はてなキーワード: 相対主義とは
いや、皮肉のつもりだろうけど、そうなんだよ。同じなんだよ。
ネトウヨが発生するのも楽しいからだし、ワイドショーが不倫を叩くのも楽しいからだし、安倍批判が盛り上がるのも楽しいからだし、悪を倒すヒーローショーを子供が見るのも楽しいからなんだよ。
お前は、その中でも、特に理想的と考えられる正義だけを「正義」と認定したいと言っている訳だが、ポストモダン以降の相対主義の極致では、客観的な正義は決めれないんだよ。「正義」は「お前個人が正義と思っている内容」や「今の社会の法律がたまたま正義と決めてる内容」となってしまう。
いじめが起きるのは、コミュニティに悪いとされた誰かを社会から排除するのが楽しいからなんだよ。
うむ。構造主義者。
言ってることはわかるんだが、しかしやはり、全てを構造に結びつけてしまうことには警戒的であらねばならないと思うんだ。相対主義の泥沼に入り込んで、倫理が不可能となってしまうから。
つまりだな、努力しないことでコンビニ店員になってしまったフリーターより、東大を出た勤勉な官僚の方が、"倫理的に"優れていることは明白である。というより、明白でなければならないと思うんだな。
自己責任論を発露する人々っていうのは、倫理観を発露している人々な訳。
そこにだな、コンビニ店員が出てくるのは構造的問題であるからコンビニ店員に責任はないよ、という話を主張しにくる。わかるよ。俺も同じこと言ってたことあるし。けどそれを言ってた頃の俺はまさに文系大学卒業した後、コンビニ店員のフリーターをやっていたりしたんだよな。
俺は果たして、大学時代の知識を生かして正しく社会構造に関する知識を語っていたのか? それとも我が身可愛さに倫理的責任を回避していたのか?
ここでは仮に、俺は倫理的責任を回避していたクソ野郎だとする。ではこの時、俺が東大卒官僚だったら、俺の社会構造に関する主張は責任回避のクソ主張ではなくてったのか? 主張する人間の属性で構造主義ってのは、倫理的な正誤の大小が変わるの?
お前は一生懸命「個人の責任は別だよ」と言っているけれども、結局のところ、それは原理的に別に扱うことができないのだと思う。
お前が構造主義を主張し、自己責任論に唾を吐く時、やはりお前は個人の努力と責任にも唾棄しているのだ。その事にはやはり警戒的でなければならない。
自己責任論者は、そりゃ社会科学に対する知識が足りてないのかもしれん。でも我々は社会科学に詳しいんだから、自己責任論者にもまたリスペクトを振り分けねばならんだろう。
同じ21世紀にでも横にずらして考えれば、いまだに焼畑農業やっとるような最貧国はごろごろある
インドなんか最新のIT技術者がおる一方、女児が生まれたら即殺すとか、幼児の人身売買婚とかいまだに多数ある
ただ、何が言いたいかというと、現代の標準的な日本人勤労者イコール永遠普遍の宇宙の大常識みたいに言われてもなあ、という次第
単に俺個人が、そういう世界史的視野で相対主義視点を持てば、40過ぎて未婚で最底辺(ただし先進国日本の中で)の自分がずば抜けてダメで不幸とも思えない、もっとダメで不幸な人はいっぱいいる(いた)よね、と気分が楽になるから、そういう考え方をしてるだけ
(俺個人が自分を納得させるための理屈だから、当然、貴殿は同意しなくて良い)
ただ、丸一年後、たとえば巨大な災害やら北朝鮮の暴発やらで、日本がもはや平和な先進国ではなくなり、北斗の拳の世界になっているという可能性も(可能性だけは)有史以来、常にある
何が言いたいかというと、たまたま今目の前にある社会が絶対不変とは限らない、と
そんだけっす
なるべく多くの人間に影響力を持ち、実際には存在しないインターネット世論を誘導した上でどこまで現実に影響を及ぼせるのか?
