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はてなキーワード: 距離感とは

2024-10-11

anond:20241011111719

日本じゃ当初から「なんかめっちゃ嫌われて可哀想、ウチではいじめないからおいで」くらいの距離感だったしな

漫画熱帯魚は雪に焦がれる」を読んで腹が立った話

 百合が好きなので、なんだか評判のいい漫画熱帯魚は雪に焦がれる』を読んでみた。

 結果として、2巻か3巻の途中で投げ出してしまった。

 理由としては第一に、あまり面白くなかったから。第二に、読んでいてだんだん腹が立ってきたからだ。

 腹が立った理由は「水族館部」の描写だ。結論から先に言うと、水族館部という珍しい部活をとり上げた理由が「なんかエモいから」でしかないと感じてしまった。

 この作品は、主人公田舎高校入学し、気になる先輩が所属する「水族館部」に入ることにして、その先輩と徐々に関係を深め合う、そんな物語である

 この水族館部というのは愛媛県長浜高校実在する部活動で、作者も現地へ取材に赴き、実質的作品舞台にしたようだ。

 だが、その水族館部の描き方に問題がある。

 まず、水槽が多すぎる。

 実際の水族館部もこれぐらい水槽があるのかもしれない。ただ、長浜高校水族館部の部員数は全校生徒の半分以上を占め、2024年3月時点で68人いる(https://www.asahi.com/sp/articles/ASS2W4TLBS2RPTLC011.html#:~:text=%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8%E9%83%A8%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%93%A1%E3%81%AF,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%AE%A2%E3%81%8C%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82)。

 全国募集部員数が増える前でも、数十人は下らなかっただろう。

 しかし、『熱帯魚は雪に焦がれる』の設定ではなんと部員数は2人。主人公が入部する前は1人だったのだ。

 ……誰が水槽洗ってるんだよ!?

 水生生物を飼ったことがないと想像しづいかもしれないが、水槽管理はなかなか大変だ。

 生体の老廃物や排泄物、食べかすなどで水が汚れるのでフィルター(濾過機)を常時回すのだが、どうしても濾過・分解しきれない物質が増えていくため、定期的に水を換えなければいけない。そしてフィルター掃除しなければ目詰まりしてしまう。さら水槽ガラス部分に藻や苔のようなものが付くので、こそぎ落とさなければならない。また、海水水槽場合は析出した塩を取り除かなければいけない。水温の管理必要だし、当然、生き物に関する知識を身に付けなければそうした調整もできない。

 こうした作業を、数十個の水槽に対して2人で対応していくのは極めて困難だ。

 百歩譲って、大量の水槽を2人で頑張って管理していたとしよう。しかしそうなると今度は、ストーリーとの整合性がつかなくなる。

 この作品主人公ら2人の仲良くなりたい、でも臆病になってしまう、みたいな繊細な心の動きを描いている。が、2人で何十個もの水槽管理し、あるいは重い水槽を一緒に持って動かし、生物水槽管理知識を教え合い、なんてしていたら心の距離が縮まらないわけがない。ましてや、話しかけようかどうしようだの誘おうかどうしようだのでうじうじする距離感ではなくなる。距離感が近付いた結果仲良くなるか仲が悪くなるかは人それぞれだが、距離感が近付かないということはあり得ないのだ。少人数の部活動というのはそういうものだ。

 また、登場人物水族館部および水生生物へのスタンスも気になる。はっきり言って、2人とも生き物にあまり興味がなさそうなのだ

 主人公は生き物どころか水族館部にあまり興味がないけど流れで入部しているし、先輩も水族館部にいる理由を聞かれて「子どもの頃からそれが当たり前だったから」みたいなことしか言わない。途中で顧問先生=先輩の父親も出てくるが、その人もちょろっと話を展開させる要因なだけで、生き物への愛情とかは語らない。(なんなら、作者も生き物のディテール知識は細かく書き込んでおらず、好きではあってもめちゃくちゃ好きというわけではないのだろう。)

 水生生物好きとしては「じゃあ誰がこの子(生き物)たちを好きなんだよ!?」と言いたくなる。別にこれが放課後に駄弁るだけのボドゲ部とかだったらボドゲ愛情がなくても構わないのだが、水族館部というのは一応命を預かっているのだ。色々と心配になる。

 それでも水族館部の活動を通して、生き物への解像度とか、「生」というものへの関心とか、生きるって何なんだろうとか、そういうことに思いを馳せながら2人の関係にも有機的に絡み合ってくるのかなと思ったら、全然話に絡んでこない。岩陰から出てこないサンショウウオを「自分に似てる」と勝手自己投影するぐらいである。そして、お互いにどきまぎしながら日々を過ごす傍らで、なんか水族館部の活動もしているっぽいぐらいである。本当に傍らである

