はてなキーワード: 自己憐憫とは
「人に優しくしましょう」って言われて育ったけど、私自身けっこうヒドい扱いうけるよ?
従姉妹が結婚式挙げるので、はるばる遠くから出席した。それも一度離婚したんで2回。なのに私の結婚式には、「あっ、仕事あるから」とさっくり断られ、友達の結婚式も貧乏学生の身で頑張って参加した(交通費含めると10万)のに、私のときは「おめでとう」のひと言で終了。
幼なじみが研修でこっちへ来るというから、いろいろ観光案内したのに、年賀状や手紙を出しても返ってこず。
こんなことが何回も繰り返されると、「優しくするって意味あるけ?」って疑問になる。やればやるだけ徒労感。こうやって人は殻に閉じこもっていくんだろうな~。
ただ相手の要望を叶えるだけって、無駄な行為なんだね。みんなからの冷たい態度でよーく分かった。たぶんやり方を間違えてるんだ。
高校のクラスメートに、すごくみんなに大事にされてる子がいた。大したことしてないのに、めちゃめちゃお礼言われたり、誘いの声が絶えなかったり。あのときもっとその人の何が人を引き付けるのか、学べばよかった。ただうらやましがって、自己憐憫に浸るなんてアホだったよ。
なんかこのままいくと、ほんっと誰にも相手にされないまま終わる。
私の人生って、地下壕みたいにひっそりと暗い。
相当頭が疲れてるんだろう。
ましてやこんな自分はダメだと考えること自体が疲れる行為だしな。
かなり鬱くさい。周りが病院にいけというが、俺もそう思う。
それすらもできないのなら、まずは、深呼吸と、頭の方に行く血流、脈動に意識を集中する習慣をつけろ。
あれは本質的に脳疲労の低減だと思う。
久賀谷亮「世界のエリートがやっている最高の休息法」がおすすめ。
ビタミンCのサプリをガバガバとれ。かむかむレモンとかだったら大体のスーパーでもうってると思う。
で、そうやって落ち着いてきたら病院だというのだが、どうでもいいところをどうでもいいと切り分けて、どうでもいいところはどうでもいいと思うように変えていくべき。
「こう思われたい」「こうでないとならない」というのは仏教で慢の感情と言って、それまた苦しむ要因なんだ。
特に今だいぶ頭が働かなくなって、体も動かない。こうあるべきとの差が大きくて苦しんでるんだろう。
人間そういうものだと思って、できるところからやっていったほうがいい。
最後に、今、霊感商法、新興宗教、自己啓発セミナーには絶対行くな。このへんのは本だけで十分だ。
むしろ、霊感商法などってのは上記の「こう思われたい」というのを全面的に認めておだてる。
あなたみたいな苦しんでる人は完全な鴨で、落とすマニュアルは完備している。
あなたは「一切何も」悪くない。先祖の霊障だとかを原因だという。金だけだして、その人の本質を全く変えない。
周りの嫌われる要素はそのままだ。
女じゃないから、正直よく分からない部分もあるけど、観察してみる限り、「悲劇のヒロイン」=自己憐憫に浸って、セルフエスティームを高めようとする構造がある?