まえがき
増田やSyamuなどインターネット汚物が国会にまで持ち込まれるようになり、アラブの春の後始末すらまだ終わっていない現代社会において、SNS上での衆愚の扇動が安全保障上のリスクになることは自明であり、かつてアカがサボタージュつまり働かない労働者によって生産性を下げる攻撃という概念を持っていたように、インターネット上にフェイクないしある方向に誘導する情報を撒き散らすことによってインターネットの利便性を下げる攻撃や世論を誘導する攻撃という概念が生まれている。
白人至上主義を煽るアメリカ大統領戦や嫌韓感情を煽る自民党への囲い込みなどに実際に実用されているがここではご家庭で簡単に始める衆愚扇動のやり方と大規模な攻撃への発展アイデアを紹介したりしなかったりする
従来の方法としては専門の業者に依頼することやインターネットの有象無象に依頼することなどが挙げられる(例 クラウドワークスで文字の流れる動画を作るように依頼する、自民党ネットサポーターズクラブ、火消し業者、ネットに強い弁護士)これらはいずれも金銭がかかり、また効果に疑問点がある。これらを発展させたものが前述の大統領選や囲い込みであり、方法としてはカルトの手口を併用したものである(この手口は非常に洗練されており、インターネットサロンやプログラミング塾など様々な場面で活用されている)。これらには社会的弱者を狙い、参加への誘因として憎悪を使い集団への帰属感を与えた上で孤立させるという倫理的に悪影響がある手法を用いるうえ参加者一人ひとりの質に問題があるため二次拡散に期待できず(せいぜい彼らの狭い交友範囲内で、それもこの手法の過程で消える)頭数のみが重要な場合にしか価値がない→集金、選挙など 金を絞れればいい=生存していればいい ひらがなで候補者名がかければいい=初等教育を受けていればいい ために汎用性に欠けてしまう。
これらの従来の扇動方法の弱点を解決するためには、ターゲットとして
・一般ユーザー 友人とのやり取りや好きな話題を話すアカウントを持つ(複数の場合もある) /実際の世論形成を担う
・パワーユーザー ツイ廃など依存症的な人々 POSTの大半を占める /扇動内容の二次拡散を担う
・文盲 三語文が読めない感情的な人らまたはお気持ちの人 (神が絶対でそれとの距離は個々人で差はないという論理が起点となっている平等主義と相対主義でしか働かない近代的理性は相性が悪くて、平等の完全な実現に伴って相対評価の理性から絶対評価のお気持ちの時代になるためお気持ち勢は増える) /社会の多数派 頭数や実弾はここから湧く
・インフルエンサー ダークウェブで買った人は含まない /ネットのおもちゃ
を含める必要がある。
またゴール地点として「予め設定した枠の中でしか議論をしなくなる」ということを設定する。
成功例:中国政府の言論統制は自国への批判は許すが自国への行動は許さない。体制の揺るがない範囲での体制批判を許可している。また人民は海外メディアにアクセスする必要があるという発想をそもそも持っていない。
では何をするべきか?前提としてダークウェブ↔ウェブよりウェブ↔ウェブのほうが断絶していることに注意する必要がある。通常のおおよそ全ユーザーに到達するウェブコンテンツとしてはネットニュースがある(これは各サイト、サービスが配信またはキュレーション//死ね//という形で再配布するため)この分野ではオールドメディアが依然強く、また権威つけあるいは盲従するためのハードルを下げる手段として有力である。 これに載るためには犯罪者や自然風物になるという方法もあるが扇動のコントロールが難しく、再現性が低い。また扇動者が現実に露出する必要があり、リスキーである。それでは有名人になった上で何かをする芸能人枠かネットの意見なるもの枠を取ることが現実的であろう。虚像の芸能人の成功例としてゆるキャラやVirtualBeing、初音ミク等などがあるがこれらは地域PRの手段とかロール、インターネット集合知のためのキャンバスといった色合いが強く(VBはよくわかんない、ごめんね)自分からアクの強い意見を発信したり誘導を仕込むことには向いていない。これは各政党のゆるキャラの名前を私が知らないことからもわかる。
SNSでインターネット世論などという汚泥のレンガみたいな概念を焼成してオールドメディアに取り上げてもらいそれがネットニュースで配信されることで(インターネット蝗が多ければi.e.よく燃えていればPVとPRが上がる、この点でももともとの火力は大事)各層に浸透、一定割合が仕込みの終わったSNSでよくわからんことをよくわからんままに自分の意見として話し合ってくれれば成功というのが筋が良さそうだ。
これのモデルケースが「幼稚園落ちた日本死ね」ではないか?扇動者がいたかどうか知らないがこれは可燃性の高い話題が溜まった憎悪を焼き固めてこれを拾ったオールドメディアは国会まで打ち出したという構図に見える。 (三次元物体は視点の違いで違う形に見えるのでここに対する批判は致命的なもの以外許して)
