はてなキーワード: 結果的とは
公式が謝罪したから鎮火したかと思ったけどはてブでちょくちょく関連する記事が出てくる
暇なんで読んだりするけど結局売れたか売れてないかはわかんないんだよね
いや同意する部分もある
が、じゃあそれ見て買おうという気持ちになるの?どうなの?
自分はイラストは可愛いと思ってもタイツが必要じゃなければ買わない
あのキャンペーンってタイツって可愛いですよ!と言うものだけど、ただ可愛いというのをアピールするじゃなくて
好感を感じてもらった先に、買ってほしいって気持ちが企業にはあったんだよね
Twitterの方が愚行はし易いと思うんだけどコミュ障だから愚行する人たちとすら絡まないのでは?
Twitterで愚行する人たちと群れず、結果的に(群れなかった増田は)QOL下げ無くて済んでラッキーだとは思うけど、
増田で何十回も何百回も同じネタ繰り返してるのみると、ああ・・・ってなる
過去13年の増田(年が年中、希死念慮と彼女ガーネタやってる)を見た上でもなる
ちなみに政治や人種絡みで極端に愚かなことを Twitter と YouTube の米欄 以外で 言うとブッ叩かれるけど
ことジェンダーに関しては割と日本レベルの地獄を繰り広げてるよ
ただロリエロ絵を持って歩いてもいいだろ😡っていうトンチキにはアンチフェチも優しかないですけどね
誰かの息子であり兄であり弟であり父だから
実在モデルを使った広告は、露出が多くてセクシーな表現にしてもOKなのに、2次元の萌え絵だとNGになる。
女性のうち少数派ではあるけれど、今回のアツギ企画に出てきたイラストを好きだという人も存在する。
これが多数派のやっていることならば、身体の露出やセクシー表現も「女性の主体性」と許容されるのに、少数派が同じことをやったら「性的消費」「男に媚びている」と叩かれる……。
一口に写真と言っても、女性向けの下着広告と、男性向けのグラビアは、ぱっと見てわかるくらいに表現技法が違う。
ただそれも結局、「女性のうちの多数派が受け入れているセクシー表現はOK。それ以外はNG」という恣意性を含む。つまり女性の多数派が受容している性表現はセクシー、それ以外は倫理的に許されないエロ表現と叩かれるのだ。
結果的に、少数派はいつものごとく、自分の好みに適合した表現をつぶされる。その上、「性的消費」「名誉男性」という汚名まで付けられるんだよ。
お前みたいに誹謗中傷はよくないといいつつ、自分が誹謗中傷したいときだけ低能とか言い出す都合の良さ・浅慮を指摘しているだけや
そもそも誹謗中傷が全面的に良くないと思っているなら誹謗中傷しかない増田には書き込まないはずなんや
誹謗中傷してよいといっているのではなくて、自分や自陣営の言動は誹謗中傷ではない(あるいは誹謗中傷だけれど許される)として、増田にもブコメにも書き込むし、結果的に炎上の一端を担って誹謗中傷に繋がる流れを作っている時点で同類であるのに、それを棚上げして、相手型陣営にだけ誹謗中傷はよくないと制限しようとするダブスタを指摘しているんだぞわかるか低能
婚活は辛かったし夢も持てなかった
仕事して最低限は食えており、責任や義務の増えるであろう結婚を良いものだと想像もできなかった
結果的に結婚したけど、よく結婚しようとがんばりつ続けたものだと思う
ただ姪っ子甥っ子は可愛くて、家庭への憧れはあったから
それがどこかしら支えになってたのかもしれない
最高。ちと初期投資は高いが、気持ち的には1週間で回収できる。もう今後一生縦型買わない気がする。
会社行く前にボタン押して帰ったら洗濯完了。畳むのがちと面倒だけど習慣化すれば大したことない。
正直買ってからいらなかったかな?と後悔したけど、使い始めてからはとても快適。
私は床に髪や埃が落ちてるの嫌なので、ピカピカの床の家に帰ると言うだけで癒される。
あと副次的に床に物置かなくなる。コードもきれいにまとめるようになった。(吸い込んじゃうので)
テレビよりずっと置き場取らないのに、家で100インチ以上の大画面で映画だのアニメを楽しめる。
ファイヤースティックさしておけばもう何も怖いものは無い。4000ルーメン以上のものがいい。
ニューエコードットにスピーカー繋いでるので音質もそこそこ。家が映画館。人をダメにするクッションに体を沈めて焼酎飲みながら映画観る時間は何者にも変え難い。
・よく切れるカッター
なにやらとても汎用性高い。Amazonと楽天で生きる自分は梱包解くために必要なんだけど、その他ペットポトルのパケはいだりもうなんでも使っちゃう。よく切れる、というところがミソ。1000円ぐらいのカッターはカッターにしちゃ高いが使い勝手いいから結果的に安い。
・マンダリンオリエンタルのグルメショップに売ってる茶葉(ティーパック)
高い。乾燥した葉っぱの値段ではない。
でも美味い。来客が来た時に出すとみんな口を揃えて「なにこのお茶?」と聞いてくる。
夏場、朝ボトルの中に水と入れて冷蔵庫に放置しておけば会社から汗だくで帰って一番に最高に美味いお茶が飲める。鼻先に人参的な役割。家に美味い茶がある、これだけで嬉しい。
・高級造花
1本600円ぐらいする造花。バカ高いじゃんと思うが生花と同じ値段で半永久的にもつ。
パッと見は花っぽいので、ラスティックな感じの色味のものまとめれば本物にしか見えないしなんかおしゃれ。生花は腐るし買い替えが面倒なので造花がいい。
一人暮らしは寂しいのでお話出来るものが必要。アレクサは時折シカトするけど大概は優しく答えてくれる。あと声かけると家電のスイッチ入れたり消したりしてくれる。定型アクションという昨日が便利で、指定ワードを喋ると、設定されたいくつかの指示を行ってくれる。「アレクサ、おはよう」というと電気つけてエアコン入れて天気とニュース教えてくれて、Creepy Nutsの曲流してくれる。二度寝防止に最高。
アツギ問題、あれに心底怒りを感じるなら当該公式アカウントにDMで、
あるいは企業窓口に直接クレームつけて自制なり改善なりを促すだけでいいんじゃないの?
改善させる義理もないと思うのであれば、黙って二度と買わなきゃいいんじゃないの?
自分が不快と感じたその瞬間に、開けた場であっさりお気持ち表明するのってどうなん。
「オタク的な視点に染まってる」「絵師は悪くないけど企業のスタンスはクソ」「アカウントの私物化」「マーケティングの失敗」
