はてなキーワード: 明治時代とは
いまだと、誰が一番そこに近いんだろう。(≠ それで一生食えるはここで意味してない)
ブロガーのブログをあまり読まないの(媒体は読む)で分からないのだが…、世の中の人もアホではないので、「この人の話をもっと聞きたい!」って思わないと中々むずかしいじゃないのかなーと。
例えばバックグラウンドが何かの資格職だったとしよう。医者、薬剤師、建築士、何らかのエキスパート…などなど…別になんでも良いのだが、レアな資格やバックグラウンドという服を見てると僕もよほど変わった問題でもない限り、専門の話題だとこの人の意見を覗いてみようという気になれる。
・世界一周しました! = そのためだけのちょっとした金と暇だけあるだけやないか
何を勘違いしているのだろうか。
だからといってマーケティングで、何らかの商材を売るのがうまいとおもいきや、そんな事したこともないから、中途半端な広告乗せて、月に1000円位のアフィ収入。
雪かきでもしてろ、と。
その次が子育て支援だと思う。
その中でどうして人口が減少しているか原因を調べてる本や書物はたくさん存在していて
解決すべき方法もたくさん明かされてる。
それなのにそれを実行せず一時しのぎとして移民受け入れの準備を進めるのは理由がある。
この二点を以って移民政策を進めようとしていると思う。
少子化になったとしても食料自給率的にはむしろ好転する可能性もある。
それを維持していけば、日本は海外から食料輸入をせずに済んでいたけど、
自由化によって食糧生産性を思いっ切り下げて行ったのは、主に老害や経営者が自分を守る為にやった事。
つまり今ある少子化の原因の多くが老害や経営者のせいなんだよね。
1歳しか歳が変わらない社会人がムカついて仕方なかったが、自分も結局そうしてた。
自分も過去を思い出して、何か良い表現が無いものかと思ったのだが、例えば
Aパターン パイセン顔が著しく、たいして距離近くもないのに説教しまくる人
= 多分、ウザいだろうなと思ったので、このキャラはボツにした。
= 自分自身が中々、そこに戻るのにパワーが必要で合わないので辞めた。仕事のばっか考えてたから。
他にも色々あったのだが、結局、敬語でもなく、過度にフレンドリでもなく、高圧的でもなく、明治時代に書生を迎える旧家の若い当主の如くの対応に落ち着いて距離を取ろうかと思い…、ぐるぐるめぐって「そっかー学生さんかー」が自然と出てきたとさ。
ぶっちゃけ、ほんの最近まで同性愛者を犯罪者扱いしていた国々でどでかい反動が起きてるだけなんじゃね、と。
イギリスとか90年代まで男性同士のセックスが犯罪だった地域が残ってたし、アメリカなんて21世紀になっても違法の地域がゴロゴロあった。
フランスも同性愛は売春と同等の社会悪と見なされていて、公共の場での異性装(男が女装したり、女が男装したり)は80年代まで違法だった。ドイツも90年代まで「男同士」は犯罪だった。
そういう過去の過ちを正すために揺り戻しが来ているだけだよな。
そもそも日本はかれこれ明治時代からずーっと同性愛は合法のままだったわけでさ。
しかも当時の白人様ときたら「同性愛者を野放しにする土人ジャップランドwww」みたいな価値観で日本をバカにしまくってたわけ。
(追記 : 別のエントリで簿記の言葉の意味を解説しました。→ http://anond.hatelabo.jp/20151113140308 )
これは簿記のエッセンスをまとめたとか書いてあるが、簿記でもないし、会計学でもないし、なんだかわけのわからない謎の話になっている。どのあたりが謎なのか説明していくと・・・。
明治時代に福沢諭吉(1万円札のひと)が『帳簿記入術』として紹介した、一連の経営管理の技術が、『簿記』と略された、という説が有力です。
という冒頭から怪しい。"帳簿記入術"でググってみると、このブログしかヒットしないんだよね。福沢諭吉が紹介したのは、「帳合之法」であって、『帳簿記入術』という言葉はどこからでてきたの?たぶんこの人の造語だと思うんだが確証はない。
「経営管理の技術が、『簿記』と略された、」というのもなんだかよくわからなくて、自分の理解では、簿記は単に帳簿記入が略されて簿記になったか、あるいは英語のBook Keepingが略されてぼきになったという話をきいたことがあるくらい。「経営管理の技術」をどう略したら簿記になるのか?「ぼ」も「き」も含まれて無いのに。