ポイントとしては
弱小、個人アカウントにはDMを多用し優しくする,マシュマロ等利用する
可燃性は最終的に的にする場合以外下げる
話題にはのる
ここで文章自動生成とかを使うと戦略兵器になる 普段はネット定形構文のおもしろネタとトレンドへの言及をしつつ誘導、イベントや祭りの発生時に扇動 数で勝負できる
しらない 詳しい人かいて
周りのすべてが一定の枠組みの中の視点しか持っていなければ一般人は前提を疑わないために容易に思考を囲い込むことができる。現実での多数派を囲えれば十分世論は枠にはめられるので一般ユーザがアクセスしうる範囲だけ誘導できればいい。実践としては検索結果一ページ目とSNSのトレンドとSNS上の各知的社会的階層からそれぞれ賢そうに見える人らで十分だ。あとは勝手に拡散していく。
検索結果一ページ目はフェイクサイトやらまとめサイトやらで埋めればいいのではないですかね ある健康食品だったたかサプリメントだったかがWikipediaから解説サイト、体験談などなど全部フェイクのサイトたくさん用意しててすごいと思ったみんなも真似しよう わかりやすいのはヨーグルト関係、腸内細菌とかまともに調べられなくて困っちゃうわー
SNSのトレンドにはわかりやすい正義とわかりやすい攻撃手段を作って喧嘩させれば良い まずツッコミどころのわかりやすい的を作ってそいつに暴れさせて、その後適度にわかりやすい武器を配れば勝手に燃やしてくれる 異常者が全面に出るように小さなコミュニティを的にするのが合理的(異常者を演じる、あるいは操作する際に少ない人数で大きな割合を占めることができる また支援者の絶対数が少ないため横槍が入りにくい)この過程で視野を狭め議論の枠組みを狭めることができる
SNSの賢そうな人らには「売出し中でフォロワーを増やしたいと思っているアカウント」に見えるアカウントを用意する(このアカウントは誘導したい方向と逆かあるいはジャンル違いのアカウントにする。一般的なフォロワーを増やす過程で前者なら過激な方向へ誘導しつつ意図的に意見に穴を開けておき、後者なら誘導したい方向へ偏らせるか誘導方向と逆の方へ過激な発言をそれぞれ不利益の無い程度に行っておく)
過激なアカウントかつ誘導方向と逆向きであれば失礼な発言から無理筋な議論へと持って行き自分とフォロワーないしファンネルを焼いてもらい、その後改心宣言か狂犬として噛み付いて回る
温和なアカウントかつ誘導方向であれば話しかけてフォロバしてもらうそれ以降は穏健な交流を行い人の流動性を高める 最終的にはこのジャンルならこの人というポジションを確立する(彼らの思考の外部委託先となる)
以上3つが達成できればあとは何もしなくても世論は形成される。
これらの行為は普段からインターネット上で盛んに行なわれているためそれぞれが少しずつ意図する方向に向かうよう仕込むのが一番楽だろう。具体的にはその誘導に囚われることで何かしらの利益を他人に与える仕組みを考える。例えばある特定の意見に偏向したサイトを作ると儲かるとか特定の意見をSNS上で発信すると気持ちいいといった誘因を作ればいい。うまくいっているのが婚活とか恒心とか
まとめ
飽きた
なんでも絶賛するのは鑑賞態度としておかしい。みんな違ってみんないいみたいな思想なのかな。芸術なんて言ってもほとんどはゴミだよ。
自分に軸があればその観点、自分の価値観、哲学、美意識等から良い悪いの評価を下すのはごく普通のことだ。
何か言っているようで何も言っていない相対主義者たちが俺は一番賢いみたいな態度でいるのはとても滑稽だ。
まず君らがどの立場から物事をどう見ているのかを明示しなければならない。君は完全に客観的な存在ではないということ。君は君の場所から物事を見ている。だから君は完全な俯瞰などできない。君がどう感じどう考えたのかを語るべきだ。
「みんな違ってみんないい」それはわかった。で、君はどう思うんだ?
【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店やネット書店、最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネルを選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説「断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます。
当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的で自己判断できる存在としての近代的主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的なイメージに対して、ハワイ・日本・沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます。
いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談「ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様の用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女の三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。
知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子をうつ。適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争(太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮の鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)
この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談の本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談の想像力」はキリスト教のテクストにも見出されるという点です。
(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)
この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断」(34ページ)となります。しかしバベルの塔の神話が示すように、神は常に「言語と文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。
「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)
ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たちの理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)
「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述があくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります。
たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰を告白せずに死んだ祖父が天国でないどこかへ行ったのではないかと不安になった」という文章が地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラストの文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)
「聖書を怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者の信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります。
イスラーム法学の中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰者自身による学問的考察のいくつかには、相対主義と決断主義のあいだでさまよう私たちの課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます。
以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌の特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。
http://otsune.hatenablog.com/entry/2018/07/03/030608
「細かく把握してなかった」って、"ゲス野郎がキチガイを煽ったら返り討ちにされて殺されちゃいました(笑)"でもう大体の認識は把握できるんじゃないの?
まさかとは思うけどおっつねさんもしかして岡本hagexの事を遺族に「インターネッツを使って愛と正義のために悪を裁いた偉大なる聖人」であるかのように吹き込んだりしてないよな?
正しくは「他人のゴシップのためならおよそ関係のない人間を巻き込んでまで中傷を行い続けた真性のゲスでありいつ殺害されてもおかしくなかったチキンレーサー(自爆)」だろうが
https://anond.hatelabo.jp/20180625202047
