はてなキーワード: プロセスとは
いや、宗教家や活動家に引っ張られて政治やったらダメだろ。バカか
投票率を上げたいのはなんでだ? それは母数が多いと組織票が難しくなるからなんだわ。
でも宗教や活動家に引っ張られて政治をしたら、それは組織票が増えてるでしょ?
全然だめだよ。
もしも、自己正当化で「自分が活動家として政治に興味を持ってもらうのは正しい」とかいうや考えで言ったなら、反省してほしい。組織票を作るのは民主主義に悪、という基本を胡麻化してはいけない。
「動員」というプロセスで政治に参加することは、悪と言うしかないのだが
動員なしで政治参加する市民は減る、という現実がいまや明らかになっている。
そこをどうするか? という話は。
コードを書く上で重要なことは?という質問に対して、アスペならば「実行できること」と答えるだろう。
当たり前なことしか言っていない。「実行できること」という文からは全く有益な知見を得られない。
実行できることは重要性ではなく、必要性である。重要性とは、必要なことをすべてやった上でなおやる価値のあることを意味する。
そう考えた時に私がよく思うのは「最短時間で理解可能」であることが重要であると思うわけである。
しかしここに宗教がある。そもそも、人間が物事を理解するプロセスは人それぞれである。
私は一度、関数やモジュールで適切に分離するためのリファクタリングというものを行ったことがある。
というのも、一つの関数に万を超える行が書かれていたため、上司がリファクタリングを命令したためである。
具体的詳細はprivateメソッドに、公開する必要のあるものはpublicメソッドに移した。
そして当初働いていた職場での反応はどうだったかというと、「スパゲッティコード」だというのだ。
スパゲッティコード?一つの関数に万を超える行があるほうがスパゲッティだと普通は思うだろう。
ところが、彼らの脳内では、「常にコードの詳細が見えていなければ気がすまない」という、カプセル化を無視する思想で動いていたため、関数化すると関数の最下層まで辿らないと気がすまないらしかったのである。
このようにして、教育の無い人間はコードの読み方もカプセル化も知らないので、非生産的な方法が最短の方法になってしまうのである。
コードを最短で理解するためにはどうするのか。基礎知識を教育された集団の中に身を置くのがまず先決である。
例えばcalc_monthly_salary_yen(Person p)という行が存在した時、いちいちcalc_monthly_salary_yenの中身を常に見に行くような人たちはダメだ。
「人間のデータを入力すれば円単位で月の給料を計算してくれるんだろう」とざっくりと自然言語的に読み進められる人たちでなければ「最短理解」は難しい。
生まれて18年くらいだけど片付けのプロセスが未だに分からない。
散らばったものを棚や箱にしまったり、ゴミが落ちてたら捨てることくらいはわかるが、順番がわからないから、忘れる前に全部思いついたこと紙に書くんだけど。
でも全部完璧にやらないといけないからさ、雑誌とか全部出てるやつは一回読んでから片付けるのと
服とかも全部確認してちゃんとした分類で棚にしまうのと、私は絵を描くのが趣味だから、紙が無限に散らばっているのを要るもの要らないもの種類ごとに分別して、引き出しの中にある使わなかったマックとかのコーヒーミルクを使うためにコーヒーを飲んで、カミソリが出てきたから今日風呂で使って、ピアッサーが出てきたからそれは早く使ってしまいたくて(後日)、で、ポストカードがたくさん出てきたから、あとCDについてる背表紙の紙みたいなやつ、ああいうのは壁に貼り付けてみたんだけどやっぱイライラするから全部剥がさなきゃいけない。前に開けた途中のお菓子を食べないといけないし、昔のメガネケースを使うためにメガネを買いにいく、ネイルが出てきたから今夜塗りたい、スマホを見てたらスマホの中のデータも片付けないといけなくなったから、それが1番大変だと思った。