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はてなキーワード: 平行線とは

2019-12-10

anond:20191210174358

平行線というか、答えられるほどに共産党について知らないのでは?

共産党女性YouTubeチャンネルで堂々と暴力革命もあり得ると発言してる人がいるけど、そんな政党野党大一党として相応しいと何故言えるんですか?

2019-12-05

家事を早くやらないとキレる人種

他の増田に書いてあって思い当たることがあったんだが、生き急ぎすぎてね?

放置してゴミの山になるとか、ハエが集るとか、

1週間分皿がたまるとかなら分かるよ?

だが、自分の思い通りに「家事を即座にやらない人」に対してブチキレるってどうかしてる。

「早くしろ!早くしろ!はーやーくーやーれ!!!」って。

人が思い通りに動かないからってキレるって相当幼稚だからな。

そんなんでイラつくくらいなら、自分が代わりに進んでやるくらいすればいいのに。

うちは共働き家事折半

食後すぐには動きたくない。テレビが良いところに行くまでは動きたくない。

色んな理由があり放置してたりする。

「すぐにやるべきだ」というのも、まぁ分かる。どうせ後でやるものだし。

でもタイミングはあるだろう? 今まで一度もやり忘れたことないんだ。

急かされるたびに「あぁ、信用されてないんだな」と実感するわ。

相手の方が家事やり忘れたりすること多いのにな。本当にアホだわ。

そもそも、怒ってなにか解決したことあるか?冷静になれよ。

もっとマイペースに生きて欲しいわ。

こういう奴らの相手、どうしたら良いんだろうな。

「後でやるって言ってんだろが!!!」って毎回キレりゃ良いのか?

平行線だなぁほんと。人のことを意のままに動かそうとする奴と関わらないのが一番なんだろうな。

増田は女です

2019-12-04

十中八九そうだろvsそうとは言い切れないだろ

平行線

anond:20191204114341

創作してる側からすると平行線な上に生産的な話題に見えないし、

そんなのにメンタルすり減らすくらいなら制作してたいとは思う

フェミの神絵師で怒ってる人もいたけど発言過激すぎて何人かフォロー外しちゃったわ

その人らも仕事普通に萌え絵だったりエログロ描いてるし

そういえば自分のTLではオタク側で怒ってる人はいなかったな

2019-11-24

anond:20191124173942

ですから平行線じゃありませんか?

私は漫画家を知らないと再三申し上げておりますのに、ですが貴方漫画の例示を頑なに固辞し続けていらっしゃる

男性漫画家は生身の女性理解していない」という発言もしておりません

私が私の言葉対象としているのは、小説であり、今回であれば特になろうに挙げられている物に対してです

それを専門外の分野で追求させられるのはお門違いだと思うわけですが?


逆も然り、貴方漫画しか物を語らない程度の頭しかないなら

小説タイトルをあげても無駄でしょうね!

貴方アルティメット世界大会や、コントラクトブリッジ日本プロに興味ないのと同様に

なろうにも興味がないのは明白ですから

2019-11-20

青識はすげえよ。

これフェミ、先約があって行けなかった。すごく行きたかたから、チケットを買おうとすらできないのが悔しかった。期待してたのは、双方手を知り尽くした結果しょっぱくなった柔道試合みたいな、場外と待てがよくはいって引き分けになるようなのだった。どうせ平行線で終わるとは思ってた。

でも終わったあとの展開をTogetterで見て、私は絶望した。

先週まで私はリベラルフェミニストに共感していてラディカルフミニストに反感を持っていた。そのつもりだった。でも今は違う。全然違う。

女に公民権与えるの、1000年早かったんじゃないかな。

家の、一族の、貴重な財産ぐらいの扱い、それぐらいがちょうどいいんじゃないかな。

難しいことは何も考えないでマッチョなパパにグランパに、大事大事門外不出にされるのが女にとって最高の幸福なのでは?

いったん部族社会まで世界を巻き戻すべきなんじゃないのかな?

青識はすげえよ。まだ対話可能性にかけてる。

私はダメだ。もう元手をすっちゃった。絶望だ。若い女が私の70過ぎの母とほぼ同じムーブをしてる。50年何の進歩もなく言葉の表面だけ変わっているだけなんだ。女はいったん、箱に詰めた宝石、袋にパンパンに詰めた綿菓子、そういうモノに戻すしかないんだ。私の人生は全て間違っていたんだ。

青識はすげえよ。あんたは強いよ。私はもうダメだ。

2019-11-08

anond:20191107191859

んーん、全然悪いことなんてないよ

ただ、そーいうフィクション異世界努力せず俺ツエー)に耽溺するやつって「イケてない」よねって話なんだと思う

この「イケてる」「イケてない」って(個人偏見含む)感覚問題から論理的議論しようとしても無理がでてくる

からこういう言い合いってどうしても平行線なっちゃうんだよね

2019-10-29

https://anond.hatelabo.jp/20191029132732 の続き

下着広告って性的じゃないの

少し脇道にそれて、下着広告について考える。街に下着広告があったとして、下着メーカーは、単に下着の魅力を伝えたいだけで、性的な消費のためにポスター掲示するわけではない。しかし一方で、下着広告性的であると受け取る人間存在するし、客観的に見れば非常に露出度の高い表現である