https://anond.hatelabo.jp/20180626014530
おっつねさん、顕一郎の遺族に上の記事読ませてちゃんと「真実」を伝えてあげてくださいね。
嘘はいけませんよ、嘘は。
あ、顕一郎はドラッグや銃器を買えるサイトの使い方に関しても事詳しく紹介からそういう面も忘れないで伝えてあげてね♪
相対主義を言い訳にして「注意を喚起したかっただけでしゅううう~~~~~」って周りの連中はアクロバティック擁護すると思うけど
いや待て、そもそも俺はトラバのトラバ元のトラバ元のトラバを書いていないし書いた覚えがない。俺はトラバ元の文章を読んで不意に、きまぐれに「もし自分の頭がおかしいのだとしたら、おれは自分の頭がおかしいことをどのように認知すればいいのか」と思って、あのトラバあてにトラバを書いただけだ。つまり、俺が書いたトラバのトラバ元のトラバ元を見返し、「このトラバ元のトラバ元を書いたやつは頭がおかしい」と考えたとしても、それはトラバ元のトラバ元になりすましてトラバを書いた俺が頭がおかしいことの証明には成りえんのだ。
しかし、俺がトラバのトラバ元のトラバ元のトラバを書いていない、すなわちトラバのトラバ元のトラバ元のトラバの書き手が別人であるということは、はてな匿名ダイアリーにおけるビッグブラザーたるはてな以外には知りえないし証明し得ないから、俺のトラバのトラバ元のトラバ元のトラバのトラバのトラバを書いた俺がトラバのトラバ元のトラバ元のトラバを書いた人間と同一人物であるとしか見なしようがない状態にあるわけだ。
するとだ。もし俺の頭がおかしくないのだとすれば、俺が説明材料としようとしていたこと……俺の頭がおかしい可能性についてみずから言及し、少なくとも俺は俺の頭がおかしい可能性について考察出来る程度の一定の論理性をその身に有していることになるし、俺は「俺は頭がおかしい可能性を有しているが、頭がおかしい可能性を有しているという事実を自ら導き出し、俺自身の意思によってそれを承認出来る程度には、頭がおかしくなっていない」と言えるかもしれない、という状況が、根本的に変質してきてしまうんだ。
俺は俺が書いたトラバのトラバ元のトラバ元および俺が書いたトラバのトラバ元の会話上に、言うなれば「“トラバ元のトラバ元”と“トラバ元”という2つの人格しか通常認め得ない領域」に入ってしまったがために、意図せず俺は俺の人格としての固有性の一切が認識されない空間の内部へと、割り込んでしまった――俺が俺としての人格を承認されない空間に割り込んでしまったのだ。さらに言えば、それがために、俺は自ら“俺固有の理性”というものを放棄してしまったのだ。そして、俺が“俺固有の理性”を放棄してしまったがために、俺が考える「俺の頭がおかしくないことの説明」は一切の意味を持たなくなってしまった。それは仮に「俺は頭がおかしくなっていない」という絶対的な事実を俺が有していたとしても、“俺固有の理性”が承認されない空間では、「自分のことを自分ではないと言っている頭のおかしいやつ」にしかならないし、“トラバ元のトラバ元”と“トラバ元のトラバ元のトラバのトラバを書いた俺”とがそれぞれ別個の人格を持った人間であるという認識を他者に強いたところでそれは証明し得ない事象に対する「自分はこのように感じられるからそういうことにする」という相対主義的理屈……「私はあれがシカクに見えるが、お前があれはマルであるというのならマルであるということにしてもいいし、そういう解釈をすることもできる」という話にしかならない、ということだ。だから、“俺固有の理性”のゆらぎが収束することはなく、どちらにしても「俺が頭がおかしくないことの説明」は何の意味もなさないわけだ。
しかしながら、ここまで考えたところでなんだか俺はよくわからなくなってきた。俺がトラバ元のトラバ元とトラバ元の二人格しか承認し得ない空間に割り込んで俺固有の理性を放棄してしまったところまではいい。しかし、俺が俺が書いたと認識している今俺がトラバを書いているトラバのトラバ元にお前がトラバを返したということは、つまり俺は“俺固有の理性”をお前に知覚されたこと、承認されたことにほかならないのではないか?
だとするならば、今俺がトラバを書いているトラバを書いたお前に「お前は頭がおかしい」という返信を俺が送られたのならばだ。お前が俺のトラバに対して送ったその文言が持つ意味に反して、「“俺固有の理性”の復活」を意味するのではないのか? ――だって、“俺固有の理性”を喪失させた今俺が書いているトラバ元のトラバ元のトラバ元のトラバ元の人間は、このトラバを受け取っていないわけなんだから、トラバ元のトラバ元のトラバ元のトラバ元の人物と、このトラバとこのトラバのトラバ元のトラバ元を書いた俺という人格は、俺の現状の認知上でははっきりと区別できる状態になっている。俺が有している「俺自身の認知への疑義とその疑義の承認」が意味を持つことになるのではないか?
