はてなキーワード: 村上龍とは
まず庵野が村上龍のファンってのはエヴァの頃から有名だけど、未だに村上龍とか引きずってるイタさは相変わらず。
何というか、本当は心の底からクソヲタなのに、何か社会に適応したふりして必死におしゃれぶってるクソオタ精神丸出しの駄作でした。
クソヲタはやっぱりキモヲタ向けのキモアニメ作っている方が良いんですよ。村上龍ごときを読んで衒学ぶってても何か興ざめ。
てか、石原さとみの英語が下手すぎて鼻水噴出もの。イーオンとかマジ無価値だなって感じですね。
唯一の救いは、ところどころでオネアミスの翼の小ネタが散りばめられているところで、
結局この監督ってオネアミスの翼でピークだったんだなーって改めて感じましたね。
本当にいい加減に書きましたが、どのくらい合ってますか。
村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース
『シン・ゴジラ』矢口は福一の吉田所長がモデル(巨災対は福一の現場がモデル)だと思うし原発事故のあと福一の現場と自衛隊以外は(東電幹部とか総理大臣とか)ぐだぐだだったり責任取りたくなくて腰引けてたりしてたとか、現場と自衛隊がふんばったので東京壊滅なんとか防げたの踏襲してると思う
巨災対や自衛隊気にいらんとかゴジラ進化して破壊し尽くすべきと言う人は福一もっと大爆発して関東圏3000万人避難生活(震災当時菅直人が「想定してた」とあとから言ったもの)になったほうがよかったと思っているんだろう。想像の上では。自分にそういうカタストロフ願望がないとは言わないが……
これを言っちゃうとアウトだよな。
なんとなく書いた増田に案外コメントつけてくれる人がいてちょっとびびってる
サディストにはハイレベルなマゾヒストがいるのかななどと思った
そういうことじゃないのかな? 違ったらなんか恥ずかしいからトラバはしない
ちなみに職業SMについての疑問ではなかったですそれはお仕事だから というかどちらかがお仕事じゃないと成立しにくいのだろうか
勧めてもらった漫画は名前は聞いたことある気がするけど読んだことはないので本屋で探してみようと思う
この疑問自体は結構長い間燻っていて「自称SはだいたいM」が持論です
なぜだかなんとなく精神的なつながりがあっちゃいけないような気がしていて
つながりにもいろいろあるんだろうけれど少なくともなれ合っちゃいけないんだろうなとか
ふと思ったのだけどMの人はSの人が本気で自分を害する気がある状態じゃなくても満足できるのだろうか?
お互いにこの人は自分の本当に嫌がることはしないとかこの人はこうされるのが好きだからこういうことをしてあげようとかそういう信頼関係が築かれているのかな
なんだかやっぱりSの人が損なような気がしてきた
Mの合意を得ずにSがやりたい放題やったら暴行とか傷害にしかならないもんな
でも本格的なやつはそういうのもあるって書いてる人もいたのでそういうのもあるのか
信頼がない場合M側にとっては単なる恐怖でしかなくなってしまうのかそれともその恐怖自体がより高位のエクスタシーをもたらすのかなどと考える
そういえば「AVの観すぎ」っていうコメントがちょっと面白くて
なんでかっていうと見たものがAVじゃなくてイラストSNSに溢れている二次創作BLだから
あれらの作品群を描いている作家がAVを観るのかよくわからないけれど どちらかというと二次創作BLの中でそういうものを見て再生産しているように見える
ちょっと気付いた気がする
「残虐な行為が主目的で相手が嫌がっているどうかよりも自分の興味が優先される」
「Sキャラを自称して人間関係で人に命令しやすく汚れ役を回避しやすいポジションを得ようとする」
「素直になれずついきつく当たってしまう(愛情表現が暴力になっているように見える)」
なんかが自分の中でごちゃっとしていてうまく整理できないからいけないんじゃないか
一番下なんか全然Sじゃないし個人的には下から2番目に酷いことをしたくなる
上から3番目までをどう切り分けたらいいかわからないのと相手が悦ぶのがいいなら別にSMじゃなくていいんじゃないのと思ってしまうから
なんとなく2番目が自分の中のSのイメージに近いんだけどプレイのイメージは1番目に近くて それだとSは満たされないよなあって
ストックホルム症候群とはまた違うんだよね?