 少し話は逸れるが、先輩が部活をやってる理由想像以上にぼんやりしているのは悪い意味リアルだと感じた。卒業した先輩の意思を継ぐためとか、水族館部を途絶えさせないためとか、過疎化していく地域のためとか、部員が1人になっても意地で続けていたとか、ベタながら物語映えしそうな理由はいくらでも思いつくのに、そうしたエクスキューズ特にないのだ。まあぶっちゃけ高校生なんてぼんやり生きているのが普通ではあるのだが、学校行事として開館日を設定して、他部の生徒にも協力してもらってまで水族館地域開放を成立させているような状況でこのぼんやり具合はうそ寒さすら感じる。

 ここまで長々と語ってきたが、この作品水族館描写問題点は「リアリティのなさ」とその背景に見え隠れする「リスペクト希薄さ」に集約できそうだ。

 漫画リアリティで言うと、別に幽☆遊☆白書を読んで「死んだ人間が生き返るわけないだろ!」とか言わないし、NARUTOを読んで「実際の歴史上の忍者と違う!」とか言う人もいない。では『熱帯魚は雪に焦がれる』のリアリティのなさは、なぜ問題なのか。

 それはやはり実質的特定高校舞台にしているからだろう。

 創作のために多少手を加えたり省略したりするのは許されるかもしれない。しかし、この作品では生き物を扱う苦労を無視してしまっている。こうした過度な美化は、現実存在をただ作品を飾り付けるためだけに利用してしまっている表象ではないだろうか。

 これがボドゲ部や手芸部ならいい。真剣手芸部もあれば、放課後女子会のような手芸部もあるだろう。他の部活だってそうだ。

 しかし、水族館部は国内で唯一と言われている存在だ。

 手芸部でもなんでもよさそうな内容を、ただ画的にエモいからということで日本で唯一の水族館部に設定してしまうのは厳しいものがある。

 水族館デートというのはさまざまな作品で描かれてきた。現実デートでも定番スポットだし、漫画アニメドラマ描写するにしても水槽が鮮やかで、でも館内は暗くて、なんかエモい水族館を訪れる人はそれで十分だと思うし、水族館職員の奮闘に思いを馳せる必要はない。

 しかしこの作品では、その水族館を「内部化」することでエモさを恒常的に発生させていて、一方でその現実的な苦労を描いていない。それが「いいとこ取り」で「表面的」にしか思えない描写に繋がっているのだと思う。

 以上、水生生物が好きでもないと半分以上理解できない内容ではあると思うが、『熱帯魚は雪に焦がれる』に感じた違和感を記した次第である

 なお、論評するなら最終巻まで読んでからしろと言われそうな気もするが、連載形式漫画にそれをする必要性はないと思っている。

2024-10-08

漫画メタモルフォーゼの縁側

無料公開で読ませて頂いた

・ちょいちょい涙ちょちょぎれた

 陳腐言葉だけどてえてえ…ってなった

健全な「趣味で繋がった2人」だ

 近すぎず離れすぎず依存しない適切で健康な 

 距離感だ!!

 清すぎて眩しい!

 同人女感情趣味繋がり

 人間関係のネバネバ感情

 補給するぜ!

・「過ぎ去っていく かつてあった宝物みたいな記憶 」の秘孔ここまで的確に突かれると捻くれた心が浄化されてまう消えちゃう

しか高齢者が登場すると「面倒見ようとしてくれる良好な関係家族がいて、金銭的にも困った様子もなく、人間関係孤立していない」…老後リザルト高得点プレイヤーやな…と超すげえライフ送りし人間や…ってなってしま

・おはヨネダコウ先生

少なくとも無視されるタイプいじめはいじめられる側に原因があるよ

積極的に加害するんじゃなくて「いやマジで気持ちいから話しかけないで」「マジでこっちに来ないで」って拒絶するタイプいじめ

これはどう考えてもいじめられる方が悪い

単純に社会性がなくて皆から嫌われたってだけの話であってそもそもいじめとして認定するべきですらないと思うんだよね

それなりに場の空気を読むことができてそれなりに相手気持ちを慮ることができていれば拒絶型のいじめになんて遭わないからね

要は空気の読めないことばかり言ったり人のことを不愉快にさせることばかりしたり、意識的しろ無意識的にしろから嫌われるような振る舞いをしたから人から嫌われたってだけの話なんじゃないの

私のクラスにもいたよ、そういう男子

とにかく人との距離感が異様に近くて、迷惑かけていることにも気づかない

自分の話ばかりしたがって人の話を聞く姿勢がなく、空気も全く読めないクソ男子だった

男子グループから浮き始めたら、今度はクラス内の気弱なとある女子に目をつけてつきまとい行為をし始めた

本人はその女の子から好かれているとのぼせ上がっていたみたいだけど、いよいよその女の子精神面で体調を崩したので、クラス女子みんなでいい加減にしろと注意した

その男子は当然のようにクラス孤立したけど、逆上したのかなんなのかいじめの被害に遭っていると周りに相談し始めてヘイトを稼ぎまくっていた


不思議なのは、割とこういうタイプいじめであってもいじめられた方が被害者面して根に持っていることが多いってこと

でもその恨みは割とお門違いというか、ぶっちゃけそうやって自分客観視できないでいるかいじめられたんじゃないのって思っちゃう

平たく言えば自業自得

最近いじめに対する取り締まりが厳しくなってきているけど、「社会性が終わってるタイプ迷惑人間が周りのヘイトを稼いで孤立した」ってケースについては区別してほしいと思うよ