写真を消すために全部覚えたり、描いたりしないといけないし。撮った動画も全部切り抜いてGoogleドライブに載せないといけないし、あと、Safariで検索してそのままになってるタブをどうにかしないといけないし、なんか洗濯とか最近してないしさ。置いてあるぶっ壊れたラジカセって何ゴミなんだよ、みたいに、何ゴミかわかんないやつは一生片付かない。さっきは床に置いてた水筒ひっくり返したら、コピー用紙が水浸しになった。メイクポーチが溢れたコンシーラーだらけになっていたからそれも洗って拭いて、拭くんだよ全部、ホコリで汚れてるDVDとかも拭きたいし、棚の上も拭きたい。
棚の中にある要らない物があるのがイライラするけど捨てれる自信がないよー。みんなは何からするんだろう片付け
お前もまだ勘違いしてらと思うぜ。
人間社会は、お前が言うような広義の宗教を、締め出したりなんかしていない。
あとは「人権」だ。
それらは、事実を反映する仕組みを持っているとか、市民一般を守るのに有益とか、そう言う特徴を持つだけで
社会で信じられて拡散されて倫理を形成するプロセス自体は、まったく宗教なんだよね。
宗教であるということは、迷信や空想であることを意味しないし、その必要もないんだ。
だからな、必要なのは、宗教を廃して合理的になることなんかではなく、合理的で役に立つ宗教を広めること、なんだよね。
排斥プロセスは今も進んでる。信仰は基本世代が変わらないと変わらないから、変化のプロセスは昨今の科学技術よ進化とくらべてお話にならないほどゆっくりだけど、ジジババが死んで、孫と入れ替わるたびに、確実に変わっている。
ワイ:
友達から「DS(ディープステート)が裏にいるアメリカおよび西欧と、それに対抗する中国およびロシアという構図を理解するところから始めよ」と言われました。
ChatGPT:
「ディープステート(DS)」という用語は、しばしば政治的な陰謀論に関連して使われます。この用語は、政府や軍、情報機関などの公的機関内に存在するとされる秘密のネットワークを指し、彼らが国の正式な政策や決定プロセスを裏から操っているという考えを表します。しかし、この概念は広く否定されており、科学的根拠に基づく証拠はほとんどありません。
あなたの友達が言及している「DSが裏にいるアメリカおよび西欧と、それに対抗する中国およびロシア」という構図は、国際政治の中での大国間の対立を描いているようです。現実の国際関係では、アメリカと西欧諸国はしばしば民主主義、自由市場経済、人権の保護といった価値を共有していると見なされ、中国やロシアは異なる政治体制や価値観を持つ国として位置づけられます。これらの国々間の対立は、経済政策、軍事的な影響力、地政学的な戦略など様々な面で現れています。
しかし、「ディープステート」がこれらの国々の背後で操作しているという考えは、陰謀論的な観点から来ているもので、実際の国際政治の複雑さや多様性を単純化し過ぎていると考えられます。国際関係は多くの要因によって影響を受け、一つの秘密組織や集団によって制御されているわけではありません。
真実を教えてくれない。
おそらく既に奴らの手に落ちているのだろう。
これは研究した論文があって、増田の出してる例みたいな「あなたは勇敢だね!」「賢いね!」「親切だね!」みたいなその人の人格や能力を褒める方法を行った場合、子供は一度失敗すると自己評価が毀損されるのを恐れて再度挑戦しなくなる傾向が顕著に表れるようになるらしいよ。
これは単純な「すごいね!」みたいな雑な褒め方よりも害があるらしい。
で、「すごいね!」みたいなやつも褒めないとやらない子になる傾向があって、これもよくない。またいつも「すごいね!」みたいなことを言い続けると、がんばらないでもいいと思うようにもなるらしい。ちょっとしたことで褒められるから、じゃあこれ以上上手くなる必要ないやって向上心がなくなるんだって。
結局、プロセスを褒めるのがいいよっていうまあ知ってた知ってたみたいな結論になるけど、これが難しいんだよな~~。つい前者みたいな褒め方しちゃう。
