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2019-01-05

anond:20190105145440

好きだったのに朗報というのは如何なものか。

朗報じゃなくて訃報だろ。嫌いだったならわかるが。

言葉意味理解できていない子たち

さすがに訃報朗報を間違えるのはありえんと思ってたら、意味理解できていない子たちが当たり前のように使い始めて驚いた。

意味はわかるけど書き方がわからないってのは、まだいいと思ってる。

そんなのはツールが当たり前になってしまった現代なら仕方ないと思わなくもない。

が、文字意味もわからないで流されるように訃報朗報勘違いしているのは、ダメだろう。

おそらく朗報ですらコピペして貼り付けてるレベルじゃないのか?そもそも読めていれば訃報朗報は間違えないだろう。

会社若い子も似たような間違いを起こしたので、「面倒くさいかもしれないけど、辞書を読んでみると良いよ」と伝えてみた。

スマホ辞書でも良いですか?」と聞かれたので、もちろんOKと答えた。

しばらくしてから「今まで知らない漢字も多かったけど、意味もわかってきたら書くのも楽になってきました」と感想をもらった。

難しい漢字を知っているだけで、物知りと言われたりするようだ。昔ならそれほど珍しくもなかったが、今はそういうのでも良い印象を与えるようだ。

結局、何が言いたいかと言うと、文字意味を知らずに大事言葉を間違えて使用してしまうのは避けろということだ。

訃報朗報、こんな意味が全く違うものでは不要トラブルが起きかねない。

そうならないように一般的知識は身につけて置かなければならないし、そもそも自分バカにされるのを防ぐこともできる。

ぎっしり詰め込めとは言わない。しかツールに頼ってばかりで無知識でいるのはいけない。

辞書を全部読んで「覚えろ」とも言わない。

辞書なんてのは、気になる文字などから調べていくうちに興味をもてば勝手知識は手に入る。

たまたま、うちの若い子は辞書を読んでみたら、うまいこといっただけだろうから

でも、ググれば分かると検索する時も漢字自体コピペするだけでは、意味もろくに記憶できなければ、いざというときに書くこともできない。

辞書って勉強するには結構便利なのよ。

2018-12-26

セックスに集中できない

3月日曜日学部ライングループに友人の訃報が入った。

大学の同期では上から数えた方が早いくらいに仲のいい男友達だった。後悔は絶たない、涙も止まらない、とはいえ親友でも家族でも恋人でも無い。レンタカーを3台借りて皆で行った葬儀の帰り、さっきまでグシャグシャに泣いていた友人達サービスエリアで談笑しながら唐揚げを食べているのを見て、生きていくとはこういうことかとなんとなく思った。大切な人がひとり死んでも、冗談で笑って、ご飯を食べて、眠くなったら寝るんだ。

半年平気で過ごしたあとで、心療内科にかかることになった。キッカケはバカバカしいことにNetflix徹夜して見たデビルマンcrybabyがトラウマ級に怖かったからだったが、症状が進むにつれてデビルマンのことは忘れた。毎日恐怖に体中を支配されて、コントロールできない「怖い」に気が狂いそうだった。戦争災害AI宇宙人、恐怖心の対象は「必ずしも可能性を否定できない思いつく限りの地獄すべて」という感じだった。

耐えかねて初めて訪れたのは大学健康管理施設だった。精神科先生に話を聞いてもらい、どうやら根本の原因は友人の死にあるらしいとわかった。心療内科を紹介され、大学の方で週に一回のカウンセリングを組んでもらった。10月の頭のことだ。

治療は順調に進んだ。半年にわたる不眠も治ったし、恐怖心が生まれても落ち着いて対応できるようになった。問題は次々に出てきたが、その都度先生と話し合い、解決策を見つけてきた。ついに話し合うべき新しい悩みはなくなり、年末を境にカウンセリングは1ヶ月に一度になる。

本題はここからだ。確かに問題ほとんど無くなった。しかしそれは先生お話できる問題の話だ。3月から、私はセックスができなくなった。というのも、一切の性的快感を感じることがなくなった。相手同棲している彼一人なので、最初相手が下手だからだとか自身経験が少ないからかとか適当理由をつけて納得していた。しかだんだん問題は体ではなく心ではないかと考え始めた。ここから感覚的な話になるのだが、感じそうだな〜という段階になると頭の中に過去映像が浮かぶ他愛もないことばかりだ。家族だったり、友人だったり、特段嬉しくも悲しくもないような記憶の一部。それが浮かぶと一気にどうしょうもないような気持ちになる。途方にくれるような、絶望するような、悲しくて仕方ない気持ちになって、もう感じるどころではないのだ。なんだこれは。

カウンセリング先生とやってきたように、状況、行動、心情を書き出して考えたりもしてみたのだが、自分一人ではどうも客観視できない。だからといって「セックスができなくて〜」などと赤裸々に相談できるほど私とカウンセラー先生は仲良しではない。そうでなくても、平静を装ってこの相談をしている自分想像すると気持ち悪くてどうしてもできない。とはいえ今の状況が続くのはどうも辛い。彼がいつまで本番のできない女と付き合い続けるつもりかもわからない。申し訳ない。考えあぐねてとりあえずなんとなくここに投稿してみることにした。あわよくば何か解決の糸口が見つかるかもしれない。