女の恋愛・結婚絡みの悲劇のヒロイン型の存在 = 男の仕事における悲劇のヒーロー
俺がこんなに頑張っているのに会社は(上司は、世間は、親は、嫁はなど代替可能)というロジックは、よく見かける。
奴らは「自分の体験が他の人の闘病に役に立つ」なんて抜かす。しかし中を覗けば自己憐憫と承認欲求にまみれたクソの内容。特にアラフォーあたりの乳がん患者のブログはひどい。小林麻央のブログに影響を受けたのか知らないが、がんであることにかこつけて、ズラを被った自分のブサイクな自撮りを散々乗せることを正当化し批判を寄せ付けず、根拠のない民間療法に騙される様を自分から晒し、末期になれば「辛い」だの「苦しい」といった題名のアメンバー限定記事を作る。そしてブログ最後の記事は家族が「〇〇はがんと闘って天使になった」などと意味不明な記事を残して終わる。がんになって残された時間が少ない中でなんの意味も残さないブログを書き、闘病仲間などというキズの舐め合い集団を作り死んでゆく様は見ていて滑稽だな、と思った若年がん患者でした。
3ヶ月弱付き合っていた童貞にこっぴどい振られ方をした。
自己陶酔や自己憐憫に溢れた文章になっていると思うのでいくらでも叩いてほしい。
---
彼が童貞なのは知っていたし、職場恋愛のデメリットもわかっていないわけではなかったんだけれど
それでも彼の立居振舞がどうにも魅力的に映ってしまい、告白した。
最初は一人でいたいからと断られたけれど、彼の望む距離感を維持しようということで
なんとかOKをもらった。
酔って告白したからって明日なかったことにしないでくださいね。
繋いだ手をぎゅっと握りながらそう彼に言われてなんて健気でかわいいんだろう、大事にしよう。と思った。
しばらくして、人と付き合うのが久しぶりで自分の気持ちがわからないと言われた。
もっと興味を持つためにあなたのことを教えてほしい、あなたを好きになれるように頑張ってほしいと。
付き合っているはずなのに片思いというおかしな関係になってしまった。
好きな人に好かれていないのはつらかったし、そういう人にどうしたら好かれるか全くわからなかった。
そのうち体の関係を持った。女性の体はすごく柔らかくて温かいとしきりに言っていた。
感じたことを本当に素直に口にしてしまうところが愛おしかった。
度々彼に自分の気持ちはわかるようになった?と聞くようにしていた。無理に付き合わせても気の毒だから。
まだわからない、とか自分は自分にしか興味がないのかもしれない。とのことだったので、様子を見ようと思った。
そういう個性の人として、付き合っていこうとすら考えていた。
彼が童貞ではなくなってから二人でどちらかの家に行くとだいたい体を求められるようになった。
男性は相手に情がなくても女を抱けるというし、こちらは体を許すたびに情が移ってしまって別れがつらくなるし
何より相手が自分のスタンスを明示してくれなかったのであまり応じたくなかったがずるずるとセックスをしてしまっていた。
でも翌朝まどろみながらだらだらと過ごして、本当に幸せだ、このままずっとこうしていたい。と言うので
この人は愛情がなにか意識できないだけで相手は自分に愛情を持ってくれているんだと思った。
ほかにも私の家にきて別々にお互いの好きなことをやって過ごしたり、些細なことでけらけら笑いあったりもした。
とても楽しくて、このままずっと穏やかな付き合いが続くんだと思っていた。
先日夕飯を二人で食べたあとにいつものように彼の部屋に行ったら
突然とはいえ状況から話題はひとつしかない。別れ話?と聞いたらそうですと答えられた。
やはり私のことは好きになれなかった。自分は元々一人が好きだから人といるのは苦痛だ。
でも自分にとって最高の人といられるのであれば話は違ってくる。だから婚活を始めてそういう相手を探そうと思う。
私とは仲のいい同僚でいたい。そちらはそちらで新しい恋人をさがしてほしい。
このことは1ヶ月前から決めていた。
そう言われた。
突然のことだし、それ以上に婚活のために別れたいという言葉に動転して
好きでもない私が始めての女でよかったのか、私と付き合ってよかったことってあったのかとすがるように聞いてしまった。
風俗で童貞を捨てるよりはよかったし、婚活を始めるきっかけになってよかった。それ以外にはとくにない。と言われた。
