「厨二病」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 厨二病とは

2022-04-13

anond:20220413094537

爆破を台無しと言うのは主人公創作活動冒涜やぞ

主人公にとって爆破とは餞別であり、死を弔う最高の表現方法なんや

そうやってあのラスト台無しとか言ったら主人公またメメントモリ〜とか厨二病発動して自殺しようとして絵梨と出会ってしまうで

2022-04-07

anond:20220407203644

厨二病だなぁ」← 意味がわからない。どこが厨二なのか示さないと批判にならない。それはただの暴言の投げつけだ。

2022-03-22

anond:20220322230109

父ちゃんちゃんを守るとか浅い大義名分掲げてヒーロー面してんのみみっちいよな

早くやれよ

覚悟もないならそんな言葉を口に出すな

殺すとか厨二病のガキが1番嫌いなんだ

鬱病患者よりお前の方が嫌い

2022-03-18

anond:20220317194508

ただのBLEACHファンとかじゃなくてか。

厨二病をこじらせたら捕まるのか?

2022-02-18

増田メンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい

私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。

そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館南条さんの本を借りた。当時私はリスカアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為きっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。

本には、南条さんという人物について、また彼女インターネット上に残したものについて書かれていた。


「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」

衝撃だった。

南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。


さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービスから推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能ブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。

二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である


私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身気持ち不謹慎でたまらなかった。

インターネットではブログサービスの代りに増田流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。

このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。


さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。

前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。



その日記は2001年6月13日水曜日から始まっている。

はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィーク旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしま入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。

ところで北海道運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである

私にとってそんな小学最後運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧気候の中で、小学生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。


2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやす説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである

私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロア中学生フロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。

4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度区切りを迎えてから日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。

2002年4月8日の月曜日二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。


2002年の3月末~4月初旬の彼女日記確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。

彼女文学部哲学科を卒業した後、編集者レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。


2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。

平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。

しかしその4月2日水曜日日記タイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事投稿したのではないかと考える。もしくは、職場PCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。


投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。

しか彼女複数回に及ぶブログ投稿現代増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。

さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本から引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人から手紙引用している投稿も見られる。


ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプ人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるかである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないときである。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitter思考の整理を行う。なぜなら自分自身脳内の回転及びそれによって生じる思考インターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。

そしてなぜあえてインターネット吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーション挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。


彼女本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手彼女自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。

ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分作品が残るとは、そういうことなのだと思う。


2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったか記憶している。休み時間には、情報担当教諭ヤフージオシティーズアカウント取得を手伝ってくれた。

やはり、当時はまだブログがそこまで一般的ものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナーハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。

私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。

やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitter複垢サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。


私は日本におけるインターネット内でポエム馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章ポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。

このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったか記憶している。


二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。

そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである


人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記ありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女ことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。


インターネット死ぬとはこういうことなのか。


断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。

冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。

しかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったかである


果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。

事実書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。


文中で軽く触れたが、私にとって増田思考の整理のためのツールとして役立っている。

私は物心ついた頃より、「この子ぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。


私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲相談をし、さら増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ

私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。


果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。

今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネット事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。

私はリアル社会の中で、絶望絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネット絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。


インターネット彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。

二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女日記のどこかで触れられているのかもしれない。  

しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。

しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者インターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。


相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。

私は自分自身人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。


自分自身とよく似たパーソナリティ人物言動思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報医療機関提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。

私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法アドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。


私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的自分自身の不幸を開示していこうと考えている。

増田には、メンヘラにとって永遠に救済をもたらすサービスであり続けて欲しい。

2022-02-17

同性と話が合わないという痛い悩み

我ながら痛い自覚はある。だからリアルでは誰にも言ったことがない。ダラダラ書く。内容すかすか♡

自分(女)には年の離れた兄がいる。常に自分人生の100歩くらい先を行く兄の存在は、自分人格形成に多大な影響を及ぼした。兄がやっていること、持っているもの全てが自分を惹き付けてやまなかった。自分幼稚園生だった時は、良く兄の部屋からギラギラたかっこいい龍のカード(遊戯王)や駒(ベイブレード)を盗んで怒られた。