拒絶型のいじめについてまで加害者側が100%悪いって話になるなら、極端な話いじめられっ子は人に迷惑をかけても暴力を振るってもストーカーをしても免罪されるべきだし周りは介護するかのようにヨシヨシ認めてあげなくちゃいけないってことになるじゃんね

今度の同窓会、頼むから佐藤くんは来ないでほしい

貴方はいじめの被害者ではないし、クラス孤立したのは貴方性格に原因があるからだよ

2024-10-06

anond:20241006121006

田舎に限らず都会もかもしれんけど、長く住んでる住民ばかりのところに入っていくと何かしら摩擦はおきる。

新しめのマンションだと地元でない人が多く、都会のような距離感に憧れた人たちが集まるので、ほどほどの付き合いで済んでる。

全く付き合いないのも災害とかのときに怖いので、町内会は入ってるけど、とくに何か求められてることはないかな。掃除管理会社がやってくれるし。

2024-10-04

自分の身の振り方がわからない

非常に長文です。読み辛ければ申し訳ない。

自分以外の誰かの悩みの一助になってくれれば幸い。


昨日、個人意見感想が身近な上に大量に見られる現代で、情報の取捨選択ができず、それらの大量の他人意見沈黙できないのは病的だ、と書いている人を見かけた。

はっとして、そしてまさに自分のことだ、と思った。

自分は、自身の考えを第三者の前で表明しないと自身が歪んでいくようだと思い込むようになって久しい。

表明する内容も、ジェンダー論や人間性の話など、答えの無い人それぞれ考え方が異なるものばかりだ。

そんなことを発表せずとも幸せに生きている人は多くいるにも関わらず、自信を省みるともはや強迫観念の域に達していると自分でも思える。

あくま自分は」を常套句に、ネットの海に放り込まれた誰へ向けるかも明確ではない見知らぬ人の呟きに対して「自分はこう思う」と表明し続けている。

今思うと、今まで表明してきても良い反応も悪い反応も帰ってこなかった。

周りの一生懸命に真っ当に生きて人生を楽しんでいる(ように見える、きっと苦労も経験してきている)人たちは、そんな表明をせずとも健全精神を得ている。

自分は、ちゃんと考え方がおかしいんだなと思った。

病気ではなくて、思い込みが激しいただの頭がおかしな人だ。

自分は、交流があまり無い人や関係が続いている親しい人からは元気で親しみやすいと言われる。

場が沈黙するくらいならと、自分から話し始めることは当たり前。

一人での旅行は当然楽しめるし、初めてやる仕事の教えを乞いに上司に声をかけることもどんどんする。

陰キャの中では、比較的行動力がある部類だ。

そんな陰キャにしては歪で悩みの種の一因でもある自分性格形成する根底にあるものは、家庭環境が大きい。

両親が家にいる事は少なく、父親仕事別に住居を構えており、電話メールも年に数回するかどうかだった。

母親子育てをしながらも家事を全て一人でこなし、子供の手間が減ってからパートタイム程度に留めていた仕事夜勤有りのフルタイム勤務に切り替えた。

上のきょうだいが居るが、訳あって母を伴い施設病院に行くことも多かった。

そして、五体満足な自分が一人。

自分基本的に家では一人のことが多く、家に母親が居ても人を呼ぶ余裕など当然無い。

でも小学生の頃の自分は、記憶曖昧ながらもそれらに悩んだ記憶はあまりない。

なぜならそんな自分には何も与えられなかったわけではなくて、小学生の頃にパソコンを買い与えられていたからだ。

みんなは携帯スマホで家に帰ってからゲームをし合っている。

撮った写真をすぐにSNSに載せて、それに反応をして笑っている。

中学生自分学校でそれらが行われているのを見ているしかなかったが、急いで家に帰ってパソコンを付ければその輪に自分も加わることができた。

そのためか多少不便を強いながらも自分ハブるような友人はおらず、楽しい生活を送ることができた。

関係ほとんど自然消滅していった今でも、当時の友人達には感謝が尽きない。

問題はその後だった。高校時代から陰りが見え始め、交友関係に失敗する経験をし始めるようになった。

高校生になってしばらくしてから電話機を買い与えられたため、問題はそこではなかった。

基本的に家に自分以外誰も居ない。

きょうだいは居ても、母親が居ない時は部屋が別なのもあり最低限の必要な会話しかしない。

家にいる時は常日頃から忙しい貧乏だと口に出す無口な母親

誕生日も年齢も電話番号も覚えていないくらいに関係の薄い父親

家族に話しかける機会があまりなく、また話しかけた時に相手迷惑だと考えることを意識してしまい、最低限の会話しかしなくなった。

そしてそのうち、話さないことが当たり前になり、自分家族への興味が失せてしまって、それ以降話すきっかけを取り戻せていないのを今でも明確に認識している。