赤十字ヴィクトリアシークレットコラボレーションを行い、下着姿の女性献血を呼びかけるポスターを作ることはあるだろうか。あまり無さそうに思われる。下着姿の女性下着広告から切り離した場合、それは過度に性的存在になると感じる人が多いのではないだろうか。逆説的に、下着姿というものは本人の意志に関わらず本来性的であり、下着宣伝という文脈でのみ、その性的さが阻却される、とも言える。どうやら、現在日本においては、下着宣伝においては、性的な要素の含有は問題ない、という社会通念上の合意が得られているようである。なぜそのような合意今日日本で得られているかというと、下着というのは、日常生活でほぼすべての人に必要からであろう。ここで注意すべきなのは、このような合意は、現在日本において、という前提である宗教や国、あるいは時代によっては、このような合意が必ずしも得られていないことは容易に想像できる。このような合意は、社会における価値観のすり合わせによって形作られたと言っても良い。

このような合意が、他の性的表現と比べた場合一貫性にかけるという指摘は、ある意味では妥当である。先に述べたとおり、文脈や背景を考慮せずに、客観的露出度などを基準性的表現判断することを是とする場合、「下着広告である」という文脈もまた切り離すべきであるといえる。例えば、文脈理解する力が弱い子供にとって、下着広告は単に性的でありえる。実際に、「小さい頃は通販雑誌下着のページを良く見ていた」という男性の話も聞いたことがある。このような場合、たとえ広告性的意図がなかったとしても、子供に悪影響があるかもしれない。大人の都合によるこのようなダブルスタンダードともいえる基準子供に悪影響を与えているという指摘がなされた場合、どのように答えるべきであろうか。ダブルスタンダードを廃して、下着広告露出度基準として規制すべきだろうか。あるいは些細な影響だとして現状を維持するべきだろうか。「下着広告性的に見るためのものではないので、勝手性的に見るのはやめなさい」という教育を行うことに意味はあるのだろうか。

この点については、正直なところ私自信もあまり明確な結論を持っていない。直感的には下着広告ポスター規制をかけることはバカバカしいと思っている。下着広告においては、それが性的消費に向けたものではないという認識があるからだろう。しかし同時に、それはダブルスタンダードであると言われた場合、うまく返答ができない。「あなた下着広告ポスター規制をかけるのをバカバカしく思う気持ちは、私が宇崎ちゃんポスターに対する批判バカバカしく感じるものと同じです。なんなら、露出度が高い分、子供への悪影響は下着広告ポスターの方が大きいですよね」と言われた場合あなたはなんと答えるだろうか。「エロくないもの勝手エロく見るほうが悪い」といえば問題解決するだろうか。

ちなみにであるが、恐らく多くの成人男性にとって、下着広告ポスターは多かれ少なかれ性的なのではないだろうか。男性は、単にTPOをわきまえて性的表現に対するリアクションを行っているだけであって、教育によって下着広告ポスターを「性的に見なくなった」わけではない、気がする。「勝手性的に見る」のをやめられた男性がどれぐらいいるのかは気になるところである性的に感じつつも、見ていないふりをしている男性の方が多いのではないだろうか。

かわいい、綺麗、エロ

ところで、宇崎ちゃんの作者は、宇崎ちゃん性的表現しているのだろうか。宇崎ちゃんの作者の内心はわからないので、2つのケースを考えてみる。

1つ目は、宇崎ちゃんが、男性に対してのアピールを増すために、意図的に性的な要素である乳袋を与えられた場合である。この場合、宇崎ちゃんには、性的な要素が意図して組み込まれた背景が存在することになる。そして、宇崎ちゃん性的である、というポスター批判派の指摘には、一定妥当性がある。

2つ目は、単に可愛い要素を詰め込んでいたら乳袋になっていただけ、という場合である。既に乳袋一般的表現になっている世界において、宇崎ちゃんちょっとした可愛さの一要素としてそれが組み込まれ場合、宇崎ちゃん性的意図は含まれていないと考えられる。この場合、宇崎ちゃん性的であるとみなす言説は、本来は胸が大きくて可愛いだけの宇崎ちゃんを「勝手性的に見ている」行為になる。つまり、興味深いことに、ポスター批判派こそが、人の格好を勝手性的であると見なして騒いでいる存在となるのだ。ポスター擁護派の中には、この立場に立って、ポスター批判派こそが「エロくないもの勝手エロく見ている」と指摘する人もいる。一方で、乳袋性的表現ではないという前提は、現在日本においては広く同意が得られた認識ではなく、この立場に立つことはポスター擁護派の欺瞞である、という指摘もある。

実際のところ、作者がどういった意図で宇崎ちゃんを作ったのかはわからない。恐らくは前者であろうが、オタクコンテンツ一般的化が進んだ現在において、後者のような状況が起こる可能性もある。乳袋ネイティブ世代にとって、乳袋猫耳ぐらいのカジュアル属性かもしれない。また、乳袋韋駄天靴下は極端にしても、絶対領域ミニスカート胸の谷間おでこ猫耳や表情といった要素になると判断が難しくなるのではないだろうか。下着広告においては、「性的消費目的ではない」ということが明白であるため、「エロく見るほうが悪い」という切り捨てに一定妥当性が与えられる。しかし、こういった未定義エリアにおいては、表現者と受け手のどちらかに一方的責任押し付けることが難しくなる。

これらの思考実験を前提とした場合、「かわいい」「綺麗」あるいは「性的」「エロい」というのは、外形上非常に線引が難しいと認めることになるだろう。ある人にとって単に「かわいい」だけの格好が、別の人には「性的に」映ることは避けられない。また、性的消費の意図表現者に存在たかどうかを基に判断をするというのも、同様の理由で困難が予想される。さらに、仮に性的な消費を前提として表現された性的な要素だとしても、どこまでが許される「性的さ」で、どこから先が自粛すべき「過剰な性的さ」なのかについても考えなければならない。

