はてなキーワード: トリエンナーレとは
を規制したい訳でもないです。
ただ、日本に対してこのような表現を許容することが、現在の「日本が憎悪される苦痛」の温床になっていることを知ってほしい。
国家が憎悪されることの苦痛を他国人にわかってもらうのって難しい事だと思ってます。
憎まれることを受け入れている人々もまた、私のような事をいちいち言う存在は煩いことでしょう。(でも、煩いと感じるということは、憎まれることで傷ついた事があるからではないでしょうか)
反日、天皇が駄目なんでしょ、お気持ち案件、と言われるのが耐えられず長文を書きました。
トリエンナーレという公的な場で、日本への憎悪をあおることを許容する描かれ方をしている点です。
天皇の絵を自画像だと言い張っても、慰安婦像は反人類的な少女像といいはっても、最初に使われた日本憎悪としての情報は残ります。
つまり、作品全体が日本を嫌悪的に見ており、また作品の解説もそれを許容している表現が公的な場に相応しくない、と言いたいのです。
日本を憎むことは普通の事なんだよ、という教えが公的の場におかれていることが問題なんです。
当たり前のように世の中にあったら、それが当たり前なんだ(文句を言う方がナンセンスなんだ)と思ってしまいませんか?
若い頃からそういった環境に身をおいていると、段々感覚が麻痺してしまいます。
韓国向け雑誌など、意図がある媒体で表現されているのは問題ないです。
韓国向け、という意図があるので、当たり前なんだ、とはなりにくいです。
日本を憎悪的に消費する絵が公的の場に置かれ、許容されている事が問題なのです。
現実の日本人は公的な場で、嫌悪的に見られることを許容していませんよ。
その言動が愛国的だったとしても、その人が良いと思っていっているのであって、反日家に消費されたくて言っている訳じゃないです(あくまで公的な場では)
私もオタクなので、表現が規制されることに怯える気持ちはわかります。
受け手にとって都合の良い表現を生活の糧にしている気持ちもわかります。
そういうものを、見たい人が自分で選択して見ることは良いことだと思います。
ただ、公的な場において公的なコンテンツですよ、と展開されていることが問題なのです。
小さい頃からのこういった刷り込みで「日本は嫌悪的に消費しても怒らない存在なんだ」「日本は嫌悪的に消費されるのは当たり前の事だから怒ってはいけないんだ」という意識が少しずつ形成されていくと思っています。それを危惧しています。
今までは許されてきたことなので、感覚が麻痺してしまうのもわかります。
実際、私も数年前までは何が問題かわかっていませんでした。
感情論にせず、言語化して訴える人がまだまだ少ないからだと思います。
こういう造形を公的な場で起用しても日本人は怒らないと思われているんですよ。
些細なことだとは思うし、今までのように目を逸らしてやり過ごすこともできます。
ただ、それだと日本は嫌悪的に消費されることによって傷つく社会を変えることができません。
日本人だから、という理由で無用に傷つきたくない、傷つく人を減らしたいとおもっています。
反転可能性として
答え合わせ編も書いたよ! 20191027021610
最近話題になっている宇崎ちゃんの献血ポスターの件なのですが、こういった事例は「自分がターゲットではない広告」への不快感が根底にあると思うのです。
基本的に広告というものは、ターゲットとする人々の欲望や強い興味を喚起する事を目的にして作られます。
そして他者の、特に異なる価値観を持つ人の欲望や強い興味は不快なものです。
今回の献血ポスターは「宇崎ちゃんは遊びたい!」という作品の読者やこういった作品を好意的に受け取る人という、比較的狭い範囲の人々をターゲットとした広告だったと思います。
そうである以上、ターゲットの範疇に入らなかった人にとって、今回の宇崎ちゃんのポスターは多かれ少なかれ不快感を与えるものだったと思います。
ですから、実際に「このコラボを今すぐやめろ!」と声高に発言するかはともかく、不快だと感じる事自体はむしろ当然起こり得る反応だったと思うのです。
では不快に思う人が居るという事を理由として、広告を出した企業や団体はこういった広告を取り下げるべきなのでしょうか?