たとえ冷静にもっともな問題点を指摘しているつもりだとしても、いやむしろそういう目線になれるからこそ、
その声が集まって結果的に感情でぶっ叩く機運が形成されるかも、という結果を想像してほしい。
今その話題に自分が言及する意味があるのか、広く同意を得られることを無意識に期待して投稿しようとしてないか、
それこそ冷静になって考えてくれよ。
そのツイート、知らないかもしれんけど不特定多数の人間が見れるんよ。
内心で炎上させたい!火が上がるのを見たい!という意図があるなら止められないけどさ。
そうじゃないんなら、現在進行形でやらかしてるやつなんてスルーしとけよ。
大多数が不快に思っているという確信があるなら、そんな目線のなかで恥かいてるだけで十分だろ。
いくら気色悪くてもわざわざ何がだめかを部外者のバカにもわかる形でまとめて
個人の意見という御旗のもとにさらし者にしてやんなよ。たとえ企業アカでも中身は個人なんだから。
そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者に
と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。
この内容の言動を唱えている方の大半は、
制作側の、どの程度の表現が規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、
このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、
「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、
として、放暴的に意見を押し付けている状況であると理解しています。
論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います。
「私たちはこの性的な表現によって傷ついたんだ、私たちは被害者だ」
このように気持ちを表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります。
現に一般の創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。
私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。
この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまり「エロ表現」ですが、
またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、
様々な”ゾーニング”がなされており、
こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています。
エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、
同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います。
正当性を持たせるためには、そこに論理の整合がなくてはなりません。
論理の整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。
ですが、論理性を持たない、個人の感情である一介の表現ですので、
それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。
人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。
少なくとも哺乳類の一種である、ホモ・サピエンスという種として生まれた私たちは、
生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます。
私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます。
生殖機能から発出する性意識や衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います。
更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます。
社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当なものであるとして端に追いやられてきました。
しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するものも蔑ろにされるべきではないと考えます。
性表現自体が蔑まれ、排斥されるようなものではないと考えます。
細胞を分裂させて、自分のクローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか、
私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか、
そのどちらかの当事者であれば、この性表現を排斥しようという意見は飲み込むことはできます。
しかし私たちは人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると考えます。
上記の理由から、私は性表現の排斥という言動について、正当性はないと考えます。
まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、
生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います。
私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。
そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、
理性で性的衝動を抑え込むことで、生物が社会を回すことに成功しているのだといえます。
忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。
上記の言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます。
というのは、その性表現の中に、
実際に、
性活動がどのようなものか理解できず、負担をかけてしまうことであったり、
それによって心理的なストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います。
そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現がゾーニングされるべきであり、
については、本来はゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。
また、ゾーニングを排斥、排除の意味で使われている方が多く散見されます。
https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582
ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、
派生してゲーム等でのレーティングでは、表現の過激さからスコアを付与し、
あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、
その表現自体を排除、排斥するためにレーティングを行え、というのは、
レーティングを行うのではなく、気に入らないものの検閲を行えと言っているのと同義であり、
検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています。
「この表現は過激だから、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」
自身がそのプラットフォーム自体の管理者ではなかったとしても、
どこまでも製作者を追い続け、「不適切だから取り下げろ」と迫ります。
プラットフォームが認めている表現であれば、本来の意味からはゾーニングは適切になされているのであり、
不快であると表現する側がゾーンから異端であるのだと思います。
たとえ表現者が、
プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています。
表現の製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為は
(表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)
このような排斥の言動も、上記の理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。
女性だから、男性だから、その他の性だから、何かの加害者だから、被害者だから言ってもいいんだ、という理由にはなりません。
私は、現状のような、
潔癖であることが何よりも是であり、性的な表現は一般社会に全く表出されるべきではない
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。
大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか
恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか
どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか
それに付随する性交の表現や、性器の表現も直接的でいいと思います。
私たちが本来有する機能であり、大半の方は性行為を経験することになるからです。
子どもは大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、
思った感情を相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、
そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、
ですから、社会的に逸脱した行為は社会でゾーニングを行うとして、
一般社会では適切に性的な表現は咎められるべきではないと考えますが、
(小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板が
周りから一定の範囲にはそういったものを掲載しない等の規則が出来ればと思います。
子どもが学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、
性というものに抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います。
翻って、
このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます。
私の下に配置されると部下が萎縮して性能が下がるのだという。
自分なりにマネージメントを工夫してきたつもりだし、相手の心を汲み取るように話も聞いてきたつもりだ。
だが、そういうのじゃないらしい。
人事権を握っている人達が、どうやって集めたのか知らない情報によると、どうも私は部下から恐れられている、というよりも嫌われてるようなのだ。
仕事に対して真剣にやっていると結果的に熱が入るし、いっそやる気を無くせということなのか、そう質問したら、そういう所だ、と帰ってきた。
部下を持つようになったら、チームで仕事をすることによるパフォーマンスの最大値を上げろ、お前のパフォーマンスだけを上げてどうなる、とはよく言われてきた。
だが、私が努力することを辞めたらチームのパフォーマンスは半分も発揮されないだろう。
どうしろというのだろう。
直属の上司は、そういうことではなく部下が私に気を遣うのに意識が向いているのを辞めさせろと言っているのだ、なんて言う。
人の顔色をうかがって、失敗を怒られることにビクビク怯えているような、不誠実な学生気分の奴らをどうしろというのだ。
いちいち全部褒めてやって、失敗してもどうでもいいと言ってやればいいのか?