今回の乳袋については、個人的には、性的な消費を前提とした性的な要素であるが、過度に性的とまでは言えないかな、という認識であるオタク表現に馴染んでいるためのバイアスが掛かっていることには自覚的であるが、なんとなく肌が露出していなければセーフという気もする。また、表情について言うと、これは恐らく性的な消費を前提としていないであろうと考えている。作者は単に宇崎ちゃんのうざさを表情で表しているだけのように見受けられる(これをアヘ顔とは呼ばないであろう)。

繰り返しになるが、このような受け取り方は、私個人のものであり、人によって異なるであろう。それ自体が悪いことであるとは、私は考えていない。

多様性尊重するべきなのではないか

多様性は大切にするべきであり、多様性を大切にするのであれば、お互い似好き放題やって、相当な衝突が発生しない限りはお高いに許容しよう、という考え方がある。仮に、件のポスター性的であったとしても、「そういう表現好きな人もいるよね」で終わらせることができるのであれば、それで全ては解決する。一部のポスター擁護からはこのような世界理想とした言動が見受けられる。

しかし、この考え方は現実世界においては、非常に運用が難しい。「相当な衝突」の定義が人によって異なるからだ。ある人にとって些細なことが、別の人にとっては大問題というのは、それこそ多様性を前提とするれば数多く発生するだろう。そうなった場合、結局は社会なすり合わせが行われて、自主規制として運用されることになる。私個人としては、なるべく多様性尊重する観点から、多少気に食わないことがあってもスルーするのが美徳であると考えている。しかし、だからといって他人に対して「それは些細な問題であるからスルーせよ」と強要するのは良しとしない。件のポスター女性差別問題として扱う場合、その人にとって、それは些細な問題ではない可能性がある。多様性尊重とは、相手に黙認を強要するための武器ではなく、互いの価値観をすり合わせて妥協点を見つける営みであるとも言える。もちろん、そのようなすり合わせは非常に高コストであるし、お互いに面倒である。繰り返しになるが、自由を維持するための不断努力とはこういうものなのだろう。

宇崎ちゃん性的であるとして、そこをほじくる意味はあるのか

ポスター擁護派の中には、仮に宇崎ちゃんが過度に性的であるとして、そこを指摘する必要性はあるのか、と問う人もいる。件のポスター女性差別性犯罪と関連付けて批判する場合、他にもっと重大な問題存在するのではないかという指摘である私自身は、この指摘は意味をなしていないと考えている。仮に、宇崎ちゃんポスター性差別問題があるのであれば、それが他の案件に比べて社会的に些細な影響をもたらさないとしても、指摘することは問題がない。もちろん、リソースが有限である以上、より重大な案件からあたるべきだという意見には一理あるが、それを強制することは誰にもできない。あるいは、ポスター批判派は単にキモオタもしくはオタクコンテンツが嫌いなだけなのではないか、という指摘もある。この点については、個人の内心がわからない以上、そこを議論しても無意味であるしかし、どのようなチベーションの人が存在するとしても、言論それ自体にはロジカル対応する必要がある。論者自身姿勢への批判と、議論内容そのものへの批判は分けて考えるべきであろう。

ずっと譲歩していたらブルカみたいにならないか

極端な話では、なる可能性はある。すでに述べたとおり、規制は強化される方に圧力がかかりやすい。ポスター擁護派はこのような自体を避けるために、無理に譲歩する必要は無い。最も、私自身はこの点については、あまり心配してはいない。仮にあらゆる肌の露出性的とみなす言説が現れたとしても、現在日本において多数派同意は得られないであろう。

差別の苦しみを知るのであれば

ある意味ではミラーリングが起こっているのだが、「男」という言葉を「雑に」用いた意見に対する反発が、少なからずあるように思われる。これはすでに多方面から指摘されていることであるが、「多くの」男性にとって、性犯罪あるいはセクハラというのは実際のところ未知の事象であり、「多くの」男性は、少なくとも自らが犯すのは避けるべき行為であるという倫理的良心的な規範を持ち合わせている。このことが逆に女性が日々感じている女性ゆえの困難さへの無理解につながるのだが、一方でその困難さへの責任を「男」というまとめにより自身へも向けられたときその男性にとっては困惑しかない。これはある女性が「女性」として差別されるのと同じく、ある男性が「男性」として差別されている相似形と言える。「多くの」男性は、このような女性の困難さに対して同情的であるし、不正義だと考えるであろう。しかし、一方であなたもその片棒を担いでいる、と責められるのは理不尽であると考えるのではないだろうか。女性であるという理由ハイヒール強要されることを良しとしないのであれば、ある男性男性という理由だけで責任押し付けられるべきではないし、罵倒を浴びせられるべきではない。このような行為は、男性でも女性でも、アメリカ人でも日本人でも傷つくことである差別は良くない。単純だが、これは切実な問題である。本当に傷つくのだ。

ある属性の人々が憎まれるのは、過去にその人達が行ってきたことのせいである、という考え方もあろう。しかし、どうか、属性で人を憎むのはやめることはできないだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」とまで言うつもりはない。なにか嫌なことがあったときに、原因となった個人を憎むのは、あるいは避けられないだろう。しかし、その原因となったその個人属性までを憎むようになってしまうと、文字通り憎しみの連鎖が始まってしまう。気持ちは分かるけど、なんとか堪えられるといいと思う。難しいけど。また、議論においては、そのような発言は大いに弱点になるので戦術的にも避けたほうが無難ではある。

