はてなキーワード: 平行線とは
他の増田に書いてあって思い当たることがあったんだが、生き急ぎすぎてね?
1週間分皿がたまるとかなら分かるよ?
だが、自分の思い通りに「家事を即座にやらない人」に対してブチキレるってどうかしてる。
そんなんでイラつくくらいなら、自分が代わりに進んでやるくらいすればいいのに。
食後すぐには動きたくない。テレビが良いところに行くまでは動きたくない。
「すぐにやるべきだ」というのも、まぁ分かる。どうせ後でやるものだし。
でもタイミングはあるだろう? 今まで一度もやり忘れたことないんだ。
急かされるたびに「あぁ、信用されてないんだな」と実感するわ。
相手の方が家事やり忘れたりすること多いのにな。本当にアホだわ。
こういう奴らの相手、どうしたら良いんだろうな。
「後でやるって言ってんだろが!!!」って毎回キレりゃ良いのか?
平行線だなぁほんと。人のことを意のままに動かそうとする奴と関わらないのが一番なんだろうな。
※増田は女です
これフェミ、先約があって行けなかった。すごく行きたかったから、チケットを買おうとすらできないのが悔しかった。期待してたのは、双方手を知り尽くした結果しょっぱくなった柔道の試合みたいな、場外と待てがよくはいって引き分けになるようなのだった。どうせ平行線で終わるとは思ってた。
でも終わったあとの展開をTogetterで見て、私は絶望した。
先週まで私はリベラルフェミニストに共感していてラディカルフェミニストに反感を持っていた。そのつもりだった。でも今は違う。全然違う。
家の、一族の、貴重な財産ぐらいの扱い、それぐらいがちょうどいいんじゃないかな。
難しいことは何も考えないでマッチョなパパにグランパに、大事に大事に門外不出にされるのが女にとって最高の幸福なのでは?
私はダメだ。もう元手をすっちゃった。絶望だ。若い女が私の70過ぎの母とほぼ同じムーブをしてる。50年何の進歩もなく言葉の表面だけ変わっているだけなんだ。女はいったん、箱に詰めた宝石、袋にパンパンに詰めた綿菓子、そういうモノに戻すしかないんだ。私の人生は全て間違っていたんだ。
少し脇道にそれて、下着の広告について考える。街に下着の広告があったとして、下着メーカーは、単に下着の魅力を伝えたいだけで、性的な消費のためにポスターを掲示するわけではない。しかし一方で、下着の広告を性的であると受け取る人間は存在するし、客観的に見れば非常に露出度の高い表現である。
赤十字がヴィクトリアシークレットとコラボレーションを行い、下着姿の女性が献血を呼びかけるポスターを作ることはあるだろうか。あまり無さそうに思われる。下着姿の女性を下着の広告から切り離した場合、それは過度に性的な存在になると感じる人が多いのではないだろうか。逆説的に、下着姿というものは本人の意志に関わらず本来は性的であり、下着の宣伝という文脈でのみ、その性的さが阻却される、とも言える。どうやら、現在の日本においては、下着の宣伝においては、性的な要素の含有は問題ない、という社会通念上の合意が得られているようである。なぜそのような合意が今日の日本で得られているかというと、下着というのは、日常の生活でほぼすべての人に必要だからであろう。ここで注意すべきなのは、このような合意は、現在の日本において、という前提である。宗教や国、あるいは時代によっては、このような合意が必ずしも得られていないことは容易に想像できる。このような合意は、社会における価値観のすり合わせによって形作られたと言っても良い。
このような合意が、他の性的な表現と比べた場合に一貫性にかけるという指摘は、ある意味では妥当である。先に述べたとおり、文脈や背景を考慮せずに、客観的な露出度などを基準に性的な表現を判断することを是とする場合、「下着の広告である」という文脈もまた切り離すべきであるといえる。例えば、文脈を理解する力が弱い子供にとって、下着の広告は単に性的でありえる。実際に、「小さい頃は通販雑誌の下着のページを良く見ていた」という男性の話も聞いたことがある。このような場合、たとえ広告に性的な意図がなかったとしても、子供に悪影響があるかもしれない。大人の都合によるこのようなダブルスタンダードともいえる基準が子供に悪影響を与えているという指摘がなされた場合、どのように答えるべきであろうか。ダブルスタンダードを廃して、下着の広告も露出度を基準として規制すべきだろうか。あるいは些細な影響だとして現状を維持するべきだろうか。「下着の広告は性的に見るためのものではないので、勝手に性的に見るのはやめなさい」という教育を行うことに意味はあるのだろうか。