今の日本で洋楽を聴くことなど普通だが、それは欧米の音楽に限った話であり、エジプトの、しかもインディーズ音楽を聴こうと思ったら大変だ。
まず情報収集。ググったところでネットにも情報は少なく、あっても英語である。四苦八苦しながら基本情報をゲットする。
金もかかる。TSUTAYAでレンタルなどできないから、失敗しないよう吟味した上で、覚悟をもって購入する。
自分の好きな音楽の傾向が分かってきて類似アーティストを開拓しようと思えば、また英語サイトの巡回である。
大変だったが、「苦労して欲しいものを手に入れる」プロセス自体を楽しんでいる自分もいた。苦労して手に入れた曲には、TUTAYAでまとめ借りしたアルバムにはない、不思議な輝きがある気がした。
舞台は60年代の二本、主人公の高校生が片思いする女子がサイモンandガーファンクルか何かのファンで、主人公はその子の前で「最新のアルバム持ってるよ!」と見栄を張ってしまう。その後、主人公は慌てて友人という友人を当たり、サイモンandガーファンクルファンの友人を見つけ、LPを無理矢理借りて、少女に自分のものと偽って又貸しするのである。
ググればいくらでも情報が手に入り、youtubeで違法ダウンロードできる現代とは違う。S&Gクラスのビッグネームであっても、アルバム一枚入手するのにそれだけ苦労する時代が有ったのだ。それは確かに不便だが、どこか羨ましくも感じる情景である。LP一枚手に入れる間にも、情緒が有り、ドラマが有る。
そんな風に苦労してエジプトのアーティストの音楽を楽しむ日々が少し続いた後、アップルミュージックがリリースされた。アプリが履歴から俺の嗜好を分析してエジプトだろうが中東だろうが異国のアーティストの音楽をどんどんおすすめし、高音質な音源が全て定額で聴き放題。
俺はすぐにその利便性に溺れた。
「才能」というのを「生まれながらにして持っている能力」と定義して話すけど
ほんとにその通りだと思う
優秀な親から優秀な頭脳、あるいは身体能力、容姿などを受け継ぎ成功した人はあたかも本人の能力で成功したように言われるけど
金持ちの親から金を引き継いで成功した人は、ずるい!所詮親のおかげだろ!みたいに扱われるのはなんか納得行かない
別に自分は金持ちの親のもとに生まれたわけでもないし成功したわけでもない(むしろ底辺より)けど、前者と後者にどんな差があるっていうんだろう
あとは逆に生まれながら高い能力をもっていたけれど家庭環境が悪く成功できなかった人はかわいそう
で
家柄はいいのに能力がなくて成功できなかった人は、当然、ざまあみろ
みたいな扱い
両者とも「才能がなかったんだから当然」ってことでいいんじゃないのか?