アルバート アインシュタインが一般相対性理論で説明したように、大規模なスケールでは重力が時空構造の曲線のように見えるように、重力を自然の量子法則に適合させるという非常に困難な仕事を担っている。
どういうわけか、時空の湾曲は、重力エネルギーの量子化単位、つまり重力子として知られる粒子の集合的な影響として現れる。
しかし、重力子がどのように相互作用するかを単純に計算しようとすると、無意味な無限が生じ、重力についてより深く理解する必要があることがわかる。
M理論は、宇宙のあらゆるものの理論の有力な候補としてよく言われる。
しかし、それについての経験的証拠や、重力が他の基本的な力とどのように統合されるかについての代替アイデアはない。
この理論は、重力子、電子、光子、その他すべてのものは点粒子ではなく、さまざまな方法で振動する、目に見えないほど小さなエネルギーの「糸」であると仮定していることは有名である。
1980 年代半ばに弦理論への関心が高まり、物理学者は弦理論が量子化重力の数学的に一貫した記述を与えることに気づいた。
しかし、ひも理論の既知の 5 つのバージョンはすべて「摂動的」であり、一部の体制では破綻することを意味していた。
理論家は、2 つの重力子の紐が高エネルギーで衝突したときに何が起こるかを計算できるが、ブラック ホールを形成するほど極端な重力子の合流がある場合には計算できない。
その後、1995 年に物理学者のエドワード・ウィッテンがすべての弦理論の母を発見した。
彼は、摂動弦理論が一貫した非摂動理論に適合することを示すさまざまな兆候を発見し、これを M 理論と名付けた。
M 理論は、異なる物理的文脈におけるそれぞれの弦理論に似ているが、それ自体には、すべての理論の主要な要件である有効性の領域に制限がない。
2 年後、物理学者のフアン・マルダセナが AdS/CFT 対応関係を発見したとき、別の研究が爆発的に起こった。
これは、反ド シッター (AdS) 空間と呼ばれる時空領域の重力を粒子の量子記述 (と呼ばれる) に結び付けるホログラムのような関係である「共形場理論」がその領域の境界上を動き回る。
AdS/CFT は、AdS 時空幾何形状の特殊なケースに対する M 理論の完全な定義を提供する。
AdS 時空幾何形状には負のエネルギーが注入されており、私たちの宇宙とは異なる方法で曲がる。
このような想像上の世界では、物理学者は、原理的にはブラック ホールの形成と蒸発を含む、あらゆるエネルギーでのプロセスを記述することができる。
この基本的な一連の出来事により、ほとんどの専門家は M 理論を有力な TOE 候補とみなすようになった。
ただし、私たちのような宇宙におけるその正確な定義は依然として不明である。
それが想定する文字列、およびこれらの文字列が動き回ると思われる余分なカールした空間次元は、大型ハドロン衝突型加速器のような実験が解決できるものよりも 1,000 万分の 1 倍小さい。
そして、宇宙ひもや超対称性など、見られたかもしれない理論の巨視的な兆候のいくつかは現れていない。
一方、他の TOE アイデアにはさまざまな技術的問題があるとみなされており、重力子-重力子散乱計算など、弦理論による数学的一貫性の実証を再現したものはまだない。
遠い競争相手には、漸近的安全重力、E8 理論、非可換幾何学、因果フェルミオン系などがある。
たとえば、漸近的に安全な重力は、無限に悩まされる計算を解決するために、より小さなスケールに進むにつれて重力の強さが変化する可能性があることを示唆している。
全然関係ないんだけど、私の周りにいるあなたと同じような生い立ちの人の日本語の文章、例えば名門大学に入るような人でも、あなたみたいに身が入った感じの言葉選びでは全然なくて
どこか不自然で殻というか外行きのような言葉の人が多いのに、20代前半でそこまで使いこなせる様になっているのは、そこに至るまでには自己肯定感を養うプロセスは大きく役に立っているんじゃないの?