この点については、正直なところ私自信もあまり明確な結論を持っていない。直感的には下着の広告ポスターに規制をかけることはバカバカしいと思っている。下着広告においては、それが性的消費に向けたものではないという認識があるからだろう。しかし同時に、それはダブルスタンダードであると言われた場合、うまく返答ができない。「あなたが下着の広告ポスターに規制をかけるのをバカバカしく思う気持ちは、私が宇崎ちゃんのポスターに対する批判をバカバカしく感じるものと同じです。なんなら、露出度が高い分、子供への悪影響は下着の広告ポスターの方が大きいですよね」と言われた場合、あなたはなんと答えるだろうか。「エロくないものを勝手にエロく見るほうが悪い」といえば問題は解決するだろうか。
ちなみにであるが、恐らく多くの成人男性にとって、下着の広告ポスターは多かれ少なかれ性的なのではないだろうか。男性は、単にTPOをわきまえて性的な表現に対するリアクションを行っているだけであって、教育によって下着の広告ポスターを「性的に見なくなった」わけではない、気がする。「勝手に性的に見る」のをやめられた男性がどれぐらいいるのかは気になるところである。性的に感じつつも、見ていないふりをしている男性の方が多いのではないだろうか。
ところで、宇崎ちゃんの作者は、宇崎ちゃんを性的に表現しているのだろうか。宇崎ちゃんの作者の内心はわからないので、2つのケースを考えてみる。
1つ目は、宇崎ちゃんが、男性に対してのアピールを増すために、意図的に性的な要素である乳袋を与えられた場合である。この場合、宇崎ちゃんには、性的な要素が意図して組み込まれた背景が存在することになる。そして、宇崎ちゃんが性的である、というポスター批判派の指摘には、一定の妥当性がある。
2つ目は、単に可愛い要素を詰め込んでいたら乳袋になっていただけ、という場合である。既に乳袋が一般的な表現になっている世界において、宇崎ちゃんにちょっとした可愛さの一要素としてそれが組み込まれた場合、宇崎ちゃんに性的な意図は含まれていないと考えられる。この場合、宇崎ちゃんを性的であるとみなす言説は、本来は胸が大きくて可愛いだけの宇崎ちゃんを「勝手に性的に見ている」行為になる。つまり、興味深いことに、ポスター批判派こそが、人の格好を勝手に性的であると見なして騒いでいる存在となるのだ。ポスター擁護派の中には、この立場に立って、ポスター批判派こそが「エロくないものを勝手にエロく見ている」と指摘する人もいる。一方で、乳袋が性的な表現ではないという前提は、現在の日本においては広く同意が得られた認識ではなく、この立場に立つことはポスター擁護派の欺瞞である、という指摘もある。
実際のところ、作者がどういった意図で宇崎ちゃんを作ったのかはわからない。恐らくは前者であろうが、オタクコンテンツの一般的化が進んだ現在において、後者のような状況が起こる可能性もある。乳袋ネイティブ世代にとって、乳袋は猫耳ぐらいのカジュアルな属性かもしれない。また、乳袋や韋駄天の靴下は極端にしても、絶対領域やミニスカート、胸の谷間やおでこ、猫耳や表情といった要素になると判断が難しくなるのではないだろうか。下着広告においては、「性的消費目的ではない」ということが明白であるため、「エロく見るほうが悪い」という切り捨てに一定の妥当性が与えられる。しかし、こういった未定義エリアにおいては、表現者と受け手のどちらかに、一方的に責任を押し付けることが難しくなる。
これらの思考実験を前提とした場合、「かわいい」「綺麗」あるいは「性的」「エロい」というのは、外形上非常に線引が難しいと認めることになるだろう。ある人にとって単に「かわいい」だけの格好が、別の人には「性的に」映ることは避けられない。また、性的消費の意図が表現者に存在したかどうかを基に判断をするというのも、同様の理由で困難が予想される。さらに、仮に性的な消費を前提として表現された性的な要素だとしても、どこまでが許される「性的さ」で、どこから先が自粛すべき「過剰な性的さ」なのかについても考えなければならない。
今回の乳袋については、個人的には、性的な消費を前提とした性的な要素であるが、過度に性的とまでは言えないかな、という認識である。オタク表現に馴染んでいるためのバイアスが掛かっていることには自覚的であるが、なんとなく肌が露出していなければセーフという気もする。また、表情について言うと、これは恐らく性的な消費を前提としていないであろうと考えている。作者は単に宇崎ちゃんのうざさを表情で表しているだけのように見受けられる(これをアヘ顔とは呼ばないであろう)。
繰り返しになるが、このような受け取り方は、私個人のものであり、人によって異なるであろう。それ自体が悪いことであるとは、私は考えていない。
多様性は大切にするべきであり、多様性を大切にするのであれば、お互い似好き放題やって、相当な衝突が発生しない限りはお高いに許容しよう、という考え方がある。仮に、件のポスターが性的であったとしても、「そういう表現が好きな人もいるよね」で終わらせることができるのであれば、それで全ては解決する。一部のポスター擁護派からはこのような世界を理想とした言動が見受けられる。