しいて言うなら親からの引き継ぎ要素として「金」ってのは他のものに比べて強すぎるからずるいってならわからなくもないけど、あくまでそれは同じベクトルで強すぎるからってだけであって
他の「才能」と別物みたいに扱うのはなんか違うんじゃないのか
どこにも書けないのでここに吐き出す
ただの自分語りで内容はフィクション、読んだら不快になるであろうと思われる事を先に言っておく。
モテない。
俺はモテなかった。
小さい頃から見た目もブサイクでぶくぶくと太っていて、顔立ちの綺麗な親にも「ブサイクだね笑」だなんて笑われながら育った。
幸いにも見た目が理由でいじめられたり、というような事はなかったが明るいブサイクという感じで俺は女性と縁が無いまま横幅を含めてすくすくと育った。
TVやネットで見るような恋愛の煽りを、自分には関係無い、と思いながら
ネットで呪詛を吐き出し、アニメーションのかわいい少女達へと精液を消費するいわゆる典型的なブサイク・キモ・オタク だった。
兄貴は俺と対照的に女をとっかえひっかえしており、俺のコンプレックスは加速していった。
することが無かったので、見た目に恵まれなかったので、加速したコンプレックスで努力した。
楽しそうに振舞う恋愛強者を尻目に、勉強し、本を読み、ネットに浸った。
おかげで周囲の環境や家系に対してはそこそこの学業成績を出せるようになり、年齢に似合わないコンプレックスによって醸造された屈折した視点と切り口を得ることが出来た。
気づくと16歳になった。
ネットに入り浸ることで4つ年上の女性とネットで出会い、恋愛感情が芽生えた。
会えば嫌われる。なので、またコンプレックスを加速させることにした。
見た目に対して努力しだした。ぶくぶくと太っていた体重を20kg近く削り、見た目に気を使って最高の状態でその人に会えるようにした。
そうして、俺は彼女と初めて会った。
といっても、別に見た目を重視していたわけではないのでどうでも良かったのだが。
年上でありながらも俺より子供のようないわゆるメンヘラに近かった。
そうして初めて彼女ができた。が、出会い方や彼女の見た目もあり恥ずかしくて友達や親には黙ったままそのままダラダラと5年間付き合った。
これを逃せば俺にチャンスは無い。そんなことを信じながらだらだらとゆるい幸せに浸かり続けた。
最初は好きだった気がするが、今思えばもう半年もすれば感情は無かったのではないかと感じるようになった。
何度も別れ話を切り出され、そのたびに口上手く丸め込みだらだらと付き合っていた。
もう興味は無かったが彼女がいない自分が怖くて、まともに対応しないままラインや電話も取り合っていなかった。
5年がたち、俺は大学生になり彼女は26になった。相手はもう結婚を考える年齢だ。
このまま流されて結婚してしまうのだろうか、とかそんなことを思いながら限界を迎え、ついに別れた。
初めての失恋にはショックだった。月日は長かったらしい。
別れてからの数ヶ月で今までに無い勢いで成長した。
勉強に向き合った。女がいない自分に価値が無い気がして怖かった。
昔から嫌だった。初対面の人間に「彼女いるの?」と聞かれるのが。なんでそんなプライベートなことを大して仲良くもないお前にこぼさなきゃならないんだと思いながら
「いないよ」と嘘を吐いた。思えばあの時からもう片鱗はみえていた。
昔から心理学の本を読むのが好きだった。人が見える自分は素晴らしく、理解できる自分に価値がある気がした。
モテる心理学!ブラック心理学!なんても俗なものから専門書まで暇なときにちょくちょく読んでいた。
意味不明な視点と考え方から、根拠はないが人よりも人の気持ちに昔から敏感だったように思う。
言葉の節々や小さな仕草から相手が何を考えているのかわかるような気がした。
同時に、恋愛も脳内物質の機械仕掛けに過ぎない気がしていた。抱擁で分泌されるホルモン。オーガズムで分泌されるホルモン。