2018-12-10

ちあきなおみ喝采』の歌詞が嫌いだ

表題の通りだ。俺は昭和60年まれだが、この歌詞を尊んだ昭和人の感性がわからない(あえて術語をでかくするぞ)。

嫌いな理由を端的に述べると2つある。

まず、情景が飛び過ぎなのだ

そして、飛び飛びのシーンそれぞれが象徴的でゴテゴテと飾り立てられている点だ。

一番の歌詞

3つの空間がある。順に見て行くと、

A ステージで歌っている語り手に訃報が届く。

B 訃報の主が語り手を故郷? の駅で引きとめようとした3年前

C 故郷? での教会での葬儀の場面

ついでに二番の歌詞

D 教会白壁

E 故郷? 駅の待合室で、自分のヒットソング聴く

F 舞台でいつものヒットソングを歌う語り手

こう見ると、舞台立ては「都会のステージ――駅――教会――教会――駅――ステージ」と整っているように見えるが、実のところバラバラである

時の操作がめちゃくちゃなのだ

まずAが地味におかしい。

恋の歌歌う私に黒い縁取りの訃報が届くのだ。

冷静に考えるとステージ去ってから訃報を目にするのだろうけど、見かけ上ステージで歌っている語り手に郵便屋が届けたように書かれている。

それだけAの時点で時系列の運びが性急なのだ

そしてB。

Aがおかしいのにいきなり「あれは3年前」とか言い出す。

そしてC

いきなり時が戻り、そして故郷に帰って葬式に出ている。

空間バキバキになっていることが解るだろう。

そして良いシーンをこれでもかこれでもかと持ってくる。「ほれほれ良いシーンどんどん行くよー」的な過剰包装的な過度の装飾。


C-Dへの情景の経過はやや丁寧だ。昼下がりから夕方葬儀が行なわれたのだろう。

そしてE。

駅に戻ってきたのは解るのだが、対称となるべきBの位置と異なる。

B動き始めた汽車に一人飛び乗った:ホームでの出来事だろ

E暗い待合室

Eはラストへの布石になるし、一人になったことを示していて叮嚀な箇所もあるが、しかしどうも空間がずれている。


こんな感じで、情景が性急に飛びすぎな印象を強く受ける。

そして、それがさもありがたそうに語られ唄われる。今でも「昭和名曲」としてありがたがられる。でもそれは虚仮だと思う。

なんつーか、下品表現なんだけど、昭和にわか成金にわか教養人、にわか中流家庭に向けられた、安っぽい感動への舞台立てだなと思うのだ。

いかにも「名曲」のような装いをしているのだがその歌詞は人の死と愛を浅薄かつ性急にそろえただけのものだ。

こうした「インスタントな大作」感が気に食わないということだ。

このあともう少しすると、例えば米米CLUB浪漫飛行』みたいな具体性がほとんど何もない抽象的な歌詞流行る。

こうした傾向は、『喝采』に限らない具体的な情景描写稚拙さ、あるいは陳腐化の反動ではないかと思っている。

2018-11-19

ツイッターで擬似的な死を楽しんでいる

ツイッターアカウントをいくつか持っていた。

どれも五年以上前に作ったものだ。それぞれに繋がりはなく、名前も違うしツイートの毛色も違う。趣味で切り分けた独立アカウント。そしてそれぞれによく話す仲の良いフォロワーがいる。

半年前、仕事生活上の様々な不安小学生の頃から持っていた希死念慮がぐちゃぐちゃに混ざって、その中の一つのアカウントで死亡宣告をした。

遺族になりきって、「〇〇の親族です。〇〇は先日逝去いたしました。生前〇〇と親しくお付き合いいただいた皆様、どうもありがとうございました」

というふうに。亡くなった芸能人ツイートを参考にしてそれっぽい文面にして、葬式など様々なドタバタを暗に臭わせるために死亡設定日より期間を開けたりなんかもして巧妙に。

ツイートした直後、後悔した。なんでこんなことしたんだろう、意味がわからない、でももう呟いてしまたから消すわけにはいかない。

でも、そのアカウントで仲良くしていたフォロワーの一人がそれを拾った途端、後悔がぞくぞくとした快感に変わっていった。

「〇〇さん!? 嘘だ......」「そんな......よく話していたのに亡くなるなんて......」

私のために悲しんでいる。リツイートが増え、私の名前を見たことがある程度の人までご冥福をお祈りしている。彼ら彼女らにとって、私は死者になったんだ。

すごく気持ちが良かった。私が死んだだけなのに、こんなに多くの人がその死を悼んでいるのだという快感

私の冥福を祈っている人たちのツイートを見ながら、私はにやにや笑っていた。

以来、私は一定の間隔をあけながら、私自身を死なせている。何度も死なせていたら当然アカウントが足りなくなってくるから、新しくアカウントをつくってまた別の関係を構築し直す。タグをつけているツイートを探してその人の作品趣味共感してあげたり、まめにいいねリツイートをしてあげたり、「おもてなし」をしてあげさえすれば、ツイッターで人と仲良くなるのは簡単だ。もちろん、悼んでくれるような人を作るまでは時間がかかるから簡単といっても短期間ですぐに作り上げられるというわけでもないけれど。