違いすぎる前提と背景と強い言葉(内容がメタ化してきたぞ)

ところで、先程から使っている「多くの」という表現であるが、ここに闇が潜んでいるのではないか、という指摘もある。社会階層年代、あるいは地域ごとに特性があり、私が感じるところの「多くの」というのは、あくまでも「私の身の回りでは」の話となる。ある女性にとって、身の回りの「多くの」男性が、その女性にとって好ましくない特性を備えているという状況は、恐らく確率的にありえるし、どちらかというと、そういったことは特定グループにおいて偏って発生するのではないかとすら推測できる。私が前述した、「多くの」男性倫理的良心的な規範を持ち合わせているという言説についても、同意できない人はいるであろう。

インターネット上の議論においては、そういった各人の異なる背景が共有されないまま発言が行われるため、話が非常にややこしくなってしまう。ある人は、身の回り男性を原因とする数多くの困難を経験した上で、その経験に基づいて何かを述べるのであるが、そのような経験は必ずしも前提として共有されていない。そのような発言を、同様の困難を経験したことのない人が見た場合、大げさだったり、被害妄想が激しいか、あるいは単に攻撃的な人物発言のように写りがちである。このような両者の異なる認識は、それぞれ異なる経験に基づいたものであるから、それぞれ「正しい」のである。そして、正しいからこそ厄介であり、それぞれが無意識に持っている別々の前提をすり合わせないままに議論を続けると、平行線のまま話が進むことになる。Twitterのような短文のプラットフォームでは、なおさら背景が共有されないまま議論が行われることになりやすい。

以上のことを考えるに、もしも発言の中に「常識」や「普通」あるいは「当たり前」「当然」「明らか」といった言葉を使っていた場合は、特に考え直したほうがいいかもしれない。あなたにとっての「常識」は非常に限られた範囲のものであるしかも、これらの言葉は「正しさ」をニュアンスとして含有していることから、それに当てはまらない人(恐らく沢山いる)に対する悪意と捉えられやすい。当然ながら、「異常」とか「おかしい」とか「論外」といった強い表現はなおさら安易に使うべきではない。これらの言葉は人を傷つけるし、ロビイング戦術としても周囲の理解を得にくくなる。すでに「主語が大きい」ということはよく言われるようになったが、これらの表現にもできるだけ留意するようにしたい。

まだ続くのすごない?

https://anond.hatelabo.jp/20191029133051

2019-10-26

宇崎ちゃんポスター問題を解く。いや説く。

一番読んでもらいたいのは最後の節のもっと言えば、今回の問題は~からなので、長いと思った人はそこを読んでほしい。

世の中の表現にはさ、製作者と表現物と鑑賞者がいるよね?

宇崎ちゃんポスター場合絵を描いた人と絵と絵を見た人。

もちろん作者には意図があって表現してるけど、解釈は鑑賞者の自由だと思う。

例えばあなたは犬を飼っていて、可愛いと思ってその犬の写真を撮ってインスタにでもアップしたり「これ可愛いくない?」って誰かに見せたとしよう。

でもそれが可愛いか可愛くないか判断するのは鑑賞者の自由だよね?内心の自由ってやつ。その写真を可愛くない思ってもいいわけじゃん?かわいいと思ってもいいんだけど。

犬の顔がかわいい、手足がかわいい尻尾かわいいと思ったり思わなかったりは鑑賞者の手に委ねられてるよね。

宇崎ちゃんポスターに関しても、エロいエロくないかエロさや卑猥さを根拠にした場に相応しいと感じるかどうかはあくまで鑑賞者の解釈次第なわけ。

そこで「この絵はエロいエロくないっていう奴は馬鹿」みたいに叩くのは辞めようよ。それなら同じ理屈エロいっていう奴も馬鹿だよ。

それに、他人が本当にエロいと思ってるのか思ってないのかは観測できないし、仮に観測できてもどのくらいエロく感じているのかは千差万別なはずだし、

ディストピアみたいにこの表現はこういう解釈だって強制されてるわけでもなく、強制したほうがいいわけじゃないでしょ。

仮に乳袋エロ表現技法だとしても、絶対エロいんだと卑猥なんだと感じないといけないわけじゃないじゃん?宇崎ちゃんポスターについては実際にオタクの中でも意見は分かれるよ。

んで、エロいから卑猥からという鑑賞者個々人の自由解釈した結果の主観的尺度議論しても平行線になってしまうわけよ。

校則で「スカート丈は膝下何センチとする、それより短いのは風紀が乱れるので禁止」としたときの膝からの長さのような、客観的尺度議論するほうがまだ実りがあるよ。

ただスカート丈をいくら長くしようが短くしようが解釈する人が必ずいてその解釈十人十色なんだよ。

解釈をもとにした議論じゃ一向に解決しないので別の点を探ろうよ。まずは。




あと、個人主体性に依らない女性モチーフにした表現物(女性を描いたイラスト等)に対する解釈を誰かが都合よく他人強制させることができて、特に性的解釈するのは害という考え方ね。

いや、そういう考え方してもいいのよ?いいけどそれで他人自分が思った通りに解釈をしなくて困るって他者自由意志を蔑ろにしてると思いません?

内心の自由コントロールできると思ってるの?

逆にあなたは誰かにコントロールされてますか?誰かに解釈強制されてますか?

強制されてないってことはあなた乳袋を見たとき卑猥と思っても卑猥と思わなくてもいいんですよ?卑猥と思ったのはなぜですか?そして卑猥だと解釈することだけが正しいとするのはなぜですか?