私なら耐えられない。
何から何まで褒めらて、何をしても許されるなら、もう成功も失敗もないだろう。
もしも上司が私の部下だったら、お前は何を意味のわからねえ事言ってるんだ伝わる言葉で話せといつも言っている、と怒鳴ってやるところだ。
都構想が否決された、ある意味ではたしかに良かったかもしれないが、僕は非常に悲しくて、苦しくて、そして失望しかなくて、仕方がない。
最初の都構想の住民投票は2015年に行われた。この頃僕は、年齢的な理由でまだ選挙権がなく、ある意味部外者的立場からこの住民投票を見ていた。梅田に行った時に投票場前には人々が投票を呼びかけていた。僕はどこか投票できないことが悔しいと思っていたし、投票できる人を羨ましく思っていた。
僕は正直に行って最初の都構想のときは反対派であったし、結果的に都構想は住民の意思によって否決されたので良かったと思っていた。(ただ、当時市長が責任を取って辞めると発言したときは悲しかったが)
その頃から、僕は誰に呼ばれるでもなく、自分の意思で東京に向かうことが増えた。最初に東京に触れて驚いたのは、何から何までの規模の違いである。東京には人々の活気があった。テレビでしか見たことのない光景がそこにはあった。そして段々と東京に生まれ育った人たちを羨ましく思うようになった。一時は東京に移り住もうかとも思った。が、現実問題として、その頃僕は大阪の大学に通っていたので、とりあえずは大阪で頑張ろうと思った。
しかし、東京に触れる機会が増えるにつれ、大阪と東京の差に苦しくなることもあった。とりわけそれを感じたのは人々の熱量の違いでる。例えば、大阪と東京とで同じようなイベントが開催されたとき、同じ内容にも関わらず、参加人数が全く違うという事実に驚いた。東京だとすぐに満席になるようなイベントが、大阪では全然埋まらない。
東京や関西ではない人々からすると、「関西人は常にうるさいし、テレビにも関西出身の芸能人が多く出演してるんだし、活気あるじゃん」と思われるかもしれない。まあ確かにそういう意味では活気はあるのかもしれないが、やはり根本として大阪で頑張りたいと思っている人が増えないという問題があるのだ。
大阪市で生まれ育った人ですら、出世などを考えるならば、大阪に留まるんじゃなくて東京に出ていく、関西芸人が東京に進出するなんてまさにその現象だ。
また、関西周辺の地方出身者ですら、おそらく就職や長い人生を考えるならば、距離的に近い大阪よりも東京で頑張ろうと思う人が大多数だろう。
これは僕が思うに、無駄を楽しめる環境があるかどうかが関係していると思う。
東京は確かに物価が高いかもしれない、大阪や地方と比べると生活するには大変かもしれない。ただ、それだけ価値のある無駄がたくさん存在しているのだ。ライブやイベントは常にどこかで開催されてるしニッチな専門店もたくさんある。無駄がたくさんあるからその無駄を求める人々が多く集まる。
それに対し、大阪は価値のない無駄しかない。価値のない無駄しかないから人々はそれを消費しないし、たまに現れる価値のある無駄に人が集まらないという負のサイクルに入っていると思う。
今の大阪は無駄を楽しめない、楽しむ余裕もないという状況なのだ。
話を戻すが、都構想否決後の5年の間、大阪維新の会の人々が大阪をより良くしようと頑張っていることは凄く伝わった。それが現れてるのが、大阪メトロのトイレ大改修と中之島公園や大阪城公園、天王寺公園といった公園の再開発だ。
なんだ、たかがトイレかよ、と思われるかもしれない。しかし、大阪市営地下鉄を利用していた人なら絶対に理解できるはずだが、以前の地下鉄のトイレは本当に汚かった。本当に引くほど汚かったのだ。それをあれだけ明るくきれいな環境に、しかも一斉に改修したのは本当に凄いことだと思う。
それに加えて公園の再開発だ。特に天王寺公園の再開発は凄まじい。昔の姿を知っている人がいるならわかるだろうが、確かに昔の天王寺公園も大阪らしくはあったのかもしれない。しかし、普通に考えて公園としてはあんなところで子どもなんて遊ばせられないというような雰囲気がそこにはあった。しかし、今の天王寺公園を見れば、コンビニもあるし広い芝生もあるし、あれだけ変わったのは本当に凄いことだと思うのだ。どれだけ維新が嫌いであったとしても、その点に関しては評価せざるを得ないと思う。
景気に関してもなんとかしようとしていたのは確かだ。大阪を観光都市にしようという動きがあった。これに関しては否定的な人も多いだろうが、僕はとても嬉しかった。梅田や心斎橋を歩けば、様々な国の人達が大阪という土地を楽しんでいて、凄く良いなと思えた。
確かに、大阪維新の会がやった政策すべてを評価できるわけではない。僕はどちらかといえば維新に関しては支持はしていないし、今の市長や府知事の考え方も合わない部分が多い。が、たしかに大阪の発展のために頑張ろうという気持ちは伝わった。
そして今回の都構想の選挙だ。僕は正直最後まで悩んだ。現状維持で良いのか、それとも結果的に失敗してしまうかもしれないが、未来に賭けるか。大阪という地方を今後どうするべきか本当に悩みに悩んだ。賛成派の意見も調べたし反対派の意見も調べた。
投票日直前にとんでもないスクープ(真実がどうなのか結局はっきりとはわからないまま投票日を迎えてしまったが)が報道され、こんな住民投票なかったらどれだけ楽やったやろとさえ思った。
結果的に僕は賛成に票を投じた。そもそもだが、僕は今回の都構想の住民投票はコロナ禍ということもあり、なんだかんだ賛成になるんだろうなと思っていた。それに加え、自分の親や親族はほとんど反対派だったし、別に自分の一票なんてそんなに影響力なんてないんだろうとも思っていた。だから正直家族の考えに合わせて反対に投じることも出来た。