自分は筋肉質で気丈で包容力のある、尊敬できる女性と付き合いたい。とも。少なくとも私とは真逆のタイプだ。
その日はあまりにも混乱していたし、翌日仕事もあったので1時間程度押し問答して帰った。
多少泣いたけどびっくりしすぎてうまく泣けなかった。
翌日から今日にかけて落ち着いてきて、前日言われたことを反芻してみたらこれまでの楽しかったことを全て否定されたことに気がついた。
楽しかったときに言われたいろいろな言葉もすべて嘘だったということになってしまった。
どうしてこれからも毎日顔を合わせる相手にそんなことを言えるのか、これまでの思い出をどうやって消化していけばいいのか。
同時に彼は私で童貞を失って自信を得たことで他のもっと良い女性とのつながりが欲しくなってしまったのではないかとの疑念も湧いてきた。
というか、多分そういうことなのだろう。
明日からまた会社だ。どうやって顔を合わせてどうやって関わればいいのかわからない。
一応先輩だから彼のカバーだってしなければいけないし、必要があれば注意だってしなければならない。
同僚に手を出すなというのは本当にその通りなのだけれど、どうしても好きになってしまったのにあのまま自分の気持ちに耐えることもできなかった。
どうしたらいいんだろう。
---
創作って言われるほど情感あふれてたんだったらうれしい。けど実話なんだよ…
同性の友達にも異性の友達にもそいつほんとクソ野郎だなって言われるんだけど、
そういう欠点ごと一緒にいて緩和されたらいいなと思っていたお花畑脳としては復縁したい気持ちでいっぱい。
---
LINEのメッセログ漁って再確認したからそのままなんだよね。
最高に自己中でキモいけど童貞だからこんなもんだよねー。ってスルーしてた。
---
童貞ってSNSで公言してるし、SNS知らない会社の人も○○くんはもっと女性に慣れようねーって言ってる。
--
https://anond.hatelabo.jp/20171204010306
実際に最後まで本人なりによく悩んで誠実さを発揮しようとして、ネガティブな感情も正直に口にしてしまった結果があの別れ話だったんだと思う。
お酒の勢いで強引に付き合ったひけめがあって、もしその気でないならいつでも別れようと伝え続けてしまったから、彼にその気でないから今別れようという余地を与えてしまったのかなと今反省している。
ふられたことをTwitterに書いたら、じゃあ自分が、みたいな人が複数人表れて自尊心が満たされはする。多分私を振ったひとよりずっと優しいだろうともおもう。
それでも彼といた時間は彼にとって本当に無価値だったとしても私楽しいものものだったし、きっともっと一緒にいたらもっと楽しいことがあったに違いないという気持ちが強い。
「男らしくあれ」という規範によって抑圧され、傷つけられてきた男性主体には、少なからずオタクと呼ばれる人々がいる。そして「男らしさ」からの脱却において、フェミニズムは男性の味方でもあったはず。なので昨今の「オタクvs.フェミニズム」という構図には「どうしてこうなった」感が強い。— 伊藤 剛 (@GoITO) 2017年11月22日
いい年こいて見当外れの愚痴をこぼす伊藤剛のように、ネットにはさも「現実の○○に迫害された被害者だからオタクになりました」と言わんばかりの自己憐憫が溢れている。
もっと言えば「こんな可哀想な僕だからこれぐらい許されるよね?」と手前勝手な大義名分を振りかざした、見るに堪えない女叩きやネトウヨ的差別行為や淫夢厨の嫌がらせ行為等が蔓延っている。
更にもっと言えば上記オタクのミソジニー等の悪行を批判した人達にはオタクも少なからず含まれるが、「オタク=無辜の被害者で良い子ちゃん」でいたい男オタク達は彼の人たちに「フェミニスト」のレッテルを貼り、自分達オタクのカテゴリから引き剥がして被害者ぶりながら袋叩きにしてしまう。
フェミニスト 「男オタは日陰でコソコソしてればいいものを、やりたい放題するからカウンターで殴られるんだよ!」 - Togetter
何もかもがおかしいだろ。
オタクがオタクになったのは、ただただ単純にその作品にハマった以上の理由は無かったはずで、男らしさからの抑圧ガーとか傷つけられたー等は根本的に無関係だ。