私は広告を出した企業や団体が、自分達の価値観や立場に応じて判断すべき事だと思います。
広告を出した事へのメリット、デメリットを勘案した上でより良い、もしくは最悪ではないと信じる方を選ぶしかないのだと思います。
当たり前といえば当たり前の事なのですが、決定権は私達の側にはありません。
無論、こういった広告を公の場に出すべきではないという価値観が社会全体において支配的なものとなったのであれば、法や条例での規制という話もでてくるでしょう。
しかし、私は今はその段階には至っていないと思いますし、仮にそうなったとしても法や条例で規制すべきとは思いません。
その為には他者の価値観がどれほど不快であっても、それが社会の秩序を著しく脅かさない限り許容しなければなりません。
あいちトリエンナーレの様な例でもそうですし、今回の様な広告という形でも、可視化された価値観として社会は許容しなければならないと私は考えています。
ここまで読んでくださったみなさんには、きっと分かってくださることと思うが、メッセージはときに、発信者の意図しない隠れたメッセージを伝えてしまう。
発信者が意図しないメッセージを読解して傷ついた人がいたとしても、発信者がすべきなのは「これはこういう意図ですよ」という説明をすることだけであって、「誤読して傷つく人がいるからやめよう」ということではない。
そんなこと言い出したら「誤読されうる表現」は全て公共の場に出すことを禁じられてしまう。あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」なんかまさにそれだし、実際誤読した人によって抗議や脅迫があったわけだけど、だから「表現の不自由展は公共美術館にはそぐわないから排除しよう」となるべきではないはずだ。
ずっともやもやを抱えていて、アート界隈の方の上から目線の「アートを知らないお前らを啓蒙してやるよ」的なエントリなどいくつか読んだのですが、
全くしっくり来るモノがなかったので、自分なりにまとめてみようと思いました。なお私はアートについて全然詳しくありません。
まず大前提として、これから話されるのはすべて自主規制の話です。公的な検閲の話ではありません。
あいちトリエンナーレ補助金交付取りやめなどといい出したことは完全にfuckです、あれは表現の自由の侵害以外の何物でもありません。
そういった話とは別に、他者を傷つけるような作品はクレームを受けたら取り下げられるべきか?どこからがアウトなのか?という、自主規制についての話をしようと思います。
宇崎ちゃん献血ポスターも表現の不自由展も、どちらも市民からのクレームに端を発する話でしたよね。
マーケティング界隈の言葉ですが、世の中の情報は大別すると「pull型」と「push型」に分かれます。
「pull型」というのは、対象者が自分から見ようとしなくても目に飛び込んでくるたぐいの情報で、広告ポスターやテレビCMなどがそれに当たります。
「push型」というのは、対象者がそれを目当てにして自分からアクセスしなければ目に入らない情報で、映画や演劇、美術展などはそれに当たります。
前者はパブリックな物で後者はプライベートな物とも言えるでしょう。
欧米では、ジェンダーロールの強化を招くような要素が入ったものが苛烈な批判にさらされて、掲示を取りやめさせられたりすることがよくあるそうですが、
これは主に「pull型」の、テレビやインターネット広告などに於いての話です。黙っていても目に飛び込んでくる情報だからということですね。
そう聞くと、「その程度で規制するのか」とギョッとする方もいると思いますが、日本で言えば東日本大震災の映像などはそれに当たるでしょう。
2011年3月11日から数日間、テレビは繰り返し被災地の悲惨な状況を流し続けました。それは報道の使命であるという矜持に基づいたものだったでしょうが、
あまりの惨状に心を痛め、PTSDになる人が多くいたことが国立病院機構災害医療センターの調べで報告されています。
そのような事態を受けて、BPOは各テレビ局に「震災報道ストレスについての注意喚起の要望」などを出していますし、実際テレビ局内部でもそのような懸念から配慮が話し合われたことでしょう。
かと言って、震災についてもっと詳しく知りたいという人間が書籍や記録映像などでその情報にアクセスすることは規制されるものではありません。
嫌でも目にしてしまう「pull型」の情報は規制が厳しいが、自分から見に行かなければならない「push型」はそうでもないよ。ということです。
宇崎ちゃんポスターは前者、表現の不自由展は後者に当たると思います。
というわけで「pull型の情報には自主規制がつきもの」ということは納得いただけたと思います、ではどこからが規制されるべきなのかという話です。
「宇崎ちゃん献血ポスター」は「pull型」の情報ですが、あれは規制されるべきなのでしょうか?