「簿記は『財務諸表』を正しく作るための一連の技術」というのは、ずれている。財務諸表を作成するために仕訳を切るけれど、会社の経済的価値の増加や減少を勘定項目ごとに分けて帳簿に記入するというのが簿記という言葉の意味なので。財務諸表を作成するのが簿記の最終目的のような書き方はおかしいですね。
デジタル大辞泉の簿記の説明を読んでほしい。財務諸表という言葉は一言もない。
「財務諸表のようなもの」は主要簿(仕訳帳と総勘定元帳ね一応)から誘導的に導出することができるけれど、簿記と財務諸表は独立別個の存在なので、簿記が財務諸表の従属物のような書き方をするのは間違い。
画像の「会計学の説明の、『正確な財務諸表を作るための簿記技術についての理論』」というのも、少し正確さが足りない。この説明だと、会計学が簿記の理論を支える点を説明しているけれど、それ以前の話もあるので(認識や測定の話の前の包括利益などの話もあるし、企業結合会計などはそもそも簿記外の話だ)、会計学には簿記の理論的な話も入るけれど、そうではないものもある。部分集合といったらなんとなくわかってもらえるだろうか?
同じ画像の「財務諸表の要件」という言葉は、何を意味しているのか私にはわからなかった。
会計学の基本
で、次の項に進むと・・・。
「例えば、例で見てみましょう。」って意味が重複している。
収益の認識基準の話に飛んでいくんだけど、簿記の話で大事な話はいくつもあるのに、なんでこんな損益会計の話に飛ぶのか?
「実は会計の基本的なルールについては法律には定められていません。
各種税法
」
というのも、誤解を招く書き方になっている。企業会計原則とか、財規とかは(狭義の)法律に含められないけれど、だからといって内閣府令を法律ではないと強調して表示する意味があるの?各種税法に財務諸表の作り方が載っているという話は聞いたことがない。税務会計が財務会計に影響を与えているという話は知っているけれど(いわゆるトライアングル体制)、財務諸表の「作り方」は税法で定められていない。(税務署に申告・提出する書類は財務諸表に含まれない。)
「一般に公正妥当と認められる会計処理の基準(GAAP)」は、「一般に公正妥当と認められる会計原則」を指していると思う。会計処理と狭めているのは理解ができていない証拠。こういうテクニカルタームの間違いがこれ以降もあるし、しかもその語の説明も変なのがこれからも続く。
画像の税務会計の「収める」は「納める」。この画像はトライアングル体制の説明でよく見かける概念図なんだけど、トライアングル体制の説明で中央にGAAPを持ってくるのは見たことがない。GAAPってアメリカ由来のイメージなので、別の文脈で説明するべきものだろう。
「J-GAAP」でぐぐっても、なんかそれらしいURLは無い。これも造語では?(追記:どうやら"J-GAAP"ではなくて、や"JGAAP"を意味しているらしい。US-GAPPは間にハイフンを入れるが、JGAAPは、"JGAAP"または"J GAAP"と表記するので、間にハイフンを入れるのは間違い。)
めんどうくさくなってきたので、このあたりで終わり。多分全体の1/3くらいの部分までで、どう読んでも変だろうという箇所を指摘した。残りの2/3の部分も、いくつもひどい点があるんだけど、それを指摘していくと時間が大変かかって、かかる割に報われないと思うので終わりにする。匿名ダイアリーの文量制限にも引っかかるだろうし。興味があれば誰かやってください。もちろん会計がわかる人がやらないと墓穴を掘ることになるんですが。
ざらっと見た感じだと、経営学部の学生が講義課題でレポートを書いたとして、ぎりぎり「可」がもらえるかどうかかな?というくらいの内容だと思う。簿記の話というタイトルなのに、中身はそうではないものが混じりすぎているし、テクニカルタームを間違えていて説明も間違えているし、全体の構成もどこに突き進んでいるのかよくわからないもの・・・。
初めて簿記や会計を学ぶ人は、もうちょっとちゃんとしたものを読んだほうが良いよ。最初から間違えて覚える必要はないわけだから。
