はてなキーワード: 必要悪とは
誠実な態度としては、萌え絵はだいたいエッチだし、女性専用車両は性差別だし、アファーマティブアクションも差別だけど、それを認めた時に「誠実で偉い」って褒めてくれる奴なんか一部に限られるんだよね。
まあ一言褒めてくれる人は若干いるかもだけど、別に味方にはならない。
社会の大多数は、「エロと認めたのか。だったら萌え絵はゾーニングすべきだな」とか「差別と認めたか。あらゆる差別は許されないから女性専用車両はもアファーマティブアクションもなくせ」とか、大義名分で殴ってくるし、大義名分が向こうにあるから味方してくれる人は少ないし、全然いいことないんだよね。
俺は発達障害気味だからか、この辺の機微がわかんなくて「いや明らかに萌え絵はエロいし、女性専用車両は性差別だけど、どっちも現代の世の中では大っぴらに存在すべきだろ」って誠実に言ってきたけど、ようやく、健常な社会はそんな風に判断しないってわかってきたわ。
「誠実に悪さや欲望を認めて偉い! でも悪なので攻撃の手は緩めないぞ、神妙に沙汰を待て!」ってなるだけで、全然いいことないわ。
人類の英知の結晶であるはずの国連とか各国の政府や省庁だって、「人権は譲ることができない権利であり、あらゆる差別は許されない」みたいな非現実的な大義名分をいまだに真顔で振りかざしてる。
人権同士の衝突と必要悪としての差別がこれだけ発生してるのに、致命的なダメージを与える「人権尊重、差別反対」って武器をみんな握ってるせいで、誠実な議論とすり合わせなんてできない。
でも、科学に関する能力に男女差がない(ということになっている)ので、女性を加えても男性を加えても、プラスされる多様性に差はないよね。
A.科学に関する能力に男女差がなくても、個人の背景や価値観は男女で大きく異なる。
男二人よりも男一人と女一人のほうが多様性が確保されていることは理解してほしい。
医療もずっと男性だけで治験してたりとかで女性の身体の領域はまだまだ遅れているとかあって人類の発展のために様々な分野での女性の専門家を敢えて増やす理由がある。女性は女性自身がフロンティア。
女子枠の内、大学院に行くのが何割かによってまた評価が変わると思う。また、強引に女子人数を増やすことで、見えていなかった問題点の洗い出しにもなるとも思う。ただ、最終的には差別区別の無い競争を目指すべき。
正直女性に下駄履かせる行為にはなるがいままでの土台考えると結果的に適正化に向かうので必要悪って思ってる 本当の男女平等にむけての過渡期対応で、多分揺り戻しはどこかで起こるんだろうなあとも
俺も賛成だがとりあえず設けておくだけでは意味がなくて、いずれその枠がなくとも受験者が同等数になることを目指してます的な壮大な未来志向はないといけない。あくまで枠分けは平等への経過措置である。
女子が工業系に進学しないのは成績が劣るからではなく、学究や就職などその先の未来で女性であるだけで正当に評価されない事態が待ってそうだから避けてるのでは
A.そうかもしれないし、理系に進学する女性のモデルケースが少ないことが理由かもしれない。後者の可能性がある以上今回の施策には価値があると考える。
「事前に公表している時点で女子生徒優遇がなければ受かったハズだった男子生徒など存在せず、不利益が生じた個人もいない」???/仮に事前に「女性は全て不合格」と公表すれば、女性に不利益は生じない?
A.女子大学に男子学生が受験を申し込んでも合格することはできないが、男性に不利益が生じているとは一般的に考えられていない。
加えて箸にも棒にもかからない学生が入ったところでついていけないので辞める可能性がある。質の落ちた学生に教える側にとっては無駄な教育コストがかかってつらいかもしれん。
A.そうかもしれないし、逆に質の落ちた学生に対してあまり教育コストを変えずに高度な理系人材を輩出できるかもしれない。
後者の場合、大学の受け入れ人数を増やすことができる未来もありえるだろう。
A.社会公正としての多様性と研究における多様性において各特徴量の重要度は変わると思う。
暗い話題で申し訳ない。ほかの会社の事情が知りたい。タイトルにある狂犬枠についてだ。
うちの会社は、個人や企業の○×△を扱う仕事をしているためか、特定の部署(私の部署もそう)に狂犬枠として配置されている人罪がいる。
・職場の窓口で苦情を申し出る人がいたらキレるか怒鳴るかして追い払おうとする。威圧的な言動を繰り返し、相手が帰るまでやめない。
・現場仕事ではもっと悲惨。現地で意見が対立した場合、ヤクザも顔負けの声の大きさで相手を威嚇する。脅迫的な発言もする。
・法令無視を気にしない。自分の部署のことだけを考えて動く。契約書や財務伝票は改竄するし、会議録や聞取記録でお客さんの発言を異なったものに変更する。
・出入業者にも容赦なし。相手方のSEがシステム点検に来ている状況でも大声で叱責する。何度か投書で「貴社の社員は、○○という人権侵害の発言や行動が~」みたいのがある。おそらく取引先が匿名で情報提供している。
・部下や年下社員へのセクハラパワハラ。教科書どおり過ぎて説明するまでもない。セクハラについては、飲み会帰りに若い子の手を引っ張ってホテルに連れて行こうとするなど立件レベルに近い。
週に一度は、そいつらが仲間やお客さんを怒鳴り散らす場面がある。正直、一般の部署は私達の部署への配属を「島流し」とか「懲役○年」と呼んでいる。
もちろん、まともな社員の方がずっと多いが、一部には上に挙げたような人罪がいる。
懲戒処分といった形で彼らが裁かれることはない。いや、むしろ彼らの上司(私の上司でもある)は、勤務査定では彼らに「標準」の評価をつける。直接見たことがある。
①面倒くさい人を追い払ってくれる。○×△を扱う仕事なので、クレームがしつこいことが多い。まともに相手をしていると上役の時間がどこまでも持っていかれる。その点、彼らがいると心配が少ない。上司の手を煩わせることなく仕事を減らしてくれる。
②火消し。トラブルが起きている状況においても、自社を有利にするための虚偽報告や書類改竄などは到底許されることではない。が、彼らはその役目を引き受けてくれる。上司は、彼らをやりたいようにさせておくことでトラブルに巻き込まれずに済む。
③反社対応。ここにおいてだけは、彼らは会社の役に立っている。つまり、反社と思われる連中が会社に攻撃をしかけてきた際は彼らが戦ってくれる。私達だと到底不可能な言動によって、戦ってくれるどころか殲滅までしてくれる。上役は、そんな様子を見てますます信頼を深める。
思えば、うちの会社(業種)だと狂犬枠の社員は必要悪になっている。
でも、それは果たして正しいのだろうか。上では面倒くさいお客さんや反社対応をしてくれるといったことを書いたけど、本来は人間的にまともな社員が対応すべきなのでは?と思ったりすることもある。
あなたの会社では、そういう人はいるだろうか。つまり、狂犬なんだけれども、代わりに何かで会社に貢献しているから免責、みたいな人だ。もしいたら、参考までに感想を教えてほしい。
逆にどのくらいの学歴の人がこういう文章を書いているのか知りたい
例えば一文目からして、アファーマティブアクションが馬鹿な人を大学に入れることを正義だと思うことの例 と書いているが逆だ
馬鹿な人を大学に入れることを正義だと思うことがアファーマティブアクションの例だ 一般に、概念は小さい方が大きい方の例になる
(なおもっとややこしいのは、厳密にはこの二つの概念に包含関係がないのでどちらがどちらの例でもない)
途中まで階級移動の話をしてるのに急に人間ランキング(?)の話にすり替わったりもな 人間ランキングというのは造語っぽいが未定義だし、前者が給与などを含む身分など人間の社会的な一面を表しているのに対して後者は想定できる意味が広すぎる 急に含意が広がりすぎでなんとでも解釈できてしまう
あと早速消されてるけど
大学行った人間の文章にしか読めない。自分も行ったが 自分は人間ランキングにぬけぬけ迎合しときながら必要悪としてアファーマティブアクションを求める人たちに悪態つこうと思わ..
みたいなコメントも謎だったし(そもそも「大学に行った人間の文章にしか読めない」とかわざわざ書く奴いるか?俺にはこれで学部を卒業できたとは到底思えないしなんで俺がコメントした後に消えてるのかも不思議だが)、
別のコメントにあった、「いっせーのでで変える」って何だ?とかもな
正直にいうとすごく頑張って読めば何と無く言いたいことが雰囲気だけは分からなくもないんだが、言葉の使い方が雑すぎて俺には厳しかった
普通に読めている人を凄いと思った
自信がどこからくるのかなと言われると困るが、全体的な単語の使い方の雑さからおそらくあまり作文のトレーニングを受けていないことが推察できるからとしか言えない
これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます。
また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているときは意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。
これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。
この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利を剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。
というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのものが崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまいます。
ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。
『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンのテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞の理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。
そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。
たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和と繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和と繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的な判断がその背景にあるように思えます。
一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。