かつては、ゴールデンタイムのテレビでも女性の裸が平然と出ていましたが、いまはそういうことはありません。出すべきだという人もあまりいないでしょう。
「チャタレイ夫人の恋人」という小説が「わいせつ過ぎる」という理由で発売禁止を受けた時代もありました、いまはあの程度の内容でそんなことにはならないでしょう。
つまり、何を規制すべきかすべきでないかは「その社会の市民の意識によって絶えず変わっていく」としか言いようがありません。
宇崎ちゃんポスターについては、あれを性的過ぎると思う人もいれば、そんなことないと思う人もいて、単にオタクが気持ち悪いと思う人もいるでしょうが、
(個人的な感想を言うならば、「あの程度で性的消費なら男女ともにアイドルとか表で活動できないよな」と思いますけどね。)
と、大体このような補助線を引くと議論に筋が通りやすいのではないかと思いますが、どうですか?
ただ、
・「pull型」と「push型」に明確に峻別出来ない情報はたくさんある。(雑誌の表紙はどっちなのか、大きく広告を打ち出しているような大作映画は本当に「push型」でいいのかなど)
・「push型」でも規制される場合はある(暴力的ゲームなど)
という二点は一応付記しておきます。
表現の自由戦士はあいちトリエンナーレを全力で擁護してたんですが。あなたには何が見えてるんでしょうか。
まあ献血ポスターは表現の自由の問題では(あるけどそれは本質では)ないよね。どちらかと言えば対人性愛規範(ノーマティビティ)の問題。「二次元性愛は対人性愛のおまけなのだから、対人性愛を前提とした社会の常識に合わせるべき」という規範を批判しないと。
自由主義増田です。とりあえず、元の増田だけじゃわかりづらい文脈だけ補足しておきます。
これはもともと、anond:20191016112942とか、anond:20191016115936とかから派生した議論なんだよね。
つまり、「見たい自由が尊重されるべきというなら、見たくない自由も尊重されるべきなんじゃない?」と元増田(なぜか消しちゃったけど。消す必要なかったのに)が主張していたので、いやいやその2つの自由は対等じゃないんですよ、前者の方が重んじられるべきなんです、ということを説明したのが、100ブクマくらいは行ってほしいけどまあ無理かなと思っていたらまさかの800ブクマ超になってしまった例の増田(anond:20191016163058)です。
だから、実はこの件の批判者全体に対してこの理屈で押し通そうとしてるわけじゃないんだよね。あくまで「見たくない自由はありまぁす!」増田に対して「そんな自由は(見たい自由と比べて)尊重に値しません」って言ってるだけ。
追記で色んな論点にも言及してるけれど、基本はこの文脈の中でなされていた議論なわけですよ。
だって太田弁護士は、子供に見せたくないとか見ない自由とかそういう理路で闘ってたんじゃないよね? 私の議論の射程にはもちろん太田弁護士のふるまいも入っているけど、「見たくない自由は見たい自由よりも軽い」なんて太田弁護士への直接の反論になってないじゃん。私の反論はあくまで元増田の設定した「見たくない自由」というフレームに乗っかったもの。自由主義の前提について基本のキから解説したのも元の増田がよくわかってないと思って解説する必要があると思ったから(まさかブコメでもわかってないやつが大量発生するとは思わなかったけど)。もし太田弁護士に直接的に反論したければ自由主義の解説なんぞ本筋じゃないからすっ飛ばして「別にセクハラではない」とかそういう性差別とは何ぞやみたいな論陣を張っていたはずだけど、実際はそうしていないわけで(もちろん私は太田弁護士に対しては「セクハラじゃない」と大いに反論したいところだけれど、少なくとも今回私が相手していたのは彼女ではない)。
当然、私はなるべく一般妥当性を持つように議論を組み立てているし、単なる元増田への回答という枠を超えてより広い問題に当てはめ可能な議論をしている(つもり)。だから自分の議論に大した意味はないと言うつもりは毛頭ない。でも、議論の枠組みとかそういうものはどうしても議論の発端に縛られている。
これは一部のブコメもそうなんだけど、みんなあいちトリエンナーレの作品への批判には文脈読めとか言うのに明らかにツリーの一部である増田の文脈は読んでくれないのはいったい何でなんだぜ……? まあ今回は前の増田が消しちゃったせいでツリーが追いにくくなってるから仕方ないのだけれど……
胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。
自由ってなんだ??
割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念を提唱している。
詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに
の違いね(cf. anond:20191017201230)。
現代の自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要な自由とされている。
これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。
というのは積極的自由に属する。
その環境を増田が個人の努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者の消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。
積極的自由と消極的自由ならば、基本的に後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由に後者を制約すべきではない。そして、増田が子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。
(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかからず健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府に強制されたくない」という消極的自由が対立する局面を考えてみよう)
ところで、
思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本は天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。
その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人の自由に口を出すなと言われるわけで。
なので、
思春期前の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?