逆に卑猥じゃないと思ったのはなぜですか?その解釈のみが正しいとするのはなぜなんでしょうか?

製作者が意図してる以外の解釈製作から見ると間違っているけど、だからと言って鑑賞者の解釈をすべて縛れるわけがないじゃん。

他人なんだから原理的に不可能だよ。洗脳のような暴力的手段なら可能かもね。




あと勝手他人脳内性的解釈してると想像して、性犯罪予備群だ、オタクは悪だ、男は悪だみたいな連想ゲームをして気持ち悪がる人いるよね。

いやそう考えてもいいけど、それ全部あなた想像だよね?

他人脳内勝手想像してもいいけどさ、それが現実存在する人全員に当てはまるわけじゃないし、そのうち何人が性犯罪者なのか確かめたわけでもないし、オタクだろうがDQNだろうが犯罪する奴は犯罪するんだよ。

ネットあなた勝手想像する犯罪者予備軍の存在趣味嗜好を叩いても実際に犯罪するという行動を止めることはできないよ。

他人基本的コントロールできないんだよ。他人の行動や思考制御することはできないんだよ。

お願いや命令実力行使をすれば行動は制御できるかもしれない。けど思考解釈感じ方に関してはお願いや命令実力行使をしても本当にその思考をやめたのか観測できない。

残念なことに、世の中の表現物をなくしても実際の人間を見て性的解釈する人は無くならないし無くせない。

実際にあなたを見る男の思考観測できない以上、どう見られているかはわからないんだよ。

性的解釈してなさそうに見えても、実際に内心で性的解釈してるかどうかは本当のところは判らない。

性的解釈してますか?と聞いて、していないと返事があっても嘘を言っているかもしれないし、そうでないかもしれない。

世の中の人たちはみんなそういう条件の下で生きてます

これは犯罪に遭いたくない犯罪を減らしたいという気持ち否定してるわけじゃないよ。

交通事故が怖い人はたくさんいるだろう、痴漢被害に遭いたくないよね。それらに巻き込まれ可能性を排除しようとして家から出ないのはそれはそれで困るんじゃない?

ということは世の中の人たちは少なからずそういうリスクを抱えて生活しているんだよ。意識してるかしていないかは別として。

宇崎ちゃんポスター等を見て過去経験からトラウマになっていて耐え難いとするのももちろんいいのだけど、まずあなた必要なのは傷ついた心の癒しであって、何か叩くことではないです。

それに世の中から宇崎ちゃんポスターみたいな表現を無くすことで個々人が何か誰かを性的解釈をするのを無くすというのは不可能だし、違う方法いいんじゃないかな?




もっと言えば、今回の問題簡単に言うと寛容さと癒し

世の中の人たちは寛容になりたいはずだと思う。

人に不親切な自分より、人に親切な自分のほうが好きなはず。

他人の何かを認めない自分より、認められる自分のほうが好きなはず。

ただ、人は気分が良かったり余裕があったりすればするほど他人に対して優しくしたり親切にできるけど、暴力を受けたりひどく傷つけられたり裏切られたり孤独だったり等のダメージを受けると被害意識が寛容さを失わせてしまう。

そこで傷つけられた人たちやそれに同調する人達は、自分(達)以外の他人不寛容に見えてしまったり、

さらエスカレートして直接自分被害を与えたわけでもないものや、イラスト人物自分を同一視し他者視線想像してまでひどくおびえたり恨んだりしてしまう。

もう一度言うけど、傷つけられた人たちに必要なのは他者からの適切な助けや癒しであって、他人を叩いたり否定したり馬鹿にすることではないよ。

しかし、同調する人は回復を助けはしないどころか、一緒になって叩いたり恨んだりすることに快感を感じたり存在意義を見出ししまう。

まれたほうもまた、被害意識を持ちループが始まってしまう。

「私はこういう理由で困っているから助けてほしい、こうしてほしい」は他者に伝わりやすいが、「なぜこうじゃないんだ!これは間違っている!これは許せない!」というのは伝わりにくい。

他人に伝えても、結局他人コントロールできないのでさらに傷ついてしまうこともある。ただそのダメージを最小限に抑える方法もある。

必要なのは、傷つけられた人たちが他者に寛容になれるくらいまで癒されたいと思い、実際に癒されること。適切な人からの助けや癒しだと思う。

また、傷つけられた人たちに安易同調せず、回復の手助けをする人たちが増えることだと思う。

新規さん?

数日、増田を読んだりコメしたりした人は思ってるだろう。

フェミだの、オタだの、おっぱいだの、もう腹一杯だ。

それでも、未だ話題が続いてる。

ひょっとして、増田新規さん?

やってみればいい。投稿すればいい。

考えれば考えるほど魔境に入ることだろう。平行線のままなのだから

ここで、ある人物言葉を参照する。

革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標をもってやるから、いつも過激なことしかやらない。

しか革命の後では、気高い革命の心だって官僚主義大衆に飲み込まれていくからインテリはそれを嫌って、世間から政治からも身を引いて世捨て人になる。」

2019-10-23

監督作家から見る「ジョーカー分析

話題映画ジョーカー」を観た。3日間もの間、印象的なシーンが鮮明に再生され、日常生活を送りながらも映画の中の世界が頭から離れなかった。観賞中は息が詰まるような緊張感が続き、ショッキング描写気持ちは激しく動揺した。

これは一体どういう映画なのだろう。なぜこんなにも強く私の脳内占拠したのだろう。これは議論を呼ぶ名作なのか、はたまたただのトラウマ体験なのか。作品に散りばめられたエッセンスから頭をよぎった監督たちの紹介とともに答えを探っていきたい。