その人が社会不適合のダメ男性である事とオタクである事は無関係だと、オタクの先人達はあれだけ声を大にして訴えてきたのに、今やどいつもこいつもオタクという属性にダメな男性性の受け入れ場所を投影する被害者ヅラ馬鹿ばかりじゃないか。
オタク評論家「オタクは男らしさの規範に傷ついてるのに何故フェミニズムは味方してくれないの?」→男オタクが女性蔑視で男らしさアピールするからだろ! : オレ的ゲーム速報@刃
こちらのまとめは@_98961427作成のものと違ってまともだが、「フェミニスト」として晒されたユーザーは元々「オタク=男と断じる男の思い上がりそのもの」「pixivで起きた男オタクによる腐女子への嫌がらせ」「女全体を見下すばかりか同属のはずの女オタクすら加害する男オタクのミソジニー」を批判しているのだ。
どれも事実であるし、これよりもっと酷い悪行は枚挙に暇がない。
「ホモソーシャル底辺の可哀想な被害者」を気取るオタク男達が泣きながらしてきたことがこれなのだから、フェミニズムが(と言うよりまともな人間が)彼らの味方なんかするはずないのに、いつからこんなことも解らない程オタクは被害者意識に支配されてしまったんだ。
とにかくオタクを名乗るなら、オタク属性を己のダメさの言い訳にするな。被害者意識でつるんで人様に加害すんな。ネット弁慶で暴れる馬鹿共を共感的にスルーするな。オタクなら○○に傷つけられたと晒して叩くより前にそういうクズオタク共を本気で止めろ。
ある知り合いの起こしたての社長(もどき)が「なかなか稼げませんね」と言ったのに「お金は人を選ぶからねぇ」と言われたと聞いてぐさっと来た。とかほざいてるのを見て、
ああ、運のせいにしてしまえば人間楽なんだねー。で、自分自身が優秀だけど運が悪いからダメなんだ。でも優秀だと思いたいんだ。という事にしたいんだ。と感じた。
あいつは、自分の恥隠すためにこちらの邪魔を散々してきたから金輪際関わらんけどね。まあ、僕自身の能力不足もあったからそっちを直そうと今必死で勉強中。
根本的に「優秀な自分の作った物世の中見てみてー」では永久に売れんよ?
お客さんあっての商売であって、「起業したやつをちやほやさせるために物かってくれる奴なんざほぼいないよ?」
で、お客さんに聞きに行って、プライド傷つきながらでも商品直さないとならない。
だけど、プライド傷つくのが嫌だからしないってのはよーくわかってる。たぶん、周りみんなわかってる。
けど、お前がめんどくさいやつだ。批判は全部悪口だ。ってやつだからもう黙って言わないだけ。
馬鹿な俺が言って、俺自身が悪口大好き人間だと思われて評価下げただけ。
ま、悪口はみんな嫌う。相手をよく見て、聞くタイプの人間だと感じた奴以外には決して届かない。言ってはならないというのもよくわかった。だからここでいう。
どうせ今まで何回も言ってきたことだし。
営業嫌いでもうかってない社長なんて、ただのアクティブなニートだと思ってるが、せいぜい頑張りな。俺も人のこと言えないんだし。
まとめる気もなく思考の跡を自分がクソな人間であることを暴露しつつ。
•幼稚園年中の時に
「嘘泣きするな」と先生に叱られた。
泣くことで相手を謝らせ自分を正当化(もしくは無害化)するという手段に出ることがあり、それを叱られた。
泣くことで相手を謝らせる作戦は祖母の怒りを避けるために編み出した方法である。
実に小賢しい。実にズルい。
(祖母は怒った結果私達が泣き出している時に誰か人が来ると世間体からか私達に非があっても態度を豹変させて私達に謝った)
✼先生の教えは人の顔を見て泣くなということを意味していると私は解釈した。
部活の引退で解放感からひとりだけヘラヘラしてて、友達に怒られたのだが(当たり前だ)、
その時言われた
「なんで泣かないの?みんな泣いてるよ!」
というセリフがとても頭の中に残っていて、その時、失礼なことしたなと思うと同時に、
(私のことがムカついていたから泣いた可能性もあるなと今は思うんだけど)
※個人的に部活の強制加入と辞めるの不可で継続の強制はやめた方がいいと思う。
下関国際野球部のブコメにもあったけど「逃げた」という表現もやめた方がいいと思う。
•十二国記の風の万里、黎明の空というファンタジー小説の上巻300ページ目に、