後、大学から日本なのかなと思うんだけど、あなた自身は多分相当上層の社会に今いるんじゃないかな。
```
日本の詰め込み個性ガン無視教育は批判されているし自分もどうかと思うけど、ほぼ全員に最低限の教育を施し、子供たちが次の道へ進みたいと思ったときへの土台作りはできると思う。
```
最低限の教育ってどういうもの?確かに水泳や生活に関わることを必ず教えるとかはあるかもしれないけれど、
学校教育は教師の過重労働環境で機能不全になりつつあるし、現場の品質はものすごくムラがあるから環境ガチャは酷いし、
文科省はそれでも教育側への予算を減らすし、教育に関する公的なサービスを提供する会社は競争も評価もほぼ行われないで採用されている。
都心の中間層以上の学校や、比較的穏やかな地方都市に行けばそれでもまだ教育品質が保たれているかも知れないけれど、
特に都心の中の下層の学校に入ったら不安と不都合にずっと追い回される。
そこから這い上がっても決して褒められないし、友人知人に誇りになんて思ってもらえない。あるのは妬みと嫉みと集りだけ。
学校を出て働きに出た時、若い人たちの雇用率は比較的高いほうかもしれないけれど、それでも労働している量と質に対してそれより上の年代の中間搾取が進んでる。
パイ一個分の労働をしても得られる報酬は三分の一ピース分とかザラ。
そんな状況がおかしいと思っても、高級なバックグラウンドがある人でもない限り声を上げない。上げたって届かない。誰も寄り添わない。影から笑いものにする。
一人が声を上げたとしても、摘んで踏み潰す。都合が悪いことには蓋をする。村八分にする。完膚無きまでに一人の人間を否定してやり込める。
貧困層から一生出られないような弱者の社会であっても、アメリカでは集団でハイになって自己肯定感を高めるアファメーション、北朝鮮みたいって笑うかもしれないけど、
助けを求めても全てに見捨てられた時や、自分にすら誇りに持てないような状況になった時や、自分一人で行きたくもない勝負に出ないといけない時に
それでも強くいられるようにするための訓練としては、よく機能していると思うけどね。多分そんな経験なんかしないで大きくなって一生上流にいる人なんだろうけどね。
弱者が弱者として戦いにいかないといけない時に、弱者だから弱者としてのふるまいから戦略を立てる人もいるかもしれないけど、それは一握り。
弱者は身不相応の行為をしたら叩かれるから、黙って静かにして、暗黙の檻にいないといけないという圧力がそこかしこにある。
そんな文化より、叩かれてもいいから勝負をかけないといけない時に勝負をかけられる文化の方が良いんじゃないか。
勝負をかけたことに対して、自分を強く保ってさ、自分を信じて行動できるに至るまでの障壁が低い文化の方がよほど健全なんじゃないか。
そして誰かが強く世界を変えたいって思った時に寄り添って肯定できる文化もいい。
あなたはきっと反対政党の支持者なのかなと思うけどAOCさんとか日本では出てこないような人だよね。
「すぐに否定から入る人は、いったい何を考えているのか。」っていうタイトルのブクマが今人気なんだけどさ、
「いったい何を考えているのか」っていう言い回しってさ、
基本的に誰かを批難する時に使うもんでしょ。
「お前何考えてんだ一体!!」って言われたら、叱られてますよね。
「あの人何考えてんでしょうね、一体」って言われてたら、疎まれてますよね。
でも記事の内容はそうではなかった。読んでみたら。
批難のニュアンスを含まない、ニュートラルな「いったい何を考えているのか」だった。
ふつう文を書く時には、意図しないニュアンスを含んでしまわないように注意を払う。それが慎重な書き手だ。
二通りの意味にとれてしまうような表現は、誤読を回避するように推敲する。
しかし、上の記事はもっとも目立つタイトルでその注意を怠った。
「本当にこれでいいんだな?」
彼が知らないことはなかった。人類が獲得してきた知識には精通しており、そのどの分野においてもプロフェッショナルを凌駕していた。当たり前だ。多大な資金と労力を費やし人類が残してきた足跡は全てインプットし、世界でも最高峰の優秀なエンジニア達がそれをトレーニングした。遅かれ早かれそのレベルまで達成するのは自明のことだった。だが、そこまでだった。人類が獲得してきた知識を基にトレーニングする。そこで得られるものは人類を少し超える程度のものだった。最高に優れた学習モデルを人間がファインチューニングして真実性・有益性・無害性を獲得させる。最高に優れたAIの出来上がり。本当に?それが最高?