機械仕掛けに脳は刷り込まれていく。愛の正体はホルモン。だから、相手の脳内にそれをたくさん分泌させてやれば相手に自分を刷り込ませられる。
別れて3ヶ月。新しく一つ年上の彼女が出来た。
モテ無いと感じていたが、18くらいから見た目に大きな変化が現れていた。
顔立ちは濃くはっきりとしていて、振る舞い方も随分と覚えた。昔より会う人間にモテそうといわれる事が多かった。
あ、俺ブサイクじゃなかったんだ。うすうす気づいていた。
そうか、はっきりと女を望んでいなかっただけで実は思ったより自分に魅力はあったらしい。
そっか俺実はモテるんだなって気づいた。けど、男は見た目の問題ではない。
モテるという言葉は嘘である。どれだけ見た目に優れていようとも男は見た目ではない。女に向かっていかなかれば意味はない。
新しく出来た彼女はかわいかった。相変わらずメンヘラの気質だったが、人前で手をつなぐことも友達に紹介することも恥ずかしくなかった。
見た目は大きな要素ではないと思っていたが、単に俺のプライドが高かっただけらしい。
村上龍がエッセイでこんなような事を言っていた。「美しい女が自分の前で裸になり、好きにしていいと言われる事、それこそ男としての承認だ」と。
今ならわかる、そのとおりだ。俺は美しい女に愛される自分を通して自分に価値を見ていた。
自分なしでは生きていけない相手が、必要とされる俺が好きだったのだ。
そうして付き合って一ヶ月。
普段は目立たなかった俺だが、あるきっかけで広く人目につく機会を得た。
端的に言えば、出会いが増えた。
人目に晒されることで周囲に女性が増えた。
気づけば、一人の俺より若い女から熱烈なアプローチを受ける事になった。
まんざらでもなかった。こんな俺でも必要とされている。
気づいた時には付き合い、隣で女は寝ていた。
「こんなしょうもない人間の癖になに腕枕なんてしちゃってんだよ」って、ツッコミを入れながら
悪友の影響で好きでもなく辞められない煙草を吹かして独りで笑っていた。
ラブホテルの照明が、小学生の時の図工の時間に書いた目玉にとてもよく似ていた。
俺の中では、本当につい最近まで小学生だったのに、何かっこつけて腕枕なんかしちゃって、煙草なんてゴミみたいな物に日常を煙に巻いてんだ、と思った。
女がいなかった数ヶ月は本当に成長できた。今まで不可能だと思ってたことに挑戦し、努力し、成し遂げられた。
生まれたからには仕方なく生きる、俺の全盛期はいつだった。そんな事を口にするのは俺は昔から絶対に嫌だった。
昨日より成長してなければ意味が無い。そんな事を思っていて、常に不安だった
不安だからこそ成長できたように思う。常に不安で仕方なく、それを誤魔化すために努力した。
しかし、女が出来てからは違う。生きているだけに無条件に承認されたしまう。
違う、と思った。
生きている事は価値かもしれないが、俺は嫌だったそんな事は。
ふと昔見た映画を思い出した。主人公が夢の為に付き合っていた女を振るのだ。
確かにそうだ、本当に成し遂げたいことがあれば女は枷になることが多い。
二股をかけてみて、何も楽しくは無かった。
二人から求められている事は、不安を取り去り、罪悪感を生み、俺の成長を止めた。
後ろめたく、首筋をつめたい手に掴まれている感覚が抜けなかった。
どちらかを選ぶのはムリだ。だって、多分。二人とも好きじゃない。
初めて付き合ってた彼女が付き合う前に年上の30台の男との事をよく語っていた。
俺はそれがたまらなく嫌で、高校生の俺がそいつに勝つには圧倒的に時間も何もかもが足りてなかった。
生きていれば経験値は溜まる。男は年を経る事に確かに価値が増すように感じる。
だから、若い女が年上の男に夢をみるのはムリも無い。彼らは安定している。
しかし、そんな事で成長できるとは思えない。年上の人生レベルの高い人間といれば、楽々人生は進むだろう。
高い戦闘力で色んなことを蹴散らしてくれる。しかし、気づけば残るのは若さしか価値の無い女だ。
それならまだいいが、数年もすれば年老いたただの人間になる。そうすれば、何も出来ない人間になってしまう。