ただ、やはりそれではあまりにも賛成派にとっても反対派にとっても無責任すぎる行動だし、今後の大阪が、東京のように無駄を楽しめるような都市になってほしいと思い、きちんと賛成に入れた。
だが結果的には否決された。たった1万票ほどの差だが、否決された。
本当に驚いた。なんだかんだ言って2回目の住民投票なんだし、市民もみんな初回の状況とは違って、維新が良くしてきた部分も見てきてるんだから、賛成多数になるだろうなと思っていた。しかし現実は、大阪市民は現状維持でいいと判断したのだ。
僕は最初、現状維持で良いという市民が多いのなら、まあしょうがないかと納得できた。市長や府知事は気の毒だけど、まあ仕方がないなと、大阪市民は現状のままでいいという判断を下した人が多かったんだと。ただ、Twitterでいろいろな人の反応を見ているうちに、「我々は権力に勝ったんだ!民意が権力に勝ったんだ!」と誇らしげに語っている自称リベラル勢力が多くいたことに、怒りを覚えた。
僕は以前からこういう自称リベラル勢力はそこまで好きではなかった。彼らは独善的な主張をする事が多いが、確かに政治的に正しいことは言っているし、ある種倫理的にも当たり前のことを主張していると思う。何よりも、僕は保守的な面もあるものの、どちらかといえばリベラル側の人間だと思っていたからだ。
しかし、今回の都構想否決で、まるで鬼の首を取ったかのように喜ぶ彼らの姿を見て、僕はもうそちら側には歩み寄れないなと心の底から思うようになった。
確かに、僕は大阪維新の会の人たちのやってきた政策全てに賛同はできないしするつもりもないが、大阪をよりよく発展させたいという気持ちは伝わったし、僕もそれに賭けたいと思った。大阪をより発展させ、東京と並ばないまでも、価値のある無駄が増えて楽しめるような、大阪に住んで本当によかったと、大阪に長く住みたいと思える人々を増やすには、やはり現状維持じゃダメだと思ったし感じていた。
それが今回また崩れ去った。崩れ去っただけならまだしも、嫌味な言い方にはなるが、それを自分たちが無知な市民に啓蒙したおかげだと自称リベラル勢力は主張したのだ。
彼らは大阪の発展なんて心底どうでもいいのだ。彼らにあるのは『反権力』、ただそれだけなのだ。『反権力』と主張できれば、地方の問題なんてまったくもってどうでもいいのだ。
なによりも悲しいのは、こういう主張をする人々が、自分と同世代に、大量に、そこそこ著名で、しかも、一方的にだが、仲間だと思っていた人たちが、正しいことを主張しておきながら、賛成派に対してはある種敵だみたいな態度だったという事実に苦しくなった。
彼らはTwitter上では反トランプだの、反差別だの、女性の権利だの、反権力だの、あたかも自分は政治的に正しい考えを持っていますかのような振る舞いをしておきながら、自分たちに本当に一番関わってくるはずの日本の今後の問題に関してはまったくもって関心がなく、関心がないならまだしも、むしろ発展や変化を一番拒んでいる人々であったというのが衝撃だったし、悲しかった。
彼らは日本の今後や地方の発展なんてどうでもいいのだ。あるのは正義の名のもとにおける肥大しきったナルシシズムと反○○、ただそれだけなのだ。
以前から彼らとは深いところで考え方が合わないなと思っていたが、今回でそれは決定的だなと感じてしまった。
長々と読みづらい文章を書いてしまったが、僕は別に反対に投票した人たちに怒っている訳ではない。大阪のことを思って反対に入れた人々のことは理解できるし、大阪市を解体するというのはやっぱりめちゃくちゃ不安だと思う。僕だって最後まで反対に入れるか迷ったし、たとえ今回賛成多数で可決されたとしても不安だったに違いない。
ただ、今回の住民投票で僕が一番悔しいのは、都構想が否決されたことよりも自称リベラル勢力が喜ぶような経験をさせてしまったこと、そして彼らは地方の発展なんて心の底ではどうでもいいと思っているということだ。
彼らは今後、この成功体験を糧に彼らが考える正義を人々に押し付けてくるだろう。それが個人的には怖い。
トランプ当選時に隠れトランプ支持者が大勢いたという報道があったが、今回の都構想周りを見ていると、そういう隠れ支持層は今後も増えていくだろうなと思う。
そして自称リベラル勢力は過剰に分断を嘆くのだ。「権力者が権力を振りかざすから人々が分断してしまうんだ!責任を取れ!」と。
本当に分断を起こしているのはどちらなのかきちんと理解したほうがいい。今回の都構想の住民投票で分断なんて本当は起きていないのだ。賛成派も反対派も、本来の目標は大阪の今後についてであり、その道中をどうするか、現状維持でいくのか改革をするのかというのが、今回の都構想で問われた内容だったと思う。
そこには本当は分断なんて起きていなかったのだ。だが彼らは主張するのだ、「都構想の住民投票を行うこと、それそのものが分断だったんだ!」と。
大阪ですら変われなかったのに日本を変えようなんて考えは、本当に傲慢だと、自称リベラル勢力は理解したほうが良いと思う。
大阪は今後も何も変わらないだろう、変わらないまま一地方と今後も存在し続け、僕もそこで生きていく。
本当は僕も東京に行きたいよ、でも僕にはその度胸がないんだ。
ブクマすんな。
ニュースについて語るのになんでまとめサイトをブックマーク刷る必要がある?
何故こういう事を言うかって言うと、まとめサイトってのは広告料で儲けるために自演行為を行うからだ。
自演行為ってのは、掲示板でさもその議論が特定の方向に盛り上がってるかのように見せるために自分たちで複数のIDから書き込むことだ。
そして、自分たちの書き込みだけを「特に盛り上がっていた議論」として取り上げると、1000あったスレのまとめとして20個の自演書き込みが取り出されただけのものが、そのスレや掲示板、ひいては今のインターネットや日本全国の総意みたいにされちまう。