年が離れていた影響か、かなり可愛がってもらっていたので、兄もよく自分面白いゲームコンテンツを貸したり見せたりしてくれた。小学校低学年位の時に初めて見せてもらったニコニコ動画は最高に面白かったので、直ぐに自分から見漁るようになった。その頃くらいか遊戯王連ザ2といったゲームも仕込まれるようになった(とは言っても小学生の知能では、専ら兄のサンドバッグとしての役目だったが)。連ザ2は個人的死ぬほどハマったので、アニメも全話見て、親におねだりしてガンプラも買ったりした。女の子ガンダム好きっていうのが幼心ながら何故か凄く恥ずかしかったので、おねだりに死ぬほど緊張した。

他にも、兄が小さい頃に遊んだであろうGBGBA、64やSFCGCも片っ端からプレイした。その中でもロックマンエグゼ特に面白かった!ダークチップきっかけで自分厨二病(まだ小学生だったけども)を発病した。

自分が高学年くらいになると兄がコミケに行き始めたので、薄い本も沢山買ってくるようになった。全部読んだ。青年誌もたくさん貸してくれた。エルフェンリートを初めて読んだ時はそれはもう感銘を受けて、読了暫くは自分ベクターを使う妄想に取り憑かれたりした。

他にも2chやらラノベやらアニメやらエロゲやらなんやらかんやらとの出会いもあるが、キリがないので割愛する。

小学校中学年くらいの時には既に何となくおかしい事に気づいていた。高学年頃にははっきり自覚した。

小学生女の子というのは、ガンダムロックマンニコニコ動画にはまるで興味が無いみたいだった。同じ幼稚園に通った幼なじみ達は、気がつくと皆嵐やEXILEの話でもちきりだった。

自分ハブられるのが怖くて、それはもう必死に話を合わせた。親がジャニオタだったので、幸い情報の入手には事欠かなかった。なんとかついていけた。本当は興味が無いものを興味があるように話すのは少し苦痛だった。

サン宝石のチラシを見てみんなで盛り上がった。ほっぺちゃんなんて本当は1ミリも欲しく無かったので少しハブられた。

この状況は中学生になってからも続いた。嵐は時代遅れになり他のグループ話題が移った。幸い親は永遠ジャニオタだったので、ライブに連れて行ってもらったりして勉強し何とか話を繋いだ。

暫くするとボカロが台頭し始め、女子の中にもオタクが現れるようになった。少し気が楽になった。

高校生にもなると流石にハブるとか女子グループとかっていう概念消滅し、趣味多様化したので、以前よりは伸び伸びと生きられるようになった。この時初めてインターネットの住人の女子と仲良くなれて、凄く嬉しかった。

守備範囲は全く違うが、淫夢動画というゴミカスみたいな共通点があった。2人で810のハンドサインをしたりするのが、なんだか凄く嬉しかった。この友達が今のところ最初最後の話が合う女友達だ。

そして大学生になり、交友の幅がグッと広まった。

ここで自分はとんでもないことに気づいた。

女子ではついぞ1人しか出会えなかった”話の合う”友達が、男だと何人も見つかる!ガンダムロックマン遊戯王ニコニコ動画2chアニメ少年誌青年誌同人誌エロゲラノベ児童書etc...今まで語ることを諦めていたものが、全て手に入った。本当に嬉しかった。親友と呼びたい人が出来た。

しかし、そんな自分の前に性別の壁が立ちはだかった。どうやら大学生の男女が親友になるのは、本当に難しいようだ。男女のしがらみからはどうしても逃れられない。友人として親睦を深めたいのに、性の問題が常に絡んだ。