しかし、この考え方は現実世界においては、非常に運用が難しい。「相当な衝突」の定義が人によって異なるからだ。ある人にとって些細なことが、別の人にとっては大問題というのは、それこそ多様性を前提とするれば数多く発生するだろう。そうなった場合、結局は社会的なすり合わせが行われて、自主規制として運用されることになる。私個人としては、なるべく多様性を尊重する観点から、多少気に食わないことがあってもスルーするのが美徳であると考えている。しかし、だからといって他人に対して「それは些細な問題であるからスルーせよ」と強要するのは良しとしない。件のポスターを女性差別の問題として扱う場合、その人にとって、それは些細な問題ではない可能性がある。多様性の尊重とは、相手に黙認を強要するための武器ではなく、互いの価値観をすり合わせて妥協点を見つける営みであるとも言える。もちろん、そのようなすり合わせは非常に高コストであるし、お互いに面倒である。繰り返しになるが、自由を維持するための不断の努力とはこういうものなのだろう。
ポスター擁護派の中には、仮に宇崎ちゃんが過度に性的であるとして、そこを指摘する必要性はあるのか、と問う人もいる。件のポスターを女性差別や性犯罪と関連付けて批判する場合、他にもっと重大な問題が存在するのではないかという指摘である。私自身は、この指摘は意味をなしていないと考えている。仮に、宇崎ちゃんのポスターが性差別上問題があるのであれば、それが他の案件に比べて社会的に些細な影響をもたらさないとしても、指摘することは問題がない。もちろん、リソースが有限である以上、より重大な案件からあたるべきだという意見には一理あるが、それを強制することは誰にもできない。あるいは、ポスター批判派は単にキモオタもしくはオタクコンテンツが嫌いなだけなのではないか、という指摘もある。この点については、個人の内心がわからない以上、そこを議論しても無意味である。しかし、どのようなチベーションの人が存在するとしても、言論それ自体にはロジカルに対応する必要がある。論者自身の姿勢への批判と、議論内容そのものへの批判は分けて考えるべきであろう。
極端な話では、なる可能性はある。すでに述べたとおり、規制は強化される方に圧力がかかりやすい。ポスター擁護派はこのような自体を避けるために、無理に譲歩する必要は無い。最も、私自身はこの点については、あまり心配してはいない。仮にあらゆる肌の露出を性的とみなす言説が現れたとしても、現在の日本において多数派の同意は得られないであろう。
ある意味ではミラーリングが起こっているのだが、「男」という言葉を「雑に」用いた意見に対する反発が、少なからずあるように思われる。これはすでに多方面から指摘されていることであるが、「多くの」男性にとって、性犯罪あるいはセクハラというのは実際のところ未知の事象であり、「多くの」男性は、少なくとも自らが犯すのは避けるべき行為であるという倫理的、良心的な規範を持ち合わせている。このことが逆に女性が日々感じている女性ゆえの困難さへの無理解につながるのだが、一方でその困難さへの責任を「男」というまとめにより自身へも向けられたとき、その男性にとっては困惑しかない。これはある女性が「女性」として差別されるのと同じく、ある男性が「男性」として差別されている相似形と言える。「多くの」男性は、このような女性の困難さに対して同情的であるし、不正義だと考えるであろう。しかし、一方であなたもその片棒を担いでいる、と責められるのは理不尽であると考えるのではないだろうか。女性であるという理由でハイヒールを強要されることを良しとしないのであれば、ある男性は男性という理由だけで責任を押し付けられるべきではないし、罵倒を浴びせられるべきではない。このような行為は、男性でも女性でも、アメリカ人でも日本人でも傷つくことである。差別は良くない。単純だが、これは切実な問題である。本当に傷つくのだ。
ある属性の人々が憎まれるのは、過去にその人達が行ってきたことのせいである、という考え方もあろう。しかし、どうか、属性で人を憎むのはやめることはできないだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」とまで言うつもりはない。なにか嫌なことがあったときに、原因となった個人を憎むのは、あるいは避けられないだろう。しかし、その原因となったその個人の属性までを憎むようになってしまうと、文字通り憎しみの連鎖が始まってしまう。気持ちは分かるけど、なんとか堪えられるといいと思う。難しいけど。また、議論においては、そのような発言は大いに弱点になるので戦術的にも避けたほうが無難ではある。