まったく、頭がこんがらがってきた。そもそも今俺が書いているトラバのトラバ元のお前は誰だ? そもそもお前こそ、お前が確かな認知の上に事物を適格に知覚し遠隔的に今俺が書いているトラバのトラバ元のトラバ元のトラバ元のトラバ元のやつとトラバ元のトラバ元のトラバ元のやつそしてトラバ元のトラバ元たる俺という複数の人格が並びたつトラバに参画し発覚している事実をもとに正確に論駁しているのだといった顔をした不明確な人間――あるいは新たな“自分固有の理性”の喪失者ではないのか? お前は自らの手で喪失していた俺固有の理性を復活させたしまたそのことでこれまで前提となっていた諸条件をほとんどまったく打ち壊してしまったのだ。お前がトラバを送ったことでお前が踏まえていた諸トラバの均衡がまったく崩れてしまったのだ。そしてそうなった現在の時点におけるお前のトラバは全く意味を成さないし承認に値しない。俺はお前が俺に付けたトラバを退けるぞ。俺がお前の意見を承認するのは、お前がお前が崩した諸トラバの諸条件をお前の理でもって再び正してからだ。さあ、お前の番だ
私が嫌に思っているのは、下記です。
A「は? 1+1が2なら別に1+1が4だったり5だったりしてもいいってことになるんだが? おまえはそれでいいの?」
私はこのようなものを「的外れな比較」とか「的外れな例え」と呼んでいます。
「1+1=2」と「1+1=4」を比較しているとか例えていると解釈してです。
・「1+1=2という論理でいけば1+1=4と言ってもいいことになる」
・「1+1=2と主張するのは1+1=4と言っているようなものである」
ついでに言うと、自分にとって都合のいい結論を根拠にする人もいると思います。
・「1+0=2だぞ。だから1+1=3だ。」
さらにおまけの話ですが、「もう来ません」と予め言っておく人も見ました。
A::「1+1は3である」
B:「いや、1+1は2ですよね」
A「2も3も誤差のうちでしょう。±1の違いくらいよくあるし、私の言いたいことの本質ではない」
A「2だろうが3だろうが50だろうが数字であることには変わりありませんよね? わたしが言いたいのは、1+1の答えは数字である、ということなのにどうしてそうやって悪意ある解釈をなさるんですか?」
A「Bさんはウンコにシナモンをつけて食べる主義の人です。ウンコにシナモンをつけて食べる人の主義の人に算数ができるわけはない」
A「RT:C『またAさんに算数で絡んでいるバカがいるwおつかれさまですw」 RT:D『普通に考えて1+1は3なんだけど、あたまの悪い人にはわかんないんだなあ』」
A「いや、1+1は3ですよね? 世間一般的にも3なんですが」
A「『1+1=3? それとも2? 算数を巡る大論争』をまとめました! - togetter」
A「1+1の話なんていつしました? 私が言いたかったのは、1×1=3だということです。ちゃんと文章を読んでいればわかるはずですが」
A「1+1というのはあくまでたとえ話なのであって、議論の本質ではないです」
A「別の考え方をしてみてください。2+2は4ですよね」
B「そりゃまあ」
A「4は1+1+1+1の和ですよね。ところで1+1は2なんですけど、このたび新発売になったうんこ豆腐のカレー味ってどう思います?」
A「算数の答えはひとそれぞれっていいますか、1+1が2の人もいてもいいと思いますよ」
A「は? 1+1が2なら別に1+1が4だったり5だったりしてもいいってことになるんだが? おまえはそれでいいの?」
A「1+1が2だと主張する人によって、これまで社会は歪められてきたんです。1+1=3は間違いかもしれませんが、世の中をずっとよくしてくれる」
A「よく見て下さい。これは1+1=ではなくて田んぼの「田」の字を解体したものです。私が言いたかったのは田=3ということだったんです」