ともかくそうやってコミュニティに参入したら、頃合いを見計らって私は死ぬ。死因は様々だ。事故死、病死自殺はうまくやると本当に気持ち良い反応が返ってくる。

何で気づいてあげられなかったんだろうとか、そういえばあの時のツイートは、とか、まだ若いのに、とか色々好き勝手に私の自殺の要因を想像している。愉快でたまらない。そういうツイートを見ているときがたぶん私にとって一番幸せ時間なんだろうと思う。

この前もまた私は死んだ。平成が終わるまでに、あと何回死ねるか。次はどんな死因にしようか。どんな訃報の文面を作ろうか。今日もそんなことを考えてわくわくしながら、私は呟いている。

追記

こんな日記なんて早々に流れに飲み込まれて消えると思っていたから、反応があって驚いている。賛否はともかくとして自分の書きなぐったものに反応してもらえることは、ご冥福を祈られるのとはまた違った嬉しさがあると知った。

趣味の悪いことだというのは自分でも重々理解しているのでそれは脇に置いておいて、私がアカウントを作る際に心がけていることとして、「ヘイトを溜めない」ことがある。

ツイッターにおける人間関係は、実社会よりはるかに作りやすいことはすでに書いたが、同時にそれはきわめて脆くもある。

ミュートやブロックという形でその人をいなかったことにできる機能があるし、訃報に触れる心持ちにしても、ネット上だけで関わりがあった人の訃報は、実際に対面したことのある人の実感的なそれより軽い。

からこそ、人が(本当に)死んでいるというのに、その人に対してヘイトを持っていた人は、ネット上においてはその死を平気で喜べる。実生活でそんな態度を露骨に表に出す人はほとんどいないことを考えれば、この点は了解してもらえると思う。

そして、そのような反応は、私の求めているものではない。

良質な冥福は、良質なユーザー死ぬことでしか起こりえない。私が平穏に悼まれるためには、関係悪感情を挟んではいけない。

から私のアカウント平和ツイートばかりだし、センシティブ話題には触れないよう心がけている、ということを追記しておく。

消されたら嫌だから取っとく

anond:20181118011243

2018-11-18

ツイッターで擬似的な死を楽しんでいる

ツイッターアカウントをいくつか持っていた。

どれも五年以上前に作ったものだ。それぞれに繋がりはなく、名前も違うしツイートの毛色も違う。趣味で切り分けた独立アカウント。そしてそれぞれによく話す仲の良いフォロワーがいる。

半年前、仕事生活上の様々な不安小学生の頃から持っていた希死念慮がぐちゃぐちゃに混ざって、その中の一つのアカウントで死亡宣告をした。

遺族になりきって、「〇〇の親族です。〇〇は先日逝去いたしました。生前〇〇と親しくお付き合いいただいた皆様、どうもありがとうございました」

というふうに。亡くなった芸能人ツイートを参考にしてそれっぽい文面にして、葬式など様々なドタバタを暗に臭わせるために死亡設定日より期間を開けたりなんかもして巧妙に。

ツイートした直後、後悔した。なんでこんなことしたんだろう、意味がわからない、でももう呟いてしまたから消すわけにはいかない。

でも、そのアカウントで仲良くしていたフォロワーの一人がそれを拾った途端、後悔がぞくぞくとした快感に変わっていった。

「〇〇さん!? 嘘だ......」「そんな......よく話していたのに亡くなるなんて......」

私のために悲しんでいる。リツイートが増え、私の名前を見たことがある程度の人までご冥福をお祈りしている。彼ら彼女らにとって、私は死者になったんだ。

すごく気持ちが良かった。私が死んだだけなのに、こんなに多くの人がその死を悼んでいるのだという快感

私の冥福を祈っている人たちのツイートを見ながら、私はにやにや笑っていた。

以来、私は一定の間隔をあけながら、私自身を死なせている。何度も死なせていたら当然アカウントが足りなくなってくるから、新しくアカウントをつくってまた別の関係を構築し直す。タグをつけているツイートを探してその人の作品趣味共感してあげたり、まめにいいねリツイートをしてあげたり、「おもてなし」をしてあげさえすれば、ツイッターで人と仲良くなるのは簡単だ。もちろん、悼んでくれるような人を作るまでは時間がかかるから簡単といっても短期間ですぐに作り上げられるというわけでもないけれど。

ともかくそうやってコミュニティに参入したら、頃合いを見計らって私は死ぬ。死因は様々だ。事故死、病死自殺はうまくやると本当に気持ち良い反応が返ってくる。

何で気づいてあげられなかったんだろうとか、そういえばあの時のツイートは、とか、まだ若いのに、とか色々好き勝手に私の自殺の要因を想像している。愉快でたまらない。そういうツイートを見ているときがたぶん私にとって一番幸せ時間なんだろうと思う。

この前もまた私は死んだ。平成が終わるまでに、あと何回死ねるか。次はどんな死因にしようか。どんな訃報の文面を作ろうか。今日もそんなことを考えてわくわくしながら、私は呟いている。


追記

こんな日記なんて早々に流れに飲み込まれて消えると思っていたから、反応があって驚いている。賛否はともかくとして自分の書きなぐったものに反応してもらえることは、ご冥福を祈られるのとはまた違った嬉しさがあると知った。