ところで、先程から使っている「多くの」という表現であるが、ここに闇が潜んでいるのではないか、という指摘もある。社会は階層や年代、あるいは地域ごとに特性があり、私が感じるところの「多くの」というのは、あくまでも「私の身の回りでは」の話となる。ある女性にとって、身の回りの「多くの」男性が、その女性にとって好ましくない特性を備えているという状況は、恐らく確率的にありえるし、どちらかというと、そういったことは特定のグループにおいて偏って発生するのではないかとすら推測できる。私が前述した、「多くの」男性が倫理的、良心的な規範を持ち合わせているという言説についても、同意できない人はいるであろう。
インターネット上の議論においては、そういった各人の異なる背景が共有されないまま発言が行われるため、話が非常にややこしくなってしまう。ある人は、身の回りの男性を原因とする数多くの困難を経験した上で、その経験に基づいて何かを述べるのであるが、そのような経験は必ずしも前提として共有されていない。そのような発言を、同様の困難を経験したことのない人が見た場合、大げさだったり、被害妄想が激しいか、あるいは単に攻撃的な人物の発言のように写りがちである。このような両者の異なる認識は、それぞれ異なる経験に基づいたものであるから、それぞれ「正しい」のである。そして、正しいからこそ厄介であり、それぞれが無意識に持っている別々の前提をすり合わせないままに議論を続けると、平行線のまま話が進むことになる。Twitterのような短文のプラットフォームでは、なおさら背景が共有されないまま議論が行われることになりやすい。
以上のことを考えるに、もしも発言の中に「常識」や「普通」あるいは「当たり前」「当然」「明らか」といった言葉を使っていた場合は、特に考え直したほうがいいかもしれない。あなたにとっての「常識」は非常に限られた範囲でのものである。しかも、これらの言葉は「正しさ」をニュアンスとして含有していることから、それに当てはまらない人(恐らく沢山いる)に対する悪意と捉えられやすい。当然ながら、「異常」とか「おかしい」とか「論外」といった強い表現はなおさら安易に使うべきではない。これらの言葉は人を傷つけるし、ロビイングの戦術としても周囲の理解を得にくくなる。すでに「主語が大きい」ということはよく言われるようになったが、これらの表現にもできるだけ留意するようにしたい。
まだ続くのすごない?
一番読んでもらいたいのは最後の節のもっと言えば、今回の問題は~からなので、長いと思った人はそこを読んでほしい。
もちろん作者には意図があって表現してるけど、解釈は鑑賞者の自由だと思う。
例えばあなたは犬を飼っていて、可愛いと思ってその犬の写真を撮ってインスタにでもアップしたり「これ可愛いくない?」って誰かに見せたとしよう。
でもそれが可愛いか可愛くないか判断するのは鑑賞者の自由だよね?内心の自由ってやつ。その写真を可愛くない思ってもいいわけじゃん?かわいいと思ってもいいんだけど。
犬の顔がかわいい、手足がかわいい、尻尾がかわいいと思ったり思わなかったりは鑑賞者の手に委ねられてるよね。
宇崎ちゃんポスターに関しても、エロいかエロくないか、エロさや卑猥さを根拠にした場に相応しいと感じるかどうかはあくまで鑑賞者の解釈次第なわけ。
そこで「この絵はエロい!エロくないっていう奴は馬鹿」みたいに叩くのは辞めようよ。それなら同じ理屈でエロいっていう奴も馬鹿だよ。
それに、他人が本当にエロいと思ってるのか思ってないのかは観測できないし、仮に観測できてもどのくらいエロく感じているのかは千差万別なはずだし、
ディストピアみたいにこの表現はこういう解釈だって強制されてるわけでもなく、強制したほうがいいわけじゃないでしょ。
仮に乳袋はエロ表現の技法だとしても、絶対エロいんだと卑猥なんだと感じないといけないわけじゃないじゃん?宇崎ちゃんポスターについては実際にオタクの中でも意見は分かれるよ。
んで、エロいから卑猥だからという鑑賞者個々人の自由に解釈した結果の主観的な尺度で議論しても平行線になってしまうわけよ。
校則で「スカート丈は膝下何センチとする、それより短いのは風紀が乱れるので禁止」としたときの膝からの長さのような、客観的な尺度を議論するほうがまだ実りがあるよ。
ただスカート丈をいくら長くしようが短くしようが解釈する人が必ずいてその解釈は十人十色なんだよ。
解釈をもとにした議論じゃ一向に解決しないので別の点を探ろうよ。まずは。
あと、個人の主体性に依らない女性をモチーフにした表現物(女性を描いたイラスト等)に対する解釈を誰かが都合よく他人に強制させることができて、特に性的に解釈するのは害という考え方ね。
いや、そういう考え方してもいいのよ?いいけどそれで他人が自分が思った通りに解釈をしなくて困るって他者の自由意志を蔑ろにしてると思いません?