もしかして昔の日本を過剰に美化してる人が増えてるのかな?と思ってしまうエントリを最近いくつか見かけた。
http://anond.hatelabo.jp/20151022043900
「日本の生糸の品質が世界一」って、明治初年なのに? 明治初年の生糸事情
http://anond.hatelabo.jp/20151027104900
SF作家 山本弘先生の「日本人のモラルが昔から高かったと思うな」「日本人のモラルは昔より格段に向上している」
明治時代はともかく、戦後の日本製品の品質についても最初から高かったと思ってる人をたまに見かけたりする。実際には日本の製品の品質が良くなったのは1970年頃になってからで、それ以前は安かろう悪かろうだった。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13100020158
また昔の日本の生産性は高かったと思ってる人が居るが、実際はそんなことはない。
http://www.jpc-net.jp/annual_trend/annual_trend2014_3.pdf
図3-4に1970年からの労働生産性の、OECD加盟国内での順位の変遷があるが、日本は18-19位だったのがバブル期に13位に、その後は現在まで21-22位で安定している(OECDの国数が時期によって違うことに注意)。
「本当に共働きが必要か」のエントリでは専業主婦世帯が日本に合っていたのでは?と言っている。共働きになったからいろいろ大変になってしまった、専業集世帯がメインになれば改善する、と言いたいのだろう。
このような発想が出てくるのはそのような社会形態だった頃に景気が良かったことからきてるのだろうが、実際には因果関係は逆で、景気が良かったから専業主婦が成り立っていただけである。
これと似たような話として、終身雇用・年功序列を復活させるべき、ということを言う人がけっこう居たりする。これも同じく経済が成長期だったからこそ終身雇用・年功序列でいけてただけに過ぎない。
そもそも、日本は終身雇用だったというのが幻想で、実際に終身雇用の対象だった人は労働者の1割も居なかったわけで。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20141109-00040587/
ここら辺、解雇規制に関する勘違いと似ていて、日本は解雇規制が厳しいと言われるがそれは大企業の正社員のみの話であり、それ以外の人との格差が問題になってたりするのだが、勘違いしてる人は結構いたりする。
なぜこのような勘違いが発生するかと言えば、マスコミで取り上げられるのが大企業ばかりだったからではと思う。ほんらい少数派のはずがマスコミによってさも日本の代表値のように扱われ、それを信じてしまったのではないだろうか。
最近の若者は終身雇用を望む人が増えている、という調査がある。今の時世では安定を求めたくなるのは当然だよね、と思っていたのだが、もしかすると皆が終身雇用な社会、皆が専業主婦世帯な社会が成り立ちえると勘違いしてるから、そういう意見が増えてきてるのかもと考えてしまった。
夫婦別姓化を国連から勧告されたという本当か嘘かわからんニュースについてネット上で議論が起きているようである。
主に夫婦別姓賛成派が使用している主張の一つに「夫婦別姓は日本の伝統ではない。明治時代に云々」というのがある。
お前は馬鹿か、と。夫婦別姓論に伝統がどうの言い出すのは極めて不適切である。
なぜかと言うと、ではこのまま夫婦別姓が1000年2000年続いていたらお前は伝統だから夫婦別姓に賛成だ、と意見を変えるのか
ということである。伝統だから、伝統じゃないからというのは主題の本質とは極めて無関係だ。
それにもし伝統として続いていけば賛成だというのであれば、伝統になる過程の夫婦別姓を今潰すべきではないだろう。
逆に反対派が伝統だからというのも同じ理由で根拠にならない。賛成派も反対派もまず思い出さなければならないのは
日本では明治3年まで多くの国民が苗字を持っていても表立って使用しなかったという事実である。
そうであれば夫婦別姓も同姓もありようがない。