「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人が自分の敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者の消極的自由を侵害してよい理由にはならない、という話になる。
何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。
「多様性を見たくない人も多様性に勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義を破壊しようと主張する政党を民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者の消極的自由を損なわないという前提のもとで。
なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティが存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュのコミュニティとかと同じで。
ところで、私たちが暮らすこの日本はゲーテッドコミュニティではありません。
人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人を誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。
既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本が無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?
私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!
はい、それもあなたの自由ですね。宇崎ちゃんのポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。
これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスターを批判する自由もある。要望を無視したり批判に反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明になっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう。
消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加の自由」とか「健康で文化的な生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。
いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為が消極的自由か積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由の保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権は国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味で夜警国家やリバタリアニズムは支持できない。
ポスター非難派の言い分はとどのつまり「他者の消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者に優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味
上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。
じゃあ「山間部の過疎地に政府が十分なインフラを整備していない」と「政府が過疎地の住民を強制移住させる」だったらどうよ。
前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。
言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由の侵害で後者が消極的自由の侵害です。消極的自由が積極的自由よりも重要な自由であるのは当然ですね?
(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)
わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。
レーガン大統領はカリフォルニア州知事時代にそういう理由でバイクのヘルメット義務化法案に拒否権行使してますね。
個人的には、子供には自己の生命・安全を危険にさらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人がシートベルトやヘルメットをつけるもつけないも個人の自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカがシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売の自由。
概ね同意だけど、最後のシートベルト義務化の話、日本では車対車の事故で死亡事故だと相手の運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由を制限する合理的理由があると俺は思うね
相手がシートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合は情状酌量で減刑すればよいのでは……。
シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費、障害、家族の貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。
ここでは合理性の話ではなくて、自由と自己決定権の話をしているので……。
そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義の優越」というのがある。
何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。
大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人の自由を侵害しないかぎり、自分の道徳を追求する自由と権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。
だから私は一貫して、最初の増田がどんな性教育を子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供の権利を侵害しない限りにおいて自由なので。
でも、それを口実にして他者の自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。
そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇の写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由に作品を撤去させたりしてはいけない。右翼やフェミニストが雑誌やブログに「この表現がいかに許しがたいか」みたいな文章を掲載する分にはどうぞご自由に)。
オタクって自由主義者が多いと自分基準で勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的な認識を示したり、自分に興味がないイシュー(博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ物頒布罪と同様に単純賭博罪は廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博を合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女のイラストをお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。
しかし例えばリアルな死体や糞尿の画像をレストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニングの問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?
私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物の屠殺写真を展示するのは表現の自由だと思うよ。
肉フェスのときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現の自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。
当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間を自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。
刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。
なんで「他人の自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。
自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることなく公衆浴場に入る権利」よりも「刺青を理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場の光景が自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間に自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かに望まれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要。
刺青も少女像も巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由を制限しようとしたがるんですか?
ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品はネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。
もちろんあなたのフォロワーにはネタバレを理由にあなたをリムる自由がある。
100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田。原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう。
ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現の自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的な施設は抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツの強制もヒールの強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制派からあいトリの天皇アートも日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。
見たくないヤツの"お気持ち"で規制されるなら、トリエンナーレの"芸術"の規制も地続きだからな。
「不快に思う」位じゃ表現まで規制まではされないのがリベラルだろうに「ドリフけしからん!」って言ってたPTAみたいな事言い出しているんだろ?と思う。
見たくないと思っている人の事を否定しないでほしい。
別に見たくないというのはそのひとの勝手だし否定してないけど、公共空間に掲示することが見たくない人のことを否定したことになるのなら(はい条件法ですよ)、公共空間から撤去することは見たい人のことを否定したことになるじゃん。
なんで見たい人の権利と見たくない人の権利を比べてデフォルトで後者の方が優先されないといけないということになるの?
色んなものがあるのが公共空間でしょ。雑然としていて多様性があって、それぞれの人がそれぞれの不快感を抱えながら過ごすのが公共空間でしょ。
あの場合は「意見を出し合うのを目的とした芸術作品をお金を払って見に行く」
という事かなと…うーんこの件とは別件だと思う。
手ひどい裏切りだよね。
私はあいトリの会場にある芸術作品について別に不愉快だと思ったことはないけど、不愉快だと思う「表現の自由戦士」も大勢いたと思うんだよね。
でも彼らは「あいトリの表現の自由は守られるべきだ。たとえ不愉快な表現であっても」という論陣を張った。
それなのに「それはそれ、これはこれ」でこちらの自由を制約しようと試みるんだ?