趣味の悪いことだというのは自分でも重々理解しているのでそれは脇に置いておいて、私がアカウントを作る際に心がけていることとして、「ヘイトを溜めない」ことがある。

ツイッターにおける人間関係は、実社会よりはるかに作りやすいことはすでに書いたが、同時にそれはきわめて脆くもある。

ミュートやブロックという形でその人をいなかったことにできる機能があるし、訃報に触れる心持ちにしても、ネット上だけで関わりがあった人の訃報は、実際に対面したことのある人の実感的なそれより軽い。

からこそ、人が(本当に)死んでいるというのに、その人に対してヘイトを持っていた人は、ネット上においてはその死を平気で喜べる。実生活でそんな態度を露骨に表に出す人はほとんどいないことを考えれば、この点は了解してもらえると思う。

そして、そのような反応は、私の求めているものではない。

良質な冥福は、良質なユーザー死ぬことでしか起こりえない。私が平穏に悼まれるためには、関係悪感情を挟んではいけない。

から私のアカウント平和ツイートばかりだし、センシティブ話題には触れないよう心がけている、ということを追記しておく。

2018-11-08

絢辻かなたさん訃報出す時点でアカ乗っ取られてるよ、これ

次の展開は、今なりすましを疑われているkanata_ayatsu j iが「そんなに疑うなら元のアカで呟きます」とkanata_ayatsu z iのアカを復活させてみせるだろうな。

殉教した聖Hagexの次くらいにネット炎上に詳しい俺には見えるんだ。

赤の他人訃報を装ってツイートするのって、いじめられっ子の机に花びんを飾る葬式ごっこと同じだろ

小学生みたいな知能してんのな

2018-11-07

anond:20181107202019

正しい流れはこうだ

1.件のフェミが、日頃から自分個人情報晒しオタク叩き

2.件のフェミグリッドマン抱き枕に目をつけて公式アドレス貼って叩き扇動。発売停止狙い。

3.件のフェミが反撃喰らう。自分で明かした情報を使われる

4.件のフェミ逃走。サブの鍵垢で言いたい放題

5.件のフェミに何者かが現れ訃報を伝える

6.殉教者を得たフェミが狂喜してオタク叩き⇦イマココ

徹頭徹尾フェミ自業自得

オタク人権尊重しない奴の人権?はぁ?

祖母訃報

が入ったけど親戚に関わりたくないので葬式に出ろというのを拒否して家にいる。

そろそろ30になろうかという大人が何をやってんだと自分が嫌になるし、つまらん意地張ってないで諦めろという気もあるけどどうしていいかわからん

祖母は嫌いでもなんでもない。世話になったことはあったがそれも20年以上前の話。それから会っていないか他人同然、遠くの誰かが死んだのかという程度の思いしかない。

私はなんてクズなんだ。

2018-10-27

anond:20181027021001

・この先生きていても恐らく不幸なことの方が幸せなことより多い(加齢による肉体容姿の衰え、身近な人の訃報や不幸せニュースに接する確率は、長く生きている方がより高くなると推測される)

不幸なことの方が多いというのは同意

訃報についてはうらやましいなと思う

人間はいつかは死ぬのであり、早いかいかの違いでしかない

これは完全に同意

・生きていても事故死ぬ可能性は常にある→どこかの時点で人生が終わるという点で概括的にくくれば、死にいたる方法には大した意味はない。むしろ選べる時点で自殺を選んでおけば突然のアクシデントなどで自分意思無関係死ぬことはなくなる。

でもどうせ事故死ねないだよなと思ってる

結局実行に移す勇気がなければ、世界は変わらないと思ってる

ちなみに独身だが、そもそも人が嫌いなので新しい女性と知り合うのも面倒なので、結婚恋愛自分にとっては苦痛体験しかない。

同じく人嫌い

デート価値が見いだせなかった

毎回なんで(相手)が、デートに来てくれるのかわからなかった

自分は全くつまらなかったから毎回早く帰った

それでも人並みになろうと結婚まで行きそうなくらい付き合ったけど、相手方の親戚(普通の人)づきあいを思うと苦痛しかなくて結局やめた

人が嫌いだからもう仕方ない

昔はエンタメ(本や映画ゲームスポーツ観戦)で心を動かされたりもしたが、それで人生が変わったかというと、何も変わらなかった。

変わったことないし変わらないと断言できる

好きな作品はあっても生きようとは思わない

デジタルモノの進化過去から興味があり、OculusGOやVR180については今後の発展も見たい気がする。また、AIが今後どのように社会に影響を与えるのかも見ていたいが、それと今後に起こりうる嫌なことを天秤に掛けた場合、そりゃ嫌なことを回避する方がいいよねと。

同じくデジタル物は好き

AIに早く仕事奪われてみたい

とかなり似ているんだが、自殺しようとは思ってない

やっぱり怖いし結局何しても死ぬんだから、今は仕事してるけど何もかもしなくなってもいいと思ってる

希望としては重い病気になることなんだけどね

絶対治療しないで死ぬことを選ぶ

自死を考えているのだが

相変わらず今日も眠れないので、この時間になるといつも考えるのだけど、

・この先生きていても恐らく不幸なことの方が幸せなことより多い(加齢による肉体容姿の衰え、身近な人の訃報や不幸せニュースに接する確率は、長く生きている方がより高くなると推測される)