しかし、ぼくはあきらかに『リコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在の日本社会の現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織「DA」や「アラン機関」の悪を批判し告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。
『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和な日本社会」そのものがひとつの欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。
いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想の平和を崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。
『カラマーゾフの兄弟』のイワンやル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞のユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしまう選択を選ぶことがほんとうに「絶対の正義」でしょうか?
リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?
まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞を告発し、欺瞞的ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。
DAとリコリスによって維持される日本の平和は醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。
ここら辺の「必要悪としてのディストピア/ユートピア」の描写はアニメ『PSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。
『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会のモデル」を提示するしかないわけなのです。
そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロなテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか。
ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品のトーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります。
しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。
匿名ダイアリーで批判されているように、ただ百合百合な女の子たちにガンアクションをやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。
『リコリコ』の人気は、この「天国(ユートピア)のようでもあり地獄(ディストピア)のようでもある過酷な欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。
べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメの歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。
いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見、ライトにコミカルに語られている。
しかし、それは搾取の問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。
それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事の結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。
これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます。
また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているときは意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。
これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。
この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利を剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。
というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのものが崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまいます。
ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。
『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンのテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞の理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。
そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。
たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和と繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和と繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的な判断がその背景にあるように思えます。
一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。
しかし、ぼくはあきらかに『リコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在の日本社会の現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織「DA」や「アラン機関」の悪を批判し告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。
『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和な日本社会」そのものがひとつの欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。
いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想の平和を崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。
『カラマーゾフの兄弟』のイワンやル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞のユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしまう選択を選ぶことがほんとうに「絶対の正義」でしょうか?
リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?
まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞を告発し、欺瞞的ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。
DAとリコリスによって維持される日本の平和は醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。
ここら辺の「必要悪としてのディストピア/ユートピア」の描写はアニメ『PSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。
『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会のモデル」を提示するしかないわけなのです。
そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロなテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか。
ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品のトーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります。
しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。
匿名ダイアリーで批判されているように、ただ百合百合な女の子たちにガンアクションをやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。
『リコリコ』の人気は、この「天国(ユートピア)のようでもあり地獄(ディストピア)のようでもある過酷な欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。
べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメの歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。
いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見、ライトにコミカルに語られている。
しかし、それは搾取の問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。
それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事の結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!