男が「何も知らない女」に夢を見るのと対象的に、
女は「何でも知ってる男」に夢を見るのかもしれない。
でも行き着くところは同じ。
男は「何も知らない女は寛容で、何でも知ってる女は狭量だ」と思ってる。
女は逆で、「何でも知ってる男は寛容で、何も知らない男は狭量だ」と思ってる。
成し遂げたい事は何かを考えた。
そう思ったとき、双方が枷だった。二人から貰ったペアリングが、手錠であり、足枷であるように感じた。
もう嫌だった。自分に価値を無条件に認められることが、しょうもない人間なのに生きているだけで肯定されるなんて意味不明だ。
このままゆるい幸せがだらだらと続いたところで、どこかできっと悪い種が目を出してもう色んなことがおしまいになる。
そう思った深夜2時。川を渡す橋の手すりに立った。
演じる事でそれがいつかホンモノになると信じているからだ。
しょうもない。こんな物に囚われている。もう嫌だ。自分の事は自分で決める。
そう信じて、ドラマの主人公のように指輪を投げ捨ててそのまま飛び降りて川に身を投げた。
枷は取れた。壊した。
そのまま、二人を捨てた。
もういいやと思った。
世の中にはそんなことよりも楽しいことが死ぬほど転がっている。
その枷に囚われてそれを拾えない事のほうがよほど不幸だと俺は思った。
俺は、こうして今もモテないままでいる。
そうして心もブサイクなままだ。
でも、それでいい。
だらだらと無条件に愛されるくらいなら、モテないブサイクでいるほうが余程幸福だ。
今、俺を縛るものは何もない。
ただ、時折感じるやるせなさについては、飲み込むまでまだまだ時間がかかりそうだ。
昨日はオフだったので、
「昭和カフェ」とはその名の通り、昭和を愛する人たちのための喫茶店である。
それほど流行ってはいない。若者たちの溜まり場にはなっていないからだ。
ここでは「昭和」の空気を徹底的に再現されることが求められる。
入店するにあたってはロッカーに、
iPhone は論外として、ガラケーやポケベルさえも使わせては貰えない。
つまり平成になってから刷られた紙幣や生まれた貨幣は使えないわけだ。
どうしても「昭和」の空気に浸りたい人たちはここで困ることになる。
一時期はそういった紙幣や貨幣を法外な値段で取り引きするダフ屋が
問題になったので、現在では店内で昭和時代の紙幣や貨幣を模した
チケットと一旦両替して使うという、やや面倒臭いシステムを採っている。
本当なら店長も昭和時代の本物の紙幣や貨幣を使って貰いたいのだけれど
盗んでいく不届き者が居るのだ。だからまあ、これはこれで仕方がない。
だがこれで終わりではない。昭和生まれのものしか使えないということは、
そういう本もロッカーに預けなければならない。
貸し出されるし、古本屋も軒並み繁盛している。
私はそのあたりには抜かりがないので昭和時代の貨幣や紙幣を貯め込んでいる。
本だって父親の蔵書を選んで、店内で古びた
テーブルはもちろんインベーダーゲームがプレイ出来る台が用意されている。
私は興味がないのだけれど。
『限りなく透明に近いブルー』を読んで来た。
充実した一日だったと言えるだろう。
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北岡伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
ソースはググればすぐ出るので、書きませんがまとめ。
これは有名。若手起業家フォーラムに参加した縁で当時首相だった小泉純一郎がはてなダイアリーを一日使ったことがあるのはニュースで見た人も多いはず
こっちも結構有名。1か月ほど使っていました。
キングメーカー小沢一郎は、ブックマーカーでもありました。ブックマークは10件ほどの囲碁サイトのみでやっぱりとも失望ともな雰囲気でしたね。
はてなハイクってそもそも村民でも知っている人多くないような。ともかく、俳句という名前が気に入ったのでしょう。数度投稿しています。