人間はいつかは死ぬのであり、早いかいかの違いでしかない

・生きていても事故死ぬ可能性は常にある→どこかの時点で人生が終わるという点で概括的にくくれば、死にいたる方法には大した意味はない。むしろ選べる時点で自殺を選んでおけば突然のアクシデントなどで自分意思無関係死ぬことはなくなる。

こんな理由を考えて、自殺合理的だと判断している。

自分境遇的には40を過ぎて体力も衰え、人生の先が見えるというか、この先に何もいいことはないこともないだろうが、とりたてて人生が変わるような素晴らしい体験はないだろう。ちなみに独身だが、そもそも人が嫌いなので新しい女性と知り合うのも面倒なので、結婚恋愛自分にとっては苦痛体験しかない。

昔はエンタメ(本や映画ゲームスポーツ観戦)で心を動かされたりもしたが、それで人生が変わったかというと、何も変わらなかった。なので、自殺後に世の中をひっくり返すような傑作が出てきても、それは大したものではないとして諦められるファクターと考えている。

デジタルモノの進化過去から興味があり、OculusGOやVR180については今後の発展も見たい気がする。また、AIが今後どのように社会に影響を与えるのかも見ていたいが、それと今後に起こりうる嫌なことを天秤に掛けた場合、そりゃ嫌なことを回避する方がいいよねと。

そんなわけで、1日経つごとに嫌なことが発生する確率南海トラフ地震のように上がっているわけで、早めに人生を閉じるのが合理的だと思っている。

それでも気をぬくと今日銀座三越セールスーツを買ってしまったり、食事は体にいい食材などを選んでしまっている。毎日この時間になって一番大事なこと=自殺することを思い出し、今日も行動に踏み切れない自分を責め、今日会った会社の同僚や店員さん全員が自分を嫌っている、嫌な顔をして見ていたと仮定(その仮定論理的に崩せない場合自分という存在主体的に行動することで、同僚や店員さんたちに迷惑をかけている(存在迷惑)という結論が確定する)し、早く自殺して二度と同じような迷惑を掛けないよう自分自殺に向けて動機付けている。なぜ自分が嫌われるかは謎なのだが、恐らく口や体の臭いだろうと踏んでいる。なるべく口を手で押さえたり喋るときは息を吸いながら喋っているのだが。

ところで、この辺の思考実験をすると大抵胃や心臓がズキズキ痛くなるので、そのうち大きい病気にならないかなと期待している(その場合はもちろん病院には入らず死を選ぶ)。

まあ自殺するにあたって、両親に見られたくないものなどを処分する必要もあるのだが、どうも面倒くさい。

自分存在だけを最初の生まれた時点に遡って消しゴムで消せるような、画期的なな自殺方法があれば楽チンなのだが。

だらだら書いてみた。練炭とか一応検索はして大体のイメージは掴んでますので。

2018-10-21

先日家族写真を撮った。

家族写真と言ってもたいそれたものではなく、テーマパークなどで記念に撮る簡単ものだ。


私の実家九州田舎にあり、私は高校卒業九州を出て本州へ。

当時は都会へのあこがれと、将来やりたかたことがありその勉強がしたくて九州を出ることを決めた。

しかし当時の私は反抗期真っ只中。親から逃げたかった気持ちも正直あった。

進学後、そのまま就職して、いつか九州に戻れたらという思いのまま1,2年程経った夏のある日、母から連絡があった。

母方の祖父が亡くなったという連絡だった。

丁度帰省する1週間前の事。

このタイミングで帰ってしまうと長期休暇中帰ることができなくなり、

トンボ帰りにもなってしまうので父と母の判断葬式には出席せず、帰省後お線香を上げに行くことになった。

今でもその時のことを覚えている。

ショックで、悔しくて、悲しくて、どうして自分はすぐ駆け付けれるところに居ないのだろうと仕事中何度も泣きそうになった。

流石に泣くと仕事に支障が出るので頑張って耐えたが、帰省し、祖父遺影を前にすると耐えることが出来なかった。

本当に死んだんだ。と実感してしまって。

祖父は無口で、厳しい人だった。よく私とも喧嘩をしていたのだが、その分たくさん可愛がってもらった。

春先に会いに行ったときは元気で、まだ仕事も現役だったので本当に突然の訃報だった。

この夏もまた会いに行って皮肉を言い合うんだと思っていたのに。

人の死ってこうも突然なんだな、と始めて実感して、またこうやって駆け付けれなかったときはと考えると怖くなった。


元々転職を考えていて、この出来事が後押しして決心。

これから半年後くらいに会社を辞め、九州に戻った。

今もまた、実家を出ているがそれでも九州内なので実家に帰るのも容易で、また両親がこちらへ来るのも容易だった。

そして、先日両親が遊びに来てドライブに行き、冒頭に戻る。

本来私は写真に写る事が苦手で、記念撮影なども避けるのだがこの機会を逃したらまたいつ撮れるかわからない。

そう思うと「別にいか~」と言ってる父母を引き留めて写真を撮ってもらった次第。

後悔してからでは遅い。というのは祖父の事で思い知り、もっとたくさん撮っていたらよかったなんて思わないよう、これから写真は撮っていきたいと思っている。


お父さん、お母さんどうか長く元気でいてください。

次は私から家族旅行をプレゼントしたいな。

2018-10-17

anond:20181017001001

arXiv画期的な速度で自然言語理解する機械学習方法ブクマが集まったらしい http://b.hatena.ne.jp/entry/s/arxiv.org/abs/1810.04805 全くわからないけれど。