家庭での居心地の悪さを自覚しているなら、中学生の頃のように自分から行動を起こせばよかったのに、その発想は頭に浮かばなかった。

家族であるにも関わらず、邪険にされない楽な方へと逃げて、結果的には家族を見捨てたようなものだ。

子供だったかしょうがないなんて事はないと今では思う。

腹を痛めて産んだ実の子供を邪険にする母親がいるにも関わらず、自分母親は素っ気ない実子が生きるためにとてつもない努力をしていた。

きょうだいとは喧嘩する事はあれ、きょうだい自身普通のレールを歩めない体であるにも関わらず心の余裕を持ち、こちらを邪険にすることはなかった。

それらを見てきたのに、自分自分自身した行動で残った事は、何も行動を起こさず逃げたという事実だけだった。

そんな流れで、学校以外で人と会話をする機会がほとんどなくなった。

家庭で静かに一人で失敗をして学ばず、その孤独から本ばかり読んで人間関係を学んだ気になりそれを実践していた声の大きい自分は、学校の友人達はさぞ面倒な相手だったことだろう。

鈍感で距離を取られていることに気付かず近寄ってきて、意思キャッチボールができず一方的に話すことを対話だと思い込んでいて、小説では省略されるリアルの付き合いで起こるやり取りが円滑にできない、そんな人間が煩わしく思われるのは当たり前のことだ。

それでも周りの人達は直接的な何かを言ってくるわけでもなく、それとなくいつものメンツからは省きながらも、さまざまなグループに属する人達がちらほらと自分と浅い付き合いを続けてくれていた。

10代の頃から10代の頃でも、周りの人達は頭を使い、時にはぐっと我慢をして自分のような化物をいなしながらも人間関係の折衝をしていた。

自分はずっと気付けておらず、当時を振り返って自分の察しの悪さと無神経さを心から反省できるようになったのは社会人になってからだった。

こんな歳になってから自分の愚かさがわかったってどうすればいいんだよ、と思った。

一人で旅行をしても楽しめるのは、目的意識がありそれが一人である必要があるというわけではなくて、一人だと好き勝手できて気楽だから

周りが緊張している中でも率先して話せるのは、他人感情を軽視し興味を持てていない無神経さから来ている。

そして悩みに悩んで失敗し続けて今も絶賛落ち込んでいる人間関係軋轢を作りがちな原因は、自分人生の中で選択してきた間違いを間違っていると認めるどころか認識すらしてこなかった思い込みの強さと、視野の狭さと愚かさだ。

この日記冗長だって、きっと自己保身をしたい気持ちから来ている。

自分形成しているものがこんなにも身勝手で出来上がっていること、自分自身ですら他人から煙たがられて当然だと感じていることに、今までの人生はなんだったんだと足元が崩れていくような感覚がしている。

自分自己肯定感が薄く、でもそれをカバーするように間違いを疑わないほどの思い込みで自信を保ち、それを全世界に発信して非難を受けない事で認められたと思い込む。

初対面で自分のことを元気で親しみやすいと感じただろう人達が、その後親しくなっても半数以上に軋轢が生まれ険悪なまま別れることになるのは、相手が誰であれ、こちらのファーストインプレッションと異なる偏りすぎた二面性とそれを隠さなくなっていくことに幻滅したであろうことは確かだ。

家族ですら放り捨てるようなコミュニケーションの取り方、距離感を掴むのが上手くないのに一方的な形で距離感を操作しようとして不安にさせてくる行動、「あくま自分は」と言って予防線を張りながら自分の偏った意見非難されないように堂々と述べる。

これをされて、なぜ相手が親しみを感じて喜ぶと思うのか?

利点が何もないし、むしろ負担が増えて欠点だらけだ。

さらにそれだけではなく、ただ相手不安にさせるに留まらず、それを行なった自分自身もそれらの行動に対し利点がほとんどなかった。

その場その場で一時的自尊心は満たされても、継続しないか自分立場は悪くはなれど良くはなっていかない。

本で見たような、親しい友達特別関係を持ち合い楽しく過ごしたいという自分理想を得るための行動とあまりにも乖離していることにやっと気付いたのだ。

目標もなく結果も出ない行動は、本当に無益どころか無駄しかない。

どうしたらいいのかわからなかったが、より落ち込むとしても今までの自分の行動とその意図と、それに対して起きた周りの反応を振り返った結果がこの日記だ。

自分がこのままではいけないと感じ、ではどうするべきかと散々自分の失敗を省みて出した結論は「努力して愚痴を控え、愚痴を言う原因になる交友関係は広く浅くに留め、自分の成果に数えられることに挑戦する」というとりあえずの目標を持つことにした。