本当に手ひどい裏切りだと思う。そりゃないよ。
でも優しくて快適な世界が良い。
ああいう画像が公共空間に堂々と掲示される世界が俺にとって優しくて快適な世界です。
何を優しいと感じるか、何を快適と感じるか、それは人それぞれで、だから表現の自由っていうものがあるわけなんだけど、無条件に「見たくない人の権利」を上位に置くあなたはいったい何様なの? というね。
ああアホらしい。全くもってアホらしい。
何がアホらしいかといえば、例によってはてブの連中のことである。
あいつらここ数か月のトレンドであった表現の不自由展騒動を通じて少しは賢くなったかと思えば、全然そんなことはなく以前の位置から1ミリも動かずに、以前と似たような話題で延々騒いでやんの。
言うまでもなくhttps://togetter.com/li/1417228のことである。
例によっていつもの太田啓子弁護士の適当に難癖を付けて周囲のフェミニストを焚き付けて、いい感じに燃え始めたら自分はつぶやきを消して「え、私、そんなこと言いましたっけ」となかったことにしようとする火付けしぐさなんだから「はいはい、いつものね」と黙ってスルーしておけばいいのに、こぞってブクマをつけまくってやがる。
まあ炎上と喧嘩ははてなの華であり、この手のエントリに大量に集ってしまうのは蟻が砂糖に群がるのと同列の種の本能レベルなので仕方がないのかもしれない。
しかし、群がるのは仕方ないとしてもこの手の騒ぎはもう何十回も繰り返しているのだから、多少は認識をアップデートしてもらいたい。
しかし、はてブの馬鹿は馬鹿なので今回の件が表現の不自由展とは全然別物だと考えているのだ。はははは、馬鹿だ。
はい、馬鹿丸出し。確かに「表現自体を許さない」とのたまったネトウヨもいただろう。立川流を名乗るワイドショーのコメンテーターもいただろう。
だがそんな過激な言い分はまともに取り合っている奴らはほとんどいまい。
クソ馬鹿がクソ馬鹿なことを言っているだけなのだから黙殺して何ら問題ないし、この程度であればいくらでも反論可能だろう。
あいちトリエンナーレの一連の騒動で、一番問題になったのはそこではあるまい。
あの騒動で真にクリティカルな問題提起は「こうした表現に税金を使うのはおかしい」というものだ。
実際こうした意見に同調するかのように文科省は補助金を打ち切ろうとして非難囂々である。
そしてこのような「こうした表現に税金を使うのはおかしい」という考えの裏側にあるのは何か?
それは、この世には『良い/悪い表現』『許される/許されない表現』があるという考えだ。
もちろん世の表現にはR-指定や18禁といったように、特定の基準で明確に線引きが行われることもあるが、それはどちらかといえば例外であろう。世の大半のアートや表現がでそうした線引きが成されず曖昧なままであることが多い。
にもかかわららず、アートや表現に対してこのような線引きをして、弾圧・規制される。
それに対する問題提起こそが「表現の不自由展」のテーマの一つだったはずなのに、それを無視して「表現自体を許さない」という一番馬鹿げた非難を持ち出して「まったく違う」などと主張してしまっている。わはははは、馬鹿だ。
表現の不自由展にしろ宇崎ちゃんのポスターにしろ、世にある表現を良い/悪いに切り分けて規制しようとする。
この二つの問題について「まったく同じ」というつもりはないが、「まったく違う」はずがないのである。
そんなこともわからないようであるなら津田大介も草葉の陰で泣いているであろう。
あとついでにこのアホな。
tikani_nemuru_M id:memorystock 「公権力による規制と大衆からの批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違いを指摘したブコメを見ても「きちんと言語化出来る人がおらず」とか口走るから「表現の自由戦士」っていわれちゃう。
と、例によって上から目線でドヤ顔を披露しているがここでidコールされているmemorystockが問題視しているのは、
memorystock この絵やキャラを守りたいのではなく、規制理由をきちんと言語化出来る人がおらず「NGじゃん」「本当に嫌」が規制派トップなのはアレすぎではと危惧するものです。挙句「戦士」↓のような無意味な侮辱に逃げるし。
とあるように、あのポスターの批判派がポスターを撤去するだけの理由をまともに言語化していないことである。