「人の泣くのにはふたつあるんだなって。自分がかわいそうで泣くのと、もうただ悲しいのと。自分がかわいそうで泣くのは子どもの涙だよな。だれかなんとかしてくれって、涙だからな。…(後略)」
ただ悲しくて泣いたエピソード(人々がいた風景がなくなってしまった)で戦災孤児が言ったセリフ。
子どもの涙も流すとも言ってる。
対比で描かれている人物は自分がかわいそうで泣いていた見た目は16実際は100歳くらいの女の子で、
100年近く抑圧から抜け出せなかった抜け出そうとしなかった子で、自分を慰める涙ばかり流してた。
他の人も同じくらいもしくはそれよりつらい人死んで泣けない人がいるのにずっと泣いてるのはカッコ悪いよっていう話。
※ちなみに彼女は主人公ではないけど彼女合わせて3人の女の子が成長する物語。
•ラジオで某ミュージシャンが泣いたことがあって、作るのつらくてつらくてしょうがない、しかも結果出ないって言う。
(あれを聞くと頑張ってほしいけどつらいならやめたいなら無理強いさせたくないと思ってしまうのだが)
泣くのはダサい汚いズルいカッコ悪い男らしくない恥ずかしいっていう言説と美しいって言説がある。
他人が泣くのは、腹立たしいこともあり、美しく感じることもある。
他人の存在を意識して泣くとかそういうんじゃないただ感情に任せた涙が甲子園にはあるけど(他人は確実に存在していて消費してるけど)、
そういうのって世の中どのくらいあるのかっていうことと、
少なくとも子供の涙(自分を慰めるための涙)とただ悲しくて泣く涙というような、
カテゴリー分けするのは単純には無理だし、
美醜を感じることはあれど、それも立ち位置や前提となる状況についての知識によって異なるため、
甲子園も美しいけどかわいそうで間違ってるから改善すべきという人もいるし(子どもの意思や目標と大人が子どもに負うべき責任のバランス)
とりあえず、常に他人の目を気にしてカッコ悪くないように泣く泣かないを決めている(他人の目を見て感情を圧し殺す)と、
社会は簡単には泣くことを許さないけど、泣いて反応が帰ってくるまでは、社会が何が恥ずかしいことだとしていて、何が恥ずかしくないとしているかわからないし。
※ちなみに海外では結婚式で泣く日本の男は面白いとBSのCOOLJAPANでやってた。海外大変。メンタル病む。
生きているということは他人から観測されることなので他者の存在からは縛られる。
ということはダサいは泣く泣かないによらないのか。
泣くのはダサいかっこいいの最終段階のダメ押しか。ダサいかっこいいは過程。
これだな。
そして泣くことを恥ずかしいことだと考えたことすらない人は、わりといい人生送ってる気がする。
目標や地位を達成するためには泣きたくなること=恥をかくことは何度もあるはずだから。
失敗して泣くのが恥ずかしいがために目標に挑戦しない頑張らない人なんてざらにいると思うんだけど、もったいない。
以上まとまりなく。
追記
朝ドラに峯田が出ている。峯田とは峯田和伸さんのことで、彼はGOING STEADYまたは銀杏BOYZのボーカルとして知られている。現在は俳優としても活躍し、その活動の幅を広げている。
今期のNHK朝の連続ドラマ小説「ひよっこ」で、峯田和伸さんは、消息不明になった父親を追い上京する有村架純さん演じるみね子のおじ、宗男役で出演している。宗男は茨城の片田舎でマッシュルームヘアーでバイクに乗り、ロックンロールをこよなく愛する農家のおじさんで、いつも人を笑わせている。
だがその笑顔の裏には戦争の影が……というキャラクターで、先々週、宗男が上京し過去がつまびらかになるビートルズ来日編が終わった。わたしはその録画を昨日見終わって、すごくよかったなと思ったので妹にLINEをした。感想を打ち込んでいるうちにわたしは昂ぶってしまい、真っ当な感想からは外れた見当違いな見方をしていることに気づき、はっと我に帰った。
***
時は2005年、中学1年生として迎えた冬に銀杏BOYZのアルバム「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」と「DOOR」が同時発売された。
北海道新聞日曜版のCDアルバム売れ筋ランキングの4位と5位にランクインしていて、聞きなれないアーティスト名に、なんだろう?と思った。BOYSではないのか?