これは周りに迷惑をかけず、また他人から自分のことを深く意識されることも減らし、「また自分が同じような失敗をして落ち込まないために自分自身を見つめる必要があるでしょ、またいずれ誰かと深く交流することもあるかもしれないでしょ」と自分に言い聞かせ、自分自身が認められるような形で自分価値を上げ、自分に合っていそうなその過ごし方に慣れて、余裕のない自尊心の低さからくる失敗をする自分から離れるための挑戦だ。

自尊心が低く余裕がないと、自分を最優先で守ることに固執し、脇目も振らず逃げを選ぶことになって、手元に残るのは周りに不快をまき散らし逃げ回った自分だけだったのは結果が物語っている。

そして徒労をする度に落ち込み、自尊心はどんどん低くなっていくのだ。

孤独感は感じても、自分言動が人と深く交流することに向いていないのであればその先は失敗しかない。

深い仲の人がいなくとも問題なく生きていける世の中で、それを利用して自分を見つめ直す事ができることを心からありがたいと思う。

もう遅いのではと感じても、生きていくのならば必ず自分のような意志を持った誰かと関わる必要があり、その際に失敗が減ることで友人関係を長く続けられるという経験はいずれ自分の心に余裕をくれることになるのではないだろうか。

匿名でない自分自身が皆の前で堂々と考えを表明する」ことに固執していた一人の人間自分視野の狭さや醜さを認め、自分が変わる挑戦の最初の一歩として、匿名でここに残させてください。

⬛︎10/5 追記

がむしゃらに書き殴ってしまった長文にも関わらず、反応ありがとうございます

自分はまさにこのような自分は〜だけどといった不必要な主張を、匿名でもない趣味アカウントでしてしまっていたんですよね・・・自分のことを腫れ物だと考えている人はきっと多い。

自分のための会話ばかりして長文でお気持ちを吐いてしまう所は直したいと強く思っいます

保身ばかりを考えた会話や主張をせずとも胸を張って生きられるように、この日記以降は吐き出す習慣を無くし、感化されやす情報の多いSNSを見る時間を減らすなど少しずつ環境を変えていくつもりです。

コメントを読んで、慰めてくれる方や汚点をスルーして付き合いを続けてくれている人達をこれ以上幻滅させないよう意識していこうと思いました。

コメントでご意見をくださった方々、本当にありがとうございました

anond:20241004103119

距離感って要するに女の側が近づきたいかそうでないかの都合だけでしょ

ほめ方って『距離感

特定の誰かの事情を決めつけたり攻撃したりするつもりはなくて。一般論ね。

経験上、ほめるって、『距離感』が大事だと思う。

距離感が近い相手だったら

「おっ Tバック穿いてるじゃん いいよなw」

って言われても嬉しい。

でも距離感が遠い相手

エクセルお上手ですね」

って言われただけでもゾワッてする。

悪寒が走って、無理無理無理、ってなる。自動的に。

から、ほめの定型文を研究するよりは、相手個性人格を持った一人の人間と捉えて距離感バランス感覚を磨く方が実用的だと思います

2024-10-03

anond:20241003190546

個々人とその家族が取り組めばいいような話を不特定多数に向けて延々と長文で書くあなた神経症的な性格の方が遅刻癖よりも怖いよ

全体主義気質なのかモラハラ気質なのか、善意距離感を間違えてそうなタイプ

コントロール志向が強いんだろうね

会話って、普通に当たり障りないところから始まって、

共通趣味の話とか見つかったらその話するし、

エピソードちょっとした愚痴や自慢、感動)とか、聞いてもらえるなら聞いてもらうし、聞かせてもらうし

相手がつまらなさそうにしないように、話したい欲溜まってないか、無理に話題を振ってないか、気にするし

2人ならわりと簡単だけど、複数人になったら格段に難易度が上がって、

ずっとつまらない(他の人が興味を持っていない、笑わない、スマホいじりだす)長い話をする人や、

突然突拍子もない話(本人は繋がっているつもり。関連性の認識おかしいかエピソードとかが少なく無理に手繰り寄せて違和る)をする人が居たりで

せっかくの時間がもったいなくなって悲しい

そこそこみんな楽しめているのなら、主導権の奪い合いや切り返し狙いとか自分個性存在感アピールするそれはそれで楽しいなのだけど

もちろん3~4人ぐらいで真面目な話をすることもあるし、なんでもかんでもウケようとしてるわけじゃないです

誰かと話すのって、

愚痴や悩み言いたい、共感なり、アドバイスなり慰めなり

マウントしたい

知って驚いたことを共有したい

みたいな、前の二つとか(三つめもちょっとマウント系か)の、愚直に伝えればよくない系の欲求のためが含まれてないか

それは相手しんどい自分も恥ずかしいから、話術(ネタのチョイスや組み立て、間合い)が必要で、

関西人から距離感近すぎて、他地域だと、ただその場を穏やかに保つためや、相手危害を与えないですよという安心挨拶社交辞令だけなのか?