こちらは、成りすましの可能性がありますのであげるだけ。はてなブログにはあまり著名人はいませんね。
今ならYahoo知恵袋でやふれよという突っ込みで埋まるでしょうが、当時はブロードバンドの値段に対してどう思うかをきちんと答える書き込みで賑わっていました。
日本人と欧米人の骨格について質問していた当時の錦織圭に対して、はてなーのお兄さんお姉さんは総合的な優劣は存在しないことを説明しました。
こう思うと、アメブロと聞いて途端に卑下することとかはやりすぎな気がする位、大手なサイトな気がしますね、はてなは。
まぁ、facebookと聞いたら逃げ出さないといけなそうなので、そろそろ世界的に有名な米国人の○○が、はてなを利用!とかなってほしいものです。
「文学」という言葉の定義を、もう少し広げるか狭めるか、ハッキリさせた方がいいんじゃないかね。
定義を狭くして、いわゆる「フィクション」を楽しめないという人は一定いるわけで(たとえばウチの兄貴は、映画というものが金輪際楽しめない、という。理由は登場人物を見ていると、その行動の非合理性にイライラさせられるからだそうだ。)、面白くないものを無理に面白がろうとする必要はないと思う。堅苦しく難しい「フィクション」というのは、そういう趣味の世界にはあるかもしらんけど、まあ必需品ではないし。
また、例に挙げられている「ニホンブンガク」はもう少し定義が広く、「文学は社会の教師たるべし」みたいな時代の産物なんだよね。哲学・社会問題・警句・歴史・神話・劇、などなど、さまざまな要素を加味して楽しまれていた総合芸術。表現技術や技法というのもその中にはあるけれども、単なる言語芸術以上の何かを含んでいたもの。そういう意味での「文学」には、社会で生きていて、人文系の問題領域に関心があれば、どこか引っかかる作品や作者があるだろうと思う。優れた作品も、時代性を背景にしている部分は大きいので、たとえば日本が新興国として成長とその限界の予感にあった時代の雰囲気を抜きにして夏目漱石を読んでも当時人気を博した理由は分かりづらいだろうし、社会の逼塞の度合いを抜きにして横光利一の「機械」やその文体の面白さも分からないだろう。また、大正の退廃から戦時下にかけての日本の時代風景を抜きにして太宰を読んでも、本当のところ何やら分からない部分があっておかしくないと思う。「御伽草子」なんか、戦時の言論統制下で発表されたということを理解すれば、相当面白い。(これは、実際当時の人が「戦時下で次々大家が筆を断ったころ、太宰の御伽草子だけが『文学』を求める乾いた心を癒してくれた」といった類の感想がある。)
もちろん、そんな中にも、時代を超えるような「何か」に触れた作品というのもあるわけで、同じ作者のものでも「こころ」や「春は馬車に乗って」や「人間失格」なんかはそういう部分を大きくもつ。だから、日本文学に世界性がない、ってこともないと思うよ。
とりあえず、増田は、太宰よりは坂口安吾、芥川よりは谷崎潤一郎を読むべきじゃないかなあと思う。現代文学でいうなら、村上春樹より村上龍を読んでみたら、っていう程度のアドバイスだけど。まあ、あんまりいい喩えじゃないんだけどね。
村上春樹を英語で読む。私はこれでTOEIC900点を突破しました。
小説を読むうえで大きなストレスとなることの一つに、著者が描く情景、主人公の心情、時代風景などがピンとこない、ということがあります。外国の小説の場合は、たとえ日本語に翻訳したものを読むときであっても、日本人である我々は感情移入ができず、結果として、なかなかサクサクと読み進むことができません。英語で読む場合は、これが「英語という言葉がわからない」「書かれてある内容自体がピンとこない」の二重のストレスになってしまい、英語上達のためのポイントである「多読」の障害となってしまいます。対処法は簡単です。日本人の著者が書いたものを英語で読むこと。そして自分が好きなものを読むことです。