私は夫婦別姓論に反対だが、その大きな理由は子供の苗字が両親と統一しないからという感情論である。
この子供の苗字の問題は選択的であっても夫婦別姓を導入した場合に付きまとってくる問題であるし
なぜ妻が夫の名字に合わせなければならないのか!人権侵害だ!などという方がいるようであれば
私からは「別に夫に合わせる必要はない、現時点でも認められているのだから
妻側の苗字に合わせて結婚すればいいのではないか」という他無い。
この私の意見に対して論理的な反論は不可能であろう。なぜならこれは論理ではなく私が感情的に嫌だと思っているからである。
自分が生まれた時から存在するものは、過去もずっと同じであったと人間は思いがちだ。
ニュースを見聞きしていれば薄々感じてると思うが、現状は薄氷の上を歩くが如く、危うい状態にある。
戦争ってのは、そう特殊なことじゃないし、わりと簡単に日常生活の延長線上に起こりうる。
そして、現在の緊迫した状況を理解しておくことは、個人にとっても悪いことじゃない。
それを理解した上で、どう行動するかは、それぞれの信念によると思う。
「大韓民国(韓国)」と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」は停戦状態で、まだ終戦していない。
それぞれ「国」の設立に、アメリカ合衆国とソビエト連邦とが強く関与しており、
いわば、この二国間は、未だ第二次世界大戦から直結した冷戦状態にある。
「李氏朝鮮」は、13世紀から19世紀まで中国の冊封国家として朝鮮半島を統一していた。
16世紀に豊臣秀吉が侵攻したのがこの李氏朝鮮で、一時的に国土の大半を征服されている。
(つまり朝鮮の征服は成功しており、事実上、中国(明)との戦争であったと言われている)
まあ、歴史の通り豊臣秀吉は死に明は押し返し、19世紀まで李氏朝鮮は存続している。
しかし、お隣の国である日本は、明治時代を迎え近代国家として発展していた。
李氏朝鮮の近代化を目指す一派が、日本に頼りクーデターを企んだ。コレが1884年の甲申政変だ。
時の政権は「中国(清)」に助けを求め、クーデター側は「日本」を頼り、代理戦争が勃発。
結局、双方割にあわないと気が付き、「天津条約」が結ばれ手打ちとなった。
(ちなみに、クーデター首謀者一派はかなり悲惨な結末を迎えている)
ここで、内乱が鎮圧された後、中国(清)が「日本だけが撤兵せよ」とツッパった。
政府内でクーデターも置きてしまい、朝鮮政府も日本に「清を追い出してくれ」と依頼する。
つまり、「李氏朝鮮」は、中国(清)の冊封国家から離脱したわけだ。
これが、1897年の「李氏朝鮮」から「大韓帝国」への国号変更(独立)である。
まあ頼られたわけだし、と、当然のように日本は「大韓帝国」に干渉し始める。
これに「大韓帝国」は、危機を感じ、李承晩(イ・スンマン)をアメリカに派遣する。
アメリカに頼って、日本を排除しようとしたわけだ。これは失敗する。
そして、1910年「日韓併合条約」により統治権を日本に握られる。
勝った国は、その土地を分け合おうとする。
ここで、戦勝国である「ソビエト連邦」と「アメリカ合衆国」が現れる。
北のソビエトが「金日成」の「朝鮮民主主義人民共和国」を、
1948年の事だ。
筋金入りの抗日パルチザン活動家で、その流れでソ連軍の一員として行動していた。
そして、ソ連当局の支援を受けて、北朝鮮の指導者としての地位を確立した。
言ってみれば北朝鮮とは、正当なスターリン型ソ連の落とし子であり、中国共産党のシンパである。
李承晩(イ・スンマン)は、「大韓帝国」時代にアメリカに頼ろうとした調整役だ。
それは失敗したが、そのままアメリカのハーバードで修士を、プリンストンで政治学博士号を取得している。
そして、アメリカ当局の支援を受けて、大韓民国の初代大統領となった。
言ってみれば韓国とは、アメリカの援助で復活した「大韓帝国」である。
そして、「連合国」であることを望んだ。「戦勝国」の一員でありたかった。
対馬領有の宣言は、1949年に行われている。対馬と竹島を日本領から除外すべく、アメリカ政府に執拗に要求していた。
アメリカ政府は、共産主義国家が朝鮮半島を占領するのは良しとしなかったが、正直日本で手一杯だった。