関西人から着地が笑いになりがちでそのパターンを多種知ったから、予定調和で笑えたり、ツッコミで終了するけど、

地域だと、怪談かいい話オチとか落語人情噺とか、世にも奇妙な物語タモさんみたいな別系統の落としがあって、そこわからんのかな我ら

いや、真面目な話だと普通に気を付付けなあかんね、とかそれは悲しいねで終わるのも多々あるんだけどさ

2024-10-02

anond:20241002232345

しろ子供の頃の「秘密」ってすごい嫌だった

自分だけ知らされてないのでは?みたいな怖さとか、

の子は知ってるんだ、みたいな嫉妬心かきたてられるところとか

好きな人」とかでこういうの顕著だったよね

そこら辺は大人距離感の方が快適だなぁ

anond:20241002135004

見た目が明らかにマイナスならそこにこだわり続けないで趣味とかステータスとか面白さに振らないと

女性の疑いがかけられているがこれがもし女性なら見た目の清潔感は120%に整えた上でステータスじゃなくて人間的魅力を磨きまくってお祈りしかないんだよな…と思ったり

最近自称非モテ弱者男性嫌がらせじみた言動の数々のとばっちり非モテ苛烈に叩かれる風潮があるけど本来恋愛弱者自体への好感度恋愛ステータスジャッジするような人間以外には無関係なのであまり気にするべきではない

女性だと拗らせて攻撃的だったり距離感を間違えたり言動おかしかったりする男性迷惑をかけられた経験がある人も多いのでなおさら恋愛できないことを人格人間性の問題に結びつけて批判してしまいがちだがそういうのは迷惑をかける人に向けているのであって他にモテない原因がある人は別問題だと開き直らないと

逆に明らかに顔に原因があるとわかっているのにまだ清潔感とか言っているところ(清潔感は顔じゃないって散々言われてるよね)が自分は見た目において大きく人よりマイナスなのだという自覚が足りず、目の前の女性じゃなくてネット言動を見ているような認識のズレがあるように感じる

見た目でのモテなんて生来持って生まれ人間以外は逆立ちしても手に入らないのだから欲しがってしまっているのだとしたらそれが間違いの始まりと思う

誰かを好きになっても自分の嫌なところしか目に行かなくなった

高校のころは今日ちょっと話せた、目が合った、会釈してくれた、そんな程度で嬉しくなっては舞い上がって





下手なりに甘酸っぱい経験もそれなりにしてたんだなって思う





でも人との関わり方って10代のうちにちゃんと覚えておかなきゃ駄目なんだなって思う










別に仲良くないのに連絡先聞こうとして拒否られて




今考えたらそりゃそうだよな、陰キャにいきなり絡まれたら何考えてるんだろとか、陽キャ見世物にされてるみたいで気分悪いよな










そういう失敗を経て本来なら努力して人並みにコミュ力磨いたり、距離感の詰め方とか学ぶんだろうけど





ずっとそこで躓いたまま大学卒業し、ついには社会人になって10










大学生になっても上手く異性と関わるために内面を磨こうとか人当たりを良くしようとか向上心なんて抱かず











今はその時じゃない、きっと自分に寄り添ってくれる人と出会えるって





年齢は成人を迎えたのに都合良く夢想しかしていなかった










大学ときも同じゼミの人のこと好きになったけど、コミュ障デートになんて誘えるはずもなく










何年か前にLINE名字変わってたの知って


結局そんくらいの関係しか築けなかったんだよなって虚しくなった











社会人になってから好きな人が出来て、でも自分高校の時から何も変わらずコミュ障のド陰キャ







昔は相手の顔を見かけると嬉しくなったり気分が弾んでモチベーションになったりしたはずなのに







上手く相手と関われない自分劣等感とか無能感とか、そういう気持ちばかりに苛まれ






好意を抱くということ自体が苦しく思える

2024-10-01

会社の同僚は仲良くても「知り合い」を超えることがないなという距離感なんだけど、一番最初入社した会社の同期だけは、戦友というか、その後も続く何らかの精神的な繋がりを感じる

不思議ものだね

「今ここにいる私」が生まれ確率

まさに偶然と思えない低さだよ。

宇宙リブートして。

ビッグバンのあと上手く宇宙が広がるような神調整の物理法則で、

水とかい特殊物質を湛えたプールに、炭素かい特殊物質をまとった生命が生まれ

太陽を、沸騰せず凍りつきもしない丁度いい距離感を保ち、

歴史を積み重ねた後に、意識を持って「今ここにいる」他の誰でもない私、が生まれ確率

海に混ぜたコンタクトレンズをヒョイと手を入れて拾い上げる確率より、ずっと低い。

でも私は確かにここにいる。100%の確率で。私が主人公からしか説明できない。

医者「余命残り1年です」 患者「よっしゃ!勉強して夢だった仕事につくぞ!」←ならないよな

自分の余命を意識したら、頑張って勉強する」みたいなロジックって簡単論破っぱ出来てしまう。

しろ言いたいことは真逆じゃないのか?

