児期のトラウマである「コウモリ」のコスチュームで私刑を加えることで、彼らに自分と同じ畏怖(トラウマ)を植え付けようとしています。
ブルースが「コウモリをシンボルに選んだ理由」と「なぜシンボルが必要か」(逐次制裁では模倣犯が出るため、模倣犯が出ないよう、悪漢を怖がらせる、畏怖の対象となるシンボルが必要と考えた)は、前作の「バットマンビギンズ」でブルースによる上記そのままの説明があります。
つまり、「ブルース自身が彼の超自我(父親の象徴)であるコウモリになろうとしている」という話で、先述のエディプスコンプレックスにある、父親の座につこうとする男児の精神と合致します。
また、ブルース自身の葛藤として、彼は街に秩序をもたらすという公益性とは別に、Mob(ギャング)への個人的な恨みで制裁を加えている側面があり、この個人的な恨みが暴走してしまうのではないか、そもそも自身の行動はただの私刑(リンチ)ではないかという懸念がついて回っています。
ジョーカーが焚きつけようとしているのは、ブルースのこの個人的な怒りです。
ブルースがMobの制止と社会秩序の実現という社会道徳ではなく、個人的な怒りでバットマンの活動を行なった瞬間、彼はただの犯罪者になります。
ジョーカーの目的は、このバットマンの大義名分を取り払い、自分やスケアクロウなどの怪人や、Mobのようなゴロツキと変わらない存在に陥れることです(この企てに成功したのがハービートゥーフェイス)。
取調室でのバットマン・ジョーカーの尋問シーンで“You complete me.”(プロポーズの慣用句です)と言っていることからも分かる通り、ジョーカーはバットマンが半ば自分と同じ本能的衝動で動いていることに気付いています。
(だから、“You and I, are destined to do this, forever.”となる。)
長くなりましたが、パーティーシーンについて。
このシーンでは、老紳士が父権制的道徳を象徴する形でジョーカーに反抗したため、ジョーカーから“You remind me my father, I hate my father!”(お前見てると俺の父親を思い出すんだよ、大っ嫌いな父親をな!)と反感を買います。
ここでレイチェルが止めに入り、ジョーカーが口元の傷の由来を話しているのが、この場面の一番重要なポイント。
ここで何をしているのかというと、レイチェルを象徴的な意味で自分の女にしようとしています。
というのは、上に書いた通り、ジョーカーはバットマンの片割れです。
すると、ジョーカーにもレイチェル的な存在がいてよい、いるはず、という話になります。
それがジョーカーが”D’you know how I got these scars?”で始める「傷の由来の話」に出てくる「ジョーカーの悪妻」です。
レイチェルをこの悪妻に重ねているのは、逸話に入る前に“I had a wife, very beautiful, like you.”と言っていることから分かります。
ではその悪妻がどのような女性かというと、レイチェルのように慈愛に満ちている反面、ギャンブル狂で、口を裂かれた彼女に寄り添おうとしたジョーカーを拒絶した女性です。
ハービーと同じ検事職にあり、貞淑さを象徴するレイチェルとは真逆の存在です。
ジョーカーのしようとしたのは、レイチェルを自分の別れた悪妻と重ね、彼女と同じ傷をつけることで、レイチェルをその悪妻と同じ側に落とすことです。
おそらくこの逸話自体は嘘です。この場面以前にもGambolのシーンで傷の逸話がありますが、別の話をしています。病院のシーンでハービーに「俺が計画して動く男に見えるか?」(”Do I look like a guy with a plan?”)と言っていることからも、彼がポジショントークしない人間であることが分かります。
レイチェルを殺したり、ただ傷物にするのではなく、その前にこの逸話を挟むことで、その傷は彼女へのマーキングの意味を持つようになり、シンボル的な意味でレイチェルはジョーカーの女に堕落します。
彼女はやがてジョーカーにさらわれて殺されてしまいますが、面白いのは、その時ジョーカーが指定した彼女の居場所です(実際にいたのはハービーですが、言葉の上で彼女と結びついていたのが重要)。
ジョーカーは彼女の居場所を“She’s at avenue X, in Cicero.”と指定しています。
Ciceroとは、共和制ローマ末期の弁論家・政治家・哲学者で、彼の政治思想で理想とする統治機構は「共和制」でした。
「共和制」は、国家主権が人民に存する統治機構で、国家元首(王)により支配する独裁制とは対立する統治機構です。つまり、父権的制的権力とは対立する概念。人民の動物的本能に公共善による秩序をもたらそうとするもので、超自我とイドの調和が取れた状態と見ることもできます。
つまり、超自我とイドの葛藤に揺れるブルースが、本来身を委ねるべき安息の場所にレイチェルがいた、と比喩的に表現されているのです。
(その場所にハービー(父親)を置いとくあたり、徹底してジョーカーは底意地が悪い)
とまぁ、パーティーシーンは、これらの葛藤の舞台となる場面です。
直前でスリロ判事・警察長官が殺されて、ハービーが殺されればゴッサムの司法庁崩壊でその王手がかかっていたり、それを阻止すべく大急ぎで対応するブルースと迫るジョーカーのサスペンスだったり、ヒースレジャーのセリフ回しだったりで見所がいっぱいある、個人的にも好きなシーンです。
apt install xxx
yum install xxx
or install non free software please.
non free it is ok. I think, but you should say so it is not free,commercial.
time is not free for me.Is it standard? non free soft ware is standard ?
I think it is commercial api not standard.
but it is ok. a software is not free , it nees by money.
2020 . please teach me your company name.
please add experimental it is ok.
簡単な話でいえば 弾幕薄いよなにやってんの? But I think so too, it is not good.
thank you.
ながくつれそった、女の傍にいよう。若けりゃいいってもんじゃない。
うちの子が三つ編みしたいって言うから、まあ、髪の毛を伸ばすわけですよね。で、今日突然「髪の毛切りたい」って言うんですよ。いやいや、とーちゃんは先週行ったのに、また美容室に連れて行くのかと。いや、別に良いけど、子供と2人で出かけられる少ないチャンスだぞ。とーちゃんとの話に集中するの、かわいい。
何があったのか聞いてみたら、今日は髪の毛を縛って行ったので、保育園で「女の子みたい」と言われたのが嫌だったらしい。
あー、ほんと日本人は見かけをすぐに言葉に出すよなー、クソだなー、と思った。
それが女の子だっていうので、「お前より可愛くなってごめんな!お前は男の子みたいだな!」って言っとけと心の中でアドバイスした。
妻と一緒に「You are you. ほかの人が言うことは気にしなくて良い。自分がやりたいことを、ほかの人に言われたからってやめるな。ママとパパは味方やぞ」と励ました。
日本人は、ブスとかデブとかすぐいうよな。見かけが10割だよな。ピンクを着てる男とか、青い靴の女の子はダメなんか?
当該の女子がどういう意図でうちの息子にコメントしたかは知らない。ただ単に「女の子みたいに見える」事実を言っただけかもしれない。が、それが良くない。
うちは、外で英語で話してると、「英語で話してるよ、あの子」とか言われる。
わりーんかよ!
どうしても日本にいると、その言葉に含まれる「異物を排除したい」感を感じてしまう。
ちなみに梅雨だけど、明日は晴れて暑いらしいよ。髪の毛が長くて暑そうだな。おれの頭は夏仕様だから涼しいぞ!ってやかましいわ!!