Vergeはポール・アレン訃報Palmの新端末。

Kickstarter携帯電話自作キット。

Nature自由に書き込めるページに何か落書きしてそれをブクマするスパムでここ数週間増えているようだ。

The Registerは富士通クラウドサービスK5海外ででサービス終了するというニュース

2018-10-11

親の葬式やって感じたこ

香典いくらもらったのか確認するのがめちゃ大変。Excel紙幣を数える機械があると楽できる。(理想電子マネー決済だけど)

地元田舎から新聞訃報を載せる依頼をするんだけど、これが結構高い。私の地元では十万円かかった。

それとは別に故人のFBで報告をした。んで、FB訃報を知る人が結構いた。やっぱり新聞を取ってる人は年々少なくなってるっぽい。

契約書、請求書、借用書、領収書なんかは分かりやすいように保存すると遺族は助かる。あとは通帳。無くしたなら、早めに銀行で再発行しろ

いくら借金があるのか把握するのは結構大変。故人の銀行口座は凍結されるし、凍結後に残高を確認しようにも色々と手続きを踏まないといけない。

銀行によって手続きの仕方が変わったりするので、複数銀行で口座を持っている場合は各銀行手続きを調べないといけない。

ざっと思い出せるのはこれくらいかな。みんなも死ぬ前に整理整頓しような。

2018-09-28

「また一つ平成が終わる」とか言ってた奴ら何してんだよ

貴乃花親方引退しようとしてんだぞ?

今じゃん!まさに「平成象徴が消えようとしている」っていうチャンスじゃん!

さくらももこ先生みたいな昭和時代から昭和ノスタルジーバリバリ活躍してる作家さんの訃報に「終わった終わった」ドヤ顔連呼決めといて、ここぞって時はスルーっすか、馬鹿だろさてはてめえ。

馬鹿ひとつ覚えみたいに「平成が終わる」っつってうざがられだしたから怯んだのか、ただ単に飽きたのか、はたまた何なのか知らないけど「平成象徴が消えようとしている」というのはまさに今だよ今!今 is now!

2018-09-20

[]プーと大人になった僕

プーと大人になった僕』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。

総評

これは100点っすな。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、この100点は大傑作という意味ではない(300点とかありえる)んだけど、ごちそうさまでした、わしゃぁあ満足です。という意味で良作だというのはたしか。損しません。

まあ、家族向けとかカップル向けかと言えば、実はそんなことはなくて、一人で見に行けよおい、しか社会人がいけよ、っていうのはあるので万民向けとはいい難いんすけどね。この映画は、だって学生にはわからなさすぎでしょ。

ざっくりいうと「おとなになって社会人となり企業戦士として毎日ブラック労働をしているクリストファー・ロビン仕事家族の間で板挟み。人生迷子なっちゃったプーさんといっしょに正しい人生を探そう」みたいなあらすじ&テーマであって、それは予想通りだったし、そして予想を満たして十分以上な脚本完成度です。テーマ物語性(増田はここを中心として映画を見ちゃうタイプです。趣味合わない人は申し訳ない)でいえば、非常に満足でした。

がー。そのてんに関してはー。満足だったのでー、逆に満足であったがゆえにー。脇へうっちゃっておいてー。この映画のー。感想についてはー。別の部分をー。述べたいとー。おもいまーす。

ショタクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

映画冒頭部分では、まだ「100エーカーの森」でくまのぷーさんと遊んでいた頃のクリストファー・ロビンショタ)が登場するんですが、もうね、これがね、非常にこうファビュラスっていうか尊いわけですよ。華奢な白人少年が四分丈の(日本で言う半ズボンよりは少し長いけど膝上の)ズボンから、少し筋張ったくらいの細っい脚をね。伸ばしてね。みどり豊かな森の中をバスケットを持って歩く姿がね。素晴らしいわけです。

わかりますか。美少年なんでございます

シーンはクリストファー・ロビンが寄宿学校へ向かうその直前。楽しく美しく永遠だと思われていた「森でのプーさんとの日々」が終わるちょうどその時。作中では「お別れをいう日(Day to say goodbye)」と描かれるその日なわけですよ。

クリストファー・ロビン楽しい田舎暮らしから、厳しく抑圧的な寄宿学校へ入らなきゃいけない。それは大人への第一歩で、もう今までのように日々をただ日々として楽しく過ごせる時間は終わってしまった。それをクリストファー・ロビン本人もわかってるんですよ。もう自分はゆったり時間を過ごせない、これから時間に追われて毎日何かをしなきゃいけない、大人になるからもう仕方ないんだって諦観してるんですよ。

その「子供としての最後の日」。100エーカーの森で、プーさんピグレットティーガーたち森の仲間でパーティーをして楽しく過ごしたその後、森を見下ろす高台丸太ベンチに座ったクリストファー・ロビンプーさんの二人は、こてんと肩を寄せ合い夕日に向かってずっと座ってるんですよ。

そこで「ぼくのことをわすれちゃうの?」と鼻にかかった声で尋ねるプーにたいして、ショタ大事なのでもう一度いう)美少年クリストファー・ロビンが、優しくて、それでいて困ったような表情で「プーのおばかさん」って言うんですよ。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「おばかさん」ですよ。もうね、水銀灯の牙城にいちどの跳躍で飛び込む偉大なシーンですよ。もちろん画面は映画でありフルカラーなわけですけれど、この夕暮れは追憶郷愁の甘さを伴ってセピアにさえ見えるわけですよ。つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