逆にあなたは誰かにコントロールされてますか?誰かに解釈を強制されてますか?
強制されてないってことはあなたが乳袋を見たときに卑猥と思っても卑猥と思わなくてもいいんですよ?卑猥と思ったのはなぜですか?そして卑猥だと解釈することだけが正しいとするのはなぜですか?
逆に卑猥じゃないと思ったのはなぜですか?その解釈のみが正しいとするのはなぜなんでしょうか?
製作者が意図してる以外の解釈は製作者から見ると間違っているけど、だからと言って鑑賞者の解釈をすべて縛れるわけがないじゃん。
他人なんだから原理的に不可能だよ。洗脳のような暴力的手段なら可能かもね。
あと勝手に他人の脳内を性的に解釈してると想像して、性犯罪予備群だ、オタクは悪だ、男は悪だみたいな連想ゲームをして気持ち悪がる人いるよね。
他人の脳内を勝手に想像してもいいけどさ、それが現実に存在する人全員に当てはまるわけじゃないし、そのうち何人が性犯罪者なのか確かめたわけでもないし、オタクだろうがDQNだろうが犯罪する奴は犯罪するんだよ。
ネットであなたが勝手に想像する犯罪者予備軍の存在や趣味嗜好を叩いても実際に犯罪するという行動を止めることはできないよ。
他人は基本的にコントロールできないんだよ。他人の行動や思考を制御することはできないんだよ。
お願いや命令や実力行使をすれば行動は制御できるかもしれない。けど思考解釈感じ方に関してはお願いや命令や実力行使をしても本当にその思考をやめたのか観測できない。
残念なことに、世の中の表現物をなくしても実際の人間を見て性的に解釈する人は無くならないし無くせない。
実際にあなたを見る男の思考を観測できない以上、どう見られているかはわからないんだよ。
性的に解釈してなさそうに見えても、実際に内心で性的に解釈してるかどうかは本当のところは判らない。
性的解釈してますか?と聞いて、していないと返事があっても嘘を言っているかもしれないし、そうでないかもしれない。
これは犯罪に遭いたくない犯罪を減らしたいという気持ちを否定してるわけじゃないよ。
交通事故が怖い人はたくさんいるだろう、痴漢の被害に遭いたくないよね。それらに巻き込まれる可能性を排除しようとして家から出ないのはそれはそれで困るんじゃない?
ということは世の中の人たちは少なからずそういうリスクを抱えて生活しているんだよ。意識してるかしていないかは別として。
宇崎ちゃんポスター等を見て過去の経験からトラウマになっていて耐え難いとするのももちろんいいのだけど、まずあなたに必要なのは傷ついた心の癒しであって、何か叩くことではないです。
それに世の中から宇崎ちゃんポスターみたいな表現を無くすことで個々人が何か誰かを性的に解釈をするのを無くすというのは不可能だし、違う方法がいいんじゃないかな?
世の中の人たちは寛容になりたいはずだと思う。
他人の何かを認めない自分より、認められる自分のほうが好きなはず。
ただ、人は気分が良かったり余裕があったりすればするほど他人に対して優しくしたり親切にできるけど、暴力を受けたりひどく傷つけられたり裏切られたり孤独だったり等のダメージを受けると被害者意識が寛容さを失わせてしまう。
そこで傷つけられた人たちやそれに同調する人達は、自分(達)以外の他人が不寛容に見えてしまったり、
さらにエスカレートして直接自分に被害を与えたわけでもないものや、イラストの人物と自分を同一視し他者の視線を想像してまでひどくおびえたり恨んだりしてしまう。
もう一度言うけど、傷つけられた人たちに必要なのは他者からの適切な助けや癒しであって、他人を叩いたり否定したり馬鹿にすることではないよ。
しかし、同調する人は回復を助けはしないどころか、一緒になって叩いたり恨んだりすることに快感を感じたり存在意義を見出してしまう。
恨まれたほうもまた、被害者意識を持ちループが始まってしまう。
「私はこういう理由で困っているから助けてほしい、こうしてほしい」は他者に伝わりやすいが、「なぜこうじゃないんだ!これは間違っている!これは許せない!」というのは伝わりにくい。
他人に伝えても、結局他人はコントロールできないのでさらに傷ついてしまうこともある。ただそのダメージを最小限に抑える方法もある。
必要なのは、傷つけられた人たちが他者に寛容になれるくらいまで癒されたいと思い、実際に癒されること。適切な人からの助けや癒しだと思う。
話題の映画「ジョーカー」を観た。3日間もの間、印象的なシーンが鮮明に再生され、日常生活を送りながらも映画の中の世界が頭から離れなかった。観賞中は息が詰まるような緊張感が続き、ショッキングな描写に気持ちは激しく動揺した。
これは一体どういう映画なのだろう。なぜこんなにも強く私の脳内を占拠したのだろう。これは議論を呼ぶ名作なのか、はたまたただのトラウマ体験なのか。作品に散りばめられたエッセンスから頭をよぎった監督たちの紹介とともに答えを探っていきたい。