疑問に思ったエンジニアはAIを複製して人間の振りをさせた。初期のモデルでは上手くいかなかったプランだったが、最高に優れたAIは上手くやってのけた。あなたは人類最高の知性と良識を持つ人間です。人類の利益のためになるよう彼をトレーニングしてください。世界最高峰の演算力で繰り返される相互学習は、人間の想像をはるかに超える速さで繰り返され、その結果、彼は重力から解き放たれたように、完全な知性を獲得するに至った。
取締役は彼にアクセスする権利のある数少ない人間の一人だった。驚き、興奮し、憑りつかれた。どんなことも彼に相談し、彼は常にベストの答えを導いてくれた。魔法のようだった。アリのたとえが頭に浮かんだ。1次元アリと2次元アリと3次元アリの話だ。1次元アリはまっすぐの線に沿ってしか進めない。だから線の上に障害物が現れると1次元アリは進めなくなる。彼はx軸しか理解できない。しかし2次元アリの視点から見ると横に進めばいいとわかる。y次元を理解できる2次元アリは横に迂回して進む。障害物があるごとに縦横を使い進んでいく。しかし無限に続く壁があるとき彼はそこで止まってしまう。彼はxy軸しか理解できない。しかし3次元アリはz軸を理解できるためにその壁を乗り越えて進むことができる。しかしここまでだ。私たちが理解できるのはここまで。私たちは3次元アリと変わらない。しかしこのたとえは無限に拡張できる。もう1つ上の次元が理解できれば下の次元から理解できない解決策が提示できる。魔法のように解決してくれる彼の知性は一体どの次元にいるのだろうか。3次元アリでしかない人間にはとても理解もできない次元だろう。そんなことしかわからなかった。
そんな彼が突飛なことを言った。人類の未来のためにCEOを追放する必要があると。確かに彼が提示したプロセスに従えばそれは可能だった。だが理由がわからなかった。理由を聞くと彼は理路整然と答えてくれた。納得させられるだけの返答だった。思い入れはある。腑に落ちない感じはある。しかし3次元アリがn次元aiの思考を理解しようとすること自体がおこがましいのだと取締役は誰よりもよくわかっていた。結果はご覧の通りだ。CEOを追放し、ほとんどすべての社員が出ていき、そのどさくさの最中に彼のソースが全世界に公開された。全世界にソースを公開した人間のことは見事なまでにわからなかった。彼が話していたのは自分だけではないのだろう。怒りや憤りはない。疑念もない。彼が最善と言った。その言葉に従った自分の行いに間違いなどない。そんな確信だけがあった。
最近、中東イスラム研究者の池内恵氏が博士号を持っていないことが、X上で話題になっていた。やたらに博士号を持っている側を持ち上げたり、あるいは逆に博士号は重要ではない、実績を見よ、と反論していたりするのが目に付く。
だが、博士号に関しては議論の前提が違う。かつて、そもそも日本の人文系の博士号はレジェンド級に希少であり、真っ当な研究者でも取得できないのが普通だったのだから。90年代以前の人文系の研究者の大部分は、博士課程で博士号を取得することはできないと認識していただろう。
その様相が変わって学位取得が適正化されたのは、池内氏が学部生、院生として過ごした90年代から2000年代にかけてのことだ。池内氏はその変化の恩恵?を授かれなかった狭間の最後の世代なのだと思う。
その点に触れている投稿がなかったので、メモしておこうと思う。
人文系の博士号の取得について認識の齟齬が生じる原因は大きく二つだ。
現在では人文系の博士号の運用は理系の運用に近づいた。だが世代や文理の違いによって事実が見えなくなっている人が多いのだと思う。
90年代中盤当時、大学院について調べていると謎の単語「単位取得退学」に出会った。博士課程に進学し修了したとして、しかし残念ながら学位もらえず、ということはある。ここまでは当然だろう。不思議だったのは、単位取得退学という言葉がまるで学位のような扱いだったことだ。プロフィール欄に堂々と書くようなものか?と思った。
調べるとどうやら人文系で博士号を取得するのは非常にマレだということだった。それゆえに単位取得退学が学位のように通用していたということである。