人間はそんな簡単には死なないから、お前が妄想してる「俺はロックスターみたいに27までに死ぬからそれまでにやりたいことをやりきるんだ」なんて人生観はまるっきり間違っていて、お前はいざ27になってから「あと人生が50年以上残ってる・・・もっと勉強するんだった」と絶望するんだぞ」じゃないのか?

それを頭の悪い人は何故か「自分の死を意識するんだ」と口にしてしまう。

何故か。

答えはシンプルだ。

ソイツ自身自分が数十年後に死ぬイメージが出来てないからだ。

40歳自分が、それと同じだけの年数を生きて、それからようやく死ぬということに対してリアル感覚を持ててないからだ。

から都合よく「5年後にガンで突然死ぬかも」という確率の低い妄想を取り出して、5年という短時間における人生戦略について語ろうとする。

実際には40年という人生の中で2回ぐらい入院して、2回ぐらい転職して、2回ぐらい殺されそうなほど人に恨まれ、2回ぐらい殺しそうなぐらい人を恨むものだが、それらを圧縮して1回だけ入院してそこで人生が終わるというシンプル構造圧縮しようとする。

人生はそんな簡単じゃない。

クソほど長くて、同時にクソほど短い時間を、どうやって使うかという命題といつも戦っていくのが人生だ。

たとえば仕事を辞めてラーメン屋になって、なんか知らないけど大繁盛したとしても、その一過性ブームが続くのは3年ぐらいで、そこから先はかつてやってきたブームの残り火をどう扱うかと相談しながらの長い余生が待っている。

人生を極小化して騙る人間の中ではラーメン屋になってブームたまたま起きるか起きないか、そしてすぐに病気になってはい終わりだ。

人生はそんな簡単じゃないのに。

人生の残り時間を考えるときに大切なのは、それが一瞬で燃え尽きてしまものではないことをしることだ。

振り返れば一瞬のように過ぎ去り、待ち侘びれば永遠のように長い、その距離感に対してどう向き合うかこそが人生本質であり、そこから逃げているやつが騙る人生はいだって薄っぺら空想しかない。

2024-09-29

anond:20240929144136

人間的な付き合いとクリエイターとしてのおともだちを分けて、どの程度の距離感をとるかちゃんと測るかなあ

作風被ってると仲良くなってしまうのもわかるけど人間的に無理そうだったらプライベート友達にはなれないしならない

anond:20240929030832

「私」がグループ崩壊に対してできることはいくつかあったかもしれませんが、いくつかの要因が複雑に絡み合っているため、解決簡単ではなかったことも理解できます。以下に、「私」ができたかもしれないことを考察します。

1. 率直なコミュニケーションを取る

「私」はティア1のメンバー特に強い絆を感じていたため、彼らとの関係を守るために、率直に不安や願望を話す機会を持つことができたかもしれません。彼らに直接「以前のように遊びたい」という希望や、グループが変化することに対する戸惑いを伝えれば、解決策が見つかった可能性があります。お互いの気持ちを共有することで、新しいメンバーとも共存できる形を模索できたかもしれません。

2. グループルールを明確にする

グループ自然発生的に集まるというスタイルは魅力でもありますが、メンバーが増えたり脱退したりすることで混乱を招いています。例えば、参加するゲームを決める際に、誰が優先されるかなどのルールをみんなで話し合って決めておくことで、無駄な譲り合いや不満を防ぐことができたかもしれません。「私」がその議論を促進する役割を担うことができた可能性があります

3. 柔軟なアプローチを取る

「私」は特にティア1のメンバーと遊びたいという強い希望を持っていましたが、それを絶対的ものとして抱え込むよりも、他のメンバーとも少しずつ親しくなるよう努めることで、グループ全体との関係性を深めることができたかもしれません。新しいメンバーとの距離感を縮め、全体としてバランスを取ることができれば、ティア1のメンバーと遊べないという不満が軽減された可能性があります

4. 小規模なサブグループを作る

グループ崩壊を予感した段階で、「私」が気の合うメンバーだけで新しいサブグループDiscordサーバーを作ることも一つの手段です。全員と遊ぶことが難しいなら、自分にとって心地よいメンバーとの小規模な集まりを別途設けることで、自分の居場所を守ることができた可能性があります。ただし、この方法は、他のメンバーとの関係悪化させるリスクもあります

5. 変化を受け入れる

「私」は非常に強い感情を抱きつつも、変化に対応することに難しさを感じていますしかし、グループが変化するのはある程度避けられないことであり、それを受け入れて、異なるメンバーとの新しい関係性を模索することも一つの選択肢です。これは簡単ではないですが、グループ自然な成長や変化を受け入れることができれば、もっと柔軟に楽しむ方法を見つけることができたかもしれません。