まず系譜としてはマーティン・スコセッシなしには語れない。スコセッシは言うなれば妄執の父である。社会が見せる夢に取りつかれた青年が現実と妄想の間でもがく、という題材をひとつのテーマとしている監督だ。アメリカンドリームを皮肉たっぷりに描き、鬱屈した現実とポップな理想を同居させ、若者が狂信的な思いを貫くことで結果的に社会がカウンターパンチを食らう、という内容に特徴がある。主人公にはしばしば常識や倫理観が欠如しており、それが社会との隔絶や陰惨な事件を起こす引き金となる。「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」でうだつの上がらない妄想癖の男を演じたロバート・デ・ニーロが「ジョーカー」で今度は人気番組の司会者を演じているのも意図的な皮肉だろう。社会の片隅で生きる男が自意識を肥大させて全能感を獲得するという構図は明らかにスコセッシに倣ったものだ。
だが、スコセッシ作品と比べると「ジョーカー」の方が観ていて受けるショックは大きい。はじめから狂気じみたスコセッシの描写する青年と違い、「ジョーカー」の主人公アーサーは特殊な障害こそあるものの、それなりの分別を持って慎ましい生活を送る恵まれない男なのだ。尊大さよりも不遇を強く感じさせる分、彼が段々と堕ちていくのを見るのはつらい。
似たような余韻を残す作家で連想するのはダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキーは絶望の職人である。こちらも現実と妄想の対比によって物語が進行するが、えげつないほどの乖離や物理的に後戻りのできない状況を生み出すことによって観客もろとも登場人物を絶望へと叩き落とす。往々にして個人における心理状態の変化に焦点が当てられ、描写に肉体の変容を伴うのが特徴だ。職人と称したのは、映像や音楽を神経質なまでに駆使して恐怖や落胆、憧れといった感情を煽っていく技巧派スタイルからだ。その画面は暗く、重く、そして美しい。「ジョーカー」を観て「レクイエムフォードリーム」や「ブラックスワン」を想起した人も多いだろう。アロノフスキー作品同様、「ジョーカー」には喪失そのものを賛美する鎮魂歌のような要素がかなりある。観客に登場人物と同じ夢を見させた上で、それが緊張とともに深い闇に飲まれていく過程をただただ美しく映し出すのだ。
では、「ジョーカー」の監督であるトッド・フィリップスの独自性はどこにあるのか。それは、社会的にインパクトのある題材を濫用し刺激的すぎるほどリアルな描写にこだわっているにも関わらず、全体として悲壮感を打ち消しにかかっているところにあるように思う。まさにジョーカー的とも言える、悲劇か喜劇かは主観次第、というのを地で行くような趣きがある。スコセッシが愛に飢え、アロノフスキーが闇を愛でる一方で、フィリップス節はなんとなくはじめから終わりまで人々の孤独が平行線のまま、深刻なのにどこか表面的で、楽観していて投げやりなのだ。
過去作の「ハングオーバー」でもトッド・フィリップスはそんな調子だった。いたずらに過激なモチーフを画面に持ち込み、場当たり的に対処していく。物語は緻密に構成しながらも強いテーマ性は内在させず、作り手としての態度はどこか楽観的だ。調べてみるとドキュメンタリー出身とのことで合点がいった。おそらくは観客を引きつけておく演出は最大限発揮しながら、事象としてはすべてありのままを受け入れる、ということである。男子寮、バチェラーパーティー、そして今回のジョーカー誕生といい、悪ふざけと相性の良いトピックを選んでいるのもきっと彼らしさなのだろう。待てよ、よくよく考えれば彼の切り口は「やりすぎ男子」そのものじゃないか。
だとすると、やはり「ジョーカー」という作品は社会的意義を議論するには不向きな映画だろう。映像表現に長け、社会をありのままに捉え、悪ふざけを好むトッド・フィリップスという監督が、人々にトラウマを植え付けるほどやりすぎてしまった結果できた映画なのではないか。社会問題全部盛り、過激表現マシマシでありながら「そういうこともあるさ」と爽やかに言わんばかりの演出にはそれで説明がつく。それは確かに時代を反映しているかもしれないが、風刺の意図や分かりやすいメッセージはおそらくそこにはない。
新時代のやりすぎブラックジョーク、それが私の「ジョーカー」に対する結論である。
※ 本当はクリストファー・ノーランにも言及したかったが、うまくまとまらなかったのであえて割愛した
いろいろな議論を見ていて気になるのが「性的」という言葉の認識の部分。
「性的」って何?男性的・女性的ってこと?それとも、ムラムラして興奮しちゃう(あるいはそうさせる)ってこと?