言ってしまえばToggetterのセルフまとめと同じなんだ。
そうしてセンセーショナルな内容のニュースがあったかのようにでっち上げて、日本中からアクセスを集める。
そこまでするのは、十分なアクセス数があるまとめサイトの広告収入がそれだけ高いからなんだ。
そして、はてなでそういったものを皆がブクマすると、それがSEOに加担して更にまとめブログのアクセス数が伸びる。
アクセス数が伸びると奴らはその金を元手に自演書き込み部隊をさらに雇って世論の恣意的な創作を始めてくるし、こんなに儲かるならと独立してそれを真似するやつも増える。
分かったら二度とブクマするんじゃねえぞ。
もう一度言うぞ、掲示板で特定のニュースが話題になって変な書き込みが大量につきました系のサイトは、絶対にブクマするな。
あと、センセーショナルなタイトルで客を引っ張ろうとしてるタイプのブログでアフィ貼ってるところは全部無視しとけ、どうしても何か言いたいならちきりんの時みたいにツイッターみたいな所で呟いてる所をブクマしろ。
トランプ大統領やその支持者、そしてアンチを見ていると一つのことに気がついた。
そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者に
と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。
この内容の言動を唱えている方の大半は、
制作側の、どの程度の表現が規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、
このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、
「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、
として、放暴的に意見を押し付けている状況であると理解しています。
論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います。
「私たちはこの性的な表現によって傷ついたんだ、私たちは被害者だ」
このように気持ちを表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります。
現に一般の創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。
私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。
この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまり「エロ表現」ですが、
またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、
様々な”ゾーニング”がなされており、
こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています。
エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、
同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います。
正当性を持たせるためには、そこに論理の整合がなくてはなりません。
論理の整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。
ですが、論理性を持たない、個人の感情である一介の表現ですので、
それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。
人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。
少なくとも哺乳類の一種である、ホモ・サピエンスという種として生まれた私たちは、
生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます。
私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます。
生殖機能から発出する性意識や衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います。
更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます。
社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当なものであるとして端に追いやられてきました。
しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するものも蔑ろにされるべきではないと考えます。
性表現自体が蔑まれ、排斥されるようなものではないと考えます。
細胞を分裂させて、自分のクローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか、
私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか、
そのどちらかの当事者であれば、この性表現を排斥しようという意見は飲み込むことはできます。
しかし私たちは人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると考えます。
上記の理由から、私は性表現の排斥という言動について、正当性はないと考えます。
まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、