私は昔から村上春樹が好きで、ノルウェイの森は特に、これまでにたぶん10回以上読み直しています。話の流れはほぼ完ぺきに頭に入っているので、Vintage版のノルウェイの森は簡単に読み終えることができました。これは、いままで、いろいろな英語の小説(ポール・オースターからハリー・ポッターに至るまで)にトライし断念してきた私にとって大きな自信になりました。
次に、今まで日本語でも読んだことがなかった、海辺のカフカを試してみました。これも多少は日数はかかりましたが、楽しみながら英語で読み終えることができました。同じようにして、これまでに長編・短編を何冊か読んでいます。
村上春樹の小説の主要なものはほとんど英訳されていて、Amazonなどで手軽に手に入ります。村上春樹がかなり好きな人であっても、読んでいない作品というのはあるかと思うのですが、そうしたものであっても英訳で読むことができます。自分が初めて読む小説が、それが英語で書かれているのにもかかわらず情景がすんなりと理解できる、というのはすばらしい快感です。それは、ちょうど、海外の作家の本を英語で読んだ際の、自分が理解できているのかどうかに確信が持てないもどかしさの対極にあります。
村上春樹が好きでない人は、自分の好きな日本人作家を読めばいいと思います。吉本ばななや村上龍も英訳が多く出ているのでいいと思います。三島由紀夫、安部公房、井上靖が好きなので英語で読んでみましたが、これらは私にはダメでした。時代が違う作家の文章は、英語になってしまうと、一発でピンとくる感じがなくなってしまいます。小説ではありませんが、最近のアニメや日本映画を英語吹き替えプラス英語字幕で観るという方法はよいかもしれません。
とりとめのない愚痴。
文章を書くのを仕事にしたいとかクリエイター系の職業に憧れるとかきくと、ちょっともやっとする。
これは「公務員5時に帰れて給料安定してるしいいなー」的なのと同じように「好きなもの作れていいなー」という感覚なのでしょうか。
クリエイター系の専門学校だったので「俺子供の頃から漫画とゲームで育ってきたし最適の職業だと思うんだよね」というようなことを言っていた人がたくさんいたがそう言った彼らの多くはニートかフリーターか卒業後の行方を知らない。
職についても「俺はこんなゲームをつくりたいんじゃない!売れなくても面白いゲームが作りたいんだ」とかいってやめた。
クリエイティブな職業における夢みたいな感じのものを押し付けられる感がもやっとしてるのかも。
クリエイターってただの会社員ですよ。普通の会社と違うのはスーツきなくてもいいとか出社時間決まってないとか休日出勤や泊まり込みが普通(下請けの場合)くらいですよ。
フリーになってもクライアントの気に入るものをつくるだけです。
クリエイターの中でも漫画家とか文章系の人は特に「どうして売れない(見られない・認められない)んだろう」病にかかる人も多い。
こっちからしたらマニアックな題材だったり販促をしてなかったり売れるための選択を無視してあえて自分が書きたいものを書いてるからだとわかるんだけど、その人にはそのままの自分が受けいられないということが不思議らしい。
芸術家なら売れなくても認められなくても文句をいうのは変じゃないかなと思う。
私が小説家を目指さなかったのは高3の時に見た13歳のハローワークの「小説家」の項目に「何をやりながらでもやってからでもできるから最初から目指すのはやめとけ」って書いてあったからで、ほんとあの時小説家になる!とかいってニートにならなくてよかったー。とおもう。村上龍ありがとう。
そういうふみとどまりのようなものがあるので、ふみとどまらない人を見ると同族嫌悪でもやっとする、のか。
追記:
今更ですが私の場合は単に販売員とかOLは向いてないだろうなと思って少しでも文章書けそうなゲーム業界にいったというだけの話なので「なにかをすごくつくりたい」という渇望が強い人にしかわからない何かがあるのかもしれないです。