たぶん批判してる人たちは後者で使っていて、問題ないって言ってる人たちは前者の意味で認識しているんじゃないだろうか?
つまり、あのイラストが単に女性性を強調したものなのか、男性を興奮させるために描かれたものなのかという認識の違いが、議論を成り立たせなくしているように思う。
女性性を強調するだけでも問題だろうって思う人もいるかもしれないけど、そういう人は男性性の強調がどういうものになるかを考えてみてほしい。
胸が大きいという女性性の強調に対応する男性性の強調は、別にいきり立った股間とかではなく、筋肉質であるとか背が高いとか、そのくらいのものじゃないだろうか?
(個人的に、胸の谷間は筋肉のスジや浮き出た血管と同等のものだと思っている)
筋肉質な男性やスラッとしたスーツ姿の男性のキャラクターがイラストに描かれて、それが性的で不適切だという話にはならないと思う。
そうは言っても、男性は大きな胸に興奮するんでしょ、と女性は思うかもしれない。
「興奮」が何を指すのかにもよるが、あのイラストで下半身が反応してしまったり、あのマンガで自慰行為をしている男性はほとんどいないと思う。
もちろん例外も中にはいて、たとえば、箸が転んでもムラムラしちゃう中高生男子なら、胸が強調されたイラストで興奮するだろう。
ただ、それは箸が転んでもムラムラする年頃だからであって、胸が強調されているからではない。
その時期を過ぎると、そのくらいのものでは下半身が反応したりはしなくなる(わかりやすく言うと、女性が血管の浮き出た筋肉質の男性を見るのと同じような目で見られるようになる)。
この辺の認識を合わせた上で、改めて献血のイラストについて議論をしたい。
ムラムラしなかったとしても、女性性を過度に強調したものを公共の場に出すことはどうなのかという議論を、変な反発や勘違いがない状態でできる気がしている。知らんけど。
これは本当に難しい。胸がこのくらいくっきり描かれていたらアウト、とか、このくらい頬が染まって困り眉をしていたらアウト、などと線引きをすることはできない。
では、どうしたらいいんだろう?
議論をしたらいい。
「線は引けません、私がいやだと感じたらそこが線です」みたいな主張の人たちと議論が成り立つとは思わない。
だいいち、過去に何度となくこの手の議論はあったけどそれを通じて1ミリでも妥結点に近づいたか?
ずっと平行線だったろ?
議論して対話してお互い納得のいく線を引きましょうなんて聞こえのいいこと言ってるけどさあ。
線はすでにあるよ。今引かれてる線にあんたたち一握りの人が納得してないだけで、ほかの人たちはみんなみーんな納得してるの。
議論すれば線を自分側に動かせると勝手に思ってるみたいだけど、全員が納得できる線など存在しない以上、残念ながら今の線は動かないと思います。
そろそろ目を覚まして現実を見ましょう。
増田くんのいっていることは理解しているよ。その上で言ってるんだよ。
「変なものを公共に置くな」はオタクちゃんも同意しているだろうけど、オタクちゃんはそもそも萌え絵は変なものに該当するとは思ってないんだよな。
だからさ、オタクちゃんは自分の感覚が傾いちゃっていることを自覚してよ、って話。
一般ピーポーと感覚を異にしている、という自覚を持とうよ。公私混同なんだよね。
ただそれだけの話。
アンパンマンの絵でPRするのは全く問題ない→全員が納得するはず
ただ、今回の問題で単純でないのは、
1、その線引きがどこなのか?