生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います。
私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。
そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、
理性で性的衝動を抑え込むことで、生物が社会を回すことに成功しているのだといえます。
忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。
上記の言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます。
というのは、その性表現の中に、
実際に、
性活動がどのようなものか理解できず、負担をかけてしまうことであったり、
それによって心理的なストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います。
そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現がゾーニングされるべきであり、
については、本来はゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。
また、ゾーニングを排斥、排除の意味で使われている方が多く散見されます。
https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582
ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、
派生してゲーム等でのレーティングでは、表現の過激さからスコアを付与し、
あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、
その表現自体を排除、排斥するためにレーティングを行え、というのは、
レーティングを行うのではなく、気に入らないものの検閲を行えと言っているのと同義であり、
検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています。
「この表現は過激だから、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」
自身がそのプラットフォーム自体の管理者ではなかったとしても、
どこまでも製作者を追い続け、「不適切だから取り下げろ」と迫ります。
プラットフォームが認めている表現であれば、本来の意味からはゾーニングは適切になされているのであり、
不快であると表現する側がゾーンから異端であるのだと思います。
たとえ表現者が、
プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています。
表現の製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為は
(表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)
このような排斥の言動も、上記の理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。
女性だから、男性だから、その他の性だから、何かの加害者だから、被害者だから言ってもいいんだ、という理由にはなりません。
私は、現状のような、
潔癖であることが何よりも是であり、性的な表現は一般社会に全く表出されるべきではない
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。
大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか
恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか
どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか
それに付随する性交の表現や、性器の表現も直接的でいいと思います。
私たちが本来有する機能であり、大半の方は性行為を経験することになるからです。
子どもは大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、
思った感情を相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、
そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、
ですから、社会的に逸脱した行為は社会でゾーニングを行うとして、
一般社会では適切に性的な表現は咎められるべきではないと考えますが、
(小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板が
周りから一定の範囲にはそういったものを掲載しない等の規則が出来ればと思います。
子どもが学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、
性というものに抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います。
翻って、
このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます。
自分好みの異性と付き合うことができれば、そうできるだけの魅力と価値と能力があるということが証明される。