まず系譜としてはマーティン・スコセッシなしには語れない。スコセッシは言うなれば妄執の父である社会が見せる夢に取りつかれた青年現実妄想の間でもがく、という題材をひとつテーマとしている監督だ。アメリカンドリーム皮肉たっぷりに描き、鬱屈した現実とポップな理想を同居させ、若者狂信的な思いを貫くことで結果的社会カウンターパンチを食らう、という内容に特徴がある。主人公にはしばしば常識倫理観が欠如しており、それが社会との隔絶や陰惨な事件を起こす引き金となる。「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」でうだつの上がらない妄想癖の男を演じたロバート・デ・ニーロが「ジョーカー」で今度は人気番組司会者を演じているのも意図的皮肉だろう。社会の片隅で生きる男が自意識肥大させて全能感を獲得するという構図は明らかにスコセッシに倣ったものだ。

だが、スコセッシ作品と比べると「ジョーカー」の方が観ていて受けるショックは大きい。はじめから狂気じみたスコセッシの描写する青年と違い、「ジョーカー」の主人公アーサーは特殊障害こそあるものの、それなりの分別を持って慎ましい生活を送る恵まれない男なのだ尊大さよりも不遇を強く感じさせる分、彼が段々と堕ちていくのを見るのはつらい。

似たような余韻を残す作家連想するのはダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキー絶望職人であるこちらも現実妄想の対比によって物語が進行するが、えげつないほどの乖離物理的に後戻りのできない状況を生み出すことによって観客もろとも登場人物絶望へと叩き落とす。往々にして個人における心理状態の変化に焦点が当てられ、描写に肉体の変容を伴うのが特徴だ。職人と称したのは、映像音楽を神経質なまでに駆使して恐怖や落胆、憧れといった感情を煽っていく技巧派スタイルからだ。その画面は暗く、重く、そして美しい。「ジョーカー」を観て「レクイエムフォードリーム」や「ブラックスワン」を想起した人も多いだろう。アロノフスキー作品同様、「ジョーカー」には喪失のものを賛美する鎮魂歌のような要素がかなりある。観客に登場人物と同じ夢を見させた上で、それが緊張とともに深い闇に飲まれていく過程をただただ美しく映し出すのだ。

では、「ジョーカー」の監督であるトッド・フィリップス独自性はどこにあるのか。それは、社会的にインパクトのある題材を濫用し刺激的すぎるほどリアル描写にこだわっているにも関わらず、全体として悲壮感を打ち消しにかかっているところにあるように思う。まさにジョーカー的とも言える、悲劇喜劇かは主観次第、というのを地で行くような趣きがある。スコセッシが愛に飢え、アロノフスキーが闇を愛でる一方で、フィリップス節はなんとなくはじめから終わりまで人々の孤独平行線のまま、深刻なのにどこか表面的で、楽観していて投げやりなのだ

過去作の「ハングオーバー」でもトッド・フィリップスはそんな調子だった。いたずらに過激モチーフを画面に持ち込み、場当たり的に対処していく。物語は緻密に構成しながらも強いテーマ性は内在させず、作り手としての態度はどこか楽観的だ。調べてみるとドキュメンタリー出身とのことで合点がいった。おそらくは観客を引きつけておく演出は最大限発揮しながら、事象としてはすべてありのままを受け入れる、ということである男子寮、バチェラーパーティー、そして今回のジョーカー誕生といい、悪ふざけと相性の良いトピックを選んでいるのもきっと彼らしさなのだろう。待てよ、よくよく考えれば彼の切り口は「やりすぎ男子」そのものじゃないか

だとすると、やはり「ジョーカー」という作品社会的意義を議論するには不向きな映画だろう。映像表現に長け、社会ありのままに捉え、悪ふざけを好むトッド・フィリップスという監督が、人々にトラウマを植え付けるほどやりすぎてしまった結果できた映画なのではないか社会問題全部盛り、過激表現シマシでありながら「そういうこともあるさ」と爽やかに言わんばかりの演出にはそれで説明がつく。それは確かに時代を反映しているかもしれないが、風刺意図や分かりやすメッセージはおそらくそこにはない。

新時代のやりすぎブラックジョーク、それが私の「ジョーカー」に対する結論である

※ 本当はクリストファー・ノーランにも言及たかったが、うまくまとまらなかったのであえて割愛した

2019-10-20

ポスター問題ざっと見た印象

フェミ二次元の女は作り物だが男が好き勝手自分欲望を反映させており(主観)それを見た現実の女は傷ついてる(主観)」

オタク二次元の女は作り物だから実際の女を傷つけてはいないのに何が悪い」「そもそもこの程度性的と言えない(主観)」

からもう平行線になる

フェミラインはこの世の目に見える所から性的事象を全て無くすしか己が傷つくのを避ける道がない

この理屈でいうとラブドールダメになる

女の形の何かが性的に扱われる事実認識した瞬間傷つくから

はてなは恐怖だわ

国内国外ともに深刻な問題が起きてる中、はてなでは絵が性的かどうかばかり議論され、しかもいつまで経っても平行線で終わらないんだもん。

2019-10-19

性的」という言葉を分解しない限り献血イラスト議論平行線のま

いろいろな議論を見ていて気になるのが「性的」という言葉認識の部分。

性的」って何?男性的・女性的ってこと?それとも、ムラムラして興奮しちゃう(あるいはそうさせる)ってこと?