1950年にアメリカ国務長官が「アメリカは、フィリピン、沖縄、アリューシャン列島しか責任を持たない」と宣言した。(アチソンライン)
ここで、キム・イルソンは、アメリカは朝鮮半島を重視していないと踏んで、朝鮮戦争に踏み切った。(当然ソ連のスターリンや中国の毛沢東に周到に根回してだ)
大韓民国軍は総崩れとなり、ほぼ北朝鮮は、韓国を占領しかかった。
ただ、結局のところアメリカ(国連)軍は、一気に押し返し、北朝鮮をほぼ制圧した。
もはや第3次世界大戦まで秒読みの段階だ。
ただ、軍を指揮していたマッカーサーが暴走(原爆を落とす気だった)した結果として軍から追放されたこと、
ソ連を率いていたスターリンが死去したことで、状況が大きく動いた。3年に及ぶ戦争は、一旦休戦することになる。
(休戦なので、未だ戦争は終わっていない)
朝鮮戦争後も、北朝鮮は社会主義国家からの支援を受け、基本的に韓国よりも常に優位に立っていた。
キム・イルソンが中国共産党出身であり、ソ連にも大きなコネがあることが全ての力の源泉だった。
しかし、ソビエト連邦が崩壊する。大きな後ろ盾を失い、経済的な援助が打ち切られた。
そして、キム・イルソンが死去し、コネクションを失い、世界から孤立する。
ソ連の援助は打ち切られたとはいえ、軍事国家は、軍事で物事を解決しようとする。
そして、そのキム・イルソンも死去し、金 正恩(キム・ジョンウン)が国家を継いだ。
売り家と唐様で書く三代目と良く言われるが、親の遺産はその子供まではなんとか保っても、孫の代には残らない事が多い。
北朝鮮は、いままさに三代目だ。いつ崩壊してもおかしくはない。良く保っていると言える。
朝鮮戦争は、未だ終結していない。
第二次世界大戦でソ連とアメリカが朝鮮半島の取り分を巡ってそれぞれ国家を建てたことで発生し、
代理戦争としてはまれに見る規模で地上戦が展開され、冷戦時代には相当の緊張を強い、ソ連の崩壊でバランスが崩れた。
韓国は、有り体に言えば反日イ・スンマンの意思を継ぐ、アメリカの属国だ。
ただ、真の独立をずっと願っているし、南北統一を夢見てもいる。
北朝鮮は、スターリン型独裁共産主義国家であり、ゴリゴリの軍事国家だ。
そもそも、国として存在するために、常に周囲を牽制し続ける必要がある。
韓国とアメリカは軍事的な同盟を結んでいるし、日本もアメリカとは事実上の軍事同盟を結んでいる。
そして、北朝鮮が発作的に何かを始めた場合、まず間違いなく最初に韓国が標的になる。
「軍靴の音が聞こえる」等とのんきなことを言えるのは、「平和」があると思い込んでいるからだ。
38度線の非武装中立地帯の北にも南にも、軍隊が常に靴を鳴らして警戒している。
軍靴の音が「聞こえなくなった」と感じ始めていることが、真の危機だ。
目を逸らしても、北朝鮮はまだそこにいる。
正岡子規とか石川啄木とか樋口一葉とか、短命な文人が多かったから、せいぜい20歳+30年=50歳程度のイメージだったんだが。
>夏目漱石クラスの知的リテラシーを持ってる人って、明治時代だと日本で数万人程度だったんだろうが、
★夏目漱石って、作品を発表していた期間が実はあっという間の短期間だったと聞いて目ウロコ。
初作『吾輩は猫である』を書いたのが37歳、未完作『明暗』を書きながら死んだのが49歳。
わずか12年間も活動で、千円札の表紙に上り詰める文豪の地位を獲得。
★「夏目漱石がわずか12年間の活動で文豪の座まで上り詰めた」ということは、
60歳で定年退職して、『小説家になりたい、という若い頃の夢を果たしたい』というシニアが遅咲きデビューしても、
72歳まで活動すれば文豪になり得る、という夢のある話な訳です。
★夏目漱石クラスの知的リテラシーを持ってる人って、明治時代だと日本で数万人程度だったんだろうが、
つまり「その気になれば、60歳で夏目漱石デビューできる潜在可能性がある人」が、日本では数百万人はいる訳だ
(さすがに明治末期には50歳程度には伸びたとは思うが)
「明治維新当時の20歳より、今の日本の60歳の方が、平均余命は長い」、ということか。
現代人の『60歳定年は、第二の人生の始まり』という比喩は、比喩でもなんでもなく、
★当時は正岡子規のように、文才がありながら早世した文人も多かったからな。