それからすぐラジオで「青春時代」が流れだして、彼らが小学生のときに一回だけ聴いたことのあるGOING STEADYであることを知った。お小遣いで急いで「君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命」のほうを買って聴き込み、いたく傾倒し、「DOOR」もそれからちょっとして買った。
当時のわたしは、Mステに出ないようなバンドをラジオで聴いてCDを買うことがカッコイイと思っていた。お恥ずかしい話、今もその気持ちはあまり抜けていない。当時全盛だったMDプレイヤーを持っていなかったわたしは、ラジオとカセットテープのプレイヤーが一緒になったかさばるガジェットを常に持ち歩いていて、銀杏BOYZをいつも聴いていた。
中学生だったということで免じて許してほしいが、当時のわたしにはセックスなどとはいった歌詞が衝撃的だった。というか性とか焦燥感とかみじめな気持ちを歌にして世に出していいとは知らなかった。だから峯田和伸さん、もとい峯田は本当のことを歌っているなという気がして、信じられると思って好きだった。
友達にもたくさん貸したし、カラオケでも歌った。もしタイムマシンがあったら、おいおい、やめてAKBとかにしておけ!と言いに行きたいが、当時のわたしは今よりもなお浅はかだったので、カラオケで皆の前で銀杏BOYZを歌い、セックスなどと口にし、ぐにゃりと曲がったような気まずい空気になるのが好きだった。
***
「カラオケで銀杏BOYZとか歌うの正直やめてほしいんだよね」
と言われた。友人にとっての色々な思い出が詰まったバンドなので、目の前で歌われると複雑な気持ちになると言う。
その時は正直
「は?」
と思った。だが今のわたしもまた、自分よりかわいい女の子の口から「銀杏BOYZ」という言葉が出るとムカつくのだった。
肌がきれいだったり目が大きかったり彼氏がいたり毎日充実していそうな自分より幸せそうな女の子が、ひとたびでも峯田と言おうものなら腹がたつ。お前に峯田の何がわかるんじゃい!なんぼのもんじゃい!と思う。何人たりともわたしのまえで銀杏BOYZの話、および峯田の話をしないでほしい。ライブに行った画像をインスタに上げないでほしい。わたしの知る限り峯田のことを一番身近に思っているのはわたしでありたい。そんな自分勝手な思いが溢れて止まらなくなる。
自分でもおかしな考えだということがわかっているので、皆さまにはどうぞ好き勝手に銀杏BOYZの話をしていただき、ライブに行っていただき、インスタに画像を上げていただき、朝ドラを見て峯田って人いい演技するな〜!などと思っていただきたいのだが、心の奥底で、やめろ〜〜〜と叫びたがっている卑小な自分がいる。
***
そんな折、先々月の銀杏BOYZのライブ「東京のロック好きの集まり」に行った。これだけ勝手なことを言っておいて恐縮だが、実は初めてだった。戦争反対ツアーは実家の近所のペニーレーン24に来ていたはずだと手元にあるフライヤーにはあるが、当時はまだ室蘭に住んでいた頃だったので行けなかった。それからも本当はちょくちょく札幌に来ていたのかもしれないが行っていない。全裸になり書類送検されたことをヤフーニュースで知ったり気がついたらメンバーが峯田以外全員変わっていたりしたがよく知らない。
わたしのなかでだんだん銀杏BOYZはあまり触れちゃいけない過去へと変わっていて、ライブも気軽に行ける感じではなかったのだ。
でももういい加減成人したし、処女でもないし、峯田は朝ドラに出ているし、いくばくかの郷愁とともに軽い気持ちでライブを楽しむことができると信じていた。
***
峯田が出てきて初めて生で峯田を見た途端に涙がボロボロ出てきて止まらなかった。ステージには本物の峯田がいて、すぐにモッシュとダイブがはじまって峯田の靴がどこかへ飛んで行き、演奏が止まりやり直しになった。そしてまたモッシュ。対バンのnever young beachがさっきまで作り出していた平和な西海岸か熱海の浜辺のような景色はいずこへ?「ネバヤン初めて聴いたけどいいね〜」などと言って、からだを揺らしていたギャルは?そんな疑問が解消されるはずもなかった。