たぶん批判してる人たちは後者で使っていて、問題ないって言ってる人たちは前者の意味認識しているんじゃないだろうか?

まり、あのイラストが単に女性性を強調したものなのか、男性を興奮させるために描かれたものなのかという認識の違いが、議論を成り立たせなくしているように思う。

女性性を強調するだけでも問題だろうって思う人もいるかもしれないけど、そういう人は男性性の強調がどういうものになるかを考えてみてほしい。

胸が大きいという女性性の強調に対応する男性性の強調は、別にいきり立った股間とかではなく、筋肉であるとか背が高いとか、そのくらいのものじゃないだろうか?

個人的に、胸の谷間筋肉のスジや浮き出た血管と同等のものだと思っている)

筋肉質な男性やスラッとしたスーツ姿の男性キャラクターイラストに描かれて、それが性的不適切だという話にはならないと思う。

そうは言っても、男性は大きな胸に興奮するんでしょ、と女性は思うかもしれない。

「興奮」が何を指すのかにもよるが、あのイラスト下半身が反応してしまったり、あのマンガ自慰行為をしている男性ほとんどいないと思う。

もちろん例外も中にはいて、たとえば、箸が転んでもムラムラちゃう中高生男子なら、胸が強調されたイラストで興奮するだろう。

ただ、それは箸が転んでもムラムラする年頃だからであって、胸が強調されているからではない。

その時期を過ぎると、そのくらいのものでは下半身が反応したりはしなくなる(わかりやすく言うと、女性が血管の浮き出た筋肉質の男性を見るのと同じような目で見られるようになる)。

この辺の認識を合わせた上で、改めて献血イラストについて議論をしたい。

ラムラしなかったとしても、女性性を過度に強調したもの公共の場に出すことはどうなのかという議論を、変な反発や勘違いがない状態でできる気がしている。知らんけど。

anond:20191018131310

これは本当に難しい。胸がこのくらいくっきり描かれていたらアウト、とか、このくらい頬が染まって困り眉をしていたらアウト、などと線引きをすることはできない。

では、どうしたらいいんだろう?

議論をしたらいい。

「線は引けません、私がいやだと感じたらそこが線です」みたいな主張の人たちと議論が成り立つとは思わない。

だいいち、過去に何度となくこの手の議論はあったけどそれを通じて1ミリでも妥結点に近づいたか

ずっと平行線だったろ?

議論して対話してお互い納得のいく線を引きましょうなんて聞こえのいいこと言ってるけどさあ。

線はすでにあるよ。今引かれてる線にあんたたち一握りの人が納得してないだけで、ほかの人たちはみんなみーんな納得してるの。

議論すれば線を自分側に動かせると勝手に思ってるみたいだけど、全員が納得できる線など存在しない以上、残念ながら今の線は動かないと思います

そろそろ目を覚まして現実を見ましょう。

2019-10-18

anond:20191018192716

増田くんのいっていることは理解しているよ。その上で言ってるんだよ。

「変なもの公共に置くな」はオタクちゃん同意しているだろうけど、オタクちゃんそもそも萌え絵は変なものに該当するとは思ってないんだよな。

で、議論ちゃん平行線を描いている、と。

からさ、オタクちゃん自分感覚が傾いちゃっていることを自覚してよ、って話。

一般ピーポーと感覚を異にしている、という自覚を持とうよ。公私混同なんだよね。

ただそれだけの話。

宇崎ちゃんポスター問題本質言うわ

おまんこの写真貼ってPRしたらまずい→全員が納得するはず

アンパンマンの絵でPRするのは全く問題ない→全員が納得するはず

ダメラインはこの2つの間のどこかにある

ただ、今回の問題で単純でないのは、

1、その線引きがどこなのか?

2、今回の宇崎ちゃんポスターはどの位置付けなのか?

の2点だ

そしてこの2点は主観によって完全に変わるし、客観的定義することはできない

からどこまでいっても平行線になる


例えばおまんこの写真ダメ10アンパンマンの絵がダメ度1としよう

そして、ダメ度7以上が献血ルームに貼れないと思っている人もいれば、ダメ度9までは許されると思っている人もいる

そして、宇崎ちゃんの絵がダメ度3くらいと思ってる人からダメ度8くらいと思ってる人まで幅広く存在しているように思う

さらダメ度8に感じている人同士でも、いいやろとダメやろは両方出てくるはずだ


宇崎ちゃんポスターいかダメなのか、を必死に伝えようとしている人は、結局、「私にとっておまんこの写真が貼られているのと同じなんです」ってこと

そう感じるとすればダメなのわかるでしょ?と言えば、お前がそう思うんなら確かにダメだな、って思うし、「私にとってはアンパンマンと変わらん」と言われれば、確かにお前の中では問題ないな、ってなる

そんなめちゃくちゃ簡単な話をいつまで議論してるんだ?

今回の件で議論が成立するとすれば、「宇崎ちゃんダメ度8だよね」が共有できる間柄の中だけで、8はアウトなのかセーフなのか?という内容だけだ

2019-10-17

anond:20191017112355

あれって結局黒人文化サブカルチャー以上の地位露出度を得始めて発狂している昔のアメリカ白人エリートなんだと思うよ

 

ニュアンスはわかるけど

どこまで行っても理解しない・できない人は存在するし、人種よりも平行線は延々続くと思う

もっと似てるのは何だろ、ヴィーガンとか宗教とかかな

 

関係ないけどオタク因子・二次元受容因子がどっから来てるのか未だに分からない

遺伝環境

2019-10-16

もう議論とか不毛だし平行線をたどりまくるから、最終的にトントン相撲で決着付けようぜ!