正岡子規とか、もっと長生きしてたら、夏目漱石とは比較にならないくらいの超文豪になってた可能性もあった訳で。
その他、文才あったのに20代で結核で死んで、記録にも残ってない文豪のタマゴも多数なんだろうな
『当時としては珍しく、12年間の活動期間を得られた位に、長生きできたから』かもしれない。
夏目漱石より文才があったのに、結核とか種痘とかコレラとかで死んで、文豪に成り損なった文才も多数いたんだろうな。
★夏目漱石が、40代になってから続々と作品を発表できるようになったのは、彼自身の文才と49歳まで生き延びた生存力のおかげでもあるが、
ある日、ドンキの折り込みチラシを眺めていたら、日替り特価商品として『たけ』1Kgが88円(税抜き)で売られていたんですよ。
日本製粉の中力小麦粉なんだけど、天ぷら・めん・お好み焼用となっていて、ウチの地元じゃ四国の某県みたいにうどん文化圏でもないし、需要が無いせいなのかな〜? 通常価格でもキロ120〜130円くらいらしい。 メーカーさんのホームページによれば、明治時代からある由緒正しき商標だそうだが。
amazonとかkakaku.comとかでざっと小麦粉カテゴリを見てみたけど、そこの一覧に出て来ないくらいマイナー商品なのか? ちょっとググってみても何か聞いたことのないマイナーな口コミサイトにかろうじて2、3件オススメ記事がある程度だ。
でもね、別にうどんやお好み焼にしか使っちゃいけないってわけじゃない。ピザやベーグルやパンに使っても全然問題ないんだぜw
「中力粉」って書いてあるレシピはもちろん、強力粉と薄力粉を混ぜて使うレシピなら比率はどうあれ大抵うまくできるんじゃないかね? 実際、上でリンクしたレシピ参考に作ってみたけど、ピザはちょっとフワフワになりすぎるくらい膨らんだし、ベーグルやパンも普通の町のパン屋さんにあるモノと変わらないレベルのモチモチ感やフカフカ感が出たぜw
強力粉で一番普通にスーパーなどで見かける「カメリヤ」とかがキロ当たり250〜300円くらい、薄力粉の「フラワー」とかが150〜200円くらいであるのに比べれば、半分から3分の1のお値段で十分美味いモノができるんだから、もっと評価されていいと思う。
趣味つながりの友人?で、元上級公務員の昭和ヒトケタ生まれの男性がいる。
先日趣味の集まりの後でちょっと飲んでたのだが、昨今の一部の公務員や自民の政治家の極右化はバランス感覚がなさすぎて恐いという話になった。
インターネットでささやかれているような極右のバックグラウンドになってる宗教法人の話なども。
オジサマ曰く、ぼくらのような戦前生まれは、たまに「紘」の字が付く名前の人がいるが、自分たちが学び仕事につく時期は戦後民主主義化であったこともあって、
某「紘一」さんなどは、「八紘一宇」から取られた紘一という自分の名を「いやお恥ずかしい名前で」と自己紹介するようなこともあったらしい。
それを昭和ヒトケタの友人は、「まだ客観性やバランス力が残っていた頃」と言っていた。
それが、なぜいつの間にこんなにガツガツと極右化しているのか。
保守層というのは、身も蓋もないいい方をすれば戦前から既に豊かだった人が大半だろうと思うが、
揺らがない豊かさを背景に、鷹揚に、時代の変化を気にせずにいられたのだろう、と。その前提が崩れつつあるのかも、という話が面白かった。
彼らの多くはもうずっと都会者のような顔をして東京で暮らしては居ても地盤は地方であることが多い。
彼らの現在の金と地位の源泉は地方にある。「地元の名士」「郷土の誇り」「名家の末裔」だったりするからだ。
地方が衰退することで、この源泉が揺らぐ。
例えば、彼らの子供や孫が、自分たちの家業(政治や行政、地元企業等)に興味を持ってくれない、という形で「時代の変化」が突然具現化したりする。
もう一つ、目に見えて彼らの危機感を煽るものは、祭りの寄付金らしい。
地元の神社の祭りの寄付金を集めるのが大変だ、大口の寄付を出してくれていた名士や名家が居なくなる、法人化してつながりが薄れる。
当たり前のように、神社(場所によっては寺)などを求心力の中心として行われてきた地元の祭りが、「町おこしのイベント」のようになる。
この流れには問題が隠れていて、要するに地元の神社の後継者や維持管理の問題があるらしい。