峯田は10年以上前に作った曲を、目をかっぴらいて歌っていた。あっという間に大合唱になる。わたしも全部歌えてしまい、そのことをきっかけにまた涙した。峯田〜〜〜!!!と泣きながら叫ぶ人があちらこちらにいた。四肢がちぎれそうなほど暴れる人がいた。嗚咽しすぎて座り込んでしまう女の人がいた。さながらカルト教団の様相であった。だがわたしもまた、全身の水分が出きってしまうのではないかというくらい涙が出てきてしまい、ボロボロボロボロ泣いていた。
峯田が目の前で10年以上前に何度も何度もカセットテープが伸びきってしまうくらい聴いた曲を歌っている。それだけで絶望的なほど悲しかった。恥ずかしい話だが、わたしはその時、中学生の時に部活で無視されていたことをありありと思い出していた。クラスにも同じ部活の人がいたので無視がそのまま派生して、教室でも居場所がなくなって昼休みはずっと本を読んでいた。アンブシュア(口の位置であること)を変えようとして失敗して全然トランペットを吹けなかったこととか、天然パーマなので髪型が本当にきまらなくてどうしようもなかったこととか、人に話すまでもないみじめな思い出とその時の感情がありありと思い起こされ悲しかった。もう少し上手くやれただろう、という気持ちと、でも今も上手くやれないしな、という諦めの気持ちが10年前と今を強く結びつけた。その中心に峯田がいた。
***
思うにわたしは、つらかった時に銀杏BOYZを聴きすぎていたのだろう。どれもありふれた大したことないつらさなのだが、そのせいで感情と峯田がほつれてからまり、ひき離せなくなっていた。わたしのつらい気持ち、悲しい気持ち、自分のことが嫌で消えてしまいたい気持ちが擬人化したものが、峯田その人だと認識してしまっているようだった。
峯田は、本当にしんどい時に自分もまたそうだと言って肩をさすっていてくれていた親友であり、同じようにみじめな姿をさらけ出してくれたキリストであった。少なくともわたしはそのように認識していた。勝手に。そしてライブ会場で嗚咽が止まらなくなっていたり、暴れていたり、自己のコントロールが効かなくなっている人たちもまたそうなのだなと思った。
峯田、もとい峯田和伸さんは、本当は自分のやりたい音楽は、代官山のシャレオツなカフェで静かにギターの弾き語りをするようなものだと言っていた。だが、求める人がいる限り求められる音楽をするとも言っていた。それが本気かどうかはわからない。だが最近の曲をやってもウケはイマイチで、対して10年ほど前の曲をやると客は熱狂していた。
客は皆、峯田を前にして自己憐憫におちいっていたのだと思う。つらかったとき、苦しかったとき、悲しかったとき、さみしかったときに銀杏BOYZの曲を聴いて、勝手に癒され勝手に肯定された気持ちを手放したくないのだ。
もし峯田が出てこないで、ステージには代わりに峯田の3Dのホログラムが投影され、バックでCDをかけられていても、皆変わらずギャンギャン泣いたと思う。皆、過去に囚われていた。皆にとっての峯田はつらかった過去そのものであり、みじめで変えようがない過去の自分そのものでもあった。
だから皆、銀杏BOYZを好きな他者を認めることができない。その当時の自分をどうにかしてくれなかった人間に「銀杏BOYZいいよね」とか言われてもムカつくのだ。お前に何がわかる、と思うのだ。峯田は限りなく私的で個人的な存在だった。
***
そんな峯田が朝ドラである。天下の日本放送協会だ。自分の苦酸っぱい異臭を放つような過去が、大きな顔して朝ドラである。初めて知った時、もう、まともな気持ちではいられなかった。
でも「峯田」とわたしが名づけていた人格はこの世には本当は存在しなくて、この世には峯田和伸さんしかいなかった。峯田和伸さんは、最近は映画に舞台に引っ張りだこだったので、ちゃんと素晴らしい演技ができるのだった。わたしが過去に囚われている間に、峯田和伸さんは大活躍していたのだった。というか銀杏BOYZの時点で既に大成功していたのだった。
そして今や母親や妹を含む日本中の人が峯田和伸さんをテレビで見ている。今では自然なことに思えるけれども中学生のわたしに伝えたらびっくりすると思う。裏切られたと思うかもしれない。でももしかしたら、誇らしく思うかもしれない。なんとなく、そうであってほしいなと思う。昔の自分には、ホッとしてもらいたいなと思う。