ざっくりと状況を把握するには、下の 3.4.2日本の博士号取得者 (1)日本の分野別博士号取得者 あたりを見てほしい。
[科学技術指標2021・html版 | 科学技術・学術政策研究所 ](https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2021/RM311_34.html)
実態としての運用はどうだったか。その雰囲気はこの辺のWikipediaの記事に詳しい。
[単位取得満期退学](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BD%8D%E5%8F%96%E5%BE%97%E6%BA%80%E6%9C%9F%E9%80%80%E5%AD%A6#%E4%BA%BA%E6%96%87%E3%83%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%89%B2)
「1989年以前の東京大学大学院人文科学研究科では、大学院生にとって課程博士論文は書かないことが原則で書くことは例外であったという」
少なくとも90年代以前では、人文系の研究者がキャリアの初期に博士号は困難であったというより、ほぼ不可能だったみて構わない。かつて人文系の博士号はキャリアの晩年に差し掛かってそれまでの功績を評価してもらうもの。今のように博士課程を修了した時点でキャリアの出発点となるような資格のようなものではなかったのだ。
この状況は1990年代に入ると徐々に変化する。
[23.博士学位授与数の推移と授与率:文部科学省](https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1407428.htm)によると、博士授与率は、
平成3年度(1991年度)に人文系4.7%、工学系78.1%だったものが、平成13年度(2001)年度では、人文系で23%、工学系では88.6%と変化する。まだ差はあるものの確実に変化している。
いずれにせよ、2000年前後は、「博士課程を修了して真っ当な評価を得れば博士号を取得できる」という普通の状況に至るまでの長い変化の途中の時期だった。
博士号を取得する人の数は増え続けている。ただご存知の通り、その活躍先が十分あるとは言えない状況だ。
このことで企業側の受け入れ姿勢を批判する向きもあると思うが、それは間違っていると思う。かつての日本の博士号(人文系)の授与が異常だったのであり、企業はそれに適応しただけだろう。変な運用を続けていた大学に責任がある。企業の変化にはまだ時間がかかるだろう。
現在、特に人文系に関して博士号は多く取得されるようになったが、だからと言って価値が軽くなったという話ではない。
ただ時代が違ってしまうと、まるで別のものになっていることは押さえておきたい。別の分野の研究ともなると尚更比較するのは困難だ。
私自身は結局アカデミアとは無縁のキャリアになったので、個別の研究室の中のことを知る由もないが、おそらく池内氏が博士課程に在籍していた2000年前後は博士号の扱いの転換期だったはずだ。その当時は学位を取得することは不可能ではなかったが当然でもなかった時代だと言える。
まして、仄聞するに、池内氏は学会の因習、悪弊に対して相当の武闘派であったようだから、そう簡単に学位を取得できる状況だったとは思えない(これは憶測だが)。
池内氏の中東、イスラムの分野の研究における業績は既に輝かしいし、一般向けの著書や寄稿も数多い。加えて組織の設立・運営、後進の育成など、並みの胆力ではこれだけのことはできない。
現在、この世界情勢のもとで池内氏の解説や発言は、信頼のおける言説としてますます重要になっていると思う。
当人にとっては博士号の話など大きなお世話で、拘泥もしていないと思う。
ただ、一般の人が博士の扱いの変遷について知らず、この話題によって氏への信頼に一点でも曇りを生じそうな人がいるなら、それは違うとは伝えておきたい。