お互いに下心の無い純粋な友人を見つけることが出来ても、それで周りはハイソウデスカと納得してはくれない。2人でゲームをしたり遊びに行ったりすることを、お互いの恋人は許さないだろう。どれだけ仲が良くても、一緒に遊びに行ったりすることは出来ないのだ。

ああ、本当に話も気も合う友人なのに。お互い恋人第一から下心とか無いのに。出来ることなら、生涯の友人としてブラブラ遊んだり、居酒屋行ったり、ゲーセン行ったり、だべりながらモンハンで護石クエ回したり、桃鉄でNカードマス周回して豪速球カードで手札全部叩き割ったり、ソフマップエロゲ掘ったり、一緒にカードショップ行ったりしてみたかった。自分が男なら、もしくは友人が女なら、全部実現したのだろうか?

別に女に生まれたことが嫌な訳では無い。だが、かなり寂しい。イタい悩みだが、きっとインターネットには同じ悩みを持ってる人がいると思う。

女のキモオタ募集してます

2022-02-12

anond:20220212031409

何をしても絶対男を嫌いにならず、飯どころを選ぶ労力すらケチッて女のことなんて全然考えない男の永遠の味方でめんどくさいからと女を雑に扱っても、全てを受容して肯定してくれるママ

反抗期から抜け出せてない厨二病永遠に世話する奴隷ママだよな

2022-02-07

陰謀論にハマった友達の嫁がTwitterで「なるほど。これは4ね。あー今考えるとあれは1だw」みたいな厨二病みたいなことばっかりツイートするようになって辛い

2022-01-30

うつ病診断みたいな診断とかで「死のうと思ったことがありますか」って項目あるってことは、世の中の人間って実は死のうと思うことってそんなにない…ってこと?

特急の通過待ちしてるときに来たやつに飛び込んで死のうかな〜とか、ドライブ中に海側にハンドル切って死のうかな〜とか、仕事中に会議室の窓ぶち破って飛び降りようかな〜とか、思わないの?マジ?子供時分から縄跳びで首吊って死のうかな〜とか始発電車来る前に線路に寝といて死のうかな〜とか思ってたから、自分いくつになっても厨二病だなぁ〜!って思ってた。

2022-01-15

ニコ生ウォッチングのすゝめ

ニコ生生態系は多様だ

エリート街道を夢見ていると視野が狭くなりそこから外れると犯罪を起こしてしま

もっと人間の多様な生態を知ろう

ニコ生を見れば自分も生きていていいんだと気楽な気持ちになれるはずだ


ゆの

メイドカフェで働いている2x歳の女の子

常に眼帯をし、14歳厨二病を名乗っている。

口癖は語尾に「魔界」で一人称は「我」。配信は主に深夜帯。

『皆様こんばん魔界、我の名前天界からきらめき大天使人間様をこよなく愛する厨二病ゆのちゃんとと申し魔界、』という口上から配信が始まる。

他にも「ありがたき」「のいのい」等独特の語彙と世界観を持つ。

食べ歩き配信がメインでリスナー以外の相手にも臆する事なく自分世界観を貫いている。

驚異の胃袋を持ち、ラーメンを5杯ほど平らげたあとにさら唐揚げ屋で定食を完食する。

現実疲れたゆのワールドに浸かることも癒しとなるはずだ。

https://com.nicovideo.jp/community/co3891480

ぽんちゃん

水頭症と軟膏形成不全でいわゆる小人症。

唇がえぐれていて常に口が開きっぱなし。その容姿から皿とかギャラドスとか言われている。

さら白斑も併発していて見た目のハンデが並大抵ではない。

ぽんちゃん容姿に比べたら自分の悩みなど小さいものだと前を向けるようになるはずだ。

39歳でまともな職歴もなく、地方タレントHへの叶わぬ片想いをしている。

Hから借りた8万円をずっと返していない。

サダ

気持ちが悪い巨人

ぽんちゃんがHに会いに唐津に単身旅行へいった際に、サダも出発しレースをする。

その際にぽんちゃん不審がられ元々交流があったものの絶交される。

しかしながら人格的にはぽんちゃんよりも大分まともなため、前述の地方タレントHに好かれている。

そのためぽんちゃんから嫉妬憎悪感情で嫌われている。

ニンポー

職歴なし40歳

コメントほとんどがニンポー罵倒するもので締められている。

手帳持ちで生活保護を受けている。(トラバによると障害年金らしい)