結論

「私」にできたこはいくつかありましたが、最も重要なのは率直なコミュニケーションと柔軟な心です。自分感情を整理し、他のメンバーと正直に対話することができれば、グループ全体が前向きな形で進むための解決策を見つけることができた可能性がありますしかし、こうした行動を取るには、変化に対する勇気や柔軟さが必要だったかもしれません。

2024-09-28

同性って

就職するまで人生の半分近くを女子校で過ごしたので、社会に出て男性とまともに関われるか心配していた。

だが蓋を開けてみれば、勤務先のホワイト(笑)企業では、そもそもセクハラ防止の名目私的アプローチ禁止されていた。そんな環境でどうこうしようと考える野蛮人もおらず、その気もないのに誤解されるような行動を取る人もないので、男性社員とは非常に適切な距離感が保てている。たまーに忘年会など大勢での飲み会がある程度だ。

一方で同性たる女性相手場合は、仲良くもないのに食事に誘ってきたり、部署が違うくせに何の責任感か面倒を見ようとしてきたり、とにかくパーソナルスペースというもの侵害される。距離感などない。いちおう善意によるものと思われるので、なおのこと最悪だ。

男性もいる場では、ただ女であることが交流理由になってしまうらしい。気持ち悪い!!!!!

女子校では「女だから」という理由で交友関係が発生することは絶対になかったので知らなかった。女しかいなかったので当然のことか。

いや、もちろん私にも友人はいる。休日に遊ぶ同期もいる。しかしそれはじわじわと、探り探りお互いにプライベートを開示し、友人になったからだ。きっかけが職場だったというだけ。

事実として、異性間には性別の壁が存在する。存在する以上、良し悪しはともかく、常識のある人間がその壁を越えてこようとすることはまずない。「自称常識人」くらいの人との距離感は保たれる。

これが同性になるとどうだろうか。壁の中を「自称常識人」が徘徊しているのだ。我々を遠ざけるものは何もないどころか、同じ壁の中にいるというクソみたいな同胞意識付与される。

世の中に、色々なきっかけで異性にネガティブ感情を持つ人がいることは重々承知だ。その人たちは性別の壁など話にならないヤバい奴と邂逅してしまったり、あるいは家族などの否応なく距離を詰められる環境にあったりしたことだろう。それを否定する気はない。

だが主張しておきたい。良識のある人たち、理想的環境を得た時、最後に残るのは同性のヤバい奴だ。

anond:20240927234731

の子兄弟などの影響で少年誌青年誌おっさんドリームが刷り込まれてるのかもな

しかも幼少期に同性に嫌われてて身体的な距離感を学べてないと推察

 

昔、『マリア様がみてる』という女子もの少女小説ラノベ?)で、レズビアンキャラが内輪の女子身体を触りまくり「同性だから性加害じゃない」旨の発言をするのに不快感を覚えたのを思い出した

少女向けレーベルだけど、男性読者の多い作品からマーケットインの結果かもしれない)

好きな人名前を一文字貰って名付けたペットが死んだ

学生時代好きだった、幼馴染のような関係性の男の子名前が二文字で、そのうちの一文字勝手に貰って名付けたペットが死んだ。

学生時代好きだった、と言ったが、私は彼に告白したいだとか彼氏彼女になりたいだとか、独り占めしたいだとかい感情はまるでなかった。

心地の良い距離感が大好きだった。同じ場所で何を話すでもなく、バラバラな行動をしているのにソワソワしたり何か話さなきゃ…という煩わしい気持ちになることがない人だった。

空気のような彼との時間が好きだった。

そんな彼と離れ離れになったのは大学進学の折だった。彼は彼の両親と共に都会の大学に進学したから、地元に帰ってくるということがなくなり、地元大学へ進学した私とは関わりが切れた。

そうしてそのまま過ごして、彼氏を何人か作ってみたけどやっぱりあの心地の良い時間はずっと忘れられないままで、心の中の一番の場所にはずっと彼が居座ったまま、私は社会人になった。

ひとり暮らしを初めて慣れてきたころ、ペットショップで見つけたかわいい子を連れて帰った。名前は彼から勝手に一文字もらって付けた。

ペットを彼だと思って育てたりなんてことはなかったけど、口触りが良くて響きが好きな漢字だったから、名付けた。何もかもが後付けでこじつけ理由なんだろうけど。

彼が好きだからその単語の口触りが良くて、好きな漢字になっていたんだろう。

の子が、つい最近亡くなった。

もう二度と私はこの愛しい名前を呼ぶことが出来ない。呼ぶ相手もいない。もうどこにも。

彼にもペットももう二度と会えない。私は好きな名前を好きなものに付けることで、同じくらい大切に思っていたものを二度も失うことになったのだ。

骨になった愛しい名前を付けた子を、ずっと抱いて眠っている。名前を呼びながら。

anond:20240928011608

どう頑張っても無理なものは無理だったりするから程々の距離感で生きていくのがいいよ

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