だから、もし彼の意見に反論したかったら、あのポスターを撤去に値するだけの理由をきちんと言語化して批判する。
あるいは、既にきちんと言語化出来ている批判意見を持ってくれば良いだけなのだ。
にもかかわらず、相手が「規制理由」と書いたのをいいことに「公権力による規制と大衆からの批判」の違いを理解していないなどとドヤ顔で上げ足を取るのは、詭弁以外の何物であるまい。この件についてまともに話し合いたいのではなく上から目線で小馬鹿にしたいだけというのがはっきり伝わってくる。
また「 「公権力による規制と大衆からの批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違い」などと抜かしているが、他のブコメでも指摘されたように、そうした大衆からの批判が公権力による規制に繋がる危険性が炙りだされたのが表現の不自由展ではなかっただろうか。
文科省の補助金不交付にしろ、河村市長の座り込みにしろ、いずれも大衆からの批判がなければまかり通るものではあるまい。
もし、大衆からの批判が皆無な段階でこのような横紙破りを行えば、新聞各社は文科省に対する批難を毎日のように一面で展開し、河村市長にはリコールが飛んだであろう。
そんな危険性をつい最近目にしたにもかかわらず、得意げに「「公権力による規制と大衆からの批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違い」などと抜かしているから本当に薬のつけようがない。そんなんだからいつまで経っても労働組合が政治運動をする理屈の続きが書けないのである。
ああアホらしい。全くもってアホらしい。
・天皇陛下はそれなりに好き
・表現の自由は具体的な損害を出さないのであれば最大限認める(なので「俺は不快だ」では制限する理由にならない)
・公共の福祉に反しない限り多様な考え方を社会は許容すべきなので税金使うのも別によい(自分の考えに相反するものでも)
ってとこ。
ネトウヨは天皇陛下写真を焼くとは!反日反日!とか大村津田断罪断罪!とよく言うてる。
天皇の写真を焼いた〜云々は、説明文を見ればわかるように別に反日の意図はさほどなく、天皇の写真を使った作品を富山県議会に焼かれたのを再現した作品。
なので「さほど反日の意味ないですよ」とネトウヨっぽい人にツイッターでリプを送ってみたが、返ってきた返事は
と話にならなかった。
あまりにお前は左翼!左翼!と言われるので(前の選挙は自民にいれたんだけどな)ちょっと実験してみることにした。
ツイッターでネトウヨ垢を作り毎日ネトウヨ発言を2週間ほどして、その上でネトウヨな皆さんに「天皇を焼いた作品はさほど反日の意味ないですよ」と振ってみた。
一般人垢な前回はやたら左翼だ!アホだ!反日だ!と返ってきたのに、今回5人ほど送って、誰からも反応がなかった。こいつらどういう思考で動いてたの?人間、ウヨサヨしかいなくてどっちの考えも混じってる人間なんて想像できなかったの?何フリーズ起こしてんの?
ここでいう「自費でやれ」は税金を使うことに対して言ってるので、それを否定するのは「納税者は払った税金の使い方に文句をつけるな」ってことになると思う。
↑このコメントが一番スターを集めているのでコメントしたいけど、それは芸術についての議論と、立憲主義についての議論を混同していると思うよ! 僕は法学の方が得意なのでコメントしておくと、納税者は税金の使い方に文句をつける権利はあると思う。しかしそれは、個々の芸術に口を挟む政権にこそ向けるべき。芸術に対する判断は、アホには出来ないって言うのが元増田の立場だと思うし、現政権にできるわけねーだろと思う。
芸術はその場で鑑賞しなければ、まっとうに批評することができない。図録でわかるのは、そんな作品があったってことだけだ。その作品がどのような芸術性を有していたのかをきちんと判断するなら、その作品に向かい合える空間に足を運ぶしかない。もし僕の友人の作家たちが、図録だけでその作品の芸術性を判断されたとしたら、たとえほめられても喜ばないと思う。いや、ほめられたらちょっと喜ぶか。でも、作品の本質を理解したとは考えないだろう。
その点、今回あいちトリエンナーレに対する補助金不交付を決定した文化庁は、我々が芸術をその場において鑑賞する権利を奪っている。すなわち、本来の意味で芸術を批判する権利さえ奪っているという点で、芸術に対する冒涜と考えられる。そのような文化庁の決定に対して、我々はまっとうに税金を使えと要求する権利を有していると思う。