惚れやすく多数の女生主に手当り次第アプローチをかけては拒絶されている。

下には下がいると安心させてくれる存在だ。

後述のまがりまりかにSNSブロックされるも、2000円のギフトを投げてブロック解除させることに成功する。

ヤスマサ

28歳。無職アル中童貞借金140万。

Webデザイナーを目指してポートフォリオを作成中。

ニコ生監視趣味で、ポートフォリオを作成しなきゃならないのにニコ生監視サイト更新を優先してしまう。

ニコ生主の知識は右に出るものがいない。

黒澤

28素人DT。元々漫画家を目指す無職として配信スタートさせたがその後、紆余曲折を経て介護職に。

しか最近数年働いた介護職をやめまた無職へ。

ナンパ配信が人気コンテンツだが成功率は1%を切る。

70万を掛けた馬券を外し文無しに。

たれめえ

日雇いで食いつないでいる日雇い界のホープ

日雇いでも彼女を作れることをたれ様が証明している

ウマゴン

顔が異様に長い。

配信不法侵入かまし現行犯逮捕される。

新卒で入った大手ガス会社をやめ無事底辺生主ロードへ。


他にも自分は把握してないが紹介しきれない底辺たちがニコ生には溢れている。

ニコ生人間多様性を目撃し、自分世界を広めよう


おまけ・可愛いどころが見たい人向け生主

底辺を見て癒やしを得るだけでなく、可愛い女の子を見て癒やされることもできる

らすちゃん(@Rasu_chan_37564)

ニコ生一の美女

まがりまりか(@magamari_)

野生の堀北真希職歴なしニート頭が悪いドジっ子漢字が読めない。

4姉妹の長女だが、ニートのためか妹から辛辣な態度をとられ本人曰く「言葉DV」を受けている。

親に対し「一生寄生する」宣言

クリスマスケーキを作る配信では、作ったケーキを盛大に床にぶちまけてしまい、おまけにそれを家族に食わせた。

https://www.youtube.com/watch?v=gEMszUECiA4

彼氏は本人曰くいたことがない。そのためか強烈な太い囲いを多数抱え、ニコ生随一のギフトスパチャ)額を誇る。

Youtubeアクセス解析では驚異の男性100%を達成。女に嫌われる女というアンチコメントに対して神経質である

ゆばにゃん(@nyanderfo)

らすちゃん拮抗する容姿

東京上京し、仕事と部屋探しのために友達の家に居候するも、成果得られず正月に合わせて広島帰省する。

Youtube板の自分スレを閲覧し「顔だけの女、つまらない」という書き込みが多数なことにショックを受け泣く。

秋田なな(@_akita_nana)

渋谷で買ったアイスを買った直後に地面に落とし泣くドジっ子

2022-01-07

anond:20220106183007

中二病」と「厨二病」は別モンやで。

中二病は、急に大人ぶってブラックコーヒー飲んだり洋楽聴き始めたりするやつ。

厨二病は、中二病邪気眼混同されて生まれたやつ。

2022-01-05

子育て難易度って生まれてきた子の特性でほぼ決まるんだなぁと。



 子どもを2人育てていて、同じ親からまれて、同じ家で育って、似たような顔をしてても、兄弟って全然違うんだなって当たり前のことを実感してる。


比較対象が2人しかいないので上の子と下の子でどうしても比較してしまうんだけど、親の育て方とか働きかけがどうこうの前に全く別の人間だし、同じように育ててるつもりでも異なる経過を辿るもんなんだね。子育てって面白いな。