宗男はイギリス兵に助けられた命を大切に生きていて、その象徴がビートルズだと言う。ドラマを見ていると宗男は峯田そのものにしか思えない。あくまでも峯田和伸さんではなく、峯田である。
わたしが勝手に作ってしまっていた峯田というパーソナリティが、お茶の間をにぎやかし人々に受け入れられていった(ように見えた)ことは、わたしを救った。峯田和伸さんその人とはかけ離れているかもしれないが、わたしが勝手に作り上げ支えてくれたわたしのなかの峯田が、まるで時空を超え戦争すら経験しどこか浮世離れした人間となり、最後に全てを包み込むように、「だから笑って生きることに決めたんだよ」と言ったことはある種のセラピーだった。
「だから笑って生きることに決めたんだよ」の言い方はあまりにも芝居がかっていて、プロの俳優さんだったら絶対にこんな言い方はしないだろうと思ったが、とても優しく耳に響いた。わたしはこのシーンの録画を消していない。また何回も聴くと思う。それこそテープがすりきれるまで。
***
そんなこんなで銀杏BOYZの武道館公演のチケットも当選しました。またボロボロ泣いてしまいそうなので誰と行くかはまだ決めていません。楽しみです。
自分は根暗で、人間が嫌いで、自分にとって嫌なことがあるとすぐにスマホでネガティブワードで検索をし始め、精神病の名札がほしいというただそれだけの思いで精神病を調べまくってたらいつのまにかバーナム効果に陥っちゃってたり、ルサンチマンとかアレキシサイミアとかいう自分の中でかっこいいと思っているカタカナの文字列をわざわざ使いつつ、大学の心理学とか哲学だかの講義の論述問題で自分のどっよ~んとした心情を吐露して先生をドン引きさせて人様に迷惑をかけない主義の自分が先生に迷惑をかけたりしている超アイデンティティークライシス状態のつい最近虐待以外で自分の意志で飲酒しても未成年者飲酒禁止法に引っかからない程度の年齢になった大学生だけど、
本当の幸せになりたい
と思った。
自分の中での本当の幸せの定義は、「恒常的に幸せであると"感情レベル"で感じることができている状態」のことである。
感情レベルで感じるというのは、感情的に感じることができるということであり、逆に、いままで見てきた人の中に「~だから幸せだ」という、"考えた"結果として自分は幸せであると言っている人がいて、これを"思考レベル"の幸せというのならば、自分の中では 思考レベル < 感情レベル という幸せ度の違いがある。
そして3時間程度考えた結果、本当の幸せになるには性格を変えなければいけないという結論に至った(性格は簡単に変えることができないと考慮した上での結論である)。
なぜそのような結論に至ったのかというと、自分の中では感情とは脊髄反射に似たような反応であると思っていて、脊髄反射に似たような反応は性格によって起こっていると思っているので、脊髄反射的に幸せを感じるには、性格という不可侵領域をなんとか書き換えるしかないと思ったからだ。
自分の中では性格という地盤の上に考えが成り立っているので、思考レベルの幸せで妥協しようとしても、自分の場合は情緒不安定で考えが性格に支配されているので、考えがコロコロ変わり恒常的に思考レベルの幸せを感じることができない。
そこで、考えがコロコロ変わってしまうのなら、その考えを性格に強制的にインストールしてしまえばいいんじゃない?と思ったが、それはもはや"思考レベルのインストール"でしかない。
やはり本当の幸せになるためには、大嫌いな第三者に自分へ自分が感情レベルで脊髄反射的に感じる言動を与えてもらって性格を書き換えてもらうしかないのだろうか。
感情的で自己憐憫にあふれた文章に酔っていてわかってないっぽいので書いておく。
このときの診断結果を信じたのが間違いじゃなくて、「私は安心して、日常の生活に戻った」というのが間違いですよね。
つまり毎週か毎月くらいは自分で触診して3か月後もなくなってないなら再度診察に行くべきだった。
ピンクリボン運動が何を推進しているのか知っててわざと書いてないんですかね。
と書くくせに「あなたもなる可能性が十分にある」で締める不思議。
その後悔をしないために何をすればいいかは一言も書かないんだよね。
本当はみんな乳がんになって不幸になればいいんだくらい思ってるんじゃないの?