イケオジクリストファー・ロビンクリストファー・ロビンすぎてやばい

あっという間に幼少期、少年期、青年期を過ごしたクリストファー・ロビン。寄宿学校で父の訃報に接して、社会に出て、将来妻になるべき女性イヴリン出会い求愛して結婚し、子供を作り、出兵(たぶん第二次世界大戦)して、なんとかロンドンに帰ってきて、就職して仕事に打ち込む中年になってるんですよ。

大企業カバン製造部門責任者となったクリストファー・ロビンは、会社上層部からこの部門効率化(予算削減)を求められていて、その要求は−20%。リストラ待ったなしの状況で、大事な部下を切り捨てるかどうかの瀬戸際の日々を送り、その結果として休日家族との時間も奪われているわけですよ。妻からは「もう何年も笑顔を見ていない」と言われ大事な娘のマデリから失望されて、でも、家族を守るために部門を守るために、家族旅行への参加をキャンセルしてまで働かなきゃならんわけです。

予定されてた旅行イヴリンとマデリンの妻子を送り出して、週末も缶詰仕事しなきゃと追い詰められたロンドンのアパルトメントのクリストファー・ロビンのもとになぜかプーさんが現れて助けを求める、というのがこの映画の第二の開幕です。

懐かしい友プー出会ったクリストファー・ロビンは彼の頼み(行方不明になってしまった仲間たちを探してほしい)を叶えるために(どっちかっていうと大都会ロンドンにおいては厄介なお荷物プーさんを森に帰すために)、郊外の美しい故郷に戻ろうとします。そこでプーさんクリストファー・ロビンは一緒に旅をするわけですけれど、相変わらずふわふわ夢みたいなことを言う(まあぬいぐるみなので当たり前だけど)プーさん脳天気っぷりに、時間黄金よりも貴重になってしまったブラックカンパニーソルジャーマシーンクリストファー・ロビンはいらつくわけですよ。プーさんベタベタはちみつで汚してしまった廊下掃除している間にも、刻一刻とリストラタイム期限が迫ってるわけで。「なにもしないをすればいい」とか「ゆっくりすればいい」とかいプーさん言動癪に障るのは、まあ、仕方ないです。

送り届けた「100エーカーの森」で、とうとうクリストファー・ロビンは切れちゃうわけっすね。

「ぼくはもう昔のぼくとは違う」とプーに突きつけてしまう。その時の表情がね、もうね、良い。

良いよね。

良い。

失意のぷーさんは「従業員を捨てなきゃならない(リストラ)」というクリストファー・ロビンに「もしかしてぼくも捨てたの?」と聞いちゃうわけです。

それに対してクリストファー・ロビンは「捨てたんだよ」と答える。

この時の表情も、良いのです。

「ソレ」をいっちゃったら相手が傷つく以上に自分も傷ついちゃうのを自覚していて、それでも言ってしまったクリストファー・ロビンの、ナイーヴな表情が尊いわけです。おっさんのくせに。イケオジつぇえな。

この時クリストファー・ロビンは「いいやプー特別友達から捨てるわけないじゃないか」と適当に言うこともできたわけです。でも、それは事実じゃないわけですよ。現実として30年以上プーさんを忘れていたわけだし、放置していたし、それは客観的にって捨てたと言われても当然なわけですよ。そういう現実を糊塗して「捨てるわけない」とクリストファー・ロビンは言えなかった。特別友達からこそ、そこで嘘はつけず、自分相手も傷つけるのなんてわかっていたけれど、「捨てたんだよ」と答えるしかなかったわけですよ。

40代になったクリストファー・ロビンはもうおっさんなわけですけれど、ロンドン紳士然としたイケオジなんですね。その彼がいろんな現実言葉を飲み込んで、意地っ張りにも露悪的な「捨てたんだ」って告げるそれが、もうね。

ほんと。

尊い

わかるか人民どもこの尊さが? 「捨てたんだ」ですよ。そんでもってさらに終盤になってね、途方に暮れて懺悔をするようにつぶやく「ぼく迷子なっちゃった」ですよ。いつも迷子になったプーさんを探しては連れ帰る、森の英雄だったショタロビンが、社会人になって人生迷子なっちゃったわけです。大事大事で何よりも大事な娘を守るために頑張ってるはずなのに当の娘にがっかりさせて心配させて、もう何が正しいんだかよくわからなくなっちゃったわけですよ。大人になったクリストファー・ロビンにこそぬいぐるみプー必要なわけです。

まり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビン尊い

結論

クリストファー・ロビン尊い

2018-09-18

anond:20180918151151

例えば、Wikipedia2017年8月訃報は129なのに対して、2018年8月は188なので、

体感的に多いのは間違いないね

訃報多い気がするけど

たまたまだよなぁ

2018-09-03

anond:20180827235142

訃報の街頭インタビューを見てて「りぼん読者の声が全然ないな~」とは思った

全員アニメまる子前提に答えている感じ

40代の当時のりぼん読者ど真ん中世代の女性が出てきても「りぼん」の言及は全くなかったからな

少女漫画読まない男子でもちびまる子ちゃん読むためだけに姉妹女友達からりぼんを借りるとか珍しくなかったほど、りぼんの読者層広げた作品だと思うのだけどな

2018-08-28

ちびまる子ちゃん」の連載開始時、私は『りぼん』を既に読み始めて

いただろうか?