ここで出てくるのが神社本庁である。宗教法人神社本庁については、興味があるならググっていただければ何となく雰囲気がわかるかもしれないが、ちょっと怪しい宗教法人という側面がある。
インチキな壺を何百万で善良な呆け老人に売りつけて、という危うさでは全然ないのだが、例えば天理教は胡散臭いと思う人がいるなら、歴史の長さはその辺の明治新宗教と実質大して変わらない。
まぁそれはともかく、明治時代に神社庁という公の役割を持ったという経緯もあって、地方の後継者難の神社は、宗教法人神社本庁にお願いして後継者を探してもらったりすることもあるらしい。
その土地に根を張って仕事をしている人たちにとっては、「神社がすたれる」というのは、割と心に重くのしかかる事実らしく、
その辺りから、バランスを失って極の方に取り込まれていくのでは、というのが、私と趣味友のオジサマが、酒飲み話で適当に出した結論だった。
別の話っぽい、地方衰退と政治・行政組織の右傾化が繋がったのが、酔っ払いどものたわごととはいえちょっと面白かったので、メモ代わりに増田に。
横から失礼するわね。「美文」ではなく、「歯切れのよい文章」を、書いてある内容ではなく、文体(「だ」の使い方、体言止めの使い方、など)に注目して読むといいと思うわ。あなたが読んでみて「これは、読みやすい文だな」と思うような文よ。
あなたの元の文からは、夏目漱石がお手本になりそうな気がするわ。もちろん、単語や内容は明治時代のことだから古いけれど、その分、「文体」が見やすいのではないかと思うわ。例えば、そうね・・・
小説では『坊っちゃん』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/752_14964.html
随筆では『硝子戸の中』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/760_14940.html
それから、日本語の言葉のリズムという点では、落語に勝るものはないと思うの。落語は様式美の芸だから、最初はどの噺家さんのものでもいいと思うわ。YouTubeなどで動画を検索して、音声だけ聞いてみてごらんなさい。たくさんの落語を1ヶ月ほど聞いているうちに、「言葉のリズムってのは、こういうことなんだなぁ」ということがきっとわかってくるはずよ。
元の文は悪くないと思ったわよ。がんばってね。
まずはこの文章を見てほしい。
一体、禁酒禁煙とゆーことわ出来るが、節酒節煙わ出来ないと同じで漢字の節減わどーも六かしい。これで、従来の障害お、一洗しよーとゆーことわ、国語教育百年の大計でない。単に過渡時代における一時の方便に過ぎないものである。真に国語教育百年の大計おおもーなら、漢字わ全く廃止して、しまわなければなりません。
これは可愛い現代JC(可愛い)がスマホで国語改革案を書いたものではない。明治時代、文章表現の模索の中で生まれた棒引きかなづかいだ。最終的には採用されなかったけれど、「正しい」表記として文部省の教科書表記原案として提出されたものだ。
何が言いたいかっつーと、文章表記の「正しさ」ってのはゆらぐということだ。もしも引用されたような表記が採択されていたら。私たちは現在の若者的表現「あたしゎ」とかを比較的馬鹿にしていなかっただろう。句点読点の打ち方、てにをは、語尾…これらは数々の小説家や教育者、行政の議論の上で整備され模索され現在に至っている。
昨今の日本語表記に関する増田とかの投稿を見ていると、こうした文章表記の相対性に余りに無頓着でないかと思う。瑣末な「正しさ」に執心し、「これはこう!」みたいなのが多すぎる。もっと、書き手の負担の減らし方(上記の棒引きかなづかいはいわゆる文語表記の負担軽減から生まれた)や、相手への伝わりやすさ・読みやすさという大局的な視点・理由づけからの文章があってもいいと思う。もちろんそうしたなかで語られる「正しさ」も相対的なもので時代の変遷に合わせて変わっていくものだろう。
およそ文章表記の変革期と言うのは、出版事情の革新期と期を一にする。インターネットで気軽に誰でも文章が書けて多くの人の目にとまる時代。新しい文章作法が語られるのが(実は結構出てきていると思う)楽しみでならない。