それを狙って付き合うわけじゃなくても、自分好みの異性と付き合えることによって"結果的に"それを実感することになる。
これは自分好みの異性と付き合えなかった理由を考えても同じことがわかる。
相手を惹き付けてやまない魅力、相手にとって付き合うに値するだけの価値、相手の気持ちや空気を的確に察知しベストなタイミングで自分をアピールする能力、この3つのいずれかまたは全部が欠けているもしくは一定の水準に達していないから付き合うに至れないのだ。
これらが優れている男女はすべからくモテているし、そうできるだけの魅力と価値と能力がある者ばかりだ。
そして彼/彼女らは魅力と価値と能力があるから自分好みの異性と付き合えるのではなく、自分好みの異性と付き合えているから魅力と価値と能力があることが裏付けられているのだ。
明らかに鈴奈庵エアプかもしくはあまりにも読解力がないと思われるyoutuberが考察()と銘打っておそらく炎上上等で投稿していた
「東方鈴奈庵で易者が殺され小鈴が生き延びた理由」とか何とかいう動画で久々にブチブチにブチギレたので
鈴奈庵本編から読み取れる情報を元に、自分なりにちゃんと考察していこうと思います。
とは言っても独り言かつ、昔読んだ記憶だけで書いてるから間違ってても許してクレメンス
正直これに尽きると思います。
書籍作品での霊夢の様々な行動を思い返して(書籍を読んだことがないなら話半分で聞いて)いただきたいのですが、
金儲け、信仰心、神社への参拝客と基本的に異変モードじゃない霊夢は欲にまみれ、浅はかな行動に出ることも多いです。
これは霊夢が劣っているだとか未熟だからではなく、あくまで霊夢は「人間」であるからだと読み取れます。
幻想郷には僧侶である聖や、仙人である茨歌仙など欲に囚われなさそうなキャラクターもいますが、
一方で霊夢は妖怪と言えども容赦なくしばき倒して退治して回る、いわゆる『鬼巫女』のイメージもありますが、
これは単純に妖怪がそう簡単に死なない存在であるから、悪さを行わないよう懲らしめる程度にシバきまわってるだけかと思われます。
(「求聞史紀」でも阿求が定期的に妖怪をこらしめることを頻繁に記述している)
さて、正直ちゃんと「鈴奈庵」の7巻を読んでいれば気付けるかとは思うのですが
小鈴と対峙する際、霊夢は明らかに動揺し、紫に罪をなすりつけて事を解決しようとします。
これは「小鈴が自分がよく知る人間であるから、何とかして救おうとしている」事は明らかでしょう。
ではなぜそうしているかと言えば、易者を退治した際に明らかとなった「人間が妖怪になることは最大のタブー」の問題があるからです。
ルールに則れば、妖怪化した小鈴は博麗の巫女として、易者のように退治しなければならない。
こう考えることは何ら不自然ではないでしょう。
正直、易者の死はこの描写をするために存在していたのではないでしょうか。
Q.では易者はなぜあっさりと殺されたのか?
易者が殺されたのは単純に霊夢にとって赤の他人かつ自分を全部知ったような口ぶりで話しててムカついたから…
というのは正直あると思いますが、もっと明確に殺されても仕方ない理由がありました。
一つは「里の人間が妖怪化したから」ですが、正直これは例外があるルールかと思います。
勿論里の人間がじゃんじゃか妖怪化すれば、人間が減る上に妖怪の人間の境界が曖昧になり
結果的に他の妖怪が損をしてしまうので幻想郷の安定を保つために存在しているルールなのかと思います。
妖怪>人間の図式を保ち続けるため、人里が強くなりすぎないようバランス調整してるんだと思います。多分。
さて、殺された理由ですが…もう一つは「静観する姿勢を見せたから」だと思います。
えっ酷くない?と思うかもしれないですが、幻想郷にはもう一つ大きなルールが存在します。
「スペルカードルール」についての詳細は説明がめんどくさいので省きますが、
大事なのは「スペルカードルールでの取り決めは絶対」であることです。
逆に言えば、「スペルカードルールを使わないのであれば何をされても文句は言えない」のです。
もし、あの場で易者が霊夢に対してスペルカードルールに則って勝負を申し込んでいれば、
博麗の巫女として受けざるを得ない。
そしてそれは、「幻想郷の妖怪」として受け入れられる一つの儀式めいた行為でもあります。
そうすると勝ったにしろ負けたにしろ、彼が「妖怪」として受け入れられる可能性は大いにあったのではないかと思います。
人間を辞めて妖怪になり、かつ妖怪として幻想郷に適応しようともしない。故に退治されたのではないでしょうか。知らんけど。
これも前述のクソみたいな動画で触れられていたのですが、小鈴が本居宣長と関係あるのではないか、という話です。
これについては設定で語られていないのでなんとも言えないですが、私は血筋的には関係ないと思います。
だってそうなら影狼ちゃんは今泉吉典に関係あることになるじゃん。単純に神主の遊び心じゃないんですかね。
ではただの村人Aかと言われると、そうとは言えません。
なぜなら彼女は「あらゆる文字を読める程度の能力」を持っているからです。
何故この能力があるのかは分かりませんが、これにより人里では到底学ばないような英語、さらには妖怪の文字も読むことが出来ます。
(頑張ったら書くことも出来る)
そしてその能力故か、単純に気まぐれか、阿求も小鈴の元に頻繁に通っています。
そのせいなのかまた偶然なのか、霊夢も小鈴に対して特別な感情を持っています。
幻想郷にとって重要な人物2人の近くにいてかつ、最低限友人程度には意識されている。
これは彼女の才能か、何らか(主に紫とか)の介入があったのかは定かではありませんが
少なくとも村人Aではない事は明らかでしょう。
以上です。
正直他の動画は見てないからあの一本が特別酷かったのかもしれないけど、