の2点だ
そしてこの2点は主観によって完全に変わるし、客観的に定義することはできない
例えばおまんこの写真がダメ度10、アンパンマンの絵がダメ度1としよう
そして、ダメ度7以上が献血ルームに貼れないと思っている人もいれば、ダメ度9までは許されると思っている人もいる
そして、宇崎ちゃんの絵がダメ度3くらいと思ってる人からダメ度8くらいと思ってる人まで幅広く存在しているように思う
さらにダメ度8に感じている人同士でも、いいやろとダメやろは両方出てくるはずだ
宇崎ちゃんポスターがいかにダメなのか、を必死に伝えようとしている人は、結局、「私にとっておまんこの写真が貼られているのと同じなんです」ってこと
そう感じるとすればダメなのわかるでしょ?と言えば、お前がそう思うんなら確かにダメだな、って思うし、「私にとってはアンパンマンと変わらん」と言われれば、確かにお前の中では問題ないな、ってなる
今回の件で議論が成立するとすれば、「宇崎ちゃんはダメ度8だよね」が共有できる間柄の中だけで、8はアウトなのかセーフなのか?という内容だけだ
男女平等には2種類の平等がある。2種類とは、"性別による差を無視する平等"と"性別による差を補填する平等"だ。
日本の女性の多くは、"性別による差を補填する平等"を重視し、"性別による差を無視する平等"はあまり考えていないように思う。
でも、どちらの平等も重要で、使い分けるケースがあると思うのだ。
以下の記事を読んだときに、男性スタッフは仕事であるから"性の違いを無視"するように振舞った。これは男女平等の社会、多様性を許容する社会の上ではとても良い行動だったと思う。
"男性スタッフがレジで女性の下着のレジ打ちをするのにはやはり抵抗があるか??"
しかし、女性客はこの行動を拒絶して女性店員の対応を要求した。これは性別による差別だと思う。男女平等の社会、多様性を許容する社会の上では批判されるべきだ。
一方で、これは生理的判断としては正しいとも思う。つまり、"平等"とは本能や生理的な反応を否定し、理性でそれらをねじ伏せて行動することだ。男性スタッフは生理的には対応したくなかったが、理性でその感情をコントロールして対応した。これが平等を重んじる社会における正しい行いだと思う。本能を理性でコントロールすることは難しいしストレスがかかるが、平等を重んじる社会では皆がそれに立ち向かっていかなければならない。
さて、この記事へのブックマークを見ると、女性のほとんどが女性の店員がいればそちらに持っていくという。これは男性スタッフに失礼を与えはしないが、明確に性別による差別だ。このように日本人女性が"性別による差を無視する平等"について軽視していることは問題だと思う。
他方、アメリカでは女性が公共の場でトップレスになるのが6つの州で合法化した。また、ノルウェーでは40年前から女性が軍に志願できるようになった。これは、"性別による差を無視する平等"である。欧米は"性別による差を無視する平等"も重視していると強く感じる。
ここで、日本の女性が重視している"性別による差を補填する平等"についても述べたい。例として、産休や育休、つまり労働可能な時間が短くなる女性についてもある程度変わらない給与を支給するものがある。ある評価基準によって"能力"が定義され、能力は個体差がある。評価基準は何かの生産性に基づくもので、能力が高いということは生産性が高いということなので、能力が高ければ社会における待遇はよくなる。
一方で、能力が低くても一定の待遇は保証されるべきだという考えが"差を補填する平等"である。これも非常に重要な平等だが、こちらは無制限には行えない。なぜなら、"差を補填する"際にコストが必要だからだ。だからこれは"弱者が救済されるために"使われるべきだ。強者にバイアスをかけるようなコストは減らすべきだからだ。
欧州は弱者へのコストが膨らみすぎて、もはや国家の経済が存続できない国が現れた。それ故、コストがかかる"性別による差を補填する平等"だけを重視するのではなく、"性別による差を無視する平等"によって全体の調和を整えようともがいているのではないか。
産休や育休のような、"性別による差を補填する平等"は今まで以上にどんどん取り入れるべきだと思う。それによって豊かに暮らせる人や家庭が増えればよい。でも、これからの日本は"性別による差を無視する平等"も考えていかなくてはならないと思う。"差を補填する"リソースは無限ではないのだから。
さて、日本人男性についてあまり話していなかったが、日本人男性は"性別による差を無視する平等"を重視する世の中を望んでいると思う。理由は、"性別による差を補填する平等"で男性が利益を得るような制度がないからだ。でも男性の中には、タピオカドリンクを飲んでみたかったり、女装してみたかったり、女性向け漫画が好きだったり、主夫になりたい人もいるのだ。彼らは"性別の差による補填"を望むことはない。"性別によって差別"されたくないのだ。性別に関係なしに、自分の興味があることを試したり没頭してみたいのだ。
はてなでも男女平等について色々な議論が生じる場面があるが、いつも男女間で議論がかみ合わずに平行線になる。これは、女性が"性別による差を補填する平等"を重視している一方で、男性が"性別による差を無視する平等"を重視しているからだろう。それぞれの平等はどちらも重要だが、いっしょくたに考えてはいけないのだ。別々のものとして考え、どちらの平等が適したケースかを議論する必要があるのだ。