さくらももこ氏の訃報を聞いてふと気になったが、どうにも思い出せない。学齢で言えば小学1、2年生の頃だが、どちらかというと幼い頃は『なかよし』に夢中になっていたような気がする。

当時の『りぼん』は、『なかよし』に比べて恋愛要素の強い作品が多いイメージだった。とは言え対象年齢的には、自分のような田舎女児ぼんやり理解してドキドキできる程度の、恋の入口やもどかしさを描いた作品が多かったのだと思う。

その『りぼん』で、明らかに異質だった作品が二つあった。

言わずもがなの「ちびまる子ちゃん」と「お父さんは心配症である

私は、ひたすらに「お父さんは心配症」の父・光太郎が怖かった。ハイテンションで誌面の中を飛び回り、典子への行き過ぎた愛情から北野くんとの恋愛どころか自分自身まで自虐でぶち壊しまくる光太郎が、ひたすらに怖かった。ページを開きたくなくて、作品ページをホチキスで止めていたかもしれない。他の怖い本はそうしていたから。

逆に「ちびまる子ちゃん」は癒し作品だった。恋愛もの息切れした女児オアシスのように、まる子はただただ普通に家族と友人と、そこで暮らしていた。あるあるネタと少しだけ古い時代背景と共に、穏やかに、時にシニカル空気を携えて、毎月私の所へやってきた。

そう、「ちびまる子ちゃん」は連載時に既にレトロだった。私の知っている人気アイドルヒデキではなく光GENJIだったし、百恵ちゃん引退していた。アニメ放送を母と見ながら解説を受けるまで、私の中でヒデキと西城秀樹は繋がっていなかったし、百恵ちゃんはまる子が憧れる女の子のままだったのだ。

お父さんは心配症」の異質性が『秩序の破壊』だったとすれば、「ちびまる子ちゃん」のそれは『虚実を織り交ぜた過去』だったと私は思っている。

乱暴な括りだが、私にとっての当時の『りぼん作品は、基本的には未来指向した現在進行形のものだった。ドジで失敗ばかりの現状であっても、これから自分はどうしたいか、どうなりたいのか、主人公は常に考え続ける。人の自然成熟過程をなぞり、周囲の支えを受けながら、成功も失敗も糧にして成長していく。

そういう理想の学園生活キラキラと眩しく、同時に私にはどこか息苦しかった。

女の子はいつか好きなひとが現れる」

「今よりももっとかわいくなれる」

その語尾に、私は「…なくてはならない」という言葉を感じ取っていたのだと思う。

作品世界に憧れることと、自分の身に置き換えることは決してイコールではないのだが、拙い想像の中であっても「私はこうなれないだろうなあ」と諦めることは、大人になった今思うより苦しかったのかもしれない。

その点で、「ちびまる子ちゃん」はラクだった。

前述の時代背景と共に、まる子が作者の子ども時代モデルにしているということは知っていた。つまり、すでに「結末が確定していること」であり、「私ではないひと」の話だった。

まる子も成長し、恋愛や友人関係自分コンプレックスに深く思い悩む日が来るのかもしれない。しかし、それは永遠小学3年生の「ちびまる子ちゃん」のまる子には当てはまらないし、モデルとなっている作者はマンガ家という進路を選択済みなのだ

私は、まる子でもたまちゃんでも丸尾くんでも花輪くんでもはまじでも永沢でも藤木でもなく、ただの読者として、安心して「ちびまる子ちゃん」を楽しむことができた。

勿論リアルタイムで読んでいた小学時代にこんなことを意識していたわけではなく、単純に『りぼん』の中で一番楽しんで読むことができた作品だったのだと思う。

クラスのどのカースト女子でも「ちびまる子ちゃん」は必ず読んでいた。あの頃の共通言語になっていた作品代表格だった。

その後私はくるりと掌を返し、破壊度の増したあーみんギャグに恐ろしい程はまった。「こいつら100%伝説」は現在本棚に置いてある。「ちびまる子ちゃん」はもう手元にはないが、「心配症」の方のまる子×心配コラボ掲載巻は実家にあると思う。

成長していく私は、いつの間にか自分がまる子ではないことに安心するだけでは物足りなくなってしまったのかもしれない。けれど、久々にニュースで見た「ちびまる子ちゃん」の表紙には、やはりとてつもない懐かしさと安心感があった。

そして散々言われているが、彼女の初期エッセイは最高に面白い読書慣れしていないひとに「おすすめの本は?」と聞かれた時に挙げる1冊に必ず含めていた。

私にとってさくらももことは、この4000バイト強の文字の分しか接点がないひとではある。

しかし、訃報を聞いて、居ても立ってもいられず匿名アカウントを取るおばさんを生み出してしまう、そういうひとだったのだと思う。

どうか、ご冥福をお祈りいたします。

ただ、訃報に触れて思い出してしまった「ちびまる子ちゃん おこづかい作戦!」。

てめーはお年玉をつぎこんでしまった元小学女児として許さねえよ……という気持ちは、今も捨てられないようだ。

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