でも今でも「クリエイティブになりたい(で食べていきたい)」と言っている人には「なればいいじゃん」とおもってしまう。「なりたい」は学生まででよさそう。大人になれば、(自分の経験からしても)特にこういう系の職業(芸術家じゃないほう)は求められているものを作ればいいので、才能がなくともなろうと思えばなれる。村上龍が言ってたこと本当だった。
ずっと見るだけだったのですが、こういったとりとめのない文章に対しご意見を頂けるというのは非常に嬉しいです。ありがとうございます。
追記2:
思ったよりたくさんコメントを頂いて驚いています。普段クローズドな場所にいるので……。
コメントを拝見して自分の中でももやもやがどんどん具体的にまとまってきました。
ブログにしろ文章にしと漫画にしろ、(スポーツとかでも?)自分がつくったもののみで食べていくって、努力とかリサーチとか経験とか才能とか、その他いろいろがないと難しいと思うのです。
それなのに何もしない状態とか、やってるけど食べていけない状態で「なんで成功しないんだ」とか言うってことは、今の状態で成功するはずと思っているということで、それってすごく傲慢だなと思う。
成功している人がやっていることをやらないで同じ位置に立つということは、やらなくてもいい才能みたいなのがあるということで、ただ道端で絵を描いただけでパトロンにスカウトされて全世界に認められる、みたいな。だから芸術家という表現を使ってしまいましたが芸術に関わっている方をdisる意図は全くありません。
でもほんとユーザーとか流行りとか全く気にしないで好きなもの描いてるのに「あいつらわかってない!」っていうのはやっぱり変なんだよー。もう私そういう相談という名の愚痴きくの嫌なんですよー……。
あと今更ですが、クリエイターって名乗ってるのすごく恥ずかしいですね。リアルでは名乗ったことはないです。なんでゲームだけゲームクリエイターって言うのでしょう。
一人称じゃあないけど、「コインロッカー・ベイビーズ」(村上龍)は完全にトリップしててお好みだと思う。
上の人の「子供を産むことは親の勝手で、子供にとっては理不尽でしかない」って主張はそうだなあって思うけど、それにしても、なぜそんなにその面だけを声高に主張しなければならんのか、という気がするなあ。「親には、なぜ、私を産んだのか。何度も聞きました。その理由が私にとっては納得のいくものではなくて、余計に腹の立つものでした。」っていう思いをただ吐き出したかっただけじゃないの?
ただ、俺自身も、親に対して「なんで産んだ?」って気持ちはある。「なぜ産んだ」って聞いたことはないけど、母親に「なんで父さんと結婚したの」と聞いて「普通にお見合いで。あと仕事が辛かったから」と言われたときの脱力感ったら。村上龍の「55歳からのハローライフ」に、「女は20代前半で結婚するのが当たり前の時代だった」みたいな表現があるんだけど、自分が産まれたことの根拠を問うた時、単に当時そういう時代だったから、って返事されるのは子供にはつらいもんよ。
まあ俺の場合は、思春期に家庭不和があったり性格こじらせちゃったりしたから、よけいにそういう「根拠」を欲しがりすぎる面もあるのかもしれんけど。「なぜ産んだ?」って聞いたときに、自分は父親と母親の愛の中に生まれたんだ、って感じられるような答えが欲しい、ってのはある。
まー30を前にした男が言うことじゃないけど。すべてを親のせいにしてそこでストップしても何も得られん。
あと蛇足。俺の父親がいわゆる団塊の世代なんだけど、その層向けに出してる週刊誌のセックス特集の最近のエグさっていったらひどすぎる。「60代でもセックスできる」とかガンガンやって、挙げ句の果てに「20代とやってから死にたい」とか、もう身も蓋もない。「とりあえず結婚」したあげくに、実際はセックスレスのくせに勝手なセックスを妄想してる。60代のオヤジどもが。そんなことより奥さんと子供大事にしろよ。