2019-10-10

おりょうりするひと・しないひと

じすいのばあい

(・かぞくがいるからいやだけどする)

・どんなじょうきょうでもする

・どんなじょうきょうでもしない

貧困に陥った後者2つの立場人間が、どちらが正しいか議論しても永遠に平行線をたどる。

2019-09-26

男女平等には2種類の平等がある

男女平等には2種類の平等がある。2種類とは、"性別による差を無視する平等"と"性別による差を補填する平等"だ。


日本女性の多くは、"性別による差を補填する平等"を重視し、"性別による差を無視する平等"はあまり考えていないように思う。


でも、どちらの平等重要で、使い分けるケースがあると思うのだ。


以下の記事を読んだときに、男性スタッフ仕事であるから"性の違いを無視"するように振舞った。これは男女平等社会多様性を許容する社会の上ではとても良い行動だったと思う。


"男性スタッフレジ女性下着レジ打ちをするのにはやはり抵抗があるか??"

https://www.tokuniyarukotonaikara.work/entry/2019/09/25/%E7%94%B7%E6%80%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%95%E3%81%8C%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%81%A7%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E4%B8%8B%E7%9D%80%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%82%B8%E6%89%93%E3%81%A1%E3%82%92


しかし、女性客はこの行動を拒絶して女性店員対応要求した。これは性別による差別だと思う。男女平等社会多様性を許容する社会の上では批判されるべきだ。


一方で、これは生理的判断としては正しいとも思う。つまり、"平等"とは本能生理的な反応を否定し、理性でそれらをねじ伏せて行動することだ。男性スタッフ生理的には対応したくなかったが、理性でその感情コントロールして対応した。これが平等を重んじる社会における正しい行いだと思う。本能を理性でコントロールすることは難しいしストレスがかかるが、平等を重んじる社会では皆がそれに立ち向かっていかなければならない。


さて、この記事へのブックマークを見ると、女性ほとんどが女性店員がいればそちらに持っていくという。これは男性スタッフに失礼を与えはしないが、明確に性別による差別だ。このように日本女性が"性別による差を無視する平等"について軽視していることは問題だと思う。


他方、アメリカでは女性公共の場トップレスになるのが6つの州で合法化した。また、ノルウェーでは40年前から女性が軍に志願できるようになった。これは、"性別による差を無視する平等"である欧米は"性別による差を無視する平等"も重視していると強く感じる。


ここで、日本女性が重視している"性別による差を補填する平等"についても述べたい。例として、産休や育休、つまり労働可能時間が短くなる女性についてもある程度変わらない給与支給するものがある。ある評価基準によって"能力"が定義され、能力個体差がある。評価基準は何かの生産性に基づくもので、能力が高いということは生産性が高いということなので、能力が高ければ社会における待遇はよくなる。


一方で、能力が低くても一定待遇保証されるべきだという考えが"差を補填する平等"である。これも非常に重要平等だが、こちらは無制限には行えない。なぜなら、"差を補填する"際にコスト必要からだ。だからこれは"弱者が救済されるために"使われるべきだ。強者バイアスをかけるようなコストは減らすべきだからだ。


欧州弱者へのコストが膨らみすぎて、もはや国家経済が存続できない国が現れた。それ故、コストがかかる"性別による差を補填する平等"だけを重視するのではなく、"性別による差を無視する平等"によって全体の調和を整えようともがいているのではないか


産休や育休のような、"性別による差を補填する平等"は今まで以上にどんどん取り入れるべきだと思う。それによって豊かに暮らせる人や家庭が増えればよい。でも、これから日本は"性別による差を無視する平等"も考えていかなくてはならないと思う。"差を補填する"リソース無限ではないのだから


さて、日本男性についてあまり話していなかったが、日本男性は"性別による差を無視する平等"を重視する世の中を望んでいると思う。理由は、"性別による差を補填する平等"で男性利益を得るような制度がないからだ。でも男性の中には、タピオカドリンクを飲んでみたかったり、女装してみたかったり、女性向け漫画が好きだったり、主夫になりたい人もいるのだ。彼らは"性別の差による補填"を望むことはない。"性別によって差別"されたくないのだ。性別関係なしに、自分の興味があることを試したり没頭してみたいのだ。


はてなでも男女平等について色々な議論が生じる場面があるが、いつも男女間で議論がかみ合わず平行線になる。これは、女性が"性別による差を補填する平等"を重視している一方で、男性が"性別による差を無視する平等"を重視しているからだろう。それぞれの平等はどちらも重要だが、いっしょくたに考えてはいけないのだ。別々のものとして考え、どちらの平等が適したケースかを議論する必要があるのだ。


2019-09-19

anond:20190919113623

男性ジェンダー解放に関する「でもそれじゃモテないじゃん!」に対して、女性は「キモいと思われるのに反発するのはもっともだけど、モテないのを被害みたいに言うのはおかしくない?」って返すんで平行線になりがち。

2019-09-15

あおり運転が悪いとか居座るのが悪いとか善悪議論平行線だけど、そもそも追い越しを終える前に追いつかれる運転は下手だよ。見積もりを間違えてるんだから

2019-09-14

anond:20190914172145

やっぱ火力発電か。だとすると温暖化対策あきらめざるを得ないな。

しか脱原発を訴える左派は同時に温暖化批判するという矛盾解決できてないか

議論がいつも平行線をたどってる印象。

やつらは原発温暖化問題安倍自民批判する材料しか思ってないかしょうがないが。

(この増田がどんな思想の持ち主かしらんが)

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