以下、上の子場合と、下の子場合



悪阻

 思えば妊娠から生活全然違った。

 上の子の時は基本食べ悪阻吐き気はあるけど取り敢えず何か口に入れておけば耐えられたし、頑張って乗り切れる程度のしんどさだったから法定通りの産休まで普通に出社して働いていた。

 下の子の時はザ・吐き悪阻兎に角毎日吐いて歩くたびにえづいていたし、結局出産まで悪阻が続いて毎日必死だった。貧血も酷くて鉄剤飲んでたし、ベッドから全然起き上がれなくて有給フル消化して何とか産休まで持たせて、とにかく仕事だけは落とさないように頑張ったけど勤怠ガッタガタで申し訳なさの極みだった。


出産

 これは2人とも安産。2人とも出産日過ぎても産まれてくる気配が全然なくて、入院して促進剤打って産んだ。

の子6時間、下の子の2時間とかだったかな。もしも3人目産んだ場合、30分とかで産まれそうで怖い。まぁ予定ないけど。


夜泣き

 当時からうちの子まり泣かないな?と思っていたけど、上の子は結局夜泣きらしい夜泣きがなかった。新生児の頃は夜中の授乳で起こされはするけど3時間ごとの授乳タイマーって感じで無駄な泣きが全然なかったし、生後3ヶ月くらいからは普通に朝まで寝てた。

 下の子最後5ヶ月くらいからは朝まで寝てたけど、何で泣いてるのか分からない泣きが結構あった。3歳になった今でも夜中に不意にわぁーーん!みたいな泣き声を上げことがある。夢でも見てるのか?


◆肌トラブル

 上の子は肌トラブル切なかった。お風呂上がりに保湿して終わり。

 下の子は早々におむつ被れが悪化して、おむつ替えの度にお尻洗ったり薬塗ったりが面倒だった。2人目で慢心してオムツ替えの頻度が悪かったのかなと反省したけど、多分普通に肌が敏感だったんだなと成長した今も保湿剤塗りながら思う。


◆発育

 上の子は首の座りも、腰の座りも、ハイハイも、つかまり立ちも、全てが早目で、ハイハイした翌週に掴まり立ちした時は、母子手帳大分違うな?!ってなった。

 下の子は、全てゆっくりで、離乳食始まった時点で腰が据わってなかったかベビーチェアじゃなくて膝の上に抱っこしてあげてたな。ハイハイは結局一度もせず、長いずり這い期間を経て立って歩いてしまった。ハイハイ機能搭載されてなかった。


食事

 真面目に離乳食作って長らく大人とは別メニューで育ててたら薄味好みに育ってしまい、外食に行くと辛い(味が濃い)とよく言っていた。肉魚が苦手で野菜煮物とか汁物とかが好きな子だったから、お子様メニューに食べれるものがなくて、お子様とは??となってた。

 下の子は上の子反省を踏まえて多少雑にメニューを考えていたというのもあるけど、割と何でも食べる。肉魚の方が好きかな。焼き魚をむしゃーっと鷲掴みして食べた時は驚いたし、ポテトとかナゲットとかオムライスとか上の子全然興味なかったもの普通にむっしゃむしゃ食べるので、想像の子もの食の好みだ!となっている。


言葉

 上の子言葉説明すると理解してくれる子で、発語する前からこれは危ないから触らないでと一度言うとその後一切触らない子だったので物を壊したりとかのトラブルが全くなかった。1才10ヶ月くらいで2語文を話し出したなぁと思ったらあっという間に文章になり、2才過ぎには助詞がついた普通の会話になっていた。

 下の子は2才前後で2語文になって、2才半くらいまでは、とーちゃ、ぷんぷん、やなのぉー(=お父さんが怒るのが嫌だ)みたいな赤ちゃんしゃべりを長らくしてたな。未だに滑舌ちょっと辿々しいかもしれない。言われたことは理解するけどそれより自分好奇心が勝るタイプで、3秒前に怒られた内容を繰り返して話聞いてた?!ってなる事が多々ある。


◆人見知り

 上の子はとにかく人見知りで知らない人がいる場所では絶対母親から離れない、知らない人とは一言も話さない、で人混みでの迷子とは一生無縁な感じだった。6歳の今ではまぁとりあえず挨拶くらいは普通にできるけど、知らない人は割と警戒してるかな。

 下の子場所見知りも、人見知りも全然しないで、知らない人の前に行ってやぁ!って勝手挨拶するタイプお菓子くれる人がいたらそのまま着いて行って誘拐されそうな気がする。言い聞かせてはいるけれど。


◆イヤイヤ期

 イヤイヤ期っていつからなんだろうなって思ってる間に大きくなって、結局上の子はイヤイヤ期がなかった。子どもらしくぐずったり泣いたりはあったけど、話して説明すれば納得してくれる感じ。後、断固母親派だったので、父親だと拒否することも母親提案すると受け入れてくれたりしてたので大変ありがたかった。

 下の子最近終焉を感じるけれど、よくイヤイヤしては世界の全てが嫌になっていた。エレベーターボタンが押したかった、ドアを自分で閉めたかった、とかで良くそんなに泣けますね?ってくらい号泣してはその後の一切を拒否して、あぁこれが例のイヤイヤ期というやつですね…とこちらは遠い目をしてた。


◆識字

 上の子絵本より身体を使って遊ぶ方が好きで文字に興味を持つのが割と遅く、ひらがなの読み書きが出来るようになったのは年中。今でも文章より数字・図形の方が得意な印象。読むより耳で覚えるタイプっぽいなとも思ってる。

 下の子は2才くらいから上の子あいうえお表で遊び出して、とにかく上の子の真似がしたくてくっ付いているうちに勝手ひらがな読めるようになってた。勝手絵本やら図鑑やら広げて読んでるから楽。


◆成長

 上の子は標準サイズで産まれちょっと細身かなと思ったまま成長してずっと平均より背が低い感じ。背の順はずっと前の方。去年大きめで着た服が今年ピッタリという感じで服が2シーズン着れる。

 下の子は少し大きめで産まれてそのまま成長を続けて、平均より背が高い感じ。背の順は後ろの方。夏の初めに大きめで買った服が夏の終わりにギリギリになるから服はあっという間にサイズアウトしていく。

 小さめの上の子と大きめの下の子身長差がどんどん縮まってきており、歳の差の割にあっという間に下の子身長抜かしそう。



親の育て方の影響も全くないとは言えないけれど、子ども特性って結局本人が生まれ持ったものなんだなと痛感してる。

もしかしてうちの子って育てるの楽な子なのでは?と上の子の時に薄々思ってたけど下の子が生まれて疑問が確信に変わったし、別に親の育て方が上手かったとかそういうの全然関係なくただそういう子ってだけだった。


 でも人間難しいもので、上の子を育ててる時の方が圧倒的に神経が張り詰めてて、初めての子育てで緊張していたというか、ちょっと目を離したら死んでしまいそうで乳児期はずっと怖かった気がする。育児ノイローゼとまではいかないけれど、何をそんなに頑張ってたんだろうなと振り返って思う。


 多分この先も2人は全然違った成長をしていくのだろうし、大変だなと思うところと楽だなと思うところもそれぞれなんだろうけれど、当人同士は今の仲が良い関係を維持していってくれたら嬉しい。

いやー、でも性格全然違うと思春期入ったら結構しかったりするかな。この先反抗期とかもあるだろうし、どうなっていくんだろうな。

(何となくだけど厨二病面白いことになるんじゃないかと思ってる笑)



自分一人っ子だったのでそもそも家の中に子ども複数人いることが新鮮だし、子どもそれぞれの個性を間近で見比べるのはとても興味深い。

同じ赤ちゃんでも、同じ年の子でも、全然違うものなんだね。まぁほんと、当たり前のことなんだけれど。


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